第2章 上総の国の一の宮──玉前神社の聖地の構造
京都精華大学紀要 第37号 京都精華大学

1上総国長生郡の一宮玉前神社について
 上総国の国名の由来は『古語拾遺』にあるように、忌部が黒潮にのって房総に到着し、麻をうえたところ、良質の麻がそだつのでその地を「総ふさ」国となづけ、のち、上下に分割し、都に近いほうを「上総」としたという。

 上総の国は、北は下総国に接し、南は安房国である。房総半島の中央部を占める。半島の海岸は九十九里浜といい、太東崎から刑部岬まで約66キロある。緩やかなカーブをえがいてつづく美しい砂丘海岸である。
 九十九里というめずらしい名前の由来は、源頼朝の命で、六里を一里として一里ごとに耶を立てたところ、九十九本にたっしたから「九十九里浜」といわれるようになったとされる。玉前神社は、この海岸から3キロほど内陸にはいったところにある。

2 第一の聖地=ヤシロの依代となる器物とその社殿

 玉前神社の創建の事情ははっきりしないが、地元では、景行天皇の東征のとき、と伝えられる。
 祭神は、玉依姫(たまよりひめ)命である。

 『大日本史』の「神祇志」には「高たか皇み産むす霊びの孫玉前命」とある。しかし玉前命は古書にはみられない。また『神名帳考証』には「天あめのあかる明玉たま命」とする。

 そして『神道史大辞典』には「玉崎神」とある。このように、祭神はいろいろと説がある。しかし、共通しているのは玉である。社名に「玉」の字がついているように、ご神体は「玉」とされている。その玉について、つぎのような伝説がある。

 江戸時代中期の国学者の中村国香(1709―1769)は、『房総志料』につぎのように記している。

 むかし一の宮の地に潮くみの翁がいた。早朝に潮をくんでいると、東風がおこって明珠が一つ波間に漂い光っていた。それは十二の明珠だった。翁はこれを海藻に包んで家にもちかえり、壁間にかけたところ、夜になって塩室を明るく照らした。翁は恐れいって玉前神社に納めた。これが玉前神社のご神体である。明珠すなわち「寄石」である。

 また『古今著門集』第一巻には、平安時代に、玉前神社の新たな神体が海浜に寄ったという伝説をのせている。

 延久二年(1070)八月三日のこと上総国一宮のご託宣に「懐妊ののちすでに三年におよぶ。今明王の国を治むる時にのぞみて、若宮を誕生す」とおおせられた。そこで海浜をみたところ、一つの明珠を得た。

 さらに『房総三州漫録』には一宮玉前神社のご神体の玉色黒き由、葺不合尊の舐めたる玉なりしとぞ、玉依姫のもて来りたる由」とある。江戸時代には「黒い玉」といわれていたようだ。

末社はつぎの十二社である

愛宕神社(迦か ぐ具土つち命)、
八幡神社(誉ほん田だ別わけ命)、
三島神社(事代主命)、
白山神社(白山比咩命)、
比叡神社(大山咋命)、
山神社(大山祇命)、
浅間神社(木花開耶命)、
塞さい神社(八やちまた衢彦命、八衢姫命、来く な と名戸命)、
蔵王神社(大物主命)、
淡島神社(少彦名命)、
熊野神社(櫛くし御み け の食野命)、
水神社(罔みずは象の め女命)。

 なお、これらの神々は「先住族」と「出雲族」であり「天孫族」は見られない。(表を参照)

3 第二の聖地=カミの依代となる地物
 
 海浜にうち寄せられた玉の神事が「玉前十二社祭」である。このほかにもご神体として玉(石)を祭る伝承は九十九里海岸地域におおく伝わるといわれる。

 境内に「白鳥の井戸」という湧水があり、太東岬の湖に通じているといわれる。それ以上のことはわからない。


古社叢の「聖地」の構造(1)京都精華大学
──東関東の場合── 田 中 充 子 TANAKA Atsuko

 神社、正確にいうと日本の古社叢は、拝むところ、つまり拝所は一つではない。だれでも本殿には参るが、それ以外に摂社、末社がある。
 さらにご神木、神池、磐いわくら座あるいは神ひもろぎ籬などがある。本論ではそういう点に着目して、日本の古社叢の拝所、すなわち聖地の構造についてのべる。聖地についてはいろいろな説があるが、ここでは「一の宮研究の方法」(『社叢学研究第8号』上田篤)にしたがって論をすすめたい。
 そこで「日本の聖地」である古い社叢の信仰を、そのまつられる祭神の種類からそれをもたらした者が「天孫族」「出雲族」「先住族」、いいかえると古墳人、弥生人、縄文人とする視点から事例調査した。

 事例調査対象として、東関東に鎮座する一の宮をとりあげる。県でいうと、千葉県と茨城県の海岸地帯であり、昔の国名でいうと南から北へ安房国・上総国・下総国・常陸国である。(図1)
下野国
陸奥国
常陸国
香取郡
武蔵国
安房国
安房郡
埴生郡
鹿島郡
那賀郡
香取神社
鹿島神社
大洗磯前神社
酒列磯前神社
安房神社
玉前神社
下総国
上総国
安房国
安房郡
埴生郡
香取郡
鹿島郡
那賀郡
香取神社
鹿島神社
大洗磯前神社
酒列磯前神社
安房神社
玉前神社
下総国
上総国

図1
安房国・上総国・下総国・常陸国の位置図
−140− 古社叢の「聖地」の構造(1)─

東関東の場合

 この四つの国の一の宮は、安房国では安房郡の安房神社(千葉県館山市)、上総国では埴はにう生郡の玉たまさき前神社(千葉県長生郡)、下総国では香取郡の香取神宮(千葉県佐原市)、常陸国では鹿島郡の鹿島神宮(茨城県鹿島郡)である。ほかに、一宮ではないが、常陸国鹿島郡の大おおあらい洗磯いそざき前神社(茨城県東茨城郡)と常陸国の那珂郡の酒さかつら列磯いそざき前神社(茨城県ひたちなか市)を加え、合計六つの社叢について調査した。
 
 調査対象は、社殿(本社、摂社、末社)にまつられるもののほか、聖なる地物(ヒモロギその他、木、森、井戸、水面)、聖なる地形(イワクラその他、岩、山)などとした。
 これらの聖地には神がおわします、と日本人はかんがえている。それは、キリスト教やイスラム教などいわゆる西洋でいうところの神ではない。
 
 では日本のカミとはなにか?
 
 国学者の本居宣長(1730 ~ 1801)は『古事記伝』(巻三)で「鳥獣木草のたぐひ、海水など、そのほか余何にまれ、尋よのつね常ならずすぐれた徳ありて、何か し こ畏き物を迦か み徴とは言ふなり」といっている。
 具体的にはどういうことだろうか。「畏きもの」とは、辞書には「おそれおおいこと」「すばらしいこと」などと書かれている。そうすると、古社叢のなかにはカミガミがいっぱいいらっしゃる、ということではないか。
 それらのカミガミを祭った人々に「天孫族」「出雲族」「先住族」の三種類とするわけはここにある。
 まず天孫族とは『記紀神話』にのべられているところの「高たかまがはら天原」に居住し、そこから「葦原の国」、すなわち日本国にやってきた人々である。高天原がどこであるかについては、いまのところ確定されていない。それはさておき、天孫族は「葦原の国」を稲作によって「瑞穂の国」にかえるという使命をもってきた人々である。

 「葦原の国」というと、なんとなく美しくロマンチックなイメージがする。しかしそれは湿地や沼に葦が繁茂するところであって、生活するには厳しいところだ。天孫族は、そういう痩せてどうしようもない土地に「強力な軍事集団」をひきいてやってきた。男も女も武装していた。

 しかし、イネがムギの何倍もの生産力をもっていることを知り、稲作が新しい時代をつくるとして大転換する。
 弥生人とは異なる「乾田農法」あるいは「灌漑農法」を開発し、そうして日本の各地に進出し、湿地を沃野にかえ、稲作を広めたけっか、そのモニュメントとして古墳をつくった。さらに在来人のまつる社叢を復活してそこに自分たちの「英雄」をまつった。そのシンボルとなるものが、神殿であり鏡である。

 二番目の出雲族は『記紀神話』で知られるように、スサノオやオオクニヌシに代表される。かれらは天孫族がこの国に稲作をもってやってくる以前から、すでに農業をおこなっていた。
 紀元前1,2世紀ごろ『書紀』によると「朝鮮半島からやってきたスサノオとその子の※イソタケルが木種を日本全国にまいた」というからだ。--※五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神。「イタケル」とも読まれる。『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる。射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる--
 そして北九州を中心とする江南系の「平地的農業」にたいして、もう一つの弥生農業、つまり高低差のいちじるしいわが国の地形にしたがって「水源涵養林の農業」を開発したのである。
 農業に必要なものは、田をうるおす水である。そこで水源を守るために、かれらは山に木を植えたのである。日本の農学の基本である。「農業集団」である出雲族にとって、水はカミだったのである。
 しかしそういうすぐれた農業を定着させた出雲族は、やがて強力な鉄と舟をもち、かつ先住のアマ族と連合した天孫族によって征服される。けれども天孫族は、出雲族を抹殺しなかった。
出雲族を隷属下におき、かれらの農耕技術を継承して稲作をより発展させた。そうして泉や沼や木や森しかなかった社叢のなかに社殿をつくり、自分たちの英雄アマテラスなどを祭った。
 出雲族はほんらい神殿をもたない民族だった。しかし出雲族も、天孫族のようにじぶんたちのカミガミを祭るようになった。その一つが、いわゆる「国譲り神話」にある出雲大社である。

 三番目の先住族は、2500 ~ 3000年前に日本列島にやってきた人々とみられる。俗にアマ族(南方漁民)、ヒナ族(北方漁民)、コシ族(西方漁民)などといわれる。(松岡静雄)
 先住族は漁民であって農業はおこなわない。山の幸と海の幸で、縄文の1万年あまりを生きてきた。とりわけ海の幸が大きかった。漁民は、海がしけて闇ともなれば漁ができないばかりか、陸地を見失い、海洋にほうりだされて海の藻屑となる。したがって、太陽は漁民である縄文人あるいは先住族にとって「超能力」つまりカミだったのである。

 さらに先住民は、太陽とともに火をカミとした。火は物の煮炊きだけではない。土器を焼くだけではない。火は闇夜を照らし、禽獣をおいはらい、暖をあたえる。つまり火は、先住民が尊んだ太陽の「分身」といってもいい。
 このようにみてくると「天孫族」は古墳人、「出雲族」は弥生人、「先住族」は縄文人に対応するとみてよいだろう。それは社叢では、「天孫族」、「出雲族」「先住族」のカミがおわします。これが「古社叢の三重構造」である。

京都精華大学紀要 第三十七号 −141−

 ケルが木種を日本全国にまいた」というからだ。そして北九州を中心とする江南系の「平地的農業」にたいして、もう一つの弥生農業、つまり高低差のいちじるしいわが国の地形にしたがって「水源涵養林の農業」を開発したのである。
 農業に必要なものは、田をうるおす水である。そこで水源を守るために、かれらは山に木を植えたのである。日本の農学の基本である。「農業集団」である出雲族にとって、水はカミだったのである。
 しかしそういうすぐれた農業を定着させた出雲族は、やがて強力な鉄と舟をもち、かつ先住のアマ族と連合した天孫族によって征服される。けれども天孫族は、出雲族を抹殺しなかった。
 出雲族を隷属下におき、かれらの農耕技術を継承して稲作をより発展させた。そうして泉や沼や木や森しかなかった社叢のなかに社殿をつくり、自分たちの英雄アマテラスなどを祭った。
 出雲族はほんらい神殿をもたない民族だった。しかし出雲族も、天孫族のようにじぶんたちのカミガミを祭るようになった。その一つが、いわゆる「国譲り神話」にある出雲大社である。
 三番目の先住族は、2500 ~ 3000年前に日本列島にやってきた人々とみられる。俗にアマ族(南方漁民)、ヒナ族(北方漁民)、コシ族(西方漁民)などといわれる。(松岡静雄)
 先住族は漁民であって農業はおこなわない。山の幸と海の幸で、縄文の1万年あまりを生きてきた。とりわけ海の幸が大きかった。漁民は、海がしけて闇ともなれば漁ができないばかりか、陸地を見失い、海洋にほうりだされて海の藻屑となる。したがって、太陽は漁民である縄文人あるいは先住族にとって「超能力」つまりカミだったのである。
 さらに先住民は、太陽とともに火をカミとした。火は物の煮炊きだけではない。土器を焼くだけではない。火は闇夜を照らし、禽獣をおいはらい、暖をあたえる。つまり火は、先住民が尊んだ太陽の「分身」といってもいい。
 このようにみてくると「天孫族」は古墳人、「出雲族」は弥生人、「先住族」は縄文人に対応するとみてよいだろう。それは社叢では、「天孫族」、「出雲族」「先住族」のカミがおわします。

これが「古社叢の三重構造」である。
(記事引用〆)


リンクhttp://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/694ef6998db8d48f6c6739de8b5b5cb3