研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2012年12月

MITメディアラボの研究マネジメント考

MITメディアラボといえば、様々なイノベーションを提供していることで名高い研究機関ですが、その研究の進め方、研究マネジメントについて、フランク・モス著「MITメディアラボ」[文献1]に基づいて考えてみたいと思います。

原著の表題は「The Sorcerers and Their Apprentices, How the Digital Magicians of the MIT Media Lab Are Creating the Innovative Technologies That Will Transform Our Lives」、訳せば「魔法使いとその弟子、MITメディアラボのデジタルマジシャンたちは我々の生活を変えるイノベーティブな技術をいかに創造しているか」というところでしょうか。著者は2006年から2011年まで、MITメディアラボの第3代所長を務めた方で、本書では「メディアラボのユニークなイノベーション・スタイルの根底にある基本原理」(第1~4章)と「メディアラボで現在開発中のテクノロジー」(第5~8章)が紹介されています。メディアラボの扱う技術の分野は、いわゆる「デジタル」技術が中心ですが、そのマネジメントは他の分野でも効果が期待できると思いますので、本稿では本書の前半(第1~4章)に述べられたマネジメントの特徴(イノベーション・スタイルの基本原理)を中心にまとめてみます。

メディアラボの研究マネジメント

第1章:情熱のちから

・「研究者が情熱や好奇心のおもむくままに発明に没頭できる、(中略)『自由な創造環境』[p.30]」が特徴。

・「唯一のルールは『ルールがない』」こと[p.30]。」

・「メディアラボの教員たちは、常に学生にリスクを冒すよう説いている。[p.62]

・「リスキーなプロジェクトが数多く行なわれているメディアラボでは、“失敗”という概念はない[p.62]。」

・「モノ作りやプロトタイプ製作を重視する[p.38]

・「企業はメディアラボの運営資金を提供する見返りに、研究者たちが開発した知的財産の対等かつ非独占的な権利を、ほぼ無条件で得ることができる。[p.39]-『オープンIP制度』[p.52]

・少なくとも年2回、研究者とスポンサー企業の代表者は1週間のスポンサー会議に参加することになる。この会議では、学生たちが最新の発明を披露する。この儀式はたちまち『デモ・オア・ダイ(デモができないなら死んでしまえ)』と呼ばれるようになり、メディアラボはこのビッグ・イベントで一躍有名になった」[p.40-41]。」注)

・「教員や学生は好奇心や情熱のおもむくままに発明や創造を行なう自由がある(中略)。スポンサーは、メディアラボの研究内容に口出しするのではなく、研究者に市場の最新のニーズやトレンドを伝え、貴重な情報を提供する[p.53]

・「今日の企業研究の世界ではほとんど見られないこの自由な創造環境が、メディアラボに存在している理由はただひとつだ。メディアラボのスポンサー企業は、われわれに会社の特定の問題の解決を求めているわけでもなければ、次の四半期にさっそく商品化できるような知的財産を求めているわけでもない。彼らが求めているものは(中略)想像力豊かなアイデアや発明に次々と触れられる機会なのだ。[p.61-62]

・「スポンサー企業は何らかの問題の解決策を易々と手に入れるためにメディアラボと手を組んでいるわけではなく、巨大な利益につながりうる長期的な投資と考えている。[p.176]

この背景には、「メディアラボのような好奇心や情熱に頼る研究というのは、学会や産業界からは消えつつあった。(中略)イノベーションの“種”―-つまりクリエイティブで斬新なアイデアや発明――は、もはや今までのように植えられなくなってしまった。[p.54]」という環境変化があったようです。

第2章:学問の消えゆく境界

・「メディアラボを占めるのはMITのような場所で見かけるコンピュータ科学者やエンジニアだけではない。(中略)さまざまな分野で教育を受けた人々がいる。そしてその多くが、一見すると専門分野とはまったく関係のなさそうなプロジェクトに取り組んでいる。(中略)多彩な経歴や関心を持つ人々を、(中略)透明でオープンな知的環境に置く――それがメディアラボのアプローチにとって不可欠なのだ[p.75]

・ありとあらゆる経歴を持つ人が集まり、『何が実現可能か』『ソリューションはどうあるべきか』といった先入観にとらわれることなく、今までとはまったく違った角度から問題を見つめている。[p.30]

・反学問的(アンチディシプリナリー):「今日の問題は以前よりも複雑に絡み合っており、20世紀のような“サイロ”化した学問や研究ではとうてい解決できない。問題が複雑で多次元にわたる現代社会では、解決策もそうでなくてはならない。だからこそ、これまでの孤立した学問分野の壁を打ち破る必要があるのだ。(中略)問題を解決するために必要なものなら、どんな道具、知識、人々でも利用する」[p.76]

・「問題を別の角度から考える――それこそ、メディアラボの反学問的な精神のポイント[p.79]

・「世界を変えるイノベーションを考えだすコツは、既知の疑問に対して斬新な解決策を見つけることではなく、斬新な疑問を投げかけること」。「人工的な学問分野の壁を無視してこそ、(中略)その分野の“専門家”でさえ(いや専門家だからこそ)考え付かなかった疑問を投げかけられる[p.80]。」

・「同じ屋根のもとに数々の学問分野が共存している。そして、その学問同士の境界は(中略)“透明”なのだ。[p.105]

・「自身の研究室で発明したテクノロジーを“オープンソース”化することで――つまりどの研究室や研究者も彼のテクノロジーを自由に利用できるようにすることで――サイロを取り壊し、業界内の連携を高めるきっかけを作ろうとしている。[p.196-197]

第3章:難しい遊び

・「遊び心あふれる学習は、過去25年間にわたってメディアラボの精神の中核をなしている。[p.117]

・「難しいけど、面白い」が「難しい遊び(ハード・ファン)」[p.118]

・「メディアラボで最高の仕事をしているとき、“仕事”という言葉を使わない。私たちはそれを“難しい遊び”と呼ぶのだ[p.138]。」

・「想像力を解き放つには、(中略)実践的な学習やモノ作りを行なうのがいちばん[p.49]」。

・「学生たちはまず『ほとんど何でも作れる方法』を教師から教わる。[p.30]

・「“考えるな、作れ”」「メディアラボにおいては、“百聞は一プロトタイプにしかず”であり、提案とは簡単なプロトタイプを作ること」[p.109]

・「デモは初期のころからメディアラボの精神には欠かせない一部だった。(中略)デモがあるからこそ、それまでの経歴にかかわらず、驚くほど短期間で学生たちを発明家に変えることができる。」「人々にデモンストレーションを行ない、その反応を見るのは、方向性が正しいことを確かめる最善の方法」[p.110]

・「メディアラボは発明を夢想するだけの場所ではない(中略)。発明を実際に形にし、テストし、デモンストレーションしなければならない。[p.48]

・「デモは『反復的なプロトタイピング』のプロセスと密接に関わっている。[p.111]

・「最初からうまくいかなくても(たいていはうまくいかないのだが)、人々に見せ、想像を掻き立てることはできる。そうすれば、次のプロトタイプのすばらしいアイデアをたくさん得ることができる。[p.116]

・「人々はよく『発明(インベンション)』と『イノベーション』を同じ意味で使うが、実際にはまったく別のものだ。『発明』とはそれまでにない革命的なアイデアやテクノロジーを考え、生みだすことだが、『イノベーション』はそのアイデアを実行に移し、利用する方法を見出すことも含む。(中略)発明はたったひとりの想像力や手から生まれることもあるが(そして実際に多くの発明がそうして生まれているが)、今日の世界の複雑に絡み合った問題を解決できるほどの真のイノベーションを生み出すには、人々や組織の大規模な共同作業が必要だ。[p.131-132]

なお、デモの仕組みには、自己満足や必要以上に時間をかけた研究に陥りやすい基礎研究の弊害を抑止する効果もあるように思います。

第4章:必然の偶然

・「偶然のつながりは、メディアラボではしょっちゅう起こっており、メディアラボの研究が飛躍する大きなきっかけでもある。しかし、一見すると偶然に見える出来事も、実際には『必然の偶然(セレンディピティ・バイ・デザイン)』によって直接引き起こされている。この考え方は、メディアラボの発明スタイルやイノベーション・スタイルにおいて、もっとも中心的な原則のひとつといえよう。必然の偶然とは、純粋な“偶然の発見”なるものは存在しないことを意味している。つまり、こういった“偶然”が起こるのは、予想外のつながりが生まれざるをえないような環境を、メディアラボが意図的に作りだしているからなのだ。この環境では、『マスター・プランがないこと』こそが唯一のマスター・プランだ。(中略)メディアラボで、一見するとランダムに見える人間と人間、人間とアイデアのつながりが生まれるのは、研究者たちが新しいチャンスを見つけるたびに、それを自由に研究し、追求することが許されているからだ。[p.142-143]

・「研究所の研究プログラムは一般的に『基礎研究』と『応用研究』のふたつに分類される。(中略)メディアラボはその両方を取り入れながらも、独自の風味を付け加えている。それこそ、メディアラボが現代社会のイノベーションの強力な動力源であるゆえんなのだ。メディアラボの研究は、基礎研究と同じように大部分が研究者の情熱や好奇心によって支えられている。その目的は、商品化へのプレッシャーを受けることなく、基本原理の理解を深めることである。(中略)その一方で、応用研究と重なる部分もいくつかある。スポンサー企業のニーズや要求を手がかりにしているし(企業がそう強制するわけではないが)、研究者は実動プロトタイプを繰り返し製作し、実世界にいる生身の人間でテストする。また、これも応用研究と同じように、メディアラボのアプローチは学際的であり、ひとつの学問分野に特化しがちな基礎研究とは対照的だ。[p.175-176]

以上がメディアラボのイノベーション・スタイルの根底にある基本原理、ということですが、著者は「どんな個人、会社、機関でも、この4つの原則のいくつかを取り入れることで、イノベーション・プロセスを改善できると私は信じている[p.31]」と述べています。確かに、自由で自律的な創造的環境、多様な分野の融合、プロトタイピングや試行錯誤、創発的な研究の進め方の有効性は様々なところで指摘されていますので、このようなアプローチの効果についてはよく納得できます。ただ、一般にはそれを実行することは容易ではありません。著者が「メディアラボ自身も、実は一種のプロトタイプ」[p.38]と述べているように、イノベーションの有効な進め方を創造する壮大な実験のひとつ、とも考えられると思います。なお、本書ではこのようなマネジメントが効果を挙げた数多くの事例(主にデジタル技術を人間に役立てるイノベーションを中心とした分野ですが)も紹介されています。具体的な技術にご興味のある方は、ぜひ本書をご参照ください。

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本書に述べられたイノベーションの事例をみると、こうしたマネジメントが効果を発揮していることがよくわかるのですが、若干気になる点もありました。本書ではっきりと述べられているわけではないので、単なる私の思い込みである可能性もありますが、気になった点を以下に書きとめておきたいと思います。

・このやり方は優秀な人が揃っているメディアラボだからこそ?:本書では、例えば、複数の専門分野に精通した人材など、かなり高い能力と意欲を持った研究者がよく出てきます。メディアラボの自由で自律的な環境がイノベーションにとって重要なことは創造に難くないですが、優秀な人材がいればこそ、その環境がより有効に作用する面もあると思います。もちろん、普通の能力の研究者にとっても、よい環境の有効性には疑う余地はないと思いますが、例えば、マネジメント層にこのような考え方を受け入れられない人がいたような場合には、うまく機能するかどうかはわからないように思います。研究者の能力だけでなく、マネジャーの能力や考え方も問われる進め方なのかもしれません。

・基礎研究の新しい姿?:デモやプロトタイピングを重視するということは、論文発表の重要性は相対的に低いのではないかと思います。論文発表という、基礎研究では普通の評価方法をあえて重視しないように思われる点、従来の基礎研究のあり方を変えようとしているように思いました。また、企業との協力のしかた、研究費調達の考え方にしても従来の基礎研究とは異なると思います。企業の研究の弱点を補完する基礎研究を行ない、それで研究費を確保するという考え方は、企業と基礎研究機関との新たな協力のしかたを示唆しているのではないでしょうか。

・本書の取り上げ方によるのかもしれませんが、メディアラボの研究は、成果に貪欲、かつ楽観的であるように感じました。プロトタイピングによって少しずつ進んでいくやり方をすると、あるところまでできた成果をベースに次の目標を設定しやすくなるためにこのように感じられるかもしれません。マネジメントのやり方によって、挑戦する意欲を鼓舞することができるなら、これは興味深い手法だと思いますし、このような発想は研究を進める上で大切にすべきだと思います。

本書の副題には「魔法のイノベーション・パワー」とあります。英語の副題も魔法使いとその弟子、となっており、実際メディアラボの成果は魔法のように見えるかもしれません。しかし、成果を生む過程には魔法などあるわけもなく(もちろん容易なことではありませんが)、成果はきちんとしたマネジメントと努力の賜物であるはずです。マネジメントの実験としてのメディアラボから学べることは多いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。


文献1:Moss, F., 2011、フランク・モス著、千葉敏生訳、「MITメディアラボ 魔法のイノベーション・パワー」、早川書房、2012.


注)今まで年に2回開催されていたメンバーミーティングは、2012年から年に1回の開催に変更になったようです。(loftwork林千晶さんのブログより、「MITメディアラボ 秋のリエゾンミーティング・レポート」、2012.10.29より)

<2013.3.10現在つながりません>http://www.loftwork.jp/blog/chiaki/2012/10/mit-2.html

参考リンク


 

 

 

「知識創造経営のプリンシプル」(野中郁次郎、紺野登著)より

野中氏らによる「知識創造」の考え方については、本ブログでも何回か取り上げてきましたが、非常に重要な示唆が多いと感じられる半面、難解な概念が多く、活用が難しいという印象も持っていました。そんな中、新たに発表された「知識創造経営のプリンシプル」(野中郁次郎、紺野登著)[文献1]は、「知識創造経営のための『ワーキングガイド』」として「実践的に理解するために、関連する諸々の断片的な概念をある程度まとめておきたい、そして体系的に総括・綜合しておきたい」、「21世紀の社会経済という文脈に、知識創造経営を再度置き直してみる」という2点を狙いとして書かれた本ということであり[p.v-vi]、期待を持って読みました。本稿では、その内容について、知識創造理論を使う立場からのまとめを試み、私なりの理解を述べさせていただきたいと思います。なお、本書の広範な内容のすべてをご紹介できていない点はご容赦ください。

知識創造経営の位置づけと意義

まず、著者らは、「知識社会化した資本主義社会において経済的価値を生むにはどうするか」[p.1]というドラッカーの問いから始め、近年の社会の変化を考察した上で、「21世紀の新たな社会経済状況の中で従来の戦略論や組織論には行き詰まり感がある。これに対する、知識社会経済における経営の考え方が知識創造経営であるといえる。[序章、p.26]」、「世界が新たな資本主義に向けて暗中模索を始めている。こうした中で、求められるのはいわば『人間中心の精神・価値観』に基づいた経済や経営のあり方である。それは賢慮(共通善実践のための智慧)に基づく資本主義(prudence-based capitalism、プルーデントキャピタリズム:より一般的にはワイズキャピタリズム)ではないかと考えている。それは人間中心の、実践的賢さを重視する経営だ。[p.vi-vii]」、「知識創造経営は、脱工業社会あるいは知識社会の経済に対応した、①個の知識と能力、②個と個の交わる『場』を『基本単位』とする経営モデルである」[p.44]と述べています。さらに、イノベーションとの関係について、「経済価値の多くは、ノウハウ、特許、著作権、ブランド、さらには背後にある開発力やイノベーション(新たな知識創造)力によって生み出される。我々はこれらの知を『知識資産』と呼ぶ。知識創造経営は知識資産によって価値を生み出す経営である。[p.64]」、「イノベーションとはこれまでになかった関係性によって知識資産を生み出し、組み合わせ、事業価値に変換することである。知識資産の価値を高めるために企業が行うべきことは、高質な知識創造プロセスの構築である。[p.67]」と述べていて、知識が生まれる現象への理解だけでなく、知識創造に基づく経営手法の構築も視野に入れた議論が展開されています。

実践のための基本則(プリンシプル)

その上で、著者らは、実践において大事になると思われる要素として10項目を挙げ、さらにその共通項を以下の3つにまとめています。[p.viii-ix

・共同体あるいはエコシステムにおける企業や顧客、パートナーなどの関係性を基盤とすること

・その起点としての「場」、すなわち間身体性あるいは相互主観性

・目的を追究して意味や価値を形成していこうとする意識に基づく生命論的な人間力

これだとややわかりにくいと思うのですが、要するに、周囲との関係を考慮すること、人が集まることで互いの知識を体感し深く理解すること、人間にとって重要な目的を意識すべき、ということと個人的には理解しました。おそらく上記の点を大切にすることで、知識の出会いによる知識創造の可能性を高め、周囲を動かし、実践につなげやすくできる、ということではないでしょうか。以下、10のプリンシプルのそれぞれをまとめます。

1、場(あるいは間身体性)に基づく経営

「場は『共有された動的な文脈あるいは意味空間』と定義される[p.27]」ということですが、「知識創造経営の起点となるのは、場における認識、経験、知識の獲得である。場は我々の経験の起点であり、身体性(embodiment)に基づくものである。[p.47]」という表現の方がわかりやすいかもしれません。間身体性の意味はややわかりにくいですが、「たとえば、相手をコントロールしようとしたり、命令に従わせようとしたりしても、人や組織は動かない。共通の考えを持ったり、経験をしたり、一体感を感じることで初めて内発的に人は動き始める。こういったときの根底にあるのが、相互主観性(間主観性ともいう)である。[p.29]」であって、「メルロー=ポンティは、相互主観性の本質は身体感覚に基づいて相互に浸透することで生まれる関係性、つまり間身体性(inter-corporeality)だと解釈した。[p.29]」、さらに、「身体的な認知活動とは、すなわち個々人が社会的に、他者との交わりを通じて暗黙知を獲得するプロセスである[p.48]」という説明からなんとなく理解できるように思います。著者は、実際にどの程度の他者との交わりが必要なのか(例えば、バーチャルな交流でよいのか)についてははっきりと述べていないように思いますが、ミラーニューロン(「他者の行動を見て、まるでわが事のように感じる共感能力(empathy)を司っているとされる[p.49]」)の重要性を指摘していることを考えると、直接会って交流することを重視しているように思われます。

2、実践的方法論に基づく経営

著者らは、知識創造経営の方法論として、「論理分析的アプローチとは異なる、実践主義的な思考の重要性を指摘したい[p.51]」と述べています。「いわゆる『複雑な問題解決』に対しては、分析と意思決定科学だけでなく、洞察や判断など、直観や人間知の動員が求められる。[p.52]」、「専門家が分析すれば問題が解ける、という時代は終わりつつある。(中略)今求められるのは、現場視点を持ったクリエイティブで発見的な分析だ[p.51-52]」、と述べ、ミンツバーグの「創発戦略」、デザイン思考における(ラピッド)プロトタイピング、アジャイルスクラムなどの実践的思考の例を挙げています[p.53]。「仮説的に知の創造と適用をインタラクティブにかつ段階的に進めていくやり方[p.54]」ともいえるでしょう。

3、知識創造理論に基づく組織プロセス

「市場は単に企業の外的環境として捉えられるのではない。(中略)企業は市場という生態系の一部として存在するという考えがますます重視されるのが知識社会経済、そして知識創造経営である。[p.70]」「組織的知識創造とは、組織が個人・集団・組織全体の各レベルで、企業の環境から知りうる以上の知識を、新たに創造(生産)すること[p.77]」。「知識創造のプロセスは暗黙知と形式知の相互変換[p.77]」。暗黙知と形式知の相互作用は、共同化(暗黙知から新たに暗黙知を得る)、表出化(暗黙知から形式知を得る)、結合化(形式知から形式知を得る)、内面化(形式知から暗黙知を得る)という4つのプロセス(SECIプロセス)で表わすことができる[p.77]。さらに、「直接経験を通じて環境における現場での現実に共感し(=共同化)、気づきの本質をコンセプトに凝縮し(=表出化)、コンセプトを関係づけて体系化し(=連結化)、技術、商品、ソフト、サービス、経験に価値化し、知を血肉化する(=内面化)、さらに、組織・市場・環境の新たな知を触発し、再び共同化につなげる[p.79]」、という具体例を示しているのはわかりやすいと思います。


4、戦略の物語的アプローチ

「伝統的に行われてきた戦略策定では、客観的な事業環境分析に基づいて課題を抽出し、指針を提示・指示する。しかし、(中略)現実の組織の現場では、行動すべき人々の気持ちがこれに参加しないので動かない。戦略と実践の間には大きな隔たりがある。[p.96]」、「人間は社会で協力関係を維持するとともに、他者との利害を調整しなければならない。(中略)共有される目的が共通善[p.99]」、と述べ、「知識創造経営の従来の経営との大きな違いは、(中略)共通善の追求といった目的を問う点である。[p.102]」としています。そして、「戦略やその計画を文書で配布しても、それは形式知にしかすぎない。戦略が組織を前進させる『知力』となるには、暗黙知つまり身体のレベルで共有理解されなければならない。そのために、暗黙知を大きく失わずに知を伝達できる形態としての物語に注目する。[p.107]」ということです。

5、実践的三段論法による実践的戦略思考

戦略の実践において有効な思考が実践知とされます。「意志決定ツリーに基づいて、相対的な数値の大きさや確率で方向を決める、という単純な比較が難しい、社会的価値判断や経営者や企業としての独自の価値判断が求められる複雑な問題に対処するのが実践知である。それは共通善に向けた価値基準を持って、個別のそのつどの文脈の只中で、なすべき実践(プラクティス)のための最善の判断ができる智慧であるといえる。[p.123]」。そうした実践知(フロネシス)の方法論として、実践的三段論法があり、「実践的三段論法では、目的があり、そのための手段があったときに、実行をすべきか、という判断を行なうという我々の日常的思考を表わしている。(中略)このように、実践的三段論法は必ず実行・実践を伴う。[p.129]」、「我々はすべては仮説であるという態度を持たなければならない。法則、理論などもすべて仮説であり、『知識は半分しか真でない』。(中略)我々はこうした仮説を用いながら、実践的な推論と判断をしていくのである。[p.131]」、と述べられています。

6、リーダーシップにおける賢慮のサイクル

「賢慮とは、個別具体の場において、その状況の本質を把握しつつ、同時に全体の善のために最良の行為を選び実践できるためのリーダーの智慧[p.148]」。それは6つの実践の行動サイクルすなわち、1)「善い」目的を作る、2)場をタイムリーに作る、3)ありのままの現実を直観する、4)直観の本質を概念に変換する、5)概念を実現する、6)実践知を組織化する、で示すことができ、「トップや特定のエリートに実践知が埋もれているままではいけない。彼らの実践知を、実践の中で伝承・育成し、組織的に自律分散型フロネシスを練磨することが必要だ。それを『集賢知』と呼ぶ。[p.149-161]」、とされます。

7、非ヒエラルキーの組織、ワークプレイスのデザイン

「知識創造経営においては、ヒエラルキー(階層的組織構造=一極集中あるいは官僚制、ビューロクラシー)に基づかない自己創出的組織と、それに適応した『ソーシャルリーダーシップ』(社会的関係性を創出するリーダーシップ)からなるオートノミー(自律的組織構造=自律的で分散的)の形態が望ましいと考えられる。なぜなら、我々は組織の成員を、指示命令に従って情報処理業務を行うホワイトカラーのモデルではなく、個が自律的に場を形成して知識創造するナレッジワーカーのモデルを通じてみるからである。[p.178]」、「基本となるのは、特定の業務のためや顧客価値を生む深い知識資産を、サイロ化を避けつつ、柔軟に活用できるようにする構造の創出にある。[p.195]」、「今後の組織設計においては、『場』における実践(プラクティス)についての理解とコンセプトがカギを握る。それは現場がどのような実践を行うかのモデル、仕事の仕方(ワークウェイ)などに基づくものである。[p.198]」、ということです。

8、顧客価値と知識資産の関係性としてのビジネスモデル

「ビジネスモデルとは、顧客にとっての価値を提供し、利益の流れを生み出すための内外の資産や能力の関係性を表わすロジック[p.214]」。「モノではなく、知の流れで経済的価値が生まれる[p.214]」。「コトが価値を持つ時代になると、ただモノを売っていただけでは利益が生まれなくなる。[p.222]」、「ビジネスモデル・イノベーションの課題は、知(知識資産)を利潤の流れに変換することである。顧客価値の実現のためには、さまざまな資源(知識資産)とパートナーとの関係性など、ユニークな関係性の創出が求められる。それは分析的作業からは出てこない。[p.218]」、「試行錯誤、反復的修正、プロトタイピングによるフィードバックが不可欠である。我々は論理分析的にビジネスモデルを構築しようとせずに、現場での具体的洞察や創造性の発揮を通じてビジネスモデルをデザインしなければならない。[p.219]

9、市場知と技術を融合する方法論としての知識デザイン

「技術は重要だが、科学的技術知に市場・顧客の知、組織の知を組み合わせなければイノベーションにはならない。[p.239]」、「イノベーションとは、革新的な技術あるいは革新的な方法による技術の活用と、提供者のシステム、ユーザーの利用や消費の形態(行為や行動)の革新を通じて、顧客の問題の解決や新たな創造的な社会的関係性を創出することである。イノベーションの実現のためには、顧客の現場からの洞察や顧客との協調・協働が基礎となるだろう。そこで、デザインアプローチの重要性が最近指摘されている[p.243]」、「デザイン思考が志向するのは、『コモディティ+付加価値』(モノの価値)とは異なる、『人間的価値』(本質的コトの価値)の追求である。[p.245]」、「デザインは、『エンジニアリング』に象徴される論理的・分析的・効率的な理性的思考とは異なる、直観的・統合的・創造的な身体的・感覚的思考を代表している。デザインは人間の視覚的な能力と形態創造の能力(形にする力)を背景に持った『知的な方法論』である。[p.249]」、「知識デザインの基本的な作用は、従来からあった社会や技術の関係性をいったん脱構築し、顧客あるいは人間の視点から再構成して、価値や便益をもたらすことである。知識デザインはイノベーションのための『新結合』を支え、深めるものだ[p.249]」、「知識のデザインとは、現場から顧客の状況を把握し、仮説を設定してコンセプトに綜合し、プロトタイピングと実践を繰り返しながら顧客の問題を解決する行為[p.254]」。

10、人間中心の市場空間としての都市

「人々のアイデアや知識の交わる『場』がグローバル経済の要となる。それはすなわち『都市』である。[p.291]」、「今後は、国家を1つのユニットと捉える呪縛から解き放たれ、地域コミュニティや、国家を超えたコミュニティにおいて、共通善の実現のために共同体の境界の内外の構成員が、内発的な動機づけの下、『知』を結集してイノベーションを起こすという発想が未来を拓くだろう[p.321]」。「岩井克人氏は、(中略)経営者や従業員の知こそ最も獲得しがたい資産であり、それらを育てる企業文化などの重要性を示唆している[p.322]」。

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以上が私なりのまとめです。知識創造理論については、従来発表されてきた概念の本質的な部分のみが抽出され、体系的に整理されているように思いますので、かなり理解しやすくなっているのではないでしょうか。本書では、知識創造理論についての考え方の他にも、従来の経営理論や哲学、最新の考え方や試みについても評価が加えられており、そうした点も大いに参考になりますので、知識を実践的に用いるためのワークブックとしての価値は非常に高いと思います。

私にとって従来、知識創造理論が使いにくく思われていた理由は次の2点でした。

・知識創造理論は非常に正しそうに思われるけれども、本当に有効な理論だという証拠はあるのか。

・知識創造理論では、知識創造が行われるプロセスやいかに知識創造を行うかについては述べられているが、何に取り組めばよいのか(具体的に言えば、何を研究テーマとすればよいのか)がはっきりしない。

もちろん私もこのような問題について明確な回答を得ることは不可能だと思っていますので、回答が示されないこと自体には何の不満もありませんでした(かえって、こんな複雑な問題に明示的な回答がある方が胡散臭い)。しかし、上記の疑問に対して何らかのヒントはないものか、という願いを持っていたことも事実です。これに対して本書では、現在の社会経済状況に対して今までの経営理論が効果的に機能していないこと、それに比較して知識創造理論には可能性があることが述べられ、理論の有効性を受け入れやすくなったと思います。また、何に取り組むべきか、という課題に対しては、「共通善」を基礎にすべきという基準が示された点が意義深いと思います。もちろん、共通善という考え方からただちに明日の研究テーマを導くことははっきり言って不可能ですが、例えば研究テーマを分析的に考えだすのではなく、例えば組織的知識創造プロセス(SECIモデルなど)を使って研究テーマを発想し、それを共通善という篩にかけて有望なテーマを選び出す、という創発プロセス(当然、研究テーマが知識創造プロセスの過程で変わってしまってもかまわない)を利用したテーマ設定の方法も可能ではないか、と思い至った点、有意義だったと思います。本書によって、知識創造理論は間違いなく使いやすくなったと思いますがいかがでしょうか。



文献1:野中郁次郎、紺野登、「知識創造経営のプリンシプル 賢慮資本主義の実践論」、東洋経済新報社、2012.



本ブログ参考記事

「流れを経営する」を読む2012.3.25

フロネシス(賢慮)と研究開発2012.1.29

「イノベーションの知恵」(野中郁次郎、勝見明著)感想2011.3.21

創造性を引き出すしくみ2010.10.24

参考リンク<2013.1.14追加>



 


 


 

ノート記事目次(2012.12.16改訂版)

ノート記事目次を再整理しました。今回は関連記事のアップデートと、関連リンクを確認しています。容量の関係で、関連記事も入れた目次は、その1その2に分割して別ページとしました。
旧バージョンの目次はこちら:2012.6.3版
2011.10.30版2011.3.27版


はじめに(2010.3.21)
 注)現在は仕事が変わってしまいましたが当時の記事をそのままに残しています。

ノート1~ノート7:関連記事も含む詳細は「その1」をご参照ください。

ノート1:どんな研究が必要なのか(2010.3.22)

 ポイント:企業にとってイノベーションは重要。技術はイノベーションの一要素。

 キーワード:創造的破壊、Shumpeter、アイデア、イノベーション

参考リンク

ノート2:研究の不確実性をどう考えるか
(2010.3.27)

 ポイント:研究は不確実。その認識がマネジメントには必要。

 キーワード:意思決定理論、確定性、リスク、不確実性、錬金術、セレンディピティー、創発的プロセス、未来予測

参考リンク


ノート3:研究と競争相手
(2010.4.3)

 ポイント:競争相手の存在は忘れてはいけない。

 キーワード:技術の普遍性、競争、Porter
参考リンク


ノート4:企業の収益源となる研究テーマの設定
(2010.4.10)

 ポイント:イノベーションの企業活動への影響認識が重要(特に破壊的イノベーション)。

 キーワード:破壊的イノベーション、持続的イノベーション、Christensen、ブルーオーシャン戦略、コンプレックスシステム、ボリュームオペレーション、コア

参考リンク


ノート5:研究部門に求められるテーマ
(2010.4.17)

 ポイント:研究にはイノベーション以外にも様々な業務が求められる。

 キーワード:未知、既存、頭を使う、体を使う、中核事業の安定、オープンイノベーション、10年ルール、宣伝、信用度

参考リンク


ノート6:研究部門が実施したいテーマ
(2010.4.24)

 ポイント:シーズ志向、セレンディピティーの重要性。

 キーワード:シーズ志向、ニーズ志向、暗黙知、形式知、トップダウン、ボトムアップ、ミドルアップダウンマネジメント、レディネスギャップ、偽セレンディピティー、真のセレンディピティー
参考リンク


ノート7:研究者の活性化
(2010.5.1)

 ポイント:モチベーション理論、エンパワーメントのまとめ。

 キーワード:機能人、経済人、Maslow、欲求段階理論、生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現欲求、X理論、Y理論、動機づけ要因、衛生要因、内発的動機づけ、欲求説、過程説、期待理論、誘意性、達成動機理論、エンパワーメント

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ノート8~ノート14:関連記事も含む詳細は「その2」をご参照ください。

ノート8:研究者の適性と最適配置(2010.5.8)

 ポイント:研究に求められる様々な仕事と研究者の適性のマッチングが重要。

 キーワード:適性、認知スタイル、行動類型、人を選んでから目的を考える

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ノート9:研究組織の構造
(2010.5.15)

 ポイント:イノベーションのための組織は固定的、定型的でない方がよいのでは?。

 キーワード:機能組織、タスクフォース、階層性、トップダウン、ボトムアップ、ミドルアップダウンマネジメント、ネットワーク組織、破壊的イノベーション、小さな組織

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ノート10:研究組織の望ましい特性と運営
(2010.5.22)

 ポイント:重要な要素は、ビジョン、多様性、コミュニケーション、自律性。

 キーワード:組織的知識創造、自律性、ゆらぎと創造的カオス、冗長性、最小有効多様性、ビジョン、針鼠の概念、コミュニケーション、弱い絆、公正なプロセス

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ノート11:研究組織運営におけるリーダーの役割
(2010.5.29)

 ポイント:環境整備、仕事による動機づけ、多様性、コミュニケーション、育成、ロールモデルが重要。

 キーワード:仕事による動機づけ、多様性、コミュニケーション、ゲートキーパー、育成、経験、ロールモデル

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ノート12:研究プロジェクトの運営管理
(2010.6.5)

 ポイント:計画よりも上手く実行することが重要。定型的な運営は難しいのでは?。

 キーワード:計画、戦略、創発的戦略、評価、方向転換、変化のスピード、心のエネルギー

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ノート13:研究成果の活用
(2010.6.12)

 ポイント:技術的な価値だけでは技術は普及しない。受け入れられるプロセスの理解が必要。

 キーワード:イノベーション普及、相対的優位性、両立可能性、複雑性、試行可能性、観察可能性、再発明、持続可能性、採用、選択的エクスポージャー、ハウツー知識、原理的知識、採用者カテゴリー、イノベータ、初期採用者、ラガード、革新性、能力信頼性、無難信頼性

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ノート14:研究成果の転用
(2010.6.19)

 ポイント:知識としての研究成果の活用も重要。知識創造、ナレッジマネジメントの可能性。

 キーワード:特許、組織的知識創造、知識変換、知識移転、ナレッジマネジメント

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成功体験の意味

成功体験は仕事を進める上で役に立つとよく言われます。その一方で、成功体験は新しいことに挑戦する際の障害になることもよく指摘されます。今回は成功体験の持つ意味とその扱い方について考えてみたいと思います。

成功体験の作用

まず、成功体験によってもたらされる作用を、好ましい効果と、起こり得る弊害や問題点に分けてまとめてみましょう。

・心理的側面

よい効果:成功を体験すること、難関を克服することによって自分の能力に自信が持てるようになる。

問題点:自分の能力を過信し、傲慢になったりアドバイスや現実を受け入れにくくなったりする。

・経験から得られる知識の側面

 よい効果:うまくいく(いった)やり方を学習でき、その経験や知識を次の機会に生かすことができる。

 問題点:経験から得た知識ややり方が、別の機会にも適用できると思いこんでしまう。

つまり、成功体験から得られる心理的効果と、経験や知識(ハウツー)のそれぞれに良い面と悪い面があるため、何かを行おうとする時に過去の成功体験が役に立ったり、逆効果を生んだりすることになるのだと思われます。

成功体験が生むよい効果があることについては、疑問の余地はないと思いますが、成功体験から生まれる傲慢は、リーダーがつまずく原因や、企業衰退の原因となることが指摘されています。また、成功体験がイノベーションを進める上での障害となることは、経験から得られた知識ややり方が別の場面で生かせるとは限らないことに基づくものと考えられます。実際、過去のやり方にしがみついて新しい考えを取り入れることが遅れたり、成功した経験だけを頼りに過去のやり方が将来にわたって正しいと思いこんでしまうことはよくあることではないでしょうか。そのため、成功体験の弊害が懸念される状況では、成功体験を捨てるべきであるということがよく言われるのでしょう。

このように考えると、成功体験の本質的作用は、その体験自体にではなく、そこから何を得て、何を次の機会に生かそうとするか、ということの中にあると考えられます。すなわち、心理的側面におけるよい作用について言えば、自らの能力や可能性に自信を持てるようになることであり、知識の側面については、役に立つやり方を身につけるということになるでしょう。しかし、これらの作用を得るために成功体験が必須である、ということにはならないはずです。自信を持つことは、自分が何かを達成できそうだという感覚を持つことにつながりますが、より広い意味では幸福感を身につけること、とも考えられます。知識の面では、成功体験からだろうと失敗体験からだろうと、経験から正しく教訓を学びとることができればよいはずです。すなわち、成功体験が持つよい作用は、必ずしも成功体験からもたらされる必要はなく、マネジメントによって同じ効果を引き出し、コントロールできる可能性もあるといえるのではないでしょうか。

成功体験の悪い面を防ぐことに関してはどうでしょうか。成功体験に悪い作用があるならば、その影響が出ないように、マネジメントによるコントロールを行なうことは必須でしょう。心理面では、成功者が傲慢にならないように、また、他人のアドバイスを受け入れられるようにコントロールすることが重要になるでしょう。一般に、成功した人物に対して批判やアドバイスをすることは、その成功自体の評価を貶めるように受け取られることが多いため、抵抗感があって難しいことかもしれませんが、であればこそマネジメントが必要でしょう。知識面については、成功という結果が注目されることで、そのプロセスや成功要因についての分析が不十分になる可能性があります。人は、失敗したことについてはその原因をあれこれ悩んだり考えたりすることが多いものですが、成功したことに関しては、結果よければすべてよし、ということで成功の原因をきちんと振り返らない傾向があるのではないでしょうか。本質的な成功の要因は他の人の能力や頑張りにあるかもしれません。自分ではコントロールできない環境要因、極端な場合には運により成功することもあるでしょう。成功によって自らの能力に自信を持つことはよいことだとしても、成功の原因を間違えて認識することは、間違ったやり方を学習してしまうことになりますので、何よりも、成功の原因を正しく理解した上で、同じやり方が次の課題にも有効かどうかを慎重に判断する必要があるはずです。もし、成功によって得た自信(過信)によって、異なる状況に対する情報収集や現状認識が疎かになったり、判断に歪みが生じたりするようなことがあれば、次回の成功は期待薄でしょう。マネジメント上のアドバイスとして「成功体験を捨てよ」という指摘がよくなされるのは、このような成功体験の危うさを懸念したものと考えられますが、成功体験の何を捨てなければならないかを判断し、よい面を次回に生かすためにはやはりマネジメントによるコントロール、仕組みの整備が必要ではないかと思います。

成功体験を生かすには

では、具体的なマネジメントはどのようになるでしょうか。要するに、上記のような成功体験の弊害を防げればよいわけですが、ひとつのアプローチは、同じような好ましい心理的効果を発揮するが、副作用のある成功体験重視とは異なるマネジメントを行なうことが考えられます。成功体験などなくても高い意欲が維持されるようなマネジメントができればよいと考えれば、成功体験という外部からの報酬に頼ることなく、内発的な意欲を刺激するような方法があるでしょう。この時、組織として、心理的なサポート、育成やコーチングを与えることも重要だと思われます。もう一つのアプローチとしては、成功体験が得られた場合にその体験がもたらす弊害を緩和するようなマネジメントがあり得るでしょう。まずは個人に対して、成功体験によって傲慢になったり、判断を誤ることがないように自覚を促すことが必要でしょうが、組織運営上のしくみで対応することもできると思います。例えば、成功したこと自体の過大な評価を控え、そのプロセスにおいて得られる、努力が報われる快感や、成功に至る挑戦ができたことの方を重視することで、傲慢な考え方に陥りにくくすることが考えられます。さらに、成功要因をしっかりと分析することも必要でしょう。個人の能力だけではなく、その能力が発揮できた環境(運も含めて)の影響をしっかりと認識することで、成功体験の適用限界を認識できるようになるかもしれません。また、成功者に対して、さらに高い目標や、違う分野の目標を与えることで、成功によって学習した(と錯覚した)やり方が別の状況では役に立つとは限らないという体験を促すこともできるでしょう。もちろん、この場合にもマネジメントによるサポートとフォローは必須でしょうし、成功体験による意欲向上の程度や、傲慢になるかどうかの傾向には個人差があることを考慮に入れたマネジメントとすることも必要でしょう。

個人的な感覚で恐縮ですが、成功体験の重要性を説く人には、成功体験が次の成功に結び付いた経験をお持ちの方が多いような気がします。しかし、その経験どおりにいつも成功が得られるとは限らないことは明らかです。成功事例から学べることが多いのも事実ですが、成功体験があってもなくても成功の本質を理解してマネジメントすれば成功の確率は上がるでしょうし、成功体験のマネジメントに失敗すれば足をすくわれて失敗することもある、ということではないでしょうか。成功、失敗を問わず高い意欲を持てるようにし、経験から正しく学び正しく判断できるようなマネジメントを行なうべきであるということが、成功体験の効果をめぐる見解の違いから導かれる本質的な教訓なのではないかと思います。


 

「利他学」(小田亮著)より

イノベーション成功のためには、他者との協力が重要になります。その協力行動は利他行動と深い関係があると考えられますので、人間のもつ利他性について理解することは、よりよい協力関係を構築し、研究開発の成功確率を上げるうえで重要なことと言えるでしょう。小田亮著、「利他学」[文献1]では、人間の利他性、利他的行動はどのようなものか、なぜ人間はそのような行動や思考のパターンを持っているのかが解説されており、マネジメントを考える上でも示唆に富んだ指摘が多いと感じました。

本書の特徴は、利他性が進化の過程における淘汰によって人間に備わったもの、という観点から考察されていることでしょう。もちろん、進化の過程を厳密に証明することは不可能なのだと思いますが、なぜ人が利他性を持っているかについて考えることは、人間の性質をよりよく理解する助けになるでしょうし、その性質を考慮したマネジメントの有効性にもかかわってくると思います。以下、特に興味深いと感じた点、重要と感じた点をまとめます。

利他性とは

・「利他行動とは自分が何らかの損をして、相手が得をするという行動」[p.34]。

・「利他行動は自分の適応度を下げる」[p.40]。(「次世代にどの程度遺伝子を残したか、という度合いを『適応度』という[p.24]」。

・利他行動の「相手が血縁であれば、自分と同じ遺伝子を高い確率で共有しているので、相手の適応度の上昇を通じて自分の遺伝子が残っていく可能性がある[p.40-41](ハミルトンの法則)」

・「血縁関係にない相手を助けると、遺伝子が共有されていないので適応度は上がらない。しかし、後で相手から同じだけ返してもらえば、差し引きはゼロになり、どちらも損をしないうえに、お互い困っているときに助かるので、両方とも得をすることになる。このような場合には、非血縁個体に対する利他行動も進化しうる[p.41]」。(トリヴァースによる『互恵的利他行動』の理論)

・「助けてあげた相手から直接にではなく、全く別の人から間接的にお返しがあることがある。これを、『間接互恵性』と呼ぶ」[p.45]。

・評判の重要性:「誰かにした利他行動に対したとえ本人から直接的なお返しがなくても、それを見ていた第三者によって、『あの人は親切な人だ』という評判がたてば、その後のやりとりで利他的にふるまってもらえるだろう。(アレグザンダーによる)」[p.46

・群淘汰(自分が損をしても、自分の種や属する集団が存続すればよい)は基本的にありえない[p.35,47](その集団内での利他的個体は残れない)。(ただし、例外も示されています。)

・利他行動をする個体どうしで集団を形成する場合、「利他的な集団の方が利己的な集団よりも全体としての適応度を上げることができれば、集団のための行動が進化しうる[p.47]。(ウィルソンによる『マルチレベル淘汰』)

つまり、利他的であることにより進化上有利になる状況がありうるため、人間持つ利他性は、進化の過程で生物として獲得した性質である可能性がある、ということになります。

利他性の発揮

・目の効果:「目の絵や写真があることが利他性を高める[p.64]」。「目の絵が罰への恐れを喚起するのではなく、状況を互恵的なものだと誤解させることによって、利他性を高めているのではないか[p.75]」。

・性淘汰の影響:「美人に見られていた男性は、より他者に対して気前よく振る舞う[p.81]」。

・利他的な罰:「利他的ではない他者を、わざわざコストを払って罰する傾向がある[p.66]」。

・私的自意識とは「自分の内面・気分など、外からは見えない自己の側面に注意を向けること[p.76]」。私的自意識が強いと、「自分の信念を明確にもち、それに従って生きようとする傾向がある[p.214]」。そういう人にとっては「状況如何にかかわらず一貫して利他性を示すことが重要[p.216]」。

・脳内活動:寄付行為によって脳内の線条体(快の刺激を得たときに活動する報酬系の一部といわれている)が活発になり、「他者に対して親切にふるまうという、そのこと自体を報酬と感じるしくみがあることが、脳研究から明らかになっている[p.216-217]」。

こうした傾向をみると、人間の持つ利他性には、理性による判断以外の性質が反映しているように思われます。

利他性の維持

・「互恵的利他行動が維持されていくためには、他人からは助けてもらうが、自分は何もしない裏切り者が大きな問題になる。」[p.92

・裏切り者検知:「私たちには(中略)明らかな裏切り者を探すような『しくみ』が備わっているのではないか」[p.96]。(純粋な推論問題にするとあまり解けない問題も、表現を裏切り者を検知するというかたちにすると正解できる。)

・利他主義者検知:「私たちには(中略)利他主義者を見つけ出して微妙な裏切りを防ぐしくみ」[p.100]も備わっているようだ。例えば、微笑みの左右対称性で利他性を判断している[p.139]」。

・非利他主義者は記憶に残るが、利他主義者は記憶に残らない[p.114](非利他主義者を避ける傾向)。これは、裏切り者に罰を与えるほうが、利他主義者に報酬を与えるよりもコストがかからないことと関係するが影響しているかもしれない[p.117-118]。

・感情の影響:「道徳に関連するような感情は、互恵的利他行動への適応として進化してきたのではないか(トリヴァース)[p.120]」。例えば、他人に対する好き嫌い、友情、義憤、罪悪感(恩や親切に充分なお返しができなかったとき)、同情(相手を助けたいと思う感情)、感謝など。真面目な人に同情しやすいのは互恵的利他行動が期待できるからかもしれない。感謝は「逆行的利他行動(利他行動の受け手が第三者に利他行動を与えること)」の要因となる。これが間接互恵性を進化させた可能性がある。

自分の利他性を相手に伝える行動

・「利他的な人の方が周囲から利他行動をされやすいので、自分が利他的であることを実際よりも大げさに宣伝する方向に進化する」[p.132]。

・コミュニケーションとは:「平均すれば送り手が受け手の反応によって利益を得るような、ある動物から他の動物への信号の伝達」[p.139]。

・コストのかかる信号は正直な信号として機能する[p.146]。

・「信号の送り手は自分が利他的であることを宣伝するような信号を送るわけだが、受け手の方には、それが正直な信号であるかどうか見極める能力が進化する。[p.152]」

・相手を操作するための究極の信号が言語。[p.156

利他性の起源と進化

・利他性の起源としては、共同繁殖[p.178]、抽出食物(食べられるようにするには何らかの処理が必要な食物)への依存(シルク、ボイド)[p.185]、教育行動[p.186]が考えられる。

・利他主義のニッチ:「生態系のなかで、それぞれの種は周囲の別の生物種、気温や湿度、地形などの物理的条件といったものと関わり、影響を受けている。これらの関わりを『ニッチ』と呼ぶ。」ニッチの考えかたは社会的環境についても使え、「他者に対して利他的にふるまう人は、それが報われるような社会的ニッチにおいて生活しているのではないか。」[p.207

・「現代人が持っている大脳新皮質の割合に見合った集団サイズは、約150人」[p.221]。

・「私たちの利他性は、基本的には友人や知人のあいだでの互恵的な関係によって形成される『利他主義のニッチ』において育まれている。」「150人という認知的な限界を超えていくには、もうひとつ、人間がもつ大きな特徴が必要だ。それが、私たちがもつ道徳性である。」[p.223

・制度:「非血縁である他者への利他行動は、何らかのお返しがあるということによって成り立っている。私たちにはそのお返しを確実にするためのさまざまな認知的適応があるのだが、これが制度として確立されることにより、はるかに効率的に利他性を発揮できるようになる。」[p.228

・制度設計:「制度をうまく機能させたければ、単純に合理的なものにするのではなく、互恵性のような、私たちが進化によって身につけた性質をうまく引き出すようなかたちの設計にすることが考えられる。」[p.233

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以上、やや断片的な知識や考え方の羅列のような面もありますが、利他性についての詳細はまだ研究途上のようです。本書中の説明にしても「考えられる」とか「可能性がある」とかのような表現で書かれていることが多いように思いましたが、これはこの分野の現在までの発展状況から考えてしかたのないことのように思います。ただ、著者もいうように、「進化心理学がなぜ有用なのかというと、心のしくみについて一貫した説明を与えてくれるからである。進化心理学者は、思いつきで、あるいは単なる経験則でモデルをつくるのではなく、進化と適応の結果としてどう考えられるか、という視点からさまざまな実験や調査を行う。」[p.86]という点には大きな期待ができるのではないでしょうか。特に研究開発のマネジメントにおいては、人や組織の能力をできるだけ引き出すことが重要です。そのためには、人の考え方や行動を支配する要因について知り、マネジメントしていかなければなりませんが、その理解や理論が完璧でない場合には、何らかの仮説に従って進めるしかありません。その時に、その仮説が妥当かどうかの見込みを得るために、「進化」という視点から一貫した解釈が可能かどうかはひとつのチェックポイントになるのではないでしょうか。例えば、人間を経済合理性に基づいて利己的に判断する生物と理解することは、進化の視点からみるとおそらく人間の一面しか捉えていないことが考えられます。そのような前提にたったマネジメントが果たして有効なのかどうか、それを見直すヒントを与えてくれると思います。また本書の最後の方に指摘されている、利他性を引き出す「制度設計」は、特に研究開発においては重要になるでしょう。研究開発における「協力」を目指したしくみは様々に提案されていますが、人間が本来持つ利他性の観点からそれらのしくみをより実効あるものにできるのではないか、という期待も持ちました。利他性には、進化の結果人間が生まれながらにもっている部分と、周囲に影響されて形成されていく部分があると思います。研究開発組織を利他主義のニッチととらえ、その集団の利他性を高めることが「協力」の活発化につながるように思いますが、いかがでしょうか。


文献1:小田亮、「利他学」、新潮社、2011.


(参考)

「人はなぜ利他的行動を行うのか?進化的視点から人の心の行動の秘密を探る比較行動学の研究紹介:小田亮准教授」、名工大ラジオ

http://radio3.nitech.ac.jp/?p=3404

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