1000年以上も忘れられていた任那日本府、なぜ復活したのか(朝鮮日報)
【寄稿】日本書紀にのみ登場する任那日本府、その実像は(朝鮮日報)
 大和政権が任那(伽耶)を支配したという日本書紀の記述は、長年注目されてこなかった。だが1720年に書かれた『大日本史』任那伝が、日本書紀の関連記事を整理し直して収録したことにより、日本の歴史の一部として登場した。そして19世紀末から20世紀初めにかけて、日本軍の歴史学者が本格的に研究した。ところがこれらの学者による研究は、学問的というより、日本の韓国侵略を歴史的に後押ししようとする目的の方が強かった。任那日本府説は、1949年に出版された末松保和の『任那興亡史』で集大成された。

 第2次世界大戦が終わった後、日本の学界は日本書紀の史料的限界を認め、任那日本府に関する新たなアプローチを試みた。その後、任那日本府については、任那のさまざまな勢力と倭が共に参加していた会議体だという主張や、527年から530年にかけて一時的に存在していた軍事機関だという主張などが登場した。結局、日本が韓半島(朝鮮半島)南部を200年間支配したという学説は崩壊し、2010年の韓日歴史共同委員会は、任那日本府説に根拠はないという結論を出した。
(引用ここまで)
 任那日本府はなかったが、韓国と日本ではさまざまな任那日本府説が横行した。古代日本が伽耶に置いた出張機関という説。韓半島ではなく現在の岡山県付近にあった伽耶系の分国・任那をめぐり、畿内の大和政権が九州の百済系分国(北西部)および新羅系分国(北東部)との争奪戦に勝利して設置した機関だという説。大和政権とは関係のない、伽耶の倭人の自治的な行政機関だったという説。主体を日本から百済に変えて「任那百済府」と見なし、伽耶に設置された百済軍司令部だったと解釈する説。統治機関や行政機関ではなく、外交使節だったという説。さまざまな説が展開された。しかし、複雑な史料批判を抜きに日本書紀をじっと眺めるだけでも、外交使節説を除き、全て虚像だということを簡単に明らかにできる。

 まず任那日本府の起源を、4世紀中盤〜後半にかけて神功皇后が新羅・伽耶7カ国を平定したという説話に求めているが、肝心の任那日本府の記録は5世紀後半(1回)と6世紀前半(22回)に限られている。 まず任那日本府の起源を、4世紀中盤〜後半にかけて神功皇后が新羅・伽耶7カ国を平定したという説話に求めているが、肝心の任那日本府の記録は5世紀後半(1回)と6世紀前半(22回)に限られている。

4世紀後半に新羅と伽耶を平定した倭や百済が、100〜150年もたってから統治、もしくは軍政機関を設置したというのは理解できない。何より、23回も登場する日本府の記録の中に、倭や百済が伽耶で租税徴収をしたとか、力役・軍士を動員したとか、政治的強制力を示したといった記述は見られない。日本府という用語が見られる記録は全て、倭の使臣が、現在の慶尚南道咸安に位置していた阿羅国王の保護の下、百済と新羅を相手に展開していた外交活動に関するものだ。つまり任那日本府の実体は、倭王が伽耶に派遣していた外交使節であって、日本書紀の編さん者が自らの歴史解釈に基づき、統治機関を意味する「府」という漢字を当てて記録したというだけのことだ。
(引用ここまで)

 一年に一回くらいの頻度で出てくる「任那日本府なんてなかったんだ。日韓歴史共同研究でも否定された!」という妄言。
 今年は朝鮮日報の担当です。
 日韓歴史共同研究委員会で韓国側からそういう意見が出たのは確かなのですが、日本側からは「日本書紀に記されている『任那日本府』は名称からしても存在しなかったとしても、倭の勢力が朝鮮半島南部の一定地域になんらかの影響力を及ぼしていた」という話はしているのですよね。
 これを見ているのか見ていないのか。
 見ていても記憶に留めることができているのか否か。

 「任那日本府」という言葉が日本書紀以外に見あたらないから捏造なんて考えかたは通用しないのですよ。
 日本書紀にしか出ていないというのであれば、王仁なんかもそうなんですがこちらは「日本に文化を与えた韓国人」扱いになっている不思議。
 王仁祭りまでしてしまうというダブルスタンダード具合。

 だいたいにして倭が朝鮮半島南部に勢力を伸ばしていたというのは、中国の歴史書、韓国の三国史記、日本書紀(古事記)に共通していてさらに広開土王碑の碑文もそれを補強している。
 すべての資料がひとつの点を指し示しているのに、頑なにそれを否定するのはまさに「民族主義的なものの見方」をしているからなのですけどね。

 「他人を罵る言葉は自分の中に刺さっている言葉そのもの」なんて話はよく言われることですが。
 韓国人の歴史観はまさにそれ、なのですよ。