2016年08月20日

下北沢X物語(3100)〜「カスバの女」と帝国音楽学校検

P1060088(一)人は時を生きる、このブログも時とともにある。今回の記事の回数は、3100である。多くの人と出会い、多くの話を聞いてきた。その証言を載せてきた。始まりを調べると2004年8月31日だ。間もなくで12年なる。出会った人は千人は超えるだろう。証言された方で亡くなられた方も少なくない。年月はそっと過ぎてゆく、「時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」と詠んだのは白秋だ、この結びは、「時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく」だ。「時は逝く、ブログのアラビア数字の一つ一つが増えゆくたびに…」…。

 エト邦枝、一旦は歌手として華やかなスポットライトを浴びた。が、レコードは1776枚しか売れなかったと。すぐに歌手は廃業して下北沢で歌謡教室を開いて糊口を凌いだ。臥薪嘗胆、「カスバの女」が突然に脚光を浴び、本家本元の彼女は舞台に立ってこの歌を歌った。「苦節十二年、エト邦枝が歌う、『カスバの女』です」と紹介されてマイクを握る。スポットライトはきるんと目に光った涙を一瞬に映した。最高の時だったろう。

 が、栄枯盛衰、盛者必衰、人は老いて亡くなる。一人の女性の軌跡を追った。終焉の場所へ赴いた。そこは深沢五丁目十三番地、長谷川病院である。本通りの江戸道から脇道に入る、その左手に大きな建物があった。三階建てである。診療科目は、「内科、消化器科、肛門科、外科、整形外科」とあった。総合病院だ。しかし、何となく佇まいが静かである。人の出入りがない。不思議に思って玄関を覗きこむ。すると張り紙があった。
P1060089

 休院のお知らせ
 当院は昭和28年開院以来、皆様に多大なご支援を賜り診療にあたらせて頂きましたが、院長体調に不安を生じ、平成27年10月31日(土)をもって当分の間休院することになりました。
 患者さまには都合で休院することに対しお詫びいたしますとともにこれまでご愛顧賜りましたことをスタッフ一同感謝申し上げます。


 院長の高齢化による引退で病院を閉めたとのことだ。が、この張り紙によって分かったことがある。開院は昭和28年であるということだ。彼女は、昭和62年(1987)3月13日に亡くなっている。恐らくは救急搬送でこの病院に下北沢から運び込まれたものだろう。



P1060086
(二)
 半世紀以上当地に建っていた病院だ。様々なドラマがあったことが思われる。近くには深沢城跡がある。背尾根に位置する、屋上から富士がよく見えたに違いない。元病院の前に佇んでじっと建物を見上げた。が、そうしているうちに疑問が湧いてきた。ここに本当に彼女が運び込まれたのだろうか。「長谷川」はありふれた名前だ、他のところにある病院かもしれない。

 こういう場合、近隣の人に聞く方が一番よい。ところが夏の暑い盛りだ、あたりに全く人影はない。それでも向こうに人が見えた。家の周りを掃除している主婦だ。
「ここの病院閉めちゃったんですね?」
「ええ、そうなんですよ。院長さんが高齢になられてね…」
「調べていることがあって、あの、『カスバの女』って歌聞いたことありますか?」
「ああ、何かそんな歌はあったのは覚えています…」
「その歌をうたっていたエト邦枝さんがここで亡くなったと聞いたもので見にきたのですよ」
「その方かどうかは分かりませんが、芸能人のどなたかがお亡くなりになったことは話として聞いております…」
 当人かもしれないし、別の誰かかもしれない。が、そういう人々が運び込まれることがあったことを証明している。歌手はここで亡くなったのだろうと思った。

 エト邦枝の痕跡は下北沢一番街の八幡湯マンションに今も掛かっている看板だけだ。
帝国音楽院の跡形もない、この病院もいずれは取り壊されるのだろう。

(三)
 世田谷代田にあった帝国音楽院、様々なドラマがあったところだ。が、ここの歴史は埋もれていて分からない。
昭和6年(1931)年、この学校はバァイオリンニスト鈴木鎮一らによって設立された。スズキ・メソードとして知られている人だ。「音楽によって子供の心を豊かにし、自信をつけること」を理念としていた。スズキ・メソードの歴史は、昭和7年に、四歳だった江藤俊哉が父親に連れられてこの帝国音楽院に来たことから歴史は始まっている。後に日本における20世紀最高のヴァイオリニストとされて評価された人だ。幼い彼は世田谷中原駅に降り立って学校を訪れたときに、聳え立つ鉄塔64号を見上げたに違いない。
 
 帝国音楽院の歴史はよく分からない。しかし、第一級の教授陣が入学してきた学生を指導した。ウィキには、関係者として伊藤久男、深井史郎、下総皖一、菅原明朗、松本善三、田村虎蔵、津川主一、柳兼子、高木東六、エト邦枝をあげている。が、これは一部にすぎない。このころ日本は朝鮮半島や台湾を統治していた。ここからやってきた留学生もいたようである。

 つい最近知ったのは長野県松本市に鈴木鎮一記念館があることだ。電話をして帝国音楽学校の写真とか資料はあるかと問い合わせた。
「焼けてしまったものだから学校の資料はほとんどないですね」
 記念館の方は言われた。来週松本に行くので寄ってみようと思う。




rail777 at 20:00│Comments(1)││学術&芸術 | 都市文化

この記事へのコメント

1. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年08月21日 13:34
〔東京都公文書館のデータ〕
http://www.archives.metro.tokyo.jp/
によると…

東京都内の「帝国*音楽学校」については、3校分の記録があります。

1 大正06年認可 帝国音楽学校 牛込区所在
2 昭和02年認可 帝国音楽学校 荏原郡世田谷町所在
3 昭和14年認可 帝国高等音楽学校 世田谷区所在

いずれにしても Wiki に書かれている、昭和6年設立の「帝国音楽学校」は、記録上「存 在 し ま せ ん」ので、まず、その記述の信ぴょう性自体を疑ってかかる必要がありますし、少なくとも、そのまんま敷衍してゆくのは危険です。

なお、
1については、
 認可の記録しかなく、その後不可欠になるはずの「校長就任認可」などの記録がないので、実際に開校したかどうかは疑問です。

2については、
 昭和02年校長就任認可、03年校長事務取扱就任認可、04年と09年に学則変更認可の記録があること
 昭和05年の東京府荏原郡世田谷町全圖をみると後述の代田701に「帝国音楽学校」が記載されていること
 「音楽年鑑」楽報社/昭和03年・刊にも「所在地 府下世田谷町代田七〇一」「校長福井直秋氏…」などと具体的な紹介記事があること
から、実動していた学校であることはまず間違いありません。

3については、その認可前のはずの昭和12年発行の大日本職業別明細図にこの学校の名称が記載されていて、あるいは、事実上この名前を使っていたのを、学則をこれに合わせて改組した可能性もあります。ただ、当時は「高等」という呼び方に今ほどの「しばり」があったわけではありませんので、その程度のことなら、学則変更でも済みそうな気もしますが。

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