2016年11月28日

下北沢X物語(3167)〜戦時小田急入線幻のC58?〜

DSCN0042(一)「夏草に汽罐車の車輪来て止る」、少年の心のときめきを描いて見事だ。蒸気機関車は懐かしい、これが近代電車線を走ってきたら心躍るだろう。世田谷代田に住む人がこれが近くの小田急線に乗り入れてくると聞いて勇んで出かけたという、戦争時代に東海道線が爆撃でやられたらその補完線として小田急を使う、それで試験的に蒸気機関車が入ってくる、そういう噂があった。さてこれが本当かどうか?


 勤労感謝の日に「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」が主催する「古老に聞く」が催された。テーマは玉電と小田急だ。話者は豪徳寺生まれ、豪徳寺育ちの千葉宏さんだ。講演会の最後に自由討議の時間があった。このときに三つの質問をした。

 1、貨物列車による進駐米軍の入京?
 2、戦時中の女性による電車運転?
 3、C58機関車の小田急入線?


 1と2は、既に記述済みだ。1については『下北沢X惜別物語』を参照されたい。(世田谷区立図書館十七冊収蔵)2についても3165回で触れた。残るは3である。

「東北沢の方を見ると坂の上から黒い煙を吐いて蒸気機関車が下ってきました」
 茶沢通り踏切のところでこれを目撃した人から聞いた。が、これは小田急線開通前のことである。架線がない時は小型の蒸汽機関車で荷物を運んでいた。
 この話、飯田勝さんから聞いたものだ。念のためと思って検索で調べたら「2013年11月22日」に他界されていた。息子さんの飯田淳さんが「飯田 勝 遺作展 『まなざし』」を「GALLERY HANA SHIMOKITAZAWA」開いていた。飯田さんの踏切のイラストが掲出されている、まさにその東北沢四号踏切だ。
「踏切の番小屋はどちら側にありました?」
「海側、スズナリ側ですね」
 飯田さんから教わった。番小屋を描いた絵が掲出されている、「1987年 下北沢茶沢通り」とある。

 そういえば思い出した。自由討議の時間、参加者の一人が
「経堂駅の構内の外れには、確かね、昭和二十五六年頃まで転車台がありましたよ」と。
 あるいは、国鉄から入線してきた機関車はここで方向転換をしたのだろうか?


(二)
 小田急線にC58型機関車が入線してくる、このことは当ブログで(1709)〜戦時小田急入線幻のC58〜として取り上げている。 若林麟介さんの「小田急覚え書きメモ」である。

 戦争中のことでした。若し日本の大動脈の東海道線が不通になった場合の救済策として、陸海軍施設の多い小田急線が取り上げられ、国鉄の車両が入るか否かのテストとして、C58蒸気機関車を使って試験走行するという話を聞きました。これぞとばかりに根津山の線路脇にカメラの三脚を構えて、今の鉄道マニアにそっくり、撮影禁止の条例なんのその、その通過を待ち望んだことがあります。しかし残念ながらその目的は達成されませんでした。と云うのは、後で聞いた話ですが、直前、空襲警報が発令されたので、予定を変更し、経堂で折り返ししてしまったことでした。

 経堂にあった転車台を使ったということだ。こういう根拠があったので質問をした。すると千葉宏さん覚えがあるという。

「昭和二十年の時、私は勤労動員されて毎日小田急には乗っていました。世田谷中原のところで線路脇に工兵が沢山きて代田連絡線の工事をやっているのを見ました」
 昭和二十年五月の空襲で井の頭線の電車の多くが被害を受け、通常運行もままならなくなったところから小田急から井の頭線に電車を送るための線路が作られた。この時、船橋の鉄道連隊の兵隊が投入されている。その記憶である。

(三)
「蒸汽機関車は見ました」
「どこでですか?」
「東北沢です」
「砂利運搬線の方ですか?」
「いえ、駅構内の急行通過線です…あれは確か昭和二十年の春頃だったな。二三日留置されていましたよ」
「蒸汽機関車の形式は分かりますか?」
「いや、そこまでは覚えていません。でも大きいものでした。テンダー(炭水車)がついていましたから」
 C58なのだろうか?
「東海道方面から入ってきたらしいのですが、代々木八幡のカーブを曲がりきれないということで先へ行けなかったようです…東北沢に留置されていたのもすぐに居なくなりましたよ…」
 機関車の形式は確認できなかった。が、かなり大きなものだったという。C58か。
 乞う、続報を……(写真は千葉宏さん)


rail777 at 20:00│Comments(6)││学術&芸術 | 都市文化

この記事へのコメント

6. Posted by きむらたかし@三田用水   2017年05月13日 12:41
[小田急を走った国鉄車両〔続報〕]

「戦時中の昭和19年5月に国鉄の車両により限界測定を行い,20年5月の大空襲で東海道線大船以東が不通になった時は,中野電車区のモハ30,クハ65,クハ65,モハ30形のMTTM4両編成が入線し,新宿―藤沢間を準急運転により,東海道線の代替輸送としての役目を果たしました。

「戦後は20年8月の終戦時,神奈川県央に所在した日本軍の撤収のため,2〜3日間にわたリ一般輸送を全面的に停止して,その輸
送に当ったのですが,この時はモハ30,モハ50,クハ55,サハ25な どによるMTM3両編成が3本入線しています。」

鉄道ピクトリアル442(1985/01臨増)号「<特集>東京急行電鉄」pp.107-112「座談会:大東急の車両とともに」中、p.111
の生方発言

「限界測定」とあるので、19年にはやはり「オイラン」が入線していたようですね。
「中野電車区」のとあるので、戦時中に作られたという、新宿駅構内の渡り線を使ったのでしょう。
5. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年12月02日 00:31
[経堂の転車台]

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」「経堂」pp.60-63

「… 昔は駅ホームの北側に車両工場と資材倉庫、変電所があった。また、工場構内に転車台があったのも珍しかった。…」p.61
4. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年12月01日 13:35
[前のコメントの…]

 NHKのサイトのビデオを見ると、クヤ16(モハ52にはないダブルルーフの明かり窓が写りこんでいる)の計器だらけの車内の映像があります。
 このような虎の子まで小田急に入選したいるということは、その前に、「おいらん」こと建築限界測定車
http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2013/06/21_7.html
も入線していた可能性が高いと思います。

 かつて、亡くなった黄金井さんも指摘していた、下北沢の井の頭線の交差部の橋台のコンクリートを削った跡
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51171489.html
は、その検査の結果、限界を超えていたためかもしれません。

3. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年12月01日 01:08
[昭和23年の高速度試験]

ここ
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310121_00000&seg_number=003
のチャプター8

新幹線の礎ですね、これ。
2. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年12月01日 00:56
[クヤ16]

この
https://youtu.be/_3qQcIq9YJo
昭和23年に沼津〜三島間で行われた高速度試験で、両端のモハ52に挟まれた中間の車両がクヤ16。

モハ52の方は、戦前に阪急・阪神・京阪と速度を競った電車なので、当時としては高速度試験には最適任だったわけです。
しかし、クヤ16はなんと明治42年製の最初期の「省線電車」。他に計測器を積んだ車両が無かったのでしょうが、よく時速100キロも出せたものです。

1. Posted by きむらたかし@三田用水   2016年12月01日 00:24
「1944(昭和19)年頃から戦局は日々に劣勢となり1945(昭和20)年にかけて相次ぐ空襲に見舞われたが,幸いに小田原線は新宿駅ほか数駅が焼かれたのみで車両は貨革1両が全焼したほかは電車に若干の銃撃を受けた程度で済んだ.しかし,井の頭線永福町車庫が1945(昭和20)年5月に戦災を受け多数の電車が焼けたので急ぎ工事中の代田連絡線を完成させ,小田原線より応援車両を送った.また委託経営中の相模鉄道神中線の電化に伴いこれまた応援に赴いた.しかもこの頃,東海道線の代行(非常時の迂回ルート)として国鉄車両による試運転も行われた.すなわち1944(昭和19)年にはC58,EF10あるいはモハ40,クヤ16などが入線した.そして終戦直前から直後にかけて東海道線の振替輸送に,厚木地区の軍撤退に,あるいは輸送力増強に国電が使われた.また1947(昭和22)年には南武線に1600形を貸与し,その代替として国電が使用されたこともあった.」

鉄ピク アーカイブス セレクション1 小田急電鉄1950-60(平14)p.47に再録の
同誌No.99(1959-10)生方良雄「私鉄車両めぐり(37)小田急電鉄」より

*文中「急ぎ 工 事 中 の 代田連絡線を完成させ」の部分が、新たな謎。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔