2015年06月
260年前の炭鉱日本の形
260年前の日本の形(炭鉱)
三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。
立花宗茂の弟・立花直次は慶長19年(1614年)、常陸国筑波郡に5千石を与えられ、旗本となった。その長男・立花種次は元和7年(1621年)、旧領地であった筑後国三池郡に5000石加増の1万石を得て三池に移り、当藩が成立した。
第4代藩主・立花貫長の時代である元文3年(1738年)に石炭の採掘が始まり、平成9年(1997年)まで存続した三池炭鉱の礎となった。
下手渡藩(しもてどはん)は、政争に敗れた三池藩立花家が、文化3年(1806年)、陸奥国伊達郡下手渡(福島県伊達市月舘町下手渡)に左遷されたことにより、1万石にて立藩した。藩庁は下手渡陣屋に置かれた。初代藩主種善は三九ヶ条の御条目により、統治の基礎を定めた
第2代藩主・種温は幕府の会計奉行となり、のち老中格まで累進している。
嘉永3年(1850年)には約半分の知行地を旧領である三池郡内と領地替えを行った。
三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)及び熊本県荒尾市に坑口を持っていた炭鉱である。江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年、三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年3月30日に閉山した。
炭鉱関連の遺産が多数残っており、近代化遺産(産業遺産)の面からも注目されている。
2017年5月4日にイコモス(国際記念物遺跡会議)からユネスコへ「世界遺産リストに記載」勧告がなされた「明治日本の産業革命遺産―製鉄・鉄鋼、造船、石炭―」の23構成資産には、三池炭鉱宮原坑(みやのはらこう)、三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港なども含まれている。特に三池港は閘門を備えた現役の港であり、長崎造船所などとともに我が国の稼働資産としては初の世界遺産登録が見込まれることとなった。
1857年 平野山のほぼ南側に位置する生山と、平野山の間部(坑道)がつながってしまうという事件が起こり、両坑(両藩)の境界争いがはじまる。この境界争いが遠因となり、明治初期に三池炭鉱は官営となる。
明治時代以降
1873年 明治政府の官営事業となった。また、三潴県監獄の囚人を使役して坑外の石炭運搬や坑内の業務に当たらせ、これを皮切りに、明治中期頃まで周辺各県監獄の囚人が三池炭鉱で使役されることになった。
1876年 三井物産会社設立、官営三池炭鉱の輸送・販売を一手に取り扱った。
1883年 三池集治監開庁。囚人労働が本格化した。
1888年 三井組(三井財閥)に落札された。
1889年 三井組の経営となる。最高責任者(事務長)に任命された團琢磨(団琢磨)は、アメリカ留学で鉱山学・冶金学を学んだ後、工部省鉱山局の官吏として三池炭鉱に赴任していたが、払い下げと同時に三井に移籍した。
1891年 三池横須浜 - 七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通(三池炭鉱専用鉄道)。
1892年 三井鉱山が創立された。團(団)のもとで炭鉱経営の近代化、合理化が進められた。
1930年頃(昭和初頭)の三池地方の地図。
1898年 宮原坑で操業開始。
1908年 三池港が開港。
1913年 三池ガス発電所が運転開始。
1923年 三池炭鉱専用鉄道の電化が完成。
1930年 坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止(他の鉱山ではかなり以前に廃止されていた)。
1931年 三池集治監閉庁。
1940年 三川坑が竣工。
三池藩 10000石(外様) http://www5e.biglobe.ne.jp/~minjamin/h-daimyohaka/h-miike.html
紹運寺(福岡県大牟田市今山) 法輪寺(福岡県大牟田市今山)
福岡県の南端、熊本県に隣接する大牟田市は石炭の町として有名である。1889年から採掘事業を担った三井三池鉱業が最後の石炭坑道を閉めた1997年までの間、この地域の繁栄は石炭とともにあったといっても過言ではない。しかし旧産炭地と称せられる町のいずれもが閉山後の産業構造の転換に失敗し、今に至るまで過疎化の進展を食い止められずにいるが、大牟田市も例外ではなく、現在においても塗炭の苦しみに喘いでいる状況にある。
さて江戸時代において、この大牟田市を中心とする筑後国三池郡を支配した三池藩はわずか1万石ほどの小藩である。藩主・立花家は隣藩・柳川藩主と同姓で縁戚関係にはあるものの、支藩などではなく、れっきとした独立藩である。
そもそも初代藩主・種次公の父・立花直次公は戦国武将として著名な高橋紹運の実子で柳川藩初代・立花宗茂公の弟にあたる。兄・宗茂公は当時、高橋家の主家であった戸次道雪の養子となり、弟・直次公が高橋家を継ぐこととなったが、その後、幕府の命により両名とも立花姓に改名している。
三池藩の歴史としては、1621年に初代藩主・立花種次公が5000石の旗本より1万石に加増され立藩、しかし1806年には6代藩主・種周公が外様ながら幕府の要職・若年寄にまで昇進したにも関わらず、松平定信との路線対立により失脚、7代・種善公は陸奥国下手渡5000石の旗本に左遷させられ、旧三池領は幕府に収公されるという事態に陥っている。
ところで藩主の菩提寺は紹運寺と法輪寺の2ヶ所に分かれるが、三池陣屋の南東、三池山の麓に道を挟んで所在する。
紹運寺は初代種次公の祖父・高橋紹運の名に由来し、現在においても現役の寺として営まれているが、法輪寺については残念ながら廃寺となっており、竹林に囲まれた墓所のみが残されているに過ぎない。
紹運寺には初代・種次公および6代・種周公の嫡子・種徳公(非藩主)の笠塔婆形式の墓塔が並立している。どちらも相応の大きさではあるが、特に種次公の墓塔は定型化されていない朴訥な雰囲気が漂う。
この2基の藩主墓の周囲には一族のものと思しき墓塔も残されているが、若干荒れ気味である。また法輪寺墓所には、2代・種長公、3代・種明公、4代・貫長公、5代・長熈公の墓塔がある。いずれも笠塔婆形式のもので、一列に並んだ各墓前には多くの石燈籠が林立し壮観である。こちらも数基の石燈籠は倒れたままになっており、少々荒れ気味である。小藩の割には規模は大きく、立派なものである。 (07.4.23記)
三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。
略史
立花宗茂の弟・立花直次は慶長19年(1614年)、常陸国筑波郡に5千石を与えられ、旗本となった。その長男・立花種次は元和7年(1621年)、旧領地であった筑後国三池郡に5000石加増の1万石を得て三池に移り、当藩が成立した。
第4代藩主・立花貫長の時代である元文3年(1738年)に石炭の採掘が始まり、平成9年(1997年)まで存続した三池炭鉱の礎となった。
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu/miike.html
立花宗茂の実弟(高橋紹運の二男)は初め高橋家を継いでいたが、のち兄の立花を姓とし立花直次と名乗っていた。
関ヶ原で兄と行を伴にしたため、三池の旧領を没収されていた。立花直次は許されて常陸のうちに5千石を得ていたが、子の立花種次の時、5千石を加増のうえ、旧領の筑後三池に戻り、1万石の大名となる。
六代立花種周は外様ながら幕政に参与し、若年寄にまでなるが、失脚して咎めを受け、子の種明は陸奥下手渡に左遷。一度は5千石の旗本となって諸侯の列から外れるが、次ぎの種恭のとき三池に5千石を与えられ、1万石に復した。
立花種恭は明治元年に居所を陸奥下手渡から、三池に戻している。
ここでは陸奥下手渡への転封は、煩雑になるので、三池で一連の藩として表記する。
立花種周
生没年:1744-1809
父:筑後三池藩五代藩主 立花長熙
幼名:勝之助
1762-1805 筑後三池藩六代藩主
1762 従五位下
1762 出雲守
1789 大番頭
1792 奏者番
1792 寺社奉行
1793-1805 若年寄
正室:泉流院 於悦(父:山城淀藩五代藩主 稲葉正益)
1778-1796 種徳
1782-1807 辰(杉浦正直および池田長休室)
政之助
豊三郎
1794-1833 種善
1797-1855 種道
1798-1870 照(信濃須坂藩十代藩主 堀直興室)
1804-1840 屋山種実
立花種徳
生没年:1778-1796
父:筑後三池藩六代藩主 立花種周
1795 従五位下
1795 和泉守
妻:
立花種道
生没年:1797-1855
父:筑後三池藩六代藩主 立花種周
1855 安政地震
室:嘉年-1846(父:斑目周右衛門)
正室:-1855
1836-1905 種恭
1848-1919 加納久宜(加納氏へ)
2.26事件「斉藤実」暗殺の意義
この映画が始めて作られたのが1967年、それから48年たって今年完成した同タイトル「日本のいちばん長い日」だが、今回は実際の著作者「半藤一利」氏の名が載る。
その当時の触れ込み。
日本のいちばん長い日(1967) 1967年8月3日公開「ムービーウォーカー」
ダイジェスト
後、8月6日広島に原爆が投下され、8日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していたのであった。
第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ8月10日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。
12日、連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項にSubject toとあるのが隷属か制限の意味かで、政府首脳の間に大論争が行なわれ、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。
しかし、8月10四日の特別御前会議で、天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決ったのであった。
この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。一方、終戦処理のために14日午後一時、閣議が開かれ、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し8月15日正午、全国にラジオ放送することが決った。
午後11時50分、天皇陛下の録音は宮内省二階の御政務室で行われた。同じ頃、クーデター計画を押し進めている畑中少佐は近衛師団長森中将を説得していた。一方厚木302航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。
降伏に反対するグループは、バラバラに動いていた。そんな騒ぎの中で8月15日午前零時、房総沖の敵機動部隊に攻撃を加えた中野少将は、少しも終戦を知らなかった。その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を射殺、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜査を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てたのである。
しかし東部軍司令官田中大将は、このクーデターの鎮圧にあたり、畑中の意図を挫いたのであった。玉音放送の録音盤は徳川侍従の手によって皇后官事務官の軽金庫に納められていた。
午前4時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、5時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は、歴史の転換に伴う数々の出来事の渦中にあったのである。そして、日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、8月15日午前7時21分のことであった。
この玉音放送は終戦記念日には毎回放送するのが定番となっている。やはりこれは日本国民の忘れてはならない凝縮された図として語り継がれるシーンだ。
以後、日本の進んできた道は周知の通りである。「明治維新」以来の欧米追随路線は、まったくかわることなく、むしろ重工業なと積極的に推進し、今日の高いレベルの生活水準を維持していることは国民の皆は自覚しているところだろうが、さて、それが一様に幸せだったのか、という問いに対しては明快な答えが出ない。
この平和な日本ではあるが、世界を見回すと、「平和時」、ということがなにか特別なような世界情勢で、それだけ平穏を維持することが大変であることを語っている。
テレビの街頭アンケートの「語り口」を耳にすることは、「戦争はまっぴらごめんだ。もうよしてくれ」という圧倒的な拒否意見がある。勿論、その意思は重要だが、平和を維持するために必要な方策は、そればかりでは立ち行かない。具体的なアクションを実行しなければ、戦争への進路は止められない。今審議されている「集団的自衛権」がそれだ。
さらに加えるべきは、権力者の握ってる既得権をしっかり監視し、国民から託され権利を有効に使うべき監視する体制組織をもつことである。
また、中央で行われている決定事項が、個人の既得権のみにつがなっていないか、それをあらゆる情報を駆使して明確にすることである。
1936年2月26日事件の前日の出来事で、まったく日常的な生活の中に、世界を震撼させるような、隠れ蓑が隠されている場合がある。その工作(かどうかは誰も類推していない)
が、どのようにして組織されたのか検証に値する重要なトラップである。
b. シーメンス事件と2.26事件の「斉藤実」について(第二幕)
平成27年という時節柄、国会審議「集団的自衛権」をめぐって与野党の攻防が続いている。日本が歴史的に通過してきた戦争体現の反省から、世界のパワーバランスも含めて、日本のしっかりした足ががりを固めるには、充分な議論と時間が必要で悔いのない法律策定を望みたい。
これから扱う題材は、その過去に犯してしまった戦犯を、どのような視点で捉えるかここで展開したい。
(ウィキぺデア引用)
もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。
斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。
※注 事件直前の斎藤実の行動を追ってみると、不自然なところはまったく無いようにみえる。
2・26事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言う。
その後の時間軸の狂いが重要だ。「2・26事件・の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」、とある。
「検索記事を参考」
中島は直ちに侍従甘露寺受長に知らせ、甘露寺が天皇に報告したものである。 天皇は直ちに陸軍の軍服を着用して政務室に出た。 肩には大元帥を示す四つの星が並んでいた。
「本朝、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三連隊の一部が出動し、斎藤内大臣、岡田総理、鈴木侍従長、高橋蔵相の邸を襲いましてございます。 重臣たちの生死は未だ判明致しませぬが、みだりに軍隊を出動せしめたる件、容易ならざる事件と存じ、恐懼に堪えませぬ」本庄がそう報告すると、36歳の天皇は大きく眉をよせてその衝撃を表した。
斎藤実はその日の晩、別荘(千葉県一宮町)に帰る予定にしていた。
しかし、その本人の予定と警察当局の忠告はあらぬ方向から、逆転変更を余儀なくされる。
「2・26事件・の前夜、斎藤実はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」。
その映画鑑賞とグルー大使との歓談が弾み、とても「危険」と念を押されていた自宅にもどった。それが「運命のいたずら」とするには、あらゆる設定が暗殺現場(自宅、四谷区仲町三丁目現:新宿区若葉一丁目)に向かわせている。
(警視庁が未然に知っていた不穏情報をアメリカ大使のグルー氏が知らない、そんなことが戦況下で考えられるだろうか)
翌年に戦時交換船で帰国した。帰国後は駐日大使時代の経験を『滞日十年』に著し、講演旅行では大変な人気を博した。
「三人委員会」
「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイは日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。
1945年5月、グルーはトルーマン大統領に対して、天皇制はまさしく封建主義の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語った。
グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。
「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。
生涯経歴 在日本アメリカ合衆国大使、国務長官代理、1880年5月27日 - 1965年5月25日 (資料ウィキぺデア)
親王任国 常陸 上総 陸奥 筑波 上毛野
親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。常陸国、上総国、上野国の三国。親王任国の守である親王は太守という。
常陸国はかつて日本の地方行政区分だった「令制国」の一つ。東海道に属する上総国、上野国、とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は「常陸介」であった。
そうして「親王任国」の国府が作られ長官として「常陸介」があたる。そして「上野国」、さらにもう一つ「上総介」か任じられた。当時の位として、この三つを親王任国の守である親王は太守と呼んだ。
天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。
桓武天皇(かんむ)は非常に多くの皇子・皇女を残し、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。
「清原夏野・・・」はこうした課題に加えて、当時親王が八省卿を兼務する慣例が成立していたことに問題]があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した。
当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。
親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の三国である。いずれも大国だった。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。
天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。
親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。
しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。
時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。
名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官したのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。
※僭称 身分を越えた称号を勝手に名乗ること。また、その称号 群馬県・栃木県南西部には「毛野」と呼ばれる文化圏が存在したとされる。
伝承では、これがのちに「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しもつけの)」に分かれたという。なお「上」・「下」は、上総国・下総国同様、「都に近い方」を「上」としたものとされるが、吉備・越等の「前」「中」「後」との違いは明らかではない。またこの分裂は史書になく詳細は不明で、古くより議論がある。
『大宝律令』の制定においても、上毛野は「上毛野国(かみつけののくに/かみつけのくに)」として令制国の1つに定められた。
その後、上毛野国・下毛野国の国名は「上野国」・「下野国」と改められた。この際、「毛」の字は消えたものの「こうずけのくに」として読みにその名残をとどめている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく「こうずけ」と振られて表記される。
上総国について
千葉県は律令制以来の『房総三国』である上総国・安房国の全土と、下総国の一部から成り立っている。
「下総国」のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡・岡田郡の4郡と相馬郡・葛飾郡2郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡のさらにまた一部は東京都と埼玉県に編入されている。
1873年(明治6年)6月15日に、北西部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。
その後、1875年(明治8年)5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に、江戸川以西の区域を埼玉県に移管した。
後に、1899年(明治32年)に香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入され、現在の県域がほぼ確定した。
親王任国(しんのうにんごく)とは
常陸国、上総国、上野国の3国を指し、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。
親王任国の守である親王は太守という。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。
天長3年9月6日(826年10月10日)、「清原夏野の奏上に基づき制定」された。当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。
以降、これら3国の国司筆頭官である国守には必ず親王が補任されるようになった。
親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。
名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官され、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官されたのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。
「上野」の由来と読み
毛野地域の変遷
4世紀頃? 毛野
5世紀末頃? 上毛野 下毛野 那須
7世紀末 上毛野国 下毛野国
8世紀初頭 上野国 下野国
↓ ↓
現在の都道府県 群馬県 栃木県
古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる。
毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。
また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。
『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という名称の由来と推察されている。
桓武天皇(かんむてんのう)
桓武天皇は、日本の第50代天皇。
生年月日: 西暦737年 生まれ: 日本 死没: 西暦806年4月9日, 平安京
親: 光仁天皇、 高野新笠 子: 嵯峨天皇、 平城天皇、 淳和天皇
兄弟: 早良親王
白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済帰化人の子孫である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。
しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
[生] 天平9(737).京都 [没]大同1(806).3.17. 京都
第 50代の天皇 (在位 781~806) 。名は日本根子皇統弥照尊 (やまとねこすめろぎいやてりのみこと) 。
山部親王。光仁天皇第1皇子であったが,母が帰化人の出の高野新笠であったため皇太子となれなかった。
桓武天皇
山部皇子は、773年廃太子された他戸親王に代わり立太子したが、母の高野新笠が百済系渡来人の出身であったので周囲から反対された。しかし藤原百川らの強い推挙により実現した。
なお、この山部親王の立太子により天武系の皇統は完全に途絶えた。
781年病と老齢を理由に退位した父に代わり、即位して桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王とした。
782年氷上真人川継が謀反を起こしたが捕らえられて流刑に処せられた。
784年政情不安・凶作・疫病の流行を理由に年号を変え長岡京に遷都した。
785年頼みとしていた藤原百川の甥の中納言・式部卿藤原種継が暗殺された。
この事件により大伴継人・大伴竹良らが捕らえられ処刑された。
また早良親王が皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉され、のちに淡路に配流となりその道中で没した。
皇太子には長男の安殿親王とした。
これに連座して万葉歌人の大伴家持(すでに故人となっていた)らの官職を剥奪した。
この後大飢饉が発生するなど忌まわしい出来事が起こったので、陰陽師に占わせたところ、安殿親王の病は早良親王(怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追号する)の怨霊の祟りとされた。
794年 桓武天皇はその不吉から逃れるため和気清麻呂の提案を受けて平安京(この後1180年の福原遷都を除き、1869年の明治2年まで続いた都)に遷都した。
桓武天皇は、791年に坂上田村麻呂を征夷大将軍とし蝦夷を討たせ、また794年藤原継縄・菅野真道らに国史編纂(797年『続日本紀』として完成)を命じた。
804年には空海・最澄らを唐に派遣する。
桓武天皇はまた宗教界を統制し、さらに勘解由使を設置して国司の監督を強化し天皇による強力な政治を行った。
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))
日本の第50代天皇 在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日)
上総介広常 かずさのすけひろつね (?―1183)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。
上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。
その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。
保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)に従う。1180年(治承4)8月石橋山(いしばしやま)の敗戦後、安房(あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝(よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田(すみだ)川辺に参会、服属した。
以後、常陸(ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺(ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。[杉橋隆夫]
常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。
親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。
(参考 weblio)
讖緯説~諸説2
前項では、「讖緯説」は五行陰陽説から成立していると書いたが、その「五行陰陽説」にしても、今で云う科学的根拠は皆無で、ひたすら呪術的な要素が強い。
時の為政者たちは、国家(当時は小規模村落集合体)という社会の方向性を示す使命があり、また呪術師が集落の長である場合が多かった。その例は紀元前エジプト王にまつわる文献を読んでも、そのことが記録されている。
この科学技術オンリーの現代で、占い卜辞(亀甲占い)のテクニックを使って政治などしたら、世界のひんしゅくを買うが、当時としては、当たる確率の高い卜辞遣いが、優れた政治の長と見られていた。また、専門職を雇い入れ国の政策策定のヒントとしていた。陰陽師で知られる「安倍晴明」はそのよい例だ。
まず、その算出の方法論だが、一般的には、このように理解されている。つまり、干支は60年で一巡し、このサイクルを一元とする。また、21元で一蔀となり、世界が改まる、と。このため、一蔀を単純計算で1260年とする。
井上光貞の日本歴史の概説書などを一瞥すると、信じがたいことだが、これが日本の古代史学の定説になっているようだ。坂本太郎(「古事記の研究」)に到ってはそれゆえ、起源に1260年を加算し、日本書紀の算出基準年を推古九年として、なにも特記すべきできごとのないこの年に対して、それゆえなにか重要な年であるかような倒錯の議論まで発展させている。この定説化の根は明治時代の那珂通世の論考なのだが、これは再考するまでもなく、先のような単純計算に依存しているにすぎない。これらは実は明白な誤りなのである。
讖緯暦運説の原点は『六芸論』や『駁五経異義』を著したとされる後漢代の経学の学者鄭玄(127~200)の説であるが、その算出を説明する原典はすでに存在しない。幸い、日本の三善清行の『革命勘文』(901年醍醐天皇に献納)にはその引用と思われる文が残っている。
鄭玄の算出については、那珂などのように、明治という近代国家の精神風土に毒されていない近世以前では、取り分け問題として指摘されることもなかった。代わりに、どちらかといえばこの算術自体が秘儀のようにみなされていたふしもある。いずれにせよ、算出方法の内部過程の正しさは広く信任され、算出結果も当たり前のこととして信頼されていた。
好都合なので作家の林房堆氏著『神武天皇実在論』から引用させて戴くと 「平田俊春教授は『神武天皇紀の紀年の意義』と『古代、中世における神武紀元の使用』の二論文を書いている。
神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。
しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。
東洋大学の市村其三郎教授の説である。 『神武東遷』を書いた安本美典教授は「数理文献学」という独特の学問の上に立って、「自分の説も市村説に一致する。つまり神武天皇は『日本書紀』の記載よりもずっと後代の人で、まず九州に国をつくって、それから大和に東遷した」と結論している。http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/32878799.html
干支が一巡する60年を一元とし、21元を一蔀として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち1260年ごとに国家に大変革がおとずれるというのである。
601(推古天皇9)年が辛酉の年にあたっているから、これより逆算して1260年さかのぼった紀元前660年をもって神武天皇の即位元年とし、それ以後の事件を適当な時代にあてはめて歴史書としての体裁をととのえたもので、後に編纂された「日本書紀」の紀年もこのとき採用した紀年法がもとになっているといわれる。笠原一男 『詳説日本史研究』
日本では神武帝即位は辛酉とされ、また平安初期、三善清行の上奏(和漢の史書に見えた甲子・辛酉の年に起こった変事を列挙して上奏した) により辛酉に当たる901年を延喜と改元して後、わずかの例外を除き、辛酉の年には歴代改元があった。
讖緯説(しんいせつ):
「讖」は予言、「緯」は緯書の意。(儒教の経典 経書に付託した予言の書の一つが緯書。この他に七緯ある。孔子作というが前漢末の偽作)
讖緯説は中国古代の予言説。陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測。先秦時代から起こり漢代から盛行、弊害が多いので晋以後 しばしば禁ぜられた。どちらかといえば儒者が唱え始めたもの。
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ザクロに関する資料
古代ローマの博物学者プリニウスの『博物誌』では、ザクロはカルタゴ周辺(Punica はカルタゴを意味する Poeniポエニのこと )が原産地と考えていました。
ザクロですが古代には医薬品として駆虫薬として皮が使われていました。プリニウスの「博物誌」やディオスコリデスの「薬物誌」にも薬としての製法が書かれています。皮の主な成分は、0.3 - 1 % 程度の揮発性アルカロイドと 23 - 28 % 程度のタンニン。
ホルモン様物質はないにしても、抗酸化作用のある「デルフィニジン」「シアニジン」などのアントシアニンや、「エラグ酸」などのタンニン類が含まれているため、生活習慣病予防に効果があると考えられています。ジュースはちょっと苦いです。
Punica granatum. 地中海の東部から北西インドが原産です。わが国へは、古い時代に中国から渡来しました。日本では食用というより、観賞用に栽培されています。多くの園芸品種があり、八重咲きの「はなざくろ」には果実がなりません。シェークスピアの「ロミオ
「讖緯説」(しんいせつ)とザクロ
奈良時代に外来芸能として中国より伝わった伎楽があるが、その面は縫いぐるみに近く頭部分を全て隠し神の頭だ。
この伎楽、詳細なわけは判らないが惜しいことに廃絶してしまった。それを復活しようと狂言師の野村万之丞(まんのじょう・故人)氏は一人孤軍奮闘していた。
「こうした里神楽の歴史、変遷の様子をはっきりさせたくとも無理な状態です。出来るだけ古きを尋ねるとすれば芸能的に見るより仕様がないように思われます」。
研究家、「西角井正大」氏は詳細な裏付け情報をもとに「里神楽」をそう分析したのである。
日本に伝わる伝承「芸」は諸々の理由如何を問わず、どんな障害があろうともその存在を世にアピールする必然性がある。それに携わる者たちはその使命感をもって神楽に臨んでいるが現実には生活様式の変化にともなう地方過疎、継承者不在そして衰退という厳しい状況の中にある。
さらに生まれる子供の数が年を追うごとに減っている実態は将来の不安を予感させる。日常生活の断片とは考えにくい今日的な状況の中の伝統芸能の神楽に、その価値を認めようとする人間が究めて少ないことも槙田を憂鬱にさせる一因なのである。
邦楽古典音楽のもう一つに雅楽がある。雅楽は明治以前まで宮中の秘匿性の強い音楽として門外不出であった。雅楽は人に聴かせるための音楽では無く、自然界の気象現象を音に変換し、天子がそれを奏でる音律を雅楽と呼ぶからである。
古来より宮中内でしか演奏されていなかった。奈良時代に諸外国から渡来した雅楽は、もともと占い呪術的要素を含んでいるようだ。
『史記』にもその記述があるくらいだから歴史は相当古いと思われるが、中国より導入され奈良時代では既に帰化し現在の雅楽に至っている。そのため詳細な定めごとが多くそして何より型と統一性を遵守する。
今でも中国、韓国に雅楽は残っているが日本の雅楽とは趣を別にする。それでも親戚関係の音楽であるから韓国の雅楽はその片鱗を聴かせている。クラシック室内楽と同系と思えるのは、それが音の構成という本質が根底にあるからだろう。雅楽の場合の演奏者は伶人というが、伶人は楽器と譜面があれば全国どこに出向いても他のメンバーとセッション可能である。
それは神楽とまったく正反対の音楽形態である。神楽は譜面など存在しない。当然、覚書き、指南書の類いなどあるはずがない。師匠連は弟子達にそれらを一切教えない。どうしてかと言えば師匠たちも又一切そのことを教わっていないからだ。知らないものは教えようがない。伝授するのは口伝による「舞」の形と音の律のみで、ひたすら習得完成するまで口伝で教え込む。そして免許皆伝は師匠が引退か、若しくは死んだ時である。したがって二十年や三十年は修行期間なのである。
狂言師の野村万之丞氏(故人)は三歳から舞台に立ったという。幼少の頃袴を佩くのに左足から佩けと躾られた。
その時、「何故左なのか」と祖父に問えば、先代の教えであると一蹴され、有無を言わず納得したと述懐している。伝統とは「型」であり型を変形することなく伝承するものなのである。
そのことは神楽そのものにも反映し比喩として、歌舞伎にある「見栄を切る」しぐさのようなメリハリに欠ける。
もともと神楽は神を対象に演じているのだから確固たる説は不要なのかも知れない。茫洋とか朦朧とか曖昧とか、なにしろ輪郭が見えない。ゆえに自分たちの神楽が何時から始まったのか、という伝承年代もはっきりしない。そのようなごく日本的な組織の神楽が全国約三千か所あり、それぞれが独自のスタイルで民族的伝統を継承しているのである。勿論金銭は一銭たりとも貰わず無償奉仕するのが神楽である。そこには今でいう商業ベースのコマーシャル的要素など入り込む余地はまったくない。古代朝廷に神楽の発祥とも思われる御神楽舞がある。その出所が里の神楽と同一のもので時代の移り変わりによって変化したのか、またそうでないのか。
古代信仰の対象は自然界の営みにあり樹々の生い茂る森である。後に祠を建て、やがて大きな建築物となって神が鎮座する。原始信仰の形は次第に変化し意識の中の神から具現の神へと進化している。そして一つの形式が確立した。
古代朝廷の祭祀における儀式では「御神楽」が行われていた。前述の猿女君一族による鎮魂の儀式で、これは呪術の系統が色濃く残っており古代雅楽と同じように、宮中の儀式であり外に出ることはなかった。それは全国の里に伝承される神楽とは趣を異にする。
日本では古代より独自の音楽があった。アジア一帯にルーツを持つ雅楽が導入される以前である。神楽歌・催馬楽・朗詠・東遊・久米歌・大歌・倭歌、などであり、これらは神武天皇や安閑天皇にまつわる音楽と伝え聞く。
神楽歌は宮中の「内侍所御神楽」という儀式で歌うもので古代歌謡の基本的な歌である。この神楽は、これまで述べてきた里神楽とは異質のもので朝廷の神楽歌なのだ。内侍所は賢所ともいい八咫の神鏡を安置する御殿をいう。内侍の司、その長官は天皇に常侍し、その配下の内侍の司は、尚侍・典侍・掌侍・女嬬の職があり総て女の職である。
内侍所の八咫の神鏡を安置する御殿。その神鏡を舞にした里神楽「八咫宝鏡」が天鈿女命によって今でも玉前神社の神楽として舞われているが、内侍所との関連性を伝え聞いたことは全く無い。また、宮中で行われる神楽は古来より巫女の手によって舞われてきた。御巫・猿女らが参加し鎮魂祭の呪儀を執り行なう。伝統的にその祭は猿女が奉仕するのが習わしである。また倭歌、なども鎮魂祭に楽奏される。
この猿女君とは、前でも述べたが女系の一族で朝廷の神事では欠かせない祭祀を担う一族集団であった。『四時祭式』『皇太神宮儀式帳』などの記載の中に「猿女君が鎮魂祭の神事に奉仕」とあり、そして猿女君の遠祖は天鈿女命なのである。里の神楽にもこの天鈿女命がいる。
ところが里の神楽においては伝承伝記が無いため、その事を検証するための書物が存在しない。書き記した文書がないという事の一つには、代々伝わる家系で世襲性の一子相伝と同じく他に流出することを嫌った事情がそうさせたと思われるが、そんなことも証拠がなければ無意味な詮索だろう。
御神楽と里の神楽の起源を追ってみたが、その概要が依然として姿を捉えらえられない。神楽は修験者によって行われてきたという有力な説があるが、ある時代の説であって総括的な意味と思えないところに神楽の不思議さがある。
日本書記によれば雄略天皇(四五六~四七九)の時代に渡来系氏族を飛鳥の住まわせた、との記述がある。その遺跡は奈良の清水谷遺跡で古墳時代中期の大壁建物と呼ばれる朝鮮半島系の建物跡六棟の遺跡であった。
この遺跡年代は五世紀後半であることが判っている。そのことは、かなり早い時代より渡来系民族が日本に渡っていたことを裏付けるものである。この出土発掘は平成13年12月8日の読売新聞で報道されている。
雄略天皇の時代からおよそ一世紀後に聖徳太子が摂政として出現している。太子の功績は何といっても憲法十七条制定にあるが太子は音楽についても言及し「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」と述べており外国の音楽を日本に導入することにも力を入れている。
太子は蘇我馬子と協力して国史の編纂に着手する。国史の編纂は古代日本を国際社会の仲間入りとして諸外国に向けアピールする重要な案件である。国史ということになれば国としてのアイデンティティが必要不可欠となる。隣国の中国、朝鮮諸国の歴史に準じて勘案する必要もあった。近隣諸外国に比肩する建国の年紀を創設する必要にせまられた。
紀元前の古代中国の春秋戦国時代に興った陰陽五行説思想に太子は倣った。冠位十二階は五行思想の徳目に、それを総括する「徳」を加えそして衣服の色も五行思想に基く。また憲法の条数十七は陽の極数九と陰の極数八との和である、と陰陽説が引き合いに出される。この十七という数は古代ペルシア宗教の詩篇ガーサーの詩の数で、それは『アヴェスタ』に収められている。世界宗教文献の中で最も貴重で深遠な教義を語るとされる。
「讖緯説」は未来を予言しそれを書にしたもので漢時代に普及しているが、そのもとは陰陽五行説にある。
それらは占いと予言の説で政治的に利用されたらしい。その時代に太子が讖緯説に強い関心があったのは為政者としてしかるべき判断であったろう。
その讖緯説には諸々の占いと予言が説かれている。それによれば辛酉革命・甲子革命という説があり、六十干支のうち辛酉の年には天命が革まって王朝が交替するような激変があり、その三年後の甲子の年には政治の交替の年、と予言している。
これは中国の歴史を基盤にした発想の「易姓革命」の天命より王朝が崩壊する年であり、日本とは国情が著しく相違しているが、その当時では東アジアの権力者には蔓延していた思想である、そう岡田芳朗氏は記述している。
聖徳太子による国史の編纂は大切な仕事であったに違いない。「辛酉の年は天命が革まって王朝が交替する」の予言をもとに推古天皇九年・辛酉(601)から1260遡った辛酉年(前660)を日本建国の年である神武天皇即位元年と定めた。
「そのような神武天皇即位の年紀は朝廷の所持した文書や語り部達の伝承した誦習ではいたる所に不備が生じてしまい、後の『古事記』『日本書記』の編纂者を惑わせる結果となってしまった」、と岡田芳朗氏は『暦ものがたり』の中で述べている。
日本政治の原点を作り上げた総合プロデューサー聖徳太子は、その当時の儀式に欠かせない音楽にも重点をおき「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」と、積極的に外来音楽の導入をはかってっいる。蕃楽とは外国人による音楽で蕃の意はもともと蛮族から来ているという。
そうした外交手腕は続く次の時代にも引き継がれていた。吉備真備(693~775)は遣唐使として渡唐し717年から18年間に渡り滞在し、精力的に唐の先進文化の当時としてはハイテクな知識を学び日本に持ち帰っている。
『大衍暦経一巻』『大衍暦立成十二巻』と「側影鉄尺一枚」など政治に重要な文献を持ち帰ったが、銅律管・写律管の方磬十二条・『楽書要録』など音楽関係の知識も吸収していた。
朝廷では雅楽寮が作られ唐・百済・高麗・新羅などの音楽を学ぶ人を集めた。この頃に出来上がったスタイルが今の雅楽の原点とされている。それは奈良時代であるが、それより古く太子の時代では百済の楽人が来訪して音楽を伝えたり、百済から楽器を持ち帰ったり、百済から味摩之が朝廷に訪れて伎楽を伝授している。
また592年に四天王寺が創建され、太子は雅楽・伎楽を奨励しており、四天王寺に秦姓の楽人が誕生するなど「三宝を供養するには諸々の蕃楽を用いよ」の言葉どおり、朝廷主導の諸外国の音楽導入が積極的に進んでいることが判る。
四天王寺では現在でも雅楽・舞楽が奉納され聖徳太子の命日の日、旧暦の2月22日には聖霊会、が営まれている。太子は古代においての先進諸国のジャンルの音楽を率先して日本に入れようしたのだろう。その当時の音楽は当然「伎楽」そして「雅楽」であったが現在残っているのは雅楽だけである。
古来より雅楽は朝廷の宮中の音楽として演奏されていたし現在の雅楽でも御神楽には雅楽の音律とは違うメロディーが演奏されている。
古くより伝承され、そして記録として残っている神話では夥しい数の神が登場しているが偶像崇拝の対象とはなっていない。勿論まったく無い訳ではないが、木彫りに岩彩を施した偶像神は異次元の神であり人間世界との隔たりが余りにも大きい。それに較べ聖徳太子像は、史実にのっとり極めて信憑性の高い「神」であり、現代社会に住む人々にとって真の意味で信仰対象になり得るのだろう。
また、現在でも聖徳太子が現化しそうな神籬空間が身近かにあり、自分の住む土地に残っていることが文化である。古代より自然の姿のままの山を神とする信仰は少なくない。社とは、その昔地を清め壇を作り神を祭った場所をいい建造物の社殿を指すものではなかった。
紀元前7世紀古代ペルシアの宗教を基盤にゾロアスター教を創唱したのが予言者ゾロアスターである。アムダリアにはギリシア人の痕跡がのこっていたが、その地はペルシア人が住んでいた土地でありゾロアスター教のアフラ・マズダーの聖なる場所としてもおかしくなかった。
天空の神を示す雷の矢と鷲の翼は東西文化の融合を示す遺跡のアイハヌム。 そのアイハヌム遺跡のあった場所から、さらに西には古代オアシス都市のサマルカンドがある。紀元前6世紀、東西貿易中継地として発展しシルクロードの十字路として古代より民族の攻防があった。古代アフラシャブの丘マラカンドはペルシア系のソグド人が支配していた。14世紀にサマルカンドはチムール帝国によって支配され、その地は天山山脈を境として東西交易の歴史が克明にのこっていた場所でもある。
ウルムチには「胡旋舞」という伝統的な古い舞が地元住民の「クチャ歌舞団」によって今でも舞われている。胡旋舞は旋回を基本とする舞で胡は西方をの意味をもつ。遥か遠く距離を隔てた日本にも同じような舞がありそれが神楽だった。高貴な意識を表わす民族衣装はまったく異なるが旋回する舞の基本動作は同じである。神楽の舞はグルグル回り、反回り、大回り小回りと旋回の繰返しとサイを切る。
サイ切りと旋回の舞の神楽に胡旋舞を重ねてみるのは単なる妄想であるのか。「旋回動作を基本とするのが舞、神迎えに跳躍動作を基本とするのが踊り」とする西角井説に、「胡旋舞」を神楽の基本的旋回舞にある意味を見つけ出そうとするには、さらに強固な考証を必要とする。
旋回動作とサイ切りの神楽は儀式的であり形式的でもある。そのことについては「修験道色の強い演目として四季と土用の所分けを物語る王子物や方位鎮めを骨子とした五行物が普及している」、とする解釈の他に理解する手立てを探すことができない。しかし陰陽五行思想は東西南北の方位に対して呪術の考えがあり「方位鎮めの呪儀」は理にかなっている。その陰陽五行思想も取り込んでいる修験道は神楽の発祥起源において重要な意味を含んでいるように思えた。
アレクサンドロス大王の東方遠征によってもたらされた文化の伝播が時代を下って中国南北朝時代に拝火教が移入したという。
そしてまた大王のペルシア征服後ミトラ崇拝は紀元前3世紀頃からオリエント全域に広がり小アジア・ローマ帝国に伝播した。紀元3世紀ミトラは密儀宗教の有力な神となってローマで信仰され太陽の復活を祝う冬至の後でキリスト教のクリスマス降誕祭の原形とされる。
古代宗教に共通する冬至にまつわる太陽神復活の祈り。太陽神アマテラスの再出現は冬至の日に行われる太陽神復活の鎮魂儀式で神話的要素のプロパガンダである。それは生命の根源である太陽の衰弱と死と復活という祈りに違いなかった。この太陽を神とする信仰は世界共通といってもいいだろう。
日本神話は朝廷の所持していた文書の帝紀・旧辞や語り部達の伝承した誦習をもとに編集され、推古天皇9年から1260年遡った年の紀元前660年を日本建国元年と定めた。スメラミコトの系譜は西暦にすると今から2662年前である。そこから神々の世界に代っていく。そこには詳細な神話伝説が物語として書かれていた。
その一節に次の件がある。「海神之女、豊玉毘売之従婢、玉器持ちて水酌ま将とする時、井於光有り」として、水に映す影の描写をしているが、この説話は影と霊魂を同一視する観念信仰から来ており、インドネシア・メラネシアに分布する水中に映る影が男女の結びの縁を語るものとされている。
同様の話はニューブリテン島ガゼル半島にも残っている。またトヨタマヒメの神性については、その正体の多くが水棲動物で、その母親から生まれた子が英雄になるという説話は中国や朝鮮に分布し、その種の神話では異なった動物トーテムの氏族出身の妻が生家から伝えたトーテム祭儀を行った反映である、との説もある。
トヨタマヒメを鰐とするのはアジア各地に分布する神話類型のスタイルで古代神話が日本独自のものでないことを教えている。そのワニは日本においてサメと解するのがもっぱらの見識なのである。ワニを何故サメと解釈するか科学的根拠ではなく文献上の考察に拠っている。
その説に異を唱えるわけではないが巨大ワニの化石がアフリカのニジェールで発見されている。全長12メートルで体重約8トン、頭骨は1.6メートルもあり恐竜時代に生存していたワニであるという。このワニが神話のモデルというわけではないが全く荒唐無稽と片付けるには確かな証拠の化石であり、また神秘性を含んでいる。
世界各地の秘境辺境の奥地では現代でも近代文明の恩恵にまったく浴しない部族の生活がある。我々先進国では文化的な生活をする上で近代的文化のテクノロジーが何一つ欠けても日常生活に不自由を感じる。それとは全く別の世界では石器時代そのままの生活形態を持続しながら少数民族が我々と同じ時間帯の中でこの地球上で暮らしている。
その差異は何か、そしてそのズレは何を意味しているのか。人間が思い描く概念の価値観は多種多用であるはずだか近代世界歴史の価値観は古くより欧米のものによっている。
そのことはこれまで述べてきたヨーロッパの宗教歴史と同じ道を歩み、そして今日の物理科学の礎はイオニアのタレスに始まるといっていい。
この二者の価値観が現代先進国の基本的考えとなっていることは誰もが認めるところだ。だが地球上の人間世界はそれがすべてというわけではない。その価値をごく限られた人口割合で共有しているにすぎない。その事実を当然のように考え石器時代の生活は一万年前の歴史に埋没していると考えている。
近代文明の技術とは人間にとって必要不可欠な要素であるのかと考えさせられてしまう。そこには原始そのままの儀式が伝えられていた。
日本の伝統的宗教儀式は神社にその型をとどめている。神社と祭は日本人の現風景であり、古くより伝えられている諸々の儀礼的な型は誰でも幼い頃から視覚的に見て知っている。そのワケを知らずとも生まれた土地の風習とか慣習は既成のスタイルとして自然に受け入れている。
神社の柘榴(ザクロ)
神社の杜の一画に「柘榴」が何気なくたっている。いつみても同じ大きさで、子供のころ見た大きさと、大人になってから見た大きさがまったく同じで、それほど生育が遅い樹幹の植物だ。
その柘榴には、人知れず深い、深い、訳がある。
古代ギリシャ、エジプト、ペルシャの妙薬ザクロ
●古代ローマ プリニウスの『博物誌』とザクロ
●インド アーユルヴェーダ医学とザクロ
リンク http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html
自閉症の少年 ジェイコブ・バーネット13歳
アインシュタイン以上のIQを持つ自閉症の少年によるスピーチを紹介している
自閉症と診断されても考えることは止めなかったと話した
大切なのはIQではなく、考えて創造することだと主張した
リンク http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html
太安萬侶墓誌
太安萬侶墓誌 - 古事記編纂者・太安万侶の実在を確定させた墓誌、重要文化財【大古事記展】
2014年11月11日 http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1012415564.html
1979年、奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された墳墓から、短冊型の銅版の墓誌が発見された。
癸亥年は、養老7年(723年)。この墓が太安万侶のものであることが確定したとともに、太安万侶が実在したことを証明する画期的な発見となった。
古事記の序に登場する太安万侶はその実在性が不確かだったために、古事記の序及び古事記そのものの信用を貶め、古事記の偽書説もあったものの、この墓誌の発見で、改めて古事記の序及び古事記が見直され、その編纂者としての太安万侶が脚光を浴びるきっかけとなった。
太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月11日))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。
太安万侶墓
奈良県奈良市此瀬町の太安万侶墓から出土した墓誌と真珠。墓誌は青銅製、共に重要文化財、文化庁蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。
墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。
左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された。
また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている。
豊葦原瑞穂国「春夢」 春の世の夢の如し・・・
山縣有朋 日露協商か日英同盟か
調査研究 山縣有朋記念館
財政、外交、軍事 ---- 国家戦略を総動員して国難を克服した大戦略家の真価
明治34年(1901)9月13日のことである。首相の桂太郎は三田の公邸に山縣有朋、伊藤博文、井上馨の元老3人を招き、宴を張った。
山縣の日英同盟論はいまに始まったことではない。その年の初め、山縣は4度目の政権の座についた伊藤に書をしたため、英独との同盟の必要を説いた。
「ロシアが日露協商に応じてきたらどうするのか」との伊藤の問に、山縣が桂に代わって答えた。
当然のことながら、桂は日英同盟に賭けようとしている。政府に相談なく物事を決めるのだけは止めてくれという桂の哀訴に、伊藤は矛先をおさめ、ロシアに向けて出発した。
こうして日英同盟は成立、日露は衝突への運命を歩き始めた。もちろん、ロシアの出方次第では、日露戦争は回避できたかもしれない。しかし、ロシアの出方は居丈高だった。義和団事件に乗じて満州に出兵したロシアはその後、露清条約によって遼東半島から撤兵するはずだったのが一向にその様子を見せない。それどころか、北朝鮮にも手を伸ばし、明治36年、韓国政府と森林伐採契約を結んだ。
明治37年(1904)2月、日本海軍は仁川港外にロシア艦船であるワリヤーク、コレーツを撃沈、日本政府は対露宣戦布告を出した。国運を賭けた、まさに乾坤一擲の戦いである。
日露戦争には数々のヒーローたちが登場する。兵力の不足を作戦の妙で補い勝ち抜いていった現地軍総司令官・大山巌や同総参謀長の児玉源太郎、戦費調達のため欧米金融市場を駆け回って外債の発行を成功させた日銀副総裁・高橋是清、欧州にあって帝政ロシアを打倒すべく不満分子を煽って謀略工作を展開した明石元二郎大佐、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊司令官・東郷平八郎、米国大統領のルーズベルトに接触して和平の仲介役を頼み込んだ金子堅太郎、ポーツマスで海千山千のロシア講和全権ウイッテと渡り合い困難な講和条約をまとめ上げた外相・小村寿太郎.....。
しかし、日露戦争の勝利を導いた最大のヒーローは誰かと問われるなら、それは山縣有朋を置いてないと言わざるをえない。
山縣の評判の悪さには十分な理由がある
まず、山縣は明治維新でさしたる役割を果たさなかった小物である。天保9年(1838)6月、長州萩城下の川島庄に生まれた。
この6名に伊藤も名を連ねている。木戸孝允の知遇を得た山縣はとんとん拍子で出世して高杉晋作が創設した平民兵による奇兵隊の軍監を務めることになる。とはいえ、奇兵隊軍監として目だった活躍をしたわけではない。むしろ西南戦争では薩軍に手こずり、苦戦を強いられたいきさつもあった。
明治維新のドラマではさしたる活躍をしたわけではなかったわりには、偉くなった。明治31年(1898)には初の元帥、34年には侯爵の爵位を授けられ、翌35年には大勲位を受ける。政権に二度にわたってつき、元老の中では伊藤と並んで最右翼に位置する。
山縣の評判の悪さは枚挙にいとまはないが、そのほとんどは彼の有した圧倒的な権力の大きさに起因している。つまり好嫌の感情は別として、みなが山縣の巨大さを認めているのである。
しかし、山縣は平然として鯛を続けた。このときの戦争で、長州は列強の連合艦隊にこっぴどくやられた。腹と腕に傷を負った山縣が学んだことは、戦いは戦略の巧拙や戦闘精神の有無もさることながら、武器の性能が大きく物を言うということだ。
山縣が天皇を中心とする国家の統治機構の強化に熱心に取り組んだのは、そうしなければ国家の統一を保つことができないと認識していたからだった。
第二次世界大戦の悲劇は山縣にその責任の一端があるというよりは、むしろ山縣のような重い存在に欠けたからこそ起きたと言うべきだろう。
自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。
(記事引用〆)