春の種まき神楽

神楽舞
「種蒔」は、神の化身である翁が「三方」に盛った「米」を持ち、舞いながら相方の狐と一緒に米を四方に蒔き散らし、五穀豊穣を祈願する神楽である。             

「種蒔」 玉前神社春例大祭の神楽舞(2011年4月13日撮影)
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紀元前1020年の出来事

栄華をきわめた殷帝国が滅亡したとき森も衰退していた。再び繰り返す、同じ轍、同じ過ちをしてきたのも人の歴史である。栄枯盛衰は過去のものとしてやがて夢幻泡影にきえる。
いつの頃から始まったか、いまだ判らない人の歴史。遥か昔より人は自然界の驚異的力に翻弄されていた。その隠されたパワーは天空の太陽、月そして星にあると考え占星術を作り出した。

それでも干ばつ飢饉は襲ってくる。そして生きのびるために生贄を神に捧げ雨を乞う呪儀が行われた。それは残酷凄惨な殺生ではなく神聖なる精神性の舞台である。そうすることによって多くの人々が救われると信じて疑わない。 
いま、物理科学の成熟期である現代において生贄儀式を必要としない。古代より信じられてきた呪術の儀式は人々を救うという使命を果たさなかった。中世より近代に続く物理科学の発展が、そのことを証明した。しかし呪術の儀式はオカルト思想と相待って時代の残滓としてのこっている。勿論、合法範囲の儀式であるはずだ。


「音」~神様のお告げ 
「音楽」の「楽」は柄(え)のある手鈴(てすず)であることを前回、説明しました。

舞楽(ぶがく)の際、巫女(みこ)がこれをふって神を楽しませたのが「楽」です。
ならば「音楽」の「音」はどんな字でしょうか。
今回はそのことを紹介(しょうかい)しましょう。
でも「音」の字の前に「言」の説明をしたいと思います。
まず「言」と「音」の古代文字を見てください。非常によく似ていますね。そのことを知ってから、以下のことを読んでください。
 
この「言」は神様への祈(いの)りの祝詞(のりと)を入れる器「口」(サイ)の上に、入れ墨(ずみ)用の針「辛(しん)」を置いて、もし自分の言葉に偽(いつわ)りがあれば入れ墨の刑(けい)を受けることを神に誓(ちか)い祈る言葉を意味します。
古代文字の「口」(サイ)の上にある部分が、「辛」(針)の部分です。
その祈りに神様が反応して、答えます。神様の答えはどんな形でくるかというと、夜、静かな時間に器「口」(サイ)の中でかすかな音を立てるのです。
その神の答えの音が「口」の中にある横線の「一」です。それが「音」という字です。
古代文字のほうがよくわかるかもしれませんが、「言」の「口」(サイ)の部分に「一」を加えた字が「音」なのです。
 つまり「音」とは神様のお告げのことです。この「音」の字形をふくむ字に「闇(やみ)」があります。
この「門」の字形は神棚(かみだな)の両開きの扉(とびら)のこと。そこに神様への祈りの祝詞を入れる器「口」(サイ)を置き、その上に誓いの針「辛」を置いて、祈ると神が夜にかすかな音で答えるのです。
その時は夜で、暗闇の中で神様の意思は示されました。それを表す字が「闇」で、その時間は暗いので「やみ」「くらい」の意味となりました。
「暗」にも「音」の字形がありますが、これはもともとは「闇」と同じ字でした。本来は神のあらわれる「闇」を表す字が、明暗の対比などを言う字に使われ出して「日」を加えた「暗」の字ができたのです。 
                          
(引用 共同通信編集委員 小山鉄郎)漢字物語  



上総国 玉前神社の由来
http://idobatakaigicom.ldblog.jp/archives/1065429394.html









クレタ島 遠景

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 (♪ ミノタウロス)














グレングールドの弾く「バッハ」

キースジャレットのバッハ
風が吹く桶屋、なんか知らない 
風が吹くと桶屋が職業を変えてビットコイン投機ファンドに走った、まそんなところだ~。

(なんのことやらーさっぱりね、という苦情がきた)

(コレ、言い尽くせていないので、さらに検討して続きを明日書くことにした。誰も期待はしないだろうがねえ~???)


言い尽くせていない、舌足らず、消化不良などという言葉は、よほど自分の鬱積かなんかが溜まっていて、それが理解されない場合に、そんな言葉が出る。

手っ取り早くいったら欲求不満のことなんだろう。そう透視してみると、この世の中、その症状で困っている人が沢山いるようだ。自分の内側で留めておけばいいが、それが他に向けて発信されると犯罪になるケースが多い。

そんなことで社会性とか集団的秩序とか、一定のルール「法律」を必要とするのが人間集団なんだろう。

テレビでタマに見るアマゾン川上に飛ぶ「蚊」の大群をみると考えるが、これが人間のセル状態だったら、たちまちストレスを誘発し殺人が頻発するんじゃないかと心配する。その他の種類の大規模集団動物の「群れ」を見る度に、かれらの従順性に感嘆してしまう。

その動物と人間の違いはなんだろう。それを生命生存遺伝子レベルを研究したら、ノーベル賞もので、さらに社会学に転化できる研究学として世の役に立つと思うが、どうなんだろうか。

グレン・グールド

グレン・ハーバート・グールド(1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。
1932年9月25日、トロントに生まれる。旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。
プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。
母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。
母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロントの王立音楽院(英語版)に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。
1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロントの王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。その後、1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。

ゴルトベルク変奏曲の衝撃

1955年1月2日、ワシントンで公演してアメリカでの初演奏を行い、ワシントン・ポスト誌に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と高い評価が掲載された。
続く1月11日のニューヨークでの公演で、米国CBSのディレクター(d.オッペンハイマー)がグールドの演奏に惚れ込み、翌日終身録音契約が結ばれた。
グールドは、プロデューサーなどの反対を押し切り、デビュー盤としてバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。

同作は、ハロルド・C・ショーンバーグのような大御所批評家からも絶賛され、ヴォーグ誌やザ・ニューヨーカー誌といった高級誌もグールドを賞賛した。

その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍時の人となった。1957年には、ソビエト連邦及びヨーロッパへの演奏旅行に赴く。

第2次大戦以降、ソ連へ初めて演奏旅行に赴いた北米の音楽家となったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びた。その演奏により、当時鉄のカーテンの向こう側と言われていたソ連と東欧諸国でもセンセーションを起こした。
グールドは、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。その衝撃・影響力・演奏の素晴らしさは、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチら当時の最高峰の音楽家達によっても証言されている。
その後、ヨーロッパでは、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レオポルド・ストコフスキーらとも共演。

1959年には、ザルツブルク音楽祭にも出演した。北米と異なり伝統的で保守的な風潮のあるこれらの国々でも大絶賛を受けたグールドは、世界的なピアニストとしての地位を確立した。
1960年、スタインウェイ社の技術者により肩に傷害を受けたとして、同社を告訴する。その後、スタインウェイ社は賠償金を支払った。

バッハの偉大な演奏者
 
グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主であった。
デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいていた。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができる。
グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。

グールドのデビュー当時、バッハの作品は禁欲的な音楽であると考えられていた。ヴィルトゥオーソ的な派手なパフォーマンスは求められず、エトヴィン・フィッシャーに代表される、精神性の高さを重視したピアノ演奏が支持されていた。また、19世紀末から始まったチェンバロ復興運動の流れから、その鍵盤曲はチェンバロによって演奏するのが正統であるとの考えが広まりつつあった。
こういった事情により、ピアノに華やかさを求める演奏者・聴衆はバッハを避ける傾向にあったが、グールドは、デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」の録音において、旧来のバッハ演奏とは異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、ピアノの豊かな音色と個性的な奏法により実現した。発表当時の評価は大きく分かれたが、その後、ピアニストに限らず多くの音楽家に与えたインパクトは甚大であった。

その後も、様々なバッハの鍵盤作品について大胆な再解釈を行い、バッハ演奏について多くの業績と録音を残した。こうして、グールドは、リヒテルが「バッハの最も偉大な演奏者」と評したように、バッハ弾きの大家としての名声を不動のものとしていった。

バッハの演奏解釈が最初驚きをもって迎えられつつも、高い評価とともに後の演奏家に絶大な影響を及ぼすようになったのに対して、現在においても評価が分かれているのが、グールドの古典派作品の演奏である。

モーツァルトについて、「(夭折したのではなくて、むしろ)死ぬのが遅すぎたのだ」とまで述べたグールドは、苦痛な作業と言いながらもソナタ全曲録音を行っている。
その極端に速い、または、遅いテンポ設定や分散和音の多用、逆アルペジオなどの独創的解釈は、毀誉褒貶(きよほうへん)に晒されることとなり、クラウスは、「あれだけの才能を持っているのだから普通に弾けばよいのに」ともらしたと伝えられている。

ベートーヴェンについて、その楽曲ごとに賛否両論を唱えたグールドは、若年より、多くの録音を残している。ベートーヴェンについても、グールドの極端なテンポ設定などの異端な解釈が賛否を呼んでいる。

ハイドンについては、長きに渡って演奏や録音の頻度が少なかったグールドであったが、その最晩年になって、「ロココ時代への偏見の例外」としてハイドンへの興味を示し、後期の6つのソナタを当時の新技術であったデジタル録音にふさわしい題材に選んで録音している。

ロマン派への好悪
 
多くのピアニストが敬愛するショパンやリストに対して否定的であり、録音も少ないことから、一般的にグールドにはロマン派嫌いのイメージがある。 しかし、グールド自身は、ロマン派の作曲家ごとにはっきりと好悪をつけ、自身が好む作曲家の作品を積極的に録音している。さらに、「どうしようもなく自分はロマン派だ」とまで言い切るグールドは、逆説のロマンティストのような言われ方をされるときもある。

いわゆる前期ロマン派に関してはピアノ音楽を除くメンデルスゾーンとブラームス以外は極端に否定的な見解を何度となく述べている。これを反映してブラームスの録音はある程度残されているが、それ以外の前期ロマン派の作曲家については正規録音としてはジュリアード弦楽四重奏団とのシューマンのピアノ四重奏曲Op.47のみである。
(資料ウイキペディア)




(♪夜明けの単語)

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フランドル派.2

フランドル派(技法と素材)
『キリストの埋葬 (en:The Entombment (Bouts))』(1440年 - 1455年頃)、ディルク・ボウツ。
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵。
厳粛な雰囲気で描かれたこの作品には、悲しみや苦悩に満ちた人物像が感情豊かに表現されている。また、15世紀にグルーサイズで描かれた、現存する希少な作品でもある。
15世紀の北方絵画に自然主義、写実主義を導入し、様式の手法として確立したのは、初期フランドル派第一世代に分類されるロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンで、自然界そのままの表現を絵画作品に取り入れることに大きく貢献した。人物像はより本物らしく表現され、それまでの絵画作品には見られない豊かな感情を持つ人間として描き出された。第一世代の初期フランドル派の画家たちは、パノフスキーが「金色は金色そのままに」描いたと表現したように、作品のモチーフだけではなく、太陽の光が帯のように降りそそぐさまや、その反射のような自然現象をも絵画として正確に再現することに注力した。初期フランドル派の画家たちは、それまでの絵画作品で用いられていた平凡な遠近法や、単に輪郭線だけで三次元的形状を表すような手法は採用せず、絵画をはじめて観る者がどれだけその作品と一体感が持てるかを重要視した。ヤン・ファン・エイクは、その作品『アルノルフィーニ夫妻像』で、この絵画を観る者に、あたかも自分が絵画に描かれている二人の人物と同じ部屋に入りこんだかのような錯覚を持たせることに成功している。初期フランドル派の画家たちが革新した高度な絵画技法が、人物、風景、インテリアなどのモチーフを鮮明かつ精緻な表現で描きだすことを可能にしたのである。
IMG_8681絵具の固着剤として油脂を使用してきた歴史は12世紀までさかのぼることができるが、その取扱いや技法に一大変革をもたらしたのが初期フランドル派の画家たちだった。1430年代までは卵テンペラが絵画制作の主流だった。鶏卵を絵具の固着材として使用したテンペラは華やかで明るい色彩を得ることができるが、乾燥が比較的速いために質感や深い陰を自然に表現する目的にはあまり向いていない。テンペラに比べると、油彩はよりなめらかで透明感のある画肌を表現でき、さらに筆使いによって極細の線から太い線までを描き分けることができる。乾燥が遅いことを利用して絵具が乾く前に様々な加筆が可能で、画家にとって時間をかけてより精緻な表現ができる絵具であり、絵具が乾燥する前にさらに絵具を重ねて混ぜ合わせるウェット・オン・ウェット (en:Wet-on-wet)などの技法を可能とした。重ね塗りされた絵具の乾燥した上層をそぎ落とすことによって下の絵具の層(レイヤ)を表出し、より滑らかな色彩や明暗の階調を表現するなどの絵画技法も、油絵具の導入とともに発展していったものである。油彩画は通常絵筆で描かれるが、細い棒や、柔らかな印象を与えるために画家自身の指も使用されることがあり、さらに指や掌は画肌の上に塗布されるグレイズ (en:Glaze (painting technique)) が絵画作品本体に与える影響を低下させる目的でも使われている。油彩では反射する光の明暗の度合いを描き分けることができ[55]、透明なガラス越しの光がもたらす効果すらも絵画に再現することが可能となった初期フランドル派の画家たちは、自在に光を表現できる油彩技法によってより緻密で写実的に物の質感を描き出すことに成功した。ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンの作品にみられる、宝飾品に降りそそぐ陽光、木製の床、質感豊かな織物、家庭用品などがその好例と言える。
初期フランドル派の絵画作品は、安価だったキャンバスではなく木の板(パネル)を支持体として描いた板絵のほうが多い。支持体に使用されたパネルは、主にバルト海沿岸諸国から輸入されたオーク材が多かった。パネルが歪みやねじれを起こさないように、通常は半径方向に切り出された後に(柾目)、完全に乾燥させてから使用された。年輪年代学を用いたオーク材の調査が、当時の各画家たちがどこで活動していたのかを判定する研究の一助となっている。板絵に使用されるパネルの制作には非常に高い熟練技術が必要とされており、美術史家ローン・キャンベルは当時の板絵に使用されているパネルについて「優れた工作技術で、素晴らしい工芸品といえる。板と板との繋ぎ目をみつけることすら非常に難しいほどだ」としている。支持体に使用されているパネルの両端には歪み防止処理がなされていた。
現存している初期フランドル派絵画作品の額装は、18世紀から19世紀初頭になってから後付けされたり、塗り直しや金箔処理がなされたものも多い。これは当時の初期フランドル派絵画が、例えば多翼祭壇画であればパネルごとに分割されて売買されたことに起因する。また、祭壇画は表裏両面に絵画が描かれているか、裏面に依頼主の家紋や紋章、あるいは表面の主題を補完するような簡略図が描かれている作品が多い。中には表面と裏面で全く関係がないものが描かれていることもあり、これは後世になってから別人によって描きたされたものか、あるいはキャンベルが主張するように「画家の気まぐれ」によるものだと言われている。
植物性油脂の代替として動物性タンパク質を固着材として使用した絵具で布に描く、グルーサイズ (en:Glue-size) と呼ばれる手法で制作された作品もあった。グルーサイズで描かれた絵画は非常に多かったが、現存している作品はほとんどない。これは支持体として使用された布(麻布が多い)がタンパク質の影響で腐食してしまったことと、固着材に使用されたタンパク質自体が経年変化によって溶解してしまったことによる[58]。このグルーサイズで描かれた、溶解による損傷があるとはいえ、まだ保存状態が比較的良好でよく知られている作品に、クエンティン・マセイスが1415年から1425年ごろに描いた『聖母子と聖バルバラ、聖カテリナ』と、ディルク・ボウツが1440年から1455年ごろに描いた『キリストの埋葬』(en:The Entombment (Bouts)) がある。

ギルドと工房

『キリスト磔刑と最後の審判』(1430年 - 1440年頃)、ヤン・ファン・エイク。
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵。
右パネルに描かれた「最後の審判」には作風が大きく異なった箇所が多い。これは未完だった「最後の審判」をヤン・ファン・エイクの死後に工房の弟子が仕上げたためではないかといわれている。
15世紀のヨーロッパでは、注文主が芸術家に作品制作を依頼するときには、その芸術家が主宰する工房を訪れるのが普通だった。芸術家が活動できる場所(都市)は当地の芸術家ギルドによって厳格に定められており、限られた人数の芸術家のみが独り立ちした画家(マスター)として認められていた。芸術家として生計を立てるには、ギルドに加盟することが義務付けられていたのである。当時のギルドは芸術家の芸術活動を庇護するとともに、制作、品質、売買、画材の供給などに制限を加えていた。これらの規則は、板絵画家、布地画家、書籍装飾画家など、画家のジャンルによっても細かく分かれていた。たとえば装飾写本のミニアチュール作家には、油絵具の使用禁止など、他のジャンルの画家よりも厳格な規則が定められていた。概してギルドでもっとも優遇されていたのは板絵画家で、その次が布地画家だった。
ギルドの会員権は極めて制限されたもので、新参者が取得することは困難だった。マスターとして認められるには徒弟として一定の修業を積んでおり、尚且つ活動したい都市に生まれたか、あるいはその都市の市民権を購入することを求められた。徒弟の修業期間は通常四年から五年で、修行を終了するときには自身が優れた芸術家であることを証明する「傑作」を制作し、さらに加入する芸術家ギルドに対して相当額の入会金を支払う必要があった。ギルドの会員には高い品格や技術が求められていたにとどまらず、このような金銭的な面においてギルドへの新規入会は富裕層出身者に有利なものだったと言える。他職種のギルドから作品制作依頼が舞い込むこともあった。もっとも有名な例としてファン・デル・ウェイデンの『十字架降架』があげられる。この作品の依頼主がルーヴェンの弓射手ギルドであったことから、弓射手が使用するクロスボウを模った「T字」でキリストの姿形が描かれている。
工房は芸術家の自宅に併設され、徒弟を内弟子として住み込ませることが多かった。当時の画家は売れ筋のデザインや線画を描きこんだパネルを事前に準備していることが普通だった。大規模な工房の場合、その経営者、責任者たる画家は絵画作品の重要な部分、たとえば肖像画であれば顔、指、複雑に刺繍された衣服など、高い技術が要求される個所のみを担当することが多かった。作品の重要ではない箇所は工房の未熟な徒弟や助手が仕上げることとなった結果、画家本人が直接手がけた箇所と弟子や助手が手がけた箇所とで作風が明確に異なっている作品も少なくない。ヤン・ファン・エイクの『キリスト磔刑と最後の審判』が、このような作風の違いがもっともよく知られる作品となっている。ヤン・ファン・エイクのように経済的にまったく問題がない画家であれば、過去に商業的に成功した作品の複製画を工房に制作させることだけでも生活は成り立ち、画家自身はまったく新しい作風、構成の絵画作品の追求に専念することもできた。大規模な工房を中心とした絵画制作の場合、画家は下絵や略図を描くだけで以降の制作工程はすべて工房の弟子たちによる作業となることも珍しくなかった。結果として、構成は一流だが仕上げが二流以下という絵画も現存しており、それらは画家個人の作品ではなく「画家○○の工房の作品」とされるか、後世の画家による模写という扱いになっている作品も多い。

パトロン

『受胎告知』(1434年 - 1436年)、ヤン・ファン・エイク。
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)所蔵。
この作品は、もともとは三連祭壇画の左翼パネルだったと考えられている。背後に描かれている建物の建築にはロマネスクとゴシック両方の様式が見られる。建物と比べて聖母マリアが非常に大きく描かれ、マリアの天界での地位を象徴している。
1400年代のブルゴーニュ公国周辺の北ヨーロッパでは商人や銀行家が力を持っていた。15世紀初頭から半ばにかけて国際貿易が盛んになったことによって国内の経済も大きく潤うこととなり、贅沢な美術品に対する需要も高まっていった。当時の北ヨーロッパで活動する芸術家たちの諸外国のパトロンとなったのは、バルト海沿岸のドイツやポーランド、イベリア半島諸国、イタリア、そしてイングランドとスコットランドの有力な一族たちだった。15世紀初頭の芸術家たちは公開市場に出向いて自身の作品を売却するとともに、作品制作に必要な額、パネル、顔料などを購入していた。その後、15世紀半ばごろから美術品の売買を専門とする画商が台頭し、美術品市場を大きく左右する力を持つようになっていった。 小規模な絵画作品が注文によって制作されることはあまりなかった。そのような作品は画家が独自に描き、既成の作品として定期的に開催される公開即売会で売却されるか[76]、画商が画家の工房を訪れて既成の絵画の中から気に入った作品を買い付けて、需要がありそうな大都市で売却された。何千点も制作された既成作品の主たる顧客は、公務員、聖職者、ギルド会員、医師、商人などの中流階級層だった。中流階級の室内装飾にはグルーサイズで制作された比較的安価な絵画が使用されることが多かったが、板に描かれた高価な宗教画を室内に飾ることは強い憧憬の対象でもあった。商人階級層は自身の信仰に応じた祈祷用の小さな板絵を注文することが多かった。既存の作品に対して様々な修正依頼がかけられ、注文主の肖像画が描きいれられることもあった。もっとも多くみられるのは、既存の作品に注文主の紋章を描き足しただけのものである。ファン・デル・ウェイデンの『聖母を描く聖ルカ』は、描かれた紋章が異なる数点のバージョンが現存している。

『フィリップ善良王に「エノー年代記」を献呈するジャン・ウォークラン』(1447年 - 1448年)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
ベルギー王立図書館所蔵。
『エノー年代記』の挿絵として描かれたミニアチュール。
歴代のブルゴーニュ公は自身の趣味趣向のためには金を惜しまなかった。フィリップ3世も、大叔父にあたるベリー公ジャン1世らと同じく、芸術を強く庇護して多くの美術品を制作させた。当時のブルゴーニュ宮廷は芸術の発信地として諸国に大きな影響力を持っており、高価な装飾写本、金で縁取りされたタペストリー、真珠やルビーで装飾されたグラスなどの豪華な贅沢品が好まれていた。このようなブルゴーニュ公宮の贅沢な美術品への嗜好は一般市民の間にも広まっていくこととなった。1440年代から1450年代にかけてのブルッヘやヘントでは、一般市民からの依頼で多くの美術品が制作されている。ネーデルラントの画家たちが描いた板絵は、制作過程で希少な素材や高価な貴金属が使用されていないにも関わらず非常な高額で取引されていた。これは絵画作品それ自体が西洋美術における最高峰だと高く評価されていたためである。1425年の記録に「高い技術で優れた作品を制作する」画家を雇い入れたというフィリップ3世の言葉が残されている。ヤン・ファン・エイクはフィリップ3世に仕えていた時期に『受胎告知』を描き、ファン・デル・ウェイデンは1440年代にフィリップ3世の肖像画家に選ばれた。
ブルゴーニュ宮廷には多くの宮廷人、役人が仕えており、その中には自らの富や権力を誇示する目的で画家に作品制作を依頼する者もいた[80]。諸都市の議会などの公的団体も同様の目的で著名な画家たちに作品制作を依頼している。政体からの依頼で描かれた作品として、ボウツの『皇帝オットー3世の裁き』やファン・デル・ウェイデンの『トラヤヌス帝の裁き (en:The Justice of Trajan and Herkinbald)』、ダフィトの『カンビュセス王の裁き』などがある[81]。公的団体からの絵画制作依頼はさほど多くなく、収入面でも画家にとって実入りの多いものではなかったが、市庁舎などに人目に触れる場所に飾られたために、描いた画家の名声を高めることに貢献した。たとえば、メムリンクがブルッヘの聖ヨハネ病院の依頼で描いた『聖ヨハネの祭壇画 (en:St John Altarpiece (Memling))』は、メムリンクに多くの絵画制作依頼をもたらしている[82]。
諸国のパトロンの存在と国際貿易の発展が、ネーデルラントの画家たちに工房を経営し、徒弟や助手を雇い入れることが可能な金銭的余裕を与えた。第一級の画家だったペトルス・クリストゥスやハンス・メムリンクのパトロンは工房を経営していた都市の有力者だけだったが、その名声はブルッヘ在住の諸外国人のなかでも鳴り響いていた[65]。さらに、華麗で豪奢なブルゴーニュ公宮に対抗しようと、その作品だけでなくブルッヘで活動している画家自身を王宮に迎え入れようとする諸外国の王侯貴族も少なくなかった[83]。たとえばウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは1473年ごろにヨース・ファン・ワッセンホフを、300点にのぼる絵画コレクションを所蔵していたカスティーリャ女王イサベル1世はミケル・シトウとフアン・デ・フランデスをそれぞれ自らの宮廷に迎え入れている。
寓意と象徴[編集]

『ドレスデンの祭壇画』(1437年)、ヤン・ファン・エイク。
15世紀の北ヨーロッパでは聖母マリアが広く信仰されていた。建物に比べて非常に大きく描かれているマリアは、俗世と懸絶している存在であることを意味している。
最初期の初期フランドル派の絵画作品は、こめられたキリスト教的寓意や象徴、聖書からの引用技法がその特徴であると言われることが多い[85]。このような技法を最初に取り入れたのはヤン・ファン・エイクであり、この革新的技法を受け継いで発展させたのがファン・デル・ウェイデン、メムリンク、クリストゥスらだった。これらの画家たちは、当時の信仰や宗教的理想を高いレベルで絵画に取り入れるために、複雑な寓意や象徴を作品に多数描きいれた。このような概念のもとに制作された作品は静穏な印象を与え、自制と禁欲への敬意が表現されている。俗世間の事象よりも信仰心などの精神世界が強調されているのである。当時の北ヨーロッパでは聖母マリア信仰が最盛期を迎えており、絵画作品に描かれた寓意や象徴物もマリアの事績に関連するものが極めて多い。
美術史家クレイグ・ハービソンは、初期フランドル派の絵画作品にみられる写実主義と象徴主義の混交が、おそらく「初期フランドル芸術のもっとも重要な特質」だとしている。第一世代の初期フランドル派の画家たちは、宗教的象徴を作品にいかに自然に描き入れるかに注力していた。ヤン・ファン・エイクは多種多様な寓意や象徴を導入した画家で、精神世界と物質世界の共存を絵画に描き出そうとしたとも言われている。ただし、その寓意や象徴を表す事物は背景の細部に小さく控えめに表現されていることが多い。第一世代の画家たちの作品にさりげなく配された寓意や象徴物は画面に溶け込み、「天界からの言葉を告げようと細心の注意を払って描かれている」。なかでもヤン・ファン・エイクの宗教画には「現世の事物に姿を変えた天界の住人が常に描かれている」と言われている。ハービソンは、ヤン・ファン・エイクが絵画作品と寓意の調和を日々追及していた画家であり「現実世界の事象ではなく宗教的世界の真実を描こうとした」としている。その作品にみられる俗界と天界の混交は、ヤン・ファン・エイクが信仰するキリスト教義をもとにした「世俗と聖性の融合、実在と象徴の結合」を絵画世界に表現しようとしたことを意味している。ヤン・ファン・エイクは『受胎告知』や『ドレスデンの祭壇画』などの作品で、聖母マリアを不自然なまでに大きな姿形で描いた。これは天界と俗界の乖離を表したものである。教会、居間、裁判所など俗世の場所に姿を見せた天界の住人たるマリアが隔絶した存在であることを意味している。
ヤン・ファン・エイクが描いた俗世の教会は、天界の寓意と象徴で美々しく飾り立てられている。マリアが坐する天界の玉座は、例えば『ルッカの聖母』では明らかに俗世の座椅子に姿を変えて描かれている。また『宰相ロランの聖母』のように、描かれてる情景が俗世なのか天界なのか判別し難い作品もある。ヤン・ファン・エイクが作品に込めた寓意と象徴は膨大かつ複雑を極めたものであり、分かりやすい寓意を意味していると思われるモチーフが、全く別の意味合いをも内包していることも珍しくないとされる。このようなモチーフが絵画作品全体に繊細に織り込まれているために、その意味合いを理解するには何度も慎重に作品を精査する必要がある。美術史家ジョン・ウォードは、ヤン・ファン・エイクが用いた寓意と象徴の多くが「原罪からの救済と死からの救済、そして再生」を表現したものだとしている。
ヤン・ファン・エイクの絵画作品は、同時代のみならず後世の画家たちにもきわめて大きな影響を与えたが、それらの画家が作品に採用した寓意や象徴はヤン・ファン・エイクに比べると平凡なものが多い。ロベルト・カンピンは天界と俗界を明確に描き分けた画家で、ヤン・ファン・エイクとは異なり寓意や象徴を隠匿して描くことはなかった。カンピンが表現した寓意や象徴は俗世の事物に仮託されてはおらず、キリスト教的な意味合いが一目で分かるものだった。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた寓意や象徴はカンピンに比べると精緻なものだったが、ヤン・ファン・エイクには及ばない。ハービソンは、ファン・デル・ウェイデンが慎重かつ精妙に表現した寓意や象徴について「(天界と現世の)神秘的な融合も迫真性もその作品には見られない。(ファン・デル・エイデンが描いた寓意や象徴は)理論的に検証、説明、再構成が可能なものだ」と指摘している。ファン・デル・ウェイデンの描いた建築物、例えば壁龕は理解できないような空間、色彩で表現されており、「そこに描かれた唐突かつ不自然に描かれている事物や人物が、キリスト教的意味合いをもつものだということが分かる」

『カンブレーの聖母』(1340年頃)、作者未詳
カンブレー大聖堂(カンブレー)
ビザンチン様式で描かれた聖母子像。オリジナルは画家の守護聖人である聖ルカが描いたと信じられており、数多く模写された複製画の一枚[95]。

『悲しみの人』(1485年 - 1495年頃)、ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス
聖カタリナ女子修道院博物館(ユトレヒト)
『イザヤ書』53章に記された人類の原罪を背負って処刑されたキリストは「悲しみの人 (en:Man of Sorrows)」と呼ばれ、宗教画の伝統的主題として数多く描かれている。なかでも本作はその複雑な構成が「肉体的な苦痛を見せながらも昂然としている」と高く評価されている絵画作品などの優れた美術品は当時の信仰における暮らしの一助になっていた。祈祷や瞑想は救済につながるとされ、富める者は教会の建設や増改築に対する寄進、宗教美術品の制作依頼、あるいは死後の救済を意図する宗教的な品々に金銭を費やした。この時期に描かれた宗教画では、聖母マリアと幼児キリストを描いた「聖母子像」が非常に多かった。人気のある作品は幾度となく複製されて諸国へと輸出されている。これら聖母子像の源流となっているのは、12世紀から13世紀に描かれたビザンチン美術の聖母子像で、なかでも『カンブレーの聖母』がもっとも有名な作品と言える。これら数世紀以前からの伝統的な聖母子像をすべて吸収し、華麗かつ複雑な様式に昇華して新たな伝統を創りあげたのが初期フランドル派の画家たちだった。
聖母マリア信仰は13世紀ごろから盛んとなり、とくに「無原罪の御宿り」と「聖母の被昇天」の教義が信仰の中心となっていた。聖人にちなむ聖遺物が俗世と天界を結びつけるものとして崇敬の対象となっていたが、マリアに関する聖遺物は残されていない。このことが逆説的にマリアに神と人の橋渡しという特異な地位を与えることとなった。1400年代初頭までにマリアはキリスト教義の中でも重要な存在となり、神と人の仲裁者という役割を持つ存在だと広く信じられていた。死後に行きつく辺獄で過ごさねばならない期間は、生前に信仰心を発揮した期間に比例するとも思われていた[101]。聖母マリア信仰が最盛期を迎えたのは15世紀初めで、マリアを表現した作品が熱狂的に支持された時代だった。一方で15世紀半ば以降のキリストを描いた絵画では、『イザヤ書』53章に記された、人類の原罪を背負って処刑された「悲しみの人 (en:Man of Sorrows)」として描かれることが多くなっていった。
制作依頼主が聖人と共に描かれたドナー・ポートレイトと呼ばれる作品分野 (en:donor portrait) が存在する。依頼主の肖像は三連祭壇画の一翼に描かれることが多かったが、時代が下ると手頃なディプティクに描かれることが主流となっていった。北ヨーロッパで伝統的に描き続けられていた、半身の聖母マリア像を諸外国まで広めたのはファン・デル・ウェイデンである。ビザンチン様式を昇華したこのマリア像はイタリアでも受け入れられた。ファン・デル・ウェイデンが革新したマリア像は北ヨーロッパ中で普遍的なものとなり、マリアを主題としたディプティクの発展に大きな役割を果たしている。
美術作品

『ブルゴーニュ公シャルルの肖像画』(1460年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
絵画館(ベルリン)
もっとも有名な初期フランドル派の作品は精緻な板絵だが、初期フランドル派の芸術家たちは他にも装飾写本、彫刻、タペストリー、祭壇後陣の彫刻飾り (en:retable)、ステンドグラス、青銅細工、霊廟彫刻など様々な形式の美術品を制作している。美術史家スージー・ナッシュは、北ヨーロッパでは16世紀初頭になるころにはあらゆる大きさの美術工芸品が制作されており「高い専門的知識と技能を誇り、他国に真似のできない優れた作品を生み出していた」としている。ブルゴーニュ宮廷ではタペストリーと金細工が好まれており、それらが詳細に記録された資料も多く現存しているが、板絵に関する記録はほとんど残されていない。これは、諸国に設置された離宮や他国の宮廷を廻ることが多かったブルゴーニュ宮廷にとって、板絵が不向きだったという可能性もある。壁にかけられたタペストリーや豪奢な細工が施された装飾写本は富や権力を示威する政治的プロパガンダとしての役割も担っていたが、歴代の君主を描いた肖像画にはそのような機能はあまり期待されていなかった。美術史家のメリアン・エインズワースはこのような肖像画、例えばファン・デル・ウェイデンの『ブルゴーニュ公シャルルの肖像画』や、ヤン・ファン・エイクのブルゴーニュ公妃『イサベラの肖像画 (en:Portrait of Isabella of Portugal (van Eyck))』(模写のみ現存)などは、一族の歴代継承者を明らかにする目的で制作を依頼されたのではないかと考えている。

『宰相ロランの聖母』(1435年頃)、ヤン・ファン・エイク。
ルーヴル美術館(パリ)所蔵。風景画発展の先駆とされる作品。
キリスト教を主題とした宗教画は、王侯貴族、教会、病院、修道院、富裕な聖職者や市井の有力者などからの依頼によって制作された。また、富裕な自治体も自らの公的建築物を飾る目的で絵画制作を依頼している。初期フランドル派の芸術家は複数の分野で活動した人物が多い。ヤン・ファン・エイクとペトルス・クリストゥスは、装飾写本の制作にも携わっていたと言われている。ファン・デル・ウェイデンもタペストリーのデザインを手掛けていたが、現存している作品は極めて少ない。初期フランドル派の画家たちは制作技法だけではなく、様々な革新を絵画表現にもたらした。ディプティクの様式の発展、ドナー・ポートレイトの決まりごと、聖母マリア像の新たな伝統的表現などである。さらに1430年代に描かれたヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』とファン・デル・ウェイデンの『聖母を描く聖ルカ』などは、風景画が独立した絵画分野として発展する切っ掛けとなった作品だと言われている。
装飾写本

ブルゴーニュ公フィリップ3世とポルトガル王女イザベルの婚礼のミニアチュールが描かれた装飾写本。作者未詳で1450年頃の作品だと言われている。オーストリア国立図書館所蔵。
1400年代以前には、板絵よりも装飾写本が優れた美術品だとされており、その華麗で豪奢な作品は所有者の財産、地位、そして芸術的審美眼を誇示するものだった。装飾写本は、外交儀礼の贈答品、王侯貴族の結婚記念などの主要な国家的行事にも使用された[109]。装飾写本は、修道院を中心として伝統的に制作されていたが、12世紀ごろにからは修道院の施設から発展した専門の工房で制作されるようになる。そして装飾写本の内容も、時祷書や祈祷書のような宗教関連だけではなく、歴史書、小説、詩集や、現在では自己修養書に含まれるような道徳本など多岐に渡るようになっていった。15世紀初頭の北ヨーロッパの市場では、パリで生産されたゴシック様式の流れをくむ装飾写本が主流だった。パリで生産された装飾写本は、挿絵のミニアチュールが一葉だけ付属した比較的廉価な時祷書で、好きなページにこのミニアチュールを挟んで楽しむことができた。一方で「購入可能な限り多くのミニアチュールが描かれた」装飾写本に対する富裕層からの需要もとだえることなく存在していた。ミニアチュールはページに挟んで使用されるよりも、壁に飾って私的な瞑想や祈祷の用途で使われることが多く、クリストゥスが1450年から1460年ごろに描き、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している『若い男性の肖像』の背景には、キリストの頭部のミニアチュールが描かれた聖ヴェロニカに関する一葉が配されている。15世紀半ば以降、ヘント、ブルッヘ、ユトレヒトの芸術家たちがフランスのミニアチュール作家を凌駕していく。かつては高品質な装飾写本の生産地だったイングランドも大きく衰退し、北ヨーロッパにはイタリアで制作されたごくわずかな装飾写本が輸入されただけだった。フランスの画家たちも当初は自らの地位を守ろうと必死だったが、1463年に所属するギルドにネーデルラントの画家たちに何らかの制裁措置をとるように求めるまでになっていった。
リンブルク三兄弟が制作した華麗な『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は、ネーデルラントの装飾写本の始まりにして、一つの頂点を極めた作品と言われる。後に聖ルチアの画家 (en:Master of the Legend of Saint Lucy) と呼ばれる未詳の画家が、この装飾写本をもとにした錯視と写実が混交した様式の作品を描いている。リンブルク三兄弟とそのパトロンだったベリー公ジャンは、ヤン・ファン・エイクが画家として活動し始めたばかりの1416年に、おそらくペストで相次いで死去している。このとき三兄弟は誰も30歳にもなっていなかった。美術史上重要な装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には複数の画家によるミニチュールが描かれている。どの画家も未詳となっているが、「画家 G」と呼称されている画家はヤン・ファン・エイクではないかと言われている。また、この時期以降に描かれたミニアチュールの中にヘラルト・ダフィトの作品と強い類似性があるものが多く存在しているが、これらのミニアチュールがダフィト本人の作品なのか、あるいはダフィトの模倣者の作品なのかははっきりしていない。

リンブルク三兄弟が装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の153葉目に描いた「キリストの死」。
ネーデルラントの装飾写本が評判となったのには様々な要因がある。最大の要因として、この地方には12世紀以来有力な大聖堂、修道院、教会が数多く建てられていたことが挙げられる。装飾写本の生産は修道院が中心で、ネーデルラントでも多くの優れた典礼書が制作され続けていた。そして、14世紀のネーデルラントの芸術家たちはこの伝統と技法を受け継ぎ、さらに発展させることに成功したのである。さらに当時大きな影響力を持った有力なパトロン、例えばベリー公ジャンや、その生涯で1,000点以上の装飾写本を収集したブルゴーニュ公フィリップ3世の存在という政治的な要因もあった。トマス・クラインはフィリップ3世の書庫を「キリスト教君主であることを如実に示し、自身の政治力、権力、知識、信仰心を具現化したものである」と評している。フィリップ3世の庇護により、ネーデルラントの装飾写本はその後数世代にわたってヨーロッパで支配的な地位を占めた。ブルゴーニュ公家の装飾写本への庇護はフィリップ3世の死後も受け継がれた。フィリップ3世の三男でブルゴーニュ公を継いだシャルルとその公妃マルグリット、曾孫のブルゴーニュ女公マリーと夫の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世である。さらにはマルグリットの兄でシャルルの義弟にあたるイングランド王エドワード4世も、ネーデルラントの装飾写本の熱心な収集家だった。ベルギー王立図書館はフィリップ3世、大英図書館の王室装飾写本コレクション (en:Royal manuscripts, British Library) はエドワード4世が残した蔵書を中心として設立されたものである[116]。

装飾写本『Livre du cœur d'Amour épris』にバーテルミー・デックが1450年 - 1460年頃に描いたミニアチュール。
ネーデルラントの装飾写本作家にとって輸出市場も重要な位置を占めていた。多くの作品がイングランドを中心とした諸国に輸出されている。装飾写本の庇護者だったブルゴーニュ公シャルルが1477年のナンシーの戦いで戦死したことにより、ネーデルラントでの装飾写本の需要も減衰していったために輸出市場の重要性は増していった。装飾写本作家たちは注文主である諸国の貴顕の好みに応じて、さらに豪華で贅沢な作品を制作した。このような装飾写本を好んだ王侯貴族に、イングランド王エドワード4世、スコットランド王ジェームズ4世、ポルトガル王妃レオノール・デ・ヴィゼウらがいる。
板絵とミニアチュール双方の分野で活動した画家もいた。ヤン・ファン・エイク、ファン・デル・ウェイデン、クリストゥスらは装飾写本のデザインを手掛けている。また、板絵の構成やモチーフをもとにしてミニアチュールが描かれることもあり、カンピンの作品は『ラウール・ダイイの時祷書』など複数のミニアチュールに使用されている。装飾写本の制作に複数の芸術家がその弟子たちとともに参画することもよくあった。ページの縁飾りなどは専門技能を身につけた芸術家が担当し、女流芸術家が仕上げをすることも珍しいことではなかった。装飾写本には作家の署名がなされていないために、誰が制作したのかを特定することは困難である。当時のもっとも重要なミニアチュール作家だと見なされている芸術家の名前も現代に伝わっていない。
ネーデルラントの芸術家たちの装飾写本は、他諸国で制作される作品よりもさらに深化し、独創性あふれるものとなっていった。縁飾りの精緻なデザインやスケール感と空間描写は他に類を見ないものであり、縁飾り、ミニアチュール、テキストという装飾写本の三要素が織りなす相互作用を追求していった。ブルゴーニュ女公マリーが1467年から1480年ごろに「ブルゴーニュ女公マリーのウィーンの画家」と呼ばれる未詳の芸術家に制作させた『ナッソウの時祷書 (en:Hours of Mary of Burgundy)』の縁飾りには、幻想的な植物と昆虫が装飾されている。大胆な筆致で描き出されたこれらの装飾は、箔押しされたミニアチュールの画肌に散らばっていくかのような効果を醸し出している。この技法はネーデルラントの他の画家たちにも継承され、例えばヘラルト・ホーレンバウトではないかともいわれる、優れた作品構成で知られる「スコットランド王ジェームズ4世の画家」と呼称されている画家が自身の作品に取り入れている。「スコットランド王ジェームズ4世の画家」は、様々な幻想的モチーフを描きこむことによってミニアチュールと縁飾りの境界を曖昧にする技法を多用しており、場面の物語性をより高める効果を生んでいる。15世紀から16世紀にかけてネーデルラントで制作された装飾写本の完本から裁断され、散逸したミニアチュールや断片の収集が、大英博物館の版画・素描部門の責任者も務めたウィリアム・ヤング・オトリーといった高い鑑識眼を持つ人々の間で19世紀に流行した。そしてこの流行が装飾写本の更なる裁断、散逸という結果につながってしまった。19世紀の終わりには装飾写本の完本が探し求められたことにより、初期フランドル派の芸術作品が再評価されるようになっていった。
タペストリー

『ユニコーンの狩り (en:The Hunt of the Unicorn)』(1495年 - 1505年)。
クロイスターズ(ニューヨーク)所蔵。
『ユニコーンの狩り』は7枚構成のタペストリーで、この画像は「貴婦人と一角獣」と呼ばれる部分。
15世紀半ばのヨーロッパでは、タペストリーが最も高価で価値がある美術品の一つだと見なされていた。1400年代初頭からタペストリーの主要な生産地はネーデルラントとフランス北部で、とくにアラス、ブルッヘ、トゥルネーが有名だった。ネーデルラントのタペストリー職人がいかに優れた技術を有していたかの証明といえるのが、ローマ教皇ユリウス2世がラファエロに描かせた下絵を1517年にブリュッセルに送ってタペストリーを制作させたことである。
(ウイキペディア)

リンク
http://idobatakaigicom.ldblog.jp/archives/1064858357.html









 

「二・二六事件」掛け軸保存

「二・二六事件」風化させぬ 掛け軸保存、三浦市の海南神社
2017/2/25 18:08 カナロコ
IMG_8681 「二・二六事件」でクーデターを試みた下士官らに投降を呼び掛けた「兵に告ぐ」の関連資料が、三浦市三崎の海南神社で所蔵されている。26日で事件発生から81年。人々の記憶が薄れゆく中、同神社は「軍国化が進む契機となった事件を風化させたくない。若い人にも知ってほしい」と資料を公開したい考えだ。

 二・二六事件は1936年2月26日、陸軍・皇道派の青年将校が起こしたクーデター未遂事件。下士官らを率いて首相官邸などを襲撃し、永田町一帯を占拠したが、29日に鎮圧された。

 「兵に告ぐ」は、戒厳司令部が29日にビラとラジオ放送で、反乱部隊に投降を促した内容。ラジオでは「勅命は発せられた」「抵抗したなら、逆賊とならなければならない」「今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰せよ」などと読み上げられた。

 資料はラジオ放送された「兵に告ぐ」の文言を記した掛け軸で、同神社の宮司米田光郷さん(73)が20年ほど前に購入。「兵に告ぐ」の起草に中心的役割を果たした陸軍省新聞班員で同司令部の大久保弘一少佐が記したものと思われるという。

 収蔵庫で長らく箱に入れたままだったが、昨年整理した際に再び目にし、「風化させたくない」との思いを強めたという。

 「『兵に告ぐ』がなかったら反乱は続いたかもしれない。(起草者の)自筆と思われ、後世に残すべき資料」と米田さん。「要望があれば公共施設などで公開したい」と話している。問い合わせは、同神社電話046(881)3038。
(記事引用)




 

「北極星2型」の発射

「北極星2型」の発射はICBM発射の前触れか!
 辺真一  | ジャーナリスト・コリア・レポート編集長
北朝鮮が日曜の早朝にミサイルを発射した。朝起きたら、北朝鮮からミサイルが発射されていたといういつものパターンだ。

ミサイル発射の兆候はあった。金正恩委員長が新年辞で「大陸間弾道ロケット(ミサイル)の発射が最終段階に入った」と言明し、予告していたからだ。

(参考資料:北のICBMを迎撃する?しない?できない?)
B-2_Spirit_original
しかし、今回発射されたのは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)ではなかった。高度が550キロキロメートルで、飛距離が500キロメートルあったことから韓国は当初は「ノドン」の改良型と発表した。ところが、しばらくすると「ムスダン」の改良型と軌道修正した。ところが、北朝鮮は今朝になって金正恩委員長立会いの下、昨年開発に成功させた潜水艦弾道ミサイル(SLBM)を地上型に改良した中長距離弾道ミサイルの発射実験を行ったとして、このミサイルを「北極星2型」と公表した。

改良型であれ、なんであれ、米本土に届くICBMでなければ、標的にされていた米国にとっては一安心かもしれないが、過去、3年間の北朝鮮のミサイル発射のデーターに基づけば、北朝鮮のミサイル発射実験は一発で終わったためしがない。

北朝鮮は2014年には2月21日に射程190キロメートルの短距離ミサイル「KN-09」4発を発射したのをゴーサインに約一週間後の2月27日には射程距離200km以上の弾道ミサイル4発、3月3日にも弾道ミサイル2発を発射している。2発とも500キロ以上飛行したことから韓国軍情報当局は「スカッドC」と推定していた。翌3月26日にも北方の平安南道・粛川付近から日本海に向けて中距離弾道ミサイル「ノドン」2発を発射していた。

また、6月に入ってもミサイルの発射実験は続き、26日に「KN-09」を3発発射した後、3日後の29日に射程500キロメートルの「スカッドC」を2発発射していた。さらに7月に入っても止めることなく、9日と13日に射程500キロメートルの「スカッドC」をそれぞれ2発発射し、朝鮮戦争休戦協定日の27日にも同じ射程のスカッドを1発発射していた。

一昨年の2015年は2月6日からミサイルの発射が開始され、3月2日に弾道ミサイル「スカッドC」2発、そして5月9日には潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の水中発射実験を成功させている。SLBM発射成功を北朝鮮の国防委員会は「軍事力強化で最絶頂を迎えた一大壮挙」と自画自賛していた。

昨年2016年は2月7日に人工衛星と称して長距離弾道ミサイル「テポドン」を3年2か月ぶりに発射したのをはじめ3月10日に「スカッドC」を2発、3月18日に「ノドン」を2発発射している。また4月から「ムスダン」の発射実験に取り組み6月22日、6度目の実験で成功させている。

北朝鮮は昨年1年間だけで弾道ミサイルを20数発発射しているが、このうち「ノドン」は4回にわたって計9発、同じく中距離弾道ミサイル「ムスダン」も合計で8発も発射していた。

(参考資料:ICBM発射はイラクへの武力行使に繋がった7度目の国連制裁決議を招く)

ジョンズ・ホプキンス大学のジョセフ・バミューズ米韓研究所研究員は北朝鮮専門ウエブサイト「38North」に日本海に面した元山のカルマ空港に関する現場の衛星写真を分析した結果として「ICBM発射の兆候がある」との記事を載せていた。

しかし、今回のミサイルの発射場は元山のカルマ飛行場付近ではなく、中国寄りの平安北道の亀城市のパンヒョン飛行場付近からであったと韓国は発表している。

仮にデモンストレーションしていたICBMが元山のカルマ飛行場近くの格納庫に納られているならば、再び持ち出して発射する可能性が高い。今回の亀城市のパンヒョン飛行場付近でのSLBMの発射成功は、元山のカルマ飛行場からのICBM発射の前座と言えなくもない。

(記事引用)



 
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