キャノンの社長もオススメの『日出処の天子』だが、いよいよ今日は私なりに感想を述べてみたい。この物語はあらすじだけをなぞると、奇をてらったトンでも話かと思うが、読み始めるといつしかあの独特の雰囲気にどっぷり飲み込まれてしまう。1/3を過ぎた頃には、すっかりはまってしまって奇抜な話に何の違和感も抱かなくなる。

絵は、細~い繊細な線で描かれている。手の動きがなんともなまめかしい。人物以外はあまり詳しく描かれておらず全体的に画面が白い。(テレプシよりはましだが)物語と絵の雰囲気が絶妙にマッチした作品だと思う。
人物設定、テーマ設定、物語構成も緻密で素晴らしいが、何より先生の個性がストレートに出ているところが好きだ。並々ならぬ”思い入れ”と”こだわり”が感じられる。

見るものを独特な世界感に誘い酔わせ、特別な印象を与えることができてこそアートだ。そういう意味で『日出処の天子』は”アート”だと思う。『テレプシコーラ』も大変よかったが、総合的に見て私はこの作品に軍配を上げたい。

物語は大和朝廷と豪族の政治策謀を背景に、不思議な力を持つ美貌の天才厩戸王子が摂政になるまでが描かれている。孤独な天才が恋に悩むという少女漫画の典型を基本にしながら、母子間の愛憎、執政への野望を大筋におき、読者に、愛とは何か、仏とは何か、孤独とは何かなど、多くの問いかけがなされる。読むほどに、それらが浮き出てきて考えさせられる。最後半は哲学的ですらあり、味わい深い。

中学生の頃、初めて読んだ頃、厩戸王子に大いに感情移入し、少女漫画的な部分と美しい絵が気に入った。

しかし、どこかひっかかるのだ。

このセリフの意味がわからない。
どういう意味だろう。
また読み返す。
すると「あれ?ここもどうして?」とまた読み返す。

そうして何度も読み返すうちに、奥にある先生の問いかけがぼんやり見えてくる。そこが、この作品の主人公厩戸王子の魅力に勝るとも劣らないもう一つの魅力だ。だからこそこの作品は年月を経ても色あせないのだろう。読み進めるほどに「え~!!そ、そんな展開!?」と、どんどん驚きの展開が繰り広げられる。最後は「は~」と、哀しさと虚脱感の入り混じったなんともいえない読後感に襲われる。一度読んだら忘れられない。

誰かが言っていたけど、
「山岸作品は低温火傷する」 
この表現、あまりにぴったりで大変気に入っている。

山岸先生の思い入れが炸裂しているシーンは、夜刀の池の王子の告白場面だ。絵・表現共に際立っており、先生のこの作品に懸けた思いが凝縮しているようだ。ある種哲学的ですらある。私的には、王子が毛人に告白する直前の王子の絵2コマ(斜め後ろからの)の緊張感がたまらない(く~っ・笑)

毛人は「あなたの言う愛とは、相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを意味しているのです。私を愛しているといいながら、その実自分を愛しているのです。その思いから抜け出さぬ限り人は孤独から逃れられないのです。」と王子を拒絶した。

哀しいかな、これが王子の真実であり、先生が最も描きたかったことではないだろうか。

しかし、王子にしてみたら、愛の告白をするも「それは間違っている。あなたはあなた自身を愛している」といわれ、自分の全身全霊の愛までも勘違いだと否定されたわけだ。王子はそういう愛し方しかできないわけだから本当に救われない。

恋に破れ孤独に沈む王子は、夢殿にこもり、仏の姿を垣間見る。
「仏は自分で自分を救えないものの前に現れるの。仏の姿を見ざるをえない、ということが”救い”なんだろうか」と王子は独りごちる。
10代の頃、初めて「仏教というか、宗教って何?」と考えさせられた。。。宗教とは「救いを求めずにいられない」ほど苦しい状況にいた人が、どうにか苦しみから逃れるために作り上げた叡智なのかな、と今は思う。 
     
その後、失意の王子は、道で偶然出会った気狂いの少女を娶る。哀しいことにその少女は、自分を愛してくれなかった母に似ていた。こうして王子は、得られなかった母の愛の代用品を見つけたのだ。

王子が真に欲しかったのは、母からの愛・・・う~ん、それは原点としてか。本質的には、自分をまるごと受け入れてくれる愛情と言った方がいいかな。
(馬屋古女王(王子の末娘)が言った「誰も私を愛してくれなかった」という言葉は、王子の心の叫びに聞こえた。)

王子は、後半、母についてはあえて目を向けないようにしていた。「よそう、彼女(母)のことを考えるのは」という王子のセリフがあったのを思い出した。憎んでいるつもりなのに本当は愛情を求めていたなんて、気づきたくないということか。

今回再読し、「王子の孤独はあの結末で少しは癒えたかもしれない、少しは」と思えた。今までは、毛人の側に立ち、「あの少女とともに黄泉にも似た道を歩まれるのですね」の言葉に同調し涙していたが、よくよく考えれば、王子にとっては生涯自分を純粋に慕ってくれる相手を見つけたのだから、全部ではないにしろ、ある部分では慰められたのかもしれない。。

この気狂いの妻もまた、王子同様、他人から奇異の目で見られて誰からも愛されず生きてきた。王子は「同類あい哀れむ」、いや、「同類哀れむ」ことで自分をも慰めているようにも見える。これが王子の本能的な自己防衛なのだと思えば、淡水の「あの方が望むのになんの文句があるのか」のセリフにも妙にうなずけてしまう。

また、王子は将来の破滅を予感していた。気狂いの妻と共に自滅の道筋をつくっていくというのは、なんとも恐ろしい決心だ。
「破滅するなら、この妻と共に・・・」
王子はどこか自嘲しつつ、しかし、どこかで満たされ納得して破滅に向かっていったのか。
そして、王子の跡取り山背もまた同様に、「滅びるなら、共に・・・」と言って王子と瓜二つの腹違いの末妹、馬屋古女王と関係を持ち、破滅に向かっていった。

王子の心の闇は、次の世代にも受け継がれてしまった。なんという悲劇だろうか。

馬屋古女王の最後(つまり全編通しての最後)のページは最高に圧巻。
点描で描かれた美しい日没の絵と「何と鮮らかな日没」の短いセリフに、厩戸王子の生涯のイメージが凝縮されているのだ。ゾワゾワっと鳥肌が立った。

物語の9割方までは王子に目を奪われ、王子主体に読み進み、どんどん同調していく。そして夜刀の池のシーンで、突然客観的な視点が読者に投げかけられ、王子の独りよがりないびつさが浮き出てくる。別の意味で王子の悲哀が浮き立ってくる。そしてあの言いようもない、哀しいラストに打ちのめされるのだ。はああ・・・。

また、絵にも同様の印象を受ける。特に後半、厩戸王子のアップは女性のごとく大変美しいのだが、引き気味の全身の姿はなんともいえないいびつさというか違和感を感じる。
これは物語の構造とオーバーラップしていると思うのだが。

もう一つ、気になることは、「女は結局男なら誰でもいいのだ」と、女の娼婦性を問うテーマが執拗に出てくることだ。

「貞淑な母親づらをしておきながら、中身は汚らわしいただの女ではないか」
「か弱さの仮面をかぶり男に媚を売る”女”が大嫌いだ」 
「女など不気味なものよ、男なら誰でもいいのだ、大王だろうと下郎だろうと」
というようなセリフや、
後宮に嫁いだ女が男にさらわれ、その男とよろしくやっていたとか、刀自古は父のわからない子を次々生んだエピソードや、額田部女王が穴穂部王子に言い寄られるシーンや馬屋古女王の奔放な性とか・・・。

王子がそのように女を嫌悪するのはわかる。王子は不思議な力ゆえに母に疎まれてしまった。王子はこれを受け入れ難く、母含め女性を全否定することで心のバランスを取り戻し自己肯定しようとした。否定する理由を娼婦性にすり替えればなお自己肯定しやすかったのだろう。

しかしまあ、この類のエピソードがあまりに執拗に出てくるので、王子の心の闇というより、これはもしかして先生の主張で、こういう女の性に嫌悪感を抱いておられるのだろうか・・・とちょっと勘ぐってしまった。。。

そして、王子はこんなに女性を嫌悪しているにかかわらず、前述の告白のシーンで「女であったら私を選んでくれていたのか」と毛人に聞く。

私はここで「え?それを聞いてしまう?」
びっくりして王子の顔をまじまじ見つめてしまった。

あんなに女を嫌悪しているはずなのに、「自分が女であったら」と聞くなんて、、、。プライドを捨て毛人に哀願している場面だとはいえ、これには少しひっかかった。「女を”嫌悪”している=女性として生まれることができた女に”嫉妬”している」という意味でもあるのだろうか。敢えてつっこませてもらうが、失恋の痛手を埋めるべく愛してもいない淡水に身を任せるのは、王子の嫌悪する”女”と同じことではないのか?
女に生まれていれば、どんな女にも負けない美貌がある、毛人にも愛されたかもしれない。しかし自分は男に生まれてしまった。ずる賢くか弱い仮面をかぶり、したたかに生きる女が妬ましく憎いということなのだろうか。そういえば、自分と大姫を重ねて自嘲しているシーンもあったな・・・。

う~ん、でもやっぱり王子の心の闇の深部には、母への愛憎が渦巻いてそうだ。
「あなたが元凶だ。あなたが王子を愛してくれていたら今の王子はああなりはしなかった (by 毛人)」

そして、王子の”業”のようなものが、まとめて馬屋古女王(王子の末娘)に現れ出てしまったのだろうか。このあたりは、余り多く描かれていないのでよくわからないが、私はそう解釈した。

厩戸王子。守屋討伐ゆかりの奈良・信貴山(毘沙門天を彫り戦勝祈願した山)の記事はこちら⇒ 

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