家田の絵は素晴らしかったけれど、その頃の私には、それがまだわかっていなかった。
親しみやすい、口の悪い、胡散臭いおじ様あるいはおじい様。家田のことはそんな風にしか思っていなかった。
そしてそこで、私はわたなべひろみに出会った。
わたなべは、もともと家田の絵画教室を紹介してくれた友人の幼馴染で、その頃丸善百貨店に勤務しながら漫画家としてデビューを果たしていた。
彼女も子どもの頃、家田の教室に通っていたが、その後も度々顔を出していたのだ。
私と友人がゆったりと絵を描いていたら、450ccのバイクで集会場に乗り付け、赤いヘルメットを小脇に抱え、長いソバージュの髪をなびかせて近づいてきた。
実はわたなべとはもっと前に会っていたのだけど、最初の出会いを私はほとんど覚えていない。ただ、絵画教室にバイクで颯爽と乗り付けてきたわたなべの映像を、映画のワンシーンのように鮮明に覚えている。でも、かっこよく登場した第一印象とは違い、実際のわたなべはかなりおっちょこちょいの変わり者だった。小中高大と変人枠で括られていて友達が少なかったし、「手塚治虫ファンクラブ」のオタク仲間とうわべだけの付き合いしかしてこなかったせいか、私のことを「初めて出会うタイプ」だとやけに興味を持ち、出会って間もないころから、頻繁に私に電話をくれた。
それ以来わたなべと私は徐々に仲良くなって、42歳でわたなべが亡くなるまで、常に私たちは一緒にいた。親友というより、まるで相互依存症のように。

わたなべに出会い、しばらくすると私は絵画教室に行かなくなり、武蔵野美大に入り、スクーリングで東京に行き、結婚して大阪に住み、大阪のデザイン事務所で働いた。と時系列で簡単に書くとこうなる。6年間のことだ。もちろん行間には様々なことがあったけれど。

その後、わたなべと友人と私は、月に2回、家田の自宅アトリエに絵を習いに行く事になった。習うと言っても月謝などを払ったわけでなく、半分遊びに行くような形だった。
「30歳まで結婚しない!」と言っていた私が、26歳で結婚し大阪へ行ってしまった。
実家の父と母は寂しくていつも西の空を見ながら泣いていたそうで、母からそれを聞いて「大げさな!」と笑ったけれど、実は私も、思いのほか寂しくて、月に2回実家に帰る口実を作りたかった。
私の両親より15歳くらい年上だった家田夫妻は、当時70歳近かったと思う。
週1で集会場の教室に行く以外は、一人娘の聖子と夫妻は山の中で世捨て人のように暮らしていた。
若い弟子に会って様々な話をしたかったのかもしれないし、刺激がほしかったのかもしれない。
子どもたち向けの集会場の教室ではなく、自宅アトリエに来るようにと言ってくれた。

かくて私は大阪から近鉄電車と名鉄電車を乗り継ぎ、私の実家の隣の市、岐阜県各務原市の小高い山の中にある家田の自宅に通ったのだ。
(続く)

家田和幸ウェブサイト