ビンラディンは本当に殺害されたのか、という憶測?
 5/1、事件が唐突に起き、そして米側から一方的にその発表がされたため多国、多方面から非難と疑いの声が出始めたが、この真相がスッキリ解明されることは不可能に近い。それがこれまでの例である。 以下はその記事。

ビンラディン殺害にまつわる4つの疑問
 米国は狂喜、だが本当に一件落着か?
2011年05月06日00時40分
提供:JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/6764

 5月1日夜、「ウサマ・ビンラディンが死んだ」という報に米国中がわいた。

 2001年9月11日に、ワシントンとニューヨークで、そしてペンシルベニアの荒野でも、乗っ取った飛行機を自爆させ、米国民合計3000人近くを殺した9.11同時多発テロの首謀者がついに抹殺されたとして、米国の官民が歓声を上げたのだった。
 この反応は日本とは異なる。「アルカイダ」という国際テロ組織の最高指揮官であるビンラディン容疑者に奇妙な同情や理解を示す大手新聞などが存在する日本とは180度違って、米国では保守もリベラルも、民主党も共和党もみな一致して、ビンラディン容疑者の死を対テロ戦争の勝利だとして歓迎したのである。

 しかし、オバマ政権が公表したビンラディン追跡と射殺の作戦は、驚くほど大胆に見える一方、不可解なナゾに包まれた点や変な食い違いを見せる点があった。

 対テロ戦争は日本も決して無関係ではない。国際テロからまったく無縁という国は、今の世界ではほとんど存在しないと言えよう。その上、たとえ日本に直接の被害や影響がなくても、アルカイダが代表するイスラム原理主義過激派のテロ活動への対処は、米国という同盟国が総力を挙げて実施してきた闘争でもある。だから日本としても、その実態を知っておく必要があろう。

 2機のヘリコプターが隠れ家を強襲、作戦は40分で終了した

 まずは米国の特殊部隊がビンラディン容疑者の隠れ家を急襲し、殺害するに至るまでの動きの概要を紹介しよう。
 以下は、ホワイトハウスや国防総省の担当官たちの公式発表を基にした報告である。ただし、公式発表も後から訂正が出されたり、矛盾が見られたりするなど、不透明や不可解な部分が少なくない。
 「パキスタンの首都イスラマバードから北東へ50キロほどの中都市アボタバードの3階建ての広壮堅固な居住用建物構内に、現地時間5月2日午前零時(米国ワシントン時間5月1日午後3時)過ぎ、米軍の強襲用武装ヘリコプターのブラックホーク2機が突然着陸し、降り立った米海軍特殊部隊シールズ(SEALS)の要員ら二十数人が建物内に突入した。
 この建物には、ビンラディン容疑者が家族と共に住んでいた。米軍部隊はまず1階で内部にいた男たちから銃撃による反撃を受け、撃ち合いとなり、男2人と女1人を射殺した。男たちはビンラディン容疑者の側近の伝令だった。
 ビンラディン容疑者一家は2階と3階に住んでいた。本人は3階にいて、米軍部隊が突入してくると、妻を盾にして抵抗した。米軍は妻の足を撃ち、次にビンラディン容疑者の頭部を撃って射殺した。ビンラディン容疑者は武装していなかった。妻は負傷しただけで、生命はとりとめた。抵抗した息子は射殺された」

 「米軍はビンラディン容疑者の遺体をそのままヘリコプター1機に乗せ、北アラビア海に待機していた米海軍の原子力空母カール・ビンソンへと運んだ。攻撃が始まってから撤退までの時間は約40分だった。米軍側に死傷者はなかった。

 ヘリコプターの他の1機は着陸の際に破損したため、米軍はその1機を破壊し、残りの1機に全員を乗せて撤退した。カール・ビンソン艦上ではビンラディン容疑者のDNA鑑定などが行われ、遺体はイスラム教の慣例に従い、水葬された」

ブッシュ政権から引き継がれていた作戦

 以上の展開によって、米国はブッシュ前大統領が2001年9月の同時多発テロ直後に宣言したアルカイダに対する対テロ戦争の最大目標を達成したことになる。

 ビンラディン容疑者は反米闘争のシンボルとして全世界から注視されていたが、同時多発テロからほぼ10年にして米軍により殺害され、活動を停止したのだった。

 実際、ビンラディン容疑者の検挙というのは、ブッシュ前政権、オバマ現政権にとって大きな悲願だったと言える。

 そもそもイスラム原理主義過激派による国際テロというのは、21世紀冒頭の現在、世界的な難題として大きな影を広げていた。その影のシンボルのようだったビンラディン容疑者を抹殺したのだから、米国にとっての意義は極めて大きいと言える。

 ビンラディン容疑者指揮下のアルカイダはこの10年間、なお米欧諸国へのテロの挑戦を続けてきた。ブッシュ前大統領が「愛国者法」などで治安強化を進めた米国内でこそ、テロ攻撃をかけることはできなかったが、欧州や中東では活発な破壊活動を展開した。特にフセイン政権崩壊後のイラクに武装勢力を投入し、反米テロ闘争を激しく続けた。アフガニスタンでもカルザイ政権やNATO(北大西洋条約機構)軍への攻撃を重ねた。

 この間、ビンラディン容疑者はイスラム原理主義テロ組織のカリスマ的最高指導者として米軍の必死の追跡をかわし、神出鬼没の言動を取り、時には米国をあざけるような声明を出して、米国の怒りにさらに火をつけた。

 ワシントン時間の5月1日深夜、オバマ大統領はホワイトハウスから全米向けに演説をして「ビンラディンの死」を発表し、自分自身が直接にこのビンラディン検挙作戦を決定し、指揮したと語った。

 同時に、9.11テロでの米国側の巨大な被害や多数の人命の喪失がこれでいくらかは報われるという意味も込めて「勝利」を宣言した。

 だが、現実にはこの作戦は、ブッシュ前大統領時代から米軍特殊部隊やCIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)など情報機関の精鋭を動員して継続されてきたものである。

 いわば国家の敵だったビンラディン容疑者を抹殺したことは、米国では「輝かしい成果」として国民の圧倒的多数から歓迎された。ふだんはオバマ批判を絶やさない共和党側政治家たちも、今回はその「成果」を挙げたオバマ大統領へ賞賛の言葉を送った。客観的に見ても、オバマ大統領の大きな政治得点でもあろう。

居場所を突き止めるきっかけとなったのは捕虜への尋問

 しかしその一方、今回の作戦はなお新たな課題や疑問をも生むこととなった。
 第1には、オバマ大統領が従来掲げてきた政治主張と整合が取れないという点である。
 今回、オバマ政権がビンラディン一家の所在を探知できたのは、グアンタナモ収容所での捕虜尋問がきっかけだった。オバマ政権の発表でも、主としてこの尋問により、今から4年前にまずビンラディン容疑者の至近にいる側近の伝令の存在が確認できたという。そして2年前にその伝令の正確な身元が判明した。この伝令は、今回米軍が襲った建物に家族とともに住んでいた。

 ところがオバマ氏は大統領選候補だった時期からグアンタナモ収容所の閉鎖を求め、収容所内の厳しい尋問にも反対を表明してきた。オバマ氏の政治主張が政策として実現されていれば、ビンラディン抹殺につながる情報を得られなかったとも言えるのだ。
 第2には、ビンラディン容疑者の殺害についての不透明部分である。
 オバマ政権の当局者たちは、5月1日の最初の発表では「ビンラディンは米軍に対して抵抗し、銃撃戦となった」と述べ、ビンラディン容疑者も武器を持っていたと説明していた。ところが3日の発表では「ビンラディンは武器を持っていなかった」と訂正した。

 非武装の人物が「抵抗したので射殺した」と説明することには無理がある。まして、オバマ氏はブッシュ前大統領の「対テロ戦争」という用語を使うことを避け、一貫して「テロリスト容疑者の人権」への配慮を強調してきた。そのオバマ氏が、武器を持たない容疑者をいきなり銃撃して殺害するという今回の措置を命令したのかどうか。

 米国内には、ビンラディン容疑者の殺害という措置を非難する声はほとんどないが、なお謎や非難が残る可能性も高い。

 パキスタン当局は見て見ぬふりだったのか?

 第3はアルカイダの今後への疑問と懸念である。ビンラディン容疑者の殺害は米国では「ヘビの頭を斬った」と表現され、最高司令官をなくしたテロ組織はその威力も減らしていくだろうとの見方が大勢を占める。
 実際、アルカイダはこのところ守勢に立ち、イラクやアフガニスタンでも勢いが衰えてきた。さらには中東のエジプト、リビア、シリア、チュニジアなどの諸国では民主化が広まり、暴力の無差別使用を主体とするアルカイダへの支持が急速に減ってきた。
 とはいえ、なおアルカイダの最高幹部は多数が健在であり、今回のビンラディン容疑者の死に報復を誓うという動きも伝えられている。首謀者を殺されたテロ組織が逆にこれまでよりも大胆な攻撃に出てはこないだろうか。その懸念は高まりこそすれ、決してぬぐい去ることはできない。
 第4には長年、ビンラディン容疑者の隠れ家を許容してきたパキスタンという国家への疑問である。
 隠れ家があったアボタバードという都市は、当初ビンラディン容疑者が潜伏していると見られたアフガニスタンの山岳地帯からははるかに遠い、国境から150キロもの地点にある。しかも、パキスタンの首都イスラマバードから50キロの至近距離である。その上、アボタバードにはパキスタンの国軍士官学校があり、軍首脳の住まいも数多いという。
 そんな都市に、周辺の建物より8倍も大きい3階建てのビルが5年前に建設され、その中にビンラディン一家が住んでいたことを、パキスタン当局がまったく知らなかったはずはないだろう。

 米国はパキスタン当局には何の通知もせずに今回の作戦を断行したという。パキスタンではもともとアルカイダやタリバンというイスラム原理主義組織への支持が強かった。そんな国が今回の事件後、米国に対してどんな態度に出るのか。気になるところである。
 米国にとっては「一件落着」とも受け取れるビンラディン容疑者殺害作戦には、なおこうした課題や疑問が多々残ったままなのである。
 日本としてもアンテナの感度を高く保ちながらこうした動きを追っていくことが、自国のテロ対策や国家安全保障にとっても欠かせないだろう。  筆者:古森 義久

遺体なき暗殺という空虚な勝利ビンラディン追跡に固執した代償
2011.05.06(Fri)  Financial Times (2011年5月5日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/6823

 死体のない暗殺には、どこか妙なところがある。不思議なことに16年間にわたって遺体がどこかに消えていたアルゼンチンの大統領夫人、エバ・ペロンの場合と同様、死体がないということは奇異な感じがする。

 バラク・オバマ大統領の言葉を除けば、ウサマ・ビンラディンが実際に死亡したことを示す具体的な証拠はほとんどない。

 オバマ大統領は遠からず、それが怒りをかき立てるにせよ、そうでないにせよ、殺害されたアルカイダの指導者の写真を公開することを余儀なくされるだろう。

 もちろん、ビンラディンが殺害されたことや、世界がそのおかげでよくなったことを本気で疑う人はほとんどいないだろう。また、最も憎い敵に命をもって責任を取らせたことが米国に心理的な高揚感をもたらしたことを否定できる人もまずいないはずだ。

犠牲が大きすぎて割に合わない勝利
 
 だが、恐ろしいのは、今回の行為の結果が死体のない暗殺と同じくらい空虚なものだと判明することだ。オバマ大統領の勝利は、犠牲が大きすぎて割に合わない結果になるかもしれない。

 その一因は、ビンラディンが世界で最も危険な人物と判断された時から、世界がどんどん先に進んできたことだ。誰に聞いても、ビンラディンは過去5年間、電話も電子メールもない状態で、緑豊かなアボタバード近郊に潜伏していた。ビンラディンは、テロの首謀者というより、テロの理念を象徴する人物になっていたのである。

 がんのような彼の考え方は、パキスタンを通ってイエメンやソマリアなどに転移していた。当然ながら、理念というものは人間よりも殺すのが難しい。

 アラブ世界の多くも、どんどん前に進んできた。示唆に富む北アフリカ、中東全土の反政府運動は、ビンラディンの二元論的なイスラム国家観とはほぼ無縁だ。エジプトからリビアに至るまで、抗議運動をする人たちは、西側の民主主義という人を夢中にさせる考え方を吸収してきた。

 そのため、ビンラディンの殺害は、彼の落ちた権威を強く感じさせるものとなった。さらに大きなダメージを与えたのは、そのことが、アフガニスタンとパキスタンで米国が進めてきた影を追いかけるような軍事行動の大きな欠陥を露呈したことだ。

 米国は「9.11」の同時テロの翌月にアフガニスタンに侵攻した。理由は単純明快だ。アフガニスタンのタリバン政権がビンラディンをかくまい、引き渡すのを拒否していたからだ。多くの米国人にとって、アルカイダとタリバンは1つに融合している。だが、アフガニスタンのタリバン政権の目的は、常にアルカイダより穏健なものだった。

 タリバンは、アフガニスタンから外国人を追い出し、自分たちの手で国を動かすことを望んでいる。米国の侵攻軍がタリバン政権を転覆させ、アルカイダの兵士の多くをパキスタンに逃げ込ませた時、米軍は、それまでと異なるアフガニスタンでの任務――国造り――と奮闘する羽目に陥った。

 パキスタンでビンラディンが発見されたという事実は瞬時に、米国の作戦の迷走を浮き彫りにした。アルカイダの指導者が死に、米軍の撤退開始期限である7月が間近に迫る中で、アフガン戦争に対する国内の批判派が完全な撤退を求めることが容易になった。

 マサチューセッツ州の民主党下院議員、バーニー・フランク氏は今週、CNNに対して、米国は「悪い政府をすべて改心させるために物理的な力を行使することはできない」と述べた。さらにフランク議員は、安全な避難場所から別の避難場所へとテロリストを追いかけることの無益さについて言及し、米国は「世界中のネズミの穴をすべて塞ぐこともできない」と付け加えた。

パキスタンとの同盟関係に大きな亀裂

  ビンラディンの殺害は、米国政府とパキスタン政府との同盟関係により一層暗い光を当てている。パキスタンの軍統合情報局が何を目論んでいたにせよ、適切だったようには見えない。

 ある見方をすれば、情報局は、世界一のお尋ね者が目と鼻の先にいたのに発見することができなかった。米国から180億ドルも支援を受けていたのだから、ビンラディンの隠れ家を壁越しにのぞくための梯子くらい買えたはずだろう。

 また別の見方をすれば、情報局はビンラディンが発見されないように意図的にかくまってきた。米中央情報局(CIA)のレオン・パネッタ長官は、パキスタンは、ビンラディンにこっそり情報を漏らす恐れがあったために、日曜日の作戦を知らされなかったと述べた。これ以上にパキスタンを強く非難する評決は想像し難い。

 インドの軍事専門家でパキスタンに対して非友好的なブラーマ・チェラーニ氏は辛辣な論説の中で、「パキスタンのテロリズムを引き起こした原因は、数珠を擦り合わせる宗教指導者よりも、スコッチウイスキーをすする軍司令官たちだった」と書いた。

 パキスタンの米国の友人たちがこれとよく似た発言をしていなければ、チェラーニ氏の見方はパキスタンの敵であるインド人の見方として片づけられたかもしれない。米国の何人かの議員は、パキスタン政府への援助をすべて停止するよう米国政府に求めてきた。

 「我々はあともう10セントでも出す前に、パキスタンがテロとの戦いで本当に我々の味方なのかどうか知る必要がある」と、ニュージャージー州の民主党上院議員、フランク・ローテンバーグ氏は語っている。

 だが、米国政府はパキスタンを見捨てることはできない。ビンラディンを追い詰めるうえでパキスタン政府が果たした役割が良くて最小限だったという証拠にもかかわらず、オバマ大統領はパキスタン政府の協力を称賛することによって、その事実をはっきり示した。

 核武装したパキスタンは、米国が簡単に見捨てるにはあまりにも不安定であまりにも闘争の温床になりすぎている。米国とパキスタンは、居心地の悪いベッドで一緒になっているしかないのだ。

米国がビンラディンを追っている間に中国は絶対的な台頭を追求

 ビンラディンの死によって露呈された3つ目の点は、彼を追い詰めるのにどれだけ多くのコストがかかったかということだ。米国の各テレビ局は、その数字を、アフガニスタンとイラクでの戦争を含めて2兆ドル以上と見積もっている。


  これは、エール大学の歴史学者、ポール・ケネディ教授が、その著書『The Rise and Fall of The Great Powers(大国の興亡)』の中で描いている「帝国の過剰拡大」の本質だ。

 ケネディ教授は、ハプスブルク家の皇帝たちについて書いている。「彼らは対立を繰り返しているうちに徐々に背伸びをし過ぎて、弱体化する経済基盤の割に軍事的に頭でっかちになってしまった」

 米国が中東のあちこちでビンラディンを追いかけ、持続不可能な赤字を膨らませている間に、中国は自国の絶対的な台頭を追い求めてきた。

 中国は昨年、世界第2位の経済大国になり、米国に取って代わって世界最大の製造国になった。米国政府は追い求めていた人物を手に入れた。しかしその一方で、米国は道を見失ってしまったのかもしれない。