2007年08月01日

下北沢X物語(911)〜ダイダラボッチ探索行8〜

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    ダイダラボッチは水路合流点にできた窪地であった。羽根木からの細流と大原からの小川とがぶつかった地点である。そこに池ができた。附近の丘から染み出る湧き水もあってのことだ。人々はそこに水の神様の弁財天を祀った。農業用水、飲料水は貴重であった。ダイダラボッチの流域を潤す水源地帯であった。農民は大切にしたはずだ。

 このダイダラボッチ川の水路沿いには細長く水田があった。そして、代田半島の東のり面からは幾つかの細流がこの川に流れ込んでいた。半島の中程のくびれからも細流がダイダラボッチ川に流れ込みその合流点には池があった。現在の井の頭線下北沢2号踏切の南側である。その池のほとりにはこれも水の神様である「八大龍王」が祀られていた。田畑を潤す水が生活に欠かせなかったからである。

 先だっての「歩く会」では、庭に龍王の痕跡があると言われる家の脇を通った。それで家の呼び鈴を押してみた。ところが応答はなかった。家人はあいにく不在であった。が、その家の奥を見ると確かに石碑が建っている。八大龍王の謂われが彫り込んであったとしたら大きな発見となる。

 この「八大龍王」の下流域を、「守山田圃」と称していたのではないだろうか。代田半島と下北沢半島に挟まれたところだ。そこに今もフラットな地面が形成されている。

 ダイダラボッチ川は代田半島の東のり面の出っ張りにぶつかって方向を南から南東に流れを変えて小田急線にぶつかる。ここも代田半島の東のり面から流れてきた細流があって本流と合流していたところである。やはり池があった。現在のスポーツクラブ、エグザスのあるところだ。その池はかつては田圃だったろう。小田急が開通して一帯が開け、人が住むようになった。それで中原百貨店がここにできた。

 開業時、この屋上には楽隊を置いて。そして鳴り物入りの華々しいセレモニーを行った。ところが下北沢本通りに次第に客を取られたようだ。ついには、ここは廃業し、その跡地はローラースケート場になった。戦争中は軍のオート三輪の倉庫だった。その後は経済書発行の千倉書店の倉庫、それからメンマ製造工場、そして今はフィットネスクラブである。この土地にあった建物の変遷は地域文化の歴史を物語っている。



 ダイダラボッチに源を発した川の流れそのものも大きく変化していった。交通の利便性から一帯の宅地開発が進行した。川筋の田圃は庶民のアパートや下宿屋となった。日当たりのいい丘にはステータスを持った人々が住んだ。そういう点でいうと、面白いことがある。ダイダラボッチ川筋沿いに建ったアパート、そして東のり面の中流住宅は文学修業ラインであったと言える。修業時代の作家が住んでいた。

 昨日、新聞は小田実氏の訃報を伝えていた。その彼は代田5丁目のダイダラボッチすぐ近く、代田半島東のり面に住んでいた。八大龍王近くには翠月荘があった。垳利一が「中山の梁山泊」と言っていたところだ。中山義秀が住み、また文学志望の青年達もいた。そのすぐ近くには「武蔵野荘」がある。そこには武林無想庵がいたということを米澤邦頼さんが聞いて来た。若いときに安岡章太郎が住んでいた代田の家も東のり面である。

 ダイダラボッチ川は現在の代沢三差路へ流れていって森厳寺川と合流する。流路沿いは水田だった。その水稲は貴重である。麦と陸稲に混ぜると粘りが生じた。

 ダイダラボッチ川の東のり面はゆるやかな起伏の丘であった。そこでは陸稲や麦が栽培されていた。現在の代沢5丁目辺りである。坂口安吾が当地を舞台にした作品「風と光と二十の私と」を書いている。そこに出てくる一節に、「麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。」というものがある。子どもたちの歓声を背後に聞きながら彼は学校からの眺望を眺めている。起伏に富んだ5丁目あたり、代沢小から西の眺めだったと自分では想像している。

  その代沢小は地形的見地からすると代田半島の東端にあたるはずだ。校地の西が27メートルで、東が25メートルだったように記憶している。その2メートルの差は、代田の丘の基盤にくっついているからだと思う。そこは「ダイダラ坊」の丘の端っこである。
(写真はダイダラボッチ跡地近くにあるお堂、庚申塔と地蔵尊が祀られている)

 



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