2010年10月02日

爆撃機B29記憶の掲示板(空襲、墜落、被害など)

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爆撃機B29記憶の掲示板

(空襲、墜落、被害など) 

 戦後65年、戦争の経験、体験、目撃談などは年々希薄になっている。かつて日本各地に襲来してきたB29、その機体の大きさを目撃して人々は驚いた。この大型爆撃機は全国各地の都市に無差別に爆弾、焼夷弾を投下した。東京大空襲はその筆頭である。
 この「東京荏原都市物語資料館」には、国領、赤堤、久が原に墜ちたB29については実際に現地に行って住人から話を聞いて、そのことを掲載している。
 
このうち赤堤について [下北沢X物語(337)〜赤堤に墜ちたB29探査行(上)〜]には、一人の聞き書きをきっかけにブログコメントが多く寄せられるようになった。このことは単に、世田谷赤堤だけのことには終わらない。撃墜されたB29は空からの黒船だった。ノーズアートの裸体を見て驚愕しもした。また積まれている食糧を見て、米軍の物量の豊かさを知った人も少なくない。ジュラルミンの巨体に驚きもした。

 昭和19年11月1日東京上空に一機のB29が現れた。人々は、これを不気味に思って眺めた。偵察に来たようだ。羽田空港支所長をされていた立川繁氏がこれを目撃し、松本浅間温泉千代の湯に疎開している娘の裕子さんに書き送っている。記録として書き記しておく。

 なかなか元気で勉強して居るとの事で安心した。今日東京には敵の空襲があったが、たった一機で、それに爆弾も落とさなかった。とても高い所で富士山の二倍半もある高さだったが飛行機が大きいのでよく見えた。父も羽田の上を飛ぶのを見た。発動機が四つあって飛行雲が四本できた。非常によく晴れてゐたよ。(十一月一日夜)
 
 まず偵察のB29が飛来し、そして、撮影された写真をもとに爆撃計画が練られたのだろう。十一月二十四日、中島飛行機空襲を皮切りにして、つぎつぎにB29は襲ってきた。焼夷弾を、爆弾を、そして、ついには広島・長崎に原子爆弾を落とした。焼け野原になった東京にはいわゆる伝単を空から撒いた。(写真・出穂山氏提供)

 B29のことについては市民が興味を持って検索で当ブログに行き着いているようだ。ネット上の市民資料館ともなっている。三田用水、下北沢街の記憶も、コメントされたものが読まれている。必ずしも書き続けられなくともよい。後になって誰かが検索して、過去の事実を再認識するということはある。例えば、千歳丘高校の高射砲陣地も、だいぶ経ってから卒業生が検索で当ブログの記事を見つけ、改めて学校の歴史を知ったと知らせてきた。

 この一つの事例の背後には、多くの人たちがいるということが想像できる。ときどき現実生活で出会った人から、いついつの記事で、何々のいわれを初めて知りましたと言われる場合がある。記されていると、誰かが知る。その過去認識が何かに役立つ、そう願うものである。

 戦後66年目、B29の目撃者、被害者などがだんだんに消えつつあります。それゆえにささやかであってもいい。戦争の記憶としてのB29の記憶は、記しておきたいものだ。よって、ここに「爆撃機B29掲示板」を設置するものである。

・B29の記憶について広く、その目撃、記憶などについてコメントをください。
 書籍資料の記述、郷土史の記述など
 B29の女性搭乗員は人々の「誤解」ではないかと指摘されています。一つの「伝説」ではないかと。これに関しては、単なる好奇心ではなく、戦争観やジェンダーということに結びついていく問題だと捉えたいと思います。市民レベルでの情報がありましたらぜひ記してください。
 各地に慰霊碑などがあります。そういう情報でもかまいません。
○基本的な立場は、「戦争は二度と起こさない」というところにあります。

なお、ブログ右バーサイドにリンクを張っています。次回以降、そこをクリックされれば簡単に入れます。
当ブログの他の掲示板でもそうですが、後になって、検索で引いてきたときに、 [赤堤に墜ちたB29]というふうにタイトルを記して書くと、わかりやすいと思います。 貼り付け記号  [ ]

rail777 at 09:50│Comments(22)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

22. Posted by 桜上水confidential   2011年07月15日 03:35
「日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦―」が7月15日、新潮社から、発売されました。
二年前、NHKが三回シリーズとして放映したものに加筆、充実させたもので、海軍の当事者たちが、「唯一本音で語った戦争責任」でありましょう。

戦後日本における「反戦平和」「反核」は、情緒的、感傷的に終始し、「戦争、核兵器をいかになくすか」に昇華することはありませんでした。
それは、日本が語りついできた「反戦平和」「反核」が、被害者としての視座にのみに終始し、加害者としての真摯な反省を伝えてこなかったところにあります。
加害者としての視点のように見える「自虐史観」的指摘にしても、しょせん、国なり軍なりという何ものかに強制された個人の視点にしか過ぎない。

自分自身が、自分の同僚が、自分の先輩、上司が、
組織に対する自分の自己顕示、保身のために、人間としてあってはならない行為に手を染めた。
自分はともかく、亡くなった同僚、先輩を鞭打つことへの遠慮。これまた、組織からの自己保身の部分があるか?
そこに向き合うことの無い「反戦平和」は何も生み出すことはなく、今日日本においても、いろいろな組織、個人が、戦前日本と同じ過ちを繰り返し、「墓まで持っていく」秘密を抱えて、人が死んでいく。

自分自身と向き合うことがなければ、反省はない。

今日の脱原発も、同じことの繰り返しでしょう。
原発も、温暖化効果ガスも、すべては、エネルギー大量消費を前提とする我々の生活様式に起因して問題化してきました。
僕ら個人個人が、我々の生活様式に向き合い、真剣に考えねば、同じ問題が将来別の形で起こるに違いないのです。

21. Posted by 桜上水confidential   2011年01月18日 17:58
[空襲時の小田急の電車]
ありがとうございます
昭和19年12月の日記ですか...
マリアナ諸島からのB29による東京爆撃は昭和19年11月24日が始まりで、翌昭和20年3月10日以前の攻撃は、誤爆も多かったとはいえ、中島飛行機などの軍需工場を目的としていて、市民生活も東京大空襲以降ほど差し迫った危機を感じるものではなかったと言います。
3月10日以降になると、硫黄島を基地とするP51マスタングが直掩機としてB29に帯同するようになり、はたして3月10日以降も要員配置の列車を走らせたものか?

京王沿線の調布基地では、非番の飛行士などが新宿方面に繰り出すということがあったといいます。
もっとも、要員帰還のために電車を走らせようとしても、小田急と異なり、昇圧前路面電車の京王線では、カーブも多く、全力で走らせても調布基地のある飛田給まで30分以上。とても間に合うものではなかったでしょう。
第一、航空兵は、迎撃のため、警戒警報の段階で離陸して高度をかせぐ必要があったわけで、警報が出て電車に乗るようでは、間に合うわけもありません。
20. Posted by きむらけん   2011年01月17日 20:06
[空襲時の小田急の電車]

 
 「日本空襲記」一色次郎、昭和十九年十二月八日の記述にはこうあります。

 夜中に警報が出ても、電車が必ず一、二台走っていく。外出している兵を急いで部署にもどすために、新宿駅から小田急の電車が、特別に走っていくのだそうだ。

 管理人の奥さんから聞いた話が書かれています。彼はその当時、現在の、下北沢三号踏切脇の、窪地側の「静泉閣」に居住していました。
19. Posted by 桜上水confidential   2011年01月17日 14:46
[防空壕の意味]
空襲警報が出ると、人々は防空壕に避難しました。
ですが、本格的なものならともかく、庭先などに掘られた防空壕では、ほとんど役に立たない、いい加減な対策を と思っていました。
ところが、最近父親(砲兵)にそう言ったら、「直撃弾、火災は、よほどの構造でも助からない。防空壕は、高射砲の破片を防ぐのが主たる目的で、爆弾の爆風、爆発によって飛ばされたものによる二次災害には十分有効」と言われました。
高射砲は、敵機に直接あてるものではなく、敵機の周辺で爆発させて、その爆風、破片により敵機に損害を与えることを目的としているため、当たろうが当たるまいが、広い範囲に破片を巻き散らかすのだそうです。
18. Posted by 桜上水confidential   2011年01月17日 14:28
[小田急の電車]
きむらさんは、空襲警報が鳴った後 、小田急の線路上を非常電車が要員を乗せてフルスピードで走ったと何度かお書きになっています。
誰を乗せて何のために?どこまで...
ほかの線でも一緒だったのだろうか?

空襲警報が出ても、電車は走っていました。
一般家庭、事業所は灯火管制で消灯させられたが、省線の駅の照明はついていた。
警戒警報から空襲警報までの時間は、15分から30分ほどでしょうか。
成城に高射砲の指揮所があったといいますからそういうところへの連絡要員を乗せたのかもしれません。しかし、まさかそのような体制で防空出来たわけもないように思う...
小田急本社は南新宿にありました。
警報が発令されると、担当者が電車に乗って、各駅通過ごとに準備状況を確認していったのかもしれません。

もうひとつの可能性は、迎撃のため発進する戦闘機の目印に、駅の照明と走る電車を利用したものか?
そのあたりの事情を知る人がおありになるでしょうか?
17. Posted by きむらけん   2010年12月30日 15:42
[戦争と景気]

 戦争と景気で思い出しました。先日、BSで小野田寛郎さんのことを取り上げたものをやっていました。そのとき昭和二年当時のことを彼は回想していっていました。学校に来る子どもたちが食い物がなく弁当を持ってこなかったと言っていました。

 その中で、とくに農家の方がひどくて、みな国になんとかしてほしいと思っていたと言っていました。満州事変などは、そういう国内の窮状を抱えての戦争突入ということもあったように思うのです。

 現今の不景気なども、底にはプラスに転じて欲しいという国民の願いがあるのでしょうが、それを無原則に聞き入れていくと危ない、平和を保ちつつ繁栄ということを願うのでしょうが、舵取りは難しい、負担をしていく覚悟が必要ですね。

 そういえば思い出した。大田区久が原のB29が墜落したというKさんの家の側を通ってその植え込みを覗いたことだ。今日の昼間

16. Posted by 桜上水confidential   2010年12月30日 06:58
[戦前、戦時中の航空写真]
国土地理院の国土変遷アーカイブス(http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html)が提供する空中写真に、今年7月から、1936年から1945年にかけての旧陸軍撮影の空中写真が追加されていることに、遅ればせながら気がつきました。
1945年1月撮影の写真は、空襲直前の東京をとどめる最後の写真であり、また、B29の搭乗員が爆弾(焼夷弾)投下の直前に見た東京の光景そのものです。
意外なのは、私の地元桜上水あたりは、1936年から1945年にかけて、かなりの変化がみられることでした。
先日、元東宮大夫の安嶋さんという方のお話しを伺う機会がありましたが、氏は、「おかしなことに、戦争がはじまると景気が上向きました」と言われたことを思い出しました。
政府は、戦費調達を債権発行でまかない、それが市中に還流。当時東京の「ヘリ」であった私たちの地元の変化となって現れて見えたのでしょう。
15. Posted by きむらけん   2010年11月29日 17:17
[B29女性搭乗員]

 新たな観点での情報、興味深く拝見しました。

過去の記録を見たり、人の話を聞いたりして、B29に女性乗組員もいたことを知りました。その例示として赤毛だとか、ハイヒールなどが物証として挙がっていました。しかし、これまでのここでの書き込みからはそれらを否定するものばかりでした。
 確かに女性が乗り組むとすれば大変だったように思われます。墜落した場合、敵の好奇な目に男性以上に晒されますね。日本人の野次馬根性は相当どぎついものがあります。
 敵さんやるね、女も乗せていたぐらいだからね、敵の圧倒的な物量の向こうに、我らは幻想を抱いたのかもしれないなと。敗戦国日本人の貧相な性が幻想を抱かせたのかもしれません。そういう観点で考えると、この問題日本人論としても面白いように思えます。

追記、2010年12月8日、開戦記念日に、「太平洋戦争を思う」という講演会が開かれます。特攻に行った人の話もあるようです。

 成城ホール1時半から(世田谷文芸散策会 電話番号:3420-0730吉田)
14. Posted by て   2010年11月28日 12:23
こんにちは。
いつも楽しく拝見しています。
女性搭乗員の件:米軍には居なかったと記憶します。
本当に切羽詰まっていた、ソ連、英国では戦闘部隊配置もあったでしょうが…
米軍では経理、広報、医療、タイピスト等軍属には居ました。
この頃の米軍には空軍も無くB29も陸軍の指揮下で、海兵隊も海軍の組織下に在りました。
また人的にも物資的にも恵まれていた米軍ですが、元々が贅沢暮らしに慣れていた米国本土では、物資統制が行われ、銃後の主婦達は大変だった事が最近オープンになり始めました。
米国も戦争の長期化は国民の支持が得られず、再選を狙っていたルーズベルト(死後のトルーマン)は、女性軍人の戦死には、気を付けて居ました。もし女性の本土への墜落があったとすると…広報?!若しくは報道関係ではないでしょうか?!勿論、安全と思われる場所を選んだと思いますが…
13. Posted by きむらけん   2010年11月27日 22:11
[8月14日のB29による空襲]


 終戦直前の、8月14日の空襲は思いがけず他にもあることを、はじめて知りました。埼玉熊谷、神奈川小田原、秋田土崎、山口光。

 終戦というのは形かもしれまんね。ポツダム宣言受諾、玉音放送があって終戦。そういえば、サイパン生き残りの兵士は、夜になってもアスリート飛行場に灯りが煌々と点っているのを見て、おかしいなと思ったと聞きました。つまりは、それが終戦を告げるサインだったようです。

 そういえばまた書いていて思い出しました。「みなは終戦というが、そうではなくあれは、敗戦だ」と何かのエピソードに書いてありました。このことがとても新鮮に聞こえました。が、我らは「敗戦記念日」とは言えない、屈辱の歴史は、「終戦」と表現することでようやっと誇りが保てるのかもしれません。
12. Posted by 桜上水confidential   2010年11月26日 12:44
先日、海軍兵学校78期の先輩をお尋ねしたとき
「ようやく分かりました」とおっしゃってお話しなさったのは、終戦で防府にあった兵学校から郷里に帰ることとなり、途中、終戦の前日14日に大規模な爆撃を受けた岩国を目にして衝撃を受けたこと。(そのあと、広島を通るのだが、手前で列車が長時間停車、広島通過は深夜であった)
何故、8月14日に、それも焼夷弾でなく爆弾による攻撃であったのか?長い間疑問であったことに、一つの回答を見つけられた由。

「米軍は報復を恐れたのだと思います。原爆を使用した以上、報復攻撃の可能性がある。日本は原爆は持っていませんでしたが、毒ガス兵器がありました。毒ガス弾を搭載した特攻機は、下手すると至近距離で撃墜した場合でも一艦まるまる戦線離脱、空母直撃ならば数千人の死傷を生じます。
14日は岩国のほか厚木も爆撃をうけました。脚が短く洋上飛行も出来ない陸軍機より、海軍機が怖かったのでしょう。最近話した友人に、毒ガスで報復できたじゃないかという人がいまして、思い当りました」

七三一部隊のこともある通り、第二次大戦中の我が国の生物化学兵器については、明らかにされていないことが多いのですが、実際に日本側に生物化学兵器を使用した報復が計画されたという話しは聞いたとことはありません。
米軍記録も、個別の攻撃目標は書いていても、目的まで書かれているわけではなく、もはや真相は闇の中でしょう。
11. Posted by きむらけん   2010年11月21日 11:37
[東京都市大のB29エンジン]

 東京都市大にB29のエンジンが展示してあります。今日21日から23日まで大学祭を開催していて一般市民も自由に入れます。今日は、これを見て来ました。3号館「五島記念館」の奥の1階ロビーに展示されています。解説案内板があります。もともとは東工大にあったものだと書いてあります。横浜川崎空襲飛来時に撃墜されたB29のエンジンのようです。
10. Posted by 桜上水confidential   2010年10月14日 18:32
[土の臭いのしない戦争]
ロボットを遠隔操作して人を殺害する非対称戦争。
B29による戦略爆撃は、戦争が一般市民を巻き込み、或いは非対称化していく過程における一つの不条理を象徴するものでしょう。
空から地上にある都市への無差別爆撃は、1937年のゲルニカに始まり、翌年日本は重慶を爆撃。ドイツによる英国爆撃には初めてV1、V2のロケットが使用されます。逆に英国を中心とした連合国はドイツ諸都市を爆撃。日本本土への爆撃は第二次世界大戦の最終段階にあたり、その最後が広島、長崎の原爆であります。
1937年から1945年の間に、市民を巻き込んだ非対称性がエスカレートしていった。ドイツ、日本では、市民の中からも、自らを戦争に巻き込む人たちがあり、そして、さらに多くの市民が悪魔の果実を受け取ることとなっていった。
持てる国は、非対称性の獲得、拡大を指向し、それに対抗して持たざる国は非対称性の縮小、乃至、解消に向け、日本のように条約解消から軍拡に走る国もありました。
現代のテロ、或いは、原爆開発も大国の目指した非対称性拡大への対抗手段でありましょう。
今日、エスカレーションが別の形で拡大してきていることを、私たちは改めて認識するのです。
9. Posted by きむらけん   2010年10月13日 18:32
[上北沢に落ちた米軍機]

 F6Fは、いわゆる艦載機ですね。ヘルキャットという愛称があるんですね。確かに米軍の記録には驚かされますね。情報公開で年月が経つと、情報を順次晒していくというところは立派です。

 しかし、アフガンの戦争は疑問ですね。無人機プレデターをアメリカ本土にいて操作し、敵を爆撃していますが、攻撃を受ける側の憎しみは倍加していくように思います。土の臭いのしない戦争は、ただの殺し合いだと……
8. Posted by 桜上水confidential   2010年10月12日 01:13
[上北沢に落ちた米軍機]

米軍では、1945年2月16日上北沢に落ちた米軍機は空母WASPから発進したF6Fと記録しています。
パイロットのLt. (jg) John W. B. GAGEは死亡 遺体は多磨墓地に埋葬された模様
Feb. 16, 1945, F6F (#72421, USS Wasp CV-18) crashed in 3-chome, 9 Kamikitazawa-cho, Setagaya-ku, Tokyo.
Lt. (jg) John W. B. GAGE was killed. His body was buried in Tama Cemetery in Kitatama-gun.
記録魔米軍にはところん驚かされます。

2月19日からの硫黄j魔上陸作戦を3日後にひかえていましたので、2月16日B24が爆撃した洲崎とは、小笠原父島の洲崎飛行場かもしれません。
7. Posted by きむらたかし@三田用水   2010年10月11日 18:26
[上北沢に堕ちた米軍機]

B29の尾翼(水平・垂直・尾翼部全部かは今のところ不明)が上北沢に落ちた、とのお話を読んで思い出したことがあり、調べてみました。

世田谷区近代火災史年表
1992年 東京都世田谷区教育委員会編・刊
によると
昭和20年2月16日午後 3時44分
世田谷区上北沢3丁目877番地 会社員方 住宅1棟全焼
とあり、
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/
によると、この日は、グアムの第7軍に所属する4機のB-24が洲崎飛行場を攻撃に来ていたようです。

具体的なポイントは、google map の
北澤用水・中上流部支分流域紀行26thJun2010
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=108276275528704687637.00048729c321bf9a8ecf6&brcurrent=3,0x6018f38bdd6d8d61:0x4ebc10d2858da879,0&ll=35.664061,139.626789&spn=0.03138,0.051498&z=14
で、ご確認ください。
6. Posted by 桜上水confidential   2010年10月10日 11:36
[赤堤に落ちたB29]

渡辺茂さんのお話し?にある赤堤B29墜落について、「翌日それが三井牧場の付近だとわかると」とあります。
この牧場はおそらく四谷軒牧場のことではないでしょうか。
(三井牧場も徒歩十分程度)

国民学校三年の少年が妹を連れて墜落機体のみならず遺体まで見ていることに驚きました。牧場がいづれであれ、子供たちが牧歌的風景の中を遺体見物に走るは、いよいよ国民を本格的に巻き込む本土決戦前夜の異様な光景でありましょう。
今日でも、アフガニスタン、ダルフールなどでは、そのような生活が子供たちにとって日常化してしまった。
いつまでも世界の現実に目をむけることなく、不毛な仲間もめ、誹謗中傷ばかりが話題になる日本であってはならないと思うのです。
5. Posted by きむらけん   2010年10月09日 20:48
[B29女性搭乗員続報]

 既出、投稿の桜上水氏よりメールをこちらに頂いていました。「そういった方面に詳しい仲間の米国人に問い合わせしたところ先ほどE−mailがあり」、「Pasquale T. Ainaはイタリア系男性名」だとのことでした。こういう情報の、あわいの中に浮かんでくるものが大事だと思います。よって、次のも記録しておきます。
 
 赤堤B29墜落について、「翌日それが三井牧場の付近だとわかると私は妹をつれて、レンゲ畑に飛散したその残骸を見に行った。搭乗員の死体は板塀に囲まれた庭に並べられ写真を撮った後で一般に公開された。皮膚の下の肉は赤いものと思っていた私は黄色い脂肪が遺体からはち切れているのを見て、アメリカ人は皮膚の色が白いから肉も赤くないかと思ったり、全部の遺体が薄着であったためアメリカの飛行機は寒くないのかと思ったりした。遺体の一つにたしか女性があったように覚えている。」とありました。
 当時、国民学校三年の八歳の渡辺茂さんでしたからあるいは記憶違いということもあるかもしれません。「東京大空襲第二巻」628ページ。

4. Posted by きむらたかし@三田用水   2010年10月09日 19:39
[B29女性搭乗員]

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/30582339.html
本文中のリンク先
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-65266.html
によれば、赤堤に墜落したB29の、無線士は

Naschold, Earl F. Jr. 軍曹

で、男性名としか考えようがありません(とくに「Jr.」)。
また、他の搭乗員のFirst name の中に、女性名らしいものは見当たらないようです。

言い換えれば、この記録からは、
「赤堤に墜落したB29には。女性は搭乗していなかった」
ことになります。


一方、コメント#14で指摘されている

AINA, Pasquale T.

という、通信士だった軍曹については
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-42-65231.html
にリストアップされていますが、

AINA の後ろに「,」があることと
他の搭乗員の名前の並びからみて

AINA は、last(family) name (姓)であり
Pasquale が、first name(名) です。

で、ざっと、google で画像検索をかけた限りでは、
Pasquale は、ラテン系の男性名のように思われます。
3. Posted by 桜上水confidential   2010年10月08日 12:15
[脱自虐史観]
太平洋戦争で日本はアメリカの生産力=物量に圧倒されて負けたという。アメリカの力を日本人一般に目の当たりに見せたのがB29である。日本の空を、日本の迎撃機、高射砲はものかわ。無視するがごとく鎧袖一触に、わがもの顔に焼夷弾で焼き払い、残されるはがれきの山。
「優雅なもんさ。B29の中ではコーヒー飲んで、金髪なびかせた女まであいつら乗せてやがる」など遠吠えして悔しさをまぎらわす。

日本の過去を自省することを、「自虐史観」といって批判する人たちが居る。僕は、この人たちこそ、日本人から自分と向き合う姿勢を奪い、国の力を弱める反日勢力だと思っている。過去と向き合い、足らぬところを補い、新たなものをつくりだし挑戦していくことによって初めて未来は創造される。「自虐史観」と罵り、人々から考えを奪う。言論統制そのもの。

僕は、「自虐史観」の最たるものが、日本はアメリカの物量に負けたという神話だと思っている。
物量の差であるならば、ベトナムはとうに米国に屈していたはず。イラク、アフガニスタン然り。
勝手に戦争をしかけ、勝手に負けたエリートが、負けた理由を己の至らなさではなく物量の差に帰す。負け犬根性が染みついた言い訳であることを誰も咎めず、その通りと聞き流してきた。
アメリカもB29では必死に戦っていた。彼らのなすがまま蹂躙にまかせたは、彼我エリートの精神力の差であり物量ではない。自ら考えず、他者の行為と結果を待つ我らがエリートは頽廃堕落していたのであり、それは今日の日本にもつながるのである。
2. Posted by きむらけん   2010年10月03日 21:16
[東京大空襲・戦災誌第二巻]東京空襲を記録する会

 赤堤に墜落したB29についてはこれに多くの証言が載っています。墜落時、経堂に住んでいた池谷豊子さんという方がつぎのように書き残しています。(641ページ)
「そのうち、空襲警報は解除になり、警戒警報になりました。相当時間がたって、経堂駅の踏切あたりが騒々しいので、行ってみました。私の家から100メートルもない交番の前に、人がたかっていました。見ると、白人の美少年とお巡りさんが、お互いに訳のわからない問答をしている。するとそこへ誰か背の高い人が来て、英語で何か言っていました。私など昔の女学校英語では何もわかりません。わずかに『シックスティーン』だけ。なるほどこれは年齢を聞いているのだな、と思いました。」

 当時沖縄に向かう特攻飛行機も上空を飛んで行きました。若い日本兵は落下傘を持たずに特攻に行く、一方、B29の少年飛行兵はパラシュートで降りてくる。この対比的な事実も忘れないようにしたいものです。
1. Posted by 桜上水confidential   2010年10月03日 16:04
きむらさんは、太平洋戦争のことは、もう限界にきているとおっしゃる。
記憶をお持ちの方が高齢化し、社会が変化する中、記憶の意味を新しい世代は、そのままでは共有し、受け継いでいくことは難しくなっていく。
だからこそ、きむらさんのおっしゃる通り

あやふやな記憶であっても個別の記憶が何かをあぶりだすかもしれない

ネット発信はきっかけで、時間をわたっていくことで何かがわかるかもしれない

ということに期待して、せっかく設けていただいた機会に、知るところ、考えたところを書いていこうと思います。

さて、
第二次世界大戦中のCombat Unitへの女性配置の記録は米国にはなく(英ソでは記録あり)、
第二次大戦中軍籍にあった米国女性の戦死者は砲撃または爆撃により死亡した看護婦16名
捕虜は、フィリピンで捕虜になり日本に送られた78名で、こちらも全員看護婦です

航空関係ではWASP Women Airforce Service Pilotsという組織が設けられ、所属する女性は軍用機の操縦に従事し、死者も出しましたが、原因は事故死などで、戦場での死者の記録はありません。また、WASPはnon-miliatry serviceに分類されていたらしく、軍人の戦死者としては認定されませんでした
http://en.wikipedia.org/wiki/Women_Airforce_Service_Pilots

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