祇園・円山付近

2006年08月26日

知恩院の河童

08.26 知恩院 河童 『 知恩院の河童 』

  知恩院 の三門をくぐり、男坂と呼ばれる急な石段を登ると、寛永16 ( 1639 ) 年、江戸幕府 3代将軍 徳川家光 によって再建された 「 御影堂 」 ( みえいどう ) と称する巨大な木造建築物が現れます。

 
御影堂の内部と外部を仕切る 大扉の落とし金具 には、不思議な意匠の細工があり、よく見ると、きめ細かな細工で仕上げられた 「 河童 」 ( かっぱ ) や 「 亀 」 「 蝉 」 ( せみ ) が見られます。

  河童水にまつわる生き物 であり 火難除け を願うと考えられ、また 人が近づくと鳴き止めて逃げる ことから 泥棒除け忍び除け と考えられています。

< 参考 : 清水寺の蝉



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2006年08月03日

北座

08.03 北座 『 北座 』

  現在、京都の歌舞伎劇場といえば四条大橋の東に 「 南座 」 ( みなみざ ) がありますが、昔は四条河原にいくつもの芝居小屋が建ち並び、大いに賑わっていました。

  江戸時代初めの元和年間 ( 1615 〜 24年 ) には、四条河原にある 7つの常設芝居小屋 における興行がおおやけに許可され、多くの町衆が歌舞伎などの芸能を楽しんでいました。

  しかし、長い年月のなかで火災による焼失と再建を繰り返し、幕末には 「 南座 」 と 「 北座 」  ( きたざ ) だけとなりました。 北座も明治26 ( 1893 ) 年に取り壊され、現在は南座のみとなってしまいました。

< 地図 : 北座跡


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2006年07月07日

比叡山延暦寺の別院

07.07 八坂神社 『 比叡山延暦寺の別院 』

  八坂神社の創建は、貞観18 ( 876 ) 年に奈良 興福寺 の僧・円如がお堂を建てたことにはじまります ( 諸説あり )。

  創建に興福寺が関わっていることからもわかるように、八坂神社は神仏が混合した形態が長く続きました。 創建後は 興福寺 に属し、その後は 比叡山延暦寺の別院 として 「 祇園社 」 と呼ばれて明治になるまで長く存在し、明治元 ( 1868 ) 年の神仏分離令にもとづいて八坂神社と改められました。

  その時に祭神も仏教的な牛頭天王 ( ごずてんのう ) から神道の素戔嗚尊 ( すさのおのみこと ) に改められました。


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2006年07月06日

牛頭天王

07.06 提灯 『 牛頭天王 』

  牛頭天王 ( ごずてんのう ) とは、インドの祇園精舎を守護する神 とされています。 のちに日本の神話に登場する 素戔嗚尊 ( すさのおのみこと ) と同一視されるようになり、牛頭天王素戔嗚尊同一神 として厚く信仰されるようになりました。

  それにともない、素戔嗚尊を祀る八坂神社 は、牛頭天王を祀る神社 とも考えられるようになり、牛頭天王が祇園精舎を守護する神であることから 祇園社 と呼ばれるようになりました。

  古くから祇園社には多くの人びとが参拝し、祇園社の門前には参拝者に団子とお茶を出してもてなす茶屋が建ち並び、その門前町が現在の花街 祇園 のはじまりとなりました。


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2006年07月05日

祇園社から八坂神社へ

07.05 八坂神社 『 祇園社から八坂神社へ 』

  祇園祭を執り行う 八坂神社 は、明治維新までは 祇園社 ( ぎおんしゃ )、祇園感神院 ( ぎおんまんじんいん )、祇園天神社 ( ぎおんてんじんしゃ ) などと呼ばれており、明治元 ( 1868 ) 年に明治政府から発布された 神仏分離令 にともない、現社名の八坂神社となりました。

  「 祇園 」 という言葉は仏教に関する言葉であり、祇園精舎 ( ぎおんしょうじゃ : 釈迦が説法をしたと伝わるインドの聖なる寺院 ) に由来しているため、仏教に関する言葉を用いる社名を避けて、地名の八坂より 「 八坂神社 」 とされました。 ( 明日へ続く・・・。 )


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2006年04月18日

今も湧く吉水

04.17 法垂窟 『 今も湧く吉水 』

 
浄土宗総本山 知恩院 ( ちおんいん ) の鐘楼から山中へ続く道を進むと、宗祖 ・ 法然上人 が浄土念仏を唱え始めた 『 法垂窟 』 ( ほうたるのいわや ) があります。

  法然 は比叡山での修行を終えると、法垂窟「 吉水草庵 」 ( よしみずそうあん ) を結び、「 専修念仏 」 ( せんじゅねんぶつ : ひたすらに念仏を唱えると阿弥陀様に救われる ) を説いて 庶民の救済 に力を注ぎました。

  「 吉水 」 とは法垂窟に涌く 「 よい水 」 のことであり、法然の教えを受け継ぐように、法垂窟には今も脈々と吉水が湧き続けています。

『 御忌大会 』 ( ぎょきだいえ )  知恩院
   4月18日 ( 火 ) 〜 25日 ( 火 )
   宗祖法然上人の忌日に当たり、大鐘を鳴らして
   上人の徳を偲ぶ伝統の年中行事です。


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2006年03月31日

春の到来 ヨーイヤサァー

04.02 桜と舞妓さん 『 春の到来 ヨーイヤサァー 』

 
枝垂れ桜が京の春を彩り始める頃、京の花街 ・ 祇園 の歌舞練場では、「 ヨーイヤサァー 」 の掛声と共に 『 都をどり 』 が華やかに開催されます。

  春の到来を告げる 「 都をどり 」 は、明治5 ( 1872 ) 年、京都博覧会で 芸舞妓さんが舞や歌を披露した のが始まりで、今年で 百三十四回目 を迎えます。

  叱られて 悲しきときは円山に
       泣きにゆくなり をさな舞姫
                  − 吉井勇 「 祇園歌集 」 より −

  芸舞妓さんの優美な舞い姿 は、底冷えの寒い冬も欠かさず続けてきた 厳しいお稽古の賜物 なのです。

  今年も一層、京の春を華やかに彩ります。

『 都をどり 』  祇園甲部歌舞練場
   4月1日 〜 30日  1日4回公演
   入場料金 : 茶券付特等観覧券 4300円
           他、3800円 1900円


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2006年03月13日

慈円山安養寺

03.09 円山公園 『 慈円山安養寺 』

 
八坂神社の奥 「 円山公園 」 ( まるやまこうえん ) は、平安時代の昔より 『 真葛ヶ原 』 ( まくずがはら ) と呼ばれ、一面に 真葛すすき が生い茂る 閑寂な地 でした。

  平安時代の終わり、比叡山での修行を終えた 法然上人 がここに 吉水草庵 を結んで 浄土念仏 を唱え、後の鎌倉時代、慈円僧正 により草庵跡は 『 安養寺 』 ( あんようじ ) となりました。

03.09 安養寺  江戸時代になると、安養寺一帯は 正式な寺名 『 慈円山 安養寺 』 の 慈円山 ( じえんさん ) より 円山 ( まるやま ) という地名で呼ばれるようになり、明治から大正時代にかけて公園として造園され、現在では 夜桜の名所 として広く親しまれています。

『 花灯路 』 東山一帯 ( 青蓮院 〜 清水寺 )
  3月11日 〜 21日

< 地図 : 円山公園 / 安養寺


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2006年02月09日

京名物 田楽豆腐

02.09 中村楼 『 京名物 田楽豆腐 』

  清らかな水に育まれた 京都の豆腐 は、昔から 京名物 として親しまれてきました。

 
江戸時代の初め、八坂神社門前で参拝客が立ち寄る腰掛茶屋 として始まった 『 中村楼 』 ( なかむらろう ) は、現在では言わずと知れた 祇園豆腐を味わえる格式高い老舗料亭 です。

  昔から 中村楼の名物 として知られる 『 田楽豆腐 』 ( でんがくとうふ ) は、やわらかい豆腐と香ばしい木の芽味噌が絶妙な組み合わせとなっており、軒先の茶店で手軽に味わうことができます。

  八坂神社を参拝した帰りにちょっと立ち寄ってみてはいかがですか。

< 地図 : 中村楼



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2006年01月05日

花街の始業式

01.05 祗園 『 花街の始業式 』

  正月が明けた 1月7日、祇園の芸舞妓さんの一年が 『 始業式 』 で始まります。 正装である 黒紋付の着物 を装い、髪には 稲穂の簪 ( いなほのかんざし ) を挿して、芸舞妓さんが一同に会する歌舞練場へと向います。

  花街の始業式では挨拶を交わし、お神酒 ( おみき ) と 祝いの昆布するめ をいただき、今年一年の精進を誓います。 始業式が終わると、日頃お世話になっているお茶屋さんへ挨拶に向います。

   おめでとうさんどす。
     今年もよろしくおたのもうします。

  華やかな花街祇園の一年が始まります



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2005年12月30日

厄除けの神火

12.30 おけら詣 『 厄除けの神火 』

  大晦日の夜、八坂神社境内には釣り燈籠が用意され、火が焚かれます。

  その火は 「 おけら火 」 と言い、「 白朮 」 ( おけら ) という 薬草 が一緒に燃やされて 少し刺激的な香り がすることから、古くから 厄除けの神火 とされてきました。

  京都では、吉兆縄におけら火を移して消えないようにクルクルと縄を回しながら家まで持って帰り元旦の朝おけら火で沸かした湯で大福茶を飲み、雑煮を焚いて食べて新年の無病息災を願う習わし です。


   おもしろき おけら詣の人なだれ
         火縄振り振り ゆけば楽しも
                      −吉井勇−


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2005年12月29日

知恩院の除夜の鐘

12.29 知恩院 梵鐘 『 知恩院の除夜の鐘 』

  浄土宗総本山 「 知恩院 」 の 梵鐘 は、江戸時代初期の寛永13 ( 1636 ) 年に鋳造され、高さ 3.3m口径 2.8m重さ 70トン を超える 日本最大級の規模 を誇り、日本三大梵鐘 ( 東大寺、方広寺、知恩院 ) の一つに数えられています。

  大晦日の 22時半より 「 除夜の鐘 」 が撞かれますが、僧侶 16人が子綱を一斉に引き親綱を持つ僧侶が後向きに飛んで梵鐘を撞く光景はまさに圧巻 です。

  梵鐘は 「 撞けば 20分間も余韻が残る 」 と言われています。 最後 108回目の除夜の鐘の音の余韻を聴きながら、新しい年を迎えてみませんか?


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2005年12月23日

御身拭式

12.23 知恩院 『 御身拭式 』

  平安時代末期、仏法修行を終えた 法然上人 は比叡山を下り、黒谷 ( 現、金戒光明寺 ) や 大谷 ( 現、知恩院 ) に小さな庵を組んで 念仏道場 としました。

  法然上人は 「 南無阿弥陀仏の念仏をひたすら唱えれば、誰でも阿弥陀仏に救われる 」 という 『 専修念仏 』 ( せんじゅねんぶつ ) の教えを民衆に説き、それまでは 特権階級のものであった仏教を民衆のものとしました

  12月25日、浄土宗総本山知恩院 では 『 御身拭式 』 ( おみぬぐいしき ) が行なわれ、法然上人像を香染めの羽二重で拭いて新年の多幸を祈ります


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2005年12月12日

二条城の出城

12.12 知恩院 『 二条城の出城 』

  浄土宗総本山 「 知恩院 」 は、浄土宗の開祖 法然上人 の亡き後、弟子の源智が法然の草庵跡に建立した寺院です。

  江戸時代には 徳川将軍家の絶大なる庇護 の下で次第に伽藍が整えられ、現在のような大寺院へと発展しました。

  一説には 知恩院 と 二条城 ( 徳川将軍家の京都の居城 ) は 秘密の地下道 で行き来ができ、いざと言う時、知恩院は二条城の出城になる・・・ という伝説が残されています。

  圧倒的な三門、急勾配の石段、そそり立つ石垣・・・、確かに知恩院には城郭のような雰囲気が漂っています。


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2005年12月01日

大入り願う勘亭流

12.01 まねき 『 大入り願う勘亭流 』

  京の師走の風物詩 と言えば、南座 で行われる歌舞伎の 『 顔見世 』 興行です。

  江戸時代、各座の歌舞伎役者は 旧暦 11月 から 1年間の契約 を結び、その月初めの舞台において 新しい顔ぶれで口上 ( こうじょう : 舞台上から挨拶を述べること ) した ことから 「 顔見世 」 と呼ばれるようになりました。

  南座正面には 縁起の良い 「 勘亭流 」 という書体で書かれた 歌舞伎役者の名札 「 まねき 」 が掲げられ、隙間のない太い文字で興行の満員大入りを願い文字の撥ね ( はね ) を全て内向きに撥ねてお客さんが会場に入ることを願っています

  師走の到来を告げる南座の 「 まねき 」 です。

『 吉例顔見世興行 』  南座
   11月30日〜12月26日


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2005年11月07日

白川のせせらぎ

11.07 祇園白川 『 白川のせせらぎ 』

   かにかくに
     祇園は恋し 寝るときも
        枕のしたを水のながるる
                  − 吉井勇 −

  京祗園をこよなく愛した歌人 吉井勇 ( よしいいさむ ) は、白川沿いのお茶屋 大友 ( だいとも ) の女将 磯田多佳 ( いそだたか ) と親交深く、しばしば 大友の奥座敷で横になり張り出した床の下を流れる白川のせせらぎを静かに聴いていた と言われています。

  しかし 第二次世界大戦の勃発により、大友を含む白川沿いのお茶屋は防火のために疎開 ( 取り壊し ) となり、現在は京情緒あふれる白川南通として親しまれています

『 かにかくに祭 』  祇園白川
   11月8日 ( 火 )
   「 かにかくに 」 と刻まれた歌碑の前で、
   祇園をこよなく愛した明治の歌人吉井勇を偲ぶ集い。
   多くの芸舞妓が参列して献花などが行われる。

< 参考コラム : 祇園かにかくに / 白川夜船の高いびき


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2005年11月02日

祇園東 「 祇園をどり 」

11.02 鴨川をどり 祇園東 『 祇園をどり 』

  京都には五つの花街があり、毎年決まった時期に、それぞれの花街の芸舞妓が技芸を披露して華やかな 「 踊り 」 を興行しています。

  祇園甲部の 「 都をどり 」宮川町の 「 京おどり 」先斗町の 「 鴨川をどり 」上七軒の 「 北野をどり 」 が 4〜5月の華やかな春に催され、また、祇園東の 「 祇園をどり 」 が秋の紅葉の季節に円熟した伎芸を披露し、古都の秋を彩ります。

  祇園東の 「 祇園をどり 」 ( 11月3〜12日 ) は今年で48回目を迎え、弁慶が川の鐘を釣り上げる 「 釣鐘弁慶 」 などの演目が芸舞妓によって披露されます。

『 祇園をどり 』  祇園会館
   11月3〜12日

※写真は 5月に先斗町で催される 「 鴨川をどり 」


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2005年10月09日

旅行安全の神様

10.08 粟田神社参道 『 旅行安全の神様 』

  青蓮院の北、粟田 ( あわた ) の地に鎮座する 『 粟田神社 』 は、貞観18 ( 876 ) 年、疫病 ( えきびょう : 流行病、伝染病のこと ) を封じる祈祷のために創建されたと伝えられる古い神社 です。

  粟田神社の前の細い道 は、その昔、多くの旅人が往来した主要街道 東海道 でした。

  京を旅立つ旅人の多くが粟田神社で旅の安全を祈願した ことから、現在でも 旅行安全の神様 として信仰されています。

  現在、街道としての役目を終えた東海道は、静かにその余生を過ごしています

『 粟田神社大祭 』  粟田神社
   10月9日、10日、15日
   10日の神幸祭は、祇園祭山鉾の原型とされる剣鉾が町内を練り歩く。

< 地図 : 旧東海道 > < 参考コラム : 祇園祭の原型 「 剣鉾 」



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2005年09月27日

熾盛の光明

09.27 青蓮院門跡 『 熾盛の光明 』

  悟りを開き、仏教上の最高の状態にある仏様 「 如来 」 ( にょらい ) と言います。

  青蓮院御本尊 『 熾盛光如来 』 ( しじょうこうにょらい ) は、仏身の毛孔 ( けあな ) から 熾盛 ( しじょう : 火が燃えあがるように勢いの盛んなこと ) の光明を放ち、一切の災難を除くといわれる仏様 です。

  熾盛光如来を御本尊とする寺院は、日本で青蓮院が唯一 であり、その御本尊は約 2m四方の掛け軸に画かれた曼荼羅となっています ( 桃山時代作 )。

  青蓮院は 平安後期の創建以来、初の御本尊御開帳 を迎えようとしています。


『 光の曼荼羅 熾盛光如来 御開帳 』  青蓮院門跡
   9月28日 ( 水 ) 〜 12月28日 ( 水 )
   皇族が代々住職を務めた格式の高い皇室ゆかりの名刹、青蓮院。
   御本尊 「 熾盛光如来 」 が初の御開帳となります。
   特別公開期間中は、茶会やコンサート、ライトアップなどのイベントも。

< 参考コラム : 夜半に嵐の・・・ / 青蓮院門跡


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2005年09月25日

縁切り縁結び

09.25 安井金比羅宮 『 縁切り縁結び 』

  祇園に程近いことから花街の芸舞妓さんも参拝に訪れる 『 安井金毘羅宮 』 ( やすいこんぴらぐう ) は、「 悪い縁を切り、良縁を結ぶ 」 という御利益があります。

  本殿脇には高さ 1.5m、幅 3mの巨石 「 縁切り縁結び碑 ( いし ) があり、身代わりとなる形代 ( かたしろ ) に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結び、最後に形代を碑に貼って祈願します

  ちなみに、男女の縁 はもちろんのこと、病気煙草賭事 など、全ての悪縁を切って良縁を結ぶ御利益があります

09.25 縁切り縁結び碑『 櫛祭 』 ( くしまつり )  安井金比羅宮
   9月26日 ( 月 )
   女性の髪を美しく飾る櫛。
   古くて傷んだ櫛に感謝して供養する祭です。
   櫛供養のあと、舞妓さんをはじめとする女性
   が各時代の髪型に髪を結い、衣装をまとった
   時代風俗行列が祇園を練り歩きます。


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2005年08月12日

夏の風物詩 東大谷万灯会

08.12 東大谷 『 夏の風物詩 東大谷万灯会 』

 
東山大谷の地に、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人 ( しんらんしょうにん ) の墓所 『 大谷祖廟 』 ( おおたにそびょう : 通称、東大谷 ) があります。

  寛文10 ( 1670 ) 年に造営された現在の祖廟には、親鸞聖人の遺骨 とともに、東本願寺の歴代門主 門信徒の遺骨 が納められています。

08.12 万灯会  隣接する 東大谷墓地 には 数万基にのぼる門信徒の墓 があり、夏のお盆に先祖の供養を行なう 『 東大谷万灯会 』 ( 8月14日 〜 16日 ) では、献灯された約 1万の提灯に火が灯り、墓地は幻想的な光景 に包まれます。

  五山送り火と並ぶ、京都の夏の風物詩です。

< 地図 : 東大谷


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2005年08月01日

よろしゅうお頼み申します

08.01 祇園 『 よろしゅうお頼み申します 』

  旧暦 8月1日 『 八朔 』 ( はっさく : 八月朔日 ( = 1日 ) の略 ) と言います。

  昔、八朔の頃は 早稲の穂が実る初秋 にあたり、農家では 豊作を祈願 するとともに、初穂を恩人に贈って秋の実りを祝いました。

  この風習は次第に一般化して、「 田の実 」「 頼み 」 に通じることから、芸事商売 でお世話になっている師匠や出入り先に贈り物をして、日頃の恩に感謝する伝統行事 『 八朔 』 となりました。

  新暦の八朔夏の風物詩 となり、京の花街 祗園 では、黒紋付の芸舞妓衆が芸事のお師匠さんやお茶屋さんへ挨拶に回ります。

     おめでとうさんどす
       よろしゅうお頼み申します

  八朔の祗園は、あちらこちらから涼やかな挨拶 が聞こえてきます。


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2005年07月28日

400年前の忘れ物

07.28 忘れ傘 『 400年前の忘れ物 』

  大伽藍を誇る 浄土宗総本山 『 知恩院 』 ( ちおんいん ) は、我が国屈指の大寺院 です。

  大きな 御影堂 ( みえいどう ) の軒裏には、400年前から置かれたまま になっている、小さな忘れ物 があります。

  徳川家の造営大工の棟梁と伝えられる
左甚五郎 」 ( ひだりじんごろう : 実体は不明 ) が、江戸時代の知恩院再建時に置いたとされる 番傘 で、通称 『 左甚五郎の忘れ傘 』 と呼ばれています。

  この忘れ傘は、火災からお堂を守る願い を込めて 水に縁のある傘 を置いたとも、魔除け ( 雨 = 難を除ける傘 ) のために置いたとも伝えられています。

07.28 大原女家 忘れ傘07.28 和菓子 忘れ傘






※ 上の写真 : 御影堂の軒先、円内に見えるのが忘れ傘。
※ 下の写真 : 大原女家の和菓子 「 わすれ傘 」 で、傘の形をした最中。

< 参考コラム : 知恩院 / 専修念仏 / 二条城の出城 / 世の習い

< 地図 : 知恩院


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2005年07月06日

祇園祭 山鉾の原形

07.06 粟田の剣鉾 『 祇園祭 山鉾の原型 』

  東海道の京の入口に鎮座する 粟田神社 ( あわたじんじゃ ) は、平安時代に 疫除けを祈願 して創建された神社です。

  粟田神社に伝わる 『 剣鉾 』 ( けんほこ ) は、長さ 7〜8m の柄の先に 「 剣 」 が付いた、重さ 40〜60kg にも及ぶ祭具で、一千年の歴史を持つ 「 粟田祭 」 ( 毎年10月 ) において 神様が通る道筋を祓い清め、悪霊を鎮める祭具 とされています。

  一人で持ち上げて 剣先をしならせながら 鈴を鳴らして練り歩く という、古い祭りの形 を今に伝えています。

  粟田の剣鉾 祇園祭の山鉾の原型 とされており、室町時代、応仁の乱で祇園祭が中断した際、粟田祭をもって祇園祭の代わり とした歴史もあります。

< 地図 : 粟田神社


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2005年06月23日

夢の楼閣 「 祇園閣 」

                    夢の楼閣 『 祇園閣 』
06.23 大雲院 祇園閣
  豪華絢爛な
    黄金の輝きを放つ 「 金閣 」
  侘び寂びを重んじる
    簡素古淡の佇まい 「 銀閣 」
  祇園から八坂一帯を
    眼下に一望とする 「 銅閣 」

  「 銅閣 」 とは、明治から大正時代にかけて活躍した 大倉財閥の創始者 「 大倉喜八郎 」 ( おおくらきはちろう ) が、昭和2年に 別荘内に建てた高閣 ( 展望台 ) で、祇園祭の山鉾を模した姿 より 『 祇園閣 』 ( ぎおんかく ) と呼ばれています。

  金閣、銀閣に次ぐ 「 銅閣 」 を夢見た大倉喜八郎でしたが、完成の2ヶ月前、楼上からの素晴らしい眺望を見ることなく、この世を去りました。

  現在、祇園閣大雲院 の境内にあり、高さ 36m の楼上からは眼下に 祇園の町並み が広がり、遠くは北から西へ連なる峰々を一望 することができます。 同寺に眠る 石川五右衛門 も、墓の中から思わず 「 絶景かな、絶景かな! 」 と言ったとか ・・・?!


『 大雲院 』 ( だいうんいん )
  織田信長、信忠 父子の菩提を弔う ために創建された寺院。 信忠の法名より寺号を 『 大雲院 』 とし、境内には 織田信長、信忠の墓 がある。 大泥棒 石川五右衛門の墓 があることでも知られている。

< 地図 : 大雲院 > < 参考コラム : 世に盗人の種は尽きまじ


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2005年06月13日

洛中に桔梗の花が三日咲き

06.13 明智光秀首塚 『 洛中に桔梗の花が三日咲き 』

  織田信長、本能寺に死す!

  この一報を中国攻め ( 対、毛利氏 ) の最中に知った 羽柴秀吉 ( はしばひでよし : 後の 豊臣秀吉 ) は、急ぎ毛利側と和議を結び、主君の仇 「 明智光秀 」 を討つために一路京へ兵を引き返しました。

  本能寺の変から 11日後の 6月13日 ( 今日 )、京と大坂の境 「 大山崎 」 ( 天王山の麓 ) にて 羽柴軍 と 明智軍 が天下を分ける戦い となりました。

  戦いは兵の数で圧倒する 羽柴軍が圧勝 し、光秀は居城の近江坂本へ敗走する途中、小栗栖 ( おぐるす : 京都市山科区 ) の竹薮の中で武者狩りに討たれて命を落としました。

  光秀の首は羽柴軍に見つからないよう密かに光秀の家来が持ち去り、京の三条白川付近に埋めた ( 現、明智光秀首塚 ) と伝えられています。

   洛中に 桔梗の花が 三日咲き

  明智家の桔梗 ( ききょう ) の家紋が天下に咲いた のは わずか 11日間、まさに 『 三日天下 』 に終わりました。

  しかし、謀反の大罪を犯した敗者 「 明智光秀 」 の死に対しても、当時の京の人々は 「 明智はん、ようおきばりやしたなあ 」 と温かい言葉を贈ったと伝えられ、今も光秀の首塚には京の人々によって桔梗の花が絶えることなく咲きつづけている のです。

< 地図 : 明智光秀首塚 / 小栗栖の明智薮 ( 石碑あり )


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2005年06月07日

満つれば欠くる、世の習い

06.07 知恩院御影堂 『 満つれば欠くる、世の習い 』

  満つれば欠くる、世の習い

  これは 「 ある状態が最高や完成に達すると、次は必ず減少や衰退に転じてしまう 」 という、いつの時代も変わることのない 「 世の常 」 を表した格言です。

  権力の絶頂 にあった 平家一族 が、平清盛の死から わずか 4年後の壇ノ浦で滅んだ 「 盛者必衰 」 の歴史 は、まさに 格言通り だったのです。

  京都の歴史ある建築物に目を転じれば、この格言を戒めや教えとして反映 した物が見られます。
06.07 屋根上の瓦
  例えば、知恩院の御影堂の屋根の上 には 二枚の瓦 が取り残されたように置かれており、これは建物を 完成の一歩手前 の状態で止めることによって、浄土宗や知恩院が今後益々発展することを願う ものなのです。

< 地図 : 知恩院


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2005年06月05日

茶の開祖 禅僧栄西

06.05 夜の建仁寺 『 茶の開祖 禅僧栄西 』

 
座禅を中心とする修業
によって、心の本性を明らかにして悟りを得る 『 禅宗 』 ( ぜんしゅう )。

  日本には 「 臨済宗 」 ( りんざいしゅう )、「 曹洞宗 」 ( そうどうしゅう )、「 黄檗宗 」 ( おうばくしゅう ) の三禅宗があり、特に 京都は臨済宗の大寺院が数多く存在しています。

  中国より日本へ臨済宗を伝えた僧 「 栄西 」 ( えいさい ) は、建仁2 ( 1202 ) 年、京都最初の禅寺 『 建仁寺 』 ( けんにんじ ) を建立し、中世における 京都の禅宗隆盛の礎を築きました。

  また 栄西は、中国で学んだ 茶の知識 ( 茶の効用 や 栽培方法 ) を日本に伝え、晩年には 日本最初の茶の本 とされる 『 喫茶養生記 』 ( きっさようじょうき ) を記すなど、茶の文化に大きく貢献したことから 『 茶の開祖 』 と言われています。

  数々の功績を後世に残した栄西禅師は、建保3 ( 1215 ) 年 6月5日 ( 今日 )、75歳で永眠しています。

< 地図 : 建仁寺 > < 参考コラム : 坐禅


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2005年05月09日

世に盗人の種は尽きまじ

05.09 夕暮れ 『 世に盗人の種は尽きまじ 』

 
大泥棒 「 石川五右衛門 」
( いしかわごえもん ) の史実を記した記録は少なく、その生涯は多くの謎に包まれています。

  しかし、その謎こそが後世の人々の興味を引き、歌舞伎や浄瑠璃の演目の中で 「 義賊 」 ( ぎぞく : 金持ちから金品を奪い、困っている者に分け与える盗賊 ) として演出され、大人気 となりました。

  石川や 浜の真砂は尽きるとも
         世に盗人の種は尽きまじ
              −石川五右衛門 辞世の句−

  石川五右衛門の墓「 大雲院 」 ( だいうんいん ) にあり、昔から 石川五右衛門の運と人気にあやかろうと 墓石を欠いて持ち帰る人が後を絶たず、今ではすっかり墓石の角が丸くなってしまいました。

※大雲院は非公開です。

< 地図 : 大雲院


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2005年04月18日

夜半に嵐の・・・

04.18 青蓮院門跡 『 夜半に嵐の・・・ 』

 
明日ありと 思ふ心の あだ桜

     夜半に嵐の 吹かぬものかは

  明日があると思う心があだとなって、満開の桜が
   夜の嵐で儚く ( はかなく ) 散ってしまうように、
    人生の明日もまた儚いものです・・・。


  平安末期、まだ幼い一人の小僧『 青蓮院 』 ( しょうれんいん ) の 慈円大僧正 ( じえんだいそうじょう ) のもとを訪ね、出家を願い出ました。

  しかし、大僧正は若さゆえに出家をしばし待つように言いましたが、小僧は 『 明日ありと 〜 』 と その時の心境を歌を詠み、心を動かされた大僧正は出家を許しました。

 
実は この小僧こそ、のちに浄土真宗を開く ことになる 『 親鸞聖人 』 ( しんらんしょうにん ) だったのです。

  親鸞は青蓮院で出家 したのち、比叡山で厳しい修行を行い、再び野に下りると 「 法垂窟 」 ( ほうたるのいわや ) の 『 法然上人 』 ( ほうねんしょうにん ) を訪ねて 浄土の教えを受け、ともに 民衆の救済に力を注いだ のでした。

< 参考コラム : 法垂窟 / 青蓮院 >


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