かずさのくに あわのこおり まつさと
己亥年(六九九年)十月上サ国阿波評松里
(つちのといのとしじゅうがつ かずさのくにあわのこおりまつさと)
南房総郷土史(閉鎖) 
資料提供:千葉県立安房博物館
[2015.6.10付 記事再編成]

「かずさのくにあわのこおり まつのり」(と指摘 2016/2/8)
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2969663.html
上挟国:上総「国」
阿波評:安房「評」
松里 :松「里」
「国」、「評」、「里」は行政単位です。

国造~律令制

・主な古墳と官衙(かんが・用語解説 - 役所。官庁。「重要な―や公共設備のビルディングを」〈寅彦・地図をながめて)
 
 南房総は、古代律令制下では、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡の4郡が置かれていましたが、これらは、国造制によるそれぞれの豪族の支配領域が律令制に移行したものと考えられています。

 よって、それぞれの豪族の支配の拠点である居館と奥津城ともいう古墳群が想定されるわけです。

画像 上総国一宮旧古墳群発掘平瓶 

 2872現在のところ、古墳時代前期に遡る前方後円墳は安房地域では見つかっておりません。
前期の方墳が鴨川市の根方上ノ芝条里跡から見つかっており、愛知県や滋賀県といった東海・近江からの土器が出土しています。

 古墳時代中期になると安房地域にも本格的な古墳文化が展開されます。 まず、前方後円墳でしかも埴輪を持った古墳が2か所で確認されています。 富山の恩田原古墳と丸山の永野台古墳です。これらはそれぞれ平群郡、朝夷郡の領域となった地域に所在しています。

 安房郡の領域では、この時期特徴的な埋葬方法が確認されています。 館山市大寺山洞穴では、丸木舟を棺に使った舟葬がみられ、副葬品には短甲、直刀、盾、玉類、土器といった古墳の副葬品と遜色のないものが出土していることから古墳の被葬者に匹敵する人物の墓だと云うことが推定できます。

 また、館山市峯古墳からは、非常に珍しいトンボ玉といった特殊なガラス玉が出土していることが注目されます。グレーの地に赤と青で放射状の模様が象眼され、朝鮮半島経由で西域からもたらされたものと考えられます。

 古墳時代後期になると長挟郡の領域である鴨川市広場古墳群中の円墳から砂岩製の刳抜式舟形石棺が発見されています。刳抜式舟形石棺は、千葉県では唯一、鴨川から発見されています。 長挟国造の系譜の首長墓である可能性が高いと思われます。

 館山市の翁作古墳からは環頭飾大刀が出土しています。 平砂浦海岸を望む場所に造営された海との関連の深い首長墓であると思われます。

 こうした古墳時代の豪族、国造の支配領域が律令国家の郡へと編入されていきます。
 安房国は、養老2年 (718年) 5月2日、上総国の平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて成立しています。しかし、天平13年 (741年) 12月10日に上総国に戻されますが、天平宝字元年 (757年) に再び安房国となりました。

 645年に蘇我入鹿が暗殺され、翌年の正月「改新の詔」が出たとされている、いわゆる「大化改新」がありました。
改新の詔の第2条「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河」には、「郡」という字が使われていますが、「評」という用例もあることから、この詔は実際には出されていないのではないかという意見が、かねてからありました。
これを「郡評論争」と言いますが、藤原京から発掘された木簡には、まだ郡を意味する文字として、「評」が使われていました。 このため、改新の詔は後世の創作を含んでいるという評価が下されたわけです。

 この「郡評論争」に決着をつけた記念碑的木簡が、藤原京から発掘された木簡(藤原宮跡北面外濠出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)「己亥年十月上挾国阿波評松里(つちのといのとしじゅうがつかずさのくにあわのこおりまつのさと)」という、安房地域から都に運ばれた荷札木簡でした。
 
 己亥年は、699年(文武3年)にあたりますので、701年の大宝律令施行以前は、国-評-里といっていたことが明らかになり、「改新の詔」が収められている『日本書紀』の記述が701年以後の書式で書かれていることが明らかとなりました。
 
 ちなみに、715年(霊亀元年)に敷かれた郷里制(ごうりせい)では、それまでの里を郷(ごう)と改称していますので、国-郡-郷-里といった行政区分になりました。

 平城宮出土の木簡には、安房、上総の国名の推移を示す次のような資料があります。
「安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月」(722年)
「上総朝夷郡健田郷戸主額田部小君戸口矢作部林調鰒六斤○/卅四条/○天平十七年十月」(745年)

 ここまでの古代安房地域の国名の推移は、以下のとおりです。
 
養老2年 (718年)5月1日以前 上総国
養老2年 (718年)5月2日~天平13年 (741年)12月9日 安房国
天平13年 (741年)12月10日~天平宝字元年 (757年)5月7日 上総国
天平宝字元年 (757年)5月8日以降 安房国

 安房国には、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡が置かれていたのですが、それぞれの国府、郡衙といった役所の所在地はどこだったのでしょうか。

 安房国府については、和名抄には平群郡にあると記載され、これまで三芳村府中に推定されてきました。
 しかし、これまで、発掘調査成果をはじめ、確定的な証拠は見つかっていません。安房国分寺は、館山市国分で昭和51~53年の発掘調査によって、金堂跡と考えられる基壇が確認され、布目瓦や三彩の獣脚などが出土したことから、安房郡域に所在したことが確定しています。安房国分尼寺は、今のところ所在地不明です。さて、安房国府はどこにあったのでしょうか。

 安房郡衙をはじめ、4郡の郡衙は、今のところ確定しているものはありません。しかし、発掘調査成果で可能性が指摘できるものがあります。

 館山市東田遺跡では、大型の総柱式の掘建柱建物跡が発見されており、しかも基壇建物へ建替えをしている様子があることから郡衙の租税としての稲を保管する施設である、正倉の可能性があります。東田遺跡は、館山市上真倉の汐入川南岸の段丘上に立地します。南総文化ホールから白浜方面へ抜ける国道410号バイパスの工事に先だって行われた発掘調査で発見されたもので、ちょうど白浜方面から丘陵部を通ってきた道が館山平野に出たところに位置します。周辺の調査次第では、安房郡衙が発見できるかもしれません。

 鴨川市根方上ノ芝条里跡では、奈良時代の掘建柱建物跡のみで構成される集落があります。郡衙としては、規模が小さく決め手は欠くのですが、郷クラスの役所である可能性もあり、官衙的色彩の濃い遺跡だと認識されています。


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守護領国制
・中世安房地域の武士たち
安房国の郡名の変遷
古代 平群郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
平安時代末 平北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
鎌倉時代 北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
室町時代 北郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡
戦国時代 北郡 山下郡 丸郡 長狭郡
江戸時代 平郡 安房郡 朝夷郡 長狭郡

平群郡域の武士
 鎌倉時代から室町時代
 国府周辺 安西氏
 山下郷(三芳村) 山下氏
 鋸南町から富山町にかけての海岸線域 三浦氏
   三浦氏が滅びると鎌倉幕府の役人二階堂氏
   二階堂氏が滅ぶと執権北条氏の惣領である得宗家の支配

 多々良荘(富浦町) 三浦一族の多々良氏
 鎌倉時代の終わり頃北条一門の大仏氏の家人本間氏
 
 南北朝時代
 岩井郷(富山町) 鎌倉府の役人二階堂氏の所領として復活

発掘された武士の館 鋸南町下ノ坊遺跡
 館山自動車道鋸南保田インター周辺で鎌倉時代から室町時代の館の跡が見つかっています。昭和63年に道路工事の事前調査で掘建柱建物跡、堀、井戸等が検出され、武士の館の一部であると考えられています。中国製の陶磁器や渥美、常滑、瀬戸等の国産陶器、カワラケ、曲物の桶や刳物の片口鉢等の木製品や漆塗りの皿などの珍しい遺物が出土しています。

 中国製陶磁器には龍泉窯系の青白磁の優品の破片等があり、館の規模も推定方一町あることから、有力な武士の館であることはまちがいありません。
 当時、鋸南町地域に勢力のあったのは、三浦氏または二階堂氏が考えられ、鎌倉の有力武士の房総での支配の拠点であった可能性があります。

安房郡域の武士
 平安時代末 金鞠(神余)氏・沼氏
 鎌倉時代の御家人 金摩利(神余)氏・安東氏
 群房荘 安西氏の本拠と考えられている

鎌倉時代の北条得宗家ゆかりの遺跡 館山市萱野遺跡
 館山市萱野遺跡からは、鎌倉極楽寺の瓦と同範の瓦が出土しています。極楽寺は、1259年に北条義時の三男重時が創建した寺であり、この瓦が館山から出土したということは、鎌倉時代に北条氏の支配が及んでいたことを示していると思われます。

朝夷郡域の武士
 平安時代から戦国時代 丸山川流域 丸氏
 室町時代 三原川流域の三原郷(和田町) 三浦一族の真田氏

長挟郡域の武士
 頼朝の挙兵以前 長狭氏 
         平家の家人だったため、頼朝の安房上陸のときに滅亡
 鎌倉時代 東条氏 東条郷の武士で、御家人
      白浜御厨(天津小湊町) 工藤氏
      伊豆で海上活動をする狩野氏の一族で、北条得宗家の家人
 室町時代 東条氏は在地の勢力として残る
      大山寺領(鴨川市) 千葉氏の進出

東条氏の館跡か 鴨川市西郷氏館跡
 鴨川市西郷氏館跡は、江戸時代初期の大名西郷氏の陣屋跡として知られていましたが、発掘調査を行った結果、中世の遺物も多数出土しました。中国製陶磁器の高級品もあり、中世の館と同じ場所に近世の陣屋が造営されたことが明らかとなりました。当時、この地は東条氏の勢力下だったと思われ、東条氏の館跡の可能性が高いと思われます。


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幕藩体制
・発掘された近世大名の陣屋 西郷氏館跡
 慶長19年(1614)9月以降、里見氏がいなくなった後の安房は、館山城の受け取りにきた佐貫城主の内藤政長が管理しましたが、幕府は、代官の中村弥右衛門尉吉繁とその補佐をした手代の熊沢水三郎左衛門忠勝が、元和4年(1618)に安房国内全域の検地をやり直し、耕地の生産力が把握されると、幕府の支配から徐々に旗本や小大名に村々が配分され引き渡されていきました。

呉須赤絵染付磁器碗
呉須赤絵染付磁器碗

 その端緒は、元和6年(1620)で、西郷正員に長狭郡・朝夷郡で一万石が与えられました。西郷正員は下総国生実(千葉市)で五千石を知行し、慶長19年の館山城請け取りにもかかわった旗本でしたが、このとき東条村(鴨川市)に陣屋を設けて東条藩とし、ここで大名になったわけです。東条藩は元禄5年(1692)に信州上田(長野県上田市)へ移るまで安房での支配を続けました。これ以降寛永年間にかけて、五千石を越える大身の旗本を中心に所領が分け与えられていきました。

 鴨川市には、西郷氏館跡と呼ばれる遺跡があり、東条藩の陣屋の推定地とされていました。

 平成7年(1995)に発掘調査が行われ、堀で囲まれた郭が確認され、陶磁器などが多量に出土しました。陶磁器類は、17世紀代の年代観を示すもので東条藩の陣屋が存在した時期に合致し、東条藩の陣屋跡とみて、間違いないと思われます。
 しかし、不思議と16世紀代の陶磁器は出土していません。また、中国産の赤絵染付磁器といった当時の最新の器が含まれることから、どうも西郷氏は大名昇格にあたり、東条藩の陣屋に来る際に調度品を一新したような状況が出土遺物から想像されます。
(資料南房総郷土史

(画像は個人所有物で本文とは無関係です)
(地方自治体の合併統合によって閉鎖された施設において、その検索資料もアクセスしない) 2016年2月8日