砂の女(すな〜の〜おんな )  09/12/15
  作家、安部公房が著した「砂の女」という小説がある。昭和37年、読売文学賞の作品だった。物語は迷い込んでしまったある土地で泊ることになった。その家は砂の穴の中にうもれ、ある女性が一人暮す家だった。家は毎日、砂をかきださなければ砂にうずもれてしまう。それが小説題名の動機となっている。
 
 私は「砂の女」を読んだわけではない。読んだ訳でもないのに永年、記憶から消えることがない不思議な力をもった「砂の女」だった。妙になまめかしいタイトルだとずっと思っていた。しかしそれは完全な私の勝手な思い違いだった。

 小説の分かり難さにおいて超一流の安部作品のコンセプトは描く舞台が「抽象世界」であり、それが文学作品であることの存在感をもつ。
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 この「砂の女」については具体的な庄内砂丘が舞台であったと本
人は書いている。週刊誌のグラビア、青森に向かう列車内で安部は、「それは飛砂の被害に苦しめられている山形県の酒田市に近いある海辺の部落の写真だった。砂が海に向かってせり上がり、家々はしだいに砂の中に沈んでしまう。それに食卓の上に傘をつるして食物を砂から守っている、滑稽なほどの生々しく、痛切な風景」(「舞台再訪・砂の女」・1968年)。

 迷い込んだ男はある日、砂穴の中に溜水装置をつくることを考えた。毛細管現象を利用して水が確保できる。「依然として穴の底であることには変わりがないのに高い塔の上に登ったような気分」がほしかった。
 「砂の女」の中の主人公は都会に住む平凡な中学教師としている。義務の煩わしさと無為からほんのいっとき逃れるために、砂丘のある集落に昆虫採集に出かけた。と本人安部は思ったに違いない。そして単調な繰り返しの中で新しいなんらかの可能性をみつけたい。その砂の穴から自由になったとき、男はまた再びそこに戻っていくかもしれないという予感。
 
 庄内砂丘の砂漠の風景は、破壊と創造を繰り返す都会の風景と深層で似ていると安部は感じたのか、「砂の女」は人間密度の濃い都市に埋もれた孤独な男を物語として描いた。
 唯一の希望である縄ばしごが取り払われたことで、自分がこの土地に迷い込んだ理由を知ることとなる。

 砂の家から逃げ出すため掻き出した砂と、作られた人工都市でみる人々の暮らしと、どちらに価値があるのかという自らの問いをしたとき、その質においてまったく変わらないという結論を得たとき、それが虚しい絶望ではないと、にわかに元気がでる。

 安部公房は「砂の女」の中で絶望的な不条理の世界を、砂の家という抽象的空間をつかって、バーチャル世界を描きたかったに違いない。
 著者安部が訴えたかった心理描写、「砂を運びあげる労働力として連れこまれた」ことと、虚空間漂う
都会から逃れた理由、だが男がたどりついた先は、それと余りかわらないな世界であることを悟る。

 「唯一の希望である縄ばしごが取り払われたことで、自分がこの土地に迷い込んだ理由を知ることとなる」。だが、その理由にもっと違った意味がこめられているような気がする、という思い違いが私にとって「砂の女」の魅力となっている。そのことは後に明かしてみたいと思う。

安部 公房(あべ こうぼう、1924年(大正13年)3月7日 - 1993年(平成5年)1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名は公房(きみふさ)。
東京府で生まれ、少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)『砂の女』(読売文学賞受賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された。

満州医科大学(現・中国医科大学)の医師である父・安部浅吉と、母・よりみの長男として、東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区西ヶ原)に生まれる(本籍地は北海道上川郡東鷹栖町(現旭川市)。母のよりみは、公房を妊娠中の1924年に小説『スフィンクスは笑う』(2012年に講談社文芸文庫で復刻)を執筆したが、その後筆を折る。祖父母は香川県からの北海道開拓民であった)。
1925年(大正14年)、家族と共に満州(現・中国東北部)に渡り、奉天市(現・瀋陽市)で幼少期を過ごす。小学校での実験的な英才教育、「五族協和」の理念は、後に彼の作風や思想へ大きな影響を与えた。1940年(昭和15年)に満洲の旧制奉天第二中学校を4年(飛び級)で卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。ドイツ語教師であった阿部六郎に多大な影響を受け、戯曲や実存主義文学を耽読する。また、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された。
冬に、軍事教練の影響で肺浸潤にかかり休学し、奉天の実家に一時的に帰って療養する。
1943年(昭和18年)9月、戦時下のため繰上げ卒業し、10月に東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年に文科系学生の徴兵猶予が停止されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして家族が心配になり、大学に届けも出さずに、年末に船で満州に帰ったので、親友が代返をして繕ってくれる。1945年(昭和20年)は実家で開業医となった父の手伝いをして過ごし、8月15日の終戦を迎える。同年の冬に発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。
1946年(昭和21年)に敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。年末、引揚船にて帰国した。小説が何冊も書けるような体験をしたはずだが、それを題材にすることはなかった(本人は『新潮日本文学46 安部公房集』の付録小冊子において「ぼくが私小説を書かない理由」を記している)。満洲を舞台にした唯一の長編小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れている。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけてから、東京にもどる。
(参考ウィキぺデア)