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続・今でもしぶとく聴いてます

2020年05月

28 5月

バード 5声部のミサ曲他 ウィーン・ヴォーカル・コンソート

20z0525バード 5声のミサ曲(D. フレイザーによる合唱編)他

①地は震え
②主に向かって喜びの叫びをあげよ
③おお主よ、私はひれ伏します
④-⑨5声のミサ
⑩アレルヤ、アヴェ・マリア-エサイの若芽は
⑪若き男を起こすには
⑫おお主よ、わが神
⑬天にて喜びあれ(第1)
⑭天にて喜びあれ(第2)
⑮われを憐れみたまえ
⑯主よ、あなたの作る道を知っている
⑰主よ怒りたもうことなく

ウィーン・ヴォーカル・コンソート

(2010年 ウイーン,マリア・アム・ゲスターデ Klanglogo)

 とうとう次の日曜は聖霊降臨の大祝日を迎えます。まだコロナ禍の中にあって会堂に参集してというわけにはいきませんが、聖霊の続唱の言葉が身にしみて何らかの渇きのようなものを覚えます。続唱は16世紀のトリエント公会議で削減されたということですが、その際に存続した四つの中に “ Veni, Sancte Spiritus(聖霊よ来たりたまえ) 
があり、歌詞を見ると日本語の典礼聖歌「聖霊の続唱」にあたるのかなと分かります(細かい部分では違いがあるのかもしれませんが)。マーラーの交響曲第8番の第一部に使われるあれ、「来たれ、創造主なる聖霊 (Veni, creator spiritus)」と紛らわしいですがそっちは続唱じゃなくて賛歌でした。

 おおっぴらに集まってミサを行えないという状況には過去にも色々なケースがあったと思いますが、イングランド国教会が制定される頃のウィリアム・バード
(William Byrd, 1543年? – 1623年7月4日)もそれを経験していました。代表作の三曲のミサ(3声部、4声部、5声部)は有名で、「水晶のような」と評されたのを読んだことがあり、個人的には声部が少ない方がより魅力的かなと思いました。今回はその中から5声部のミサ曲です。ただ、「D. フレイザーによる合唱編」という注記があり、そもそも合唱で歌う想定じゃなかったのか?、出版された時はどうなっていたのかと思いました。

 混声声楽アンサンブルのウィーン・ヴォーカル・コンソートはヨーロッパでは注目されているアンサンブルらしく、次のアルバムの発表が待たれるという批評があったようでした。これまでマショー、ドイツ語による受難曲というCDを聴いてそういう評判ももっともなことだと思っていました。このアルバムはイングランドの作曲家バードの代表作として、5声部のミサとラテン語、英語歌詞のモテット等を10曲程度収録しています。モテット等の方は英語歌詞だけ、ラテン語歌詞だけを集めて演奏、録音することが多い(厳密に統計があるわけじゃないけれど)ので、三曲あるミサ曲の内5声部だけを選んだことと合わせて意外な選曲です。

 実際に聴いてみるとミサ曲だけは過去に聴いた同じ5声のミサとはちょっと違う印象で、澄み切って水晶のような響きというのとは違うもののように感じます。これは編曲の効果なのか、演奏者が狙った効果なのか分かりませんが、こっそり集まってミサという趣とは遠く、広がりを感じさせます。
1 5月

ハイドンの天地創造 ポップ、テンシュテット、LPO/1984年

20z0501bハイドン オラトリオ「天地創造」 Hob.XXI:2

クラウス・テンシュテット 指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ロンドン・フィルハーモニー合唱団

ガブリエル、エヴァ:ルチア・ポップ(S)
ウリエル:アントニー・ロルフ・ジョンソン(T)
ラファエル、アダム:ベンジャミン・ラクソン(B)

(1984年10月 ロイヤル・フェスティヴァル・ホール BBC収録 Lpo)

20z0501a 今日から五月です。メーデーの行事も無く、只今復活節の最中なのに妙な静けさ、沈黙に覆われている気がします。ところでロザリオの祈りとか、何か文語体の祈りの中でミサの前後に会衆で唱えるものもあり、かつて長崎へ旅行した際の日曜にミサにあずかった時、これで終わりかと思ったら突然一切に聞き覚えのない祈祷文の唱和が始まって面食らったことがありました。そんな風に大勢で、そこそこの人数で行うことが多いとしても一人静かにロザリオの祈りをすることもあるかと思います。自分の場合それをやろうとして試みて、一応回数だけは数えられても頭の中は雑音だらけで、全然沈黙、黙想にならないことが大半です。108を108乗する程の煩悩でいっぱいなので、「この一連をささげて」というのが何とも危ういものです。それにしても新型コロナ禍中の静かさは、何かが抜け落ちたようでもあり、薄気味悪い気がします。 

  こういうえも言われぬ日々の中、ハイドンのオラトリオ「天地創造」の冒頭部分、「光あれ」で一気に混沌から抜け出すところがまぶしいような気がします。これはロンドン・フィル自主製作のレーベルから出ていてテンシュテットのフアンにはそこそこ有名だったようです。自分としてはソプラノのルチア・ポップが出演しているから、しかもソプラノ・パートは一人で全部歌っています(天地創造にはほかに何ども出演した録音がある)。ほとんどポップが出ているというだけで注目したものです。否、テンシュテットも結構好きなので「だけで」というのは言い過ぎでした。

 この演奏の録音された時期なら既に古楽器演奏、作曲者が存命の頃の楽器、奏法等を追求するスタイルが普及していましたが、テンシュテット指揮のロンドン・フィルとなるとそうした演奏とは対極です。こういう演奏の方が冒頭の混沌、光あれ、その他コーラス部分は断然魅力的だと思います。しかし、1984年の録音の割りに音質は今一歩で、こもったような、輪郭がぼやけたように聴こえます。特にルチア・ポップの高音が鮮明で無いのが全く残念です。どうせならじっくり時間をかけたセッション録音の方がと言いたいところながら、テンシュテットの場合は特に客席に誰もいないようなスタジ録音では良い演奏にならないと言われています。無観客、ネット配信ばかりの現在、そういう話は色々考えさせられます。

 
天地創造はハイドンの声楽作品ということに重きを置くのと、旧約の創世記を題材にした非日常の世界、目に見えている世界の始まりだとかそういうことに窓を開けてくれる作品ということに重きを置くのとで感じ方も少々違うかもしれません。何度となく聴いていると前者、ハイドン的な世界の方もかなり魅力的だと思えてきて、その面ではドラティとロイヤルPOのセッション録音に最近特に親しみを覚えます。今回のテンシュテットは後者の方、壮大なものを感じさせますが、この演奏を会場で聴いていたらもう少し繊細なところが感じられたかなとも思いました。この録音から約9年後にポップは帰天しているので人間の運命は分からないものです。

 先日プロテスタントの会衆派教会の前を通ると、掲示板に三週間の礼拝は無会衆で奏楽者と牧師だけで行うと書いてあり、会衆派なのに無会衆とかそんな語呂ではなくて、説教に多くの時間が割かれる礼拝で、その場で聞く人間が居ないというのは想像し難いと思いました。それとは裏腹に、礼拝、典礼というのは何なのか、どこを向いて何を行っているのかと色々思わされます。会衆派と言えば自分が通っていた幼稚園はまさしく会衆派の教会の附属でしたが、近年言われるような自由過ぎる解釈の神学というようなものの影響はあまり無かったような気がします。もっとも五歳やそこらの幼児には分からないことですが、マリア様の御像とか聖画とかそういうものは極端に少なかったのは確かです。
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