ひところテレビで流れていたモノトーンフレーズ
 遊ぼうっていうと遊ぼうっていう。
 ばかっていうとばかっていう。
 もう遊ばないっていうと遊ばないっていう。
 そうして、あとでさみしくなって、ごめんねっていうとごめんねっていう。
 こだまでしょうか、いいえ、だれでも
  
   金子みすゞの「こだまでしょうか」、より

 あと少しで1年という歳月が経過。その巨大震災津波の天災は世界に衝撃を与え、人々に心身ともに深い哀しみを誘発。この世の地獄とも云うべき津波映像を最新ネット技術を使って全世界に駆け巡った。
 その当時、茶の間に流れていた広告機構の断片的なフレーズはすっかり、その痕跡を消失してしまった。そこに「みすゞ」の詩もあった。その詩歌は被災地の鎮魂歌のように人々の心を癒してくれた。

 この詩をテレビで始めて訊いたとき、その絶妙なセンテンスに思わず嘆息するほどだった。どこの誰だか知らないが、人間の心の深層を的確に洞察する眼は確かな奴だ若いのに、と勝手に思い込んでいた。
 後で知ったことだが、それが詩人の「金子 みすゞ」だった。大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。1903年(明治36年)4月11日生まれ。
大正末期から昭和初期にかけて26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴った。死因は服毒自殺。
         Kaneko_Misuzu
          画像提供ウィキペディア

 そして、「金子 みすゞ」、もう一編のうた。
 生きること
 生きていくこと
 それは、とても大変で
 つらいことだけれど
 大切なことだよ 文字にすると、なぜ大切なのか
 思うことが伝えにくく
 なかなか伝わらないことだけど
 きみに、すこしでも
 伝えることが出来るなら

 つい先日、おなじタイトル「生きる」というテーマの古い映画をサテライト放送でやっていた。
 若き日の黒澤明監督の映画で、その当時の名優「志村喬」が役場の課長役で好演していた。
 志村喬は1905年生まれ、そして金子 みすゞが1903年生まれで、ほぼ同世代だが、映画「生きる」の志村喬の年齢は推定で還暦前後のような印象で、とうぜん金子みすゞは生きていない。しかし時代背景は見事に重なる。
 粗末な衣服を身にまといガラス障子超しに浮かぶ慎ましい一家の食卓。それを誰も貧乏とは云わないし、その時代、誰も自分達が貧しい民である、と思わなかったのは、それ以上の生活を望んでいなかったからだ。それぞれが分相応の暮らしをしていた。
 名優「志村喬」が演じた役場の課長は、「生きる」という目的を自ら失ってしまい、自分は何のために人間として生きているのか、という「問い」を役場の煩雑業務に圧殺された、かのように自問自答していた。その洞察は黒澤明監督の主題でもあったのだろう。

 このブログで1月29日に書いた記事。「練炭自殺に見せかけ、交際相手の男性3人を殺害したとして殺人罪などに問われた木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判第11回公判」のニュースを載せた。
 金子みすゞの「こだまでしょうか」、そして「志村喬」が演じた「生きる」という時代背景に、この猟奇事件を同時に載せると、汚らわしい、という臭いが、他のモノにも転化して、一緒に汚してしまうような気になって憚られるが、いくら時代が変わろうとも、その行為をしているのは同じ日本人の人間であって、そこに差違をつけようにも、つけるべき根拠がなにもない。
 簡単に云うなら、綺麗も汚いも、人間のやっている行動に縦横無尽の規制はなく野放図に任せればなんでもやってしまうという修羅である。だから、金が必要とあらば人を殺してでも手に入れるという単純な図式がそこにある。
       2158
         2012/2/3撮影  トンネル氷柱
 
 しかし、それでは人間が余りにも寂しいではないか。

 生きること
 生きていくこと
 それは、とても大変で
 つらいことだけれど
 大切なことだよ
 文字にすると、なぜ大切なのか
 思うことが伝えにくく
 なかなか伝わらないことだけど
 きみに、すこしでも
 伝えることが出来るなら

 「金子 みすゞ」は、そう言葉につづった。
 26歳で服毒自殺。そうした訳には相応の深層な悩みを抱えていたに違いない。
いくら喋り尽くしても自分の気持ちが届かないもどかしさ。
 おそらく人間は何千回、何万回言葉にしたところで自分の心を相手に伝え訊かせることは出来ない、という眼に見えない不文律が生まれてこのかた横たわっているのだろう。
 でも「金子 みすゞ」は、一生懸命心を込めて純真に無垢に、まず自分に問いかけ、その言葉を愛すべき人に託したのだとおもう。
「きみにすこしでも 伝えることが出来るなら」・・・、という微かな期待を心の中に抱きつつ、それでも叶わなかった。そして命を絶つ。
 
 そこに「金子みすゞ」と「木嶋佳苗」の違いを探すとすれば何を糸口に解き明かせばいいのだろうか。
 明治の詩人「金子みすゞ」が美しい、と形容すれば、平成の「木嶋佳苗」は醜い、と簡単に言い切れるか。いや、そんな比較は比較の基準が曖昧で論ずべき争点ではない。ではその基準とはどこにおくべきか。そもそも、互いの個人的情報量が違いすぎて同じ土俵で語ることは出来ない。

 黒澤明監督の「生きる」で、志村喬の演じた役場課長が、ひょんなことから、元部下であった若い女職員に歳不相応な恋心を抱く。物語の主題は、そのことではなく、癌に罹患した結果の余命に命を燃やす、という筋で、そのモチベーションが若い娘に抱いた恋心である、という伏線になっていたようにも見えるが、その心理を黒澤監督は意図して采配したのかどうか定かではない。
 
 もしそうだとすれば、「きみにすこしでも伝えることが出来るなら」と詩にした「金子みすゞ」は、余命なき人間に、ほのかな希望を持たせたことになり、役場職員志村喬も最後に生きがいを見つけ、そしてそれを観ていたその時代の人々も、生きる望みに大いなる陽を灯したことであろう。
 さらに時代を過ぎ去って平成のいま、「きみにすこしでも伝えることが出来るなら」というワンセンテンスを、わたくしから、あなたにささげたい。


みえない星   金子 みすゞ

 空のおくには 何がある。

  空のおくには 星がある。

  星のおくには 何がある。

  星のおくにも 星がある。


 眼には見えない 星がある。  


 みえない星は 何の星。

 お供の多い王様の、
 
  ひとりの好きな たましひと、

  みんなに見られた踊り子の、

  かくれてゐたい  たましひと。