研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2011年07月

思考停止をもたらすもの

研究者の仕事において「考えること」は非常に重要です。しかし、うまく「考える」ことはそれほど容易なことではありません。最近、「思考停止」について書かれた記事[文献1、文献2]を目にしましたので、それをヒントに、どんな場合に思考が停止し、うまく考えられなくなるのかを考えてみたいと思います。

まず、簡単に記事の内容をまとめます。沼上氏の記事は、九州電力のやらせメール問題を題材に、なぜ優秀なはずの社員たちが思考停止状態に陥っているかのようなずさんな計画・実行をしてしまったのかが論じられています。沼上氏の記事は一般論としての分析ですが、このような思考停止が起こる原因として、組織が大きくなることでトップと現場との距離感が大きくなり、トップが安易に口にした無理難題や思いつきに従うにつれ、部下はそれが仕事だと思うようになってしまって論理的思考を停止し、トップの指示を無反省に実行しようとする傾向を指摘しています[文献1]。

また、河合氏は、もっともらしく、皆が納得しやすく、不安を打ち消してくれるような「思考停止ワード」を持ちだすことによって、思考停止が起きやすくなると述べています。何か問題があるときに、その原因としてもっともらしい説明(「思考停止ワード」)を挙げ、それでなんとなく納得してしまって、本来検討すべき問題の本質を見逃し、おざなりな解決策で問題に対処した気になってしまう、ということが例として挙げられています[文献2]。

考えるべき時に考えられなくなってしまう、こうした思考停止はもちろん好ましいことではないでしょう。しかし、「思考する」には時間もかかり、労力もかかりますので、思考を停止してしまえば、それに必要な時間と労力を別のこと、たとえば「行動」に使うことができるようになり、限られた資源を有効に使う可能性が生まれます。つまり、思考停止は仕事の効率向上というメリットをもたらすために、ついそれを受け入れてしまう、という側面があるように思います。

すなわち、方針が明確で行動が求められる場合には思考停止にはメリットがあり、方針が不明確だったり誤りの可能性がある場合には思考停止は危険である、と言えるでしょう。そうすると本当に問題なのは、思考が必要な場面で思考停止が起こってしまうこと、ということになります。おそらく、最近は思考が必要な場面が増えてきたにもかかわらず、過去に思考停止が有効だった時代の習慣や、思考停止によって楽ができるという気持ちによって思考停止を容認してしまうことが問題の根源ではないでしょうか。

そもそも人間はあらゆることについて熟考を重ねた上で行動に移すことは不可能です。時間的な制約もありますし、考えても答えが出ない問題もあるでしょう。ということは、どんな問題についても、あるところで思考を止めて行動に移しているはずです(ここでは、考えるのみで行動に移す必要のない問題は除きます)。つまり、ヒューリスティクス(簡便な意思決定)を用いていることになります。そこで問題になるのが思考停止(ないしは省略)の次の2つのパターンです。
・まだ考える余地はあると思うが、行動するためにやむなく思考を停止、省略する。

・面倒だから、考えても無駄だから、余裕がないから、思考を停止、省略して行動だけ行なう。

これを言いかえると、前者は、思考をすることと行動をすることを比較考慮した上での思考停止であるのに対し、後者は思考を最初からあきらめていると言えるでしょう。どちらも簡便な意思決定には違いないのですが、後者はいわば故意に思考を放棄しているわけですから、より危うい根拠にもとづく意思決定であるわけで、より大きな問題をもたらす可能性が高いと考えられます。

では、具体的にどのようなマネジメントが後者の思考停止をもたらす可能性があるのでしょうか。思考停止には危うい側面があるにもかかわらず、人がそれを意外に簡単に容認してしまうのは、過去に思考停止によってもたらされたメリットの記憶があるためでしょう。つまり過去に受けたマネジメントの記憶が、思考停止容認の基礎になっていると考えられます。以下に、上記の引用例も含めていくつかのケースを考えてみます。

・幹部のご無体な命令

・ご無体な命令への無批判な服従

・問題の本質をごまかす思考停止ワード

・過重な業務負荷(効率優先)

・過度の行動重視

・権威への盲従

・集団や個人への忠誠、同調の重視

・決断のスピード重視

・問題の単純化

・マニュアル、標準化重視

・多様性に対する不寛容

・考える習慣の欠如、軽視

・意欲低下、あきらめ、無力感

上記の例を見ると、全体的に従業員を一種の「機械」として扱う人間観に基づいたものが多いと言えるでしょう。確かにそれが有効に作用する場合はありますし、こうしたマネジメントに基づく思考停止は本人にとっても楽な場合もあるでしょう。ですからこうしたマネジメントを受けた経験が思考停止につながった可能性は十分にあると思います。

さらに、上記の例で興味深いのは「選択肢を狭くする」ことが強く関わっているように思われる点です。実質的に選択の余地をなくしてしまえば考える必要はなくなり、それが習慣化すれば、考えなくなってしまっても不思議ではないと思われます。確かに、戦略立案や行動を決定するためには選択肢の絞り込みは重要です。しかし、絞り込みを行なうことが至上命題となってしまってその過程で無理な選択を行なったり、不合理なバイアスがかかったり、一旦決めたことを見直す機会が失われてしまうとすれば、その選択自体の非合理性だけでなく、選択の余地を与えないことで思考停止が起こるという問題も発生してしまうと思われます。「選択と集中」という流行り言葉の裏にはこのような危険が隠されているのかもしれません。

思考停止の原因に絞り込みが関係していると捉えるならば、これは部下の問題だけではなく、経営層の問題でもあることになります。経営の効率、決断のスピードを上げるために、無理な単純化をしていないでしょうか。わかりやすい資料を作るために、重要なことを切り捨てていないでしょうか。おそらくこうした過度の絞り込みは経営層をも思考停止状態にしてしまうと思います。もちろん、物事を単純に捉えようとすることは重要ですし、経営に対する効果も大きいでしょう。しかし、目指すべきなのは、「本質を捉えた単純化」であって、無理な単純化ではないはずです。単純化や絞り込みの裏側には、思考停止の危険があることは常に注意すべきでしょう。

とは言っても、一面では思考停止を促すようなしっかりしたマニュアルを持ちながら、思考停止に陥らないよう、社員をうまくコントロールしている組織もあるようです。例えば、震災時の東京ディズニーランド(TDL)の臨機応変の対応などはまさに思考停止とは正反対の対応と言えるでしょう[文献3]。私見ですが、マニュアルがあってもそれが思考停止の原因にならないようにするためには、自分で考えたことを行動に移してもよいという裁量権を社員に与える(その裏付けとしてTDLでは「行動規準」が定められているそうですが)ことが重要なように思います。つまりは、マニュアルによって効率化と品質維持を図るとともに、マニュアルを超える裁量権を与えることで考えることを奨励し、考える意欲を持たせる仕組みがある、と言ってもよいように思います。

また、業務の負荷が大きく、行動重視の環境であっても多くの改善を生み出している職場の例も多いと思います。確かに考えるためにはある程度の余裕は必要ですが、余裕があれば考えるようになる、というものではありません。仕事中であっても、仕事以外のことを考えてしまう場合もありますし、仕事のことであっても不満ばかり考えて仕事にプラスになることは考えられない、という場合もあります。つまり、仕事のことを前向きに考えることができなければそれは思考停止と同じと言えるでしょう。

ということは、思考停止の問題の本質は、「考える習慣の欠如、軽視」と「意欲低下、あきらめ、無力感」ということになるのではないでしょうか。効率重視、行動優先、過度の絞り込みなど、考えることを阻害する要因を繰り返すことで考える意欲が失われてしまった時、致命的な思考停止が発生してしまうように思います。

おそらく、高度成長期であれば、考えることより行動することの方が重要だったと言えるでしょう。これからの時代ももちろんそういう分野はあると思います。しかし、イノベーションの方法も含めて、従来と同じやり方が通用しなくなっている分野も増えているのではないでしょうか。そうした分野では「考えること」はもっと大切にされなければならないと思います。思考停止をうまく防ぎ、考える意欲を維持するマネジメントが求められているはずです。

 

文献1:沼上幹、「やらせメール ご無体な命令が思考を止める」、朝日新聞、2011.7.15.

文献2:河合薫、「部下も、上司も、み~んな“思考停止症候群”?!」、日経ビジネスONLINE2011.2.24.

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110222/218549/?P=1

文献3:武田斉紀、「3.11もブレなかった東京ディズニーランドの優先順位」、日経ビジネスONLINE2011.5.16.

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110512/219929/

 

技術者が問題社員になるとき

技術者は扱いにくい、ということはしばしば言われることのように思います。なぜそのように言われるのか、実際はどうか、どう対処すべきか、などについて今回は考えてみたいと思います。

Paul Glen
著「Leading Geeks」[文献1]にはギーク(Geek)と呼ばれる高度な技術知識を持つ従業員の管理・指導についての様々な示唆が述べられています。Glen氏は、専門的技術者はこれからの企業活動に不可欠であるとの立場から、ギークの能力をいかにうまく活用するかが重要と述べ、ギークの性格・行動の特徴、仕事の特徴、評価、管理指導のあり方をまとめています。おそらく欧米のギークを念頭に書かれているとは思いますが、Glen氏自身自らをギークと呼んでいるだけのことはあってギークに対する理解も深く、かなり本質を突いた指摘が多いように思いました。以下、簡単にその内容をまとめてみます。

ギークの性格・行動の特徴としては以下の点を指摘しています。

・論理性と理屈を大切に考え、正しく賢明な選択をするために論理的に考えようとする。従って、組織のミッション、ビジョン、価値、自分の役割などの点で考え方の筋道がしっかり通っていることが重要。

・問題点を探し出し、それを解決するというアプローチを好む。

・子供のような物の見方(強い好奇心、遊び心、未発達な社会能力、自己認識欠如)をする場合がある。これは、人生の早い段階で成功したことが原因である場合がある。

・好奇心旺盛、パズル(おそらく、複雑な問題、という意味と思われる)好き。

・コミュニケーションが得意でない。相手の反応に気付かず、人間関係の対立に繋がる行動や相手に失礼な態度をとってしまうこともある。直接的で無愛想、無神経な表現をすることがある。

・忠誠心は主にテクノロジーと彼らの情熱に向けられ、企業には向けられない。上層部から強いられる決定を嫌う。

・お金が主なモチベーション要因になることはないが、公正な報酬を得ていると感じたい。

・多くは内向的で1人で仕事をすることを好む傾向がある。しかし、チームに加わって学び、複雑な問題に取り組み、仲間から評価されたいとも思っている。

・ギークの仕事は非定形的であるため、通常の仕事のルールや習慣を軽視することがある。

ギークの仕事の特徴

・曖昧な部分、不安要素を持つ。

・判断したり、熟考したりする時間を長く必要とする場合がある。

・予算見積もりが難しい(仕事が明確になりにくいため)。

・ギークの生産性を評価することが難しい(仕事の難度が高いため)。

ギークを管理指導するためのリーダーシップ

・内発的モチベーションを重視すべき。

・リーダーはアイデアや活動が問題なく流れるようサポートする。業務の責任を担った個人ではなくファシリテーターとしての役割が重要。

・外部に対し、ギークの代理としての役割をつとめ、外部からの衝撃、政治的動きからギークを守る。

・業務上の曖昧性(役割、職務、評価)、構造上の曖昧性(仕事の構成方法)、環境上の曖昧性(組織目的、価値)をコントロールし、ギークの仕事の、組織での位置づけ、意義づけがギークに理解されるように手助けをする。

「子供のような物の見方」に関しては、日本では欧米ほど顕著ではないように思いますが、概ね私の実感とも合っています。このような傾向は、技術者となる過程で受けた専門教育やその環境にも依っていると思いますし、仕事本来の不確実性の結果としてもたらされる側面、社内での役職の序列とは関わりなく自分の専門分野に関しては自分が第一人者であるという自覚、社内での評価とは別に社外の学会や業界内で評価されることなどが原因で形作られるものと理解できるでしょう。組織への忠誠心の低さについては、技術者に特有の二重のロイヤリティ(所属組織に対するロイヤリティと専門家社会に対するロイヤリティ)として古くから指摘されていること[例えば文献2p.33-42]に基づいていると考えることもできると思います。以上のような技術者、ギークの特性が生まれる原因はどうであれ、こうした傾向のため、Glen氏によれば「彼らは高度な知識を有するが故に、企業側からすると管理が難しいと思われがち」になってしまう、と言うことでしょう。

しかし、このような技術者(ギーク)の特徴を認識した上でその能力を発揮させようとするマネジメントは残念ながらあまり一般的ではないように思われます。中には、会社の方針に従わない、組織の一員としての協調性に欠ける、態度が悪い、成果が挙がらない(課題の困難さは考慮されずに)、ルールを守らない(そのルールが理不尽であっても)、価値観が合わない(例えば金銭的インセンティブに冷淡)、として「問題社員」として扱われてしまったり、会社から評価されないことが原因で本当に意欲を失って「問題社員」になってしまう技術者もいるのではないでしょうか。

もちろん、「問題社員」にはさまざまな人がいます。しかし、「問題社員」の例としてギークの特徴を持った人が挙げられることがあるのも事実でしょう。例えば、Nicholsonは、専門知識が必要な複雑な仕事をやり遂げられるのに、成果の報告が遅く、手慣れた仕事以外はかたくなに拒否する、態度の悪い社員の例を挙げています[文献3p.65-99]。またDeLongVijayarahavanは「Bクラス社員」の例として、会社と異なる価値観(仕事と生活のバランスを重視する、プレッシャーを拒否するなど)を持つ人や「率直な人」の例を挙げています[文献3p.101-124]。また、Lorschと髙木は、傍流の仕事を担当させられたことによって評価されずに意欲を失ったマネジャーの例を挙げていますし[文献3p.125-148]、WaldroopButlerは有能にもかかわらず「悪癖」を持つ人物の例として、社内政治を無視してしまう実力主義の秀才、権威やしきたりに反射的に戦いを挑む人、自分の能力では手に負えないことをやろうとする人などを挙げ、それらの背景にある心理的な過程を分析しています[文献3p.149-182]。

こうしたある種の問題社員の特徴とギークの特徴とが一致しているということは、技術者特有の考え方や行動が多くの組織に受け入れられにくいということを示していると考えられます。ギーク自体に本当に問題がある場合もあるでしょうが、ギークには問題がなくとも、その考え方や行動が周囲にとっては「問題」と受け取られてしまうということもあると思います。いずれの場合でも、ギークは扱い方を誤れば問題社員に変身してしまう存在とも言えるのではないでしょうか。文献3ではこれらの「問題社員」への対処の方法が述べられていますが、問題社員を処理する、あるいは使いこなすことよりも、ギークが問題社員になってしまわないようにすることの方がより重要なのではないでしょうか。

専門技術の育成には時間がかかります。従って、そうした技術を持った人材は慎重に扱う必要があるでしょう。もちろん、技術者だからといって甘やかす必要はありません。しかし、単に言うことを聞かないから、価値観が違うから、といった理由や、マネジメントの失敗によって技術者を問題社員にしてしまうことがあるとすれば、その悪影響は長期に及ぶことになるでしょう。技術者の特質をよく理解し、画一的な管理を避けることが技術者のマネジメントの第一歩であるように思います。


文献1:鬼塚俊宏、先読み!人気のビジネス洋書、「卓越した知識・技術を持つ米国版「オタリーマン」を企業で活かす『ギークを指導すること~テクノロジーをもたらす従業員を管理・指導する方法~』 Leading Geeks : How to Manage and Lead People Who Deliver Technology――ポール・グレン著」、DIAMOND online2011.6.10

http://diamond.jp/articles/-/12644

登録すると要約のダウンロードもできます。このブログ記事は、この要約に基づいて書きました。

文献2:三崎秀央、「研究開発従事者のマネジメント」、中央経済社、2004.

文献3DIAMONDハーバードビジネスレビュー編集部編訳、「いかに『問題社員』を管理するか」、ダイヤモンド社、2005.


(参考)

原著:Paul Glen, “Leading Geeks: How to Manage and Lead the People Who Deliver Technology”, Jossey-Bass, 2003.

http://www.amazon.com/Leading-Geeks-Manage-Deliver-Technology/dp/0787961485

Paul Glen氏ホームページ

http://www.paulglen.com/index.html

Leading GeeksGlen氏がCEOのコンサルティング会社)

http://www.leadinggeeks.com/

Leading Geeksについてのプレゼン資料

http://www.slideshare.net/whatidiscover/leading-geeks-presentation
<2011.12.3現在上記資料は無くなってしまいました。>

 

 

科学技術と社会の関わり、これからのイノベーション

3.11震災は、科学技術と社会の関わり方について我々に大きな課題をつきつけたと言えるでしょう。科学技術の研究開発に携わってきた者として、やはり震災とその対応を巡る問題に背を向けるわけにはいかないと思います。反省すべきことは反省し、人々の考え方の変化を認識した上で、それをこれからに生かしていかなければならないと思います。

もちろんまだ進行中のことでもあり、技術にかかわる個別の問題についてコメントすることは私の能力を超えてもいますので、ここでは研究開発マネジメントの観点から重要と思われること、科学技術と社会の関わりについて認識を新たにしたことをまとめてみたいと思います。


今回の震災により露わになった問題のうち、次の点が特に重要であると思います。

1、科学技術の有効性に対する疑問と科学技術の危険性への認識が高まり、さらに科学技術と科学者に対する社会の信頼が大きく損なわれたこと

2、科学技術の採用の判断におけるリスクの重要性が増大したこと

3、そのような社会の変化に対応して、研究開発の進め方も見直す必要があると思われること

以下、これらの点について考えてみたいと思います。

1、科学技術の有効性に対する疑問と科学技術の危険性への認識が高まり、さらに科学技術と科学者に対する社会の信頼が大きく損なわれたことについては以下の点が重要と思われます。

1)純粋な科学技術レベルの問題として、起こりうる事象の想定が甘かったこと。そのため必要な対策が不十分だったこと。(科学技術自体の不完全さ、未熟さ)

2)科学技術と社会の関わりの問題として、上記の想定、対策に対して人為的に行なわれた判断に誤りや偏りがあったこと。(科学技術の使い方に対する判断、方針の誤り)

3)マネジメントの問題として、事故、被害後の対応の失敗により、被害拡大、二次被害を招いたこと。

これらは、それぞれ、以下の思い込みが裏切られたことに対応していると思われます。
1)科学と言うのは完全なもの

2)科学的な判断には人為的なバイアスがないはず

3)潜在的な危険がある科学技術を使うのであれば、それ相応の科学的な備え、訓練がなされているはず

もちろん、個別の技術に関する判断ミスや誤った判断に基づいて無理な決定を行なったことはもちろん反省しなければなりませんが、信頼を失う結果になっているのはそれだけが原因ではないと思います。科学を扱っている者にとっては、科学は完全なものではないこと、純粋に科学的な判断であっても諸説があって定説が確定していない場合もあること、さらに科学を利用する上では人為的な判断のバイアスが入り込む余地があることはわりと明らかなことなのですが、こうした認識は社会の多数の認識とは違っていたということ、つまり社会が科学に過剰な信頼を寄せていたことが問題のひとつのように思われます。もちろんこれはそのように考えておられる方を非難しているわけではなく、また開きなおりでもなく、科学技術者と社会一般の方の間に認識の隔たりがあったこと自体に対する認識が薄かったことを指摘しているつもりです(付け加えるなら、こうした思い込みを故意に悪用したとすればそれは批判されて然るべきことと思います)。危機対応のマネジメントの問題に関しては、具体的なことは部外者にはわからないことが多いのですが、政府の管理監督の下に置かれた技術であればもう少ししっかりした対応の準備がなされているだろうと思っていたこと自体、我々技術者にとってもそれが単なる希望的思いこみにしか過ぎなかったことが明らかになってしまったと言えると思います。

いずれも、科学を扱う者と、その外側にいる者との認識のミスマッチがあったことは否定できないでしょう。そしてその本質は、科学技術と社会のあり方に由来するもののようにも思われます。そこで、そうした問題を考察した、平川秀幸著「科学は誰のものか、社会の側から問い直す」[文献1]に基づいてそのミスマッチが生まれた原因を考えてみたいと思います。

平川氏は、「科学技術の進歩がそのまま幸せな未来に続く-そんな明るい希望を素朴に信じられた時代は過去となり、科学技術は『夢と希望』であると同時に(あるいはそれ以上に!)『社会問題』そのものでもある」[文献1p.10]と述べています。そして、「『科学技術が社会に影響し、社会を変える』というだけでなく、逆に『社会が科学技術に影響し、科学技術を変える』」[文献1p.126]という側面があり、「科学技術に社会のどんな-あるいは誰の-価値観やニーズ、利害が反映されているのか。そしてそれは、そもそも反映されるべきものなのかどうかを考える」[文献1p.133]ことが必要とも述べています。つまり、科学と社会との相互作用は存在するものであって、それが原因で社会問題が生まれる時代になってきている、としています。

言い換えれば、科学的事実や理論は社会とは切り離された中立なものだとしても、科学技術を人間が興味の対象として取り上げ、それを使って何かをしようとした時点で社会から影響を受け、社会に影響を与える存在になってしまうということでしょう。つまり、現実には科学は社会からの影響を受けるものであるにもかかわらず、科学を社会から隔離された絶対的なものと考えることによって、科学に絶対の信頼を置き、科学が社会から影響を受けることに対して科学の堕落のようなイメージを持ってしまう、ということがあるようにも思います。

こうした考え方の背景には、時代の変化も影響しているでしょう。おそらく、科学が社会に対して与える恩恵が大きく、科学によって発生する害が相対的に小さかった時代には、科学は「善いもの」と考えてよかったのだろうと思います。しかし、科学の恩恵がある程度行き渡ってしまうと、その科学技術から受ける恩恵が小さくなるか、恩恵を受ける範囲が小さくなってしまうことがありうるのではないでしょうか。ちょうど、Christensenイノベーションのジレンマとして指摘したような、ニーズを超えて科学技術が発展してしまうという面もあるかもしれません[文献2]。その結果、恩恵よりも悪影響の方が相対的に目立つケースが増え、科学技術自体あるいは科学と社会の相互作用によって社会問題が生まれやすくなっているということもあるのでしょう。そして、過去に科学技術が社会に恩恵を与えてきたという根強い認識が、過剰に好意的でありながら根拠のない科学への信頼につながっていたものと考えることもできるのではないでしょうか。だとすれば、こうした認識のミスマッチは科学の進歩に伴って自然発生的に生じることであるとも言えるように思います。科学が人間のニーズを超えても発展しつづけがちなものだとするならば、科学技術による社会問題が起こりやすくなる可能性とともに、科学への信頼についての認識のミスマッチが起こりうることも、科学を扱う者として理解しておくべきだと思われます。

平川氏の著書では、科学が原因で生まれる社会問題に対応するためには、科学に対するガバナンスが重要であって、「本当に問題となっているのは、科学では答えられない問題、答えてはいけない問題であり、答えを出すのは根本的には僕たち」「僕たちの力がその舵取りに関わることが必要とされる」[文献1p.194]という方向に議論が進められます。今回の震災でも、科学が原因で生まれた社会問題に対しては、現状の対応では不十分である、という認識は深まったのではないでしょうか。科学や科学者に対する信頼が失われたことの本質を考えてみると、科学技術は社会問題を生む可能性があることと同時に、今までの科学技術に対する信頼が過剰なものであったことが明らかになってくると思います。信頼されているにもかかわらず、科学は自らが生んだ社会問題を解決できなかった、つまり信頼に応える努力を怠ってきたのではないか、ということが言えると思います。

2、科学技術の採用判断におけるリスクの重要性が増大したこと:従来のように新しい科学技術の適用は無条件に「善いもの」とは言えないことが明らかになってしまった以上、科学技術を受け入れる判断材料としてリスクや不確実性を考慮する必要性が高まったことは間違いないでしょう。科学が善いものであった時代、つまり、科学技術の適用による利益の方が圧倒的に大きかった時代には、不確実性によって発生する不利益は相対的に小さく、期待通りの成果が上がらなくても害になることは少なかったものが、これからの時代には、不確実性は悪影響を生む可能性があるということに多くの人が気付いたのではないでしょうか。イノベーションの普及に影響する特性としてRogersが挙げた「相対的優位性」(あるイノベーションがこれまでのイノベーションよりも良いと知覚される度合い[文献3])を判断するためのひとつの因子として不確実性を考慮することが必要になってくるでしょう。

3、上述したような社会の変化に対して研究開発を推進する立場の人間としてどう対応すべきでしょうか。科学技術と社会の関わり方の方向修正という意味では、平川氏の主張するガバナンス強化もひとつの方向であろうと思います。しかし、科学が外部からのガバナンスを受け入れる必要があるとしても、科学の側にも自浄作用を持たせることができるのではないでしょうか。

平川氏のいう科学が社会から受けるガバナンスが、科学による害を軽減することに有効であるなら、科学の側で、自分自身をガバナンスするシステムを作ることは意味のあることと思います。原発のような社会に対する影響の大きな科学技術のハンドリングを失敗すれば、企業の経営に大きな影響があることが今回の震災によりはっきりしました。企業の側としてもそうしたリスクを軽減するために、自社で用いている科学技術を「善いもの」とするような社内での努力は、特に民間企業においては重要なことだと考えられます。社会からのガバナンスというと、技術の暴走にブレーキをかける役割が主になってしまうと思われますが、ガバナンスという考え方を技術の発展に生かすこともできるのではないかと思います。

具体的にはそれほど難しいことではないはずです(意識さえ変えられれば、ですが)。

・科学技術が引き起こす外部への影響について多面的に考えること

 多面的に考えるためには、望ましい方向への影響と望ましくないことが起こる可能性を考えること

 そのためには、推進派と、慎重派(否定派)の意見を議論の俎上に載せること

・科学技術の不確実性を前提として意思決定を行うこと

 特に、科学を単純に「善いもの」と捉えられなくなるこれからの時代、不確実性そのものが技術の普及過程に影響する可能性を考えること。

・これらの因子をリスクとして考え、必要な対策をとった(あるいは、退却も含めて対策をとる覚悟をした)上で科学技術の利用を推進すること。もちろん、事前に対策をとれることばかりではないはずです。そのような場合には、リスクが明らかになってきた時点で、対策をとるか、とってかわる技術を積極的に開発する、などの方向転換の検討を行なうべきでしょう。少なくともリスクの存在を無視するようなことは得策ではないことを認識すべきです(厳しいことではありますが)。こうしたことを社内で検討した上で、敢えてリスクをとる決断をすることがイノベーションを実行することになるのではないかと思います。

今回の震災で、科学技術とその取り扱い方についての多くの問題点が露わになりました。科学を捨てて昔の生活に戻るべきだという考え方ももちろんありうるとは思いますが、科学技術が我々の生活を豊かにしてくれたことも事実でしょう。科学技術の進歩によってその扱い方が難しくなり、リスクも大きくなっているとしても、リスクを無視して進めることと、リスクを認識しつつ進めることは意味が違うはずです。もちろん、リスクが大きすぎる科学は採用すべきではないでしょうが、リスクをとることはイノベーションの実現に不可欠でもあります。こうした教訓を生かせるかどうか、それがこれからのイノベーションの成功にも大きく関わってくる時代になっているのではないでしょうか。



文献1:平川秀幸、「科学は誰のものか 社会の側から問い直す」、日本放送出版協会、2010.



 


参考リンク
 

文献2Christensen, C.M, 1997、クレイトン・クリステンセン著、伊豆原弓訳、「イノベーションのジレンマ」、翔泳社、2000.
文献3Rogers, E.M., 2003、エベレット・ロジャーズ著、三藤利雄訳、「イノベーションの普及」、翔泳社、2007.

復帰します

しばらくお休みをいただいていましたが、復帰いたします。とは言っても今日のところは記事の準備ができませんでしたので、次の週末にはまた何か書こうと思います。これからもよろしくお願いします。
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