「漢四郡」はどこにあったのか、研究者が討論会(朝鮮日報)
 古朝鮮滅亡(西暦前108年)後に漢が設置した郡県は、どこにあったのか。上古史の争点の一つになっている楽浪郡などの位置をめぐり「韓半島(朝鮮半島)説」を主張する学界主流派と「遼西説」を主張する非主流派が激突した。

 16日、ソウル市汝矣島の国会議員会館で韓国上古史討論会が開かれ、「韓半島説」の立場を取る孔錫亀(コン・ソクク)ハンバッ大学教授、ユン・ヨング仁川都市公社文化財部長と、「遼西説」の立場を取るポク・キデ仁荷大学教授、イ・ドクイル・ハンガラム歴史文化研究所長がそれぞれ発表を行い、討論を繰り広げた。国会東北アジア歴史歪曲(わいきょく)対策特別委員会(李柱栄〈イ・ジュヨン〉委員長)の主催で開かれた16日の討論会は、対立する二つの学説の研究者がぶつかるということで、始まる前から注目を集めていた。また韓国政府が、新たに作る国定韓国史教科書で上古史・古代史の記述を強化するという方針を明らかにしたことを受け、さらに関心が集まった。

 強気な「遼西説」を唱える研究者らは、中国の史書を主な論拠にした。古朝鮮を研究しているポク・キデ教授は「これまでの楽浪郡研究は、文献資料を十分に検討していない状態で、考古学的発掘に依存し過ぎていた。中国の正史に中国史の一部として記録されている楽浪郡の位置は、河北省北部から遼寧省南西部」と主張した。イ・ドクイル所長は「後代の記録や研究よりも、古朝鮮滅亡後の状況を示す当時の記録の方が重要。楽浪郡・帯方郡が存在していた時期に作られた中国古代の史書は、その位置について古代遼東と説明しており、楽浪郡の中心地たる朝鮮県は河北省盧竜県だった」と主張した。

 控え目な「韓半島説」を唱える研究者らは、これら中国の歴史書の史料的価値に疑問を呈した。孔錫亀教授は「遼西説の根拠として引用される中国の史書は後代に編さんされたもので、その元祖に当たる『太康地理志』の『楽浪遂城県には碣石山があり、長城が始まる場所(楽浪遂城県有碣石山、長城所起)』という記事は、楽浪郡が高句麗によって韓半島から追い払われ、遼西に僑置(きょうち、名前だけを移すこと)した後の状況を説明したもの」と主張した。古朝鮮を研究しているユン・ヨング博士は「漢四郡の位置は、朝鮮王朝時代後期の時点で既に推定可能なあらゆる論理が提起されており、1920−30年代にはネン蝉(てい)県神祠(しんし)碑(ネンはのぎへんに占) や帯方太守墓など考古学的発掘や歴史地理学的研究によって一通りの結論が出た。加えて解放後、平壌一帯から数多くの楽浪の遺跡・遺物が出てきており、韓半島北西部への楽浪郡設置は否定し難い」と語った。

 双方は、楽浪郡の位置の問題が有する現代的な意義をめぐっても鋭い神経戦を繰り広げた。ポク・キデ教授は「北東アジアにおいて、歴史は安全保障の始まりであり、漢四郡が韓半島にあったとすると、中国の東北工程に反論し難い」と語った。イ・ドクイル所長は「中国と歴史戦争を行っている状況で、なぜわざわざ韓国に不利な解釈をするのか分からない」と語った。これに対し孔錫亀教授は「政治的理由で自分に有利な史料だけを選んではならず、合理的に説明すべき」と語った。ユン・ヨング博士は「楽浪郡は古朝鮮以来の土着勢力が実質的な支配勢力であって、楽浪文化は、古朝鮮文化の基盤の上に漢の文物が融合したもの」と語った。
(引用ここまで・太字引用者)

 一応、記事中にあるようにまともな歴史家もいるのです。
 ただ、そういった人たちの語るスタンダードな歴史は韓国人の心情にあわない。朝鮮半島全体が中国人の手によって支配されていた漢四郡は受け入れがたい。
 百済や新羅の建国が前一世紀であり、韓半島の主人は常に韓国人であったという韓国人の願望・情緒にそぐわないのですよ。

 おまけに最近は中国の東北工程があって、高麗は中国人の王朝だったという話になっていたりする。まあ、そのまま事実なのですけども。
 そこで出てくるのが「楽浪郡をはじめとした漢四郡は朝鮮半島になかった」というお話。
 平壌周辺からは山ほど楽浪郡遺物が出てくるのですけども、これは記事中でいうところの「朝鮮半島北西部にあった真・楽浪郡」からの戦利品という設定になるのです。

 広開土王碑の碑文なんかでも同様なのですが、歴史的事実とかどうでもいいのですね。
 自分たちの情緒に適うかどうか、そこが重要なのです。

 ま、実際のところ、これには色濃くマルクス史観が反映されているのですけども。北朝鮮の主体史観とでもいうか。日本のサヨクがリードしてきた史観というか。かなり語るのが面倒な話なので、いつかまとめられることがあれば。