僕が小説で描いた天皇及び天皇制 森達也【作家/映画監督】
2022/5/19(木) 17:40配信  
他のタブーと比較にならない「菊のタブー」の強固さ
『千代田区一番一号のラビリンス』森達也 現代書館
画像Twitter森達也(映画監督・作家) (@MoriTatsuyaInfo) / Twitter
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――今回上梓した小説『千代田区一番一号のラビリンス』は、天皇ないし天皇制をテーマにしたものですね。今の上皇夫妻が冒頭から実名で出てくる。前半で印象的なのは、森さん自身と思われる主人公「克也」が、フジテレビで天皇にインタビューを試みるという番組を作ろうと企画して、結局頓挫する話ですね。
最初から天皇という話だと企画が通らないから憲法についての企画ということにして、何人かで憲法条項を分担する。克也はその中で憲法1条を担当するわけですが、これは森さんが体験した実話ですね。

森 それ自体は実話です。2004年の頃だったと思います。この小説を書き始めたのは今から10年ほど前です。フジテレビの企画が未消化に終わってしまったという体験はひとつの要因ではあるけれど、この小説を書くメインの動機ではありません。
 時期的にはちょうどこのころから、当時の天皇ご夫妻、明仁さんと美智子さんについて気になり始めていた。お2人は何かを伝えようとしていると感じていた。
 ……無理矢理言葉にすれば、それがこの小説を書こうと思ったモチベーションです。
 地下鉄サリン事件以降、オウムについての映画を撮ったことがきっかけでメディア全般に関わるようになる過程で、この国の「菊のタブー」の強さを痛感しました。タブーはたくさんありますが、他のタブーとは比較にならないくらい強固です。その弊害も大きい。メディアに関わりながら見て見ないふりをするというのも変な話だし、その違和感を表明したいという気持ちはありました。
 同時に明仁さんと美智子さんを見ていて、何か2人が一生懸命にサインを送っているように僕には見えてしまった。多くの人がそれに薄々気づきながら敢えて話題にしないという、そんな気配も気持ち悪くて、まあその2つですね。それがあって何か形にしたいとずっと思っていました。

天皇夫妻がメッセージを発しているという「妄想」
――天皇がメッセージを発しているのではないかというのは、例えば小説に書いてある、皇室について朝鮮起源説のようなことを口にしたりといったことですね。
森 起源とまでは言わないけれど、2001年に、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています、と明仁さんは公式に発言しています。このときに、あれ、と思ったことは確かです。その後もお2人は私的旅行の名目で、長野の満蒙開拓平和記念館や水俣病患者資料館、ハンセン病療養所、高句麗からきた渡来人の始祖を祀る高麗神社などを訪ねています。これらはすべて、国策によって国民が大きな被害を受けた歴史のメルクマールです。

 2004年の園遊会で、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と米長邦雄元名人(東京都教育委員会委員)が挨拶したとき、「強制になるということではないことが望ましいですね」と明仁さんは答えています。あるいは2016年8月15日の戦没者追悼式で会場から「天皇陛下万歳!」と声があがった時、一瞬振り向いた明仁さんの険しい顔も、覚えている人は少なくないと思う。

 政治的な言葉を封じられているからこそ、自分たちが動けばそれがニュースになり、見る人が見れば何かを感じてくれるんじゃないかという思いで行動している。そんな気がずっとしていました。
 もちろん半分は妄想です。少なくとも論理ではない。裏もとれないし。だから小説なんです。
――象徴天皇制という、曖昧でわかりにくいものをシンボライズしているように見えるのが、随所に出てくる「カタシロ」ですよね。天皇夫妻の住まいにも夜になると現れると描かれていますが、それが形のあるモノなのか、影のようなものなのか、あるいは単なる空間なのか、最後までわからない。この存在は、小説を構想した最初の段階からあったのですか?
森 割と最初の段階からそういう存在のイメージはありました。ただ呼び名はカタシロでなく、ヒトガタとかシキガミとか二転三転しています。

キーワードは「穢れ」と「浄め」
――それは森さんの象徴天皇制のイメージなのでしょうか?
森 作者が説明してしまうのがよいとは思えないので、細かい解説はしません。でも、ここまでは言っていいのかな。キーワードは穢れと浄めです。被差別部落の問題はまさしく典型だけど、福島原発事故直後の福島県民に対する排除のまなざしも記憶に新しい。水俣病患者も苛烈な差別を受けました。ハンセン病に至っては感染しないとわかってから何十年も、この国は強制隔離政策を続けていた。あるいは日本がどうしても手放せない死刑制度も含めて、こうした排除や抹消や差別のメカニズムや背景に、穢れ的な意識が駆動しているような気がします。
 いうなればそれをリバースしたのが,浄めの象徴である天皇制です。そのあたりをどうやればひとつの形にできるかなと考えているうちに、カタシロという存在が出てきたという感じですね。
――主人公が、天皇夫妻に何とかして会えないかと思いながらどうにもならないわけですが、途中でそれが会えてしまう。それをつないだのがカタシロで、その存在は小説の中で極めて重要なものとして描かれているわけですね。
森 そうですね。そのあたりも、書きながら、手が勝手に進んだ感じです。自分で「そうなのか」とか「なるほどね」とか言いながら書いてましたから。

 カタシロそのものには僕たちはフォーカスできない。ピントを合わせようとすると消えてしまう。見えるけど見えない存在、そもそも存在ではなくて非存在。そんなイメージですね。そういうものって世の中にたくさんあるんじゃないかという気がします。
――それと最初の方で盲腸にたとえているじゃないですか。生まれつき付いているけれど、どういう役割かよくわからない。これも森さんの天皇制のイメージなのですか?
森 それは克也のお母さんのイメージです。「うまいこと言うな」と思いながら書いてました(笑)。確かに不要といえば不要なんだけれど、最近の研究では、腸内フローラにとって有益な働きをしていることもわかってきたとか、何となくそういう点では、天皇制のメタファーに近いのかな。

皇居の地下にある迷宮のイメージ
――最後の方には皇居の地下にある迷路のような空間を主人公や天皇夫妻が歩きまわるのですが、これは皇居の地下壕と言われる御文庫からヒントを得たものなんですか?
森 いろいろ資料を読みながら、戦争末期に御前会議が行われていた御文庫付属庫が気になってきた。そういえば数年前に松代大本営に案内されたことがあって、あそこも穴だったなと思いだし、沖縄のガマや防空壕。全部地下の穴なんです。村上春樹さんじゃないけれど、穴の底、地下はメタファーになりやすい。
――最後の方は村上春樹さんの小説にイメージが重なりますね。
森 村上さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は大好きなので、ここは似てるなとか比較されそうだなと思いながら書きました。ある意味でオマージュかも。でも真似をしようと思ったわけじゃないし、書いているうちに必然的にそうなってしまったので、仕方ないなと思っています。
――その迷宮の中で何が起きたのかというのは、読者各自が想像しながら読み進めていくということですね。出版してからの反響って何かありましたか?
森 反響ですね。ありません(苦笑)。多くのメディアに献本しているけれど、4月半ば時点で取り上げてくれたのは『週刊金陽日』と東京新聞、そして5月発売の『創』のこの記事だけですね。新刊を出すといつもSNSに感想を書き込んでくれる人たちも、今回は沈黙しています。これどう扱えばいいの?と困っている感じですね。
『週刊朝日』と『週刊文春』は知り合いの記者もいるので相談して、書評担当に本を回しておきましたと言われたんですが、結局、断られたみたいです。もちろん編集権は媒体にあるので仕方ないんですが、やはり取り上げにくいんだろうなと、予想はしてましたが改めてそう思いました。だから今、『週刊新潮』に、こんな怪しからん本が出ましたとチクろうかと思っているんです(笑)。

――『週刊新潮』が、不敬な本だと記事にして右翼団体が抗議に動いて騒動になるケースが過去、たくさんあったからですね。今の冗談は活字にしていいもの?

森 いいですよ。半分本気ですし。

大手出版社はいずれも出版に二の足を踏んだ
――ただ『週刊新潮』が「これは不敬だ」と言いにくい面もあって、森さんの天皇夫妻の描き方にはシンパシーも感じられますよね。
森 版元の現代書館の菊地泰博社長は、むしろ左翼から批判が来るんじゃないのと冗談まじりに言ってました。確かにわかりやすいポジションにいる本じゃないですね。まあでも、それがこの本のテーマだから仕方ない。
――そもそも大手出版社で引き受けてくれるところがなかったわけですね。
森 文芸誌を持っている出版社はほぼ全社回りましたが、結果としてすべてダメでした。最後に、僕の最初の本『「A」撮影日誌』を出してくれた現代書館の菊地さんに相談したら、二つ返事で引き受けてくれました。
――今回の小説の特徴は、主人公以外は、椎野礼仁さんを始め、知り合いが実名でたくさん登場することですね。椎野さんなど重要な役回りで出てくるけれど、本人はSNSで「あくまでフィクションですから」と書いてました。
森 一応名前を出している人にはほとんど事前に了解を得ています。ただどんな登場人物になるか細かくは説明していません。もちろん公人は別ですよ。あと公的な組織も。
――ただ、山本太郎さんだけは、天皇に園遊会で福島原発について直訴するために手紙を渡そうとしたのは事実だし、さらに小説の中ではその後天皇と会ったりもしているから、どこまでがフィクションでどこまでが事実なのか、本人も読者も気になるかもしれませんね。
森 小説ですから基本的にはフィクションです。そう思ってください。山本さんが手紙を渡そうとしたのは2013年で、明治天皇に足尾銅山の鉱毒について直訴した田中正造になぞらえられましたが、小説の中で書いたように天皇夫妻は翌年、栃木県佐野市の郷土博物館を訪れ、田中正造の直訴状を実際に見ているんですね。これは偶然ではないだろうというのが僕の見方です。
 じゃあなぜすぐに行かずに翌年になったのかといえば、すぐに行ったら騒ぎになって山本太郎さんに迷惑がかかる。美智子さんがそう言ったのではないかというのが僕の推測です。言い換えれば妄想。でもそれが小説だと思っています。
 ただし実名だからこそ、表現が内包する加害性については、もちろんゼロにはできないけれど、できるかぎり配慮しているつもりです。

他の登場人物は実名なのに主人公は仮名という理由
森 それともうひとつ。日本の表現領域は、これは文学だけでなく映画やテレビも含めて、匿名が大好きです。完全に架空の存在ではなく明らかにモデルがあるのに、名前を中途半端に変える。朝毎新聞とか帝都テレビとか田中丸栄とか。僕はこれが気持ち悪くて大嫌いです。
 最近で言えば『ビッグコミックスピリッツ』で、森友事件をテーマにした連載が始まっています。まずは編集部に最大限のエールを送ります。絶対にうやむやにしてはいけない事件だし、社会や政治の問題をエンタメで扱うことがこの国では少なすぎる。英断だと思います。
 でも連載が始まって、期待していたからこそ、名前の表記に強い違和感を持ちました。例えば事件のキーパーソンである佐川宣寿理財局長(当時)の名前は三河局長に変えられている。もちろん、現在の彼は市井の人だとの理屈はあるかもしれない。でもならば、国会における安倍元首相の「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めますよ」という発言を大ゴマで扱いながら、安倍ではなくて足達首相にしている理由と整合性はどこにあるのか。僕には全くわからない。

 日本の報道は実名報道が原則です。自分ではない誰かに対しては実名を明かせと声高に強要する。ところがSNSやツイッターの匿名率は世界一といえるほどに高い。いろいろちぐはぐです。表現はこうした風潮に従属すべきではない。そうした問題提起も含めて、この小説ではできるかぎり実名にしました。

 ちなみに、それならなぜ小説の中でお前だけ「達也」と実名でなく「克也」なのかと何人かに質問されたけれど、達也で書くと筆が進まないんです。距離をうまくとれないというか、何かべたべたしてしまう。だからとりあえずは克也で書いて、最後に一括変換で達也にするつもりだったのですが、書き終わる頃は克也が馴染んでしまったし、誰が読んだって森克也は森達也なのだから、これはこれで逆にアクセントになるかなと考えました。

大切な要素が曖昧なままになっていく中心に天皇制が
森 僕はそもそも明確な反天皇主義者でもないし、もちろん天皇制護持を主張するつもりもない。ただ、天皇制がシンボライズする国の民意形成のあり方の歪さ、見えているのに目をそむけている不自然さ、戦争責任も含めて多くの大切な要素が曖昧なままに時代が変わってゆく。こうした状況の中心に天皇制が存在していることだけは間違いないと思う。

 しかも最近は、こうした曖昧な歴史観が、保守の視点に回収される傾向が強くなっている。慰安婦問題や南京虐殺、震災時の朝鮮人虐殺もそうですね。憲法第1条は、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとしたうえで、天皇の地位の根拠として、「主権の存する日本国民の総意に基く」と明記しています。でもその総意はどこにあるのか。総意どころか議論すらできない雰囲気がある。

 個人を神格化する天皇制は危険なシステムです。でも戦後に変わったはずです。そしてもし変わったのなら、その変化の主体は、天皇ではなく国民の側にあるはずです。ところが菊のタブーが自由な議論や想像を抑制する。国民も天皇も思うことを言葉にできない。メディアも委縮している。それはやはり健全ではない。今のままでは国のシステムとして歪すぎる。そんなことを考えながら書きました。
――そういう状況の中で天皇自身もメッセージを発信しているというのは割と強い推論ですか? そうに違いないと?

森 違いないとまでは言わないです。もしも公式の場で聞かれたら、「僕の妄想です」と答えることにしています。言葉を発することを封じられているからこそ、私的な行動で示す。自分たちが動けばメディアが報じる。満蒙開拓団や水俣病についてあらためて考える。そうしたメッセージを静かに送っている。僕にはそう思えて仕方がない。
 昭和天皇の戦争責任が曖昧なままに終わっているからこそ、彼は誰よりも戦争責任について考えているような気がします。だからこそ、戦争は二度とあってはならないという思いがとても強い。沖縄や慰霊にこだわるのも、そういう思いがあってのことだと思います。
 まあこれについても、明仁さんと美智子さんが「その通りです」と言ってくれればいいんですけれど、多分言ってくれないだろうし、裏なんて取れないから妄想でしかないんです。でも妄想の自由は誰にだってあるはずだし、決して僕だけの妄想ではないと思っています。
――書き始めた時はある程度イメージとか構想ができていたわけですか?
森 やっぱり登場人物が勝手に動いてくれないと、作品は面白くならない。その意味では、書きながら楽しかったです。

 穢れと浄めをキーワードにすると、イザナギとイザナミの国造り神話に行き着きます。ジェンダー的にはひどい話です。でもそうした意識は、東京オリンピックでの森元首相の女性蔑視的な発言なども含めて、今も色濃く残っている。自民党の最大の票田である日本会議も神道系です。そのあたりが自分の中でなんとなくつながって、神話の世界をモチーフにしながら、今の天皇制のあり方をラストで提示したいという気持ちはありました。
 ……まあ書いた本人が言えることはこれくらい。要は解釈ですから。自由に読んでもらいたいと思っています。


ひろゆき氏、4630万誤送金問題に持論「逮捕すべきことではない」「無理やりでっち上げた罪」
2022年5月21日 16時52分 スポニチアネックス
 2ちゃんねる創設者で実業家の西村博之(ひろゆき)氏(45)が21日に自身のYouTubeチャンネルを更新。山口県阿武町が新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金4630万円を住民に誤送金し、返還を求めている問題で、電子計算機使用詐欺の疑いで、住民の無職田口翔容疑者(24)が逮捕されたことについてコメントした。

 ひろゆき氏は、この事件について「お金を取り返すのは役所同士がやることで、警察が動いて逮捕すべきことではないと、僕は思うんですよね」と持論を展開する。「たとえば、コンビニとかでレジを通し忘れていて、誤ってものを多く渡してしまう商行為って結構いっぱいあって。それで“もう食っちゃったよ”ってなったときに“返せ、さもないと逮捕!”みたいになるのっておかしくないですか?」と、問いかけた。

 「“使い込んだ分については返せ”ってのは正しいんですけど、それは民事上でやるべきことで、警察が動くのはどうかなって。それに。4000万円持ち逃げは法律上に違法とは書いてないんですよ。電子計算機使用詐欺ってのは、あくまで逮捕されるために無理やりでっち上げた罪で、やってることは中国と変わらないと思うんですよね」と、語っていた。