【時論】憤怒調節障害を病んでいる大韓民国(中央日報)
このところ韓国は憤怒余剰社会に近い。特定の問題が浮上すると、多くの人がその問題の本質を見るよりも不満を吐露するのに忙しい。いや不満を超え憤怒を表出するという表現がもっと合うかも知れない。

特に強者が弱者に不適切な方式で権威を示す「甲の横暴」に出会うことになればこうした葛藤と憤怒は極に達することになる。ある者はこれを世論という名前で美化したりもする。感情の過剰表出は極めて当然だと正当化させながらだ。 (中略)

果たしてこうした憤怒表出を社会的にどのように受け入れなければならないだろうか? このためにその意味をよく推し量ってみることが必要だ。憤怒というものは憤慨しとても怒るという意味だ。ここには攻撃性が含まれている。また攻撃の対象も必要だ。その効果は明らかだ。感情を表出する人々はカタルシスを感じるほかない。 だが受ける対象はどうか? 深刻なストレスと侮蔑感まで感じることになる。その上こうした過程で状況の本質は意味を失う。なぜ憤怒の対象になったのか、何のために自分が厳しい非難に耐えなければならないのかわからないアイロニーな状況が繰り広げられるのだ。非正常な権力により加害者と被害者が逆転する状況が発生するのだ。

したがってこうした感情の過剰は表出したからといって解決されるものではない。かえって憤怒はもっと大きな憤怒に帰結され、これは社会発展を阻害する副作用を生むことになる。最近憤怒の対象になった趙顕娥(チョ・ヒョンア)副社長、百貨店駐車場母娘などの事例を見てみよう。誤りは犯したというが彼らが報道機関と世論から過度な非難を受けたという点は否定しがたい。 (中略)

果たしてこうした世論形成式の憤怒表出が何を変えたのか? また、これが成熟した社会への発展に役立ったのだろうか? 短期的に啓蒙の効果があるかもしれないが、究極的にはまた別の被害者だけを量産した格好になった。こうした問題が発生する理由は社会のシステムだ。憤怒を表出するばかりでまとめられなくなっている。憤怒を鎮め抑制できるシステムづくりが急がれる。もちろんここには社会構成員が冷静さを取り戻すことが先行しなければならない。
(引用ここまで)

 憤怒を顕すことでなにが変わるのかって話なのでしょうが。
 やっているほうだって、そんなことでなにも変わらないことくらい分かってやっているでしょ。
 高齢者への厚い福祉を公約としていたパク・クネが選挙に勝ってからというもの、若者の絶望度が上がったように思いますがそれがこういう部分に向かっているのではないかと。

 建前として自由陣営にあり、民主主義であり、法治である韓国という国に住んでいるはずなのに。
 ひとりあたりのGDPが3万ドルを目前にした経済的に恵まれた国であるはずなのに。
 大学を卒業しても3人に1人しか正規職に就職できない。
 能力があるなし関係なしに、財閥の関係者は傲慢にふるまう。
 そいつらが罪を犯してもまともに罰することすらない(ナッツリターンはともかく)。
 でも、勝ち組になるためには財閥に就職するのが一番手っ取り早い。
 こんな矛盾にあふれた社会で、本来であれば治外法権にあったはずの財閥の子女がやりこめられたらそりゃ誰だって喝采を叫びますわ。

 「なににもならないのだから、憤怒をもっと抑えろ」って話なんてなんの意味もないのですよ。
 人間はなにかになるから行動するっていう生物ではないですからね。
 憤怒の原因になっている社会的な要因を取り除けって主張なら頷けますが。
 つまり、経済的に格差を少なくして、財閥の関係者は傲慢にならず、就職率を高めて、法律をあまねく適用する……ごめん、そんなの韓国じゃないや。