9月16日参議院「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会地方公聴会」

この平和安全法制に関する問題で様々なメディアで紛糾論議されているが、さらに此の先、相当の時間がかかっても紛糾することは必至である。そこの何が問題なのか探ってみたが・・・。

テレビ朝日系で放送された内容が、気になったのでそこから問題を探ってみよう。
カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏が、日本の憲法第9条を憲法違反であると指摘。現行憲法と安全保障のあり方について議論し、ギルバート氏が「集団的自衛権、個人的自衛権、これは両方とも国際法で認められているものであり日本にもあるんですよ」と、自衛権がすべての人間に認められた権利であることを強調。
「日本の憲法前文を読みますと『憲法は国民を守るためにある』。その上で、憲法第9条は『しかし、武力は使わない』と言っているんだけれども。前文と国際法から考えれば、憲法第9条自体が、憲法違反だと思っている」と指摘。
司会の田原総一朗氏発言、「もともとあの憲法はGHQが作った憲法であってGHQは、日本が再び戦争ができない、弱い国にするために作ったんだ」と、平和憲法の作られた背景を語る。
(記事参考 トピックニュース2015年9月26日 12時31分)

「あの憲法はGHQが作った憲法(日本国憲法第9条)」、という田原氏の発言が、どこまで信頼と信憑性があるのか、検証してみた。

氏に限らず、この日本の法律が戦勝国アメリカGHQによって、強権的に作られ押し付けられたと一斑全豹する様は、日本人なら誰でも抱いている疑念だろうと思う。また、戦後復興時から続く政権一党支配は、癒着構造を増大させ今日に至るまで、多方面にわたりその弊害の多寡も見逃せない。そのスポークスマンというべき既存マスメディアが、戦時中からプロパガンダに手を貸していたという事実は、国民の意識から消えることはない。
そこで隠蔽されていた極秘情報の、フタを開けてみれば「すっかり騙された」、と落胆するだろう。しかし過ぎ去ってしまった歴史時間は二度と戻らない不可逆である。

そんなことを思うと、ああやっぱり騙されたんだ、と悲嘆に陥るが、そんな回顧主義を100年続けていても、なんの解決にもならない。それで、我々は「ポチ」なのか?

グローバル世界の一翼として日本が傀儡(カイライ)国であると誰からも非難されていない。むしろ、「ポチだポチだ、いいなりご主人様に頭が上がらない」と、極端な卑下意識、自虐的な自己いじめをしているのは自分自身である、という論評が、どこからも上がらないというバイアス感覚がないことに掻痒感を感じてしまう。それは私一人の杞憂か。

日本国憲法「第九条」の草案者は誰か?
ワシーリー・モロジャコフ 【Profile】社会政治・外交
[2015.04.27] nippon.com

ワシーリー・モロジャコフ MOLODIAKOV Vassili
拓殖大学日本文化研究所教授 最終更新日:2015.08.18

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画像 昭和天皇とマッカーサー元帥の最初の会談 1945年9月27日、東京の米国大使館にて。

A級戦犯・白鳥敏夫からの英文の手紙
1945年12月10日公判を待つために東京の巣鴨拘置所に拘留中の前駐伊大使で同時に「A級戦犯」であった白鳥敏夫は、吉田茂外相(当時)あての長文の手紙を書き終えた。

手紙は英語で書かれていた。拘置所の検閲を難なくすり抜けられるようにするためか、それとも手紙が占領軍本部の目に留まるようにするためなのか。占領軍に読ませるためだったとの可能性が濃厚であったとみられる。


白鳥敏夫1887年〜1949年
白鳥は、1930年代初頭に天皇陛下の報道官だった頃の回想から始めている:

3年間の報道官の職務のお蔭で、私は、頻繁に間近で天皇陛下をお見かけし、陛下のお人柄を知り得る、非常に稀な機会を得た。その結果、私は、天皇陛下が、生まれ持って平和を愛しておられ、真実を尊重し、真に日本国民の平安に心を砕かれていることを深く確信した。
特に、陛下は、国際関係に関心をもっておられ、他国と善隣関係を保ちたいとお考えになっていたようだ。
私は陛下は本能的に軍人に不信感を抱いており、大元帥という肩書と公の場で着なければならない軍服を最悪なものと感じていたと私には思われた。

白鳥は、どこまで正直に、このような天皇の姿を描いたのだろうか?
このように天皇を描写することで誰かを納得させたかったのだろうか?
吉田茂は、この手紙を書いた白鳥本人よりも、昭和天皇の実像をよく知っていたと考えられる。従って手紙のこの部分は、占領軍に向けられたものだったのではないだろうか。
天皇は「戦犯」として東京裁判に召喚されるのか、玉座からの退位を強制されるのか、もしくは、統治権の総攬者(そうらん)ではなくなり日本国と日本国民統合の「象徴」たる君主として存続するのか。この時期、占領軍は、天皇の今後の運命についてまだ最終決定を下していなかった。

興味深い憲法改正に関する記述

この手紙の中で最も興味深い部分は、その結語である。白鳥は、憲法改正問題に触れながら、全面的な改正についてはまだ言及していない。いかなる状況にあっても自らの国民を戦争に参加させないという天皇の誓い、どのような政権下でどのような形であっても国民が兵務を拒否できる権利、国のあらゆる資源の軍事目的での使用の完全な拒否が含まれた条文、を盛り込むことを提案している。

日本が、真に平和国家たらんとするならば、このような提案が新生日本の基本法の礎石とならなくてはならない、としている。
それは、憲法制度において、まったく新しいものとなる、と添えている。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

戦争放棄をうたった1947年の憲法第9条は、全世界的な意味での革新的な条文となった。1945年9〜10月の時点で、国民の願いという形ではあるが、日本のマスコミも戦争放棄を呼びかけてはいたが、白鳥の手紙は、時系列的に見て「永久的な戦争放棄」の原則を憲法に用いた最初の試みであった。ここで、この手紙を、広く知られている出来事や史実と同じ文脈の中で、もう一度見ていきたい思う。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
戦争放棄をうたった1947年の憲法第9条は、全世界的な意味での革新的な条文となった。1945年9〜10月の時点で、国民の願いという形ではあるが、日本のマスコミも戦争放棄を呼びかけてはいたが、白鳥の手紙は、時系列的に見て「永久的な戦争放棄」の原則を憲法に用いた最初の試みであった。ここで、この手紙を、広く知られている出来事や史実と同じ文脈の中で、もう一度見ていきたい思う。

誰が白鳥の手紙をGHQに受け渡したか不明
 
吉田は、戦前、白鳥からの依頼を受け、長年にわたり外相を務めていた幣原喜重郎を白鳥に紹介したことがある。1946年1月20日以前に、手紙は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーの総司令部に届けられていたが、一体、誰が手紙を受け渡し(吉田本人である可能性も考えられる)、誰が実際に手紙を読んだのかは不明である。

1946年2月1日、マッカーサー元帥に対し、憲法問題調査委員会起草の「憲法改正要綱」が提出された。マッカーサーは、その改正要綱を拒否、2月3日、総司令部民政局に対し、自ら定めた憲法基本原則(「マッカーサー・ノート」(※1))を基盤として、憲法草案を作成するよう命じた。2月4日、民生局長であったコートニー・ホイットニーは、部下を集め、憲法草案作成の作業を開始すること、「国家主権としての戦争の放棄」という項目を含んだマッカーサーによる基本原則を伝えた。
2月10日、草案作成の作業は完了。2月12日、マッカーサーが草案を承認。その翌日2月13日、「マッカーサー草案」は日本政府に提示された。

占領軍民政局は、天皇や日本政府に対して、この草案を受け入れる以外の道はないことを示した。そして、ホイットニーは、もし、このGHQ草案を受け入れなければ複数の連合国が裁判にかけることを要求している天皇の身柄を保障することは「困難になる」とした。2月21日、幣原との面談においても、マッカーサーは、このことを丁寧な言い回しをしながらも、はっきりと認めた。

「戦争放棄」をめぐる曲折

昭和天皇とマッカーサー元帥の最初の会談 1945年9月27日、東京の米国大使館にて。
マッカーサー草案の中で、最も議論を呼んだのは、戦争の放棄と天皇の新しい地位に関する部分だった。戦争放棄の宣言をする必要がある根拠として、マッカーサーはこう発言した。
「もし日本が戦争を放棄することを明確に宣言するならば、日本は世界の道徳的リーダーの地位を確立できる。」 

幣原が「元帥は、指導的役割とおっしゃるが、他国は日本には追随しないでしょう」と応じると、マッカーサーは「もし他の国が日本に付いていかなくても、日本が失うものは何もない。日本を支持しない国が正しくないということになるのだ」と答えた。2月22日、マッカーサー草案は天皇によって承認され、3月6日には、「憲法改正草案要綱」として発表された。協議の中で、ホイットニーは、戦争放棄を前文の中で、基本的な原則の一つとして列挙されるだけではなく、独立した一章にすることを強く主張した。

改正憲法に対するマッカーサー元帥の声明(英文)1946年6月21日

歴史学者のリチャード・フィン(※2)と西鋭夫は、第九条をめぐる歴史の真実は闇に覆われているとしている。マッカーサーによれば、第九条を最初に発案したのは、幣原であり、1946年1月24日に懇談した際に幣原より耳にしたとのことであるが、それは政府による草案の作成の段階であった。
吉田茂は、第九条が制定に到ったのは、マッカーサーの全面的なイニシアチブによると認めている。
マッカーサーの「戦争そのものを法の領域外に置く」という発言から、フィンは「日本国憲法における反戦思想は、おそらくマッカーサーによるものだろう、反戦思想を憲法に盛り込んだ責任は彼が全面的に負うべきものである」との結論に到達した。フィンは、どうやら白鳥の手紙については全く知らなかったようである。

マッカーサーに間接的に影響を及ぼした白鳥

白鳥が手紙の中で憲法改正および「戦争放棄」を盛り込むことについて記している部分の和訳が、1956年、東京裁判で白鳥の弁護人を務めた廣田洋二によって公表された。

著者は、入手可能なありとあらゆる資料を精査し、マッカーサーが、第九条の着想を幣原から受けたであろうこと(この時のことについて触れているマッカーサーの回顧録が出版されたのは、手紙が公開されてから8年後のことだった。)、そして、その幣原に影響を及ぼしたのが白鳥である可能性は充分すぎるほどあるという結論に達した。

廣田は、「戦争放棄」の問題は、1月24日にマッカーサーと幣原が会談した際に話し合われたということを(GHQに白鳥の手紙が届けられてからたった四日後のことである)示し、GHQ草案の作業に取り掛かるまでに、幣原がこの手紙を読む時間は充分にあったとしている。
しかし、この廣田の論文は、知名度の低い雑誌に掲載されたこともあってか世間で注目を集めることはなかった。

幣原の「戦争放棄」の着想に結びつく

幣原が、白鳥の手紙から「戦争放棄」の着想を受けたが、「A級戦犯」である白鳥のことには一切触れずに、自らのアイデアとして、新憲法の基本原則の一つとすべきとマッカーサーに進言したということも考えられる。
この「戦争放棄」の理念は、マッカーサーを揺り動かし、その結果、マッカーサーは憲法草案作成にさらに力を注いでいる。
マッカーサーにアイデアが伝わるのとほぼ同時期に、GHQに届いていた白鳥の英文の手紙をホイットニー自らが読むか、補佐官などから手紙の要旨を伝え聞いたという可能性も考えられる。
政治問題に関して、ホイットニーがマッカーサーに強い影響力を持っていたことは、よく知られているところである。
もちろん、今まで申し上げてきたことすべてをもってしても、白鳥を「第九条の発案者」と呼ぶのには論拠不充分である。しかしながら、白鳥が影響を及ぼしたという可能性が非常に大きいのは厳然たる事実である。

私は、この自らの推説を、博士論文公開審査会の席上(「白鳥敏夫と日本外交(1931-1941年)」東京大学2002年)で披露した。
多くの人が、関心をもって聞いてくれたが、しかし、軍国主義のイデオローグとして名を馳せた「戦犯」が、「戦争放棄」を憲法の基本理念とするという説があまりに大胆だと懐疑的だった。
後に、推説に関して、ロシア語で著した「戦いの時代 ― 白鳥敏夫(1887-1949年)、外交官、政治家、思想家」(2006年)で詳細に記述した。
今日も、白鳥の伝記と呼べるものは、この本しかない。白鳥が英語で記した手紙のロシア語完訳は、私の論集「The Re-awakening of Japan(日本の新しい覚醒)」(2008年)にその他の白鳥の手紙の訳と共に収められている。

(注)(※1)注天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。

(※2)^ リチャード・フィン、1917-1998、歴史家、アメリカン大学名誉教授、元国務省外交官。日米関係の歴史に詳しい。

著者ワシーリー・モロジャコフ MOLODIAKOV Vassili
拓殖大学日本文化研究所教授
署名記事数:6 最終更新日:2015.08.18
1993年モスクワ国立大学卒業、1996年同大学博士課程修了。歴史学博士(Ph.D., モスクワ国立大学、1996年)、国際社会科学博士(Ph.D.,東京大学2002年)、政治学上級博士(LL.D., モスクワ国立大学、2004年) 1968年モスクワ生まれ
2000‐2001年 東京大学社会科学研究所客員研究員 2003年より、拓殖大学日本文化研究所主任研究員 2012年より現職
ロシア語で著作30冊以上、その内日本に関するもの15冊
日本語で『後藤新平と日露関係史』(藤原書店、2009)『ジャポニズムのロシア』(藤原書店、2011)が出版 日本語で執筆した論文50点以上
(記事引用ウィキぺデア)

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