家田一家が住む家は、駅から歩いて10分ほどの丘の中腹にあった。
鬱蒼と木々が茂る小路を登っていくと、その家は見えてくる。
外枠は大工さん、内部は男の先生が友人たちと作ったという家は、装飾のあまりないシンプルで落ち着いた作りだった。
一番最初に私が訪れた時にはなかったギャラリーのような応接室も、その頃には出来上がっていた。
南の窓からは木曽川と山々を臨み、北側は山の岩肌をそのまま残した瀟洒な部屋で、床に様々な色の大理石が敷き詰められていたが
「このね、大理石の並べ方が気に入らないって男の先生が言うのよ」
と女の先生は半分笑いながら言った。
職人さんがやったというその床のどこがダメなのか、私にはわからなかった。
漆喰の壁には先生たちの絵が何点か掛かっていた。
中でも私が一番好きだったのは、サイゴンの街が描かれた男の先生の絵だ。
家田一家がいつからそこに住み始めたのか、どこからやって来たのか、私は何もしらなかったけれど、男の先生が第二次世界大戦中、軍属としてベトナムに行っていたという事は、時折語る思い出話で知っていた。

最初に家田夫妻を私に勧めてくれた友人Kは、その頃は東京に住んでいた。
彼女の父はKが高校の時東京に転勤になっていたので、Kも東京の大学を選び、入学と同時に家族で転居していた。
Kが大学の夏休みに帰省するとき、我が家や友人の家だけでなく、家田家にも滞在していた。
家田一家はそれくらいKを可愛がっていた。
わたなべひろみとKが小中学校の同級生、Kと私は高校の同級生だ。
同じく高校の同級生Hと、私は最初、集会場に通い出し、その後、Mという友人も参加した。
わたなべとKを子どもの頃から可愛がっていた男の先生は、HやMや私よりは、その二人を殊更愛しているように見えた。
わたなべには、よく「おまえは見た目がいいのだから感謝しなさい」と言っていた。
そして子どもの頃から賢かったKをとても評価していて、私がくだらないことを相談した時、「お前はKに比べて、知的レベルが数段下だ」と言われたこともあった。
激高すると、ついひどいことを言ってしまうようなところはあったけれど、ユーモアにあふれていて、面白おかしく様々な事を語っていた。
私はそんな家田一家を、わたなべやKとは違って、ちょっと距離を置いた感じで見ていた。
男の先生のことは、胡散臭くて適当な人だなあとも思っていたし、女の先生はそれとは逆に、小さいころから近くにいた伯母さんのように親しく思えていた。
大阪から何度そこへ通ったのか、もう思い出せないけれど、付かず離れず、私達と家田一家の交流は続いた。
その後、私達の人生にもそれぞれ変化が訪れた。
わたなべは結婚して男の子をもうけたけれど、その後シングルマザーとなり、漫画家としてさらに成功すべく、横浜に転居した。
それからすぐ私達一家も大阪から横浜に越した。夫が独立したのだ。
思い起こしてみたら、その時は家田にとても反対された。彼はちょっとコンサバティブなところもあったのかもしれない、いえ、東京という街に良い印象を持っていなかったのかもしれない。
いえ、今、やっとわかった。
寂しかったのかもしれない。
そうだ、寂しかったのかなあ。

家田和幸ウェブサイト



私の結婚式にて、右から家田和幸、K、わたなべひろみ、H、私
ひろみちゃん写真ぼかし-4