2015年06月

宇宙で目に見える物質はたった5%
宇宙の組成宇宙が何でできているかを調べてみると、われわれが知っている、陽子や中性子など”目に見える”(観測されている)物質は全体の約5パーセントにすぎません。その5~6倍は未知の物質(ダークマター)が占めていると考えられます。残りはダークエネルギーと呼ばれている正体不明のものです(図1)。これまで観測に利用されてきたのは、光やX線、赤外線などの電磁波ですが、”暗黒”物質というのは、電磁波での観測では見ることができないため、”暗黒(ダーク)”という呼び名がついています。
 
ダークマター存在の証拠はいくつもある

ダークマターは様々な観測からその存在が示唆されてきました。1970年代後半、渦巻き銀河の回転速度分布を観測し、銀河内の明るい星や星間ガスではない、光では観測できないが重力を感じる物質の存在を立証しました(図2)。また、非常に重い物質(すなわち大きな重力)があると光が曲げられる、という「重力レンズ効果」からもダークマターの存在を示す証拠が得られています。
 
宇宙の成り立ちと密接に関わるダークマター

さらに、現在の宇宙は、銀河、銀河団、何もない空洞などが複雑に連なった大規模構造を形作っていることがわかってきました。この成り立ちは次のように考えられています。初期の宇宙のわずかなゆらぎ(図3)からダークマターの密度に差が生じ、密度の濃いところは重力によってさらにダークマターを引き寄せていき、しだいに目に見える物質であるチリやガスも引き寄せ、やがて星や銀河が形成されていきました。このようにダークマターは宇宙の成り立ちに非常に密接に関わっているのです。
 
観測の成功は新しい物理と宇宙の謎の解明につながる

ダークマターの正体は分かっていませんが、これらの観測事実からいくつかのその性質が推測されます。(1)電荷を持たず、(2)非常に重く、(3)安定である、ことです。このような物質は、現在われわれが知っている素粒子では説明ができません。新しい理論に基づく、未発見の素粒子が必要となります。その候補の一つがニュートラリーノと呼ばれる素粒子です。
 
われわれの身の回りにもダークマターは1リットル当たり約1個ほど存在すると考えられています。しかし、いまだ実験的に直接捕えられていません。ダークマターの直接観測は、現在の宇宙物理の最も大きな課題の一つです。直接観測に成功すれば、その正体を解明する手がかりが得られます。そして、ダークマターの正体が分かれば、宇宙創成メカニズムの理解が大きく進展すると考えられます。




 



260年前の日本の形(炭鉱)
三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。

 

立花宗茂の弟・立花直次は慶長19年(1614年)、常陸国筑波郡に5千石を与えられ、旗本となった。その長男・立花種次は元和7年(1621年)、旧領地であった筑後国三池郡に5000石加増の1万石を得て三池に移り、当藩が成立した。

 

第4代藩主・立花貫長の時代である元文3年(1738年)に石炭の採掘が始まり、平成9年(1997年)まで存続した三池炭鉱の礎となった。

 

下手渡藩(しもてどはん)は、政争に敗れた三池藩立花家が、文化3年(1806年)、陸奥国伊達郡下手渡(福島県伊達市月舘町下手渡)に左遷されたことにより、1万石にて立藩した。藩庁は下手渡陣屋に置かれた。初代藩主種善は三九ヶ条の御条目により、統治の基礎を定めた

第2代藩主・種温は幕府の会計奉行となり、のち老中格まで累進している。

嘉永3年(1850年)には約半分の知行地を旧領である三池郡内と領地替えを行った。


三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)及び熊本県荒尾市に坑口を持っていた炭鉱である。江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年、三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年3月30日に閉山した。

炭鉱関連の遺産が多数残っており、近代化遺産(産業遺産)の面からも注目されている。

2017年5月4日にイコモス(国際記念物遺跡会議)からユネスコへ「世界遺産リストに記載」勧告がなされた「明治日本の産業革命遺産―製鉄・鉄鋼、造船、石炭―」の23構成資産には、三池炭鉱宮原坑(みやのはらこう)、三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港なども含まれている。特に三池港は閘門を備えた現役の港であり、長崎造船所などとともに我が国の稼働資産としては初の世界遺産登録が見込まれることとなった。

 

1857年 平野山のほぼ南側に位置する生山と、平野山の間部(坑道)がつながってしまうという事件が起こり、両坑(両藩)の境界争いがはじまる。この境界争いが遠因となり、明治初期に三池炭鉱は官営となる。


明治時代以降

1873年 明治政府の官営事業となった。また、三潴県監獄の囚人を使役して坑外の石炭運搬や坑内の業務に当たらせ、これを皮切りに、明治中期頃まで周辺各県監獄の囚人が三池炭鉱で使役されることになった。

1876年 三井物産会社設立、官営三池炭鉱の輸送・販売を一手に取り扱った。

1883年 三池集治監開庁。囚人労働が本格化した。

1888年 三井組(三井財閥)に落札された。

1889年 三井組の経営となる。最高責任者(事務長)に任命された團琢磨(団琢磨)は、アメリカ留学で鉱山学・冶金学を学んだ後、工部省鉱山局の官吏として三池炭鉱に赴任していたが、払い下げと同時に三井に移籍した。

1891年 三池横須浜 - 七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通(三池炭鉱専用鉄道)。

1892年 三井鉱山が創立された。團(団)のもとで炭鉱経営の近代化、合理化が進められた。

 

1930年頃(昭和初頭)の三池地方の地図。

1898年 宮原坑で操業開始。

1908年 三池港が開港。

1913年 三池ガス発電所が運転開始。

1923年 三池炭鉱専用鉄道の電化が完成。

1930年 坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止(他の鉱山ではかなり以前に廃止されていた)。

1931年 三池集治監閉庁。

1940年 三川坑が竣工。
 

三池藩 10000石(外様) http://www5e.biglobe.ne.jp/~minjamin/h-daimyohaka/h-miike.html

紹運寺(福岡県大牟田市今山) 法輪寺(福岡県大牟田市今山)

福岡県の南端、熊本県に隣接する大牟田市は石炭の町として有名である。1889年から採掘事業を担った三井三池鉱業が最後の石炭坑道を閉めた1997年までの間、この地域の繁栄は石炭とともにあったといっても過言ではない。しかし旧産炭地と称せられる町のいずれもが閉山後の産業構造の転換に失敗し、今に至るまで過疎化の進展を食い止められずにいるが、大牟田市も例外ではなく、現在においても塗炭の苦しみに喘いでいる状況にある。

 
さて江戸時代において、この大牟田市を中心とする筑後国三池郡を支配した三池藩はわずか1万石ほどの小藩である。藩主・立花家は隣藩・柳川藩主と同姓で縁戚関係にはあるものの、支藩などではなく、れっきとした独立藩である。

そもそも初代藩主・種次公の父・立花直次公は戦国武将として著名な高橋紹運の実子で柳川藩初代・立花宗茂公の弟にあたる。兄・宗茂公は当時、高橋家の主家であった戸次道雪の養子となり、弟・直次公が高橋家を継ぐこととなったが、その後、幕府の命により両名とも立花姓に改名している。


三池藩の歴史としては、1621年に初代藩主・立花種次公が5000石の旗本より1万石に加増され立藩、しかし1806年には6代藩主・種周公が外様ながら幕府の要職・若年寄にまで昇進したにも関わらず、松平定信との路線対立により失脚、7代・種善公は陸奥国下手渡5000石の旗本に左遷させられ、旧三池領は幕府に収公されるという事態に陥っている。

ところで藩主の菩提寺は紹運寺と法輪寺の2ヶ所に分かれるが、三池陣屋の南東、三池山の麓に道を挟んで所在する。


紹運寺は初代種次公の祖父・高橋紹運の名に由来し、現在においても現役の寺として営まれているが、法輪寺については残念ながら廃寺となっており、竹林に囲まれた墓所のみが残されているに過ぎない。


紹運寺には初代・種次公および6代・種周公の嫡子・種徳公(非藩主)の笠塔婆形式の墓塔が並立している。どちらも相応の大きさではあるが、特に種次公の墓塔は定型化されていない朴訥な雰囲気が漂う。
この2基の藩主墓の周囲には一族のものと思しき墓塔も残されているが、若干荒れ気味である。また法輪寺墓所には、2代・種長公、3代・種明公、4代・貫長公、5代・長熈公の墓塔がある。いずれも笠塔婆形式のもので、一列に並んだ各墓前には多くの石燈籠が林立し壮観である。こちらも数基の石燈籠は倒れたままになっており、少々荒れ気味である。小藩の割には規模は大きく、立派なものである。  (07.4.23記)

 

三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。


略史

立花宗茂の弟・立花直次は慶長19年(1614年)、常陸国筑波郡に5千石を与えられ、旗本となった。その長男・立花種次は元和7年(1621年)、旧領地であった筑後国三池郡に5000石加増の1万石を得て三池に移り、当藩が成立した。

第4代藩主・立花貫長の時代である元文3年(1738年)に石炭の採掘が始まり、平成9年(1997年)まで存続した三池炭鉱の礎となった。

 

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu/miike.html

立花宗茂の実弟(高橋紹運の二男)は初め高橋家を継いでいたが、のち兄の立花を姓とし立花直次と名乗っていた。
関ヶ原で兄と行を伴にしたため、三池の旧領を没収されていた。立花直次は許されて常陸のうちに5千石を得ていたが、子の立花種次の時、5千石を加増のうえ、旧領の筑後三池に戻り、1万石の大名となる。


六代立花種周は外様ながら幕政に参与し、若年寄にまでなるが、失脚して咎めを受け、子の種明は陸奥下手渡に左遷。一度は5千石の旗本となって諸侯の列から外れるが、次ぎの種恭のとき三池に5千石を与えられ、1万石に復した。

立花種恭は明治元年に居所を陸奥下手渡から、三池に戻している。

ここでは陸奥下手渡への転封は、煩雑になるので、三池で一連の藩として表記する。


立花種周

生没年:1744-1809

父:筑後三池藩五代藩主 立花長熙

幼名:勝之助

1762-1805 筑後三池藩六代藩主

1762 従五位下

1762 出雲守

1789 大番頭

1792 奏者番

1792 寺社奉行

1793-1805 若年寄

正室:泉流院 於悦(父:山城淀藩五代藩主 稲葉正益)

1778-1796 種徳

1782-1807 辰(杉浦正直および池田長休室)

政之助

豊三郎

1794-1833 種善

1797-1855 種道

1798-1870 照(信濃須坂藩十代藩主 堀直興室)

1804-1840 屋山種実

立花種徳 

生没年:1778-1796

父:筑後三池藩六代藩主 立花種周

1795 従五位下

1795 和泉守

妻:

立花種道 

生没年:1797-1855

父:筑後三池藩六代藩主 立花種周

1855 安政地震

室:嘉年-1846(父:斑目周右衛門)

正室:-1855

1836-1905 種恭

1848-1919 加納久宜(加納氏へ)








 

48年振り再映画化「日本のいちばん長い日」(1967)
この映画が始めて作られたのが1967年、それから48年たって今年完成した同タイトル「日本のいちばん長い日」だが、今回は実際の著作者「半藤一利」氏の名が載る。

その当時の触れ込み。
日本のいちばん長い日(1967) 1967年8月3日公開「ムービーウォーカー」
大宅壮一名義(実際の著者は当時編集者だった半藤一利)で当時の政治家宮内省関係、元軍人や民間人から収録した実話を編集した同名原作(文芸春秋社刊)を、「上意討ち -拝領妻始末-」の橋本忍が脚色し、「殺人狂時代」の岡本喜八が監督した終戦秘話。撮影は「喜劇 駅前競馬」の村井博。http://movie.walkerplus.com/mv22016/

ダイジェスト
戦局が次第に不利になってきた日本に無条件降伏を求める米、英、中のポツダム宣言が、海外放送で傍受されたのは昭和20年7月26日午前6時である。直ちに翌27日、鈴木総理大臣官邸で緊急閣議が開かれた。
後、8月6日広島に原爆が投下され、8日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していたのであった。
第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ8月10日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。
12日、連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項にSubject toとあるのが隷属か制限の意味かで、政府首脳の間に大論争が行なわれ、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。
しかし、8月10四日の特別御前会議で、天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決ったのであった。
この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。一方、終戦処理のために14日午後一時、閣議が開かれ、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し8月15日正午、全国にラジオ放送することが決った。
午後11時50分、天皇陛下の録音は宮内省二階の御政務室で行われた。同じ頃、クーデター計画を押し進めている畑中少佐は近衛師団長森中将を説得していた。一方厚木302航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。
降伏に反対するグループは、バラバラに動いていた。そんな騒ぎの中で8月15日午前零時、房総沖の敵機動部隊に攻撃を加えた中野少将は、少しも終戦を知らなかった。その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を射殺、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜査を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てたのである。
しかし東部軍司令官田中大将は、このクーデターの鎮圧にあたり、畑中の意図を挫いたのであった。玉音放送の録音盤は徳川侍従の手によって皇后官事務官の軽金庫に納められていた。
午前4時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、5時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は、歴史の転換に伴う数々の出来事の渦中にあったのである。そして、日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、8月15日午前7時21分のことであった。
(引用記事〆)

この玉音放送は終戦記念日には毎回放送するのが定番となっている。やはりこれは日本国民の忘れてはならない凝縮された図として語り継がれるシーンだ。

以後、日本の進んできた道は周知の通りである。「明治維新」以来の欧米追随路線は、まったくかわることなく、むしろ重工業なと積極的に推進し、今日の高いレベルの生活水準を維持していることは国民の皆は自覚しているところだろうが、さて、それが一様に幸せだったのか、という問いに対しては明快な答えが出ない。

この平和な日本ではあるが、世界を見回すと、「平和時」、ということがなにか特別なような世界情勢で、それだけ平穏を維持することが大変であることを語っている。

テレビの街頭アンケートの「語り口」を耳にすることは、「戦争はまっぴらごめんだ。もうよしてくれ」という圧倒的な拒否意見がある。勿論、その意思は重要だが、平和を維持するために必要な方策は、そればかりでは立ち行かない。具体的なアクションを実行しなければ、戦争への進路は止められない。今審議されている「集団的自衛権」がそれだ。
さらに加えるべきは、権力者の握ってる既得権をしっかり監視し、国民から託され権利を有効に使うべき監視する体制組織をもつことである。

また、中央で行われている決定事項が、個人の既得権のみにつがなっていないか、それをあらゆる情報を駆使して明確にすることである。

1936年2月26日事件の前日の出来事で、まったく日常的な生活の中に、世界を震撼させるような、隠れ蓑が隠されている場合がある。その工作(かどうかは誰も類推していない)
が、どのようにして組織されたのか検証に値する重要なトラップである。


b. シーメンス事件と2.26事件の「斉藤実」について(第二幕)

平成27年という時節柄、国会審議「集団的自衛権」をめぐって与野党の攻防が続いている。日本が歴史的に通過してきた戦争体現の反省から、世界のパワーバランスも含めて、日本のしっかりした足ががりを固めるには、充分な議論と時間が必要で悔いのない法律策定を望みたい。

これから扱う題材は、その過去に犯してしまった戦犯を、どのような視点で捉えるかここで展開したい。 

明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。

前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。

山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。

山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。

山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世はイギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた。

事件の概要

シーメンス横浜支配人の吉田収吉の姪が海軍艦政本部部員の鈴木周二造船中監の妻であったことから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、イギリスのヴィッカースやアームストロングより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。

外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、平沼騏一郎によれば歴代の宮内大臣でこの謝礼を私有せず国庫に納めたのは波多野敬直だけだったという。また日本海軍でもロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。

この事件は、この謝礼を示す秘密書類をシーメンス社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が会社から盗み出し、買い取るよう1913年10月17日に東京支店長宛脅迫文書を送ったところに始まる。

要求金額は2500ポンドとも25000円ともいうがこの脅迫は拒否され失敗、カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員アンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売ってドイツへ帰国した。

シーメンス重役陣は同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされた当時海軍大臣の「斎藤実」は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。

その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却、一度事件は終結を見た。
(ウィキぺデア引用)


「斉藤実」暗殺 2・26事件

その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、2・26事件において斎藤は殺害された。

1936年2月26日、未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。

自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。
斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。

斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。
春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。

2・26事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。

2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。

2・26事件・の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。

当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。
もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。

斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。
生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
(引用ウィキぺデア〆)

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※注 事件直前の斎藤実の行動を追ってみると、不自然なところはまったく無いようにみえる。
2・26事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言う。
「2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画で、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は、気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか、と落ち着いて答えた」、という回顧がのこっている。

その後の時間軸の狂いが重要だ。「2・26事件・の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」、とある。

「検索記事を参考」
この日天皇が事件の知らせを聞いたのは午前5時40分であるから他の関係者に較べても早い方である。斎藤実邸が襲われたのは午前5時5分であるが、それ以前の歩兵第一連隊が決起したという知らせが侍従武官長本庄繁大将のもとに入った。 本庄は宿直の侍従武官中島鉄蔵少将に電話をした後、参内の準備をした。

中島は直ちに侍従甘露寺受長に知らせ、甘露寺が天皇に報告したものである。 天皇は直ちに陸軍の軍服を着用して政務室に出た。 肩には大元帥を示す四つの星が並んでいた。
午前6時頃、本庄、木戸、湯浅内相、広幡侍従次長が相次いで参内した。
夜来の雪が降りしきっており、政務室は寒かった。スチームの暖房がまだ利かず、天皇や拝謁した本庄の唇にも血の色は少なかった。

「本朝、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三連隊の一部が出動し、斎藤内大臣、岡田総理、鈴木侍従長、高橋蔵相の邸を襲いましてございます。 重臣たちの生死は未だ判明致しませぬが、みだりに軍隊を出動せしめたる件、容易ならざる事件と存じ、恐懼に堪えませぬ」本庄がそう報告すると、36歳の天皇は大きく眉をよせてその衝撃を表した。
「未曾有ノ不祥事デアル。速カニ事件ノ実態ヲ調ベ、軍隊ヲ正常ニ復セシメヨ」
天皇はそう言うと、本庄を退出せしめた。 http://www.c20.jp/1936/02226ji.html

前日、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがある」と、本人に注意を促していたが
斎藤実はその日の晩、別荘(千葉県一宮町)に帰る予定にしていた。
しかし、その本人の予定と警察当局の忠告はあらぬ方向から、逆転変更を余儀なくされる。
「2・26事件・の前夜、斎藤実はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」。

その映画鑑賞とグルー大使との歓談が弾み、とても「危険」と念を押されていた自宅にもどった。それが「運命のいたずら」とするには、あらゆる設定が暗殺現場(自宅、四谷区仲町三丁目現:新宿区若葉一丁目)に向かわせている。
(警視庁が未然に知っていた不穏情報をアメリカ大使のグルー氏が知らない、そんなことが戦況下で考えられるだろうか)

グルー氏外交官のデータ
その後は国務省に勤務し、1920年に駐デンマーク公使を、1921年には駐スイス公使を務める。また、1922年にはローザンヌ講和会議にアメリカ代表として参加するなど要職を務めた。
1927年には駐トルコ大使としてトルコに赴任し、その後1932年からは駐日大使となり、広田弘毅外務大臣と緊密な関係を築くことで日米関係の悪化を押しとどめるべく努力したが、親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領率いるアメリカの日本に対する姿勢は強硬の一途をたどり、「ハル・ノート」が日本政府に突き付けられた結果1941年12月の真珠湾攻撃により日米開戦するに至った。
翌年に戦時交換船で帰国した。帰国後は駐日大使時代の経験を『滞日十年』に著し、講演旅行では大変な人気を博した。

「三人委員会」
グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。
「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイは日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。
グルーは、個人的意見として、友人に、十分に発達した民主主義体制を日本に期待するのはばかげていると述懐していた。
1945年5月、グルーはトルーマン大統領に対して、天皇制はまさしく封建主義の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語った。
グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。
「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

生涯経歴 在日本アメリカ合衆国大使、国務長官代理、1880年5月27日 - 1965年5月25日 (資料ウィキぺデア)








 

常陸国 陸奥国 筑波国 上野国(上毛野国・かみつけの)「改」 上総国 ランク付け

親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。常陸国、上総国、上野国の三国。親王任国の守である親王は太守という。

常陸国はかつて日本の地方行政区分だった「令制国」の一つ。東海道に属する上総国、上野国、とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は「常陸介」であった。

そうして「親王任国」の国府が作られ長官として「常陸介」があたる。そして「上野国」、さらにもう一つ「上総介」か任じられた。当時の位として、この三つを親王任国の守である親王は太守と呼んだ。

天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。

桓武天皇(かんむ)は非常に多くの皇子・皇女を残し、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。

「清原夏野・・・」はこうした課題に加えて、当時親王が八省卿を兼務する慣例が成立していたことに問題]があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した。

当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。

親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の三国である。いずれも大国だった。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。

天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。

なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。

承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。
しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官したのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。 
※僭称 身分を越えた称号を勝手に名乗ること。また、その称号
群馬県・栃木県南西部には「毛野」と呼ばれる文化圏が存在したとされる。

伝承では、これがのちに「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しもつけの)」に分かれたという。なお「上」・「下」は、上総国・下総国同様、「都に近い方」を「上」としたものとされるが、吉備・越等の「前」「中」「後」との違いは明らかではない。またこの分裂は史書になく詳細は不明で、古くより議論がある。

『大宝律令』の制定においても、上毛野は「上毛野国(かみつけののくに/かみつけのくに)」として令制国の1つに定められた。
その後、上毛野国・下毛野国の国名は「上野国」・「下野国」と改められた。この際、「毛」の字は消えたものの「こうずけのくに」として読みにその名残をとどめている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく「こうずけ」と振られて表記される。



上総国について

千葉県は律令制以来の『房総三国』である上総国・安房国の全土と、下総国の一部から成り立っている。
「下総国」のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡・岡田郡の4郡と相馬郡・葛飾郡2郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡のさらにまた一部は東京都と埼玉県に編入されている。

1873年(明治6年)6月15日に、北西部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。
その後、1875年(明治8年)5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に、江戸川以西の区域を埼玉県に移管した。

後に、1899年(明治32年)に香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入され、現在の県域がほぼ確定した。

親王任国(しんのうにんごく)とは
 
常陸国、上総国、上野国の3国を指し、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。
親王任国の守である親王は太守という。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。

天長3年9月6日(826年10月10日)、「清原夏野の奏上に基づき制定」された。当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。
以降、これら3国の国司筆頭官である国守には必ず親王が補任されるようになった。
親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。

平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官され、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官されたのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。


「上野」の由来と読み

毛野地域の変遷
4世紀頃? 毛野
5世紀末頃? 上毛野 下毛野 那須
7世紀末 上毛野国  下毛野国
8世紀初頭 上野国  下野国
↓  ↓
現在の都道府県  群馬県  栃木県
古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる。
毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。
また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。
『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という名称の由来と推察されている。


桓武天皇(かんむてんのう)

桓武天皇は、日本の第50代天皇。
生年月日: 西暦737年  生まれ: 日本 死没: 西暦806年4月9日, 平安京
親: 光仁天皇、 高野新笠   子: 嵯峨天皇、 平城天皇、 淳和天皇
兄弟: 早良親王

白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済帰化人の子孫である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。

父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。

しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
[生] 天平9(737).京都 [没]大同1(806).3.17. 京都
 
第 50代の天皇 (在位 781~806) 。名は日本根子皇統弥照尊 (やまとねこすめろぎいやてりのみこと) 。
山部親王。光仁天皇第1皇子であったが,母が帰化人の出の高野新笠であったため皇太子となれなかった。



桓武天皇
山部皇子は、773年廃太子された他戸親王に代わり立太子したが、母の高野新笠が百済系渡来人の出身であったので周囲から反対された。しかし藤原百川らの強い推挙により実現した。
なお、この山部親王の立太子により天武系の皇統は完全に途絶えた。
781年病と老齢を理由に退位した父に代わり、即位して桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王とした。
782年氷上真人川継が謀反を起こしたが捕らえられて流刑に処せられた。
784年政情不安・凶作・疫病の流行を理由に年号を変え長岡京に遷都した。
785年頼みとしていた藤原百川の甥の中納言・式部卿藤原種継が暗殺された。
この事件により大伴継人・大伴竹良らが捕らえられ処刑された。
また早良親王が皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉され、のちに淡路に配流となりその道中で没した。
皇太子には長男の安殿親王とした。
これに連座して万葉歌人の大伴家持(すでに故人となっていた)らの官職を剥奪した。
この後大飢饉が発生するなど忌まわしい出来事が起こったので、陰陽師に占わせたところ、安殿親王の病は早良親王(怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追号する)の怨霊の祟りとされた。

794年 桓武天皇はその不吉から逃れるため和気清麻呂の提案を受けて平安京(この後1180年の福原遷都を除き、1869年の明治2年まで続いた都)に遷都した。
桓武天皇は、791年に坂上田村麻呂を征夷大将軍とし蝦夷を討たせ、また794年藤原継縄・菅野真道らに国史編纂(797年『続日本紀』として完成)を命じた。
804年には空海・最澄らを唐に派遣する。
桓武天皇はまた宗教界を統制し、さらに勘解由使を設置して国司の監督を強化し天皇による強力な政治を行った。

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))
日本の第50代天皇 在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日)


上総介広常 かずさのすけひろつね (?―1183)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。
上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。
その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。

保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)に従う。1180年(治承4)8月石橋山(いしばしやま)の敗戦後、安房(あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝(よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田(すみだ)川辺に参会、服属した。

以後、常陸(ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺(ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。[杉橋隆夫]


常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。
(参考 weblio











讖緯説~諸説
前項では、「讖緯説」は五行陰陽説から成立していると書いたが、その「五行陰陽説」にしても、今で云う科学的根拠は皆無で、ひたすら呪術的な要素が強い。

時の為政者たちは、国家(当時は小規模村落集合体)という社会の方向性を示す使命があり、また呪術師が集落の長である場合が多かった。その例は紀元前エジプト王にまつわる文献を読んでも、そのことが記録されている。

この科学技術オンリーの現代で、占い卜辞(亀甲占い)のテクニックを使って政治などしたら、世界のひんしゅくを買うが、当時としては、当たる確率の高い卜辞遣いが、優れた政治の長と見られていた。また、専門職を雇い入れ国の政策策定のヒントとしていた。陰陽師で知られる「安倍晴明」はそのよい例だ。


■宇宙のサイクルは1320年(参考 http://grnba.com/iiyama/html/20070919220541/
 日本書紀の宇宙観が讖緯説によってできていることについては、諸学説間に異論はない。讖緯説の説明は、簡素な事典では説明が足りないかもしれないが、説明があっても、その時間観・歴史観は、現代人のようなベクトル的な時間・歴史ではなく、表象と顕現の差異を時間・歴史として構造化したものなので、現代人には理解しづらい。だが、理解しづらいからといって避けるわけにもいかない。

 日本書紀の讖緯説の影響のなかでも、特にその起源の設定は讖緯暦運説に依存している。これに基づいて、日本の神話的な起源の時刻が算出されている。であれば、逆に算出基準となった時刻が存在することがわかる。そして、この算出基準となった時刻こそが、この宇宙観に実質的に最も意味をもった事実を反映していることも明かだろう。つまり、それが日本の実質的な起源の時刻なのだ。
 ではそれは、いつなのか?

 まず、その算出の方法論だが、一般的には、このように理解されている。つまり、干支は60年で一巡し、このサイクルを一元とする。また、21元で一蔀となり、世界が改まる、と。このため、一蔀を単純計算で1260年とする。

 井上光貞の日本歴史の概説書などを一瞥すると、信じがたいことだが、これが日本の古代史学の定説になっているようだ。坂本太郎(「古事記の研究」)に到ってはそれゆえ、起源に1260年を加算し、日本書紀の算出基準年を推古九年として、なにも特記すべきできごとのないこの年に対して、それゆえなにか重要な年であるかような倒錯の議論まで発展させている。この定説化の根は明治時代の那珂通世の論考なのだが、これは再考するまでもなく、先のような単純計算に依存しているにすぎない。これらは実は明白な誤りなのである。
 
 讖緯暦運説の原点は『六芸論』や『駁五経異義』を著したとされる後漢代の経学の学者鄭玄(127~200)の説であるが、その算出を説明する原典はすでに存在しない。幸い、日本の三善清行の『革命勘文』(901年醍醐天皇に献納)にはその引用と思われる文が残っている。
 「鄭玄曰く、天道は遠からず、35にして変ず。六甲を一元と為す。46、26交相乗ず。7元に3変あり。37相乗じ、21元を一蔀と為す。合わせて1320年」
 これを読めば誰でもわかるように、那珂などは「21元を一蔀と為す」だけに注目しているので、鄭玄が最終的に1320とする算出過程を理解しているわけではない。しいて言えば、那珂などの近代の史学者はわざと鄭玄の説を誤読している。

 鄭玄の算出については、那珂などのように、明治という近代国家の精神風土に毒されていない近世以前では、取り分け問題として指摘されることもなかった。代わりに、どちらかといえばこの算術自体が秘儀のようにみなされていたふしもある。いずれにせよ、算出方法の内部過程の正しさは広く信任され、算出結果も当たり前のこととして信頼されていた。
 そこで、このような秘儀の内側に1320年という算出結果の真偽を探ろうとする試みにも意味はあるだろう。だが、さしあたって、この算出方法の探求自体は必要ない。当面重要なことは、1320年という算出結果が正しいかどうかだけだ。
 結論を言えば1320年で正しい。なぜなら、鄭玄自身が宇宙のサイクルを間違いなく1320年としていたことは、中国史の知識があれば、簡単に理解できることからだ。
(引用記事〆)

好都合なので作家の林房堆氏著『神武天皇実在論』から引用させて戴くと 「平田俊春教授は『神武天皇紀の紀年の意義』と『古代、中世における神武紀元の使用』の二論文を書いている。

その趣旨を要約抜粋すれば、「神武天皇の時代から少なくとも十数代は、全く暦の行なわれなかった時代であるから、紀年のない古事記的形態が書紀より古いものであり、書紀の紀年は故事伝承をもとにして作為したものであることはいうまでもない」。
「神武天皇元年が讖緯説(しんいせつ)に基づいて、西暦前660年に置かれている事は学会の定説になっている」。「この讖緯説は中国の道家の学説で、1260年ごとに大変革が起こり、その年を辛酉(しんゆう)と甲子(こうし)とするものであるが、これを日本にあてはめて神武元年を推定したのは、聖徳太子の時代であったと考えられる」。

神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。
このあとに林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。まさしく推定であって史実とはいえない。
しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。
那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。

東洋大学の市村其三郎教授の説である。 『神武東遷』を書いた安本美典教授は「数理文献学」という独特の学問の上に立って、「自分の説も市村説に一致する。つまり神武天皇は『日本書紀』の記載よりもずっと後代の人で、まず九州に国をつくって、それから大和に東遷した」と結論している。
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/32878799.html
(引用記事〆)

讖緯説(シンイセツ)
讖緯説とは中国の漢代の末から盛んになった思想で、歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする説である。
干支が一巡する60年を一元とし、21元を一蔀として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち1260年ごとに国家に大変革がおとずれるというのである。
601(推古天皇9)年が辛酉の年にあたっているから、これより逆算して1260年さかのぼった紀元前660年をもって神武天皇の即位元年とし、それ以後の事件を適当な時代にあてはめて歴史書としての体裁をととのえたもので、後に編纂された「日本書紀」の紀年もこのとき採用した紀年法がもとになっているといわれる。笠原一男 『詳説日本史研究』

革命のある年
三革命:「革」は改まるの意。陰陽道で、革令(甲子の年)、革運(戊辰の年)、革命(辛酉の年)の総称。これらの年には変事が多いとして改元などが行なわれた。例;戊辰戦争。辛酉の延喜元年には菅公大宰府へ左遷。甲子園球場も甲子の年にできた。
 
辛酉革命:中国古代の讖緯説(しんいせつ)に基づき、辛酉の年には革命が起こるとする説。
日本では神武帝即位は辛酉とされ、また平安初期、三善清行の上奏(和漢の史書に見えた甲子・辛酉の年に起こった変事を列挙して上奏した) により辛酉に当たる901年を延喜と改元して後、わずかの例外を除き、辛酉の年には歴代改元があった。

讖緯説(しんいせつ):
「讖」は予言、「緯」は緯書の意。(儒教の経典 経書に付託した予言の書の一つが緯書。この他に七緯ある。孔子作というが前漢末の偽作)

讖緯説は中国古代の予言説。陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測。先秦時代から起こり漢代から盛行、弊害が多いので晋以後 しばしば禁ぜられた。どちらかといえば儒者が唱え始めたもの。

『暦ものがたり』1982 角川選書
岡田 芳朗(おかだ よしろう)などを参考にした。

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ザクロに関する資料

ザクロ(学名: Punica)の原産地はトルコからイラン。
古代ローマの博物学者プリニウスの『博物誌』では、ザクロはカルタゴ周辺(Punica はカルタゴを意味する Poeniポエニのこと )が原産地と考えていました。
日本に入ってきたのは9世紀。可食部は皮と種子を除いた種衣の部分で、果汁をザクロジュースや グレナデン・シロップ、 ザクロソース(トルコ南東部・シリア・レバノン)などに使われたりします。トルコ南部のザクロソースは大変美味です。

ザクロですが古代には医薬品として駆虫薬として皮が使われていました。プリニウスの「博物誌」やディオスコリデスの「薬物誌」にも薬としての製法が書かれています。皮の主な成分は、0.3 - 1 % 程度の揮発性アルカロイドと 23 - 28 % 程度のタンニン。
これは薬種店の乾燥したザクロの花。これと泥を混ぜてパックするとニキビが治るそうです。一時期ザクロにはエストロゲンがあると騒がれたことがありました。種子油にはエストロゲン様物質が微量に認められますが、女性ホルモン様物質は果汁には含まれていないことが明らかになっています。

ホルモン様物質はないにしても、抗酸化作用のある「デルフィニジン」「シアニジン」などのアントシアニンや、「エラグ酸」などのタンニン類が含まれているため、生活習慣病予防に効果があると考えられています。ジュースはちょっと苦いです。
また皮部分は草木染め染色に用いられトルコの絨毯やキリムの黄色に用いられていており、人々の生活と密接につながっていました。 次回はザクロソースについて記述します。

Punica granatum. 地中海の東部から北西インドが原産です。わが国へは、古い時代に中国から渡来しました。日本では食用というより、観賞用に栽培されています。多くの園芸品種があり、八重咲きの「はなざくろ」には果実がなりません。シェークスピアの「ロミオ 

フェニキア Phoenicia; Phoinikē
古代,地中海に発展した民族と国家。現在のレバノンとほぼ地域的に一致。ヘロドトスによれば,フェニキア人は前 3000年頃ペルシア湾から東地中海地方へ移住してきたという。フェニキア人は北西セム語系諸族で,カルメル山から北へテュロス,シドン,ベイルート,ビブロス,ウガリト (ラス・シャムラ) などの東地中海沿岸地域に居住した。

関連記事 http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html




 

神楽の舞では古代神話を想定して狩衣を身にまとい神としての具現化をはかる。そして顔に「神」であるための神面を装着する。演者はその面を着けてカミに化身する。演者は神の化身であり自然界に宿る諸々の霊であり人間存在の微塵も見せてはならない。

奈良時代に外来芸能として中国より伝わった伎楽があるが、その面は縫いぐるみに近く頭部分を全て隠し神の頭だ。

この伎楽、詳細なわけは判らないが惜しいことに廃絶してしまった。それを復活しようと狂言師の野村万之丞(まんのじょう・故人)氏は一人孤軍奮闘していた。

「こうした里神楽の歴史、変遷の様子をはっきりさせたくとも無理な状態です。出来るだけ古きを尋ねるとすれば芸能的に見るより仕様がないように思われます」。

研究家、「西角井正大」氏は詳細な裏付け情報をもとに「里神楽」をそう分析したのである。
日本に伝わる伝承「芸」は諸々の理由如何を問わず、どんな障害があろうともその存在を世にアピールする必然性がある。それに携わる者たちはその使命感をもって神楽に臨んでいるが現実には生活様式の変化にともなう地方過疎、継承者不在そして衰退という厳しい状況の中にある。
さらに生まれる子供の数が年を追うごとに減っている実態は将来の不安を予感させる。日常生活の断片とは考えにくい今日的な状況の中の伝統芸能の神楽に、その価値を認めようとする人間が究めて少ないことも槙田を憂鬱にさせる一因なのである。

邦楽古典音楽のもう一つに雅楽がある。雅楽は明治以前まで宮中の秘匿性の強い音楽として門外不出であった。雅楽は人に聴かせるための音楽では無く、自然界の気象現象を音に変換し、天子がそれを奏でる音律を雅楽と呼ぶからである。
古来より宮中内でしか演奏されていなかった。奈良時代に諸外国から渡来した雅楽は、もともと占い呪術的要素を含んでいるようだ。
『史記』にもその記述があるくらいだから歴史は相当古いと思われるが、中国より導入され奈良時代では既に帰化し現在の雅楽に至っている。そのため詳細な定めごとが多くそして何より型と統一性を遵守する。

今でも中国、韓国に雅楽は残っているが日本の雅楽とは趣を別にする。それでも親戚関係の音楽であるから韓国の雅楽はその片鱗を聴かせている。クラシック室内楽と同系と思えるのは、それが音の構成という本質が根底にあるからだろう。雅楽の場合の演奏者は伶人というが、伶人は楽器と譜面があれば全国どこに出向いても他のメンバーとセッション可能である。

それは神楽とまったく正反対の音楽形態である。神楽は譜面など存在しない。当然、覚書き、指南書の類いなどあるはずがない。師匠連は弟子達にそれらを一切教えない。どうしてかと言えば師匠たちも又一切そのことを教わっていないからだ。知らないものは教えようがない。伝授するのは口伝による「舞」の形と音の律のみで、ひたすら習得完成するまで口伝で教え込む。そして免許皆伝は師匠が引退か、若しくは死んだ時である。したがって二十年や三十年は修行期間なのである。 

狂言師の野村万之丞氏(故人)は三歳から舞台に立ったという。幼少の頃袴を佩くのに左足から佩けと躾られた。
その時、「何故左なのか」と祖父に問えば、先代の教えであると一蹴され、有無を言わず納得したと述懐している。伝統とは「型」であり型を変形することなく伝承するものなのである。
神楽伝承は苦行ではない。家族的雰囲気が伝統を支え、神楽師は地元氏子の跡継ぎ伜の長男であることが必須条件で必然的に神楽に集まる人々はよそ者ではない。ある地域では世襲の家系もある。一口で表現できないのが伝承芸能の神楽であり、そのような集まりであるから「捉え所がない」ようにも見える。
そのことは神楽そのものにも反映し比喩として、歌舞伎にある「見栄を切る」しぐさのようなメリハリに欠ける。
もともと神楽は神を対象に演じているのだから確固たる説は不要なのかも知れない。茫洋とか朦朧とか曖昧とか、なにしろ輪郭が見えない。ゆえに自分たちの神楽が何時から始まったのか、という伝承年代もはっきりしない。そのようなごく日本的な組織の神楽が全国約三千か所あり、それぞれが独自のスタイルで民族的伝統を継承しているのである。勿論金銭は一銭たりとも貰わず無償奉仕するのが神楽である。そこには今でいう商業ベースのコマーシャル的要素など入り込む余地はまったくない。古代朝廷に神楽の発祥とも思われる御神楽舞がある。その出所が里の神楽と同一のもので時代の移り変わりによって変化したのか、またそうでないのか。

古代信仰の対象は自然界の営みにあり樹々の生い茂る森である。後に祠を建て、やがて大きな建築物となって神が鎮座する。原始信仰の形は次第に変化し意識の中の神から具現の神へと進化している。そして一つの形式が確立した。

古代朝廷の祭祀における儀式では「御神楽」が行われていた。前述の猿女君一族による鎮魂の儀式で、これは呪術の系統が色濃く残っており古代雅楽と同じように、宮中の儀式であり外に出ることはなかった。それは全国の里に伝承される神楽とは趣を異にする。

日本では古代より独自の音楽があった。アジア一帯にルーツを持つ雅楽が導入される以前である。神楽歌・催馬楽・朗詠・東遊・久米歌・大歌・倭歌、などであり、これらは神武天皇や安閑天皇にまつわる音楽と伝え聞く。

神楽歌は宮中の「内侍所御神楽」という儀式で歌うもので古代歌謡の基本的な歌である。この神楽は、これまで述べてきた里神楽とは異質のもので朝廷の神楽歌なのだ。内侍所は賢所ともいい八咫の神鏡を安置する御殿をいう。内侍の司、その長官は天皇に常侍し、その配下の内侍の司は、尚侍・典侍・掌侍・女嬬の職があり総て女の職である。 
ほかでも内侍は巫女をさし、安芸国(広島)厳島神社に奉仕する巫女で、「優なる舞姫多く候」と平家物語にある。 

内侍所の八咫の神鏡を安置する御殿。その神鏡を舞にした里神楽「八咫宝鏡」が天鈿女命によって今でも玉前神社の神楽として舞われているが、内侍所との関連性を伝え聞いたことは全く無い。また、宮中で行われる神楽は古来より巫女の手によって舞われてきた。御巫・猿女らが参加し鎮魂祭の呪儀を執り行なう。伝統的にその祭は猿女が奉仕するのが習わしである。また倭歌、なども鎮魂祭に楽奏される。
この猿女君とは、前でも述べたが女系の一族で朝廷の神事では欠かせない祭祀を担う一族集団であった。『四時祭式』『皇太神宮儀式帳』などの記載の中に「猿女君が鎮魂祭の神事に奉仕」とあり、そして猿女君の遠祖は天鈿女命なのである。里の神楽にもこの天鈿女命がいる。
天鈿女命は里の神楽においても重要な神である。天照大神にまつわる天の磐戸物語は天鈿女命なくして成立しない舞だ。とすれば宮中の呪儀に参加する猿女君と、里の神楽の天鈿女命は朝廷のそれとは形は違うにしろ「話の基」の出所が同一と考えても不思議はない。
ところが里の神楽においては伝承伝記が無いため、その事を検証するための書物が存在しない。書き記した文書がないという事の一つには、代々伝わる家系で世襲性の一子相伝と同じく他に流出することを嫌った事情がそうさせたと思われるが、そんなことも証拠がなければ無意味な詮索だろう。

御神楽と里の神楽の起源を追ってみたが、その概要が依然として姿を捉えらえられない。神楽は修験者によって行われてきたという有力な説があるが、ある時代の説であって総括的な意味と思えないところに神楽の不思議さがある。
他の説として、律令時代の制度で舎人という職があった。官僚のなかでも末端の役職で種々雑多なセクションを担っていた。その一つに芸能を専門にしている集団がいた。芸能といっても今のそれとは性格を異にして、おおかた神事や祭を司る呪術要素の儀式を担っていた。おそらく、それは日本の古代社会において先進文化を導入するための他民族集団と思われる。猿女君、忌部、土師などがそれにあたる。朝廷の神事に仕え、そしてそれに関係する祭祀用具などを作る一族である。それは日本書記にも載っており、又それを裏付ける遺跡発掘もあった。 

日本書記によれば雄略天皇(四五六~四七九)の時代に渡来系氏族を飛鳥の住まわせた、との記述がある。その遺跡は奈良の清水谷遺跡で古墳時代中期の大壁建物と呼ばれる朝鮮半島系の建物跡六棟の遺跡であった。  

この遺跡年代は五世紀後半であることが判っている。そのことは、かなり早い時代より渡来系民族が日本に渡っていたことを裏付けるものである。この出土発掘は平成13年12月8日の読売新聞で報道されている。

雄略天皇の時代からおよそ一世紀後に聖徳太子が摂政として出現している。太子の功績は何といっても憲法十七条制定にあるが太子は音楽についても言及し「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」と述べており外国の音楽を日本に導入することにも力を入れている。
太子は蘇我馬子と協力して国史の編纂に着手する。国史の編纂は古代日本を国際社会の仲間入りとして諸外国に向けアピールする重要な案件である。国史ということになれば国としてのアイデンティティが必要不可欠となる。隣国の中国、朝鮮諸国の歴史に準じて勘案する必要もあった。近隣諸外国に比肩する建国の年紀を創設する必要にせまられた。
紀元前の古代中国の春秋戦国時代に興った陰陽五行説思想に太子は倣った。冠位十二階は五行思想の徳目に、それを総括する「徳」を加えそして衣服の色も五行思想に基く。また憲法の条数十七は陽の極数九と陰の極数八との和である、と陰陽説が引き合いに出される。この十七という数は古代ペルシア宗教の詩篇ガーサーの詩の数で、それは『アヴェスタ』に収められている。世界宗教文献の中で最も貴重で深遠な教義を語るとされる。

「讖緯説」は未来を予言しそれを書にしたもので漢時代に普及しているが、そのもとは陰陽五行説にある。

それらは占いと予言の説で政治的に利用されたらしい。その時代に太子が讖緯説に強い関心があったのは為政者としてしかるべき判断であったろう。
その讖緯説には諸々の占いと予言が説かれている。それによれば辛酉革命・甲子革命という説があり、六十干支のうち辛酉の年には天命が革まって王朝が交替するような激変があり、その三年後の甲子の年には政治の交替の年、と予言している。
これは中国の歴史を基盤にした発想の「易姓革命」の天命より王朝が崩壊する年であり、日本とは国情が著しく相違しているが、その当時では東アジアの権力者には蔓延していた思想である、そう岡田芳朗氏は記述している。

聖徳太子による国史の編纂は大切な仕事であったに違いない。「辛酉の年は天命が革まって王朝が交替する」の予言をもとに推古天皇九年・辛酉(601)から1260遡った辛酉年(前660)を日本建国の年である神武天皇即位元年と定めた。

「そのような神武天皇即位の年紀は朝廷の所持した文書や語り部達の伝承した誦習ではいたる所に不備が生じてしまい、後の『古事記』『日本書記』の編纂者を惑わせる結果となってしまった」、と岡田芳朗氏は『暦ものがたり』の中で述べている。

日本政治の原点を作り上げた総合プロデューサー聖徳太子は、その当時の儀式に欠かせない音楽にも重点をおき「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」と、積極的に外来音楽の導入をはかってっいる。蕃楽とは外国人による音楽で蕃の意はもともと蛮族から来ているという。

そうした外交手腕は続く次の時代にも引き継がれていた。吉備真備(693~775)は遣唐使として渡唐し717年から18年間に渡り滞在し、精力的に唐の先進文化の当時としてはハイテクな知識を学び日本に持ち帰っている。
『大衍暦経一巻』『大衍暦立成十二巻』と「側影鉄尺一枚」など政治に重要な文献を持ち帰ったが、銅律管・写律管の方磬十二条・『楽書要録』など音楽関係の知識も吸収していた。

朝廷では雅楽寮が作られ唐・百済・高麗・新羅などの音楽を学ぶ人を集めた。この頃に出来上がったスタイルが今の雅楽の原点とされている。それは奈良時代であるが、それより古く太子の時代では百済の楽人が来訪して音楽を伝えたり、百済から楽器を持ち帰ったり、百済から味摩之が朝廷に訪れて伎楽を伝授している。 

また592年に四天王寺が創建され、太子は雅楽・伎楽を奨励しており、四天王寺に秦姓の楽人が誕生するなど「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」の言葉どおり、朝廷主導の諸外国の音楽導入が積極的に進んでいることが判る。
四天王寺では現在でも雅楽・舞楽が奉納され聖徳太子の命日の日、旧暦の2月22日には聖霊会、が営まれている。太子は古代においての先進諸国のジャンルの音楽を率先して日本に入れようしたのだろう。その当時の音楽は当然「伎楽」そして「雅楽」であったが現在残っているのは雅楽だけである。

古来より雅楽は朝廷の宮中の音楽として演奏されていたし現在の雅楽でも御神楽には雅楽の音律とは違うメロディーが演奏されている。 

古くより伝承され、そして記録として残っている神話では夥しい数の神が登場しているが偶像崇拝の対象とはなっていない。勿論まったく無い訳ではないが、木彫りに岩彩を施した偶像神は異次元の神であり人間世界との隔たりが余りにも大きい。それに較べ聖徳太子像は、史実にのっとり極めて信憑性の高い「神」であり、現代社会に住む人々にとって真の意味で信仰対象になり得るのだろう。
また、現在でも聖徳太子が現化しそうな神籬空間が身近かにあり、自分の住む土地に残っていることが文化である。古代より自然の姿のままの山を神とする信仰は少なくない。社とは、その昔地を清め壇を作り神を祭った場所をいい建造物の社殿を指すものではなかった。
いつの時代より始まったのか定かではないが、辺りを樹々で囲み、そこに神を招来するための場を設定した。それが神籬であり神を祭る時、清浄の地を選び、そのまわりに常磐木を植えて神霊のやどる場所とした。

シルクロードは西と東の文明を結ぶ古代より重要な道であり東の文明を語るとき今なおアフガニスタン・タジキスタンルートを迂回することができない。中央アジアの新疆ウイグル自治区の烏魯木斉、そこにはペルシア系の人々がいて、時代が代わるとトルコ系のウイグル人によってイスラム社会に変わるという歴史があった。 
古代より東西を結ぶシルクロードは交易ルートであり中央アジアを境として西にはアイハヌム遺跡に「ゼウス神像の左足」がある。ウルムチから東に向えば儒教道教など紀元前より哲学思想が考えられていた。

紀元前7世紀古代ペルシアの宗教を基盤にゾロアスター教を創唱したのが予言者ゾロアスターである。アムダリアにはギリシア人の痕跡がのこっていたが、その地はペルシア人が住んでいた土地でありゾロアスター教のアフラ・マズダーの聖なる場所としてもおかしくなかった。
天空の神を示す雷の矢と鷲の翼は東西文化の融合を示す遺跡のアイハヌム。 そのアイハヌム遺跡のあった場所から、さらに西には古代オアシス都市のサマルカンドがある。紀元前6世紀、東西貿易中継地として発展しシルクロードの十字路として古代より民族の攻防があった。古代アフラシャブの丘マラカンドはペルシア系のソグド人が支配していた。14世紀にサマルカンドはチムール帝国によって支配され、その地は天山山脈を境として東西交易の歴史が克明にのこっていた場所でもある。

ウルムチには「胡旋舞」という伝統的な古い舞が地元住民の「クチャ歌舞団」によって今でも舞われている。胡旋舞は旋回を基本とする舞で胡は西方をの意味をもつ。遥か遠く距離を隔てた日本にも同じような舞がありそれが神楽だった。高貴な意識を表わす民族衣装はまったく異なるが旋回する舞の基本動作は同じである。神楽の舞はグルグル回り、反回り、大回り小回りと旋回の繰返しとサイを切る。
サイ切りと旋回の舞の神楽に胡旋舞を重ねてみるのは単なる妄想であるのか。「旋回動作を基本とするのが舞、神迎えに跳躍動作を基本とするのが踊り」とする西角井説に、「胡旋舞」を神楽の基本的旋回舞にある意味を見つけ出そうとするには、さらに強固な考証を必要とする。

旋回動作とサイ切りの神楽は儀式的であり形式的でもある。そのことについては「修験道色の強い演目として四季と土用の所分けを物語る王子物や方位鎮めを骨子とした五行物が普及している」、とする解釈の他に理解する手立てを探すことができない。しかし陰陽五行思想は東西南北の方位に対して呪術の考えがあり「方位鎮めの呪儀」は理にかなっている。その陰陽五行思想も取り込んでいる修験道は神楽の発祥起源において重要な意味を含んでいるように思えた。

アレクサンドロス大王の東方遠征によってもたらされた文化の伝播が時代を下って中国南北朝時代に拝火教が移入したという。
そしてまた大王のペルシア征服後ミトラ崇拝は紀元前3世紀頃からオリエント全域に広がり小アジア・ローマ帝国に伝播した。紀元3世紀ミトラは密儀宗教の有力な神となってローマで信仰され太陽の復活を祝う冬至の後でキリスト教のクリスマス降誕祭の原形とされる。
古代宗教に共通する冬至にまつわる太陽神復活の祈り。太陽神アマテラスの再出現は冬至の日に行われる太陽神復活の鎮魂儀式で神話的要素のプロパガンダである。それは生命の根源である太陽の衰弱と死と復活という祈りに違いなかった。この太陽を神とする信仰は世界共通といってもいいだろう。

日本神話は朝廷の所持していた文書の帝紀・旧辞や語り部達の伝承した誦習をもとに編集され、推古天皇9年から1260年遡った年の紀元前660年を日本建国元年と定めた。スメラミコトの系譜は西暦にすると今から2662年前である。そこから神々の世界に代っていく。そこには詳細な神話伝説が物語として書かれていた。

その一節に次の件がある。「海神之女、豊玉毘売之従婢、玉器持ちて水酌ま将とする時、井於光有り」として、水に映す影の描写をしているが、この説話は影と霊魂を同一視する観念信仰から来ており、インドネシア・メラネシアに分布する水中に映る影が男女の結びの縁を語るものとされている。
同様の話はニューブリテン島ガゼル半島にも残っている。またトヨタマヒメの神性については、その正体の多くが水棲動物で、その母親から生まれた子が英雄になるという説話は中国や朝鮮に分布し、その種の神話では異なった動物トーテムの氏族出身の妻が生家から伝えたトーテム祭儀を行った反映である、との説もある。
トヨタマヒメを鰐とするのはアジア各地に分布する神話類型のスタイルで古代神話が日本独自のものでないことを教えている。そのワニは日本においてサメと解するのがもっぱらの見識なのである。ワニを何故サメと解釈するか科学的根拠ではなく文献上の考察に拠っている。 

その説に異を唱えるわけではないが巨大ワニの化石がアフリカのニジェールで発見されている。全長12メートルで体重約8トン、頭骨は1.6メートルもあり恐竜時代に生存していたワニであるという。このワニが神話のモデルというわけではないが全く荒唐無稽と片付けるには確かな証拠の化石であり、また神秘性を含んでいる。

世界各地の秘境辺境の奥地では現代でも近代文明の恩恵にまったく浴しない部族の生活がある。我々先進国では文化的な生活をする上で近代的文化のテクノロジーが何一つ欠けても日常生活に不自由を感じる。それとは全く別の世界では石器時代そのままの生活形態を持続しながら少数民族が我々と同じ時間帯の中でこの地球上で暮らしている。

その差異は何か、そしてそのズレは何を意味しているのか。人間が思い描く概念の価値観は多種多用であるはずだか近代世界歴史の価値観は古くより欧米のものによっている。
そのことはこれまで述べてきたヨーロッパの宗教歴史と同じ道を歩み、そして今日の物理科学の礎はイオニアのタレスに始まるといっていい。
この二者の価値観が現代先進国の基本的考えとなっていることは誰もが認めるところだ。だが地球上の人間世界はそれがすべてというわけではない。その価値をごく限られた人口割合で共有しているにすぎない。その事実を当然のように考え石器時代の生活は一万年前の歴史に埋没していると考えている。

近代文明の技術とは人間にとって必要不可欠な要素であるのかと考えさせられてしまう。そこには原始そのままの儀式が伝えられていた。
日本の伝統的宗教儀式は神社にその型をとどめている。神社と祭は日本人の現風景であり、古くより伝えられている諸々の儀礼的な型は誰でも幼い頃から視覚的に見て知っている。そのワケを知らずとも生まれた土地の風習とか慣習は既成のスタイルとして自然に受け入れている。
ある時、フッと思った。その伝統的な儀礼は何のためにしているのか、そのこと自体に何の意味があると言うのか、という衝動的な疑問がわいてくることを・・・。

神社の柘榴(ザクロ)

神社の杜の一画に「柘榴」が何気なくたっている。いつみても同じ大きさで、子供のころ見た大きさと、大人になってから見た大きさがまったく同じで、それほど生育が遅い樹幹の植物だ。
その柘榴には、人知れず深い、深い、訳がある。

古代ギリシャ、エジプト、ペルシャの妙薬ザクロ
 
「古代ギリシャでは、多くの医学書にザクロの効能が書かれています。医学の父、ヒポクラテス (紀元前4-5世紀)の医学書はもちろん、哲学者デオフラストス(紀元前3-4世紀)の医学  書にもザクロの効用についての記述が見られます。
  また、パピルスに書かれたエジプトの医学書をはじめ、中国の漢方書や、インド最古の医学書 『アーユルヴィーダ』にもその効果が記載されています。」
 「イランでは、ザクロは汚れた血液を浄化してくれる果実であると考えられています。イランに おける、いわゆるペルシャ医学は、アラビア医学と同様に、紀元前5世紀頃のエンペドクレス(前490-前430頃)とヒポクラテス(前460-前375頃)によるギリシャ医学に端を発しています。」

●古代ローマ プリニウスの『博物誌』とザクロ 
 
 「プリニウスは古代ローマにおいて傑出した著述家、博物学者、自然学者、法律家、雄弁家で あり、さらには将軍・官吏であった人です。その彼が自然の営みを克明に記したのが百科全書 的膨大な著作『博物誌』です。この『博物誌』には、ザクロについて実に多くの記述が見られます。
   ①寄生虫駆除‥‥ザクロ種子をコリアンダーの種子と一緒にオリーブ油に入れて飲む。
    ②下痢止め‥‥‥焼いたザクロの実をすりつぶして飲み、健胃剤としても利用していた。
    ③ザクロの汁をハッカと混ぜて飲んで嘔吐やしゃっくりを止めていた。
    ④ザクロの皮をアーモンド油と煎じて、耳の中の虫を退治したり、難聴、耳鳴り、化膿な どの耳の 病気に効能を発 揮した。これは頭痛や眼の痛みも消失させた。
    ⑤皮を剥ぎ取ってすりつぶした実を、サフランやハチミツなどと混ぜ合わせたものは、口、鼻、耳、翼状片(爪のま わりの炎症)、性器など、すべての潰瘍に効果的であった。
    ⑥酸っぱいザクロは大量にすりつぶして汁にし、ハチミツの濃さにまでして、男性性器 や肛門の疾患、手にできた赤い斑点を治すのに使っていた。
    ⑦シルフィウムという茸の乳液と一緒に煮詰めた汁は尻のまわりの潰瘍に、レンズ豆と 煮詰めた汁は口、生殖器、肛門周辺に塗って使っていた。 
    ⑧実の皮をゲッケイジュの油に入れて温めたものを塗れば、筋肉麻痺、けいれん、座骨 神経痛、あざ、頭痛、慢性カタルに有効であり、また、ブドウ酒で煮たものはしもや け用となった。
    ⑨イチジクと一緒に煮たものは翼状片に効く。 『博物誌』には、ザクロの貯蔵法までも記載されているところをみると、当時の人たちは ザクロをいかに愛していたのかがわかります。」

●古代ローマ ディオスコリデスの『薬物誌』とザクロ
 
 プリニウスと同じ頃、やはり同じローマ帝国にはもう一人の博識家がいました。‥‥
彼は 哲学者でもあるのですが、軍医としても、ネロ帝とウェスパシアーヌ帝に仕えました。その間、各地を旅行して得たという植物学の広い知識を『薬物誌」という大著にまとめました。 

   ①ザクロはロアと呼ばれ、どの種のザクロも美味で胃によい。
   ②特に甘味の強いものはよい。酸っぱいものは胸やけに効き、収斂作用や利尿作用があり、ブドウ酒に似たものは甘いものと酸っぱいものの中間である。
   ③酸っぱい品種はその種子を日光で乾燥させてから肉に振りかけて一緒に煮れば、下痢止め や胃液の分泌調節によく、また雨水でふやかしたものを飲めば吐血に効き、坐浴で用いれば 血性下痢や分娩時の帯下によい。
   ④種子をすりつぶした汁は煮てからハチミツと混ぜ、口腔や生殖器、肛門にできた潰瘍に、また爪の翼状片、浸食性悪性潰瘍、耳の痛み、鼻孔の疾患によい。
   ⑤その煎じ汁は出血性の傷を癒着させ、弱い歯茎やクグラグラする歯に有効なので洗口剤によい。
     パップ剤として用いれば、骨折した骨も癒着させる。
   ⑥大きめの花を三つ飲み込むことができた者はその年はどんな眼の病気にもかからない。
   ⑦シデイア(ザクロの樹皮のことを特にこう呼んでいた)は、収斂作用を持っており、条虫(さなだ虫)駆除によい。また、この時代にはザクロ酒を好んで愛飲したようで、
    その作り方が書かれています。」 

●インド アーユルヴェーダ医学とザクロ 
 
  「『アーユルヴェーダ』は三つの古典からなっており、西北インドを代表とする『チャラカ・
 サンヒター』(6世紀頃)、インド中東部を代表している『スシュル・サンヒター』(紀元前数世紀か、後世の改編ありとされている)、そしてこの二つを体系的に抜粋した 『アシュターンガ・サンヒター』(7世紀)です。‥‥

この中では、ザクロについては次 のような記述があります。

 ①ザクロはすべての人にとって保健に適した食品で、消化を助け、食欲を増し、
   精神を さわやかにする食品である。
 ②利尿作用を持っている。
 ③レモン汁に漬けて丸薬としたものを毎朝一粒服用すれば、咳、呼吸困難、腹部腺腫、 腹水、 心臓病肋膜や膀胱の激痛、脾臓病、痔などに効果がある。
 ④点眼剤として用いれば化膿眼によく、また、うがいに用いてもよい。
 ⑤甘草や桂皮、レモンなど10種以上を混合したものは、熱病患者の頭部に塗れば有効で、この塗り薬は頭痛や失神、嘔吐、しゃっくり、震えなどの熱病患者の余病も取り除く。
⑥出産予定二カ月前からザクロを少量の岩塩とともに食べると安産になる。」

旧約聖書にひんぱんに出てくるザクロ
 
 「ザクロは人類の文明とともに生きてきた果樹であり、その貴さはさまざまな古 文書に記され、史跡にも刻まれています。中でも旧約聖書には、ひんぱんにザクロ が登場します。‥‥  
 アダムとイウが楽園エデンの園を追われる原因となった「禁断の木ノ実」は、『創世記』に よると「善悪を知る木」「命の木」「知恵の木」といわれているだけで、特定されてはいません。ただし、エデンの園には、リンゴ、ブドウ、ザクロ、ナツメヤシ、イチジクが栽培されていたことは確かです。ザクロはリンゴと共に、多産・子孫繁栄・男女の愛の象徴とされ「知識の木」とも いわれています。」「大祭司が聖所に入って主の前に出るとき、エポデといわれる祭服の下に青色の服を着ることが 決められています。この青色の服の裾のまわりには、青・紫・緋色のより糸で作ったザクロと 金の鈴が、交互に並べられます(『出エジプト記」)。金の鈴の音は、主から死罪を受けないよう鳴らすものです。つまりザクロは、災いをさける果実とされていたことになります。」

「モーゼが、主に命じられてイスラエル人たちをカナンの地に導くとき、エシュコルの谷でザクロ、イチジク、ブドウを摘みとり安らぎを得ます。ところが、ツィンに着いたときには、皆がその荒れ果てた荒野を嘆き『汝ら、なんぞ我らをエジプトより上らしめてこの悪しき所に導きいり しや。ここは種を播くべきところもなく、イヂシグもなく、ブドウもなく、ザクロもなく、 また飲むべき水も無し』とモーゼと言い争ったとあります(『民数記』)。」

また、主エホバが人々に与えようとする美地(良い土地)には、「水の流れあり、泉あり、  瀦り水ある地。小麦、大麦、ブドウ、イチジク、ザクロある地。オリーブ油および蜜ある地」
 とされています(『申明記』)。

さらに『ハガイ書』には、「今後のことを考えなさい。 種はまだ穀物倉にあるだろうか。ブドウの木、イヂジクの木、ザクロの木、オリーブの木は まだ実を結ばないだろうか」とあります。 このように民が住むための〃良い土地〃の条件のひとつとして、ザクロが育つことを挙げてい ます。それほどザクロは命を支える重要な食べ物だったのです。」

記事検索 「柘榴の歴史と雑学」
http://www.zakuro.com/rekishi1.html








リンク http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html

 

アインシュタイン以上のIQを持つ、自閉症の少年のスピーチ。「大切なのは学びじゃない」ジェイコブ・バーネット13歳
2015年6月10日 17時55分 TABI LABO

アインシュタイン以上のIQを持つ自閉症の少年によるスピーチを紹介している
自閉症と診断されても考えることは止めなかったと話した
大切なのはIQではなく、考えて創造することだと主張した
学ぶことだけに集中して、「あること」をやめてしまっていませんか?
13歳のジェイコブ・バーネットくんは、アインシュタイン以上のIQを持つ少年です。そして、彼には自閉症と戦っているという側面もあります。そんな彼が、過去の天才たちが「学ぶこと」よりも重視していた「考えること」の必要性について、Ted Conferenceで語りました。
ここでは、そのスピーチの内容を一部抜粋して紹介しましょう。
(記事下の動画では、スピーチのフルバージョンが視聴可能です)

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まず最初に、皆さんが伝えたいことあります。
宿題をやっていると想像してください。宿題とはやらなければいけないことです。うまくできれば良い成績をもらい、賞をもらうこともあります。でも、もしもそれが間違いだとしたら?つまり、すでにそこにあるものを受け入れるだけではなく、自分だけのユニークな視点で物事を見る必要があるしたら?

「円」を例に話をしましょう。円について、学校で何を学びましたか? 面積がπr2(パイアール2乗)なのは知っていますね。円は丸いことも知っています。それ以外では何か知っていますか? あまり知らないですよね。
ここで紹介したいのは、ジョンソンの定理と呼ばれるもの。彼は「3つの円を持ってきて、青い線が6本できるように重ねます」と言いました。できた円を青い円と呼びます。この映像からわかる通り1点から6本の線がでてきていますね。そうすると、線が重なる他の3点は、3つの円と同じ線上にあります。どうです、興味深いでしょう?これはただ円の面積がπr2(パイアール2乗)ということではなく、また丸いというだけでない、新しい発見です。
ジョンソンは、考えることをやめなかったおかげで、新しいことを発見することができたのです。

ニュートンも
“学ばず”に“考えた”
thinking

さて、もっとおもしろい話をしましょう。アイザック・ニュートンについてです。1665年、彼はケンブリッジ大学にいました。ただし、その頃ペストのせいでケンブリッジ大学は閉校していました。アイザック・ニュートンには学びの場がなかったのです。授業がなかったので、おそらく寮の中でペストから逃げ回るネコと一緒に隠れていたでしょう。
当時、彼は学ぶことができませんでしたが、考えることをやめたたわけではありませんでした。彼は、地球のまわりの月の動きを計算したいと思いっていました。
この問題を解くために微積分法、ニュートンの3つの法則、万有引力の法則、自分の研究を観察するための反射望遠鏡と光学レンズなど、学ぶことをやめた2年の間にすべてを生み出しました。
当時、ニュートンには学ぶ場はありませんでしたが、考えることで新しい法則をつくり出したのです。そのおかげで、物理という学問があるのです。
彼はおそらく優秀な学者になっていたし、成績優秀者リストに名前も載っていただろうし、教授は彼を誇りに思ったでしょう。
でももし彼が学ぶことをやめなければ、つくりだすことはできなかったかもしれません。

自閉症と診断された過去
それでも、考えることは止めなかった
ここで改めて、自己紹介をさせてください。僕は約11年前、自閉症と診断されました。細かいことへのこだわりが強く、何も考えていないように見えたのです。
まわりの人から、僕は一生学習できないし、考えることもできないし、靴ひもを結ぶことすらできないと言われたのです。
でも、その年に本屋で教科書を買い、そこに載っていたデータからケプラーの法則について考えていました。まわりからはできない思われていた時にです。
他の人から見れば、僕はまるでうまくいってないように見えたでしょう。例えばフィンガーペイントもしていなかったし、絵本の時間もなかったし、2~4歳くらいの子どもがすることを、どれもしてこなかったのです。
そこで、僕は特殊教育クラスに入れられました。何が特殊かというと、そこには普通の教育がないのです。その間、僕は学ぶことを止めなければいけませんでした。しかしその頃、影やさまざまなことについて考えはじめました。だから今、僕は天体物理学や数学が好きなのだと思います。学ぶことをやめなければいけなかったからこそ、今の僕があると信じています。

過去の天才たちが行ったことは
創造すること
ここからは引力についての話をします。ニュートンが水星の軌道を予想してから数世紀後に、物理学者たちは、彼の論理が正しいかどうかを実験して確かめました。ニュートンは、水星の軌道は長丸だと予想しました。科学者的にいうと楕円形です。しかし、望遠鏡で見てみるとこんなものが見えたのです。楕円形ではありませんね。ニュートンは間違えたのです。最も優秀な物理学者のひとりが、間違えたのです。

そこで新しい人が登場します。今までにない新しい視点で物事を考えられる人です。彼の名前はアルバート・アインシュタイン。
時代はナチスドイツの少し前だったので、ユダヤ人の彼は地元の大学で仕事に就くはできませんでした。そこで特許庁で働きはじめました。そこでは考える時間がたくさんありました。
そこでアインシュタインは、数人の友だちとトランポリンをしている姿を想像しました。友達の1人とトランポリンの上にいて、おそらくテニスか何かで遊んでいたと思います。でも彼らは物理学者ですので、動体視力が良くありません。だから、テニスボールを掴めなくて、ボールが彼らのまわりを転がったのだと思います。
彼はそれを見て「摩擦もない、これは重力だ!」と言ったのです。アインシュタインは、自分だけのユニークなものの見方で考え、この問題を解きました。ここでも彼は学ぶことをやめましたが、考えることをやめずそこから創造をはじめたのです。

方程式を窓に書くほど考え続けた
話を元に戻しましょう。僕は10歳で大学に合格しました。入学試験の面接にいったとき、駐車場の料金を払うためにたくさん小銭を持ってきました。それを部屋の中で全部落としてしまったのです。常識がないと思われたのか、1学期入学が遅れました。
僕も学ぶことを止めないといけませんでした。その間、僕はある天体物理学の問題に取り組みました。しばらく後に、その答えを導き出したのですが、まだ発表されていないので、どんな問題だったかはお話しできませんが論文が発表されたら分かるでしょう。
その時僕はたくさんのことを考えていたので、オフィス用品店で買った500枚の紙は、すぐに使い切ってしまいました。紙が無くなったので、次はホワイトボードに書きました。でも、それもすぐに埋まってしまいました。なので、窓に書くことにしました。僕の方程式は窓拭き洗剤に消されるところでしたが…(笑)。
1か月後、両親は僕が公園に遊びにいかないのは、窓に変な形を描いているからだと思いました。
公園で遊ぶべきだと両親は考え、プリンストン大学の人を呼んで僕のしていることは間違っていると話して欲しいと頼みました。でも、そうはなりませんでした。その人は僕のしていることは正しいと言ってくれたのです。おかげで公園にはいかずにすみました。

注目の的に!
全米に名前が知れわたる
僕は微分積分をしたい人のために、分かりやすく説明したビデオをつくることに決めました。それを見た人は、僕が12歳でそのビデオを作ったことに気付いたのです。そこから有名になっていきました。インディアナポリス・スター社は、僕を新聞の一面に載せました。この写真からわかるように、僕がサンドイッチを食べているところを撮影されました。
その後、この微分積分のビデオが一気に広がりました。この写真が掲載された時点で、視聴者は200万人を超えていました。その後、英語以外にもたくさん翻訳されました。これが何語か教えてくれませんか?

会場:中国語!

中国語なんですね! その後、Foxテレビの人からも呼ばれました。CBSの「シックスティーミニッツ」から記者も訪ねてきました。

大切なのはIQじゃない
考え、創造すること
最後に今日、ここで話したことをまとめてみましょう。ジョンソン、ニュートン、アインシュタイン。今日の話に登場した人たちは、天才なのでしょうか? 彼らは特別だったのでしょうか? 天才だったから、歴史に残る発見をしたのでしょうか? 違います。彼らのしたことは学ぶことを、考えることや創造することに変えたのです。
彼らのIQは高かったと思います。でも、高いIQを持っていながらも、創造をしない人もたくさんいます。そういう人はだいたい、何十万桁もの円周率を暗記するだけで終わるのです。

僕は以前、話すことができないと言われましたが、ここで話しています。これをみて、当時のセラピストは発狂していることでしょう。学ぶことを、考えることや創造することへと変えることができたから、僕はここにいるのです。ニューヨークの真ん中で、400人から800人の前でこうして話しているのです。

さて、ここから皆さんにやって欲しいことがあります。今から24時間、何も学んではいけません! 代わりに何をしてほしいかというと、自分の興味のある分野について考えてください。その分野の生徒になる代わりに、自分でその分野を発掘して欲しいのです。それが音楽であろうと、建築、科学、と何であろうと考えてほしいのです。この24時間でもあなたが何か、新しいものを創造できるかもしれませんよ。ありがとうございました。







 
リンク  http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html

太安萬侶墓誌 - 古事記編纂者・太安万侶の実在を確定させた墓誌、重要文化財【大古事記展】
2014年11月11日 
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1012415564.html

1979年、奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された墳墓から、短冊型の銅版の墓誌が発見された。

表面には太安万侶の居住地(左京四條四坊)、位階勲等(従四位下勲五等)、没年月日(癸亥年七月六日)など41文字が刻まれている。
癸亥年は、養老7年(723年)。この墓が太安万侶のものであることが確定したとともに、太安万侶が実在したことを証明する画期的な発見となった。

古事記の序に登場する太安万侶はその実在性が不確かだったために、古事記の序及び古事記そのものの信用を貶め、古事記の偽書説もあったものの、この墓誌の発見で、改めて古事記の序及び古事記が見直され、その編纂者としての太安万侶が脚光を浴びるきっかけとなった。

太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月11日))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。
            

6021681a太安万侶墓

奈良県奈良市此瀬町の太安万侶墓から出土した墓誌と真珠。墓誌は青銅製、共に重要文化財、文化庁蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。

墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳



墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された。

また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている。


豊葦原瑞穂国「春夢」 春の世の夢の如し・・・













 

「 国家プロジェクト 」 としての日露戦争 水木 楊
プレジデントプラス 「 日本を創った挑戦者たち 」 2003/6/2
調査研究 山縣有朋記念館
財政、外交、軍事 ---- 国家戦略を総動員して国難を克服した大戦略家の真価
大小を問わず、組織が存亡の危機に瀕したとき、最も必要な存在とは何か。20世紀初頭、ロシアの脅威にさらされたわが国は、慎重に外交的手段を講じた上で、乾坤一擲の勝負に賭けた。率いたリーダーは臆病なほど慎重で冷徹な戦略家だった。

日露協商か日英同盟か

明治34年(1901)9月13日のことである。首相の桂太郎は三田の公邸に山縣有朋、伊藤博文、井上馨の元老3人を招き、宴を張った。
外遊する伊藤を送別するためである。伊藤が外遊するのは、ロシアに赴き「日露協商」の瀬踏みを進めるためだった。

伊藤は前首相であるだけではなく過去4度にわたり政権を担った経験を持つものの、外務大臣でも何でもない。しかし、この頃の元老は国家の重要な政策決定につねに関与しており、時には閣議にまで出席することもあった。
特使と同様の権限を持って外交交渉をすることもしばしばあった。伊藤は宴半ばにして切り出した。「もし、ロシアが日露協商に応じたら、政府はどうするのか」ロシアと手を結ぶ「日露協商」と並行して政府は日英同盟の構想を立て、英国とも交渉を始めていた。
国論は2つに分かれ、伊藤は日露協商派の巨頭だったのだ。同席の井上も伊藤に同調している。これに対して、山縣は日英同盟の推進派である。

山縣の日英同盟論はいまに始まったことではない。その年の初め、山縣は4度目の政権の座についた伊藤に書をしたため、英独との同盟の必要を説いた。
「清国(いまの中国)は乱れ、やがて列強が分割することになるだろう。日露は早晩衝突する。ロシアは絶えず南下を目指しており、それを阻止するには英独の力を借りなければならない」山縣はその前の年にも親近者に同じ内容の手紙を書いている。
ロシアの真意について、伊藤と山縣との間には認識の差がある。満州(中国東北部)はロシアに譲り、その代わり朝鮮半島の経営は日本が当たるという構想を伊藤は持つ。
いわゆる「満韓交換論」で、この線に沿ってロシアを説得できると踏んでいた。一方の山縣は、そんな甘いものではないと考える。
ロシアは朝鮮半島の経営を日本に任せるなどという妥協をするはずがない。放っておけば朝鮮半島のみならず対馬にも手を伸ばしてくるおそれがある。それを食い止めようとするなら、ロシアとは戦争をせざるを得なくなるというのが山縣の認識だった。
日清戦争後、いったん手にした遼東半島の利権をロシア、フランス、ドイツの三国による猛烈な干渉によって、日本は手放さざるを得なくなった。
このとき山縣はロシアの野心を垣間見る思いがした。その後、対ロシア作戦を想定する元帥府を設置、大山巌、西郷従道とともに元帥に就任した。
 (1891年1月 19日制定の元帥府条例により設置された。明治  年)元帥の位置は、天皇を補佐する「軍事上ニ於イテ最高顧問」である。明治31年、二度目の政権についた山縣は増税を強引に進め、軍事力の増強に取り組む。同時にアメリカ人資本家が所有していた京仁鉄道(京城 仁川間)の敷設権を買収、鉄道の敷設について議会の同意を得た。そんなことをすると、ロシアを刺激する恐れがあると伊藤や井上は反対したが、山縣は対露戦に備え、兵站補給路を確保したかったのである。

「英国は日本との同盟を望んでいる」との確信

「ロシアが日露協商に応じてきたらどうするのか」との伊藤の問に、山縣が桂に代わって答えた。
「日露協商を拒否するわけではないが、貴兄の独断は困る。ロシアとの話し合いは全て報告のうえ、本国の判断を仰いでほしい」当時、元老は単独で外交交渉をまとめるほどの力があったのだが、山縣は伊藤の独走に釘をさしたのだ。
伊藤は憤然として言った。「好き好んで外遊するわけではない。細かい注文をつけるなら、外遊を中止してもいい」実は伊藤の外遊は山縣が強く勧めたものだったのだ。
お前が行けというから重い腰を上げたのだ。それなのに自由に行動できぬ枠をはめるとは何事だというわけだ。桂が間に入った。
「私は首相の器ではありませんが、全力を尽くして任に取り組んでおります。私のあずかり知らぬところで重大なことが決められるというのでは、任は務まりません」桂は山縣直系の軍人政治家である。
第二次山縣内閣のとき桂を陸軍大臣に登用し、以来、「君は僕の受け前(後継者)だ」と言って育て上げてきた。桂だけではない。その内閣のうち児玉源太郎、寺内正毅、内海忠勝は長州出身。
長州でなくとも、平田東助、曾禰荒助などは山縣の直系中の直系だった。山縣の息のかかっていない閣僚は海軍大臣の山本権兵衛くらいのものである(いずれも組閣当時)。
伊藤系の人物は1人も加えられていなかった。桂内閣が発足したとき、世間は「小山縣内閣」と呼んだ。
昭和57年、中曽根内閣が生まれたとき、陰で操る田中角栄を指して「田中曽根内閣」と呼んだようなものだ。桂内閣は元老の加わらない初めての内閣でもあり、3日も持たないという意味で「惟任(明智光秀のこと)内閣」とか、「緞帳(下級役者)内閣」、「小僧内閣」とか言われたほどである。

当然のことながら、桂は日英同盟に賭けようとしている。政府に相談なく物事を決めるのだけは止めてくれという桂の哀訴に、伊藤は矛先をおさめ、ロシアに向けて出発した。
伊藤は日英同盟に反対していたわけではない。若い頃、英国に留学したこともある伊藤は親英派である。だが、あの誇り高い大英帝国が東洋の小国日本となど対等の立場で同盟を結ぶはずがないと思い込んでいた。
英国はそれまで「名誉ある孤立」を貫き、どこの国とも同盟を結ぶことがなかったからだ。しかし、山縣は日英同盟が夢物語ではないと確信していた。
山縣ほど海外情報の入手に熱心だった元老はいない。つね日頃、「赤電報を読まない者は首相になれない」と言っていた。赤電報とは政府に入ってくる欧文電報のことである。伊藤とは異なり留学経験がないから、語学ができない。しかし、毎朝、新聞の外電面をくまなく読み、少しでもわからないことがあると、秘書官や副官に調べさせた。山縣に仕えると、海外駐在の3年分に相当すると言われたものだ。
そうした情報ルートから、英国がいま望んでいるものは有事即応能力を持つ兵力であり、それは日本陸軍しかないと認識していた。日本陸軍は英国にとっての大きな価値があるということだ。

明治32年(1899)、第二次山縣内閣当時、義和団事件が発生、このとき英国のソールスベリー首相の要請に応じて兵を出して鎮圧したことがある。
その存在感を十分しめしてビクトリア女王から感謝の電報をもらったことを、山縣は忘れていなかった。山縣の構想からドイツは落ちた。同盟に乗り気ではないことが分かったからだ。しかし、英国の方は南下を目指すロシアを強く警戒している。
アジアには英国の権益が広く根を張っている。英国はロシアをチェックする存在として日本に期待しているはずである。事実、駐英公使の林董は、同盟に関する英国の態度がきわめて真剣であると知らせてきていた。伊藤は勇んでモスクワに赴いたが、やがて彼を憤慨させる出来事が起きた。駐露公使館に入った話によると、日英交渉が急速に進展して、合意寸前だというではないか。
慌てた伊藤は、「英国への最終回答はちょっと待て」と電報を打った。ところが、桂首相は12月初旬、在京の元老を葉山の別邸「長雲閣」に集め、条約案への署名を求めたのである。伊藤は完全に浮かされた。浮かしたのは山縣である。山縣は策謀家だった。林公使はロシアに急遽でかけ伊藤の説得に当たった。伊藤はこだわりのない性格である。最早抵抗しても仕方がないと悟ると、あっさりと同盟に賛成した。

国運を賭けた乾坤一擲の戦い

こうして日英同盟は成立、日露は衝突への運命を歩き始めた。もちろん、ロシアの出方次第では、日露戦争は回避できたかもしれない。しかし、ロシアの出方は居丈高だった。義和団事件に乗じて満州に出兵したロシアはその後、露清条約によって遼東半島から撤兵するはずだったのが一向にその様子を見せない。それどころか、北朝鮮にも手を伸ばし、明治36年、韓国政府と森林伐採契約を結んだ。
そして、鴨緑江下流を占領し、軍事施設を建設したのである。その年の4月21日、山縣は首相の桂、伊藤、外務大臣の小村寿太郎を別邸の「無鄰庵」に招き、ロシアに対する交渉方針を決定した。
もし、これに応じなければ、開戦止むなしという最終方針である。ロシアには朝鮮半島における日本の権益を認めさせる。その代わりに満州におけるロシアの鉄道経営については、ロシアの特殊権益を承認する---という内容である。
だが、ロシアは返事を引き延ばした挙句、到底受け入れることのできない回答をよこした。その内容は①満州およびその沿岸はあらゆる面で日本の利益の範囲外とする。②朝鮮半島の北緯39度以北は中立地帯とする。---というものだ。
②については、すでにロシアは軍事施設を作り軍を入れていたから、実質的には朝鮮半島の半分をよこせと言っているようなものだ。
ことここにいたっては、開戦に踏み切るしかない。山縣は戦時体制の人事を決めた。秘蔵子である児玉源太郎を参謀次長に起用するよう、陸軍大臣の寺内正毅に要請したのである。
参謀総長には元帥の大山巌に白羽の矢を立てた。大山は参謀総長に就任するのを躊躇した。なぜなら、官界の格としては内務大臣と台湾総督を兼務する児玉の方が上だったからだ。
しかし、頭脳明晰、判断の速い児玉と茫洋として懐の深い大山とは、この上ない絶妙のコンビだった。開戦後しばらくして大山は満州軍総司令官として、また児玉は満州軍総参謀長として戦場で直接指揮を取ることになる。大山の後を継いで参謀総長兼兵站総監の地位に付いたのが御大の山縣自身だった。
宣戦布告を決めた明治37年2月4日の御前会議に列席した山縣は、会議後、伊藤の手を固く握り、「この戦争に全力を捧げるつもりなのはもちろんだが、万一敗戦に到ったときは忍び難い困難が待っている。そのときは、われわれ軍人は生きてはいない。将来のことは貴下の力に待つしかない。そのときの貴下の苦しみを思うと、死に勝るものになるだろう」と悲壮な声で告げた。

「国家の大政策の確立」の意味するところは

明治37年(1904)2月、日本海軍は仁川港外にロシア艦船であるワリヤーク、コレーツを撃沈、日本政府は対露宣戦布告を出した。国運を賭けた、まさに乾坤一擲の戦いである。
ロシアの兵力は歩兵を取ってみても1740大隊で総勢167万人。動員可能な能力は日本の5倍だった。世界の多くは日本の敗戦を予想した。
明治天皇は精神的な重圧の余り、健康を害して床に臥したほどだ。満州の戦いは多大な犠牲を払いながら南山、遼陽、沙河、旅順と勝ち進み、最大のヤマ場である奉天会戦に突入した。
この会戦の日数は24日間、参加した兵力は日本側が25万人、ロシア側が31万人。その時点では有史以来の未曾有の大会戦となった。
会戦が終わり、日本側の失った兵力は約7万人、ロシア側は約9万人である。日露の損害はそれほど大差ないが、背後に控える兵力を考慮すると、日本のダメージの方が圧倒的に大きい。
ほとんど敗戦に近い勝利である。
惨勝というべきだろう。奉天会戦後の日本軍の兵力は歩兵678大隊、騎兵65中隊、砲1180門。一方のロシア側は満州に展開している兵力だけで678大隊、騎兵222中隊、砲2260門。しかも、
日本側はこれだけの兵を集めるのに採用の際の体格基準を下げ、兵役年限を延長し、国内警備は手薄にするという状態だった。
奉天会戦後、大山総司令官は山縣に打電した。「今後の戦略は政策と一致するを要す」政策とは政治の策のことである。つまり、暗に和平工作を求めたのだ。山縣はただちに「政戦略を一致させることはつねに注意をしている。政府は善謀熟慮好機会を捉えるべき」と返電した。それから児玉を東京に呼び寄せ実情を尋ねるとともに、自ら現地に赴いて視察した。
そのうえで、桂に長文の書をしたためたのである。
それは戦いを優勢に進めている国の参謀総長としては、重苦しいトーンに満ちた、不思議な手紙だった。主旨は以下の通りだ。「これまでの戦いは想像以上の勝利を収めた。奉天会戦も幸運に恵まれた。しかし、敵は戦う意思を一向に改めようとはしない。
それどころか、さらに数十万人を増員しようとしている。ロシアは欧州にあって強国とされた国である。自尊心もあるだろうし、本国には十分な兵力を持っている。
それに対して、こちらは物資が足りない。
人員の補給も容易ではない。こうしたことを覚悟に入れて、第三期の作戦に入らなければならない。場合によってはモスクワまで攻めなければ、相手は屈しはしないだろう。
勢い戦いは長期化する。ここでは国家の大政策を確立する必要がある」戦いを指揮する参謀総長としては、表立って和平を求めるわけにはいかない。少なくとも戦いは勝っているのだから、白旗を掲げるわけにはいかない。だから、「国家の大政策の確立」と表現したのだ。
それが講和を意味していることは明らかだった。このあと、日本海軍はロシア艦隊に対して華々しい勝利を挙げるが、日本の台所の苦しさに変わりはなかった。山縣の書を受けて桂は和平工作に力を入れた。米国に仲介の労を取ってもらうべく外交工作を活発化させた。
米国には和平の仲介をする理由があった。アジア太平洋地域でロシアが勢力を野放図に伸ばすのは好ましいことではなかったが、さりとて日本が決定的な勝利を収めることによって、その権益が必要以上に拡大するのも歓迎できなかった。
かくて米ルーズベルト大統領は仲介の労を取り、米国の軍港ポーツマスで講和が成立した。歴史にIF(イフ)は許されないが、もし、この戦いで日本が負けていたら何が起きたか。
それは帝政ロシアに圧迫されたフィンランド、ポーランド、中央アジア各国などの辛酸を見れば分かることだ。朝鮮半島を支配されるだけではなく、対馬は取られ、長崎か博多湾は租借地にされていたかもしれない。北海道ですら確保が難しかったかもしれない。
戦争は悲惨な犠牲を生みはしたが、負けたら、もっと悲惨な目にあっていたことだろう。日露戦争は国民が勝利という一点に全エネルギーを集中させて頑張った巨大プロジェクトだった。この勝利のお陰で、日本は欧米列強に仲間入りを果たし、「先進国に追いつけ、追い越せ」の道を一直線に走り出した。

「国家的プロジェクト」の真のリーダーは誰か

日露戦争には数々のヒーローたちが登場する。兵力の不足を作戦の妙で補い勝ち抜いていった現地軍総司令官・大山巌や同総参謀長の児玉源太郎、戦費調達のため欧米金融市場を駆け回って外債の発行を成功させた日銀副総裁・高橋是清、欧州にあって帝政ロシアを打倒すべく不満分子を煽って謀略工作を展開した明石元二郎大佐、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊司令官・東郷平八郎、米国大統領のルーズベルトに接触して和平の仲介役を頼み込んだ金子堅太郎、ポーツマスで海千山千のロシア講和全権ウイッテと渡り合い困難な講和条約をまとめ上げた外相・小村寿太郎.....。

しかし、日露戦争の勝利を導いた最大のヒーローは誰かと問われるなら、それは山縣有朋を置いてないと言わざるをえない。
山縣こそが、この巨大プロジェクトのリーダーだったのだ。
山縣は第二次内閣でロシアを仮想敵国として軍事力を増強し、その財源の確保のために乾いた雑巾を絞るような増税に取り組んだ。
桂内閣は「小山縣内閣」とか「緞帳内閣」とか揶揄されたが、伊藤色を払拭したことから、閣内の統一を守り、一丸となって日露戦争を戦うことができた。
臨戦態勢としてはこれ以上の人事はない大山-児玉のコンビを起用したのも山縣である。そして、最後に軍の最高司令官でありながら、戦いの限界を冷静に認識して和平の必要を桂に示唆したのも山縣だった。にもかかわらず、山縣の評判は悪い。
あるいは、日露戦争における山縣の役割を必要以上に低く位置づけようとする傾向がある。

山縣の評判の悪さには十分な理由がある

まず、山縣は明治維新でさしたる役割を果たさなかった小物である。天保9年(1838)6月、長州萩城下の川島庄に生まれた。
幼名は辰之助。蔵元附仲間組という下級武士の家だ。これではうだつが上がらぬと考え、槍術で身を立てるべく精進、19歳のときに自得した。要するに、槍の使い手であるという以外、これといった特徴のない陰気な顔をした若者だったが、安政5年(1858)、長州藩が京都へ天下の形勢を視察させるため派遣した6名に加えられたのが幸いした。

この6名に伊藤も名を連ねている。木戸孝允の知遇を得た山縣はとんとん拍子で出世して高杉晋作が創設した平民兵による奇兵隊の軍監を務めることになる。とはいえ、奇兵隊軍監として目だった活躍をしたわけではない。むしろ西南戦争では薩軍に手こずり、苦戦を強いられたいきさつもあった。

明治維新のドラマではさしたる活躍をしたわけではなかったわりには、偉くなった。明治31年(1898)には初の元帥、34年には侯爵の爵位を授けられ、翌35年には大勲位を受ける。政権に二度にわたってつき、元老の中では伊藤と並んで最右翼に位置する。
なぜ、それほどまでに偉くなったかといえば、戦場ではなく軍政家としてぬきんでた手腕を発揮したからである。
徴兵制度を実施したのも、参謀本部を設置したのも山縣である。
総理大臣としては今日の府県制、郡制、市制、町村制などの地方制度を発足させたのも彼だった。さらに、彼には権力に対する人並みはずれた執着心があった。
一つ一つ石を積み上げるように味方を増やし、閥を広げ、敵を排除して、強固な権力の城を構築していった。『山縣有朋』(岩波新書)の著者である岡義武氏は、山縣について「内閣製造者であり破壊者。閏閥・官僚の総本山、軍国主義の権化、侵略主義の張本人....世上から非難され、憎まれながらも、痩躯鶴のようなこの老人の巨大な影は、その死にいたるまで明治・大正の政界の上に掩いかぶさっていた」と書いている。

妥当な戦略は、決して蛮勇からは生まれない

山縣は、書く者、読む者にとって、感情移入のすこぶる難しい人物である。
長身で痩せていて出っ歯。風貌は暗い。生活は規則正しく、毎朝午前六時に起床。タオルで全身を拭き、朝食は牛乳に麺に決まっている。食後、トイレで便の消化具合を注意深く点検。そのあと、庭で槍を揮う。倹約家で、伊藤のような豪放磊落さが感じられない。人気の湧きようのない男で、政府は彼の死は国葬をもって遇したが、日比谷公園で催された葬儀への参列者は少なく、1ヶ月前に同じ日比谷公園で催された大隈重信の国民葬の雑踏振りに比べると、淋しい限りだったという。

山縣の評判の悪さは枚挙にいとまはないが、そのほとんどは彼の有した圧倒的な権力の大きさに起因している。つまり好嫌の感情は別として、みなが山縣の巨大さを認めているのである。
にもかかわらず、日露戦争という壮大なドラマの進行過程に限って、山縣がろくな役割も果たさなかったかのように断ずるのは論理的に矛盾する。
というよりも、歴史を公平に、かつ客観的に振り返ることにならないだろう。山縣はまぎれもなく日露戦争の主役だったのだ。
日英同盟を導き、奉天会戦後に和平をもたらすべく動いた戦略家・山縣の本質は、用心深さにあった。元治元年(1864)夏、馬関戦争当時、山縣は奇兵隊の軍監として参戦した。
志士たちが河豚を賞味していたとき、山縣は一人離れ鯛を鍋にして食べていた。当たるのが怖かったのである。それを見て志士たちは「臆病なやつよ」と笑った。

しかし、山縣は平然として鯛を続けた。このときの戦争で、長州は列強の連合艦隊にこっぴどくやられた。腹と腕に傷を負った山縣が学んだことは、戦いは戦略の巧拙や戦闘精神の有無もさることながら、武器の性能が大きく物を言うということだ。
列強の強さに、若い山縣は怖気をふるった。彼らと伍すには、近代的な軍事力を整えるしかないと肝に銘じたのである。山縣の対外政策は慎重であり、ときに防衛的ですらある。
日清戦争のときは戦いを極力回避すべきという立場を取ったし、日露戦争の和平交渉ではロシアに樺太を割譲させることにも消極的だった。
対支二十一箇条を突きつけた大隈重信内閣の外交政策には批判的で、むしろ袁世凱の政府と提携して利益線(満州方面)に専念すべきと主張した。山縣の用心深さ、臆病さ、疑い深さこそが日露戦争の大戦略を固め、勝利を導いた。というよりも、戦略とはそもそも用心深さから構築されるべきものである。戦略は大向こう受けする蛮勇から生まれはしない。
憂慮すべき、あらゆる事態を想定し、ときに隠忍自重して力を蓄え、必要とあれば提携もし、ひとたび戦えばつねに引き時を考える。
そうした戦略家がいれば、日本は第二次世界大戦突入の愚を犯すことはなかっただろう。山縣は往々にして第二次世界大戦の遠因を作った元凶にされることが多い。
そのひとつは暴走した陸軍の創設者であり、もうひとつは内閣を超越するかのように乱用された参謀本部の統帥権の確立に原因がある。天皇の神格化も山縣の罪とされている。
山縣の造った制度や機関が暴走して日本を振り回したことは事実だが、それはあたかも御者を失った馬が暴れまわるようなもので、問題の本質は馬を制御することのできる力のある御者が不在だったことにある。平民首相として評判の高い原敬は、山縣としばしば対立した。
その原敬が組閣の前年、新聞や若手軍人の間に日米戦争論が高まっているのを憂慮して、親しい者に次のように語ったことがある。「日米戦争は山縣公さえ生きて居れば、起こらないよ。
山縣公は外国に対して腰の弱い人である。外国に対しては非常に懸念深い人である。この点は見ようによっては、公の長所ともいわれれば、また短所とも言える。
いくら陸軍の若手が騒いでも山縣公の存命中は大丈夫だよ。」山縣の本質が用心深さ、臆病さにあることを見抜いた言葉だった。
山縣の没後、言論人の徳富蘇峰は「穏健なる帝国主義者」と評した。この時代、帝国主義は悪口ではない。徳富蘇峰は続けて、「彼を称して武力侵略の頭目を為すがごときは、誤解も亦甚だし。
彼は寧ろ余りにも外国を買い被って居た。
彼と雖も全く怖外病より蝉脱する能はなかった」と書いている。
また、山縣は熱心な天皇制護持者だったが、生身の天皇を神格化したわけではない。
明治天皇が、枢密院の会議に出席したときのことだ。天皇は平素と様子が異なり、議事の途中で仮睡した。
そのとき、議長の席にあった山縣は軍刀の先で床を叩き、その音で天皇ははっとして目を覚まし居ずまいを正したという。

山縣が天皇を中心とする国家の統治機構の強化に熱心に取り組んだのは、そうしなければ国家の統一を保つことができないと認識していたからだった。
国内の不満分子の動向にはそれほど神経を尖らせていたということだ。ここにも山縣の用心深さが現れている。

第二次世界大戦の悲劇は山縣にその責任の一端があるというよりは、むしろ山縣のような重い存在に欠けたからこそ起きたと言うべきだろう。
国家を問わず、あらゆる組織にとって必要なのは、ときには嫌われることも辞さぬ、孤独で冷徹な戦略家であることを、日露戦争時の山縣は教えてくれている。

自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。








(記事引用〆) 

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