raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

31 7月

マーラー交響曲第7番 インバル、チェコPO/2011年

200731マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

エリアフ=インバル 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(2011年2月24,25日 プラハ,ルドルフィヌム,ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton

 
まだ梅雨が明けないのかと思っていたら7月31日になってようやく近畿も梅雨明けが発表されました。夕方にJR京都駅烏丸口のYバシカメラへ寄った帰り、いつものように大手電力会社京都支店の前を通ると脱原発のアピール部隊が陣取っていました(金曜恒例らしい)。ところで福島第一原発の事故現場で蓄積する低レベル汚染水、解決方法として海洋投棄をおす声が一定以上ある(滅多に報道されないけれど)中、それでは人体への影響は無いからといって自身の住む近海とか、例えば瀬田川の洗堰から投棄しても良いかと言われると大抵は認めないことだと思います。海洋だと拡散して濃度が低下するとか条件は違うにしても、生物に全く影響が無いとは言い切れず、改ざんで隠せない程の汚染が国外で判明しやしないかと不気味な気がします。先日広島の「黒い雨」の裁判で原告・住民側が勝訴していましたが、戦後75年近く経ってようやくかとしみじみ驚きました。原爆の「黒い雨」と同じ液体をバケツに入れるから頭からかぶるか?と問われたら誰でも拒否するのと同じじゃないとしても、原発事故の低レベル汚染水もやっぱり嫌なものだと思うはずです。

インバル・チェコPO/2011年
①22分43②15分24③11分19④14分00⑤17分15 計80分41
インバル・フランクフルトRSO/1986年
①22分36②14分40③10分13④13分13⑤16分49 計77分31

 何かしら鬱陶しい気分はマーラーの交響曲第7番の冒頭が全く似つかわしい、相互に共鳴する気がしてここ何週間かでちょくちょく聴いています。第1楽章を聴いている時に終楽章を念頭に置くとあれは一体何なのかと、多かれ少なかれ妙な気分になります。そんな第7番も過去にチェコ・フィルが録音したものは、鬱陶しいとかそうしたカラーが薄かったかなと思いつつ、インバルが2011年に録音したものを聴きました。交響曲第7番が1908年9月19日にプラハで初演された際のオーケストラがチェコPOだったので、他にもプラハで初演された交響曲はあるか調べると第7番だけでした。

 第7番に限らずフランクフルトRSOとの1980年代の録音の方が、もつれた糸ならそのままの様子で提示されているような生々しいような感慨があったような気がして、この新しいチェコPOとの方は洗練されたというのか、やっぱり鬱陶しいような空気が除かれて晴天の空を思わせると思いました。少しだけブルックナー的とも思えて、同時期に東京都SOとライヴ収録しているブルックナーの演奏を思い出しました。

 1980年代のCD付属冊子に載ったインバルの肖像と2000年代のものを比べると30年近い年月の隔たりは明らか(要するに老けたなあと)です。マーラーの演奏については質的に極端に変わったかなと考えると写真の差ほどは違わないのではないかと思います。どちらも演奏会場で聴いたことはないので何とも言えませんが、コロナ禍の下で演奏会場で聴くというのはしばらくかなわないのだと噛みしめているところです(演奏者側はもっと深刻)。
15 7月

マーラー交響曲第7番 インバル、フランクフルトRSO/1986年

200715マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

エリアフ=インバル 指揮
フランクフルト放送交響楽団

(1986年5月14-17日 フランクフルト,アルテ・オーパー 録音 DENON)

 昨日の夕方、雨があがって涼しい風が吹いたと思ったら街路樹の低い位置からクマ蝉の鳴き声がきこえました。ごく短い時間で静かになったもののとうとう猛暑日、体温を上回る気温の季節がやってきたかと覚悟しました。今朝は抜け殻がいくつも地上に転がっていました。先日のクレンペラーが作曲した交響曲第2番は、CDで発売された際にはマーラーの交響曲第7番とカップリングされていました。マーラーの交響曲第7番はクレンペラーのLPを購入して聴いたのが最初だったので、この曲を思い出す時にはクレンペラーの録音が頭の中で流れ出します。

 梅雨、雨がやんだのか、また降り出すのか分からない鉛色の空の季節(災害は別として私は嫌いじゃない)には、チャイコフスキーの悲愴とマーラーの第7番のそれぞれ第1楽章は何となくぴったり来る気がします。それは聴けば気分が良くなるというのとは違い、空模様やら俗に言う鬱陶しい空気に似つかわしく感じられ、そういう意味でぴったり来ます。それでインバルとフランクフルトRSOの全集から第7番を取り出して断片的に聴いていました。スコアが透けて聴こえると評されるインバルのマーラー全集(マーラー以外でもそういう論調があった)、第7番を改めて聴いていると「夜の歌」という俗称や梅雨の鬱陶しい空気(勝手にそう思ってるだけ)だけじゃない、明解さも感じられます。明晰な断片が整頓されて流れて来るような、何も志向していないような不思議な世界が広がる心地がします。

 1980年代にマーラーのブームによって下々も何とかレコードを買って聴きたいとか思っていた頃、交響曲第7番は終楽章が変異的にそれまでの楽章と違うものを無理に移植したようだとか、否定的な解説がありました。確かに終楽章の冒頭はスーパーマンの劣化コピーが飛んできそうな感じですが、一方でマーラー作品を厳選して演奏、録音していたクレンペラーが第1、3、5、6、8番をEMIに録音していないのに、第7番を録音していたのは作品に対する価値を大いに認めてのことだと推測されます。そういう面が作品の中にあるのなら、第7番もそんなに悪く言われる程じゃない(みんなが言ってきた程悪くない)かもしれません。

 インバルとフランクフルト放送交響楽団の第7番は、終楽章がいきなり別世界という感覚はあるとしても、それほどマイナスの違和感を覚えないのはこの演奏ならではの個性なのか、いいかげん第7番に慣れた(CDとかだけじゃなくて
京響の定期でも聴けたので)からか、とにかくいい作品だと思えました。第1楽章が強烈かなと思ったほかはどの楽章もそれぞれ魅力的にきこえました。
12 7月

クレンペラー自作 交響曲第2番 ニューPO/1969年

200712aオットー=クレンペラー 交響曲 第2番

オットー=クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管

(1969年11月 ロンドン,Abbey Road Studio 録音 EMI)

200712b そろそろ街路樹にクマ蝉が出てきた朝から鳴き出す季節になりました。しかし梅雨というよりここ何年かの狂ったような降雨のおかげで宇治川もかなり増水していました。この調子なら宇治川に流れ込む川の方が危険になってきます。ハザードマップを見るとそこら中がそこそこの水深で冠水する区域になっているので、祟りのような線状降水帯に当たってしまったら安全な場所を探すのが大変なくらいです。ダムが整備されてない河川が危ないとか真偽混じって色々取沙汰されているのを見ると、そういえば鴨川の上流には高野川、加茂川ともにダムは無かったのが思い出されます。ダムが上流にある桂川でも嵐山やその下流で氾濫しているので、ダムができれば安心とも言い切れないところですが実際どうなんだろうと思います。

 さてクレンペラー忌も過ぎてブログ上の特別な期間が終わりに差し掛かっています。今回はクレンペラー本人が指揮して自作の交響曲第2番を指揮したLPとCDを聴きました。LPは同じく自作の弦楽四重奏曲第7番(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のメンバー)と合わせて一枚のレコードに収まっています。CDは1992年マーラーの交響曲第7番が初めてCD化された際にLPの二曲をあわせて二枚組のCDとして発売されました。LP、CD共になかなか良好な音質です。

交響曲 第2番
第1楽章:Allegro
第2楽章:Adagio
第3楽章:Scherzo
第4楽章:Finale


 作風はクレンペラーの指揮、演奏を聴き覚えてその言動を念頭に置いているとなるほどと思わせるものです。LPの解説にも載っていましたが第1楽章がまるでフィナーレのようで、引き裂かれた軋みか叫びのような響きで始まります。第4楽章フィナーレもオチがつくような盛り上がりはほとんど無いのがやっぱりと思わせます(そこがまた魅力的だとクレンペラー党なら思うわけで)。全体的にシベリウスの交響曲第7番を始め、第4、第5番の断片がちらつくようで、一部でシェーンベルク風の味がしてきます。クレンペラーの作品のLPやCDはまだほとんどありませんが、交響曲第1、第2番やメリー・ワルなんかは他の録音もありました。

クレンペラー・ニューPO/1969年
①5分32②09分59③5分04④4分32計25分07
フランシス・ファルツPO/2003年
①4分38②10分23③5分02④3分55計23分58

 この作品は1970年に初演されたようで、セッション録音はその直前に行われたことになります。メシアンなりブーレーズの作品を思えば最先端の様式ということにはならないはずです。クレンペラーは西ドイツ国籍を取得してチューリヒに住むようになってから同時代の作曲家のものはどんな作品を聴いていたのか、ちょっと興味深いものがありますがクレンペラーとの対話にはブーレーズやシュトックハウゼンの一定の作品は認めているようで、それ以外ではハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(Hans Werner Henze, 1926年7月1日 - 2012年10月27日)はよく聴いていたそうです。
6 7月

クレンペラー、ニューPOのブルックナー第9番のLP/1970年

200706bブルックナー 交響曲 第9番 ニ短調 WAB109

オットー=クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

(1970年2月6-7,18-21日 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)

200706a 昨夜はTV画面に早々と都知事選挙の当確速報が表示されて驚き半分、やっぱり半分でチャンネルを変えました。現職有利という原則に加え、マスクを付けてテレビに出続け(選挙の演説より有効)たのが大きかったのでしょう。都民でもない私はスルーするとして、ひとつだけ、TVでも騒いでた豊洲市場の地下水やら土壌汚染の件は結局どのように決着がついたのかと。さて、一夜明けて今年もクレンペラー(Otto Klemperer 1885年5月14日 - 1973年7月6日)
の命日がやってきました。そのうち自分の命日もやってきますが、今年もそこそこ元気でこの日を迎えることが出来、クレンペラーが残した録音を聴くことができました。
 
ロッテ・クレンペラーからパウル・デッサウへの電報、1973年7月6日~
「パパ 今日金曜日の午後六時十五分 睡眠中に安らかに逝去(ストップ) 電話で伝えようとしたけどつながらなかった(ストップ) 葬儀は火曜日の午前 心から ロッテ  」 
~ 「 オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生 エーファ・ヴァイスヴァイラー著 明石政紀 訳 」

 今回はブルックナーの交響曲第9番のEMI録音をLPレコードとタワーレコードの企画で復刻されたSACD仕様国内盤を聴きました。その解説によるとクレンペラーがブルックナーの交響曲第9番を指揮した記録(主なと書いてあるので網羅のほどは定かでない)は、EMIへの録音以外で1934年にニューヨーク・フィル、1933年にウィーン・フィル、1923年にケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が残っています。第5、7、8番に比べるとかなり演奏頻度が低いものでした。
クレンペラーがEMIへ残したブルックナー作品は交響曲第4番から第9番までの六曲でした。そのうちで第4番と7番の二曲がフィルハ-モニア管弦楽団、あとは1964年に同楽団が自主運営になり、クレンペラーが会長になるという運営形態が変わった後でした。そして交響曲第4番は1963年、第7番が1960年の録音だったので、クレンペラーのブルックナー・セッション録音は75歳になる年以降ということになります。結果的に大火傷以降なので1950年代の晩年前期・壮健期のブルックナーは放送用やライヴ音源でしか聴けないということになりました。

クレンペラー・ニューPO/1970年
①26分42②11分21③27分17 計65分21

クレンペラー・NYPO/1934年
①22分13②09分41③23分07 計55分01

 過去記事でも扱ったことがあるこの第9番、クレンペラーの持論である特定の作曲家の楽曲のスペシャリスト的な演奏スタイルは無い、例えばワーグナーは良いけれどもベートーヴェンはダメという指揮者は実はワーグナーもダメ、という
1か0か論を思い出すような、ちょっと聴いて所謂ブルックナーらしいと思わせるものではありません。レコードジャケットのデザイン、雲の切れ目が出来そうで開ききらない、何かが見えそうで見えないという光景が何となくぴったり来る印象です。ただ、久しぶりに聴いて感じたのは思ったより(記憶に残る演奏より)明晰で、ち密なものでした。もっと大柄というかやや肥大した響きという記憶があったので意外でした。ベートーヴェンの交響曲第2番のEMI録音をモノラルLPで聴いた時のような再発見をした心地がしました。

 この録音を最初に聴いたのは昭和60年前後で東芝EMIの一枚2500円のシリーズでした。クレンペラーのブルックナー録音の中で唯一第9番だけがそのシリーズに入り、他は一枚1800円の「クレンペラーの芸術」シリーズでした。そういう取り扱いから察すると第9番だけはクレンペラーのフアンじゃなくても一定の需要は見込める、或いはそこそこ定評があったということでしょう。ただ、賛辞の論調はあまり演奏の実態を反映してなかった気がして、災難にめげずに長生きした巨匠の絶唱的な、演歌調の肯定というニュアンスだったかもしれません。同じLPでも今回聴いていると、そんなぼやけた、膨らんだような響きではなくクレンペラーらしい音だと感慨を新たにしました。
5 7月

クレンペラー、PO・ハイドンの主題による変奏曲/1954年

200706ブラームス ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1954年10月 ロンドン,キングズウェイ・ホール 録音 EMI)

 今年もクレンペラー(Otto Klemperer 1885年5月14日 - 1973年7月6日)の命日がやってきます。過去30年以上を振り返ると7月の前半、祇園祭の山鉾巡行までの期間はクレンペラーのレコードを新規に手に入れる機会がけっこうありました。1987年の7月はクレンペラー・イン・トリノかロス時代のクレンペラーというLPを入手できて、山鉾巡行をしり目に帰宅してさっそく再生したのを覚えています。ちょうどラ・ヴォーチェ京都がオープン直後だったようで、京都市にもクラシックの輸入専門の店があるのかと感心して足を運んだのがぼんやりと思い出されます。ことしは巡行どころか鉾建ても無いという異例の年になりました。ということは神輿(神幸、還幸)も中止になりそうです。

 これはクレンペラーがEMIへレコード録音し出した最初期のもので、ブラームスの交響曲第4番の少し前に録音したものです。先日入手したLPではA面がヒンデミットの「気高き幻想」、B面がこの曲になっています。このレコードに限らず海外のLPは細かい録音データの記載が無い場合が多いので、今回もその後発売されたCDのデータを流用しています。クレンペラーは1952年、1953年はアメリカ合衆国の旅券法により東側のブダペストに滞在していたため、合衆国の国外渡航が制限されることになり、その問題が一応解決した時点ではシーズンの契約はどこも締結済でヨーロッパで演奏する機会が無くなりました。1954年のEMI録音はその直後というわけです。この曲のクレンペラーの他の音源はアムステルダム・コンセルトヘボウとの1957年2月7日の演奏がありました。

 国内盤LPでクレンペラーの交響曲が廉価再発売された際には漏れていたように、あまり話題になっていなかったと思いますが、改めてクレンペラーらしい、クレンペラーのブラームスらしい演奏になっています。後期ロマン派的というよりも古典的な様式美を抑制的に追及した美しさが際立ち、作品の端正な姿が前面に押し出されます。この作品は交響曲第1番より前に作曲され、管弦楽版とピアノ版があります。主題と第1から第8変奏、終曲から構成されています。冒頭部分の木管が穏やかに響き、クレンペラーのブラームス第1番の緊迫した雰囲気とは大きく異なるので最初は戸惑います。

 今回はLPの他に2015年リマスターのSACD盤も聴いていましたが、1954年よりももっと後年の演奏のような印象も受けました。主題の次に来る第1変奏から急に雄輝さを帯びてきて、それでいて力任せにならず端正さを保って演奏が続きます。今回同時にクレンペラー最晩年の録音、ブルックナー第9番も聴いていたのでその頃と比べて隅々まで行き届いた響きに感心させられました。クレンペラーは作曲を学んでいた若い頃はブラームスに傾倒し、自身の作品がブラームスの流儀でしか作れないくらいだった言うだけあって、小品と言えども圧倒的な存在感なのは流石です。
3 7月

ブルックナー交響曲第9番 上岡、新日フィル/2018年

200703ブルックナー 交響曲 第9番 ニ短調 WAB109(1894年原典稿/オーレル版)

上岡敏之 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

(2018年10月27日 東京・サントリーホール,28日 横浜みなとみらいホール ライヴ録音 Exton)

 7月に入ったのに地下街やらあちこちでスピーカーから祇園囃子が全然流れてこないと思っていたら、山鉾巡行の中止に続いて鉾建ても中止となりました。このブログではクレンペラー忌が近いのに更新頻度は上がりません。そんな7月3日はキリスト教会では「聖トマ使徒」の祝日とされてきました。十二使徒のひとり、聖トマ、トマスはヨハネ福音書の復活後の記事中で、再び弟子らの前にイエズスが現れたという話を受け入れられず、十字架刑の傷痕を確認しない限り信じないと言い張り、イエズスにいましめられ、傷痕を見せられます。そしてトマスは傷痕を見て、信じて感極まり「わたしの主、わたしの神」とこたえます。イエズスに「見ないで信じる者は幸い」と言われたことと、証拠無しに信じなかったことから「疑い深いトマス」として有名になりました。細かいところはさて置き、わたしの主というだけでなく「わたしの神」とまで言ったトマス、聖トマの感動、感激ぶりはいくら想像しても追いつき難いものだと思います。そもそも感情の表層だけでなく、もっと深いところで根源的な衝撃、根本的な屈服感と承認があったことだろうと思います。

 このような神秘的な事柄にふれる高揚、歓喜を想像すると何となくブルックナーの交響曲第9番が重なる気がします。どの部分がとなるとなかなか定まらないながら、特に第3楽章はそれまでの作品から突き抜けた高みに達したような、日常世界の感情とは別な高まりを思わせるのでぴったりくる気がします(もっとも、未完に終わった終楽章が完成されていたら案外世俗、地上の世界に思いっきり引き戻されたかもしれないとも思います)。交響曲第9番の終楽章完成が間に合わなかった場合、テ・デウムを演奏するという作曲者の案、最近になって聖トマの件の場面を思い起こしていて
なるほどと思いました。上岡敏之と新日本フィルの第9番がそんな風に特別神秘的で霊妙な息吹をたたえているわけでもなく、たまたまタイミング的にこれを聴いたということですが、SACDのステレオで聴いていると解像度の良さなのか、隅々までよくきこえてこの作品の魅力を再認識しました。

 特に印象深いのは第3楽章で、冒頭部分の弦の弾き方が独特で、ブルックナーというより世紀末、マーラーか初期のシェーンベルクを連想させられます。全体的にあっさりと、テンポの急な変化の少ないタイプの演奏なので余計にその第3楽章冒頭が目立つ気がします。第3楽章は終わった後も感慨深くて、蜃気楼が消え去ったような感じです。日本のオーケストラ、日本のホールで録音したブルックナーの第9番となると朝比奈隆の指揮が多数ありました。今回の上岡、新日POは古い版(あまり違いは無いらしい)の演奏で、合計時間は61分程度となり、朝比奈のものより短くなっています。

上岡・新日PO/2018年
①25分06②10分17③25分34 計60分57

スクロヴァチェフスキ・読日SO/2009年
①23分25②10分08③27分13 計60分46
朝比奈・大PO/2001年9月
①27分16②11分22③23分33 計62分11 
朝比奈・NSO/2000年5月
①27分22②11分11③25分49 計64分22
朝比奈・東京SO/1996年
①28分01②11分52③24分48 計64分41
朝比奈・東京都SO/1993年
①26分21②11分39③25分49 計63分49
朝比奈・東京SO/1991年3月
①25分34②11分08③22分48 計59分30
朝比奈・新日PO・東京マリア聖堂/1980年6月
①27分24②10分43③28分18 計66分25

 神秘的なところ、オルガンの響き、大聖堂、神云々といったものを志向するタイプではなさそうですが、聴いたタイミングのために妙に神々しくきこえました。ブルックナーの交響曲を絶対音楽・純粋な管弦楽作品である交響曲として厳格にとらえていた
G.ヴァントならこうした感慨はこころ良く思わなかったことでしょう。それにしても現実の生活の中で目に見えている人物に対して「わたしの神」と言う場面はデスノートの魅上照じゃあるまいし、まずあり得ないことなので、この言葉を思い出すというだけでブルックナーの第9番は尋常でない作品なのだと改めて思いました。
1 7月

ワルキューレ ヘンヒェン、ネザーランドオペラ/2005年

200701ワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環「ワルキューレ」

ハルトムート・ヘンヒェン 指揮
オランダ・フィルハーモニー管弦楽団

ジークムント:ジョン・ケイズ
フンディング:クルト・リドル
ヴォータン:アルベルト・ドーメン
ジークリンデ:シャルロッテ・マルジョーノ
ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
フリッカ:ドリス・ゾッフェル、他

(2005年9月 アムステルダム音楽劇場 録音 Etcetera)

 この三月に大津市のびわ湖ホールで上演されるはずだったニーベルングの指環四部作の四作品目「神々の黄昏」は、無観客で演奏・上演してネット配信されました。ふと思い出したのがその二日分の公演をブルーレイ・ソフトにして販売されることで、さっそくHPで確認したところ6月27日から販売となっていたので両方とも購入しました。ほとんど一発収録?、カメラやマイクの数は?等々通常なら購入躊躇のところですが、年度末にワーグナー作品とかを上演することが今後も続くことを祈念してカウンター受け取りで購入しました。今年度末のローエングリンは・・・、なかなか楽観視できない状況です。

200701a オランダのネザーランド・オペラは映像ソフトがけっこう出回っていて、指輪四部作も1990年代末の公演が日本語字幕付DVDが発売されていました。このCDは演出、舞台セット等はほぼそのままで行われていた六年後の公演をライヴ録音したものです。主要キャストは入れ替わり、音声だけのSACDということで映像ソフトの方の内容が立派だっただけに期待しましたが、音質については映像ソフトと大きく違うとまではいかない印象です。それでも
メジャーなレーベルが出した指輪のライヴ盤(名は出さないが)に比べると格段に聴き易く良好で、舞台上に響く音声、そんな広がりを感じさせるように録音したという感じは魅力がありました。風の音等の効果音は別に無くてもいいような気がしますが、ライヴ収録なら入っているほうが多いのでやむをえません。

200701b 第二幕は冒頭からジークムントの死の予告場面、最後まで音質も含めて特に魅力的でした。ジョン・ケイズのジークムントは第一幕では印象が薄いと思いましたが、第二幕の死の予告では歌詞の内容がよく伝わる気がして、その場面が引き立ちました。フリッカのゾッフェル、ブリュンヒルデのワトソン、ジークリンデのマルジョーノら女声陣が素晴らしくて、この公演も映像付きだったらと思いました。第三幕もヴォータンのドーメンがやや弱々しい声かなと思うくらいで、立派な演奏だと思いました。後半の告別あたりはかえってこういう声のほうが良いかもとも思えます。

 SACD仕様でマルチチャンネルも再生可能なので、プレイヤーとAVアンプをアナログ(7.1ch)接続とHDMI 接続の両方で視聴していると、何となく後者の方がサラウンドから出る音が大きいような気がしました。製品レビューによるとアナログ接続の方が良いような書き方だったので、もう少し音量を上げないと分からないのかとも思いました。ただ、客席の拍手や歓声がサラウンドスピーカーからきこえたところで「別に・・・」といったところです。第一幕を最初に聴いた時はアナログ入力経由で聴いて微妙な音質だと思い、第二、三幕のHDMI経由の音質は各chともよくきこえてなかなかだと思いましたが、単に接続だけじゃなく再生モード、設定が切り替わっていたかもしれません。
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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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