2021年09月24日

下北沢X物語(4333)―三茶太子堂の文化探訪・下―

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(一)三茶太子堂を歩いていると歴史にぶつかる、まず太子堂八幡神社だ、由来は「源頼義・義家親子が東奥征伐の折戦勝祈願に」と言う、神社由緒は皆同じだ、「この言い草、どこでもここでも書いてありますね」と皆笑う。神様の意義づけはうさんくさい。ここでは神社由緒に「鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し」と書いてある。が、この鎌倉道は「代田に鶴ヶ丘橋ってあるでしょう、昭和初期のデベロッパーが土地を売りつけるために『鎌倉通り』としたのですよ」と代田二丁目に住んでいる山本さん。神社から北へ行くとすぐに大村能章旧居、軍歌『同期の桜』の作曲家だ。このつぎは詩人、三好達治、「陛下は事情のゆるすかぎり速やかに御退位になるがよろしい」と天皇の戦争責任を問うた。詩人のつぎは三元帥の一人畑俊六旧居だ、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓を発案した人物だ、太子堂の丘で戦陣訓の発想は生まれた。そのすぐ坂下に放浪詩人の永井叔がいた。上官に逆らって営倉入り「天皇の命に従うこと能わずダンス」を踊ったという伝説の人物だ。

畑俊六旧居を町歩きで訪れるのは今回が初めてだ。ここすぐ南には急坂がある。
「元帥の馬が容易に下りられるようにと陸軍の工兵隊が削ったのですよ」
 これはこの間、太子堂の郷土史家 中村甲さんに聞いた。

しかし、いわゆる戦陣訓の発案者だとは知らなかった。島崎藤村や・佐藤惣之助・土井晩翠などが校閲に当たったという。
沖縄戦で牛島軍司令官は六月十八日に自決を決意し最後の命令を伝える、この言葉の最後に参謀によって、「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と戦陣訓が付け加えられた、それで「この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることとなってしまった」、多くが言葉に縛られて自決した。

 畑俊六旧居から永井叔旧居へと行く、「畑俊六坂」を下ったすぐ左手だ。大空新聞発行所でもある。


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(二) 
大空詩人永井叔、文学散歩での案内は初めてだ。一番最初に大空詩人を知ったのは東條湯布子さんからの情報である。彼女は詩人に会って取材をしていた。太子堂の住まいも彼女に教わった。太子堂にいつから住んだのか。

・1927年(昭和2)  31歳
 世田谷区太子堂町一二三番地に陋居を借りる。(しばらく住んだ後)
世田谷区太子堂町一一六番地に転居する。
  現在の番地では太子堂5−25−13 である。

・1974年(昭和49) 78歳
 11月1日  「大空さん自叙伝」NO6 茫洋を詩う 発刊 大空の家
この年暮れに倒れる。

・1976年(昭和51年) 81歳
  死去 11月30日  東京都多摩市和田の厚生荘病院
  東京都多摩市東寺方の自宅で葬儀


基本、彼の音楽活動や著作活動は、太子堂の「大空の家」を中心にして行われた。ここが拠点だった。

 大空詩人・永井叔は職業詩人ではない、生活は托行でしのいだ。その一端を『大空詩人 自叙伝青年篇』(同成社 1970年)はこう書かれる。

 門々で、私がマンドリンやバイオリンを奏くと、正子が中へはいって行って
「ごめん下さい。一銭の御喜捨を願います。」
 と云って乞いまわる(遊芸人仲間では、これをツマミと称して仲々の大役)のであった。
 誠に耐え難い難行!しかも、雨の日も、風の夜も、時にはあらしの夜更けも!

(三)
 永井叔旧居前で説明をしていたら
「私は、永井叔のマンドリンに合わせてうたいました」
 町歩きに参加されていた田島哲夫さん。彼は仙台にいるときにやってきたという。
 
 永井叔は小学校や幼稚園、そして町角でマンドリンを弾いては唄った。

 ちいさきかごにもれる花 くらき家にもちゆかば
 清き色香へやにみち いたむ胸もいやされん


 多くの子どもに夢を与えていたことは忘れてはならないことだ。
(写真、上は太子堂永井叔旧居あたり、下は畑俊六旧居跡)

rail777 at 18:30│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

この記事へのコメント

2. Posted by きむらけん   2021年09月25日 07:13
>>1 永井叔が全国を放浪行脚していたことはある程度分かっていますが、その全貌は分かりません。仙台に来ていたことも記録の一つになりますね。彼には「名簿詩集」がありますが、これをみると北海道や九州の島々を流浪しているのですね。「島々を巡る大空詩人」、これも分かってくるとおもしろいですね、ネットをご覧になっているみなさんも覚えがございましたらここに記してください。


1. Posted by 田島哲夫   2021年09月24日 22:56
1948年仙台生まれの私が10歳位の頃だったと思います。近所の広場に15人位集まり、長いヒゲをはやして、大空詩人なんて何だか不思議な人だと思いながらマンドリンに合わせてみんなで歌ったり、話を聞いたり、詩人が警官に追いかけられている挿絵のある雑誌を見せられたりしました。
自作だという歌の一節のみ心に残っております…
「カーネーションの はなはねえ〜」採譜すると
「ミーミレドードー ラド―ラミー」となります。
家に帰って父に話したら、1920年生まれの父も子供の頃に一緒に歌ったことがあるとのこと、子供心にも驚いたことを覚えてます。
田島哲夫

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