電卓の使い方

数字に強い人は、電卓の「C」ボタンを押さない
深沢真太郎:ビジネス数学の専門家/教育コンサルタント  バックナンバー一覧へ
電卓をご用意ください
 こんにちは。『99%の人が知らない数字に強くなる裏ワザ30』著者の深沢真太郎です。

 この連載の第1回でご説明したように、「数字に強い人」とは電卓を上手に扱える人です。

 今回から数回は、「電卓」を通じてあなたに大切なメッセージをお伝えする予定です。どうぞご期待ください。

 さっそくですが、もし可能でしたらお手元に電卓をご用意いただけますでしょうか。スマートフォンの電卓アプリでも悪くはありませんが、できれば電卓がいいですね。
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 いまから、ちょっとした計算問題をやってみたいと思います。大丈夫です。時間にして1分間もあれば十分です。できれば電卓を使って実際にやってみてくださいね。
 それでは、まいりましょう。

<問題>
 ある街の小さなカフェは、2月の客単価は600円、客数は550人。
 ところが3月は客単価が15%減少し、客数は2割増加した。
 では、2月と3月の売上高の変化を「%」を使って表現してください。

いかがでしたでしょうか。たとえカフェでなくても、どんなビジネスであっても必ず数字で説明する機会があるテーマでしょう。

 実は、このような計算問題を企業研修などの場でビジネスパーソンの方にやっていただくと、「99%の人」と「1%の人」に見事に分かれます。
 言い換えれば、こんな単純な計算問題にも、「ほとんどの人がする計算」と「100人のうち1人しかしない計算」があるということです。

 さて、あなたはどちらだったか、確認してみましょう。

<ほとんどの人がする計算>

 2月の売上高=(2月の客単価)×(2月の客数)
       =600(円)×550(人)
       =330,000円

 (電卓の「C」ボタンを押してから)

 3月の売上高=(3月の客単価)×(3月の客数)
      =(2月の客単価の85%)×(2月の客数の120%)
      =(600(円)×0.85)×(550(人)×1.2)
      =336,600円

 (電卓の「C」ボタンを押してから)

 前年比を求める。

 336,600(円)÷330,000(円)=1.02

 つまり、売上高は2%アップしたことになる。


 やっている行為自体はなにも間違ってはいません。もちろん、結論も正しい。
 所要時間は1分といったところでしょうか。
 では続いて、もう一方の計算をご紹介します。

<100人のうち1人しかしない計算>

 0.85×1.2=1.02

 つまり、売上高は2%アップしたことになる。

 所要時間は、5秒といったところでしょうか。
 これを見てキョトンとした表情になるビジネスパーソンを、私はこれまでたくさん見てきました。

 では、ここから本題に入ります。
 もちろん、数字に強い人がする計算は後者です。この差の正体は、いったい何なのでしょう。
 特に、前者のほうは「C」ボタンを何度も押し、なおかつその「C」ボタンで自ら消した数字を、後で電卓を自ら叩いて再び表示させていることに注目してください。明らかに、無駄な作業がいくつかありますね。
多くの企業研修でビジネスパーソンを観察していてわかったことですが、数字に強い人は、必要な数字と不要な数字を見分ける能力があります。
 たとえば、びっしりと数字が並んだエクセルのデータがあったとします。
 数字を苦手に感じている人ほど、すべての数字が必要だと思ってたくさんのデータを眺めています。

 一方、数字に強い人はそのたくさんのデータから「必要な数字はこれとこれ」と見極めることが得意です。不要なものは削ぎ落として、必要なところだけ残す。そんなイメージです。

 皆さんがピンとくる例を1つ挙げます。
 たとえば、前月と今月のあなたの給与額の差をどう計算しますか?
 基本給などは変わりませんから、おそらく残業代や交通費などほんの一部の項目だけが「差」を生むはずです。つまり、基本給など何から何まですべて使って計算などしなくとも、必要な部分だけ計算すれば済むはずです。

★数字が苦手な人
  目の前にある数字は、なるべくたくさん使ったほうがいいと思っている

★数字に強い人
  必要な数字だけ使えばいいと思っている

 先ほどの計算の差は、こんなちょっとした思考の差から生まれているのです。
 いったいどちらのビジネスパーソンが仕事の効率がよく、すぐにアウトプットを出せる人か、答えは明らかでしょう。

 ですから私は、社員トレーニングの場などでは、必ずウォ−ミングアップとして受講者の皆さんに電卓を叩くワークをご用意します。
 ですがそれは同時に、講師である私が受講者を知るためでもあります。たったこれだけの計算問題を使って電卓を叩かせるだけで、その人の思考回路が透けて見えるからです。

 一流のボイストレーナーは、その人の声を聞けば年収がだいたいわかるといいます。
 接客の一流は、お客様の靴を見ればその人のことがだいたいわかるといいます。

 そんな一流の方からは「一緒にするな」とお叱りを受けるかもしれませんが、私もそうです。

 電卓の叩き方を見れば、その人がわかるのです。

(記事引用)




グリーンテクノロジーフォーラム

グリーンテクノロジーフォーラム
1.基調講演
 フォーラムの冒頭、主催者を代表して奥村文部科学副大臣及び中村科学技術振興機構理事長による挨拶があった。
 これに引き続き、文部科学省(日本)、科学技術部(中国)、教育科学技術部(韓国)の政策担当者が各国のグリーンイノベーション政策に関する基調講演を行った。基調講演では、日本、中国、韓国における各課題や問題意識からグリーンイノベーションに関する最新の政策や戦略に及ぶ幅広い内容のプレゼンテーションが行われ、3国間の政策担当者間での有効な情報共有の場となった。

2.分科会
① 第1分科会 低炭素社会
 低炭素社会の分科会における成果としては、広く日本経団連、石油業界、ガス業界、電気事業、電機メーカー、経済産業省からの参加者を得て、中国、韓国は温室効果ガスの絶対値を大きく増加させている一方で、日本が温室効果ガスの絶対値を1990年より減少させている点(クレジット含む)を認識しつつ、低炭素社会分野における日本としての中国・韓国との戦略的な共同研究課題が以下の通り示されたことである。

日本/中国:低炭素都市開発
中国が国家レベルで進める低炭素都市の開発に関して、日本は共同研究課題には積極的に参画することが望まれる。低炭素都市の開発に於いては、日本は先端技術を提供できる一方、中国は実証の場を提供できることが考えられる。
日本/韓国:スマートグリッド
韓国ではスマートグリッド分野において、国内で利害関係者の軋轢を乗り越え、世界のトップに立とうとしている。日本は共同研究を実施することにより、スマートグリッドに関する規格の標準化を進め、国内外で望まれるスマートグリッドのコンテンツを確立する必要がある。

② 第2分科会 気候変動
 気候変動の分科会における成果としては、過去の古気候データ復元及び解析、気候変動の観測、解明及び将来への予測、適応・緩和策の政策的手段、といった幅広いテーマに基づく発表や議論を通じて、グリーンテクノロジーに貢献すべく、気候変動分野における今後の方向性が示されたことである。
 東日本大震災の教訓から、想定を上回るリスクも無視することは出来ない。また気候予測モデルの成果からは、極端な気候現象の増加などに関し、将来のリスクを指摘している。信頼できる科学的知見に基づいて、こうしたリスクに備える必要がある。
 このような認識のもと、グリーンテクノロジーに貢献すべく、気候変動分野における今後の方向性としては、以下の通りである。

過去から将来にわたる地表、水文、生態系の変化に関する気候シミュレーションによる知見をはじめとする基本的な情報を提供する事を通して、グリーンテクノロジーの推進に貢献できる。そのためには、特に農漁業、健康分野における関係者と研究者との連携が必要である。
最新の予測結果によると、IPCC/AR5に向けた代表的濃度経路のうち最も厳しい安定化シナリオでも、産業革命以前の水準から地球温暖化を2℃以内に抑えることは困難であり、グリーンテクノロジーの早急な開発が求められる一方、予測においては更なる定量的研究が必要である。
古気候研究の成果として、湖沼の堆積物の分析を通じて過去にも氷河湖の決壊のような大規模な気候変動が発見されたことは、将来の大規模な変動に対するリスクに取り組むグリーンテクノロジーの必要性を再認識させるものである。古気候研究の推進のため、更に多くの定量的なデータが必要である。
古気候研究により、人類は今日よりもより大きな気候変動に対して、治水・灌漑を通じて水文的にも果敢に適応してきた事例があるということも明らかとなってきた。
WCRP/CORDEXのために間もなく開始されるアジアデータセンターに対する日中韓の連携は、東アジアにおける気候変動研究の推進に貢献するものとなる。
気候変動に対するリスク管理においては、費用の観点からの議論も含め研究者と政策担当者との間でしっかりとした対話が必要となる。

③ 第3分科会 水管理
 水管理の分科会における成果としては、分科会での発表や議論を通じて、問題点とその解決策が共有され、解決策に貢献するための重点的研究課題が明らかになったことである。
 水管理分野における問題点としては、持続的な水利用の実現、洪水対策の実現、未開発の水資源の利用、下水処理装置の導入があげられた。こうした問題に対しては、既存の貯水の再分配(韓国での成功例)、集水装置や使用水再利用の為の設備への補助金といった制度の整備、水処理膜、水関連施設からのCO2排出の削減及び飲料水に対する紫外線除菌といった技術の開発が解決策として有効である。
 このような水管理分野の問題点の解決策に貢献すべく、重点的に取り組むべき研究課題は、以下の通りである。

グローバルな水循環の長期変動の探知、細かい空間解像度での気候変動の将来推計情報の共有などによる長期的な水分野における適応策の策定(研究期間は10年程度の長期を想定。)
都市で必要な水の量と水質を確保するための総合的な水資源管理技術の開発と実証的研究(研究者と技術者の協働が有効。)
自然界における水文循環と人間活動との間の相互作用や地表水と地表直下水や地下水との相互作用の解明と統合的なシミュレーションシステムの開発
3.総括
 フォーラムの全体を通じて、各国の政策や最新の研究成果について積極的に情報共有が行われ、フォーラムに参加した政策立案者や研究者間での緊密なネットワーク構築に成功した。また、建設的な議論の結果、「低炭素社会」、「気候変動」、「水管理」分野における研究課題や方向性が示された。このように、日中韓グリーンテクノロジーフォーラムは、今後の研究交流及び共同研究に向けて所期の目的を上回る大きな成果をあげることができた。

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お問合せ先 / Inquiries
日中韓グリーンテクノロジーフォーラム 運営事務局
科学技術振興機構 国際科学技術部 担当:桜井(サクライ)
TEL: 03-5214-7375
FAX: 03-5214-7379
E-MAIL: 問い合わせ
文部科学省(MEXT) 科学技術振興機構(JST)
(記事引用)




湯川秀樹博士 原爆研究1940年4月

軍のタスクホース原爆研究「湯川秀樹ノート」
日本の原子爆弾開発は、第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。

第二次世界大戦中の原子爆弾開発
第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。

ニ号研究
日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。
鈴木が指名されたのは、当時原子核を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一 (最終階級は陸軍中佐) の2名だけだったからである。安田が原子爆弾を着想したのは、ただの思い付きではなかった。安田は当時盛んになってきた原子核物理学に早くから関心を持ち、理化学研究所の仁科芳雄や仁科研究室の若い研究者を航空技術研究所に招き、原子物理学概論の講演をしてもらっていた。これは将来必ず原子爆弾が実現すると考えて、若い軍人たちにも知ってもらうためであった。

なお、すでに理研の仁科芳雄等は、英国の学術雑誌ネイチャーに、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題して、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対称核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果を投稿してあり、同年7月6日に掲載されることになる。

鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。
1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄主任研究員は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある)。

その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。

アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年5月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散筒が完成し、濃縮実験が始まった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされていた。この原爆開発原理には基本的な誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書により発見された。しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。

理化学研究所の研究体制
理化学研究所におけるニ号研究では、仁科研究室にウランを供給するため飯盛研究室も参加した。主任研究員の飯盛里安は、ウランが核エネルギー源になることが知られる以前の1922年からウラン鉱の探索を行っていた実績を買われたためである。
当時ウランの用途はほとんど無く、飯盛の探索はウランが目的でなく放射化学の研究に必要なラジウムを得ることが目的であった(ラジウムは常にウランと共存している)。
仁科研究室の体制は、木越邦彦が六フッ化ウランの製造、玉木英彦がウラン235の臨界量の計算、武谷三男と福田信之が熱拡散分離の理論、竹内柾が熱拡散分離装置の開発、山崎文男がウラン235の検出を受け持ち、陸軍航空本部から物理化学系大学出の若い10人の将校が派遣され研究テーマごとの班に配属されていた 。仁科研究室の全員がニ号研究に参加したわけではない。宇宙線、理論、サイクロトロンの担当者はノータッチであった。朝永振一郎が協力を申し出たが、仁科は必要ないと言って断った。

ウラン235分離方法の選択
原子爆弾を作るには天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければならない。
ウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂が起こり、大きなエネルギーが放出される。天然のウランは大部分がウラン238でこれは核分裂しない (正しくは核分裂しにくい)。ウラン238とウラン235は同位体であって化学的にはまったく同じなので化学的な方法では分離できない。分離するにはわずかな質量差を利用して物理的な方法で分離しなければならない。ウランは金属で、そのままでは分離できないので六フッ化ウランという揮発性の化合物に変えて分離に供する。

当時知られていた分離法には

熱拡散法
気体拡散法
電磁法
超遠心法
があった。本来なら全部試して一番適した方法を選ぶべきだが、当時の日本では時間も資材もなく、理研は一番手っ取り早い熱拡散法を採用することに決めた。竹内柾が作った分離筒の概要は、直径約5センチメートル、高さ約5メートルの銅製の二重の筒である。
外筒と内筒の間には2ミリメートルの隙間がある。この隙間に六フッ化ウランのガスを入れ、内筒の中のニクロム線に電流を流して240 - 250度に加熱し、外筒の周りは約60度の温水を入れたウォータージャケットで囲んである。外筒と内筒の温度差で六フッ化ウランガスが対流を起こし、重いウラン238は塔の下部へ、軽いウラン235は上部に溜まる。塔の材質、寸法などは理論的な裏付けがあるわけでなく、適当に見当で決めたものである。

マンハッタン計画ではすべての方法が試みられた。ウラン235を爆弾に必要な高濃度まで濃縮できるのは電磁法だけであった。実際には気体拡散法でウラン235の濃度をある程度まで高めてから電磁法に掛ける方法が採られた。

六フッ化ウランの製造
理研ではもちろん六フッ化ウランを製造した経験は無かった。六フッ化ウランは、フッ素とウランを反応させて作るが、まずフッ素を作らなければならなかった。フッ素は反応性が激しくガラスさえ腐食されるので、作るのは大変むずかしかった。
フッ素は、酸性フッ化カリウムを電解槽に入れて230 - 240度で加熱融解し、炭素電極を入れて電気分解すると一方の電極から出てくる、という原理はわかっていた。まず、銅板を溶接して作った電解槽で試みたところ、溶接部分が腐食されてしまった。
次に、マグネシウムで作ろうとしたが、希望する純度のマグネシウムが手に入らなかった。専門の工場で高純度のマグネシウムを作ってもらい、これでツボ状の電解槽を作った。
しかし、これを使ってもフッ素が出てこなかった。そこで、教えを請うため東北帝国大学の著名なフッ素研究者・石井総雄の研究室を訪ねた。その結果わかったのは、電気分解の初期には原料に含まれてる微量の水分だけが分解され、完全に無水の状態になってからでないとフッ素は出てこない、ということである。木越らは夕方帰宅する際、電源を切っていたので、せっかく無水になった原料が夜の間に空気中から水分を吸ってしまうので、いつまでたってもフッ素が出てこなかったのである。
原因がわかったので、夜間も通電を続けたところ、やっとフッ素が出るようになった。結局フッ素を作れるようになるまで約1年かかった。さらに六フッ化ウランを作れるようになるのに約1年を要し、分離実験に取り掛かったのは戦争末期であった。

仁科は研究室員から「親方」と呼ばれ親しまれていたが、しばしば雷を落とした。研究室員でやられなかった者はいなかった。怒鳴ったあとはケロリとしているので、誰もそれを根に持つことはなかった。六フッ化ウランができなくて四苦八苦していた木越はある日仁科に呼び出されて「お前はいったいどんな気持ちでやっているんだ。できるのかできないのか」と怒鳴られた。
木越は平然と「できません」と答えた。仁科は「そんなつもりでやっているんなら…」と言っていったん口をつぐんだ。木越は「やめちまえ」と言われると思ったが、仁科は語調を変えて「まあ、やってみろ」と言った。
その後、木越は文献を調べてウランを炭化物(ウランカーバイド)にしてからフッ素を作用させる方法を見つけた。自宅から配給の砂糖を持ってきて電気炉で加熱して炭素を作り、ウランと反応させてウランカーバイドを作った。これにフッ素を作用させて米粒ほどの六フッ化ウランを作ることができた。深夜のことだったので、朝出勤してくる仁科に報告したくて待ち遠しかったという。実験を続けるには砂糖が必要だったので、軍に交渉したところ、配給用の砂糖に手をつけるわけにはいかないとして、わざわざ台湾に飛行機を飛ばして10キログラムほどを都合してくれた。理研では「木越のところに行くと砂糖がなめられるぞ」という話が広がり、多くの人が役得にあずかった。その後、砂糖の代わりにデンプンが使えることが判ったので、以後はデンプンを使うことになった。

武谷三男が逮捕される
六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当していた武谷三男は、京都帝国大学在学時代に左翼活動に係わっていた関係で、突然特高警察に逮捕された。仁科は警視庁の上層部に「武谷は重要な仕事をしているからしかるべく頼む」と言って善処を求めた結果、留置場に専門書などを持ち込んで研究を続ける事を許された。

そこから警視庁の取調室で刑事に監視されながらの珍妙な研究が始まった。計算をしているうちに、理論的に熱拡散分離法ではウラン235を分離できない可能性が大きくなってきた。面会に来た渡辺慧に、熱拡散分離法はだめかも知れないから、他の方法 (遠心分離法) も並行して進めた方が良い、と仁科に伝えるよう口頭で頼んだ。この言葉を仁科がどう受け取ったかは定かでない。

分離実験
1944年7月14日から六フッ化ウランを分離筒に入れて分離実験を始めた。しかし、六フッ化ウランの強い腐食作用により、分離筒に穴が開く事故が頻発し、しばしば実験を中断しなければならなかった。修理に時間がかかるため実験は遅々として進まなかった。軍からは「どうなっている」という催促が度々あって仁科は大変困惑していた。

飯盛は戦後になってから、その頃仁科に会うたびに仁科が次のように語っていたと述べている。

「なかなかむづかしい、とにかく核分裂するときに非常なエネルギーが出るんだから、爆弾みたにしないで、熱源というか、動力源として使うには非常にいいんだが」
爆弾にするということを口にすることはあまりなかった、という。

空襲によって分離筒が焼失するまで6回分離実験を行ったが、6回とも分離はうまくいかなかった。ウラン235がどれくらい濃縮されたかを知るには、質量分析計で同位体比 (U235/U238) を測定するのがもっとも確実だが、当時の理研には質量分析計が無かった。
次善の方法として、サイクロトロンで発生させた中性子を試料に当て、ウラン235の核分裂によって発生するベータ線の強度をローリッツェン検電器で測定することにより、間接的にウラン235の量を求めた。熱拡散分離筒にかける前の試料と分離操作をした試料を同一条件で測定したが、両者の間に有意の差が認められず、分離ができていないと結論された。分離筒が焼失した後、理研の一部は山形高校に疎開し、木越は六フッ化ウランの製造を続けるとともに、なぜ分離がうまくいかなかったを考えた。
そこで分子間力を考慮に入れると、分離筒の中で起こっているのは、単に重いウラン238は下へ、軽いウラン235は上に、という単純な現象ではないことに思い至った。熱拡散法はアメリカとドイツでも試みられていたが、1941年に熱拡散法ではウラン235は分離できないという結論が出ていた。つまり理研で熱拡散法を選んだ時点ですでにこの方法では分離できないことが確認されていたのである[9][12]。終戦時、木越は残っていた六フッ化ウランを山形高校の校庭に埋めた。後年訪れたとき、様子がすっかり変わっていてどこに埋めたかわからなかった。

熱拡散分離筒の焼失
仁科研究室の山崎文男の家は理研のすぐ近くの本郷曙町 (現・本駒込一丁目、二丁目) にあった。当時、山崎は家族を地方に疎開させて、ここに一人で暮らしていた。同じ仁科研の朝永振一郎と福田信之も家族を疎開させて一人暮らしをしていた。山崎の家は理研に通うのに好都合なので、この二人ともう一人物理学校 (現・東京理科大学) の学生の合計四人がこの家で共同生活をしていた。
1945年4月12日の夜、空襲があり山崎の家も被災した。その日は福田は不在で三人で消火に当たったが、素人の力ではどうにもならず、全焼してしまった。空襲警報が発令中だったので、山崎と朝永は近くの防空壕に避難した。やがて解除のサイレンが鳴ったので二人は防空壕から出て理研に行ってみると焼夷弾が落ちてあちこちが燃えていた。熱拡散分離筒がある49号館は燃えていなかったので、そこにいた人たちと協力して水を掛けたり回りにあった材木を片付けて延焼を防ぐ処置をした。一応めどが着いたので49号館の向かいにある43号館で休んでいると、夜が明けた頃、49号館から煙が出ていることに気が付いた。人々が油断している間にモルタルの壁の中に残っていた火が燃え上がったのである。急いで駆けつけたが、もう手が付けられない状態で、結局49号館は分離筒と共に全焼してしまった。

熱拡散分離筒の移設
1944年暮れころ、撃墜したB-29から回収した東京の地図に理研が重要目標として記入してあった。これを知った航空本部は鈴木辰三郎に、いずれ理研はやられるから別の場所にも分離筒を設けたほうがよいと勧告をした。鈴木は大阪帝国大学の菊池正士研究所に分離筒を建てることにした。理研の分離筒は、熱膨張により内筒が外筒に癒着する欠点があったので、鈴木は内筒の内側にさらに鉄製の筒を入れて補強する構造を考えた。
仁科は「鉄と銅は熱膨張率が違うからそんなもんくっつけたってだめだ」と反対したが、鈴木はそれなりに成算があったので仁科を説得して了承してもらった。外筒と内筒の隙間は2ミリメートルでは広すぎると考え、1.5ミリメートルとした。ここに同じものを3本建てたが、実験に取り掛かる前に大空襲があって水も電気も止まって実験どころではなくなってしまった。
さらに鈴木は軍需省から尼崎市の住友金属鋼管(現・日鉄住金鋼管)の工場に分離筒を建てることを指示された。ここには資材が豊富にあり、ベテランの工員がたくさんいたので、作業は容易であった。ここには、大阪帝国大学と同じものを5本建て、窒素や二酸化炭素を用いて予備試験を行って、鉄と銅の膨張率の違いの件はうまく行くことが確認された。
あとは六フッ化ウランの到着を待つのみになった。鈴木はいずれここも危なくなると考え、三重県名張市にある妻の実家の敷地に分離筒を移設しようと100坪ほどの建物を実験棟に改装したり、床や水道の工事をした。もちろん、妻にも親族にも目的は明らかにしなかった。しかし、分離筒を移設する前に終戦になった。終戦時、大阪帝国大学と尼崎市にあった分離筒は解体され、近くの川などに投棄された。

仁科は、金沢市にも分離筒を建てようと、航空本部から派遣されて竹内柾のもとで仕事を手伝っていた佐治淑夫中尉ほか数名を金沢に派遣した。市内は空襲が激しいので郊外にある金沢高等工業学校を借りて作業場とした。しかし、資材がまったく手に入らなかった。苦労の末、北海道帝国大学からやっと真空ポンプを譲ってもらったが、何も進展しないまま終戦になった。

原料ウランの調達
当時、陶磁器の釉薬の着色剤として硝酸ウラニル (ウランの硝酸塩) が少量流通していて、どこの化学教室の棚にも有るようなありふれた物だった。木越は薬品問屋に片っ端から電話をして50キログラムほどをかき集めた。理研ではこれを原料として六フッ化ウランを製造した。F研究を担当することになった京都帝国大学も京都市五条坂の陶磁器専門の薬品問屋から硝酸ウラニルを買い付けた。

当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。1945年には飯盛里安が率いる実験施設の理研希元素工業扶桑第806工場を開設し、4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。

一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦 (U-234) による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった(この点に関して、詳細はU-234及び遣独潜水艦作戦の項目参照)。こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。
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理研希元素工業株式会社
1941年、飯盛研究室の希元素関連の業務を事業化するために、大河内正敏所長を会長、飯盛里安を最高顧問として理研希元素工業株式会社が設立された (終戦時に解散)。理研構内の本郷工場のほか足立工場、荒川工場の三工場で各種希元素製品を生産した。

荒川工場では、戦前アメリカから輸入したカルノー石を処理してウラン約200キログラムを生産した。このほか、マレー半島産のアマン (スズ鉱石の残渣)、朝鮮半島産黒砂 (砂金採取時の残砂) を処理して約100キログラムのウランを生産し、合計約300キログラムがニ号研究用に蓄積された (ここで云うウランとは通称イエローケーキ、重ウラン酸ナトリウムのこと)。これらは終戦時に米軍に押収された。

1944年後半頃から空襲が激しくなってきて工場が被災したので、軍からの指示で工場を福島県石川町に疎開させることになった。移転先として選ばれたのは完成直前のジルコン選鉱場で軍の命令で理研希元素工業株式会社に移譲された。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった。選鉱場の人員はそのまま新工場に引き継がれた。この工場では東京から運んだ前記のアマンと黒砂を処理した。石川中学校の生徒が採掘した鉱石は量が少ないので原料にはならなかった。この工場は数か月稼働しただけで終戦になった。

終戦直前、理研希元素工業扶桑第806工場に、いわき市小名浜の日本水素工業株式会社 (現・日本化成株式会社) から触媒用銅ウラン合金板、約10トンが入荷した。酸化ウラン換算で800キログラムを含有すると見込まれていたが、使用されることはなかった。これはメタノールの合成に用いられていたが、新しい製法に転換したことにより不要になったものである。この合金が戦後どうなったかについては資料が残されていない。

核物理応用研究委員会
海軍で一番早く原子爆弾に注目したのは、海軍技術研究所の伊藤庸二大佐(電波兵器が専門)である(1939年頃)。
1941年11月、アメリカの不審な動き(ウラン鉱石の国外持ち出し禁止など)を察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭にこの件を諮った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただしこの計画書の目的は原子力機関となっていて原子爆弾の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった。

海軍技術研究所は、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」(委員長は仁科芳雄)を発足させ、第一回の会合を1942年7月8日、芝の水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気(現・東芝)マツダ支社の田中正道らであった。
この委員会は1943年3月6日まで十数回開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器(レーダー)研究担当の立場にある者が余分なことに力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。
研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった。

その頃、仁科が航空本部の川島少将に「あちこちから原爆、原爆と言われても困るから軍の窓口は航本(航空本部のこと)一本にまとめてほしい」旨の要望をしたことから、研究の主体は自然と陸軍に移っていった。

F 研究
ミッドウェー海戦の惨敗以来、主力艦船のほとんどを失った海軍は危機感を募らせ艦政本部の主導で原子爆弾の研究開発の再開を企てた。1940年頃、ドイツの”ニトロチェルローゼ”という火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文を発表した。海軍火薬廠の村田勉少佐がこの論文を翻訳し、艦政本部、火薬廠、各工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。
艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵(いそめぐむ、海兵41期)大佐、三井再男(みついまたお、海兵49期)大佐(いずれも火薬の専門家)はこの論文に着目し、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた。しかし海軍には人材も設備もないので、磯大佐の出身校である京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼することになった。千藤大佐は、もちろん核物理応用研究委員会が出した結論を知っていた。

荒勝教授へ協力依頼をするため磯大佐が荒勝研究室を訪問した。これがF研究の始まりである。その日時については、戦後読売新聞社のインタビューに対し「着ていた背広が冬服だったので、昭和17年(1942年)10月過ぎだったろうね」と答えている。しかし、戦後GHQに提出した公式の報告書には「1943年5月、本研究を海軍の研究として荒勝教授に委託することになり…」と記載されている。荒勝研の木村毅一助教授は「僕が聞いたのは、もっとおそく18年(1943年)の終わりではなかったか」と述べている。同研究室の清水栄講師は「20年(1945年)のはじめごろではないか」と述べている。原爆研究の理論面を担当した小林稔教授は「19年(1944年)の9月か10月だと思う」と述べている。荒勝教授自身は次のように述べている。

京大の『原爆研究』- そのような言葉が適当かどうかわからぬが、ともかく、海軍が原子爆弾製造の可能性について、ぼく(荒勝)の研究室に研究を委託してきたのは、もう戦争も終わりに近いころで、それも、海軍側から直接にではなく、理学部化学教室の堀場新吉教授を通じてだったと記憶している。
磯恵君の話だと、ぼくに会って研究を依頼したそうだが、それはさっぱり覚えがない。そういわれれば、そういうことがあったかなあ、という程度だ。
このように各人の見解がばらばらなのは、荒勝教授が依頼を受けてからいろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられている。三井は、他の研究も含めて海軍側が絶えず出入りしていたため「いつ頼んだかわからないぐらい密接だった」と回想している。つまりF研究がいつ始まったかは特定できない。

荒勝研究室(海軍側)ではウラン235を分離する方法として、理研と同じ熱拡散法では意味がないので、次に可能性がある遠心分離法を採用することにした。遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法である。概算してみると、回転数は毎分10万回転以上の超高速が必要であることがわかった。当時高速回転するものとしては船舶用ジャイロが知られていた。当時船舶用ジャイロは北辰電機と東京計器が製造していたので、両社に協力を要請し、分離装置の試作を依頼した。これとは別に荒勝研究室でも独自に研究を進めた。ジャイロの回転数は数千回転くらいであり、当時の技術で実現可能なのはせいぜい3 - 4万回転くらいが限界と考えられていた。高速回転で一番の問題は軸受けの摩擦であり、超高速回転を実現するにはこれまでとはまったく別の仕組みを考えなければならなかった。東京計器が考えたのは、目標を15万回転とし、回転体を圧縮空気で浮かせ誘導モーターで回転させる方法である。ただ、回転体を宙に浮かせると回転にブレが出てしまう。ブレを防ぐには心棒がなくてはならない。しかし心棒が太いと摩擦が大きくなるので、注射針くらい細いものを考えた。これは設計図の前の下書きの段階で終わっている。

荒勝研究室で考案したものは、空気で浮かせる点で東京計器のものと似ているが少し違う。それはお椀を半分にしたような形の容器の外側の横腹に刻みを付け、これに向けて空気を吹き付ける。すると容器と受けの間に空気が入ってエアクッションになると同時に刻みの角度によって吹き込まれた空気で容器が高速回転する。ブレが出ると電気的に検出して正しい位置に戻す。超高速回転をすると、容器には10万Gくらいの遠心力が掛かることが予想され、普通の材料では振り切れてちぎれてしまう。荒勝の知り合いが名古屋の住友金属工業にいて、航空機に使う超々ジュラルミンを作っていることがわかり、サンプルを少し貰ったが、工場はその後すぐ爆撃されて入手できなくなった。この装置も設計前の下書きの段階で終わっている。

1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催。

1945年7月21日、琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。
荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。1949 - 1950年ころ、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった。

F研究に何も成果がなかったわけではない。 京大工学部の岡田辰三が、日本で初めての金属ウランの製造に成功した(3センチメートル角、厚さ1ミリメートル)。理研では粉末状のウランしか作れなかった。理研の木越が試しに粉末状のウランにフッ素を作用させたところ、試験管が破裂して木越は危うく失明するところだった。
そのため理研では六フッ化ウランを作るのに別の方法を探さなければならなかった。岡田が作った記念すべき金属ウランは京大に長く保存すべきものだったが、行方不明になってしまった。
もう一つの成果は、湯川研究室の小林稔がウラン235の臨界量を理論的に算出したことである。
ウラン235の原子核に中性子が当たるとエネルギーとともに2個以上の中性子が放出される。その中性子が他の原子核に当たると4個、さらに8個、16個、32個という具合に幾何級数的に中性子が増加して連鎖反応が起こり、短時間で一挙に巨大なエネルギーが放出される。
しかし、現実の原子は隙間だらけで、多くの中性子は原子核に当たらないまま外に逃げてしまう。ウラン235の塊がある程度以上の大きさがあれば、中性子は外に出る前にいずれかの原子核にあたり、連鎖反応が起こる。この量が臨界量である。小林は手回し計算機で二晩くらいかけて拡散方程式を解いて、半径10センチメートルから20センチメートルくらいの塊があれば連鎖反応が起こって爆弾になるという結果を得た。
また日本海軍としては連合軍側が原爆を実戦投入した際の防御(対策)研究という側面もあり、広島原爆投下では日本側原爆研究関係者が現地調査に赴いている。

ニ号研究とF研究の接点
航空本部の鈴木辰三郎によれば、1945年初めころ海軍の技術関係者が航空本部にやってきて「海軍の方でも原子爆弾の研究をやることになった。一からやっていたのでは間に合わないし、むだだから仁科研でやっていた実験データを教えてほしい」と頼まれた。航空本部でもこの段階にきては陸軍だの海軍だの言っている場合ではない、ということで仁科研のデータを全部渡した、という。また、京大で六フッ化ウランの製造を受け持つことになった佐々木申二が理研の木越のところにやってきて、六フッ化ウランの製造を見学した。木越はそれで京大でも原爆の研究をしていることを初めて知ったという。さらに、荒勝教授が理研にやってきて(時期不明)仁科の案内で熱拡散分離筒を見学している。荒勝は、物資不足の戦時下によくこれだけのものを作った、と努力を評価している。

また陸軍側はウラン鉱石の入手に難儀しており、児玉誉士夫(児玉機関、上海市拠点)を通じてウランを入手していた日本海軍に「陸軍にもウラン鉱石を分けてくれ」と申し出た事もあったという。

研究打ち切りと敗戦
1945年4月13日[1]のアメリカ軍による東京大空襲で熱拡散筒が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。結局日本の原爆開発は最も進んだところでも基礎段階を出ていなかった。

日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。
敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めた(ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている)。

F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた。その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった。

1945年5月中頃、仁科は会議室に研究者を集め、ニ号研究の中止を決議した。5月末、派遣将校の鈴木辰三郎(航空本部との連絡をしていた)に口頭で「もうウラン爆弾はできない、この状態では無理である」と伝えた。
鈴木はただちに航空本部に戻り、それを陸軍大臣に伝える手続きをとった。しかし、この情報は石川町の採掘現場に伝わらず、石川町の生徒たちは玉音放送の日まで作業を続けた。担当の第8陸軍技術研究所の山本洋一少佐は、のちになって「気の毒なことだった」と何度も繰り返したという。熱拡散分離塔の焼失以後、研究者の間に悲観論が徐々に広がりつつある中、鈴木は最後まで研究の継続を強硬に主張していた。

飯盛里安の手記「終戦の日の証言」には「当時石川町の選鉱場に残存したアマン百数十トン、モナズ石粉末十数トンを地下に埋めたり川に流したりした」と書いている。
これが原因で、数億円相当のウラン鉱石が埋まっているという噂が広がり、1955年ころ山師が町役場に採掘許可を求めて危うく発掘されそうになる騒動があったと伝えられている。
理研飯盛研究室助手で理研希元素工業扶桑第806工場長の畑晋(はたすすむ)は私信の中に「…GHQからウラン関係の原材料・製品は没収された」と書いている。理研希元素工業総務部長の新津甚一は手記「南から北へ八十年」の中に「占領軍の技術将校をふくむ数人がジープで工場にやってきたが、驚いたことにわが社がもっていた原鉱石の種類や数量をおよそ正確に知っていた。スパイがしらべたのではないかという話もでたが、東京で予め調べてきたのかも知れない。何れにせよ、現状のままにして管理するよう命ぜられた」と書いている。

ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、前記の通り戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた。
関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している。

ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている。

昭和天皇と原子爆弾
日本はポツダム宣言を受諾したが昭和天皇は玉音放送の中で「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」と原子爆弾投下を受諾の理由に挙げた。

第二次世界大戦後の状況
第二次世界大戦後の日本は、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、開発計画もない。

1953年12月8日、アイゼンハワーアメリカ合衆国大統領が国連総会で「原子力の平和利用 (Atoms for Peace)」と題する演説を行い、日本にも原子力を平和のために利用することの道が開かれてから、日本は原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。

1954年に、初の原子力予算を成立させ、日本原子力研究所を設置した。これを皮切りに、複数の大学や民間企業が研究用原子炉を建設し、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。更に核燃料サイクルの完成を目指して、高速増殖炉(常陽ともんじゅ)や新型転換炉(ふげん)、再処理工場(東海再処理施設と六ヶ所再処理工場)などの開発を積極的に行っている。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる使用済み核燃料も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められており、核燃料の供給国と結ばれた二国間の原子力協定でも、軍事転用や核爆発装置の開発が行われた場合の返還義務を明示している。

また、日本は国際原子力機関 (IAEA) による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。
2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。

原爆開発に従事した科学者の中には戦後の原子力政策に関わった者も多く、ニ号研究に従事した西脇安は原子力政策へ関与の他、放射線生物物理学の専門家として第五福竜丸が焼津港に水揚げした「原爆マグロ」の放射線調査を行なっている。

1960年代の核保有検討
2010年10月3日放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」では、元外務事務次官の村田良平(2010年3月死去)の証言をもとに、核拡散防止条約調印後の1969年に、日本の外務省高官が西ドイツ外務省の関係者(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平と政策企画部長のエゴン・バール、参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)らを箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合を持っていた事実を明らかにした。
また、当時の佐藤内閣が、専門家の意見を集めた上で内閣情報調査室に極秘に核兵器の製造能力についての報告書を作成させていた事実も明らかにされた。報告書では外交・内政上の障害を理由に「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」と結論づけていた。これらの背景には1964年に中国が核保有国となったことが挙げられている。

この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこなった結果を同年11月29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている。

海外の主張
中国政府の公式ウエブサイトによると、中国は、日本は1939年から1940年の間に日本で核兵器を製造したと主張している。また、ロシア政府系通信社スプートニクは、日本が1945年8月12日に北朝鮮の咸興沖で核弾頭のサンプルを爆破させたと主張している。

中国政府
中華人民共和国国土資源部国土資源部中国地質調査局公式サイトの『ずたずたになった山河、ちりぢりにされた金――歴史資料から見た地質分野における日中戦争』と題されたページに、2015年9月6日付けで、「1939年から1940年、日本は中国の遼寧省鞍山市海城地区でウラン鉱を発見し、その後日本で核兵器を製造して実験を進め、ウラン鉱の盗掘と東京への空輸を始めた。」ということを掲載している。

ロシア政府系通信社スプートニク
ロシア政府系通信社スプートニクは、2013年6月13日付けで、『ソ連が米国を日本の核攻撃から救った』と題して、1945年8月12日、日本軍は小型の船艇に核弾頭を載せ、咸興(ハムフン)沖で爆破すると直径1㎞の火球が天空に燃え、巨大なキノコ雲が上ったということを報じている。」

(資料ウイキペディア)
(以上ウイキペディア記事転載による。他に情報があればこの記事日付に限定されることなく、追加する予定。しかし青天の霹靂のような意表をついた日記公開ニュースは、何かの意図があるような気がする。場合に拠っては中止もある~)




「平将門」首塚の「祟り」は本当か???

いまどき祟り(タタリ)の信憑性 
【殺人事件】富岡八幡宮殺人 姉の首を日本刀で切った元宮司の弟「ボンちゃん」の悪評~

12月7日午後8時35分頃、「深川の八幡さま」として知られる富岡八幡宮(東京都江東区)周辺で、宮司の富岡長子さん(58)らが襲われ、3人が死亡した事件。目撃者から話を聞いた近隣住人がこう話す。殺害された長子さんと弟の茂永容疑者、騒然とする現場の様子など。「弟の(富岡)茂永容疑者が日本刀を振りかざし、姉の長子さんの首を切り、そのまま胸をひとつき。日本刀は割れていたようです」(〆)

そこから遠くない東京の中心地に平家武将「将門」さまが奉ってある神社がある。

築土神社(つくどじんじゃ)は、東京都千代田区九段にある神社で、通称、築土明神。創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館の氏神でもある。 毎年正月に授与される勝守(かちまもり)は有名。

事件は、さいわいなことにそこではなかった。まあ「師走年始」を控えた各神社は準備に忙しいことだろうが、富岡八幡の場合はどうなんだろうか。

仲間うちの話しに拠っては、参拝客が激減して「閑古鳥」が飛来するといったり、いやその反対でどんな神社だろうと観光がてら遠路はるばる、詣でる人で賑わう、という意見もあって、どちらも説得力がある。
だったらやっぱり行ってみるっきゃない、ということで参拝客満員御礼か?

この道のプロ江原氏の見立てでは祓いたおしてしまえと、処方箋しているが、すでにいない人の誰が、どこにいて、何が理由で、そこに悪さ(善行はないの?).の祟りのその方法と、それをお祓いたおすといったって、まったく無色透明無味乾燥の無存在物体を相手になにをなさるのだろうか。?

かりにそれを一人でやっていると、反対に、「このアホなにしてる」、と通報され、ひところ交番保護されかねない。江原さん以外は。

でもな~、案外「祟り」を信じている人も多いし、その無色透明無味乾燥物体そのものを見てる人もいるし。

ええ、友達で本気な顔してみたみた、と自慢げに話すので、いやほんとに、それ否定しゃうと失礼だし話を作って脚色しているので、これがおもしろくて、しまいにはこちらまで信じて感化される恐れがある。その友人、交通事故で早くになくなったがね。

そういえば随分昔の話で、これは祟りではないが、株・証券の投機で、プロを騙して一世を風靡した女傑がおったとさ。

世紀の女詐欺師「尾上 縫」(ウイキペディア)
尾上 縫(おのうえ ぬい、1930年2月22日 - 2014年頃)は、大阪府大阪市千日前にあった料亭「恵川」の元経営者である。奈良県出身。
バブル絶頂期の1980年代末、「北浜の天才相場師」と呼ばれ、一料亭の女将でありながら数千億円を投機的に運用していた。しかしながら、景気の後退とともに資金繰りが悪化、金融機関を巻き込む巨額詐欺事件を引き起こした。

奈良県新口村(現・橿原市)の農家の5人兄弟の次女として生まれた。父親を早くに亡くし、母親は株の仲買人をしていた豪農の男の庇護を受けて生活していた。髙等小学校を卒業後働きはじめ、19歳で結婚して一女をもうけたが25歳で離婚。(経歴が木嶋佳苗とよく似る、筆者)
娘を元夫に預け、大阪ミナミのすき焼き店「いろは」で仲居として働くうち、店の客である経済界の有力者の支援で、旅館「三楽」を購入改装して30代半ばで料亭「惠川」の女将となる。バーや麻雀店なども経営し、不動産もいくつか所有した。

自身が女将を務める料亭の客らに対して、占いと神のお告げによって株式相場の上昇や競馬の勝ち馬などを見事に言い当てるとして評判となり、そのために料亭は繁盛した(恵川の隣で料理屋「大黒や」も経営しており、占いはそこでしていた。
占いにはガマガエルの石像を使い、ガマのお告げと称していた)。バブル景気前夜の頃までには、それらの予想も神懸かり的なものとなり(特定の銘柄を挙げて株価の見通しを尋ねると、神がかり状態の尾上が「上がるぞよー」とか「まだ早いぞよー」とか答えたという)、多くの証券マンや銀行マンらが尾上に群がるようになり[1]、彼らは「縫の会」と呼ばれた。奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)出と経歴詐称していた。

巨額詐欺事件
自らも銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになった尾上は、バブル絶頂期の1988年(昭和63年)には、2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金を持っていた。
また、株取引では48億円の利益を得、1987年から日本興業銀行の割引金融債ワリコーを288億円購入し、55億円の金利を受け取っていた。同時期に興銀はワリコーや同行への預金を担保に尾上に融資を始めるが、これは銀行にとっては、焦げ付きのリスクがまったくない、うまみのある取引で、行内では「マル担融資」と呼ばれ、1989年には融資残高は586億円にのぼった。
金融の自由化により銀行間の競争が激しくなり、融資先の開拓に苦慮していた興銀は、個人顧客の資産管理を総合的に手伝う「プライベートバンキング」といった中小企業や個人との取引に力を入れており、尾上に対して不動産投資も勧め、1990年8月には尾上の資産管理を行なう「株式会社オー・エヌ・インターナショナル」を設立した。

しかし、バブル景気に陰りが見えるとたちまち運用が悪化して負債が増加するようになった。89年の延べ累計額では借入が1兆1975億円、返済が6821億円で、270億円の利息を支払った。
90年末には、2650億円の金融資産を保有していたが、負債も7271億円に膨み、借入金の金利負担は1日あたり1億7173万円にも上っていた。以前から手を染めていた詐欺行為を本格的に始めた尾上は、かねて親交のあった東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻すなどの手口で犯行を重ねた。

1991年8月初旬に尾上は東洋信金の架空証書の件を興銀の担当者にだけ打ち明け、興銀は自行の債権33億円を売りぬけて回収、やがて証書偽造が発覚し、尾上は1991年(平成3年)8月13日に詐欺罪で逮捕された。
7億円の保釈金を用意し、1992年3月に保釈。同年6月、大阪地裁で破産宣告。この時点までに尾上らは、「ナショナルリース」らノンバンクを含む12の金融機関から3420億円を詐取していた。金融機関からの借入金総額は、のべ2兆7736億円、支払額はのべ2兆3060億円に達しており、留置所で破産手続きを行った際の負債総額は4300億円で、個人としては日本で史上最高額となった。

裁判で尾上の弁護人は、尾上に株式の知識が全くなく、周囲に踊らされていただけであり、責任能力はないと主張したが認められず、1998年3月懲役12年の実刑判決を受け、2003年4月、最高裁が尾上の上告を棄却し、実刑が確定した。

巨額の融資を行った東洋信金は経営破綻により消滅し、預金保険機構の金銭援助を得て資産(正常債権)を三和銀行が、店舗網は府下の複数の信金へ譲渡された。また、ノンバンク最大の貸し手であるナショナルリースの担当社員が特別背任罪で逮捕されている。同社はこの期の不良債権をグループのサービサーへ債権譲渡し、1998年までに親会社の松下電器が未収債権について損失負担する形となり、2001年に松下クレジットとの合併を経て2010年に「住信・パナソニックフィナンシャルサービス」、さらに2012年に三井住友トラスト・パナソニックファイナンスとなっている。

2017年3月20日、毎日放送で放送された「激撮!直撃!!スクープ【ヤマヒロ×西靖▼関西あの事件あの人は今?4時間生放送SP】」で詐欺事件が紹介され、3年前に死去し、高野山の尾上家の墓に納骨されていたことが明かされた。

高野山で得度したと称し、日曜日には庭の弘法大師像を拝むことを習慣にしていた。多くの証券マンも訪れて一緒に祈り、高野山や小豆島への参指旅行にも同行した。

1970年(昭和45年)暮れ、清風学園創設者である平岡静人によって、高野山金剛峯寺報恩院で得度の路を開かれた。平岡によって名付けられた得度名は、純耕。

平岡一族との親交は深く、同一族が主催するチベット仏教寺院・ギュメ寺(南インド)への開眼ツアーにも参加している。この際、尾上は2,000万円をギュメ寺に寄進したが、平岡一族は寄進は自身らによるものだと主張している。また、同ツアーで尾上は、平岡ともども宗教指導者・ダライ・ラマに面会した。その後、平岡はダライ・ラマを念仏宗無量寿寺に紹介した。
(資料ウイキペディア)

占いにはガマガエルの石像、とは滑稽な動画だか、その当時これで証券マンプロが騙されたというのだから、占い呪術のイメージ力というのは恐ろしい。

その論法でいくと千代田区の「将門首塚」(永田町はすぐ隣?)が夜な夜な、あたりを徘徊しているかもしれない。
それにしても鎌倉以前と今の東京では、照度(蝋燭と電気の違い)がぜんぜん違って、将門様がおでましでも、ほとんど凡人には見えないだろう。一回明かりを消して確認してみたらどうだろうか、募集したら大勢あつまるのは必然。なにしろ未知なるイベント企画には集客力があるから。
なんなら自分でやってみるか???
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平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。
伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。

その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。

東京都千代田区にある将門塚の歴史

首塚の碑
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。

この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけは広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂っている。敷地内には蛙(ガマガエル)の置物が数多く石碑の周囲に置かれている(後述)。

数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃、整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱東京UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

オカルト話 築土神社(つくどじんじゃ)や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。

結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがある。

お笑い芸人の爆笑問題・太田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂がある。

蛙の置物
首塚の境内には所狭しと多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、伝承で次の二つの利益があるとされている。こんな姿が若王子事件以来、目立つようになったという。

左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。
交通アクセス 東京メトロ・都営地下鉄大手町駅C5出入口から東へ40m位の距離にある。地下から地上への階段を上がり、そのまままっすぐ進むと、首塚の幟を目にすることができる。

将門首塚 地 〒100-0004 東京都千代田区大手町1−2−1
(とくに参観制限はないようだ。ただし祟りあり、なしについては一切の責任は自己責任で負うこと。いかなる事態、事故、わざわいが生じた場合でもまた賠償事由が発生しても、こちらの立場は全部が免責される)







ギルガメシュ叙事詩.2

ヒッタイト 古代メソポタミア
『ギルガメシュ叙事詩』(ギルガメシュじょじし)は、古代メソポタミアの文学作品。実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語。人間の知られている歴史の中で、最も古い作品の1つ。
『ギルガメシュ叙事詩』というタイトルは近代学者により付けられたもので、古来は作品の出だしの言葉を取って題名とする習わしがあったことから『すべてを見たるひと』と呼ばれていた。
以下より特にアッカド語に基づいて呼称、また『ギルガメシュ叙事詩』を「叙事詩」と略称。
『ギルガメシュ叙事詩』は古代オリエント最大の文学作品であり、これを英雄譚と称する場合、古代ギリシアの『オデュッセイア』や中世ヨーロッパの『ローランの歌』『アーサー王と円卓の騎士』などに肩を並べる世界的な物語と言える。一方、古代オリエント文学とりわけ古代メソポタミア文学界の多くが持つ「宗教性」「政治性」という点は出張っておらず、むしろ世俗的でヒューマニズムな芸術的感覚が見られるのが特徴とされ、日本文学としての相性も悪くない。
成立
主人公のギルガメシュは紀元前2600年ごろ、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王であるが、後に伝説化して物語の主人公にされたと考えられる。最古の写本は紀元前2千年紀初頭に作成された、シュメール語版ギルガメシュ諸伝承の写本。シュメール語版の編纂は紀元前3千年紀に遡る可能性が極めて高い。これは叙事詩を構成する個々の題材が、シュメール時代には既に流布していたことを示している。
時代が下がるとともに主題や思想が組み込まれ、シュメール伝承を基に紀元前1800年頃に最初のアッカド語版が完成すると、中期バビロニア版、ヒッタイト語版、フルリ語版など様々な方言に区分されるようになる。標準版と呼ばれるものは、それらの区分された版とは別に標準バビロニア語を用いて編集されたアッカド語版のことを指す(紀元前12世紀成立)。アッカド語にはアッシリア語や古バビロニア語など、方言程度の違いを有する幾つかの言語を含み、特にどの方言か明瞭でない場合にアッカド語、またはセム語と呼称する。

『オデュッセイア』(古代ギリシア語イオニア方言:ΟΔΥΣΣΕΙΑ, Ὀδύσσεια, Odysseia, ラテン語:Odyssea)は、『イーリアス』とともに「詩人ホメーロスの作」として伝承された古代ギリシアの長編叙事詩[1]。

『イーリアス』の続編作品にあたり、そのため叙事詩環の一つに数えられることもある。長編叙事詩では、古代ギリシア文学最古期にあたる。
イタケーの王である英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、10年間にもおよぶ漂泊が語られ、オデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す探索の旅も展開される。不在中に妃のペーネロペー(ペネロペ)に求婚した男たちに対する報復なども語られる。
紀元前8世紀頃に吟遊詩人が吟唱する作品として成立し、その作者はホメーロスと伝承されるが、紀元前6世紀頃から文字に書かれるようになり、現在の24巻からなる叙事詩に編集された。この文字化の事業は、伝承ではアテーナイのペリクレスに帰せられる。

古代ギリシアにおいては、ギリシア神話と同様に『オデュッセイア』と『イーリアス』は、教養ある市民が必ず知っているべき知識のひとつとされた。なお『イーリアス』と『オデュッセイア』が同一の作者によるものか否かは長年の議論があるところであり、一部の研究者によって、後者は前者よりも遅く成立し、かつそれぞれの編纂者が異なるとの想定がなされている(詳細はホメーロス問題を参照)。
構成
[ホメーロスの叙事詩を読み解く為の予備知識]

ホメーロスの叙事詩は、ギリシャ文化の成熟期前の先ギリシャ文化とでも言うべき、エーゲ海混成民族の口伝として伝えていた物語で、『吟遊詩人』が詠唱する形で伝えられてきた。その為、文学としてギリシャ文字で綴られるのはかなり後の事となる。口伝として「ムーサへの祈り」から始まり、『ムーサ(ゼウスとムネモシュネ・記憶、との間の子)』に「伝えられるべき物語」を懇願して始まりつつ、吟遊詩人の言葉を借りてムーサが「ある英雄」の話を伝え始めるという形式を取っている。口伝の叙事詩の性格上、主要人物がセリフ回しで物語を進める形態が多い。
ムーサへの祈り
ホメーロスの叙事詩には、朗誦の開始において「ムーサへの祈り」の句が入っている。これは話を始める契機としての重要な宣言であり、自然なかたちで詩のなかに織り込まれている。『オデュッセイア』では、最初の行は次のようになっている。

トロイア戦争が紀元前1200年代中期であるとの考古学的推定に基づき、トロイア陥落の100年以内の期間を調べた結果、『オデュッセイア』中の日食など天文現象に関する描写が歴史的事実の可能性があるとの研究報告が、2008年6月23日の『米科学アカデミー紀要』に発表された[3]。西欧諸語では原義から転じてしばしば「長い航海」の意味でも使われる(例:『2001年宇宙の旅』の原題 2001: A Space Odyssey)。

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある。
他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。
首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。
ヒッタイト人(Hittites)は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説(英語版)によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという二つの説が提唱されているが、決着していない。
近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。
ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。

画像 ボアズキョイ(現トルコ共和国、ハットゥシャ)のライオンの門

(資料ウイキペディア)


ギョベクリ・テペ 遺跡
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