2007年03月15日

「北沢川文化遺産保存の会」速報ニュース

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「下北沢X惜別物語」

   書籍の刊行について
                             
       

 

                                                                              2007年3月16日
                                                                             「北沢川文化遺産保存の会」
                                                                   会長 長井 邦男


 長らく取材や編集を行ってきた冊子「下北沢X惜別物語」が完成しました。
  つぎのようなことからこの物語は作られました。
 
 現在、下北沢周辺の小田急線の地下化工事は進行しています。いずれ地表駅の下北沢駅、世田谷代田駅、東北沢駅、そして、現存する踏切群は地下化してしまいます。これらの三つの駅と九つの踏切については歴史的なエピソードが数多く残っています。それらを記録に残しておきたいということから今回の冊子を刊行するに至ったものです。長年慣れ親しんで来た地表線としての「X」、それへの惜別という意味をこめて「下北沢X惜別物語」と名づけました。

 昭和2年に小田原急行鉄道が開業して以来、それらの駅や踏切は様々なエピソードを刻んで来ました。そのことを後世への記録として残して置きたいという願望から作成したものです。沿線一帯の人々から聞き書きをしたり、文献を調べたりしてまとめあげました。分量的に原稿用紙換算300枚弱ほどです。発行部数は2000冊です。貴重な記録集になると思います。
 
 配布開始は3月23日(金)からとします。事務局の世田谷「邪宗門」でこの日から配布(無料)を開始したいと思います。多くの人々の善意によって創り上げたものです。それで、作成した方としては、ぜひ読んでみたいという人に配布したい。そう思っております。創ったから配布するというものではなく、読んで欲しいから創ったものです。

  なお、先年、「北沢川文学の小路物語」を配布しました。お陰様でこれはすべてなくなってしまいました。これを無料配布した際に、寄付をいただきました。今回、その費用で、「小田急五十年史」などを購入し、「下北沢X惜別物語」を作成する際の資料としました。今後そういう費用として有効に使っていきたいと思います。幾らかでもご寄付をいただければ幸いです。この書籍は、世田谷区地域コミュニティ支援事業の助成を受けて発行したものです。
 今後、増補版の出版化も視野に入れております。忘れ去られたエピソードがありましたらお寄せください。古い写真の提供もぜひお願いします。


     「下北沢X惜別物語  」

    著作 きむらけん  
               マップ作成 木村圭子  本文デザイン 渡辺稔
    
プロローグ 鉄道X交点物語                                    

第一章 代田曲線物語                          
第一話 節穴から覗いた軍用列車           
第二話 空戦目撃地点としての築堤             
第三話 七月の踏切は悲しい〜下北沢2号踏切〜       
第四話 詩人が通う路〜下北沢3号踏切〜     

第二章 下北沢駅物語
第一話 駅頭に現れたハーケンクロイツ         
第二話 子どもの電車批評〜上と下の電車〜              
第三話「風物歌集」が描いた街
第四話 南北境界の穴蔵通路

第三章 世田谷代田駅物語                                      
第一話 文学の陰影が漂う駅                      
第二話 代田連絡線 〜戦時応急救援線〜                                 

第四章 東北沢駅物語
第一話 記憶の破片にある駅                                
第二話 新幹線に転用された通過方式

下北沢鉄道X交点周辺マップ       

第五章 踏切物語
第一話 映画監督も褒めた踏切〜世田谷代田4号踏切〜   
第二話 踏切安全の礎となった小さな踏切〜世田谷代田2号踏切〜   
第三話 富士が見える踏切〜世田谷代田1号踏切〜   
第四話 ワーストワン踏切はベストワン踏切〜東北沢6号踏切〜 
第五話 猫道路地道踏切〜東北沢5号踏切                    
第六話 電車の胴体が凹む大踏切〜東北沢4号踏切〜                
第七話 ピアノと猫と踏切と〜 東北沢3号踏切                
第八話  北沢鉄道峠の踏切の花〜 東北沢2号踏切              
第九話 ビール製造用の水も渡った踏切〜代々木上原3号踏切   

エピローグ

 

*世田谷「邪宗門」地図(下記をクリック)  電話 03−3410−7858

http://map.livedoor.com/map/scroll?MAP=E139.40.5.9N35.38.59.8&ZM=11



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この記事へのコメント

106. Posted by 桜上水confidential   2010年02月04日 20:28
 今日、下北沢駅(井の頭線)で電車を待っているとき、下り側の線路敷地(線路南側)が、ホーム中ごろあたりから渋谷側に向かって徐々に広がっていることに気がつきました。
何故だろうかと考え、それは、池の上ー下北沢間の突堤の最西部と推測しました。
さすれば、線路北側にひとかわ店が並んでいるところ(立ち退きがはじまっているのかな?)は、突堤の北側部分であり、次第に太くなるところも、突堤の高さが増していくに従ってのものではないか?
残念ながら、そのところは今は、よくわかりません。
 翻って、小田急線の東側を見ると、突堤は北側部分には張り出していますものの、南側にはありません。
 ふたつのことを考えました。
線路南側の土地が買収できなかったものというのがひとつ。
もう一つは、土砂の量がなかった。
井の頭線はこのあたり北沢川北岸の谷地をぬって走ります。
突堤を作った土砂は、丘を削った土砂を利用したものであろう。

北沢川を渡る井の頭線の突堤は、かなり広いです。
小田急線の南側に井の頭線の駅を作ってあらば、或いは、待避線まで設けることができたかもしれない。

この池の上、下北沢間の突堤。今の土地の値段を考えると、京王電鉄は、広大な遊休地を下北沢に所有しているわけですね。
105. Posted by きむらけん   2009年10月17日 20:48
【三岡時計店のこと】

 戦前は東北沢6号踏切の近く(丸一呉服店のあった近く)にあったそうです。昭和二十年三月の強制疎開にて移転したのだそうです。当時電車に向かって看板を出しており、同姓とのことで訪ねて来られた方が三岡少佐で後に幕僚長まで務めた方で、その後親交を重ねたということでした。(次男清治さんの話)

 町歩きに参加された鈴木さんがメモをくださったのでこれをここの記録として付け加えておきます。

104. Posted by きむらたかし@三田用水   2009年06月23日 17:39
[旧・東北沢1号踏切]

東北沢駅では、立体化工事により、
骨董クラスのレールを使用した、構内跨線橋も完全に解体され
小田原方から下り(海側)ホームの解体作業に入っています。

このホーム。
電車の、
6両化のため伸長された際に、旧々・東北沢1号踏切を小田原方に移設させ、
8両化の際に、移設後の旧・東北沢1号踏切を消滅させ
たと記憶しているので、ホームが除去される際に何か痕跡が出てくるのではないかと期待していたのですが…

旧々踏切については、全く痕跡らしきものは見あたりませんでした。
103. Posted by きむらけん   2008年10月28日 21:06
[下北沢橋上駅舎]
 「鉄道ピクトリアル」12月号に「小田急 下北沢駅島式ホーム・地下通路の遺構」という記事が出ていることを米澤邦頼さんに教えてもらった。この記事を読むと、「1957年(昭和40)年には、木造橋上の全面建て替え工事となり、現在の駅舎へと産まれ変わったことになる。」とある。ということは、この昭和40年から南口への自由通路ができたということになるのだろうか。地下通路が廃止されて橋上駅舎の自由通行ができたのか、その点が疑問として残った。
102. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月30日 10:45
東北沢引上線のページは存じ上げてましたけど、そちらもお手がけとは....
おっしゃる通り砂利の話は、きりがありません
調布とか、特に狛江市役所の郷土歴史コーナーは充実していて、参考にしております。ある面うらやましい。
昭和30年代、小田急の喜多見から今の検車区に向かって引上線がありました。米軍撮影写真には見当たらないので戦後のものと推測。
向ヶ丘遊園の豆電車は、小田急建設時あたりの砂利運搬用の軽便鉄道ではないか?
経堂にあった豪徳寺側の検車区は、小田急建設時に土砂を採取して、経堂から豪徳寺への堰堤などに使い、その際に北沢川の流路を整備したのではあるまいかなどがこちらのテーマにあります。知りたいことがまだあるので楽しみです。
101. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月29日 20:25
[多摩川の砂利]
砂利は、昔から建築の基礎工事には需要がありましたが、とくに、鉄筋コンクリートの普及にともない、需要が爆発的に増えたようです。
私鉄も、砂利輸送で結構稼いでいて、玉電は改軌して東京市電との直通ルートを実現しましたし、京王も市電との直通をめざして新宿3丁目までルートを確保したものの、果たせなかったようです。
このあたりの事情については、東北沢の新宿寄りにあった砂利側線
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Hkitazawa01.htm
のからみで、調べかけたことはあるのですが「キリがない」面があり、中断しております。
とりあえずは、ここ
http://chofu.town-info.com/units/36243/lib_jari/
と、ここ
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,575,138,52,html
でどうぞ。

100. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月29日 17:09
うまく表現できず 中途半端になってしまいました
つまり、渋谷川の川筋だけでなく、両岸の高い場所にも軌道電車を軸に繁華街が形成されていたことを感じます。

あと、玉電の天現寺線、中目黒線ですが、それぞれ渋谷川、目黒川を使って、砂利を積みかえたのではないか、と考えたことがあります。しかし、その場合、多摩川で直接船積するほうが合理的な気がして、そこで考えをやめてしまいました。
玉電、都電が坂を下って渋谷駅周辺まで線路を伸ばしたのは、結節のためのほか、砂利の積みかえが最初の目的であったかもしれません。
99. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月29日 16:46
関東大震災後、三越の仮店舗が宮益坂上にできたという話をどこかで読みました。
また、榮太郎(飴の榮太郎)も宮益坂上に仮店舗を出して、そこが支店第一号となっています。
山手線の環状運転開始が1925年。確かに、世田谷方面から渋谷以遠へは、都電が主の時代ですね。
中豊沢の停留所がどこだったか?
東急電鉄はじめ、東急グループ諸企業の多くが、本社を246号沿いに持ちます。なんとなく、(停留所そのものではないにしても)中豊沢バス停以来の流れの中にあるような気がしてきました。
98. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月28日 13:45
[日東乗合自動車]

玉川電車が、天現寺橋まで全通したのが、大正13(1922)年。
http://www.setagaya-line.com/railfan/tamaden/history.htm
天現寺橋は、神田須田町と並ぶ当時の東京旧市街の交通の要衝で(池上線も、天現寺橋までの伸長をはかって、五反田付近にあんな高い高架線を作ったようです)、玉電のどこかに接続すれば、都心へのルートになるわけで、中豊沢=道玄坂上で接続というのも、どのみち山の手線の内側への乗入れが難しいのであれば、当時としては合理的な選択といえます。
また、大正期の地形図をみると、(池ノ上の方が下北沢より先に拓けたのも同じ理由かと思いますが)、このあたりの方が渋谷川の谷底よりもむしろ市街化していた様子でもあり、ここをターミナルとする意味もそれなりにあったと思われます(もっとも、国木田独歩の「わかれ」を読むと、明治の終わりには、宇田川沿いもある程度市街化していたようですけど)。
97. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月23日 16:29
[バスの大きさ]

脳梗塞のご先輩、大きな記憶障害もなさそうで、よかったですね。
昭和10年ころ、ボンネットとシボレーの中間となると、こんな
http://www.sanin-chuo.co.jp/sumai/modules/news/article.php?storyid=493344045
サイズでしょうか?
96. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月22日 23:00
なるほど、良くわかりました。

今日の夕方お許しが出て、脳梗塞で入院中の先輩のところへお見舞いに行きましたら、運良くお話しをお伺いできました。
昭和10年前後ですが、池ノ上ー淡島間のバスは定員20名程度(実際には30名ぐらい乗せて走ったと笑っておられました)の、ボンネットバスとシボレーの中間ぐらいの車両だった由。
バスが中豊沢発だった事情は、途中で百軒店の話になってしまい、聞きそびれてしまいました。但し、当時の事情を考えると、山の手線を越えて百軒店まで行く免許を別会社が取得していた可能性は十分ありますね。

ありがとうございました。
95. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月22日 17:31
[中豊沢‐世田谷町役場のバス]
ここ
http://www.shibuyadogenzaka.com/rekishi/index2.html
に「道玄坂は震災後の区画整理で道幅を広げ、急な勾配もゆるくして…」とありますので、開通当時は、まだ勾配が今より急(といっても、坂の西寄りで急になる)だった可能性はあると思います。
ただ、急な坂という意味では、明治13年の迅速図から勾配を読み取る限り、瀧坂道(淡島通り)の松見坂とか、大山街道(246)の大坂の方がよっぽど急な坂に見えます。
道幅についても
http://www.shibuyadogenzaka.com/rekishi/photo1.html
にある大正3年の写真では、現に自動車が走っていますし、バスが通れないほど狭いとも思えません。
他社が、中豊沢発で道玄坂・宮益坂経由で青山方面に抜ける路線の免許を先に押さえていた、とか、何か複雑な事情があったのかもしれませんね。
94. Posted by Sakurajosui Confindential   2008年06月22日 14:04
[渋谷ー淡島バス問題]
失礼いたしました。作成途上のものを誤って送信しました。
「三角橋ー淡島間の路線をバス6台をもって」というのがあり、あの狭い道で、しかも、なんであの距離に6台も?と思っていましたら、「東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス日本の新聞広告3000(明治24年−昭和20年)」で昭和4年「シボレー」バスの広告がありました。http://www.um.u-tokyo.ac.jp/umdb/newspaper1000/jpeg-s/00623.jpg
このサイズなら、道玄坂の御水横丁、三角橋ー淡島間の坂など、走れた一方、繁忙時対応には、三角橋ー淡島間でも6台を要したかもしれません。
また、渋谷駅前でなく中豊沢を渋谷発の停留所とし、或いは、御水横丁経由だった事情は、当時のバス機材が道玄坂を登れなかった可能性を考えますがいかがでしょう。
93. Posted by Saku   2008年06月22日 13:55
[渋谷ー淡島バス問題]
疑問氷解しました ありがとうございます。
「三角橋ー淡島間の路線をバス6台をもって」というのがあり、あの狭い道で、しかも、なんであの距離に6台も?と思っていましたら、「東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス日本の新聞広告3000(明治24年−昭和20年)」で昭和4年「シボレー」バスの広告がありました。http://www.um.u-tokyo.ac.jp/umdb/newspaper1000/jpeg-s/00623.jpg
このサイズなら、道玄坂の御水横丁、三角橋ー淡島間の坂など、走れた一方、繁忙時対応には、三角橋ー淡島間でも6台を要したかもしれません。
また、バスの始発が渋谷駅前でなく中豊沢である、或いは、御水横丁経由だった事情は、日東のバス機材が道玄坂を登れなかった可能性を考えまがいかがでしょう。
92. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月22日 11:52
[渋谷‐西原のバス]
手許にある、大日本職業別住所入地圖 渋谷區」(東京交通社・刊)は、昭和8年6月19日ですので、八幡下・西原間廃止後ですが、渋谷・八幡下のルートは、
道玄坂下から現・109のところを右折、
大向小学校(現・東急本店)のところを右に入って、
そのまま代々木八幡駅の西側を抜け(したがって、本当は「松涛」を通らない)、
当時の代々木八幡の山を時計回りに巻いた後左折して、
現・元代々木郵便局から今の大山町に抜ける通りに入り、
元代々木8の北西にあるお地蔵さんの前を抜けて(「お地蔵さん」=地蔵前については、http://www.yoyogihachiman.com/event/index_20070226.htmlの52番参照)、
西原に入る
というものようで、八幡下・西原間は、完全に小田急とバッティングしています。
91. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月21日 21:42
[渋谷−淡島のバスルート]

「広い意味で」ですが、昭和の初め、渋谷と淡島を結ぶバスルートとしては、
(1)日東乗合自動車の「渋谷中豊沢町‐世田谷町役場」のルート
(2)代々木乗合自動車の「渋谷−三角橋」「三角橋−淡島」のルート
の二つがありました。
ただし、(1)の方は「渋谷」といっても、玉川電車の「道玄坂上」停留所のところが起点で、そこまで、玉電を使うか、道玄坂を歩いて登る必要があります。
一方(2)は、多分今の西武デパートの前辺りが起点で、直通便があった可能性のありますが、少なくとも、三角橋の車庫で接続し、おそらく乗継料金で淡島に行けたので、かえって(1)より便利で安かったのかと思います。

このあたり、コトバでは説明しにくいので、当時の路線図を
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm#ShidouChizu
に載せておきましたので、ご検討下さい。
90. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月21日 09:58
[吉祥院]
目黒筋御場絵図は、残念ながら「上北沢、桜上水だけ」範囲外ですけれど、周囲のことが良く分かり、いままで疑問に思っていたことへの道筋が啓かれます。

ところで、バス路線の蒸し返しになってしまい、恐縮ですけれど、昭和初期渋谷生まれの方が、「僕の小さい頃、淡島までのバス路線は、三角橋周りでした」と言われ、その場では聞き流しましたが、あとで気になっていたところです。
大正期、駒場の中を走っている淡島通りは、連兵場の中で週末以外お客がなかった?
「淡島は、今の淡島交差点ではなく、郵便局のところに出てくる道でした」だそうですから、やはり、三角橋から池の上駅前を通って、淡島へ下ったものでしょう。
89. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月21日 00:26
[吉祥院@新編武蔵風土記稿]の訂正
「18世紀」→「19世紀」
でした。
88. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月21日 00:22
長く懸案でした、18世紀初めに編纂された「新編武蔵風土記稿」の下北沢村の件に書かれている「吉祥院」の場所が判明しましたので、下記にまとめてみました。
ご笑覧いただければ幸いです。
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm#KichijouIn
87. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月15日 23:17
[渋谷‐西原のバス]
宇田川のすぐ西側の道を想定したので、終端付近の<本村‐八幡下>という順番が、最初はなんとなく違和感があったのですが…
もう1本西側の道を走っていたとなると、一応それなりに合理的なルートのようです。
当時の地図をみると、「本村」は文字通り「本村」で、昔からの「村」の中心地の面影を残しているのに対し、西原は、おそらく京王線の影響で、急速に近郊住宅地化された地域のように読み取れます。
西原はもともと京王線のテリトリだったのが、バスの開通後、主として南側の住人が利用するようになっていたのが、さらに小田急にシフトしたのでしょうね、おそらく。
86. Posted by 桜上水Confidential   2008年06月13日 14:04
そうですね 西原までの路線は全く考えませんでした。
西原といってもどこまで路線が走っていたものか?

ご教示いただいた、「大東京地典」のバス路線を拝見しますと、東横乗合の西原行きは、大向小学校、松涛、深町、富ヶ谷、本村、八幡下、地蔵前、西原の経路ですが、八幡下から西原までは1931年時点で休止ですね。東急本店の東側から、神山町、代々木八幡と抜けていったのでしょうけれど、1927年に小田急が出来て、代々木八幡から先の利用が減ったのでしょうか?

85. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月13日 00:27
[西原のバス]

>今後ともいろいろご教示いただきたく、よろしくお願いいたします。
 いえいえ、こちらこそ
 実は、今回一番驚いたのが、これ
>渋谷駅前〜代々幡町代々木西原
 でして、先ほど見つけたここ
 http://homepage2.nifty.com/ramblers_place/betu/bus/1927-tou.htm
 をみても、他の3路線とちがって、実際にバスが走ったのかどうかもわかりません。
 三角橋近くの住人からみると、西原は「すぐそこ」でもあり、ちょっと調べてみたいと思います。
84. Posted by Sakurajosui Confidential   2008年06月12日 21:30
すでにそこまで調査済みとも存じ上げず、僭越なご案内失礼いたしまいた。
こちらの興味は、バス便の淡島から恵泉までの延伸の背景への興味にあります。

私に渋谷から淡島までのバス便が三角橋周りであったことをご教示いただいた、渋谷ご出身の方がいらっしゃるのですけれど、あいにく先月末から脳梗塞で入院中でいらっしゃり、詳しいお話が聞けないことが残念です。

今後ともいろいろご教示いただきたく、よろしくお願いいたします。
83. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月12日 10:09
[代々木乗合・日東自動車]
ご教示ありがとうございました。

代々木乗合の渋谷‐三角橋の渋谷寄りのルートは、今の文化村通り(旧称・農大通り)経由で、三角橋に車庫(後の、東急の代々木営業所)がありました。
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm

渋谷中豊沢町‐世田谷町役場間は、日東自動車の路線で、淡島通り経由。日東自動車は「池ノ上」資本の会社でした。
82. Posted by sj2006   2008年06月11日 10:27
代々木乗合の出典は世田谷区史によります
ただし、最新版よりひとつ前、確か昭和40年代に編纂されたものでした。
書庫のようなところに入っているため手許にはありませんが、路線図の写真を使ったことがあるので、そちらのアドレスをご案内いたします。
なお、世田谷区史には、区内交通変遷図のほか、大正から昭和前期にかけての、乗合バス系統表が記載されています。

http://plaza.rakuten.co.jp/kd2006/diary/200712150000/
http://plaza.rakuten.co.jp/kd2006/diary/200712170000/

ご参考まで
81. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年06月09日 03:52
[駒場道]
駒場御狩場の北を通って、幡ヶ谷に抜ける道や代田橋に抜ける道は、いわゆる尾根道ですから、かなり成立の古い道であろうことは想像がつきます。
もっとも、たとえば、武蔵一宮のあった埼玉県の大宮とか、惣社したがって国庁のあった府中に向かう道
http://www.techjapan.co.jp/kitakuraHP/kodo/04/index.html
とかならわかるのですが、比較的成立の新しい大宮八幡や大原稲荷との結びきとなると、ちょっと想定しにくいところがあります。

ところで、代々木乗合のデータ。従前から探しているのですが、なかなか見つけられずにおりました。お差支えなければ、出典をご教示いただければ幸いです。


80. Posted by sj2006   2008年06月07日 05:53
[補助26号線その3]
私は、この道の行先のひとつとして、大宮八幡を考えます。
大原稲荷の北、旧甲州街道が玉川上水を渡ったあたりから、北西、和田掘給水所の北を通り、和泉二丁目交差点で水道道路と交差、井の頭通りと井の頭線の間の狭い回廊を北へ上がり、永福町駅前で再び井の頭通りを渡って、狭い都道427号線をたどると、大宮八幡に着きます。
なお、私たち桜上水(旧上北沢)の地元に、下高井戸から桜上水交番を経て、赤堤通り方面へ抜ける「瀧坂北道」、あるいは、「北沢道」と伝わる古道があります。
私は個人的に、この補助26号線旧道が、瀧坂北道或いは北沢道の原型で、上述の通り代田橋から甲州街道をたどり、松原2丁目交差点で別れて下高井戸駅前へ入っていく、そういう道が、甲州街道成立前に存在していたと考えています。
79. Posted by sj2006   2008年06月07日 05:47
[補助26号線その2]
北沢五丁目商店街北端からは、西へ転じ、玉川上水南岸をたどって代田橋大原稲荷前から甲州街道に入る。大原稲荷は天明2年(1782)の創建、参道は東へ延びて鎌倉街道まで達したと伝わっています。
大原稲荷の参道は、旧堀之内道とは直交し、それは参道の成立が堀之内道より古いことを示すのかもしれない。
おそらく昭和40年前後まで、この道はかなり重要なルートで、玉川上水保守管理の関係もあってか、環七もこの道は地下通路で横断しています(あるいは参道を横切ってはならないという配慮があったかもしれません)。
78. Posted by 補助26号線その1   2008年06月06日 13:59
1920年(大正9年)代々木乗合自動車は、
渋谷駅前〜代々幡町三角橋
渋谷駅前〜代々幡町代々木西原
代々幡町三角橋〜代々幡町幡ヶ谷
代々幡町三角橋〜世田谷町淡島前
の4路線、合計5.6kmの営業許可を取得しました。
このとき渋谷から三角橋、幡ヶ谷とバスが通った道路が補助25号線の前身。
東北沢の小田急線踏切北で二股に分かれ、右(北)へ行けば代々幡、左(西北)へ向かうと、北沢五丁目商店街の北端で、玉川上水に行きあたる。
北沢川と、渋谷川、あるいは、神田川との分水嶺をたどる尾根道で、成立はおそらく非常に古い。もしかすると、北沢八幡創建の時期にまでさかのぼるかもしれません。
再整備されたのが、おそらく江戸初期。玉川上水建設の時期と思います。
77. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年04月18日 20:10
[補助26号線]
ちょっとシモキタからははずれますが、旧・下北澤村内の話です。
補助26号線の、三角橋から渋谷区大山までの区間が、かなり急速に動いています。
三角橋あたりは世田谷区側の、代々木上原3号踏切あたりは渋谷区側の、建物が大幅に消滅するようです。
駅そばのセブンイレブンが数日前に閉店。1軒おいて隣にある、女優の木の実ナナさん御用達のビストロ「ペーパームーン」も、昨日、道で会ったママさんい聞いたら「あと3、4か月…」とか言っておられました。
あの通りには、大正期までの商家の定番だった出桁造りの建物もあり、急なことゆえ、「せめて写真で記録しておかねば」と、少々焦っております。
76. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年04月10日 19:44
[X交点踏切遺構]
残すとすれば、個人的な思い入れでは「東北沢3号」も考えるのですが、あそこはむしろ、小田急の開通前がおそらくそうだったように、池ノ上台地から森厳寺川に向かっての急坂を復活させるほうが、「歴史を残す」という意味ではかえってよいかもしれません。
で、「なんぴとも害さない」うえ、かえって「今のシモキタの雰囲気を体現している」という意味では、「東北沢5号」がベストと思います。
とはいえ、踏切と周囲の環境を残すとなると、一番技術的に問題があるのは「架線」でしょうね。
75. Posted by 黄金井 達夫(こがねいたつお)   2008年04月09日 01:41
【地下にもぐる】
北澤川が暗渠になって、近隣の住民は多分喜んでいるのだと想像します。小田急が地下にもぐったら、これも喜ぶ人の方が多いと思います。しかし、見えなくなるということは、それにかかわる文化もなくなるわけですから、ここのところは疎かにはできません。あるうちに、線路の一部と架線を残しておくなんてことは難しいのでしょうか。井の頭線と交叉する部分だけでも残せないか。シアトルの街には市内電車のレールを撤去せずに残してるところがありました。それがあるかぎり、市内電車のことは語り継がれます。銀座線の昔の新橋駅が残ってるそうですが、踏み切り部分をそっくり残すなんて粋な計らいもわるくありません。長い間の開かずの踏み切りの汚名挽回のためにも開きっぱなしの踏み切りなんてことを考える小田急の役員はいませんかね・・・。
74. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年04月08日 22:54
[北澤川通船]
暗渠がなくなったたとしても、橋場橋まで上れる船で、東京湾に乗り出すほなちょっと怖いですね。
大崎まあたりまで下るだけでも、結構楽しめそうです。とくに花の季節は。
そもそも、橋って、川面から眺めたときに一番綺麗にみえるように設計されているらしく、もう20年近く前になりますが、家内の知人が企画したか、佃から、小ぶりの船で、神田川を上り、飯田橋から日本橋川を下ったのですが、船から見あげた万世橋は、普段、秋葉通いのときに見慣れている橋とはまるで別物でした。
73. Posted by 黄金井 達夫   2008年04月08日 14:08
【水運】
4月8日付産経朝刊で船上葬儀つまり、2600トン級のカーフェリーで葬祭・火葬船をつくる構想を日本財団がまとめたという記事が出ています。火葬場が住民の反対から新設困難なことが背景にあります。同様に、ゴミについても、目黒川、北澤川、善福寺川などを復活、運河にして東京湾へつなぎ、海上で焼却・灰を埋め立てにまわすことも考えられます。かつての川を暗渠にしたのはまことに残念ですが、東京の運河復活も公共投資のいい対象になります。夏は橋場橋辺りから納涼船が出て、東京湾を一周するなんてのはどうですか・・・。
72. Posted by 黄金井 達夫   2008年04月08日 14:07
【水運】
4月8日付産経朝刊で船上葬儀つまり、2600トン級のカーフェリーで葬祭・火葬船をつくる構想を日本財団がまとめたという記事が出ています。火葬場が住民の反対から新設困難なことが背景にあります。同様に、ゴミについても、目黒川、北澤川、善福寺川などを復活、運河にして東京湾へつなぎ、海上で焼却・灰を埋め立てにまわすことも考えられます。かつての川を暗渠にしたのはまことに残念ですが、東京の運河復活も公共投資のいい対象になります。夏は橋場橋辺りから納涼船が出て、東京湾を一周するなんてのはどうですか・・・。
71. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年04月03日 23:35
[目黒川の水運]その2
北沢川(用水)でいえば、淡島のちょっと東にあった、後に「カンゴロウ水車」と呼ばれることになったものは、安永9(1780)年に設けられ、堰の高さは4尺4寸(約1.3メートル)だったそうですので、橋場橋のところに推測どおり桟橋があったとしても、それ以前の可能性が高いといえます。
一方、黄金井様ご指摘の下馬(旧・下馬引沢村)を流れる蛇崩川は、明治41年まで水車がなかったようですし、目黒川本流に2箇所の水車より下流に合流点がありますので(中目黒駅のホームのすぐからすぐ南に見えます)、かなり水運が盛んだったのではないかと思われます。
利根川・江戸川の水運については仕事のからみもあって、昔かなり調べたのですが、地元の目黒川は今までノーチェックでした。
「船入場」に資料館があるそうですので、今度、本格的に調べに行きたいと思います。
70. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年04月03日 23:18
[目黒川の水運]
先週の土曜日だったかに、お向かいの方が行かれた「目黒川さくらフェスタ」という催しの資料を見せていただいたところ、目黒川の中目黒の南、ちょうそ防衛研究所の真下に「舟入場」というところがあることを知りました。
Google Earth でみると、ちょうどこの辺りまでは川幅も広く、ここまでは舟が入ってきていたことは、地名からみても確実です。
問題はそこから上流でして、水運の一番の障害は水車です。この舟入場から上流の大橋にかけて2つ水車があったようですし、さらに北沢・烏山の両河川(用水)にも、どうやら江戸時代からあったようです。
水車のための堰が、川の本流にあれば当然舟は遡れませんし、分水路に堰を作ったとしても、本流の水量は減るので大きな舟では無理ということになります。
(続きます)
69. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月28日 15:47
【目黒川の水運】
昭和30年代の後半までは、中目黒辺りの目黒川で船の姿を見た記憶があります。今は国道246辺りから上流が暗渠になっているようですが、代沢まではホンの2キロ程度なので、船で物を運んでいたことは容易に想像できます。何を運んでいたのか特定できればいいのですが・・・。丸太なども考えられます、製材所があれば聞けますね。
下馬の世田谷観音には小田原から移築した建物がありますがどうやって部材を運搬したのでしょう。小田原港から海路品川まで来て目黒川を遡ったなんて記録があればおもしろい。
90才ぐらいの方なら記憶があるのではないでしょうか。
68. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月28日 04:53
[北沢川の水運]
気になるのは、茶沢通り、代沢小学校南の「橋場橋」という端の名前です。
当然「[橋]のある[場]所の[橋]」とうのでは同義反復ですし、なによりも「橋場」の通常の用語例にしたがえば「桟[橋]の<ある|あった>[場]所の[橋]」と解釈する方が素直です。
そのため、前から、あのあたりまでは目黒川を通じた水運があったのではないか、と予測しているのですが、なかなかウラが取れません。
67. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月28日 04:42
[靴墨]
ビオラって、おぼろげながら記憶があったので、調べてみなしたら、ビオラ(ヴィオラ)ブランドのは、今ここから出てるみたいです。
株式会社ジュエル(東京都豊島区上池袋2丁目8−10)
(もっとも、商標の登録が昭和61年ですので、参宮橋にあったのとどういう関係にあるのかは、まだわかりません)
それはともかく、これは、きむらけん先生のほうが詳しいのですが、北沢用水沿いは、かつて、ちょっとした軽工業地帯だったようです。
今とちがって(と、いうか今でも)、陸上輸送については不便この上ない地域だったはずですから、水運、つまり目黒川を使った物資の輸送がそれなりにあったのではないかと想像しております。(続く)
66. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月28日 03:14
【靴墨のガラス瓶でつくった灯油ランプ】
ランプの芯は木綿糸を束ねたものでした。しつけ糸のようなものです。油は(当時石油=灯油などはありません)菜種油でした。
ハワイで、原子力潜水艦から電気を供給するというのはさすがアメリカですね。面白いと思いました。アメリカはほとんどの家庭が発電機を持っているのではないかと思います。私もアメリカで購入した電動工具のなかで、ほとんどはそのまま日本の100Vで使えるのですが、一部、ペイントスプレーポンプと高圧洗浄機は115V,60HZでないと正常に作動しないので、米国で買った発電機を回しています。
ガラス瓶の靴墨は、もう無いでしょうね。昔、参宮橋にビオラとかいう靴墨メーカーがあったような記憶があります。
65. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月26日 19:56
[靴墨のガラス瓶でつくった灯油ランプ]
靴墨の浅いガラス瓶(これ自体、絶滅危惧種です)に灯油を入れて、錐で穴を開けたブリキの蓋に灯心をとおして火を点したのだと思いますが…
灯心に何を使っていたのかご記憶ございますでしょうか?
ちょっと場違いな話になってしまいますが…
30年ほど前の秋、ハワイで20数年ぶりとかいうハリケーンにでくわして全島停電。そのうち、パールハーバーの原子力潜水艦からの電気とやらでかろうじて時間給電ははじまったものの、当然エレベーターは動かず、非常階段も真っ暗。さいわいコンドミニアムでしたので、いろいろストックがあり、大きなお皿の真ん中に灰皿を置き、サラダオイルを満たしてランプにしようとしたのですが、最後の課題が灯心でして、結局台所用のペーパータオルにたどり着いた経験から、そういった瑣末なことが、妙に気になるので…
64. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月22日 00:20
【下北沢X近くから眺めた空襲】
昭和20年5月の東京西部空襲のとき、私は5歳半で下北沢駅近くの自宅の庭から渋谷や新宿方面、はたまた大原のあたりの空が真っ赤に焼けていたのを見ていました。火の粉が風になびいて飛んでゆくのが、こちらにきたら怖いという記憶があります。庭先にあった、コンクリート造りの防空壕に何度も入りました。靴墨のガラス瓶でつくった灯油ランプをともして防空壕にもぐっていました。渋谷のほうへ手をかざすと空気が暖かかったことを昨日のように覚えています。
それまで、隣組で防火訓練などやっていましたが、大人たちはなすすべもなく真っ赤な空を眺めているだけでした。その防空壕やコンクリートで出来た防火用水も、家の建て替えで昨年(平成19年)つぶしてしまい、もう我が家に戦争の痕跡はありません。
63. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月20日 15:26
【小田急のオルゴール】
きむらたかし様、いくつもの情報をありがとうございます。なんで、素早くたくさんの情報を引き出せるのか、あらためて脱帽いたします。
ロマンスカーの音源がテープだったことで、解ったのですが、確かに音が揺れていました。ピンコロピンコロにヒョヨヨーンという揺れが加わり、プラスドップラー効果で独特の音を出しながら走りぬけていった、ということで納得です。
VSEとICE−Tはご指摘のように類似点があるようですね。自動車に代表されるようにCADで設計するために、答が近似するのでしょう。ICEのほうがVSEよりも小さな板(軽金属か炭素繊維の類かわかりませんけど)を継ぎ合わせているようで、これは日独の工作機械の違いによるのかもしれません。
昭和25年の帝都線の追突事故にはじまり、きむら様が思いもかけぬ情報をお持ちなので、心底驚いております。
62. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月19日 09:53
[小田急のオルゴール]
ここの
http://pixy.issp.u-tokyo.ac.jp/~ueta/train_misc.html
「小田急のオルゴール」
は、HSEの車内録音だそうですが、こもった感じがかえって記憶に近い。

ここの
http://homepage3.nifty.com/kishanori/omoide/nse/nse_oto.htm
NSEの「足柄駅」のは、ドプラー効果満点ですが、音質がちょっと…
61. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月19日 09:39
[ロマンスカーの警笛]
ドプラー効果もさることながら、SE車の時代、あのオルゴールはテープだったそうで、後の電子音と違って、ちょっとこもったような音でしたね、たしかに。
↑の音は、今、VSEが小田原駅に入るときに少しだけ鳴らしている音に近いと思います。

DBのICEーTとOERのVSEは「そっくりさん」との評判ですので
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0706/28/news011_3.html
並走させると面白そうです。
60. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月19日 02:54
【ロマンスカーの警笛】
繰り返し何度も再生してみました。が、私の記憶の中のサウンドと合致してくれません。東北沢の方から下ってきて、下北沢を通過、小田原方向へ進行してゆく姿と重ね合わせて記憶を呼び戻そうとしたが、いまのところは巧く行きません。PCの小さなスピーカーの音では限度があるし、ましてやドップラー効果はゼロです。
黄色と青のロマンスカーの写真は何枚もあって、懐かしく眺めました。数年前にNゲージのロマンスカーを購入しましたが、Zゲージもあるのですね。メルクリンのミニクラブで遊ぼうかと思っていたので、ゲージが合うならドイツ鉄道(DB)と小田急の並走も有りかと変なことを想像しています。ありがとうございました。
59. Posted by きむらけん   2008年03月17日 20:37
 小田急ロマンスカーの展望ビデオで見ると、東北沢2号踏切を過ぎたとたん前のめりに下北沢サラダボールに突っ込んで行く感じがします。この時の運転感覚を小田急の運転士に聞いてみたいものです。小田急の広報部に行って運転士にきけないものかと聞いたことがありますが、それは個々人の感覚なのでとやんわりと断られたことがあります。
 ロマンスカーの下北沢駅通過も見ものです。駅の屋根すれすれに運転台は通っていくようです。ツバメの巣があったらきっとこそげ落とされるでしょう。そんな印象です。
58. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月16日 23:32
[小田急のロマンスカー]
米澤さんに見つかってしまったので、白状しますが…
http://www.agui.net
の小田急ボード
http://www.agui.net/imglog/oer/imgboard.cgi
とくに、その過去ログページ
http://www.agui.net/imglog/oer/oerimg-index.html
で、「肝高」というキーワードで検索してみて下さい。
結構昔のロマンスカーの写真が出てきます。
57. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月16日 23:08
日東紅茶とならんで、もう一つのロマンスカーの不可欠なアイテムであった「万世のカツサンド」は、今では東京駅でも羽田空港でも買えます。
というわけで、一番昔の「味」を復活できるのは
・羽田で「万世のカツサンド」を買い
・自分で調達した日東のティーバッグを持って
飛行機に乗り
・カップを貰って、お湯を注いでもらう
というのが、なぜか一番手っ取り早い方法です。
(午前の早い便の出発時間の場合、まだ「カツサンド」は搬入されてませんので、ご注意下さい)
56. Posted by きむらけん   2008年03月16日 21:32
 ロマンスカーの警笛は木村孝さんが貼り付けてくれたものがあります。
http://www.japan-railways.com/SOUND/3100.MID
これを聴くとああそうだ、この音だったと思います。この警笛は言葉に直すのがむずかしいものです。
 代田連絡線は春宮さんです。ときどきこのブログを見ておられるようです。
 
 春宮さん、ご主人も奥さんもお元気でしょうか。ご無沙汰しております。こういうところでお願いするのはなんですが、三四名ほどが代田連絡線の跡という看板を建てたいと言っております。貴重な文化遺産です。とりあえずは角材に墨痕鮮やかに「代田連絡線跡」と書いてひっそりと建ててみてはどうかと話しております。ご協力願えませんでしょうか。  きむらけん
 
55. Posted by 黄金井 達夫   2008年03月16日 02:59
【青いロマンスカー】
3月15日から地下鉄にもぐってゆく青いロマンスカーが走り始めたようです。まだ、見てませんけど日曜日は10本通るそうです。
しかし、私のロマンスカーは何と云っても、黄色と青の上下ツートンカラーのやつです。あれが走り始めた頃は、何か明日に向って夢をもてた時代でした。
その次に出て来た運転台が2階になっている、ピンコロピンコロいいながら走ってくるのも、今となれば懐かしい。あの警笛のCDなんか市販されているのですかね。図書館にでもあれば借りて往時を偲びたいものです。日東紅茶を飲みながら・・・。
54. Posted by 黄金井 達夫(こがねいたつお)   2008年03月16日 02:45
【標識・記念碑】
「大当たり三色娘」さっそく探して見たいと思います。町の歴史を印す標識を立てておくことは重要でしょうね。金を掛けずに実現できる仕組み(寄付者の名前を入れるとか)なにか考えられるといいですね。犬に小便を掛けられることを想定して、散歩している犬の持ち主に寄付させてその犬の名前を刻んだ標識を立てるなんてのはダメですかね。専用便所ですよ。
GPSを使って正確な位置出しが可能ですから、かなり精度の高い地図ができるかもしれません。現場に標識の設置ができなくても、せめて場所が判明しているうちに緯度と経度を測定しておく必要があるでしょう。
代田連絡線は雨宮さんではなく春宮さんのお宅ではないですか・・・?きむらけんさんがご存知です。
53. Posted by 駅前食品市場   2008年03月13日 20:41
 駅前食品市場は文化的な価値は濃厚である。進駐軍PX流れの物資が豊富で多くの日本人がこれで息をつくことができた。ここで米兵に群がる女性たちがストッキングをかがってもらった。「大当たり三色娘」という映画がある。東宝初のシネマスコープサイズのものだ。この冒頭シーンがここで撮影された。
 現在でもかつてのやみ市の面影が至るところに眠っていて文化的な価値は充分にある。
 黄金井さん、代田連絡線の記録を残す会でも作りましょうか。とりあえず「代田連絡線」跡の碑を雨宮さんところに協力してもらって建てる、という企画もいいと思います。
52. Posted by 黄金井達夫   2008年03月13日 00:53
「下北沢駅前食品市場」俗称ヤミイチ。おじいさんの店のところや、そこからホームに沿って北口のほうへ行ったところのミネ薬局の裏の飲み屋のところ、お世辞にも綺麗だとはいえないヤミイチの環境が今の東京に他にあるだろうか。ヤミイチ全体が、屋根を見てもわかるように、年月をかけて継ぎ接ぎつぎはぎしてここまで生き延びてきたものだ。この環境は新しく作ることができるものではない。イグ世界遺産である。地震か火事か、はたまた人為的に撤去しないかぎり、そしてそこで商売が続く限り、このイグ世界遺産は生き続けるだろう。だれが設計するわけでもなく、そのときの都合でなされる補修工事の連続・・・。しかし、それも多分数年のうちにすべてが無くなってしまうのだろう。
51. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月09日 22:20
[おじいさんの店脇の通路]
昨日、じっくりと観察してきました。
どうも「下水管が壊れて、土が流れてしまったのかなぁ」という感じの陥没のように思えます。
単に長時間かけて地盤が下がっただけなら、通行止めにする必要もないでしょうし、平にするだけならコンクリートのドブ板1枚で復旧できるはずですし…
10年ほど前から4年ほど前までは、闇市は結構意識的に観察していたつもりなのですが、あの通路を通った記憶はありませんので、陥没はかなり前に起こったのではないかと推測しています。
50. Posted by 黄金井達夫   2008年02月12日 03:04
【おじいさんの店・追記】
昨夜、19時頃に下北沢食品市場のなかの昔の「おじいさんの店」の場所を確認してきました。店の位置、店の大きさは昔のままで、変っていないと判断しました。現在は草履、長靴などの履物と傘を、おばあさんが商っていました。ひとつ変った点は、通り抜けられた通路を鉄の柵で通行止めにしていることです。その理由は、小田急の工事の関係だかどうだかわかりませんが但馬屋への通路と30センチぐらいの段差ができていて、陥没したようで、それが原因で通行止めになっています。店は間口2間奥行き1間程度の大きさです。
49. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月11日 11:02
[駄菓子屋さん]

そいういえば、下北沢一番街の頂上近くに、「夜しかやってない」駄菓子屋さんがありますよね。
http://www.shimokitazawa.net/i/639.html

数年間前、たまたま昼間開けているときに通りががかって、ビニール風船とか、ボール紙の飛行機を買い込みました。
48. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月11日 01:48
【雑炊食堂】
戦後すぐの頃、下北沢駅の南口、現在の井の頭線ガードの下の公衆便所のところに「雑炊食堂」があった。直径が1.5メートルぐらいの大釜に、米・大根の葉・味噌と水で炊き上げた雑炊を大きなしゃもじでかき回し、それを柄杓でつぎ分けてくれる。鍋を持ってゆくと、配給の食券と引き換えに雑炊を入れてくれる。ほとんどが味噌汁で米は申し訳程度にしか入っていない。子供の私が行くと、釜の底のほうからかき回して、なるべく米粒が入るように気をつかってくれた係りのおじさんもいた。たまに大根の身の部分もあったが、身のほとんどは溶けて無くなっていた。家に帰ってくると、それにさらに水と塩を足して家族5人で分けていた。塩はあったが、味噌・醤油は不足していた。代用醤油というのもあったがあれは一体何から出来ていたのだろう。
47. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月11日 01:31
【爆弾あられ・追記】
 きむらたかし様「下北沢 世田谷区民俗調査代8次報告」が届いたと代田図書館から電話があったので、明日でも出かけてみます。
 さて、爆弾あられはほのかな甘味でした。材料と一緒に砂糖水をぶっ込みます。砂糖水は氷砂糖をバケツの水に溶かしていました。氷砂糖の他に白い粉のようなものも入れてましたから、恐らくサッカリンかズルチンも併用していたのでしょう。熱源は薪です。だから鋳鉄製の爆弾の機械本体は煤で真っ黒でした。お米のあられはひな祭りのあられです。お米ととうもろこしの他に、コーリャンのようなものもあった記憶があります。
46. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月10日 17:56
[おじいさんの店]
典型的な駄菓子屋さんで、まさに「三丁目の夕日」の「茶川商店」そのものですね。
池ノ上では、その役割は「金鳥」さんが担ってましたが、そこは、右側の棟が普通の文具屋(おばちゃんが店番)、左側の棟も駄菓子屋さん(おじちゃんと、ときどき「しんちゃん」が店番)といっても奥半分は模型というかプラモ屋さんでしたから、大分雰囲気は違います。
ところで、爆弾あられ。実は、その場で作ってもらうのは食べたことがないのですが(要するに「雛あられ」の中身ですよね、お米のは)、どんな味付けだったのでしょうか?
45. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月10日 01:16
【爆弾あられ・ポンせんべい】
今の代沢郵便局の前には、以前幅が2メートルぐらいのどぶ川があった。郵便局に入るにも小さな橋を渡る。郵便局からすこし下北沢寄りのどぶ川の脇に戦後、爆弾あられとポンせんべいを焼くおじさんがいた。お米を持ってゆくと、爆弾あられやポンせんべいにしてくれる。材料持込みなのだ。店はなく、記憶ではテントのようなもので雨露を凌いでいた。わたしは、よくそこにとうもろこしの種やお米を持ち込んで爆弾あられ(今風にいえばポップコーン)にしてもらっていた。爆弾あられは、回転する機械に材料をいれて数十分熱したのちに、つづらを大きくしたような金網のはった箱の中にバーンと一気に爆風ではじき出すので、その音の凄さがたまらず気に入っていた。あるとき、近くを通った通行人の親父がその爆音におどろき「おっさんおどかすなよ、キンタマが5寸も飛び跳ねたぞ」と叫んだ。
44. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月10日 00:49
前項からのつづき。
 おはじき、ビー玉、ブリキのおもちゃ、リリアンとその糸、磁石、ゴム粘土と型枠、将棋の駒、軍艦将棋、花札、かるた、家族ゲーム、サイコロ、竹馬、紙風船、竹とんぼ、細いガラスの管に入ったゼリー(チューっと吸い出す)ラムネ、時が経ると、フラフープや抱っこチャン(黒いビニールの人形)中にエーテルが入っている連続首振りダチョウ、なども置いてました。以上思いつくまま・順不同。
 間口1間半奥行き5尺ぐらいの細長い店でした。今も店自体は当時の形であります。運動靴か何かを売ってますが正確には今度見てきます。
43. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月10日 00:40
【闇市・追記へ】
 きむら様、今日、代田図書館へ「下北沢 世田谷区民俗調査代8次報告」を閲覧しにゆきましたが、中央図書館にあるそうで、取り寄せの手続きをしました。
 ところで「おじいさんの店」はおもちゃと駄菓子を並べていました。ポンせんべい、ニッキ味がしみこませてあるひも状のセロハン(両端が赤や緑で染めてある)、のし烏賊、日光写真機と印画紙・その原画、ロー石、縄跳び、厚紙をくりぬくくじ、束ねた紙のくじ、紙芝居屋の水あめ、おなじく食べながら人形などをくりぬくせんべい、かんしゃく玉、そのピストル、花火、ベーゴマ、めんこ、野球カード、剣玉、たこ、タコ糸と糸巻き、針金のパチンコ(ゴム式)、山吹鉄砲と玉(長いやつ)、水鉄砲、以下つづく。
42. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月10日 00:11
【開かずの踏切】
東北沢駅での急行待避がなくなってからは、下北沢近辺の開かずの踏切が多少緩和されたように感じている。以前は踏切待ちで、何本かが通り過ぎて今度こそ開くだろうというタイミングで、再び矢印のランプが点灯する。周りの人々からいっせいにため息が洩れる。そういうときにきまって現われるのが、なぜかロマンスカーだった。ロマンスカーが無かったら、小田急の踏切はもっと開いていたのではないだろうか。踏切が開かずにイライラしているときに、スピードも出せずに通過してゆくロマンスカーを何回見送ったことだろう。
41. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月09日 20:34
[闇市:追記]
黄金井様のご説明から、松喜屋が、昭和61年略地図に載っていることがわかりました。
たしかに、あのあたりのお向かいに、細い通路というか、むしろ、家と家との間の隙間がありますね、今でも。
「おしいさんの店」どんなものを売っていたのか、もう少しうかがいたい気もいたしますが、そういったローカルなお話より、下北沢全体史の方が優先ですよね。
ちころで
「サイキ図荘」→「サイキ画荘」でした。
カーマインレッドとかジンクホワイトなんていう絵の具の名前まで思い出してしまいました。
小田急や帝都線については、うかがいことが数々あるのですが、改めて、徐々に…


40. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月09日 00:38
【闇市】
「ビリオン」は毛糸屋で但馬屋の隣。「松喜園」は但馬屋を
突き当たりに見て、ずーっと手前の左側、現在インド人の料理屋のもっと手前の角の現在の八百屋から、但馬屋のほうへ
2軒ほど戻ったところです。「おじいさんの店」は子供たちが勝手につけた名前ですが、その「松喜園」の前の小田急のホームに向う本当に細い通路のホーム側の右角でした。アメリカ屋というのが松喜園の前の細い通路の角の店だとするなら、おじいさんの店は筋向いになります。
 「下北沢 世田谷区民俗調査代8次報告」を代田の図書館で閲覧してみたいと思います。ありがとうございました。
39. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月08日 23:01
[闇市]
たしか、代田の図書館にも蔵書されている
「下北沢 世田谷区民俗調査代8次報告」
昭和63年3月31日 世田谷区教育委員会
に、昭和61年当時の「闇市」の調査結果が載っています。
略地図を見ると、当時、
「起福屋」「栄屋」(おせちを少量ずつ売ってくれてましたので重宝しました)、「鈴木商店」、
魚屋の「柏」(後にピーコックの中に移転したと記憶してます)、
お肉の「荒井屋」
はまだあったのですね。
「松喜園」、「ビリオン」、「おじいさんの店」(どこにあったのでしょうか?)は、この時点ですでに無くなっています。
私にとってなじみの店で、今残っているのは
「サイキ図荘」(キャンバスや油絵の具は、ここ)
「ナガヌマ」(本当にハイクオリティー)
「但馬屋」(お菓子のケースの上で昼寝しているネコがかわいい)
「アメリカ屋」(まだ、英国製だったころのホーキンスの靴を買ってました)
位でしょうか。
38. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月08日 21:39
[模型店]
どうも、こちらに越して来た小学校5生の春から中学に入るまで、池ノ上から出掛けていった明確な記憶のあるのは、件のポテトチップス工場とか、南口駅前位で、代沢5丁目まで足をのばしたことはなくて(自転車も持ってませんでしたし)、むしろ、神田美土代町の科学教材社あたりに行ってましたので、北澤模型さんといは全く無縁。
中学に入ってからは、学校近くのとか、自由が丘のとか、たまに魚籃坂のカツミ通いで、白ボール紙とか3ミリ角の角材位は、池ノ上の、金鳥とかフルノートで調達してましたし…。
37. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月08日 11:57
【荷物電車】
小田急には「荷電」(にでん)と呼ばれていた荷物専用電車が、午前と午後の2回運行されていた。チッキや郵便物と新聞の配送だ。編成は1両だから車両には前後2箇所に運転台がある。車内には郵便局にあるような仕切り棚があって、郵便物を駅別に仕分けをしていたようだ。左右両側に幅が通常の2倍ほどの引き戸があって、そこから荷物の積み下ろしをした。行き先表示板は、白地に大きく「荷」の字が赤色で書かれたものだ。荷電はホームの東北沢寄りに停車した。これはホームから改札口への通路が東北沢寄りにあったからだと思う。(前項【下北沢駅構内】に関係する)
やがて、荷電は運行されなくなり、代わりに通常の車両の一部をネットで仕切り、そこに荷物を積んで運ぶようになる。荷物を扱う専門の車掌が一人乗り込んでいた。貨物輸送がトラックに移行されてくると、やがて荷電の運行は廃止されていった。
36. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月08日 11:51
【下北沢駅構内】
「下北沢X惜別物語」27頁には、かつて駅の内と外に二つの地下道があったと(小田急50年史にも)記録がある。私もそのことは覚えている。ところが、もう一つの記憶では、ホームの東北沢寄りに階段があって、上り線を踏み切りで渡って改札(北口)に通じる通路があったことを思い出す。当時は現在の2番ホームは無く、1番線と共通の島形ホームであった。記憶に自信は無いが、その階段には両側に平らなスロープ部分があって、子供の私は階段部分ではなく、スロープを上下したことを足裏が覚えている。幼稚園から、小学校の6年間は新宿まで毎日小田急に乗っていたので思い出すわけだが、それは他の駅のことで、私の思い違いかもしれないことを付記しておく。
35. Posted by きむらけん   2008年02月07日 18:20
ブログリンクのトップに「街の記憶の掲示板」としてこのページをリンクしておきました。記憶が記録されるとよいと思います。容量がオーバーすれば掲示板2を設置します。
34. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月07日 16:30
きむらたかし様
 オデオン座の近くのポテトチップスの工場というのは記憶にありません。代沢5丁目の模型屋は「北沢模型」という看板を出していて、店主のおじさんは、右手の人差し指・中指・薬指が欠損していて、親指と小指でドライバーを掴んで器用にネジを締めてました。自宅は玉電の西太子堂駅の近くで、代沢の店を閉店した後は、自宅で「北沢模型」の看板を上げて営業してました。自転車でよく通ったものです。
 池小のご卒業であれば、暗殺された石井毅基議員と同窓ですね。
33. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月07日 16:11
【東北沢4号踏切・その2】
平成15,6年のころ、一番街の八幡湯の裏の方で住宅1軒が丸焼けになるぐらいの火事がありました。たまたま、東北沢4号踏切のところに居合わせたのですが、交番の前で消防自動車が踏切に遮られて渡れません。気がついてから時計をみましたが、少なくとも7分間停められていて火事場に行けません。最初はサイレンを鳴らしてましたが、だからと云って踏切が開くわけでもなく、さすがサイレンの吹鳴は止めました。立ち上がる黒煙とこげる臭いを目の前にして、居合わせた人たちが「電車を止めて通してやれ!」と叫びつつも、目の前の交番のおまわりですらなすすべがなく、ただただ見守るだけでした。その目の前を回送のロマンスカーがゆっくりと通過してゆきました。
32. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月07日 16:02
【東北沢4号踏切】
北沢タウンホールから野沢まで行く小田急バスは、その昔京王線の幡ヶ谷から下北沢を経由して三軒茶屋までの路線でした。都道420号線を幡ヶ谷方向からやってくるバスは大山町で井の頭通りを越えると信号で右折、北沢3丁目郵便局の前を通って急坂を下り、その先の道路が細くなったところで90度左にカーブ、さらに今度はクランクの曲がり角を通って東北沢4号踏切に到達します。踏切で小田急線を渡るのですが、踏切が閉まっていれば開くまで渋滞の列の中で待たされていました。カーブでのすれ違いに時間がかかり、踏切で待たされ、やがてこの路線は廃止されました。
31. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月07日 00:30
[早速のご回答、有難うございます]
「エンドー」の場所、よくわかりました。どっちかというと、新星堂スポーツの印象の方が強いビルです、あそこ。
「福信堂」のこと、納得です。昔、東急バスのファンの方のページに写真があったのですが、今はみあたりません。
「代沢五丁目のバス停のちかくにあった模型屋」は初耳で、越して来たのが昭和35年ですので丁度行き違いみたいです。今度、北沢生まれの池小の同級生に聞いてみます。

ところで、昭和35。6年ころ、オデオン座の裏手あたりにあった、ポテトチップ工場をご記憶ではございませんでしょうか?
私を含め、工場があったことはよく憶えているのですが、l誰も、当時の正確な場所を特定できないでおります。
30. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月06日 23:55
【下北沢駅の位置・その2】
小田急線の下北沢駅が昔は現在の東北沢4号踏切のところにあったことを書いたが、それを裏付けるのが、道路である。新駅は岐阜羽島じゃあるまいし、畑の真ん中よりも街道すじにできるのが普通だろう。そうなると北沢交番のところに駅が開設されたことがうなづける。一方、帝都線は小田急の駅に迂回するには無理があった。明大前から渋谷に向けての線路敷設は必然的に現在の位置になった。だから既存の道路などは考慮されずに小田急の上を越えて渋谷に通じた。帝都線の開通に伴ってそのX(クロス)に小田急の下北沢駅が移設されたのだろう。だから、駅前には満足な広場も道路もないというわけだ。下北沢駅は綿密な都市計画に基づいて位置が決まったのではなく、帝都線に引きずられるようにしてその場所が決まったというのが事実だろう。
29. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月06日 23:23
きむらたかし様
コメント拝見しています。「エンドー」は「いさみや」の先の十字路の左前の角でした。いまは階上にスポーツクラブのあるところです。ビルそのものはエンドー時代のものが今も使われています。「荒井屋」はお店で確かめられますね。「福信堂」は一族が青果商でしたから親戚筋でしょう。○十ベーカリーは東京中にあるのでバン屋ののれんのひとつです。詳しいことは私も知りません。
鉄道模型をやっておられたのであれば、下北沢南口の今の代沢五丁目のバス停のちかくにあった模型屋をご存知ですか。昭和20年代から30年代の中ごろまでありました。その後三軒茶屋に移転しました。新宿の紀伊国屋の近くにみどりやという模型店がありました。東北沢の岡保さんというのは私は初耳です。
28. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月06日 20:09
[懐かしい!]
「エンドー」ってありましたね、私も買物に行った記憶はあるのですが、どのあたりだったのでしょう?
「いさみや」は、今でも屋上に看板が載っています。
昔、鉄道模型をやってましたので、「西尾塗料店」にはよくラッカーを買いに行きました(シンナーが足りなくなったとか、急ぐときは、東北沢の岡保さんでしたけど)。
【下北澤駅前食品市場】に出て来る「荒井屋」さん 池ノ上で同名のお店が現役
下北澤駅前食品市場】の「福信堂」さん 確か東北沢駅前の駒場道の角に同名の店がありました
【スーパー】の「○十ベーカリー 池ノ上駅の筋向かいに同名の店がありました(間口の狭い店だったと思いますが、食パンを買った記憶があります)
と妙に身近な名前が出て来ます。
本店支店とか暖簾分けとかそういう関係なのでしょうか?
27. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月06日 01:13
【スーパー】
平成20年1月13日に南口のグルメシティー(ダイエー)が店舗建替えのために閉店した。あそこは、ダイエーの前は「忠実屋」というスーパーだった。下北沢には他に、北口に「ヨーカ堂」、南口に「エンドーチェーン」というスーパーもあった。スーパーではないがディスカウントショップの「いさみや」、南口の「代一元」や「長田楽器」も懐かしい。「下北沢X惜別物語」には本通りの「玉泉堂」という名前が出てくるが、その隣の「阿部酒店」2,3軒となりに化粧品・洋品雑貨の「みくにや」、パン屋の「○十ベーカリー」と栄通りの角の「柳屋」。変ったところでは、栄通りにペンキの「西尾塗料店」その隣の「ムサシノ薬局」、その前の「栄寿司」。並びには「石黒風呂釜店」八百屋の「福信堂」、「鳥羽屋書店」、日用品雑貨の「井上商店」、おもちゃの「こどもや」と続く。
26. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月06日 01:09
【下北沢駅の位置】
私が小学生のころ(昭和20年代)から疑問に思っていたことの一つが、何故「本通り」には、駅に近い「栄通り」よりもりっぱなお店が並んでいたのかということだ。昔は栄通りよりも本通りの方が賑やかだった。仙台屋・森山商店・八幡湯・大月商店・玉泉堂・かどや・阿部酒店・みくに屋・秋元金物店・田丸庵・伊勢元などなど他にも立派な店があった。この謎が最近解けた。昔、下北沢駅は現在の東北沢4号踏み切り、つまり北沢交番の踏み切りの位置にあったということを聞いたのだ。ここに駅があれば、駅前から本通りが西に伸びていることがうなづける。それが、程なく帝都線が開通することになって、現在の位置に移動したらしい。
25. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年02月05日 17:24
>原稿分量が多くなるようでしたら…メールでお送りください。
とはいえ、サワリだけでも、是非ここに書いていただければ幸いです。
旧北澤4丁目在住40年ほどの若輩者ですが、それでも、闇市の惣菜屋さんとか4号踏切の警手小屋とか、思い出すことが結構あります。
それに、黄金井様のコメント。すでに、このブログの「休刊日」の楽しみになってしまいましたし…。
24. Posted by きむらけん   2008年02月04日 18:08
先日はお目に掛かって貴重なお話しを伺うことができました。ありがとうございます。戦時における尺貫法はおっしゃるとおりですね。原稿分量が多くなるようでしたら「aoisigunal@hotmail.com」にメールでお送りください。
23. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月04日 01:56
【数値表示】
北沢の丁目は、新しい住居表示に移行したときに変更された。たとへば、下北沢駅北口は旧表示だと北沢三丁目であったが、現在は北沢二丁目だ。だから、「下北沢X惜別物語」の中で「何丁目」というときには、正確さを期するなら新旧いずれなのかを明記するほうがよい。ついでながら、昭和33年にメートル法が施行される以前の日本は尺貫法であり、当時の数値表示は厳密には尺貫法を用いるのが妥当ではないだろうか。「強制疎開(38頁)は線路の両端から15メートル」も、おそらく当時は「両端10間」のように表示したのではないだろうか。
22. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月04日 01:52
【踏切番小屋】
東北沢4号と6号踏切、井の頭線では下北沢1号踏切にはむかし踏切番小屋があった。上の電車の下北沢1号踏切の踏切番は、目の前の伊澤商店の親父さんだった。伊澤商店は現在(平成20年)不動産屋のケン・コーポレーションの場所で、小鳥屋だった。いま風にはペットショップだ。番小屋は白洋社の脇にあった。電車が来ると踏切の竿を手動で下げるわけだが、反対側の竿とはロープと滑車で連動していて、子供心にそのカラクリが面白く、いつまでも眺めていた。それを学校の夏休みの工作に模型で自作したこともあった。
21. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月02日 01:25
【下北澤駅前食品市場】
「下北沢X惜別物語」の中では、北口市場とか下北沢北口マーケットと呼ばれているが、正式名称は「下北澤駅前食品市場」である。ところが、戦後すぐにこの場所に露天が出現したとき、周辺の住人は「闇(やみ)市」と呼んでいた。私なんかは、未だに世田谷代田を世田谷中原、新代田を代田二丁目と云うぐらいだから、やみ市は今もやみ市である。やみ市には昔から現在も営業しているお店があるが、消えてしまったものに、惣菜屋の「起福屋」「栄屋」「鈴木商店」、魚屋の「柏」、お肉の「荒井屋」、お茶屋の「松喜園」、洋服の「ビリオン」、そしておもちゃと駄菓子の「おじいさんの店」などを思い出す。
20. Posted by 黄金井 達夫   2008年02月01日 01:50
下北沢北口の石丸電気が平成20年の年初に閉店した。余談だがプリンターのインクや小物の買物では便利だったが、これからは渋谷まで出かけなければならず不便になる。ところで、石丸のビルの取り壊しを知らせる看板が掲出されたので、あの場所の変遷も記録しておきたい。戦前から昭和30年代までは水谷眼科があった。白いモルタルのいかにも医院という建物だった。その頃はそこから、線路を越えて伊達外科に渡れる踏切があった。水谷眼科が取壊されると、地下のある鉄筋4階建てのビルになり「CABIN」がオープンした。やがて居抜きで「メリーヒル」に変る。それが、つぎはまったく業種の異なる「九十九電機」に生まれ変わった。やがてツクモは閉店となり「石丸電気」に生まれ変わる。夫々、いつ変わったかの記録を私は持ち合わせていない。更地になった後はまたビルが建つのだろうが、町並みはどんな風に変るのだろう。
19. Posted by きむらけん   2008年01月31日 18:32
毎回興味深くコメントを拝見しています。今後地図三版の発行を予定しています。かつての映画館の所在場所は文化的に意義のあることだと思います。それぞれの映画館の所在地は(旧)を入れて表示したいと考えております。
18. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月31日 01:58
「下北沢の映画館」 
今年(平成20年)の1月13日にグルメシティー(ダイエー)が店舗建替えのために閉店した。あの場所には戦後「下北沢映画劇場」があった。北口には富士銀行(現みずほ銀行)の隣の坂の途中に「グリーン座」、そして北沢交番の踏切近くには「新映座」があった。3館ともちゃんとした映画館である。新映座は後にオデオン座となり、洋画がよく掛かっていた。映画フィルムが三軒茶屋−グリーン座−幡ヶ谷と3館の持ち回りで、自転車の荷台に乗せて運搬していた。だから、到着が遅れると映写が中断した。北沢映画劇場、グリーン座、の順で閉鎖され、最後まで頑張っていたオデオン座も消えて行った。本多劇場が出来る以前のことだ。3館が下北沢X(クロス)の夫々の座標に1館ずつ散らばっていたのは偶然だろうか。
17. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月31日 01:28
「下北沢X惜別物語」22頁で米軍接収家屋に触れている。下北沢駅近くで進駐軍に接収された屋敷のひとつが、現在(平成20年)の西口、ローソンの斜め前、以前ホンダの藤沢専務のお宅である。藤沢氏が入る前になるがアメリカ人のガズマンという軍曹の家族が住んでいた。私の母が当時GHQで通訳をしていたので、Mr.ガズマンの長男のビリー(現在65歳ぐらいになるでしょう)が我が家に遊びに来ていた。靴のまま部屋に上がってきたり、リンゴを出すと、冷えていないから食べられないとか、わがままな子でした。スイカじゃあるまいし、リンゴを冷やして食べるなんてことは、当時の日本にはありませんでした。昭和22年ごろのことです。
16. Posted by きむらけん   2008年01月30日 20:14
毎回、興味深い話が具体的に書かれているのでとてもスリリングです。
15. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月30日 03:53
強制疎開(38頁)で取壊される家屋は兵隊さんが作業にあたっていたが、徴兵をまぬがれていた父も伊達外科の隣の屋敷の取り壊しに駆り出されていた。そのお宅の庭にあった立派なドウダンつつじを父は我が家の庭に移植した。その木は昨年(平成19年)まで我が家にあった。家の建て替えで引っこ抜いてしまったのは残念に思う。
強制取壊のあと程なくして戦争が終わったから、あの強制疎開は無駄だったように子供心に思った。取り壊しの対象は小田急だけで、帝都線は免れていたのも何故だったのかいまでも疑問に思う。もし帝都線も対象になっていたら、我が家も壊されていただろう。
14. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月30日 03:48
東京大空襲で下北沢駅付近は焼け残った。ところが、1本の焼夷弾が井の頭線の線路脇、小野宅(現在小宮宅辺り)に落ちて、気の毒にも小野宅だけが消失した。焼夷弾というのは直径が7,8センチ、長さが80センチぐらいの六角形(八角形だったかもしれない)の筒で、外側が国防色(鶯色)をしている。更に1本が井の頭線のホームの脇にも落ちてきたが、これは空の筒で火災にはならなかった。当時、ホーム脇には小さな鉄工所があって旋盤などの工作機械が稼動していたが、空の焼夷弾はその屋根に突き刺さった。誰かがその焼夷弾の筒を我が家に持ってきたので、小学生だった私には格好の遊び道具になった。それも、家の建て替えなどでいつの間にかどこかに消えてしまった。
13. Posted by きむらけん   2008年01月29日 20:12
記事は興味深く拝見いたしております。記録、記憶をぜひご記入ください。
12. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月29日 01:12
「下北沢X惜別物語」の19頁には「井の頭線の運転台の窓にはひさしがあった」とある。ひさしは太陽光線の直射によるまぶしさを防ぐためのものであったろう。ある日の夕方ちかく、下北沢と池の上間の築堤上の下り線で追突事故があった。池ノ上を出発した電車が(その運転台の窓にはひさしがあった)、下北沢駅の手前で信号停止していた車両に追突したのだ。後続電車の運転手が、沈み行く真っ赤な夕日に目がくらみ、停車していた車両を確認できなかったのが原因だった。小学生だった私は、上り線の線路を歩いて小田急の鉄橋を渡り事故を見に行った。スピードが出ていなかったので運転手は無事だったが、両方の運転台はつぶれていた。いまも夏場は、西口のホームの端から大きな夕日が見える。昔の運転台の窓のひさしは7,80センチはある大きなものだったが、沈み行く夕日を遮ることは出来なかった。
11. Posted by 黄金井達夫   2008年01月29日 01:07
「ホームが踏切を喰う(その2)」
昭和30年ごろまでは井の頭線のホームの中ごろに踏切があった。先ごろ閉鎖した石丸電気と、線路を挟んで反対側の伊達ビルと河瀬歯科のところを結ぶ踏切だ。当時、赤坂見附の中学に通っていた私は近道なので、その踏切からホームに直接飛び上がったことがたびたびあった。違法行為だが、昔の車掌は黙認してくれた。井の頭線が5両編成になると踏切は取り払われて、ホームが鎌倉通りまで延長され、西口が誕生した。駅舎は現在のローソンの横にあって、構内踏切で改札口とホームをつないでいた。西口の駅舎が地下化され、南北の連絡地下道が出来たのはさらに十数年後であった。下北沢X(クロス)付近では小田急も井の頭線もホームが踏切を喰ってしまったのだ。
10. Posted by きむらけん   2008年01月28日 20:24
社線文化とでも言うのでしょうか。線路にはそれぞれの会社の匂いとか、雰囲気を映し出しています。帝都線には切り通しや築堤があってモダンな近郊型線路という感じはします。今では高い建物に囲まれてしまいましたが、下北沢と池の上間の築堤は当時としてはかなり目新しい風景、光景だったと思います。夜など灯りを点して二両編成がジョイント音を響かせながら行く様は子どもに憧れをもたせたように思います。
9. Posted by 黄金井達夫   2008年01月28日 02:41
「大東急」のときだったと思うが、当時は小田急線も帝都線も車体に「TKK」の、かなり大きな文字を入れて走っていました。それがやがて、小田急は「OER」に、帝都線のほうは「KTR」に変っていった。「KTR」はさらに「KEIO」に変った。帝都線の呼称も井の頭線に変る。いまではその頭に京王をつけている。渋谷に到着すると「京王をご利用いただきありがとう・・・」の社内アナウンス。今では慣れてしまったが「井の頭線をご利用いただき・・・」でないとしっくりこないのは私だけだろうか。
8. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月28日 02:24
小田急の車両が代田連絡線を通じて帝都線に移送できたのは、ゲージが同じだからということも大きな理由だろう。
私は今でも、井の頭線は京王ではなく小田急だという気がしてならない。京王線はゲージが標準軌道であるが、井の頭線は狭軌である。同じ会社なのに異なるゲージだというのもおかしなことだ。数十年前までは電圧も違っていた。昔から下北沢の乗り換えには途中改札がないことも、この両線は兄弟だからなのだと思っている。
7. Posted by きむらけん   2008年01月27日 14:32
なかなか興味深い情報をありがとうございます。踏切の変遷も初めて知りました。空襲警報が鳴った後に猛スピードで電車が走って行ったというのもやはりそうだったのだと往時が思い浮かんできます。コメント400字までとのこと初めて知りました。会報に地域情報を載せることができますので長い文は、表紙に掲示しているメールにお送りください。
6. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月26日 18:47
 「下北沢X惜別物語」33頁の絵地図に踏み切りの位置が出ています。それによれば「旧下北沢1号踏切」は現在のたねいち歯科(本院)の先の跨線橋のところだと理解しました。ところが、小田急のホームが小田原寄りに延長される前には、井の頭線のすぐ脇の跨線橋(20頁)も踏切でした。当時、伊達外科と井の頭線のホームの間にヒマラヤスギの大木が何本かあって、その先からお世辞にも綺麗とはいえない急な階段で小田急の線路に下りてゆき、そこに踏切がありました。だから、この絵地図の旧下北沢1号踏切の更に新宿寄り、井の頭線の鉄橋の根元にも踏切があったので、正確にはそれが下北沢1号踏切になるのではないかと思います。小田急社内の資料には多分載っていないと思われるので「旧下北沢0号踏切」とでも命名しておきましょうか・・・。
5. Posted by 黄金井 達夫   2008年01月26日 18:31
 きょう邪宗門に行ってみました。きむらさんにはお目にかかれませんでしたが、今度は電話をしてから出かける積りです。「下北沢X惜別物語」に関連して、思いつくことを書いてみました。ブログのコメント欄が400字までなので、何本かに分けて投稿してゆきます。
 「ぴぃひょっ!」という電気機関車の警笛(6頁)、代田のカーブを曲がってくる「ぎゃぎゅぎょ」という車輪の音(11頁)は、まったくその通りで、子供の頃に耳にした音がはっきりと甦ってきました。
 空襲警報のサイレンが鳴り響くと、必ずその後を追うように電車が猛スピードで走って行った(9頁)のもこの記述を読んで思い出しました。私は戦前から、北口の駅の近くに住んでいます。
4. Posted by きむらけん   2008年01月26日 14:47
貴重な証言をありがとうございます。ちょうど駅北口の小田急線路沿いに水路があったことを聞いたことがあります。かつてのグリーン座方向から大量の出水があったというのは傾斜からしてなるほどと思いました。地下道存在も分からなかったことが氷解しました。駅構内地下道と公衆通路があったということですね。前者は駅舎の橋上化によってなくなり、後者は残った。が、大雨による出水によって閉鎖された。こうなってくるとそれは何時だったのかということが知りたくなりますね。黄金井さんのご指摘でその情報が寄せられるといいと思います。
3. Posted by 黄金井 達夫(こがねいたつお)   2008年01月26日 03:33
下北沢ホームの下にあった南北をつなぐ地下道について、「駅舎の橋上化により両地下道とも廃止されてしまった」という箇所。構内の地下道はその通りでしたが、公衆通路のほうは駅舎の橋上化後も利用していました。それがどの位の期間だったか記憶が定かではありませんが、あるとき大雨が降り、当時のグリーン座の前の坂道を大量の水が流れ落ちてゆき、それが地下道に流れ込み完全に水没したのです。この地下道がたびたび浸水したことは書いてありますが、いつもは半日で水が引き歩けるようになりました。ところが、件の大雨の後は一向に水が引かず、わたしの記憶では地下道の天井から1メートルぐらいを残して貯水池のようで、通行不可になり、ついには閉鎖されてしまったのです。公衆通路のほうの地下道は駅舎の橋上化のためではなく、洪水が原因で使われなくなったというのが正しいと思います。
2. Posted by きむらけん   2007年03月17日 21:07
 一寸の踏切にも五分の魂。ささやかな踏切であっても長い年月の間、何かのエピソードがそこに折り畳まれています。そういうものを、掘り起こし、それらの記録を積み重ねることで地域の文化というのは分かってくると思います。地域文化を考える一つの材料が、今回の「下北沢X惜別物語」だと思います。後世に記録が残ってくれればいいと念じております。
 読んでくださる方に読んでほしいと思っております。
1. Posted by K   2007年03月17日 00:09
 朝日新聞に載った記事で、北沢川の冊子配布のことを知って、即座に邪宗門に電話予約して冊子をもらいに行き、それ以来、きむらさんのブログ読ませて頂いております。朔太郎、利一、英光、茂吉など、これ程、たくさんの文学者がシモキタにいたことは知りませんでした。
 一応、安吾については、10年ほど前に代沢に引っ越してきた頃、まさしく「風と光と二十歳のわたしと」を読んでいたので、安吾が、私の自宅アパートからほんの20メートルほど先の小学校の代用教員をしていたと知って、新鮮な衝撃を受けたものです(今は、北沢在住ですが)。
 このブログは、私の思っているプロジェクトを実践されている部分があるため、色々なところで紹介させて頂いています。
 また、大部の本を配布されるとのこと、是非入手させて頂きたいと存知ます。

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