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父小池勇二郎氏サウジアラビアで石油業
浜渦氏・鴻池氏も仕えた 小池百合子氏の父・勇二郎氏の人物像
2017年3/13(月) 7:00提供:NEWSポストセブン
百合子氏の父、勇二郎氏はどんな人物だったのか?
e331fb92-78ea-4228-a6d6-82bd4a14a014 国政と都政で国民の注目を浴びる3人──。豊洲市場移転の土地取得交渉にあたった浜渦武生・元東京都副知事。国有地払い下げ問題に絡む「森友学園」問題で、理事長夫妻の陳情を受けていた鴻池祥肇(よしただ)・元防災相。そして7月の都知事選で日本の政治の常識を一変させるかもしれない小池百合子・都知事。

 この3人がある人物を通じて結びつくことを知ると、奇しき因縁を感じざるを得ない。小池氏の亡父・勇二郎氏のことである。

 小池都知事が高校生の頃、兵庫県芦屋の小池邸には、父の勇二郎氏の書生として“百合子嬢”より5つ年上の関西大学の学生が住み込んでいた。後に東京都副知事となる浜渦武生氏である。小池邸の離れで「よく木刀を振っていた」という証言もある。

 やはりその時代、小池邸に出入りしたのが、後に防災相、内閣官房副長官などを歴任する鴻池氏だった。こちらは1回り(12歳)違いだから、“百合子嬢”の目には“鴻池のおじさん”くらいに映っていたのだろう。

 無論、それから40余年後に政界の中心で交わりを持つことになろうとは、若き日の3人も想像しなかったはずだ──。

 百合子氏の父、勇二郎氏とはどんな人物なのか。戦時中、スメラ塾という右翼結社に参加していた勇二郎氏は「第三世界」「民族独立運動」など超国家主義思想に傾斜し、戦後、神戸で貿易商を営んでエジプト、サウジ、クウェートなどアラブ諸国を何度も訪問して各国の大臣クラスに太い人脈を築き、石油の買い付けにも成功する。当時のアラブ世界では名が通った日本人だった。

 三島由紀夫に傾倒し、「楯の会」の若手や右翼学生の面倒も見た。

〈大正十一年に神戸で生まれた父は、戦争中海軍に身を置いた。終戦後は、ペニシリンで一儲けした後、重油を関西電力に卸す商売やガソリンスタンド経営など石油がらみの仕事をベースに、三十代で関西経済同友会の幹事を務めるなど派手に立ち回ったようだ〉(小池百合子「オヤジ」/文藝春秋2008年6月号)

 大言壮語を絵に描いたような人物だったらしい。交友があった右派の政治団体幹部がその人となりを振り返る。

「小池勇二郎さんねぇ……。自称・元海軍将校で戦争中にアジア解放の使命を軍部に命じられ、戦後になっても一部政治家、元高級軍人らからの密命を帯びて世界中を飛び回っていたと。喋ってることのすべてがそんな調子だから、どこまで本当なのかは分からない。

 で、大風呂敷の合間に『この事業に投資しないか』みたいな話が出てくる。娘の百合子さんをカイロ大学で学ばせたのも、彼に言わせると、『自分が新たな大東亜共栄圏建設のために、世界中を歩いた結果のコネクション』なんだとか。まァ、話半分に聞いてましたよ」

 一呼吸置いて「ただ」と続けた。

「金儲けのために政治運動家を自称していたような人ではない。真剣に政治のことを考えていた人だったと思う。唐突に電話をかけてきては、『いま私が総理大臣だったらこうします』なんて言い出すんです。それがあまりに真剣すぎるから、こちらが困ってしまうほどでしたがね」

◆父の選挙を手伝った鴻池氏と浜渦氏

 政治好きだった勇二郎氏は、青年作家の石原慎太郎氏が1968年の参院選全国区に出馬すると、石原氏の政治団体「日本の新しい世代の会」の関西地区の選挙責任者となり、過去最高の301万票で当選させた。

 そして翌1969年の総選挙に勇二郎氏は自ら旧兵庫2区から出馬する。当時47歳。娘の百合子氏が17歳の時だ。だが、自民党の公認は得られず、「新しい世代の会」を看板に無所属での立候補だった。同じ総選挙で隣の旧兵庫1区から初当選した石井一・元民主党副代表が語る。

「本人は石原慎太郎との関係があるから選挙は大丈夫と楽観視していたが、私から見ても泡沫候補でした」

 この勇二郎氏の「最初で最後の選挙」を手伝ったのが、鴻池氏と浜渦氏だった。しかし政治好きというだけでは選挙には勝てない。落選が濃厚になると、泥舟から逃げ出すように事務所からは1人去り、2人去りと淋しくなる。浜渦氏はこう振り返っている。

〈選挙戦の最終日、勇二郎さんと鴻池さんと私の3人だけになった。3人で尼崎のガード下で焼き肉を食ったのを今も忘れられません〉(週刊朝日2016年10月28日号)

 結果は7000票しか取れずに落選。娘の百合子氏は、〈町の有権者相手に、アルジェリア情勢などを滔々と語る演説では勝てるはずもなかった〉(前出・文藝春秋)と書いている。

 その後、百合子氏はカイロに留学、帰国して数年後に勇二郎氏の事業が傾き、芦屋の家を失う。それでも勇二郎氏はカイロに渡って日本料理店『なにわ』をオープンさせ、20年以上カイロに住んでアラブ人脈を温め、日本に帰国後、2013年に90歳で亡くなった。

※週刊ポスト2017年3月24・31日号
(記事引用)




スー・チー氏の落胆

焦点:ノーベル平和賞の受賞者、世界の「失望」招く理由
ロイターオスロ 27日 ロイター] -
祝福してくれた支持者の多くを落胆に導いたノーベル平和賞受賞者の長いリストに、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問が新たにその名を連ねた。恐らく彼女が最後ではないだろうという点が、10月6日にも発表される今年の同賞受賞者に向けた苦い教訓だ。

スー・チー氏に対しては、同じくノーベル平和賞受賞者である南アフリカのデズモンド・ツツ元大主教を含め、国際的に多くの批判が寄せられている。

国連がミャンマーのラカイン州で発生していると主張する大量虐殺、レイプ、集落放火を阻止するために十分な行動に欠けているためだ。こうした暴力によって、42万人を超えるムスリム系少数民族ロヒンギャ難民が隣国バングラデシュに逃げ込んでいる。
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ノルウェー・ノーベル委員会が1991年、スー・チー氏に平和賞を授与し、彼女の「民主主義と人権を求める非暴力の戦い」を讃えた当時と比べると、大きな変化だ。とはいえ、一度与えられた賞が取り消されることはない。

「受賞者が批判を受けるという事態は過去に何度も起きている」と語るのは、1990年から2014年までノルウェー・ノーベル委員会の事務局長を務めたゲイル・ルンデスタッド教授だ。

一部の受賞者がその理念にそぐわなくなったとしても、賞はいつまでも有効だ、とルンデスタッド元事務局長は言う。「アウン・サン・スー・チー氏は、ビルマとアジアの多くの地域における人権にとって、非常に重要な代弁者だった。その事実を彼女から奪うことはできない」

ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルによって創設されたが、彼の資産の一部は武器の製造や販売によって築かれたものだ。900万スウェーデン・クローナ(1億2400万円)の賞金が与えられるノーベル平和賞は10月6日に発表され、単数もしくは複数の個人・団体に与えられる。

だが、これまで平和賞受賞者の多くが戦争を開始したり、それをエスカレートさせたりした例が相次いでいる。

1978年、当時のイスラエル首相だったメナヘム・ベギン氏は、キャンプデービッド和平合意を評価され、エジプトのサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞したが、その4年後の1982年、レバノン侵攻を命じた。サダト大統領は1981年にイスラム主義の軍将校により暗殺された。

1994年には当時のパレスチナのアラファト議長は、オスロ合意を評価され、イスラエルのラビン首相、ペレス外相とともに1994年の平和賞を受賞したが、この合意はアラブ・イスラエル間の紛争に関する永続的な解決をもたらさなかった。

ラビン氏は1995年に極右ナショナリストに暗殺され、その8カ月後にペレス氏も選挙に敗れて政権を失ってしまう。アラファト氏はその後、イスラエルによる占領に対する暴力的な蜂起である第2次インティファーダの期間中、パレスチナ自治政府を率いていた。

旧ソ連の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏は、冷戦を平和的に終結させたことに対して1990年に平和賞を受けているが、1991年にはバルト諸国の独立を阻止するために戦車部隊を派遣している。ただし彼はその後、バルト諸国の独立を認めた。

1973年には、当時のキッシンジャー米国務長官は、結局は失敗に終わったベトナム戦争終結への取り組みを理由に、北ベトナムのレ・ドゥク・ト氏とともに平和賞を与えられた。米国政府が和平協定に違反していると批判したト氏は、史上初めて、平和賞を辞退した。ベトナム戦争は1975年、北ベトナム軍によるサイゴン陥落で終結した。

2009年に当時のオバマ米大統領が就任数カ月で平和賞を受賞した際には、オバマ氏自身も驚いたと語っていた。オバマ氏がその年の暮れ、授賞式のためにオスロを訪れたときには、すでにアフガニスタンの米軍駐留部隊を3倍に増強する命令を下していた。

「皆さんの寛大な決定が相当な議論を呼び起こしたことに私が気づいていないとすれば、私は怠慢だということになるだろう」とオバマ氏は授賞式でのスピーチで語っている。「遠隔の地で戦うために何千人もの米国の若者を派遣している責任が私にはある。殺す者もいるだろうし、殺される者もいるだろう。だから私は、武力紛争による犠牲を痛切に感じつつ、このオスロを訪れている」

<あまりに高い代償>

スー・チー氏を厳しく批判している1人が、ツツ氏だ。「親愛なる妹」と呼ぶスー・チー氏に宛てた9月7日付けの書簡で、同氏は「ミャンマーにおける最高権力者に登りつめたことの政治的な代償が、あなたの沈黙だとすれば、その代償はあまりにも大きい」と記した。

9月19日、スー・チー氏はラカイン州における人権侵害を非難し、違反者は処罰されると述べた。このメッセージの語調は西側諸国の外交・援助当局者から歓迎されたが、国際的な批判をかわせるだけの十分な行動が伴っているのかを疑う声もある。

ストックホルム国際平和研究所のダン・スミス所長は、この1991年のノーベル平和賞がロヒンギャ族に害をもたらしている可能性さえあると話している。

「彼女にはある種のオーラがある」と同所長はスー・チー氏について語った。国際社会での輝かしい名声が、ロヒンギャに対する多年にわたる迫害の「真のおぞましさを隠蔽しているのではないか」と言う。

「ロヒンギャ問題に関する質問に対して、彼女が『どうして他の問題ではなく、その問題にだけ関心を注ぐのか』と答えると、人々はつい、好意的に解釈してしまう」

スー・チー氏は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏と同様、政治犯から国家指導者へと登りつめた、めったにない成功者である。マンデラ氏は5年にわたって南アフリカ初の黒人大統領を務めた後、その名声にほぼ傷を負わないまま引退した。だが、アパルトヘイト時代の解放運動における彼の同志たちのなかには、公職にあるあいだにスキャンダルに直面した者もいる。

「(名声が損なわれるのは)恐らく、人権と一般市民の擁護者という大胆で英雄的なイメージから離れ、妥協に満ちた、もっと汚い政治の世界に入っていく際の避けがたい動きなのだろう」と所長は言う。

<聖人と罪人>

聖人でさえ批判を免れない。1979年のノーベル平和賞を受賞した修道女のマザー・テレサは昨年、ローマ法王フランシスコによってカトリックの「聖人」の列に加えられた。だが1994年には、彼女の運営するコルカタのホスピスが、死期の近い患者の診察をせず、強力な鎮痛剤も与えていないとして、英国の医学専門誌「ランセット」に批判されている。

2012年に欧州連合(EU)に平和賞を与えるという決定も、当時から批判を浴びている。当時、EU本部は加盟国ギリシャに対して苛酷な財政支援条件を課していたが、多くのエコノミストは、こうした条件がギリシャ国民の生活を破壊したと指摘。またツツ氏らを中心に、EUは軍事力を行使する組織であるとの批判もあった。

ノーベル平和賞の歴史を研究するAsle Sveen氏によれば、受賞者に対する失望リスクの原因は、ノーベル委員会が候補者を選ぶときの基準が、彼らがもたらしている希望や近年の業績であって、キャリア全体を見ているわけではないからだと指摘する。

「誰かを推すことは常にリスクが伴う。政治に関わることになるからだ」とSveen氏は語った。「将来何が起きるか知ることはできない」

「だからこそノーベル平和賞は、他のあらゆる平和賞とは別物なのだ」と彼は言う。「さもなければ、非常に高齢の人にたいして、彼らが亡くなる直前に賞を贈ることになるだろう」

今年有力視されている受賞候補は、2015年のイラン核開発合意の関係者がいる。イランのザリフ外相、EUのフェデリカ・モゲリーニ外交安全保障上級代表、米国のケリー元国務長官などだ。

イランが国際的な制裁の解除と引き換えに核開発プログラムを自粛した合意は、イランと米国双方の政界の強硬派から批判されてきた。トランプ米大統領は、今月の国連における演説で、イラン核開発合意を「米国にとって頭痛の種」として、米国政府が合意を破棄する可能性を示唆している。

ノーベル平和賞に詳しい専門家らによれば、この合意は対立勢力間の画期的なものであり、ノーベル委員会はそうした合意を評価する傾向があるという。

「(国連憲章)第7章の対象国について平和的な解決に至ったのは、この合意が初めてだ」。オスロ国際平和研究所のヘンリック・アーダル所長はそう述べ、イランの核開発プログラムが、国連安全保障理事会においてもはや脅威と見なされなくなった経緯を指摘する。

「EUとイランに重点を置くことで、イラン核開発合意が幅広い支持を得ているというシグナルを米国に与えることにもなるだろう」とアーダル所長は語った。

他の候補者には、法王フランシスコ、シリアの民間防衛隊「ホワイト・ヘルメット」、国連の難民支援機関であるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とフィリッポ・グランディ国連難民高等弁務官が挙げられる。UNHCRは過去に2度の受賞歴がある。

昨年のノーベル平和賞は、コロンビアのサントス大統領に贈られた。25万人もの死者を出した半世紀にわたる内戦を終結させるための取り組みを評価したものである。

(翻訳:エァクレーレン)2017年10月04日 10:32焦点:ノーベル平和賞の受賞者、世界の「失望」招く理由

オスロ 27日 ロイター] - 祝福してくれた支持者の多くを落胆に導いたノーベル平和賞受賞者の長いリストに、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問が新たにその名を連ねた。恐らく彼女が最後ではないだろうという点が、10月6日にも発表される今年の同賞受賞者に向けた苦い教訓だ。

スー・チー氏に対しては、同じくノーベル平和賞受賞者である南アフリカのデズモンド・ツツ元大主教を含め、国際的に多くの批判が寄せられている。

国連がミャンマーのラカイン州で発生していると主張する大量虐殺、レイプ、集落放火を阻止するために十分な行動に欠けているためだ。こうした暴力によって、42万人を超えるムスリム系少数民族ロヒンギャ難民が隣国バングラデシュに逃げ込んでいる。

ノルウェー・ノーベル委員会が1991年、スー・チー氏に平和賞を授与し、彼女の「民主主義と人権を求める非暴力の戦い」を讃えた当時と比べると、大きな変化だ。とはいえ、一度与えられた賞が取り消されることはない。

「受賞者が批判を受けるという事態は過去に何度も起きている」と語るのは、1990年から2014年までノルウェー・ノーベル委員会の事務局長を務めたゲイル・ルンデスタッド教授だ。

一部の受賞者がその理念にそぐわなくなったとしても、賞はいつまでも有効だ、とルンデスタッド元事務局長は言う。「アウン・サン・スー・チー氏は、ビルマとアジアの多くの地域における人権にとって、非常に重要な代弁者だった。その事実を彼女から奪うことはできない」

ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルによって創設されたが、彼の資産の一部は武器の製造や販売によって築かれたものだ。900万スウェーデン・クローナ(1億2400万円)の賞金が与えられるノーベル平和賞は10月6日に発表され、単数もしくは複数の個人・団体に与えられる。

だが、これまで平和賞受賞者の多くが戦争を開始したり、それをエスカレートさせたりした例が相次いでいる。

1978年、当時のイスラエル首相だったメナヘム・ベギン氏は、キャンプデービッド和平合意を評価され、エジプトのサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞したが、その4年後の1982年、レバノン侵攻を命じた。サダト大統領は1981年にイスラム主義の軍将校により暗殺された。

1994年には当時のパレスチナのアラファト議長は、オスロ合意を評価され、イスラエルのラビン首相、ペレス外相とともに1994年の平和賞を受賞したが、この合意はアラブ・イスラエル間の紛争に関する永続的な解決をもたらさなかった。

ラビン氏は1995年に極右ナショナリストに暗殺され、その8カ月後にペレス氏も選挙に敗れて政権を失ってしまう。アラファト氏はその後、イスラエルによる占領に対する暴力的な蜂起である第2次インティファーダの期間中、パレスチナ自治政府を率いていた。

旧ソ連の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏は、冷戦を平和的に終結させたことに対して1990年に平和賞を受けているが、1991年にはバルト諸国の独立を阻止するために戦車部隊を派遣している。ただし彼はその後、バルト諸国の独立を認めた。

1973年には、当時のキッシンジャー米国務長官は、結局は失敗に終わったベトナム戦争終結への取り組みを理由に、北ベトナムのレ・ドゥク・ト氏とともに平和賞を与えられた。米国政府が和平協定に違反していると批判したト氏は、史上初めて、平和賞を辞退した。ベトナム戦争は1975年、北ベトナム軍によるサイゴン陥落で終結した。

2009年に当時のオバマ米大統領が就任数カ月で平和賞を受賞した際には、オバマ氏自身も驚いたと語っていた。オバマ氏がその年の暮れ、授賞式のためにオスロを訪れたときには、すでにアフガニスタンの米軍駐留部隊を3倍に増強する命令を下していた。

「皆さんの寛大な決定が相当な議論を呼び起こしたことに私が気づいていないとすれば、私は怠慢だということになるだろう」とオバマ氏は授賞式でのスピーチで語っている。「遠隔の地で戦うために何千人もの米国の若者を派遣している責任が私にはある。殺す者もいるだろうし、殺される者もいるだろう。だから私は、武力紛争による犠牲を痛切に感じつつ、このオスロを訪れている」

<あまりに高い代償>

スー・チー氏を厳しく批判している1人が、ツツ氏だ。「親愛なる妹」と呼ぶスー・チー氏に宛てた9月7日付けの書簡で、同氏は「ミャンマーにおける最高権力者に登りつめたことの政治的な代償が、あなたの沈黙だとすれば、その代償はあまりにも大きい」と記した。

9月19日、スー・チー氏はラカイン州における人権侵害を非難し、違反者は処罰されると述べた。このメッセージの語調は西側諸国の外交・援助当局者から歓迎されたが、国際的な批判をかわせるだけの十分な行動が伴っているのかを疑う声もある。

ストックホルム国際平和研究所のダン・スミス所長は、この1991年のノーベル平和賞がロヒンギャ族に害をもたらしている可能性さえあると話している。

「彼女にはある種のオーラがある」と同所長はスー・チー氏について語った。国際社会での輝かしい名声が、ロヒンギャに対する多年にわたる迫害の「真のおぞましさを隠蔽しているのではないか」と言う。

「ロヒンギャ問題に関する質問に対して、彼女が『どうして他の問題ではなく、その問題にだけ関心を注ぐのか』と答えると、人々はつい、好意的に解釈してしまう」

スー・チー氏は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏と同様、政治犯から国家指導者へと登りつめた、めったにない成功者である。マンデラ氏は5年にわたって南アフリカ初の黒人大統領を務めた後、その名声にほぼ傷を負わないまま引退した。だが、アパルトヘイト時代の解放運動における彼の同志たちのなかには、公職にあるあいだにスキャンダルに直面した者もいる。

「(名声が損なわれるのは)恐らく、人権と一般市民の擁護者という大胆で英雄的なイメージから離れ、妥協に満ちた、もっと汚い政治の世界に入っていく際の避けがたい動きなのだろう」と所長は言う。

<聖人と罪人>

聖人でさえ批判を免れない。1979年のノーベル平和賞を受賞した修道女のマザー・テレサは昨年、ローマ法王フランシスコによってカトリックの「聖人」の列に加えられた。だが1994年には、彼女の運営するコルカタのホスピスが、死期の近い患者の診察をせず、強力な鎮痛剤も与えていないとして、英国の医学専門誌「ランセット」に批判されている。

2012年に欧州連合(EU)に平和賞を与えるという決定も、当時から批判を浴びている。当時、EU本部は加盟国ギリシャに対して苛酷な財政支援条件を課していたが、多くのエコノミストは、こうした条件がギリシャ国民の生活を破壊したと指摘。またツツ氏らを中心に、EUは軍事力を行使する組織であるとの批判もあった。

ノーベル平和賞の歴史を研究するAsle Sveen氏によれば、受賞者に対する失望リスクの原因は、ノーベル委員会が候補者を選ぶときの基準が、彼らがもたらしている希望や近年の業績であって、キャリア全体を見ているわけではないからだと指摘する。

「誰かを推すことは常にリスクが伴う。政治に関わることになるからだ」とSveen氏は語った。「将来何が起きるか知ることはできない」

「だからこそノーベル平和賞は、他のあらゆる平和賞とは別物なのだ」と彼は言う。「さもなければ、非常に高齢の人にたいして、彼らが亡くなる直前に賞を贈ることになるだろう」

今年有力視されている受賞候補は、2015年のイラン核開発合意の関係者がいる。イランのザリフ外相、EUのフェデリカ・モゲリーニ外交安全保障上級代表、米国のケリー元国務長官などだ。

イランが国際的な制裁の解除と引き換えに核開発プログラムを自粛した合意は、イランと米国双方の政界の強硬派から批判されてきた。トランプ米大統領は、今月の国連における演説で、イラン核開発合意を「米国にとって頭痛の種」として、米国政府が合意を破棄する可能性を示唆している。

ノーベル平和賞に詳しい専門家らによれば、この合意は対立勢力間の画期的なものであり、ノーベル委員会はそうした合意を評価する傾向があるという。

「(国連憲章)第7章の対象国について平和的な解決に至ったのは、この合意が初めてだ」。オスロ国際平和研究所のヘンリック・アーダル所長はそう述べ、イランの核開発プログラムが、国連安全保障理事会においてもはや脅威と見なされなくなった経緯を指摘する。

「EUとイランに重点を置くことで、イラン核開発合意が幅広い支持を得ているというシグナルを米国に与えることにもなるだろう」とアーダル所長は語った。

他の候補者には、法王フランシスコ、シリアの民間防衛隊「ホワイト・ヘルメット」、国連の難民支援機関であるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とフィリッポ・グランディ国連難民高等弁務官が挙げられる。UNHCRは過去に2度の受賞歴がある。

昨年のノーベル平和賞は、コロンビアのサントス大統領に贈られた。25万人もの死者を出した半世紀にわたる内戦を終結させるための取り組みを評価したものである。

(翻訳:エァクレーレン)
(記事引用)





国産ウルシの希少性

ないものねだりの高級漆
はたして本物ウルシ100パーセントにこだわる理由は、この時代に必要なのか、とおもってしまう。
現物が日本にないのだからしょうがない。身近な話しで、町内にある神社の300年改修工事が終わった。
そこに使われた黒ウルシを全部国産?で塗ったら町内氏子から集めた寄付金は、湯水のごとくアッというまになくなってしまう。ネックはこれだ。
「文化庁が国宝や重要文化財の建造物の修復に使われる漆は、来年度から下地も含めて国産の漆を使うようにと通知」

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画像 玉前神社国内でも珍しい神殿総黒ウルシ仕上げ


国産漆増産は絵空事。江戸時代から日本は漆を輸入していた
田中淳夫 2017年09月23日 14:26 
 このところ国産漆に関する問題が表面化しつつある。
 というのも、文化庁が、国宝や重要文化財の建造物の修復に使われる漆は、来年度から下地も含めて国産の漆を使うようにと通知したからである。しかし、国産漆の生産量は、消費量の1~2%と言われており、文化財にかぎっても必要な量が確保できそうにない。

 ことの発端は、日光東照宮だったように思う。修復工事が終わって3年目にして塗られた漆が剥げだしたというのだ。ほかにも各地で建物の修復工事後わずか数年にして塗料が剥げる事例が相次いでいる。その理由として、漆塗りの部分を国産漆ではなく中国産漆を使ったから、としている。

 中国産漆は、主成分のウルシオールが国産より7%ほど含有量が少ないという。これを機に文化財の修復には国産漆、という気運が出てきた。たしか小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長の提言もあったように記憶している。

 それはともかく、私は「日本の漆は中国産漆より品質が高い」という発想に疑問がある。仮に中国産漆にウルシオールは少なめだったとしても、それで50年持つはずの漆塗りが3年で剥げるというのは怪しい。

 そもそもウルシノキは中国原産で、日本には縄文時代に持ち込まれたものだ。つまり同種なのだ。

 加えて日本が漆を中国から輸入するようになったのは、最近のことではない。江戸時代中期(元禄時代)から行っていたのだ。つまり元禄文化の華が咲いた頃から、中国産漆なくして漆工芸は成り立たなかったのだ。そして明治になると、すでに漆消費量の8割が中国産漆になった。ほか東南アジアなどからの輸入も合わせると、約9割が輸入漆である。

 その頃の漆を使った工芸品は、3年でダメになったか?

 加えて気になるのは、漆の生産方法だ。ウルシノキの樹液を漆に変えるまでの手順に両国で違いがある。

 日本は今では殺し掻きと言って、10数年育てたウルシノキを数カ月樹液を掻いたら、その後は伐採する。また木に傷をつけてしみ出てきた樹液をその都度素早く掻いて採取する。

 だが中国では養生掻きと言うが、次の年も掻く。当然翌年の樹勢は弱まり、樹液成分にも影響がある。しかも樹液を流れ出させて容器に受けるだけだ。しみ出てから採取まで時間が開くので劣化しやすい。

樹液を加工して漆に仕上げる工程にも違いがある。詳しくは記さないが、日本へ原液を輸送する過程で腐敗して劣化してしまうものが多い。混ぜ物をする話も聞いた。ひどいものは水飴を加えて増量しているというのだ……。

 実際、輸入された漆の原液を見たところ、かなり臭かった。本物の漆は爽やかなニオイがするというのに。しかも濁った灰色をしていたが、あれは本物の漆の色ではない。

 つまり、国産漆ならなんでもよいのではなく、樹液の採取方法や流通と精製法をよくしないと質のよい漆は生産できないわけだ。

 そのためには漆掻き職人の養成が急務だ。漆の質は、漆掻きの技術によって変化する。樹幹への切れ込みの入れ方が悪いと木を傷めて樹液も水ぽくなる。また漆にかぶれない体質でないと難しい。それなのに収入が低く、半年間の仕事なので常雇いにはならない。だから後継者も少ない。

 さらに漆掻き特有の道具も、今では作り手がいなくなった。とくに樹幹に傷を入れるカンナは特殊な形状をしており、それを作れる鍛冶技術の保持者は、現在全国に一人しかいないのだ。

 さて、文化庁の通達どおりにするには、年間2トン以上の国産漆が必要という。しかし2015年度の漆生産量は、1,2トンに達しない。まずウルシノキを増やさないといけない。だがウルシノキは陽光を好むので、疎林に仕立てないといけないし、風下に立つだけでかぶれると言われるから近隣の住人からあまり植林は歓迎されないだろう。また、ある程度平坦な土地でないと漆掻きはできないから、場所の確保が大変なのである。

 このように考えると、いかに「国産漆の増産」が絵空事かわかるだろう。

 本気で増やしたければ、今から年間1万本以上の植林をしなければなるまい。植えて漆掻きができるのはざっと15年後だが。漆掻き職人の待遇をよくして仕事としての地位を高める努力も必要だ。さらに道具の生産も……。その前に、中国産漆の生産方法や流通を改善してもらって品質を上げる方が有効かもしれない。

※タイトルに間違いがありました。当初「国産漆は絵空事」とありましたが、「増産」という言葉が抜けておりました。おかげで意図とは違った捉え方をされた方がいるかもしれません。あくまで「増産するのは難しい」という記事で、現在の国産漆が偽物だというものではありません。<(_ _)>。
田中淳夫
森林ジャーナリスト
日本唯一にして日本一の森林ジャーナリストとして、自然の象徴としての「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで執筆活動を展開。主に森林、林業、そして山村問題に取り組む。自然だけではなく、人だけでもない、両者の交わるところに真の社会が見えてくる。主な著書に『森と日本人の1500年』(平凡社新書)、『樹木葬という選択』(築地書館)、『森は怪しいワンダーランド』(新泉社)など。またYahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』もある。
(記事引用)








日本の貿易統計輸出輸入の拡大

貿易統計に見る輸出と輸入の拡大は何を意味するか?
官庁エコノミスト 2017年09月21日 13:218月
本日、財務省から8月の貿易統計が公表されています。季節調整していない原系列の統計で見て、輸出額は前年同月比+18.1%増の6兆2780億円、輸入額も+15.2%増の6兆1643億円、差引き貿易収支は+1136億円の黒字を計上しています。まず、日経新聞のサイトから記事を引用すると以下の通りです。
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8月の貿易収支、3カ月連続黒字 1136億円 米向け自動車など伸びる
財務省が20日発表した8月の貿易統計(速報、通関ベース)によると、輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は1136億円の黒字だった。貿易黒字となるのは3カ月連続。QUICKがまとめた市場予想の中央値は1200億円の黒字だった。自動車や半導体関連の品目がけん引した輸出の伸びが輸入の伸びを上回り、前年同月の346億円の赤字から黒字に転じた。
輸出額は前年同月比18.1%増の6兆2780億円となり、9カ月連続で増加した。増加幅は2013年11月(18.4%)以来の大きさだった。輸出数量が輸入を上回る伸び率で堅調に推移している。8月の為替レート(税関長公示レートの平均値)が1ドル=110.77円と前年同月から7%程度の円安となり、円建ての輸出額を押し上げたことも寄与した。
米国向けの排気量2000cc超の自動車や香港向けの半導体などの電子部品の輸出がけん引した。地域別では、前年同月が低調だった反動もあり、対米国が21.8%増と14年12月(23.7%)以来の伸びを記録したことが目立った。対欧州連合(EU)は13.7%増、中国を含む対アジアも19.9%増とともに増加した。
輸入額は15.2%増の6兆1643億円だった。資源価格の上昇と円安の進行で、石炭や液化天然ガス(LNG)、原粗油といったエネルギー関連を中心に増加した。中国からのパソコン、ドイツからの自動車や航空機などの輸入が増えたことから、対中貿易は6カ月連続、対EU貿易は2カ月ぶりに赤字となった。
いつもの通り、包括的によく取りまとめられた記事だという気がします。次に、貿易統計のグラフは以下の通りです。上下のパネルとも月次の輸出入を折れ線グラフで、その差額である貿易収支を棒グラフで、それぞれプロットしていますが、上のパネルは季節調整していない原系列の統計であり、下は季節調整済みの系列です。輸出入の色分けは凡例の通りです。

メディアの報道では、上に引用した記事もそうですが、3か月連続の貿易黒字がハイライトされているような気がします。大きな要因は、石油価格などをはじめとする国際商品市況における資源価格の落ち着きに加えて、世界経済の順調な回復・拡大に伴って、我が国の輸出がまさに主力輸出品である自動車などで伸びているからであると私は受け止めています。そして、我が国の景気も順調な回復・拡大軌道にあり、従って、輸入額も国内経済活動に応じた伸びを示しており、輸出と輸入がともに拡大する好ましい局面に入りつつあることを実感しています。

もうひとつは、昨年6月の英国の国民投票により、いわゆるBREXITが決まり、世界経済が昨年年央にはもっとも不透明感が大きかった1年後の反動、という側面もありますから、それほど手放しで楽観するのもどうかという気もします。ただ、昨年後半のBREXITやトランプ大統領の当選といった時期からは、大陸欧州でのポピュリスト政党の大幅な躍進も見られず、フランス大統領選挙の結果なども踏まえれば、少しだけ世界経済の見通しがよくなった気もします。

輸出をいくつかの角度から見たのが上のグラフです。上のパネルは季節調整していない原系列の輸出額の前年同期比伸び率を数量指数と価格指数で寄与度分解しており、まん中のパネルはその輸出数量指数の前年同期比とOECD先行指数の前年同月比を並べてプロットしていて、一番下のパネルはOECD先行指数のうちの中国の国別指数の前年同月比と我が国から中国への輸出の数量指数の前年同月比を並べています。

ただし、まん中と一番下のパネルのOECD先行指数はともに1か月のリードを取っており、また、左右のスケールが異なる点は注意が必要です。世界経済の回復・拡大、さらに、不透明感の低下に加え、我が国からに輸出は、引用した記事にもある通り、為替がフォローの風となって、大きく伸び始めました。為替さえ通常の水準を維持していれば、自動車産業をはじめとして、我が国産業にはまだまだ国際競争力があるんではないか、と改めて感じています。

最後に、そうはいっても、世界経済にリスクがないわけではなく、昨年のような政治的、というか、経済外的なリスクではないものの、欧米の金融政策に起因するリスクが顕在化する可能性があります。すなわち、米国連邦準備制度理事会(FED)は6月にも利上げを決めましたし、年内にも追加利上げが実施されたり、資産圧縮が始まる可能性もあり、米国経済の下押し圧力になるとともに、新興国の金融市場での波乱要因となる可能性も否定できません。

加えて、欧州中央銀行(ECB)でも来年以降の資産買い入れの圧縮=テーパリングが、早ければ今秋から議論される可能性があり、何らかの市場の反応が発生する可能性があります。
(記事引用)




「高麗神社」渡来人ゆかり

両陛下、渡来人ゆかり「高麗神社」ご参拝へ
2017年9月18日 5時57分 デイリー新潮
行先は、埼玉―。 今回で8度目となる天皇皇后両陛下の“私的旅行”である。9月20日から1泊2日で、日高市、熊谷市、深谷市を巡られる。 宮内庁担当記者の話。
「私的旅行といえば今年5月、陛下たってのご希望で、戦時中に疎開していた奥日光へ2泊3日で行かれる予定でした。が、直前に天皇陛下が風邪を引かれ、中止になってしまった。なので今回は、奥日光が行先かなと思っていたのですが……」
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桓武天皇は高麗渡来人
今上天皇といえば、これまで、“桓武天皇の生母が、渡来人の子孫”という旨のご発言で、物議を醸したこともあるが、「今回のご訪問と直接関係はないでしょうが、渡来文化への理解を深めたいという思いは根底にあるのでしょう」
(先の宮内庁担当記者)

姓名の由来
『三国遺事』によるとはじめ姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。
『三国遺事』の説は文字表記から付会したもので、「脱解」は新羅語で太陽(または日の出)を意味し、もともと太陽神の神話だったことを表している。西川権は「昔」は日本語の「前」(さき)の当て字として、天之日矛が土着したとされる但馬の「前津耳」(さきつみみ)や延喜式内社但馬国養父郡佐伎都比古阿流知命神社と関係し、三宅連氏の祖先で前(さき)を氏とした一族とみている。脱解も日本語のタケ(武・建)であるという。また新羅において漢風の一字姓は6世紀から使用されたので当初から昔氏という姓があったわけではないが、大林太良は脱解の出現には神話の三機能体系のうち第三機能を表しているとし、濱名極光は昔と赤が類音であることから赤または銅をシンボルカラー、龍をトーテムとする部族だったかと推定している。(ウイキペディア)

天皇家の血統とは・・・
天皇家の成立の頃(~5世紀頃)は、朝鮮半島に住んでた人と、今の朝鮮民族が同じとは限りません。
1280px-Hidaka_Saitama_Koma_House_1新羅4代目の国王[昔脱解]は倭種、つまり日本人です。
宰相も日本人です。
韓国で、日本と同じ前方後円墳が発見されました。
韓国人は、「これぞ、朝鮮が日本に文化を伝えた証拠」と大喜びしましたが、3世紀に作られた日本より、百年以上も新しい古墳と分かりました。
つまり、3世紀に前方後円墳を作った一族が朝鮮半島に渡り、古墳を作らせるような身分[王]になっていた、と言う事を示しています。
当時の文献から、朝鮮半島南は[倭]であった可能性が高いようです。
また、日本列島には、いろいろな民族が渡って来ていて、朝鮮民族には無いDNAが、日本人から発見されています。
その一つが中東、チベットと同じD遺伝子です。
だから、ペルシャ人やユダヤ人も、古代日本人を形成していました。
一頃流行った、[天皇=騎馬民族]説は、今日では否定されています。
何故なら、馬の骨も馬具も、天皇家設立時の地層から、ほとんど出て来ないからです。
弥生人が縄文人と戦って、征服していったと言うのも疑問視されています。やはり、当時の地層から、大規模な戦争の跡が発見されてないからです。
それに、初代天皇が渡来人かどうかも分かりません。
別の土地から来て、河内や飛鳥に定住した人達かも知れません。[天皇は、吉備から来た]と言う説も有るくらいです。
少なくとも渤海でない事は確かです。

渤海は日本の友好国で、貿易相手でしたが、その頃、すでに[日本]は出来ています。
ヤフー知恵袋
(記事引用)






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