2015年10月

老けない人は「腸の若返り」ができている!
30代から進行する認知症はこう予防する
東洋経済オンライン / 2015年10月30日 10時0分

■認知症700万人時代を乗り切るカギは「腸」
今、先進国の多くで高齢化が進み、認知症が深刻な社会問題となっています。現在、世界の認知症患者さんの数は約3500万人。WHO(世界保健機関)の調査によると、20年ごとに患者数は約2倍に増加すると見込まれています。

私たちが暮らす日本も例外ではありません。平均寿命が男性で80歳、女性で87歳、男女合わせると84歳となり、世界でトップクラスの長寿国だからです。

実際、日本の認知症患者数は2012年現在で約460万人にも達しており、認知症予備軍とされる約400万人を含めると、860万人もの数にのぼります。さらに厚生労働省の推計によると、2025年には700万人に達するとされており、認知症治療の問題はもちろん、認知症対策もますます重要になってきているといえます。「まだ働き盛りの年代だから関係ない」とは言っていられないのです。

認知症は、脳の神経細胞が変性することから起こる脳の病気ですが、日頃から脳細胞の壊死や障害を防ぐ生活を心がけることで、発症リスクをかなり低くすることができます。そのカギとなっているのが、ほかならぬ「腸」なのです。

ところが、そういわれても、ピンとこない人は多いでしょう。「脳と腸は離れているのに、なぜ認知症予防に腸がカギとなるのか?」と思われても当然のことかもしれません。

しかし、腸は別名「第2の脳」と呼ばれており、小腸の一部の細胞や大腸の細胞は、神経を通じて脳と密に結びついています。ですから、腸が汚れていることから生じる生活習慣病や精神的な不調、免疫力や血流の低下といったことは、すべて認知症の発症リスクを高める要因となるのです。また、腸が不調だと細胞への栄養・水分の供給が滞りがちになり、ひいては脳細胞にも十分な栄養や水分が届かなくなります。こうなると脳へのダメージにつながるのはいうまでもありません。

このような腸の状態が長期間にわたって続けば、将来、認知症を発症するリスクが高まる一方といっても過言ではありません。まだ働き盛りの30代、40代だとしても、早いうちから腸の環境を整え、認知症への対策をしておいたほうがいいのは、このためなのです。

■健康で長生きの人は、腸まで元気で若々しい
拙著『認知症がイヤなら「腸」を鍛えなさい』(SB新書)でも触れていますが、腸の状態がよければ健康を維持することができ、老化を防ぐことにもつながります。腸が元気に機能することで、私たちの体を構成している60兆個の細胞が、いきいきと働けるシステムになっているからです。腸が元気なら脳を元気にすることにつながり、認知症予防にも有効なのです。

日本は世界でトップクラスの長寿国ですが、単に長生きすることが必ずしも幸せとはいえません。心の底から喜ぶべき長寿とは、健康であってこそではないでしょうか。このことは近年、「健康長寿」という言葉が注目されていることからもわかります。健康長寿とは、寝たきりや介護を必要としない、自立して生活ができる期間がどのくらいかを示した指標です。

健康長寿を左右するのは、何を食べ、どのような生活習慣を続けてきたのかにかかっているといっても過言ではありません。さらにいうなら、「腸」によいことをしてきたかどうかです。

私は胃腸内視鏡外科医として約40年間にわたり、米国と日本合わせて何十万例もの人たちの腸を診てきました。その経験から間違いなくいえることは、高齢であっても、「腸」がきれいな人は健康で、元気で若々しいということです。

■健康長寿を左右する「腸内細菌」の働き
近年、腸が体の免疫力にも大いに関係していることが知られ、注目されています。この腸の役割を十分に機能させるカギを握っているのが「腸内細菌」です。腸がきれいで、腸内環境がよく保たれていれば腸内細菌の働きは活性化し、私たちの体を構成している60兆個の細胞を若返らせることにつながる体内酵素も活性化します。ひいては健康長寿を延ばすことができるのです。

腸内細菌のなかでも、特に重要なのが善玉菌です。この善玉菌が腸で十分に働くことによって健康の維持や改善につながるのはもちろん、脳の細胞も元気になり、認知症を予防することができるのです。これは、腸内で脳の健康に必要な栄養素や神経伝達物質の素がつくられるからです。

具体的に説明すると、体内で合成できないビタミン群を腸内細菌は作り出してくれます。その種類は、ビタミンB1、B2、B6、B12、K(脂溶性ビタミン)、パントテン酸、葉酸と豊富です。なかでもビタミンB6とB12が脳の萎縮を遅らせるとの報告や、ビタミンB群と葉酸が中高年のうつ症状の改善に効くといった研究報告が海外から寄せられています。

特に脳の萎縮は認知症の大きな要因となります。また、老年性うつは認知症へ進行していくリスクがあるとされています。このことからも、腸を健康な状態にすることで認知症の予防にもなることが理解していただけるかと思います。

■実年齢と腸年齢は必ずしも一致しない
長年、胃腸内視鏡外科医として診てきた何十万例もの人たちの腸は、私に多くのことを語ってくれました。腸は雄弁で、ある意味、その人の性格から好みや生活のありようまで物語ってくれます。そのため、医学書には記されていなかった事実もたくさん知ることができました。

なかでも興味深かったのは、患者さんの実年齢と腸内の状態とは、必ずしも一致しないということです。一般的には、高齢になるほど体は老化し、内臓の状態も悪くなっていくのが常識です。ところが、その常識は腸には当てはまらないのです。

たとえば、私が診察した最高齢の方は105歳ですが、感嘆するほど腸壁はやわらかく、きれいな色をした健康そのものの腸をしていました。ほかにも90歳を超える方が何人かいらっしゃいましたが、どの方の腸もきれいでした。逆に、実年齢は若いのに、腸の中にはあちこちにポリーブができ、腸の働きがすっかり低下している人もいました。このままいけば、大腸がんになるのは確実と思われる腸の持ち主も少なくなかったのです。

これらのことからもわかるように、年齢の若さと腸の若さは必ずしも比例しないのです。このようなケースは、決して珍しいことではありません。しかし、腸の場合、加齢が進んでいるかどうか、自分では確認することはできません。

■見えない腸の老化は顔を見れば判断できる
腸の老化は見えないところで進むといいましたが、実は腸が老化しているかどうかが判断できるポイントがひとつあります。それは、顔の肌の状態を見ればいいのです。

何十万例という腸を診てきたことで、私は初診の患者さんの顔を見れば、その方の腸の状態がわかるようになりました。なぜなら、肌の張りや色、つやは、腸内環境の状態をてきめんに反映しているからです。

具体的にいうと、肌の状態がよくて実年齢よりも若く見える人は、腸も若くて健康な場合がほとんどです。逆に、肌が荒れていたり、くすんでいたり、張りがなくて血色が悪い人は、腸の老化が進んでいることが多いのです。特に実年齢よりもかなり老けて見える人は、注意が必要です。

老化とは、ひと言で説明すれば「細胞の老化」です。これは腸が食べ物からの栄養素を十分に吸収できず、免疫力を発揮できない状態に陥っていることを示します。さらに表情に生気が感じられず、瞳がいきいきしていない人も、腸から脳に送られるべき栄養素や神経伝達物質の素が十分に届いていない証拠といえます。

■体と脳をサビさせる悪者「活性酸素」
個人差はあるとはいうものの、ある程度の年齢を重ねれば、肉体は衰えていきます。とはいえ、老け込むスピードがあまりにも速い人は、病気や不調を自覚していなくとも注意しなければなりません。腸の老化が猛スピードで進んでいる可能性が高いからです。


腸が老化することの最大の原因は、腸内細菌が生命活動に不可欠な体内酵素を十分につくりだせなくなり、細胞の代謝が悪くなってしまう点にあります。この細胞の健康を損なう最大の敵が活性酸素(フリーラジカル)です。

私たちは酸素がなければ生きていけませんが、酸素には、体内の物質と結合すると酸化を起こす性質があります。酸化とは、わかりやすくいえば「サビる」ことです。この体をサビつかせる力が活性酸素の場合、普通の酸素よりも数十倍と強力なのです。

活性酸素は「体をサビつかせる悪者」ではありますが、ホルモン生成の手助けをしたり、外敵が侵入してきた際に白血球から放出されて敵を全滅させるなど、有用な働きもします。ところが、大量に発生すると、コレステロールや中性脂肪といった脂質を酸化させて過酸化脂質という有害物質をつくり出し、細胞膜やDNAを傷つけて破壊してしまうのです。

この過酸化脂質が脳細胞の細胞膜内に増えると、アルツハイマー病を引き起こす原因とされているタンパク質「アミロイドβタンパク」が、脳細胞の表面に集積しやすくなります。

このように、活性酸素は腸や脳の老化や病気を引き起こす大きな要因となっているのですが、その発生を完全に食い止めることはできません。呼吸によって取り込まれた酸素のうち2%は活性酸素と化すからです。先ほど触れたように、活性酸素は有用な働きもするため、まったくの悪者ではないのですが、現代人の多くは、活性酸素がつくられやすい環境にあるといえます。化学物質や紫外線、電磁波などにさらされ、食生活からも日々酸化した食物を摂っているからです。

■体と脳をサビから守ってくれる抗酸化酵素「SOD」
活性酸素を何とかしなければならないのはいうまでもありませんが、発生を食い止められないからこそ、人体は活性酸素による細胞へのダメージを防ぐシステムを用意しています。それは「抗酸化酵素」と呼ばれる体内酵素です。その代表的なものにSOD(スーパーオキサイドディスムターゼ)と呼ばれるものがあります。

SODは活性酸素を酸素と過酸化水素に分解し、中和します。そして、SODによって分解されて生じた過酸化水素は、さらにカタラーゼとグルタチオンペルオキシダーゼという体内酵素によって酸素と水に分解され、無害化されるのです。つまり、体内でSODが産生されれば、細胞を若く元気な状態に保つことができるというわけです。

ただ、SODは中年期以降になると急激に産生量が低下していきます。加えて腸が老化し、腸内細菌の働きが悪くなれば、ますます産生量が減っていきます。だからこそ、働き盛りの年代から、腸の環境を整えて健康を維持し、認知症の防止をしておいたほうがいいのです。

ある年齢を境に急に老け込み出した人は赤信号です。ただでさえ作られにくくなっているSODが、腸の老化で輪をかけて少なくなり、活性酸素による細胞の老化を食い止めることができなくなっている状態と考えられるからです。見た目の老化はもちろん、気力がなくなる、気持ちが沈むといった精神面の老化も、大本は腸が一気に老けて、体内酵素をつくり出せなくなっているといえます。

SODの産生量の低下を緩やかにし、腸がいつまでも若く健康に働けば、身体も脳もサビません。身体も頭も健康な状態で、与えられた寿命を生き抜くことも不可能ではないのです。つまり、認知症700万人時代の最善の予防策は「腸」の若返りにある、といっても過言ではないのです。
(記事引用)





小栗「上野介」という改名
小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。
江戸時代末期
生誕 文政10年6月23日(1827年7月16日)
死没 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)
改名 剛太郎、忠順 別名 又一

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[5]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
戦後、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。

家督相続前
文政10年(1827年)、禄高2,500石[8]の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳の頃には自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。
8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる。武術については、剣術を島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計、柔術を窪田清音に師事する。天保11年(1840年)頃、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける。
天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か官職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて官職を戻されている。嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる。安政2年(1855年)、父が医師の誤診により死去し、家督を相続する。

アメリカ渡航 
ワシントン海軍工廠での使節団:正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)

安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。
勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはCensorである」と主張して切り抜けたという。「Censor」という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。
フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らなかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。

その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。
内政・外交に携わる

文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に対馬を直轄領とすること。今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した。

文久2年(1862年)、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドルに上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。なお当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようもと考えたが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができたフランス中心の招聘となった。

文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14代将軍徳川家茂はこれを承認し、11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。
なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。
見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した。ただし近隣での石炭供給が不十分であるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865年)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始。費用は4年継続で総額240万ドルで、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた。
横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く、建設地を横須賀にすることへの反対論もあったが、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。
多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである。
小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い。
小栗は陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した。

文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した。また、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した。

小栗は更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。
また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った。
経済面では、慶応2年(1866年)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした。
これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった。

8月9日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。
罷免、最期

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還、翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。
慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という挟撃策を提案したとされ、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れた。実際、この時点において旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが、慶喜はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。

慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英より呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。
旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた。
また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された。
享年42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。
どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・忠道を養子に迎えていたが、忠道も高崎で斬首された。
死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてより面識があった会津藩の横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった。
その後、一行は新潟を経て閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された。一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話したのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。
三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。

大鳥圭介は、小栗について「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった。」と証言した。
大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。

明治45年(1912年)7月、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。

「三井財閥中興の祖」三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。

小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている。

小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる。

小栗は鉄砲や弓の名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶より褒美を賜っている。また、小栗所用と伝わる文久2年(1861)8月制作の《本小札五枚胴紺絲威具足》が、東京富士美術館に所蔵されている。

小栗上野介の従者として立石斧次郎 「益田」のその恩師は、その教え子だつた。
安政6年(1859年)、父・鷹之助が江戸詰めとなり、一家は江戸の下谷に越す。11歳になっていた益田は、アメリカ公使の通訳をしていた立石斧次郎(おのじろう)に英語を学んだ。この立石斧次郎は、万延元年(1860年)の幕府による遣米使節団の一員で、小栗上野介の従者としてアメリカに渡っている。立石はアメリカ女性のあいだでトミーという愛称で親しまれ、絶大な人気を博したという。
 
その人気の高さから「トミー・ポルカ」という歌まで作られ、これが大ヒット曲になった。「スキヤキ・ソング」の遥か以前のことである。そうしたなかで立石は何人かの令嬢と恋に落ち、そのことで小栗に大いにたしなめられるということがあったのだ。

益田は、こうした形で小栗上野介との間に縁(えにし)があったことを全く自覚していなかった。益田を三井に引き込んだ三野村、益田の英語の恩師である立石が、ともに小栗と深い関わりがあったのである。
  
日本経済は外国商人の支配から脱却し、中小商人は貸し付けを得られ、三井は破綻の瀬戸際を救われ、善政をほどこす幕府の信頼は高まる。まさに、一石4鳥の名案であった。利八の巧妙な思考が小栗を助け、三井を窮地から救った。
利八の構想を実現するために、「三井御用所」が新設され、その責任者として、利八が着任する。三井への正式入社に当たり、利八は三野村利左衛門と改名する。
 「三井」の「三」
 「美野川」(養家の名)の「野」
 「木村」(実家の名)の「村」
と、一字ずつを組み合わせた。

小栗上野介は、三野村を駆使して、幕末の財政改革を推進していく。慶応3年(1867年)8月、小栗と三野村は、日本初の政府発行紙幣である「江戸横浜通用札」を発行する。幕府は額面10万両の金札を三井にひきわたし、三井はこれを幕府の外国方関係の支払に使う。三井はこの紙幣持参者に対して正貨と引き換える(兌換(だかん)する)という仕組みだ。

さらに同年10月には、三井御用所の事務取扱で「関八州国内限り通用金札」を発行する。幕府は三井御用所を通じて、江戸の本両替商に一店あたり3000両の金札を交付し、そのかわりに2000両の正貨を幕府に上納させた。この金札は3年してはじめて兌換が可能となるために、その間、幕府の財政は安定する。今日における国債発行による財政資金確保のようなものであろう。

小栗はまた、日本最初の株式会社である「兵庫商社」を設立するが、その設立にも三野村は協力している。こうして三井は、三野村の力で幕府の中央銀行ともいうべき地位を占めるに至った。しかし、2度目の金札を発行した10月、第15代将軍の徳川慶喜は朝廷に「大政奉還」し、260年にわたる徳川幕府の支配が終焉する。すでに時代は御一新前夜となっていた。

御一新における三野村利左衛門の判断、駆け引きに進む前に、豪商三井の歴史を確認しておこう。
三井の先祖は、意外なことに近江の武士である。三井の由来を三井広報委員会のホームページから以下に引用する。
(検索ウィキぺデア)
(三井広報委員会)








聖徳太子のバーチャル虚と実
誰も知らない「聖徳太子」というのを昨日書いた勢いで、蘇我氏を少しばかり調べてみたら何がわかるのかと考えた。まず、26日の書き出しより。

誰も知らない「聖徳太子」
cocorakinoraki333
聖徳太子は「正体不明」で実在しない・・・
だとしても1万円札は「偽札」である、という話しにはならない。
紀元前古代の中国に孔子・老子・孟子は、実在していて、ちゃんと記録も残っている。だからいたんだ、というパラドックスと同じだ。(古文書は写本という手法で代々引き継がれてきた)

聖徳太子も孔子・老子・孟子なども、教科書に書かれている人物像で、試験に出題される項目の筆頭で、それが居たか居なかったか、という設問はしていない。いってみれば社会的一般通念上の知識であり情報であって、その国々の概念的な知識として形成されている。その人物が実際存在したか、しなかったか、という問題は研究対象になるが、アンチテーゼの提示とはことなる。(記事部分引用)

次に、ネット検索した各サイトの引用記事を載せるが、通説的なものが多く、その枠から踏み出していない。もっともそれは1300年前の旧い話なので、新説などあるはずもない。あったとしても、それを発表するには余程の覚悟が必要だろう。

「卑弥呼」の存在がいまだ論争のマトで、おそらく永遠に論争し続け、諸説新説が出て、本のセールスに一役買う。だから、それなりにインフラ効果はある。
この聖徳太子、それと蘇我氏の話も、永遠に続くと思われた。ただ、一つ気になったのは、1300年~1400年前の古代日本の政治形態、社会インフラ、農業政策、防衛システムなど相当に原始的で、鉄とか青銅技術のハイテク技術(輸入にたよっていた)をしらない民族が、どうやって戦争していたのか、という具体例が書かれていない。

また、古代のそれらを語るとき「大和朝廷」と既成事実のように書いているが、もともと外来種の民族が「豊葦原瑞穂国」(見渡す限りの湿地帯)に入植して、在来種を駆逐するという動植物と変わらないサバイバル合戦を展開するのだから、まず舞台となっている土地の地勢風景を描く必要があるのに、そうした記述が一切ない、というのも変な話だ。
わかり易くいうと、コロンブスの新大陸発見と、まったく同じ方法論で、もともと先住民族の居た土地に割り込んで棲んだという歴史である。(※詳細は以下)

当然、そこには争いがあって戦闘能力に長けたものが他民族種を征服するという図式だ。いまで云う庸兵の外人部隊、それら「俘囚」が戦闘に加わっていたことが判っている。聖徳太子を語るときに、そうした専門戦闘集団の記述がみられないのは片手落ちだ。
それに近いものが「蝦夷」と区分けされているが、「蝦夷」は日本全国に分布していた、もともとの土族民族であり、その遺伝子的な分類がしっかりされていない「太子物語」が多すぎる。

「武器」、青銅器時代が存在しない地域
石器時代、青銅器時代、鉄器時代という時代区分が当てはまらないケースもある。石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。
日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。
また中・南アメリカにおいては、鉄を発見する事なく文明・文化を発展させ、歴史時代に入った事から、青銅器時代という区分は存在しない。鉱業・冶金技術の発展とともに青銅のみならず金や銀、あるいは金・銀・銅の合金が使われるようになる一方、石器も実用品として長く使われた。(ウィキぺデア)


蘇我氏と太子
蘇我 馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。
生年月日: 西暦551年 死没: 西暦626年6月19日

蘇我氏は当時最大の豪族であったと同時に、聖徳太子の伯父にあたる人物。聖徳太子の母親は蘇我馬子の妹。聖徳太子は摂政として国政に携わっていたが、蘇我馬子の協力なしには政権を維持できない状態だった。いわば、聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治である。
太子は馬子と妥協しながら、冠位十二階、十七条憲法を制定し、少しずつ中央集権体制を作った。

太子の死後はこの二頭政治の一角が消えたわけですから、蘇我氏の専横に見えてしまうのです。
聖徳太子に代わるべき人物が出なかった。後に、「中大兄皇子」が出ますが、彼は蘇我氏との二頭政治を望まず、天皇を中心とした完全な中央集権体制を築いた。
(検索ウィキペディア)

大化の改新
日本初のクーデターといわれる大化の改新。蘇我氏の専横は極まり、それを排除しようとする勢力は遂に武力を以って実力行動に出たのである。聖徳太子は制度と秩序で蘇我氏の暴挙を押さえようとしたが次の世代においてはそうした猶予などなかったのだ。激動の大和朝廷、蘇我氏打倒の火が燃え上がる。 
蘇我馬子の死後、その後を継いだ蝦夷・入鹿父子は政治を独裁し643年、天皇の許しもなく入鹿に紫冠を与えるほどであった。
既に推古天皇は没し、舒明天皇から皇極天皇の世に移っていたが皇太子の位は決定していなかった。これを政治的に利用しようとする「蘇我」氏は蝦夷の妹・法堤郎女(ほていのいらつめ)を母とする古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を皇太子に据えようと画策した。
一族に所縁の者が立太子すれば、蘇我氏の権勢はますます強くなるからである。しかし対立候補は数多く、現在の天皇である皇極天皇の子「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)や、聖徳太子の遺児「山背大兄王」(やましろのおおえのおう)などがいた。

邪魔者は消せと言わんばかりに、同年に入鹿の手の者が「山背大兄王」を暗殺。聖徳太子の血統は滅んでしまった。さらに644年、入鹿は飛鳥宮を見下ろす甘橿丘(あまかしのおか)に館を造営。武器庫や柵を構え、都を足元に眺める大邸宅であった。蘇我氏の暴政はここに極まったのである。

当時の皇太子候補 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係もう一人の皇太子候補・中大兄皇子は、自らの身にも蘇我氏の手が及ぶ事を警戒しひそかに蘇我氏打倒の機会を狙っていた。
ある日の事、蹴鞠の会で靴を飛ばしてしまった皇子はその靴を拾ってくれた人物、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と親しくなる。
鎌足もまた蘇我氏の暴政を正そうとする者の一人であった。両名は隋より帰国していた南淵請安の門下で学び、新たな国家体制作りを研究しつつ、蝦夷・入鹿打倒の構想を練る。入念な計画は蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)など賛同者を着実に増やし、後は決行の日取りを待つばかりとなった。

645年6月12日、この日は朝鮮半島の3国(高句麗、新羅、百済)の使者が来日し皇極天皇に謁見する日であった。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿(だいごくでん、天皇が政治を執り行う建物)で、使者の書を読み上げる役は蘇我石川麻呂である。
この朗読の最中、事件は起こった。列席の蘇我入鹿に中大兄皇子らが斬りかかり殺害。
同時に中臣鎌足は軍勢を指揮し甘橿丘の邸宅にいた入鹿の父・蝦夷の動きを封じた。
これが「大化の改新」である。
翌13日、既に趨勢は決したと観念して蝦夷は自害、蘇我氏の邸宅には火が放たれた。クーデターは成功を収めたのである。さらに14日、皇極天皇は退位し上皇になり新政府が発足。天皇の位には皇極天皇の弟・孝徳天皇が即位、皇太子に中大兄皇子が就く。

新たに設置された役職である内臣(うちつおみ、ないしんとも)に中臣鎌足、左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我石川麻呂、政治顧問である国博士(くにのはかせ)に遣隋使として留学した旻と高向玄理が就任した。そして19日、中国の制度に倣い元号を制定、大化(たいか)とする。
新体制の確立はさらに続く。8月、東国に国司(こくし)を任命した。国司とは地方行政長官のようなもので、各国を治めるために地方へ派遣された役人である。9月には古人大兄皇子を討ち、蘇我氏所縁の者は完全に排除された。
もはや飛鳥宮に政争の火種は無くなり、この年の暮れ政治刷新のために都は難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ移された。

古代史最大のライバル対決
7世紀前半の飛鳥。豪族が支配する世から天皇中心の中央集権国家へと移り変わる歴史の転換期。実質上の政治の権限は蘇我氏の手に握られ、「日本」という国家の出発点・大化の改新が起こる。
それは、波乱に満ちた幕開けでした。645年6月12日。時代の流れを大きく変える事件が起こります。時の天皇、皇極女帝の目の前で、時の権力者、蘇我入鹿が襲われたのです。首謀者は皇極女帝の息子、中大兄皇子。これが、蘇我入鹿暗殺です。なぜ2人は対決することになったのか。古代史史上最大のライバル対決、蘇我入鹿と中大兄皇子。大化の改新の幕が上がります。
跡継ぎを巡る後継者争い
642年1月。史上2人目の女帝、皇極天皇が誕生した時、2人の男の運命が大きく変わろうとしていました。
ひとりは天皇の力をも凌ぎ、都が置かれた奈良の地を拠点にしていた豪族の後継者、蘇我入鹿。もう1人は、天皇家の有力な跡継ぎとして生まれた、中大兄皇子。
一方の中大兄皇子は父、舒明天皇、母、皇極天皇という2人の天皇を両親に持つサラブレッド。
片や入鹿は蘇我一族。天皇家との政略結婚でその勢力を拡大し、天皇家を凌ぐ力をつけていました。そのトップが蘇我入鹿でした。
皇極天皇即位にともない、父、蝦夷から、国政の最高位、大臣(おおおみ)を与えられました。権力を手にした入鹿の非道ぶりに人々は恐れおののいたと言います。
一方中大兄皇子は、完璧な血筋ゆえに後継者問題に巻き込まれる運命にありました。皇極天皇が即位した当時、皇位継承候補として名が挙がったのは4人。山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子で、入鹿のいとこ、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、皇極天皇の弟、軽皇子、そして中大兄皇子。
中でも山背大兄王は諸豪族から厚い信頼を寄せられ、最も有力な皇位継承候補者でした。しかし、大臣の権力を譲られてまだ1ヶ月にも関わらず入鹿は、妹の息子、古人大兄皇子以外の他の皇位継承候補者の排除に乗り出すのです。
これが入鹿と中大兄皇子の対決の幕開けです。中大兄皇子の祖父・彦人大兄皇子(ひとひこのおおえのみこ)は、次期天皇を約束されていた人物。
しかし、入鹿の祖父、蘇我馬子に暗殺されたとの噂や、中大兄皇子の母、皇極天皇の愛人関係にあったとも言われていたのです。二人の関係を知った中大兄皇子が入鹿に憎しみを抱いたとしてもおかしくありません。蘇我一族によって祖父を殺され母も奪われた中大兄皇子。この時こそライバル誕生の瞬間でした。

「蘇我入鹿 VS 中大兄皇子」
欠かせない一人の男
横暴な蘇我入鹿に対し中大兄皇子が立ち上がるのは1人の男との運命的な出会いがきっかけでした。
飛鳥寺で行われた蹴鞠の席で脱げ落ちた中大兄皇子の靴を拾って渡した男。それは中臣鎌足。この時、鎌足が入鹿の横暴を取り除くよう進言。
2人の入鹿暗殺計画はこの出会いから始まったと言われています。この暗殺計画の刺客として鎌足が目をつけたのは網田と子麻呂、そして石川麻呂の3人。
この石川麻呂は入鹿と不仲だと言われ、蘇我家の内部崩壊を狙った石川麻呂を味方にするため、中大兄皇子はその娘と結婚しました。
娘をたてに、暗殺計画にひきずりこもうとしたのです。そして計画をいつ実行するか考えます。朝鮮三国の使者がくる重要な儀式があれば入鹿も顔をみせると偽物の儀式を考えます。
そして、運命の日はついにやって来ます。朝鮮三国から天皇へ貢ぎ物が献上される儀式の日。入鹿も儀式に参加するために姿を現します。
そこへ1人の男が剣を渡すよう入鹿に迫ります。
これは鎌足の罠。入鹿が常に剣を身につけていることを知っていた鎌足から剣を取り上げるためひと芝居打ったのです。万事鎌足の計画通り進み、入鹿が席につき儀式が始まります。石川麻呂が上奏文を読み上げる。
実はこれが2人の刺客が入鹿に襲いかかる合図でした。しかし2人の刺客は恐怖のためか動く事ができません。上奏文の終わりが近づき石川麻呂の手が震える。計画は失敗かと思われたその時、中大兄皇子は自らの手で蘇我入鹿の首をはねます。これが入鹿暗殺の顛末でした。

隠されたストーリー
天皇中心の国家を目指す中大兄皇子らが起こしたクーデター、蘇我入鹿暗殺。その背景には別の首謀者がいた可能性があると言います。
その鍵は入鹿が起こした、山背大兄王(やましろのおおえのおう)襲撃事件にありました。『日本書記』によればこの事件は、権力を手にしたい入鹿が山背大兄王を襲撃、一人で犯行に及んだとあるのです。
藤原氏の伝記・『藤氏家伝』では襲撃は入鹿一人の犯行ではなく、多数の皇族が加わると言う記述も。しかも入鹿の単独犯を否定する史料は他にもあったのです。
平安初期に書かれた聖徳太子の伝記でも入鹿は単独犯ではなく実行犯の一人とされています。この事件には6人の首謀者が挙げられ、その中には意外な人物もいました。皇極天皇の跡を継いだ軽皇子。
ここに興味深い事実が明らかになってきます。中大兄皇子以外のクーデターに参加したものたちは、「地縁」でつながっていたのです。
中臣氏、石川麻呂は和泉地方に多くの支配地を持ち、刺客の小麻呂と網田は、河内・和泉の出身。
そしてその中心に、和泉に宮殿を持つ軽皇子がいたのです。クーデターの主役は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったのではないかと考えられます。
入鹿が暗殺された時点で4人いた皇位継承候補者は、中大兄皇子と軽皇子の2人に絞られます。2人の内一番得をしたのはどちらだったのか。
答えは皇極天皇の跡を継ぎ天皇となった軽皇子だと言えるのではないでしょうか。さらに意外な人物が軽皇子に仕えていたこともわかりました。
それは中臣鎌足。実は、鎌足は2つのシナリオを持っていました。1つは、軽皇子の邪魔となる山背大兄皇を取り除き、その罪を蘇我入鹿に押し付けることで、入鹿暗殺の大義を手に入れます。
そして、入鹿に不満を持つ中大兄皇子を利用して、あの古代日本史史上最大のクーデターを起こさせたのです。蘇我入鹿と中大兄皇子。2人の対決の裏には、一人の男の陰謀があったのでしょうか。
ここから始まる藤原氏の栄華
中大兄皇子とともに入鹿暗殺を実行し、軽皇子の即位に成功した中臣鎌足。今度は、中大兄皇子の即位を実現します。
蘇我入鹿暗殺から実に23年のときが経っていました。即位の翌年、鎌足は天智天皇となった中大兄皇子から、それまで誰にも与えられなかった最高位「大織冠」、そして、「藤原」という姓を授けられます。ここから1000年にも渡る藤原氏の栄華が始まることになるのです。

蘇我 蝦夷(そが の えみし) (資料ウィキぺデア)
飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。

蘇我馬子の子で、母は物部守屋の妹・太媛。
推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として田村皇子を舒明天皇として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。
『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。

舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また蝦夷の子・蘇我入鹿に紫冠(冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と擬し、弟を物部大臣とし、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど、自らを大王に擬する行為があった。一方で子の入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。『日本書紀』は、蝦夷はこの入鹿の行為を怒り、嘆いたと伝えている。

皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が殺害されると、蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。享年59。なお、『日本書紀』によれば、『天皇記』はこの時に失われ『国記』は船恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。

(※詳細)米国史と先住民族JTB Travel Network 
米国史と先住民族一般の人々が持つ常識には誤解が多い。
アメリカ大陸はコロンブスが発見した!
白人で初めて北米大陸初上陸をしたのはバイキングのエリックソン(スカンジナビア人でアイスランド在住)で、アイスランドには彼の銅像まである。白人の前はもちろん1万5千年前に先住民族の祖先達がすでに来ていたし、西暦400年頃、中国の仏教使節が渡米していた記録も残されている。カリフォルニア付近で生活していた先住民族が卍マークを紋章として使っていたくらいだ。
アメリカはイギリスの植民地からはじまった!
イギリス人の前はスペイン人達がすでに植民地化していたし、オランダ人達は立派な都市まで作っていたし、その前もバイキングやアジアから大勢来ていた。
メイフラワー号は米国開拓最初にやってきた船である!
メイフラワー号の前にイギリス人たちが1606年に着き、ジェームスタウンというのを作っている。その前は1500年にスペイン人がセント・オーガスティンを首都としたフロリダ周辺を植民地化していた。
(記事引用)








 

安倍晴明(あべ の せいめい、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。

各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術や呪術、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。現代においては民間で私的祈祷や占術を行う者と定義付けられており、中には神職の一種のように見られる者も存在する。


★「縄文壺型土器」 完器 縄文晩期★縄文土器出土発掘品_画像1
画像 縄文時代の土器 提供ヤフー(記事とは関連しない)

陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足
陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに、中国大陸(南北朝またはそれ以前)から直接、または朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土または寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶または学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては「日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る」[要出典]ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。

陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、方技としての各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、特に天智天皇2年(663年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官されており[誰?]、また、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。

陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。

陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。

律令制下における陰陽師の待遇の変遷

律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。

一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。
ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下官人であった。

律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。
これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には勅令によって還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。
その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である官位相当制によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。
また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。

しかし承和5年(838年)を最後に遣唐使が廃れたことにより、大陸本土の唐から優秀な渡来人を招聘する機会が失われた(朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかった)。
わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。
この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家への役職充足を主目的とするものであった。

平安時代中頃(10世紀)に入って、後述の賀茂家と安倍家の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。
また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが摂政や関白を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。
特に安倍家は平安時代後期(11世紀)には従四位上格にまで取り立てられるようになり、室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなり土御門家を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。

平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師のカリスマ化

延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。

讖緯説(讖緯思想)・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。
例えば、陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである[要出典]。更に、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。

仁明天皇・文徳天皇の時代(9世紀中半)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。
この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて延喜元年(901年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。

同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。
そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。
このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。
特に、平安時代中期以降における朝廷中枢の為政者に対しては、昌泰4年(同年延喜に改暦、901年)の左大臣藤原時平による菅原道真を右大臣職から大宰権帥に左遷した事件(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。

また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道摩法師(蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。
平安時代中・後期(11世紀から12世紀)を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平の玄孫にあたる泰親が正四位上、その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期の両統迭立に呼応した家内騒動、その後の南北朝時代の混乱によってその勢力は一時衰退した。
武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落

平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。
源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。

4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。

ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。

後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある)。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家を名乗り、賀茂(勘解由小路)在方が『暦林問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。
一方、安倍家は上手く立ち回り、安倍有世(晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。
その後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり[4]、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川家を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。
更に守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。天文年間(16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の勘解由小路在富を召し出して諸々の勘申(勘文を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。
その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。

律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。
また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。
また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することにもなった。
(資料ウィキぺデア)





 


日本海を潤した北前船
北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。
この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。
この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。
これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。
また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。
さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。

江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。
北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。
日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国の市川と但馬国の円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川と保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった。

北前船の荷
下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。
蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)米・酒など。

上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くない。鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、中国からは漢方の材料を輸入して、富山売薬を支えた。北海道、越中、薩摩、琉球(沖縄)、清(中国)までのルートを「昆布ロード」ということがある。

北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。1つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業(プロト工業化)によるものもある。
それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。

もう1つは造船基地の発生という可能性で、港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。
これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われる。また寄港地周辺では近畿の文化が伝わり、言葉・食文化等に影響がみられ、本州日本海側における文化の伝播役としての役割もあった。
(資料ウィキぺデア)

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新田開発と地名 松戸編(上)
京葉ガス
 松戸市は、かつて日本一といわれるほど大規模な土地区画整理事業が実施された。常磐線電化後の人口急増に対処した町あげての事業であった。これと似たように江戸時代にも、松戸市域は至る所で新田開発が行われている。こちらは幕府の年貢増徴を目的とした荒地や低湿地帯の開墾であったが、いずれも町勢や藩勢を拡大する大切なものであった。

高塚地名は八幡神社に由来
畑農地の開墾も新田開発
 新田開発といえば低地の水のある田園をイメージするが、下総台地の場合はそのほとんどが畑作農地の開墾であった。船橋市藤原地区などが水のない新田開発の代表例だが、松戸市域にはこの畑作農地の他に江戸川に面した低湿地帯に新田開発がある。歴史的に見ると、後者の方が早くて江戸時代の初期に、前者は江戸時代中期の享保年間である。
 松戸市内を南東から北西に縦断して行くと高塚新田、串崎新田、高柳新田、田中新田、松戸新田、主水新田、七右衛門新田が現存するが、紙敷新田、伝兵衛新田、九郎左衛門新田、三村新田、大谷口新田などは新しい住居表示に変更された。
 市川市境にある「高塚(たかつか)新田」の地名由来は、元来この地域は野原で野見塚があったこと、また新田の鎮守・八幡神社が周辺より一段と高く、境内の松の大木が市川市行徳周辺からもよく見えて船頭の格好の目標になったことから高塚と呼ばれた。参道にはその名残のように1本の松の木が真っすぐ天を突いていた。こうした地域も現在は公団住宅や分譲住宅地に変貌している。

八つの村が基礎柱の八柱
田中新田は市内に2か所
 「串崎(くしざき)新田」は江戸商人の善右衛門によって開墾されたが、地形と道路で串の字に見えたためこの地名になった。人名が頭に付かないめずらしいケースだ。
 「田中(たなか)新田」は八柱霊園地区と江戸川沿い古ヶ崎地区の2ヵ所にあった。八柱地区は元来田中山と呼ばれた土地だが、行徳商人の田中三左衛門が開いたという説もある。また古ヶ崎地区は不明だが、地域に田中稲荷神社がある。「八柱(やはしら)」の地名は、紙敷、大橋、和名ヶ谷、秋山、河原塚、田中新田、高塚新田、串崎新田の八村が合併して各々がその柱になったことから名付けられた。正式名は濁らないが、新京成線八柱駅は濁る。

下谷三十町歩の美田地帯
歴史伝える鎮守の稲荷
 江戸川沿いの低湿地帯に展開する新田は、先の「田中新田(現古ヶ崎)」から順に北上すると、「伝兵衛(でんべえ)新田(現栄町)」「主水(もんと)新田」、7人の右衛門によって開かれたという「七右衛門(しちえもん)新田」「九郎左衛門(くろうざえもん)新田(現新松戸)」など開拓者の名前が頭に付いた新田地名が続く。
 こうした新田地域は「下谷三千町歩」と呼ばれた美田地帯で、モチ米「江戸川モチ」が生産品だった。そして、耕地6新田69世帯は現金収入のため「六和餅製造組合」を設立し、そのモチ米でお餅を作って全国に売りさばいた。ねばりのあるおいしい餅で売れ行きがよかったという。
 その六和電灯敷設記念碑が主水新田稲荷神社にあり、神社東裏には千葉県環境部の地盤の変動をはかる基準点、精密水準点がある。それぞれの新田に祀られた鎮守・稲荷神社は確かに新田の歴史を伝えている。
《参考資料》
坂本伴治編「松戸の地名の由来」 横塚和男編「京葉散歩・松戸市編」






 


コレステロール=悪い物質は大間違い?むしろ健康美のもとだった
2015年10月20日 11時58分 マイナビスチューデント

コレステロールは健康によくないものというイメージを持っていませんか?血中コレステロール値が高いと、動脈硬化が起きて心筋梗塞や脳梗塞など様々な病気にかかるおそれがあると一般的には思われています。

しかしそれは早合点。じつはコレステロールは、私達の体になくてはならない脂質成分のひとつで、神経細胞の働きを高める大切な栄養素なのです。また、細胞膜やホルモンなどの成分でもあります。

●コレステロールは恋とハッピーを引き寄せる

いつまでも若々しく健康で美しくかっこよく、という願いを叶えてくれる女性ホルモンや男性ホルモンは、DHEA(デヒドロエピアンドロステロン)というホルモンから作られているのですが、なんと、このDHEAの原料はコレステロールなのです。

女性の多くは、ダイエットをして痩せて美しくなるという発想を持っていますが、その考えは甘い、というより、かえって逆効果になりかねません。

なぜなら、必要以上に脂質成分をそぎ落してしまうことは、女性らしさを輝かせ、健康をつかさどる大切な女性ホルモンまでそぎ落としてしまうことと一緒だから。

つまり、女性らしいボディラインを崩してしまううえ、より老けやすく太りやすくなってしまうわけです。

適正脂肪こそが恋とハッピーを引き寄せる基本中の基本です。ちなみに、BMI(肥満度指数)が 18.5未満だと痩せ型で、とくに女性の場合、17%を切ってしまうと月経不順や無月経を招くことにもなります。若くして更年期障害に陥ることもあるそうなので、ホント無理なダイエットはやめましょう。

●悪玉コレステロールは本当は良いヤツだった

美と健康に必要不可欠な物質コレステロール。じつは、このコレステロールを全身の細胞に送り届ける働きをするのが悪玉コレステロールです。言うまでもなく、この働きなしには健康生活を送ることはできません。

一方、この悪玉コレステロール(※以下LDL)こそが、血管壁にたまって動脈硬化をひきおこす(名前からしても)悪の物質だと一般的には思われています。

しかし、そうしたことが起きて病気のリスクが高まるのは、LDLが酸化して「酸化LDL」になったときです。

白血球にあるマクロファージは酸化LDLを異物と認識します。そしてそれを除去しようとしてどんどん食べていきます。それらを食べて死んだマクロファージが血管壁にたまっていって、動脈硬化の促進につながっていたのです。

LDLが酸化すると、神経細胞にも栄養が行きわたらなくなり、それが脳機能の低下にもつながります。

そのため、検診のLDL値だけを見て一喜一憂するのはちょっと考え物で、実際、LDLの数値が基準内でも、酸化LDLは多いという人もいるそうです。

●食事制限は無意味だった

コレステロールが高いことで卵をひかえるなど食事制限をしている人も多いと思います。しかし、コレステロールの80~90%は体内で合成されていて、食事での影響は約10%にすぎません。しかも、多少コレステロールを多く摂った場合は、肝臓での合成量が減り、血液中の総コレステロール値が調整されるようになっています。

じつは、厚生労働省から出された「日本人の食事摂取基準(2015年版)」では、健常者において基準を設定するのに十分な科学的根拠が得られなかったとして、食事からのコレステロールの摂取基準が撤廃されています。日本動脈硬化学会も、健康な人では制限は必要ないとの声明を発表しました。

●酸化LDLを阻止

食事摂取基準が撤廃されたとはいえ、抗酸化という点からみて高脂肪食はちょっと注意が必要です。とくに、アイスクリームなどに含まれる飽和脂肪酸や、ショートニングやマーガリンなどに含まれるトランス脂肪酸は控えたいもの。スナック菓子ほか、フライドポテト、使い回しなど古い油を使用した揚げ物もおすすめできません。

また、炭水化物の過剰摂取もLDLを酸化させる原因になります。とくに、パンやパスタなど小麦を使用したものには気を付けましょう。

おすすめは、次のような強い抗酸化力を持つ食材です。

イソフラボン(豆腐、納豆などの大豆食品)ポリフェノール(赤ワイン、リンゴなど)リコピン(とまとなど)カテキン(緑茶など)セサミン(ごまなど)そのほか、ミネラルやビタミンC、E、βカロテンを含むもの(にんじん)などです。
コレステロールは敵にまわすのではなく味方につけましょう。とくに、ダイエットに励んでいる方、今後妊娠出産を控えている女性のみなさんは、脂質に対する正しい知識を持って真の美しさとハッピーを手にいれてくださいね。(文・鈴木ゆかり)
(記事引用) 

参考
厚生労働省一般財団法人 日本動脈硬化学会『タニタとつくる美人の習慣』(株式会社タニタ・細川モモ/講談社)『ココナッツミルクでボケを遠ざけ健康になるレシピ』(白澤卓二・藤沢セリカ/河出書房新社)

※私も高コレステロールと診断され、かれこれ20年近く、医者の指示で降下剤を飲んでいるが、この新解釈が、われわれ一般患者末端まで届くには、相当の時間を必要とする。
場合によっては、まったく無視され何も変化もなく、このまま処方箋薬を飲み続けることになる。

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それが正しいのか、間違っているのか誰が判定を下すのか??? 




















 

旭化成と富士フイルムホールディングス研究
“昨日まで世界になかったもの”の旭化成と“化学の芸術品”の富士フイルムホールディングスはどちらがよい会社か。この比較は難しい。それぞれに良さもあれば、課題もあるというのが普通の答えであろう。ただ、こういう問いを設定してみると、両社の個性がよくみえてくる。12月に両社が実施した個人投資家説明会で話を聴いてみた。多岐に亘る事業内容をもう一歩踏み込んで、今後どうしたいかを語っていた。

・旭化成は、①ケミカル・繊維、②住宅・建材、③エレクトロニクス、④ヘルスケアの4つの事業ポートフォリオ(セグメント)を有する。旭化成といえば誰でもサランラップとへーベルハウスをイメージするが、紙おむつ用の不織布、電子材料としてのフィルムや、医療用の人口透析器、骨折抑制効果を有する骨粗鬆症薬などが伸び盛りである。

・旭化成の事業ポートフォリオは、常に時代の要請に応えて変化を遂げてきた。延岡の水力発電をもとにアンモニアを作り、そこから化学肥料、合繊、建材、エレクトロニクス、医薬品へと多角化を進めてきた。“昨日まで世界になかったものを”提供することを、グループのスローガンとしている。

・2016年3月期までの5カ年中期計画(For Tomorrow 2015)では、売上高2兆円、営業利益2000億円(途中で1600億円へ修正)、ROE10%以上を目指している。2015年3月期の会社計画が売上高2兆円、営業利益1540億円、ROE 10%強であるから、いいところまできている。

・事業戦略の柱は、1)グローバルリーディング事業の積極展開と、2)新しい社会価値の創出である。グローバルリーディング事業では、①省燃費タイヤ用合成ゴムで、シンガポール工場の能力増強のほか、次の海外拠点作りも検討している。需要が拡大するアジアで、№1のシェアを獲って行く。また、②紙おむつ素材の(スパンボンド不織布)で、タイ工場の生産能力を上げていく。アジアの紙おむつ市場は、2012年の300億枚が2015年に600億枚、2020年に900億枚へと伸びると会社側では予想している。

・新しい社会価値の創出では、製品別の事業推進ではなく、①環境・エネルギー、②住・暮らし、③ヘルスケアといった横断的なカテゴリーの中で、水処理膜、リチウムイオン二次電池用セパレータ、高機能断熱材、医薬品、医療機器などに取り組んでいる。

・リチウムイオンのセパレータ(ハイボア)ではすでに世界シェア№1であるが、その用途はPC、スマホから車へと、さらに広がっていく。大量水処理用ろ過膜(マイクローザ)は、このプラスチックの筒を通すことによって、汚染水がきれいな水になる。米国の浄水用ろ過膜でシェア№1、中国での生産体制も強化している。

・ヘルスケアでは、骨粗鬆症薬が好調、国内シェア40%の中空系型透析器(ダイアライザー)で海外展開を加速させていく。また、2012年に買収した米国ゾール・メディカル社が手掛ける着用型自動除細動器(ライフベスト)の国内サービスにも力を入れている。これは心臓疾患があり、心停止のリスクのある人に用いられ、米国でのシェア№1、世界で10万人以上が使用している。さらに、水銀ランプに替わる水を殺菌する深紫外発光ダイオードのサンプル出荷も始めている。

・このように事業ポートフォリオの中身を着実に入れ替えながら収益性の向上を図っており、今後も安定した利益成長が見込めよう、イノベーションの連鎖が効いている点が評価できよう。配当性向30%を目途に、継続的な増配を目指している。

・富士フイルムHD(ホールディングス)は、もはや写真用フィルムの会社ではない。では、何の会社に変貌しているのか。これがなかなか分かりにくい。売上高の47%がドキュメントソリューション(富士ゼロックスを中心とした複合印刷システム)、38%がインフォメーション(化粧品、医薬品、医療機器、高機能電子材料)、15%がイメージングソリューション(デジカメ、インスタントカメラ、カラーフィルム)である。営業利益の構成でみれば、2015年3月期の上期でドキュメント57%、インフォメーション37%、イメーシング5%という内容である。

・富士フイルムは、2000年から2010年にかけて、構造的危機に直面した。カラーフィルムの市場が、デジカメの普及で2000年をピークに、10年で10分の1以下に減少した。自社の主力製品の市場が世界的に消えてしまい、世界のトップであったイーストマンコダックは2012年に破綻した。

・ところが、当社は事業ポートフォリオを組み換えつつ、見事にサバイブし、ここにきて収益力を再び高めつつある。写真フィルムは“化学の芸術品”ともいえるほどの高度な技術を要し、世界でも4社しか競争の土俵に乗れなかった。その要素技術(有機合成、薄膜形成、光学、解析、画像・ソフト、メカ・エレキ)を新規事業に展開した。

・化粧品には2006年に参入した。フィルムの主原料はコラーゲン(ゼラチン)なので、これをもとに、フィルムの抗酸化技術を応用し、写真用粒子の微細安定性を高めるナノテクノロジーで、成分の浸透力を高めた。これをもって、エイジングケアシリーズ(アスタリフト)を発売した。

・中期計画(VISION2016)では、2016年度に売上高2.63兆円(2013年度2.44兆円)、営業利益2200億円(同1408億円)、売上高営業利益率8.4%(同5.8%)、ROE 7.0%(同4.2%)を目指す。さらに、その先の2018年度には、営業利益率10%、ROE 8%をターゲットにする。

・ヘルスケアの領域では、①ライフサイエンス(予防)で、機能性化粧品、サプリメントを伸ばす、②メディカルシステム(診断)では、医療IT、内視鏡、超音波診断装置で、2桁成長を目指す。③医薬品(治療)では、富山化学工業、J-TEC(ジャパン・ティッシュ・エンジニアリング)、Diosynth(ダイオシンス)、Kalon(ケイロン)など、内外の買収した子会社を活かして、抗がん剤、アルツハイマー型認知症薬、アビガン錠(抗インフルエンザ)、再生医療の分野へと展開している。

・高機能材料では、FPD(フラットパネルディスプレイ)材料など、圧倒的シェアを有する分野で新製品を投入していく。ドキュメントでは、富士ゼロックスを軸にプロダクションサービスやグローバルサービスを強化していくと同時に、新興国へのリソースシフトにも注力する。

・株主還元では、まずROEを7%に上げる。その上で、配当性向25%を目途にし、増配及び自社株買を考えていく。

・富山化学工業のアビガンは、インフルエンザの薬であるが、エボラ出血熱にも効果があるのではないかということで、12月よりギニアにおいて、仏の協力のもとで臨床試験が始まった。これが効くということであれば、その供給力を高めていく。

・富士フイルムHDは、2018年度あたりから医薬品の利益貢献度が高まってくるので、そうなればROE 10%もみえてこよう。アビガンで注目度が高まったが、事業ポートフォリオの組み換えという点で、もう一段加速しようとしている。順調にいけば、収益力向上の変化率が高いので、大いに期待できよう。

・旭化成、富士フイルムHDとも、自社の事業ポートフォリオを、イノベーションを通して転換、進化させている。企業の長期的なサステナビリティには不可欠のサイクルである。このビジネスモデル(企業創造の仕組み)を、目指すべき方向に変えていく経営力と組織能力が問われる。今回の投資家説明会でのプレゼンに対して、ベルレーティング法(12点満点)による筆者の評価は、旭化成10点、富士フイルムHD 9点であった。事業ポートフォリオと企業価値創造のコネクティビティ(つながり)について、今後とも大いに注目したい。
(記事引用)









 

地にかえる ということ
東海ー神岡(Tokai to Kamioka)長基線ニュートリノ振動実験
ノーベル物理学賞受賞の梶田隆章教授は、ニュートリノ振動の実験でこんなことをやっている。

K2K実験からT2K実験
スーパーカミオカンデは1998年、大気ニュートリノの観測により、ミューニュートリノが飛行中に別の種類のニュートリノに変化する、「ニュートリノ振動」という現象を発見しました。このニュートリノ振動を、人工ニュートリノを用いた実験で確認するためのK2K実験が、1999年から2004年にかけて行われました。

K2K実験は、茨城県つくば市にある、高エネルギー加速器研究機構の加速器を用いて作られたニュートリノを、250km離れたスーパーカミオカンデによってとらえることで、ニュートリノが飛行するうちに生成時とは別の種類のニュートリノに変化する様子を観測しようとする、世界で初めての長基線ニュートリノ振動実験でした。観測の結果、大気ニュートリノで発見されたニュートリノ振動を99.9%以上の精度で確認することができました。

このK2K実験の成功をふまえ、さらに強力かつ高性能なニュートリノビームで、精密にニュートリノ振動を研究しようというT2K実験が2009年4月から始まりました。

T2K-K2K map
T2K実験は、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設(JPARC)で作られた世界最大強度のニュートリノビームを295km離れたスーパーカミオカンデに打ち込みます。K2K実験の約50倍の強度のニュートリノビームを使って、ニュートリノ振動に関する精密な研究が期待されます。
(記事引用)

この実験立ち会っていなかった戸塚洋二東京大特別栄誉教授(故人)は、物質を構成する素粒子の一つ「ニュートリノ」に質量があることを示す「ニュートリノ振動」として、戸塚栄誉教授が率いる国際共同プロジェクトで発見されて、梶田隆章氏によってその実験に引き継がれた世界的に注目される実験だった。 

つい先日、その 戸塚洋二氏のアーカイブテレビ番組をやっていた。私は、既に3回くらいみている。
「志半ば・・・」、とはこんなときに使うのだろうとう、テレビをみていて積年の思いを感じ取った。しかし、氏はそれどころではなく、死への恐怖が隠しきれない。
それを見ている方は、もっぱら他人事であって、まったく心中を理解するに至らない。たぶん、人間が一人で死んでいく、とはこんなことだろうと、ウスウス思ったのだが~。 

その影響かどうか向壁虚構の心境だが、世の中に氾濫しているありと、あらゆる業態は、人畜有害の様相を示し、気違い集団のいとなみ、と比喩したら、さぞかし奇人変人扱いされる。ま、それでもいいさ・・・、いずれにしたって、そう批判している相手(社会、世間、世の概念)は、私と殆ど変わらないし、そうしている第三者集団の鳥籠の中は、ニュートリノがすべてを支配している、という事実を知らないのであるからして。
 


東京 ビル群の一郭
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画像 閉鎖された工場跡 2015/1014日 撮影

このまま放置されて既に数十年経過している。

ここで犯罪がいつ起きても不思議ではない。

映画「ブラックレイン」のシーンとそっくりだ。

退廃シーン映画はアメリカは得意分野だ、いずれ日本もそうなる。

ここに「ニュートリノ」質量は存在するのだろうか???


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茨城県東海村の大強度陽子加速器施設で作られた世界最大強度のニュートリノビームを295km離れたスーパーカミオカンデに長基線ニュートリノ打ち込まれた。












ガリレオ地動説裁判
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。
しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。

第1回の裁判
ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。
この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino) だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。
その内容は、次のようなものであった。
「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」
 
しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。
 
第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。
この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。

第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。

第2回の裁判
1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話(英語版)』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。
ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。
『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。
ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。
ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。
ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。

裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。
しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。
この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。
裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。
1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。

1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿 (Maffeo Vincenzo Barberini) がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。
この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。

有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。
また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言った[要出典]という説もある。

裁判以後
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった。

死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。
 
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトは、Traité du monde et de la lumière (タイトルは『世界論』などと訳されている。)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。
さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしい。というのはデカルトはTraité du monde ~で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme 太陽中心説を展開していたからである。
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。

この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
Giorgio di Santillana らによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。
ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。

このほか、次のような説もある。

そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という。

1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。

1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた。

1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。
 
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。

2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。
その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている。
(資料検索「ガリレオ」ウィキぺデア) 




 

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