2011年09月26日

下北沢X新聞(1921)〜幻影の下北沢「猫町」小路を歩く4〜

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(一)
「猫町」は迷妄小説だ。心の動きの屈曲のみで成り立っている。詩人は言う、「主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。」と。

 心の屈曲の物語、このロマンには土が臭う。つまりは、澤、湿地が連綿と続く谷、そういう土地柄の反映もあるということだ。古代から連綿とあったもの、微妙な傾斜であり、また、道路角度の微妙なずれである。これが少なからず人を迷いやすくしている。

 下北沢の北方には西から東へと続いていく淀橋台がある。これから派生した半島状の地形を仮に、代田半島、下北沢半島と呼んでいる。この二つの半島にの間には地溝がある。川の流れ、澤である。この水源が、ちょうどダイダラボッチの足跡になる。

 柳田国男言うところの巨人、ダイダラボッチの「右片足」である。これは単なる伝説ではない。ちょうどそこにこの形をした窪みがあった。土地の起伏の因果因縁である。

 現在の下北沢一番街を貫く道は、西の古道堀内道と東の二子道とを結ぶライン上にある。この道は、ダイダラボッチの窪みを避けて、ここを大きく回り込んでいる。それゆえに斜めにかしいだ道がそのまま下北沢一番街に突入する形になっている。

 一番街への入り口が、鎌倉通りと交差する地点だ。近代文学の一つ「街の座標」(清水博子)は、ここを「よじれた四つ角」と評した。酒店三河屋の前のここは、よじれ、ねじれ、ゆがんでいる。ダイダラボッチの右片足がいたずらをしているからだ。


(二)
 猫町キーステーションから、下北沢野屋敷新屋敷、折々に詩人はここを徘徊していた。このときに近代ラインをどう越えていったのか。踏切である。

 代田半島から下北沢半島へ向かうときに、鉄路にぶつかる。小田急線である。付近住民は子どもには言って聞かせていた。線路の向こうへいってはいけないと。当時、踏切には遮断機などなかった。自分の責任でこれを越えていた。

 新しい家ができたことは私もうれしかったが、下北沢の小学校はかなり遠くなり、女学校へ入学のための居残りで、毎日帰りは真暗になった。おまけに家は高圧線の通った遊園地のすぐ隣なので、片側は家がなく、どうしてもこわい遊園地の中を通らなければ帰れないのだ。

 これは「父・萩原朔太郎」(筑摩書房)に出てくる一節だ。下北沢から代田に引っ越したことで学校が遠くなった。東大原小学校である。順当な道順だとこれは鎌倉通りの、下北沢三号踏切を渡る。詩人が娘を迎えに行っていたかどうかはわからないが、娘の通学路への関心はなかったとはいえない。

 この記述、萩原葉子は、当時、東大原小学校の高等科に通っていたものだろう。高女への入学を控えていたというから十四歳だ。年号にすると昭和九年にあたる。「猫町」刊行が昭和十年ゆえに、このときは「猫町」執筆時だったと考えられる。娘が渡っていく踏切は危険だった。そういう配慮から、散歩方向は下北沢方向だったろうとも考えられる。

 この踏切は、魔の踏切だ。姉と弟がつぎつぎに轢かれてなくなっている。弟の古関清君が亡くなったのは、昭和十年七月二十一日だ。彼の友だちの証言がある。夏休みになってラジオ体操が始まった。開催場所は守山公園だ。

 ここからの帰途、小関君は自転車に乗って鎌倉通りを帰った。まずは下北沢半島を急坂で下る。ブレーキを掛けずにいくと、対岸の代田半島の上まで一気にいける。小関君は風を切って坂をくだり、その勢いで代田の坂を上りきった。悪いことにそこが踏切だった。多分世田谷中原方向の坂を下ってきた電車に轢かれたものだろう。このことから往事、遮断機もなかったことがわかる。

(三)
 今日現在は、鎌倉通りは、車の往来が多い。ベンツが飛ばしていくことも少なくない。文学散歩の折には、なるべくここを通らないで裏道を行くことにしている。

 詩人が通った踏切、例えば、今はなくなった下北沢4号、下北沢5号も考えられなくはない。が、地元の米澤邦頼さんは、下北沢行くには遠くなりますねという。

 下北沢三号踏切が妥当だろう。ここを下北沢方向に渡ろうとするときに緩やかなカーブがみられる。女性の身体のしなやかさが思われることもある。魅力的な800Rカーブは小田急地下化工事で、改軌工事が施され、曲線がだらしなくなった。(下北沢詩人旧居そばに今も残る朱の門)

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