研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2013年07月

ノート4改訂版:企業の収益源となる研究テーマの設定

1、研究開発テーマ設定とテーマ設定における注意点

1.1研究活動における基本的な注意点→ノート1~3

1.2、研究テーマの設定

ノート1~3で述べた基本的な注意点をふまえた上で、どのような研究テーマに取り組むべきかを考えてみたいと思います。ここでは、テーマ設定の考え方を以下の3つに分けて考えます。

①企業収益に結び付くテーマ(つまり、事業的に成功が期待されるテーマ)

②企業が研究部門に求めているテーマ

③研究部門が実施したいと考えるテーマ

これらは、企業活動に貢献するために、誰の、どんな望みを叶えようとするのかという観点に基づいた分類です。従来の研究テーマの分類方法、例えば、テーマの発生のしかたに基づく分類(トップダウン、ボトムアップ、ニーズ志向、シーズ志向など)とは異なりますが、企業で行われる研究テーマのほとんどはカバーできていると思います。ちなみに、①は企業全体として取り組み、成功を目指すことを念頭に置いた課題、②は企業(他部署)からの求めに応じて企業活動に貢献する課題(トップダウン、ニーズ志向と呼ばれるテーマなど)、③は研究部隊の判断によって企業活動に貢献しようとする課題(ボトムアップ、シーズ志向のテーマなど)、というイメージになりますが、それぞれについて研究の性格や注意すべきポイントが異なると思われますのでこのように分けて議論することにしました。今回は、まず①について考えてみます。

①企業の収益源となるテーマの設定

どのようなテーマに取り組めば企業活動に最も貢献できるのでしょうか。端的に言ってしまえば、研究がうまくいき、収益を挙げるテーマということになりますが、どんなテーマが成功しやすいかはそれほど明らかではありません。研究やイノベーションへの取り組み方、進め方については様々な意見が発表されていますが、なぜその方法が有効なのか、同じようなことに取り組んでいても成功と失敗が分かれるのはなぜか、といった点について実証的に十分納得できる理論は未確立といってよいのではないでしょうか。

そんな中で、Christensenの破壊的イノベーションの考え方は、研究開発・イノベーションの成功や失敗のメカニズムに関する、現状では最も有効性の高い考え方であると思います。Christensenは、業界をリードしていた優良な企業が、ある種の市場や技術の変化に直面したとき、特段の経営上の失敗もないのにその地位を守ることができなくなった事例の分析を行ない、次のようなメカニズムが存在することを示しています。[文献1に基づき要約]

・ある技術の改良の速度が技術的要求(ニーズ)の進歩の速度を上回ることがある。

・その結果、技術はオーバースペックになる。

・オーバースペック技術であっても、収益率は高いことが多いし、ハイスペックを求める顧客も存在するので、企業はその技術をさらに進歩させようとする。

・往々にして収益性の高さや、既存顧客の確保のために、オーバースペック技術の開発に資源を集中させる。

・その結果、ハイスペックを求めない市場への興味を失い、対応が手薄になる。

・ハイスペックを求めない市場に新たな企業が参入する。

その参入方法は、以下の2通りの場合があるとされます。[文献2、p.493500に基づき要約]

a)ハイスペックを求めない顧客(ローエンドにいる顧客)に対し、それまで以上の利便性か、低い価格を用意する場合

b)従来のスペックで重視される尺度から見れば限界はあるものの今までにない特性からすれば様々な恩恵を与えてくれる製品で新たなマーケットを創造する場合

・いずれの場合も既存企業から見れば利益率が低かったり、市場が小さかったりして魅力の薄い市場であるため、既存企業と新規参入企業間での競争は起こりにくく、新規参入企業の成長は妨げられない。

・新規参入企業の進歩により、既存企業は従来の市場を奪われ、限られた顧客向けのハイスペック市場に追いやられたり、新規参入企業が開拓した新たなマーケットに参入を試みても失敗したりする。

・その結果、既存企業は優位な地位を失う。

このメカニズムにおいて、新たに参入する企業が武器として活用する製品ないしビジネスモデルは「破壊的(disruptive)イノベーション」と呼ばれ、既存企業が狙うハイスペックな技術、製品、ビジネスモデルは「持続的(sustaining)イノベーション」([文献2]では「生き残りのイノベーション」と訳されています)と呼ばれます。さらに破壊的イノベーションのa)の場合が「ローエンド型破壊」、b)の場合が「新市場型破壊」と呼ばれています[文献3、p.55]

Christensenはこのメカニズムに基づき、「既存事業を成長させるためには持続的イノベーションが重要だが、新成長事業として成功する確率が高いのは破壊的戦略である」[文献3、p.125]と述べています。さらにChristensenの共同研究者らは「持続的イノベーションだけを行なっている企業は、破壊的イノベーションを行なう他社に市場奪回の機会を提供してしまったり、すばらしい成長機会が間近にあるにもかかわらずそれを逸してしまったりという結果になる」[文献4、p.9]、「学術的研究によれば、持続的イノベーションにおける戦いでは常に既存プレーヤーが勝利する」が、「破壊的イノベーションの戦いにおいては、ほとんどの既存のプレーヤーが敗れることを示唆する調査結果がある」[文献4、p.26]という見解も述べています。もちろん、破壊的イノベーションの考え方だけですべてのイノベーションの成功を予測することはできませんが、少なくとも上記のような競争の状況においては、破壊する側、破壊に対抗する側のどちらについても、その研究テーマの成功しやすさの予測はある程度可能であると思われます。

なお、破壊的イノベーションに近い考え方にリバースイノベーションがあります[文献5]。「リバース・イノベーションとは、簡単に言うと、途上国で最初に採用されたイノベーションのことだ[文献5、p.6]」とのことですが、リバースイノベーションと、ローエンドの市場に参入する破壊的イノベーションとの関連は深いと思われます。今後、破壊的イノベーションの具体的方法のひとつとして、実務的にも発展していくかもしれません。

一方、KimMauborgneはブルー・オーシャン戦略を提唱しています。これは血みどろの戦いが繰り広げられるレッド・オーシャンから抜け出して「競争のない市場空間を生み出して競争を無意味にする」ブルー・オーシャンを創造することが重要な戦略行為である、と説くものです[文献6、p.4]。破壊的イノベーションの成功の一要因は既存企業との競合が起こりにくいことであることを考えれば、両者が目指すものは近い(特に、新市場型破壊のイノベーションと近い)と言えると思います。ただし、完全に競争のない市場の確立と維持ができなければ、いずれ既存企業や競合企業との競争が発生しますので、上記のような既存企業との競争のメカニズムも念頭におくべきであると思います(その点、破壊的イノベーションの理論の方が具体的で使いやすいと思います)。

他社との競合を避ける(自然と競合が起こらない状況になる場合も含めて)ことによって成功の確率を高めようとする考え方は確かに魅力的ではありますが、すでにある事業分野でそれなりの成功を収めている企業にとっては持続的イノベーションも重要です。実際、破壊的イノベーションの提唱者らも、「一般に、地位を確立している企業であれば、イノベーション資源の少なくとも80%を持続的な改良に配分することを推奨する」[文献4、p.376]としており、持続的イノベーションの重要性もよく認識する必要があります。

どのようなイノベーションを狙い、どのようにイノベーションを進めるべきかについて、Mooreは企業、技術、市場などの状況に応じて進め方を変える必要があると述べています[文献7、8]。考慮すべき状況として挙げられているものは、イノベーションの発展段階、市場の成熟度、企業の型(コンプレックスシステム-複雑な問題を解決するコンサルティング的要素が大きい個別ソリューションが提供される、ボリュームオペレーション-標準化された製品と商取引により大量販売市場でビジネスを遂行する[文献7、p.37])、競合他社に対する長期的な優位性を企業にもたらしてくれる要素(コア)かそうでないか、ある要素がうまく稼働しなかった場合には企業に深刻な結果がもたらされる(ミッション・クリティカル)かどうか[文献7、p.268]、競合他社との競争や自社のしがらみからの脱出[文献8]といった点です。このような細かな場合分けによる戦略は実用的には煩雑にすぎると思われますが、特定の状況におけるイノベーション上の問題解決には使える可能性があるように思います。

結局のところ、企業活動に貢献可能な成功確率の高い研究テーマを設定するためには、その研究やイノベーションが企業活動にどう影響するかをしっかりと認識し、状況に応じたテーマ設定が必要になるということでしょう。破壊的イノベーションのもたらす影響は大きく、その理論による成功や失敗の予測は(少なくとも他の理論よりは)高いと思われますので、この理論を無視することは得策ではないと言えると思いますが、それだけで十分というほど、イノベーションは簡単な問題ではないと思います。Christensenも「一面的な技術戦略をとるのは賢明なことではない。企業は、破壊的技術と持続的技術のどちらに取り組むかによって、明確に異なる姿勢をとる必要がある」[文献1p.270]と述べているように、テーマの設定だけでなく、その内容や状況に応じて進め方を変えるということも必須です。そのためにも、どんなテーマを設定し、それをどのように進めれば成功に至る可能性が高まるのか、というイノベーションのメカニズムをできるだけ実証的に理解することが、イノベーションのあるべき姿の追求ととともに重要なことなのではないかと思います。

考察:破壊的イノベーション理論の意義と重要な示唆

どんな研究をどのように行なえばイノベーションがうまく実現できるのか、ということは研究者であれば誰もが考えることです。しかし、研究者はえてして技術的成功に気をとられることが多く、企業的成功まで考えが及ばないことがあります。その理由のひとつには、技術的成功と事業の成功の関係が明確になっていないことが影響しているでしょうが、イノベーションについて経営学上の検討がなされていないわけではなく、ドラッカーをはじめとして多くの重要な指摘があります。しかし、経営理念から演繹的に述べられた示唆は、それが理屈では非常に納得できるものであっても、その主張を裏付ける実績なり理論なりがなければ、技術者にとってはどうしても縁遠く感じてしまいます。そこに現れたのがChristensenによる破壊的イノベーションの理論でした。技術者にとっては、破壊的イノベーション理論で示された実証的な考え方は、従来の経営理論を補うものとして受け入れやすく感じられたものです。もちろん、実証的とは言っても、科学的な証明にはほど遠いものですが、それでも経営の世界でここまでもっともらしく思われる理論が提出されたことは大きな驚きでした。

破壊的イノベーションの理論には、上述した既存企業の地位を脅かすメカニズムの他にも、イノベーションの成否を予測する上で重要な示唆がありますので、以下にまとめておきたいと思います。

・技術進歩は消費者のニーズを越えて進みやすい→トップ企業はオーバースペック製品を生みやすい。後発企業がトップ企業に追いつくことよりも、ニーズに追いつくことの方が容易。

・消費者は自分の本当のニーズを知らないことがある。

・既存企業にとっては、参入してきたばかりの後発企業と競争する必要性が感じられにくい(不均等の意欲)

・既存企業にとっては、生まれたばかりの破壊的技術を重要視しにくい社内のバイアスがある。

これらの原理は、破壊的イノベーターの成功を説明する手がかりになっているわけですが、実際には、破壊的イノベーションに限らず既存企業の活動の様々な場面で現れてくる現象のように思います。イノベーションの成功の理由の分析は、ともすると勝った企業の成功譚に基づいて行われがちですが、実は負けた方にもそれなりの理由があること、いくつかの原理の積み重ねで成功や失敗が決まる可能性を示したことが、Christensenの貢献のひとつではないかと思います。破壊的イノベーションは、単なる事例ではなく、技術に関わる経営を支配する原則の一部かもしれないという気がしますが、いかがでしょうか。



文献1:Christensen, C.M, 1997、クレイトン・クリステンセン著、伊豆原弓訳、「イノベーションへのジレンマ」、翔泳社、2000.

文献2:Christensen, C.M, Anthony, S.D., Roth, E.A., 2004、クレイトン・M・クリステンセン、スコット・D・アンソニー、エリック・A・ロス著、宮本喜一訳、「明日は誰のものか」、ランダムハウス講談社、2005.

文献3:Christensen, C.M, Raynor, M.E, 2003、クレイトン・クリステンセン、マイケル・レイナー著、桜井祐子訳、「イノベーションへの解」、翔泳社、2003.

文献4:Anthony, S.D., Johnson, M.W., Sinfield, J.V., Altman, E.J., 2008、スコット・アンソニー、マーク・ジョンソン、ジョセフ・シンフィールド、エリザベス・アルトマン著、栗原潔訳、「イノベーションへの解実践編」、翔泳社、2008.

文献5:Govindarajan, V., Trimble, C., 2012、ビジャイ・ゴビンダラジャン、クリス・トリンブル著、渡部典子訳、「リバース・イノベーション 新興国の名もない企業が世界市場を支配するとき」、ダイヤモンド社、2012.

文献6:Kim, W.C., Mauborgne, R., 2005W・チャン・キム、レネ・モボルニュ著、有賀裕子訳、「ブルー・オーシャン戦略」、ランダムハウス講談社、2005.

文献7:Moore, G.A., 2005、ジェフリー・ムーア著、栗原潔訳、「ライフサイクルイノベーション」、翔泳社、2006.

文献8:Moore, G.A., 2011、ジェフリー・ムーア著、栗原潔訳、「エスケープ・ベロシティ キャズムを埋める成長戦略」、翔泳社、2011.



参考リンク



ノート目次へのリンク 


 

研究マネジメント・トピックス目次(2013.7.21版)

このブログの「研究マネジメント・トピックス」というカテゴリでは、「ノート」には入れられなかった研究マネジメントに関する話題について、本や記事の引用をベースに書いています。ここでは表題とリンクをリストにし、要約入りの目次は「その1」「その2」に分割して別ページにしています。それぞれリンクの接続確認、気付いた新たなリンク追加も行なっています。

要約入り目次はこちら:その1その2

その1

研究・イノベーション総論についてのトピックス

「イノベーションの神話」(Scott Berkun著)のまとめと感想2011.2.20)、参考リンク

Thinkers50 -経営思想家ベスト50(2011年)2011.11.27)、参考リンク

「イノベーションとは何か」(池田信夫著)より2012.7.22)、参考リンク

「知識創造経営のプリンシプル」(野中郁次郎、紺野登著)より2012.12.24)、参考リンク

「ビジョナリーカンパニー4」(コリンズ、ハンセン著)より2013.1.20)、参考リンク

研究・イノベーションの方針、着想、スタート段階についてのトピックス

リバース・イノベーション(DHBR2010年論文より)2010.10.17)、参考リンク

「リバース・イノベーション」(ゴビンダラジャン、トリンブル著)より2012.11.25)、参考リンクは上記と同じ

オープン・イノベーションは使えるか?2011.1.10)、参考リンク

エスノグラフィーとイノベーション2010.12.19)、参考リンク

「東大式 世界を変えるイノベーションのつくりかた」2010.11.28)、参考リンク

「ホワイトスペース戦略」-ビジネスモデルイノベーションの方法2012.1.9)、参考リンク

イノベーションをビジネスへ(マリンズ、コミサー著「プランB」より)2012.6.17)、参考リンク

複雑系経営(?)の効果2012.5.6)、参考リンク

ビジネスモデル・ジェネレーション(オスターワルダー、ピニュール著)より2013.3.17)、参考リンク

戦略策定の科学的アプロー2013.6.30)、参考リンク

研究・イノベーションの進め方に関するトピックス

「流れを経営する」を読む2012.3.25)、参考リンク

「イノベーションの知恵」(野中郁次郎、勝見明著)感想2011.3.21)、考リンク

アジャイル、スクラム、研究開発2012.5.27)、参考リンク

「技術経営の常識のウソ」感想2011.4.17)、参考リンク

祝ノーベル賞:『発見の条件』by根岸英一教授2010.10.11)、参考リンク

P&Gのすごさ-ニュー・グロース・ファクトリー2011.11.20参考リンク

知的な失敗2012.2.26)、参考リンク

「エスケープ・ベロシティ」(ジェフリー・ムーア著)感想2012.8.19)、参考リンク

「製品開発をめぐる6つの誤解」(トムク、ライナーセンの論文より)2012.10.14)、参考リンク

「イノベーション5つの原則」(カールソン、ウィルモット著)より2012.11.4参考リンク

「社会技術論」(堀井秀之著)より2013.2.17)、参考リンク

「技術経営の実践的研究」(丹羽清編)より2013.4.29)、参考リンク

「ビジネスモデルイノベーション」(野中郁次郎、徳岡晃一郎編著)より2013.5.26)、参考リンク

その2

研究・イノベーションの環境(仕組み、組織、人)に関わるトピックス

働きがいのある会社とは(Fortune誌「最も働きがいのある米国企業2011」No.1、SASの考え方)2011.1.30)、参考リンク

イノベーションに必要な人材-「イノベーションの達人! 発想する会社をつくる10の人材」2010.11.7)、参考リンク

ナットアイランド症候群:自律的な組織を失敗に導く組織病2010.9.26)、参考リンク

コア・リジディティ2010.9.5)、参考リンク

リーダーがつまずく原因2010.7.19)、参考リンク

イノベーターのDNA2011.5.15)、参考リンク

イノベーションのDNA2012.4.15)、参考リンクは上記と同じ

技術者が問題社員になるとき2011.7.24)、参考リンク

モチベーション再考2011.8.28)、参考リンク

ポジティブ心理学の可能性2011.9.25)、参考リンク

事業創造人材とは2011.10.16)、参考リンク

フロネシス(賢慮)と研究開発2012.1.29)、参考リンク

橋渡し役の重要性2012.9.17参考リンク


エキスパートになる、育てる(金井壽宏/楠見孝編、「実践知」より)

エキスパートといえば、「専門家」、「達人」ということになるでしょうが、その意味には少し違いがあるでしょう。どちらも、ある人が特定の分野についての有用な知識やスキルを持っていることを意味している点では同じとしても、専門家は職業として成立するようなある一定レベル以上の能力を持つことを指すのに対し、達人となるとある分野における能力が卓越していることを意味しているように思われます。

では、どうやれば達人になれるのでしょうか。研究者でいえば、初学者の段階から知識と経験を蓄え、やがて一人前の専門家になり、そのうちの一部の方が達人の領域にまで達する(研究の分野では「第一人者、権威」と言われることが多いと思いますが)、という成長の過程をたどります。もし、少しでも速く、簡単に達人になれるとすれば悪くない話ですし、逆に育成がうまくいかなければ問題を引き起こすかもしれません。今回は、専門的能力の熟達過程と、成長の方法について、金井壽宏/楠見孝編、「実践知」[文献1]に基づいて考えてみたいと思います。

本書は3部構成になっています。以下、その中の重要と思われるポイントをまとめます。

I部、実践知――獲得と継承のしくみ1~3章)

第1章、実践知と熟達者とは(楠見孝)

・「実践知(practical intelligence)とは、熟達者(expert、エキスパート)がもつ実践に関する知性である。熟達者とは、ある領域の長い経験を通して、高いレベルのパフォーマンスを発揮できる段階に達した人をさす。・・・本書では・・・実践知を獲得する学習過程を『熟達化』と定義し、熟達者を熟達化の過程を経た人というより広い意味でとらえる。[p.4]」

・「学校知とは学業に関わる知能、学校の秀才がもつ知能である[p.5]」

・「知能検査で測定される知能は、実践知というより学校知を予測するものである。知能検査の限界として、よく指摘されるのは、知能検査の成績は、学校を終えてからの職場での実績についての予測力が低い点である。こうした知能検査の限界に基づいて、仕事をはじめとする実践場面における知能を説明・予測するために提唱されたものが、実践知なのである」[p.6-7

・「実践知は、経験から実践の中に埋め込まれた暗黙知(tacit knowledge)を獲得し、仕事における課題解決にその知識を適用する能力を支えている。[p.12-13

・「熟達者は、・・・実践知あるいはスキルを経験から獲得することで、高いレベルのパフォーマンスを発揮している」[p.17]。熟達者の特徴は次の9点にまとめられる。1)実践知、とりわけ事実に関する詳細な知識、さらに言語化、意識化されにくい知(暗黙知)を多くもっている。2)最高のパフォーマンスを、素早く正確に実行できる。3)初心者がわからないような重要な特徴に気づく検出、それが何であるかがわかる認識、さらにそれを他のものと弁別できる知覚的スキルをもつ。4)すぐれた質的分析ができる。5)正確な自己モニタリングを行い、自分のエラーや理解の状態を把握できる。6)適切な方略を選ぶことができる。7)その場の状況の情報をリソースとして適切に活用できる。8)不確実性に対応できる広範な方略をもつため、不測の事態にも対応できる。9)短い時間と労力での実行を可能にする効率よく状況を動かすポイントを見つける。

・仕事の実践知を支える4つのスキルと暗黙知:1)テクニカルスキル(タスク管理)、2)ヒューマンスキル(他者管理)、3)メタ認知スキル(自己管理)、4)コンセプチュアルスキル。[p.28

第2章、実践知の獲得(楠見孝)

・「エリクソン(Ericsson)は、仕事に限らず熟達化における高いレベルの知識やスキルの獲得のために、およそ10年にわたる練習や経験が必要であるとして、『10年ルール』を提起している。」[p.34

・熟達化の段階:1)初心者(指導者からコーチングを受けながら、仕事の一般的手順やルールのような手続き的知識を学習し、それを実行する手続き的熟達化が行われる)、2)一人前における定型的熟達化(指導者なしで自律的に日々の仕事が実行できる段階)、3)中堅者における適応的熟達化(柔軟な手続き的熟達化によって、状況に応じて、規則が適用できる。さらに、文脈を越えた類似性認識(類推)ができるようになり、類似的な状況において、過去の経験や獲得したスキルを使えるようになる)、4)熟達者における創造的熟達化(高いレベルの完璧なパフォーマンスを効率良く、正確に発揮でき、事態の予測や状況の直観的な分析と判断は正確で信頼できる)、5)叡智(仕事場を含む幅広い人生経験に基づく深く広い知識と理解に支えられた知性)[p.35-39

・実践知獲得のための学習:1)観察学習、2)他者との相互作用(対話、情報のやりとり)、3)経験の反復、4)経験からの機能と類推、5)メディアによる学習(書物、研修など)[p.41-45

・経験から実践知をどれだけ多く獲得できるか:経験から学習する態度(挑戦性、柔軟性、状況への注意とフィードバック、類推)、省察(過去の体験に意義や意味を解釈して深い洞察を得る、実践の可能性について考えを深める)、批判的思考(基準に基づく合理的(理性的・論理的)で偏りのない思考)による。[p.45-51

・実践知獲得を促進する組織特性や職場環境:異動、責任、負担、障害、コミュニティ、批判的思考ができるクリティカルコミュニティ[p.51-53

第3章、実践知の組織的継承とリーダーシップ(金井壽宏・谷口智彦):

・リーダーを育て、育成の仕組みをつくるのはリーダーの役割のひとつ、薫陶を受けながら学ぶ、リーダーシップの持論を言語化し、それと言行一致した行動をとるときに最も促進される、研修以上に経験と薫陶が大事。[p.61-62

・「持論の特徴は、暗黙知であること、経験と経験の物語に根づいていることであり、加えて、それ自体が暗黙知で物語に支えられているなら、持論そのものが言語化されることが不可欠となる[p.68]」

・リーダーシップエンジン、リーダーシップパイプライン:リーダーが次世代リーダーを生み出すリーダーシップ育成の連鎖の仕組み[p.97

II部、エキスパートの仕事場から(第4~6章)

II部に述べられた事例から特徴的と感じたものを抜き出しておきます。

第4章、組織の中で働くエキスパート:営業職(松尾睦)、管理職(元山年弘、金井壽宏、谷口智彦)、IT技術者(平田謙次)

・目標達成志向の信念(自身の売上目標を達成することを重視)は、目の前の販売業績を高める力がある。顧客志向の信念(顧客を満足させ、顧客から信頼されることを重視)は、現在の販売業績を高める力はないものの、経験から学習する能力を高め、将来の販売業績を高める力をもつ[p.117-118

・管理職が持つ実践知:1)タスク管理、2)他者管理、3)自己管理[p.125,28

・参照実践知:体系化された実践知(知識、基本スキル)[p.150

・遂行実践知:タスクプライオリティ知(実践の仕事場でタスクを選択したりタスクの優先順位をつけたりする)、資源配分知(適切な認知資源を投入する)、状況知(参照実践知を状況において実働可能にする)[p.153

第5章、人を相手とする専門職:教師(坂本篤史、秋田喜代美)、看護師(勝原裕美子)

・「教師の仕事は、時々刻々と進まざるをえないために、複雑な状況を無視したルーティン化の危険性がある。とくに、個人で省察を行っていると、個人的な信念を強固にしていく可能性がある。したがって、他者に開かれた省察を行う必要がある。→教師のコミュニティの中での学習[p.184

・看護師においては、各レベルにおいて到達すべき目標が具体的に決められ(クリニカルラダー)、自分のレベル確認、次レベルへの目標につなげられる[p.215]。また、新人をチーム全体で育てる仕組みがある[p.211]。

第6章、アートに関わるエキスパート:デザイナー(松本雄一)、芸舞妓(西尾久美子)、芸術家(横地早和子、岡田猛)

・正統的周辺参加:「学習者は熟達者の所属する実践共同体に所属し、最初は共同体の周辺から、その中で熟達に応じた役割を果たしながら、共同体への参加を深めていく」[p.236]。新人が雑用を引き受けることにはそうした意義もある。

・芸舞妓の世界では、教育システム、メンターシステム、顧客を含む実践コミュニティが形成され、実践知がひきつがれている。

・「芸術家が熟達するためには、作品を発表する場、適切な評価を受けられる場、鑑賞者からのフィードバックを得られる場などが必要」[p.291

終章、熟達化領域の実践知を見つけ活かすために(金井壽宏)

・主体性(agency)と共同性(communion):「どんなに卓越した熟達者(エキスパート)であっても、『おれが、おれが』で通している人は、その意味で発達不全であり、その領域で人を育てる意志と、その領域で切磋琢磨する人々をうまく導くリーダーシップが、望まれるようになる」[p.298

・熟達化への動機づけ要因(モティベータ):有能感(その領域で有能で、効果的に環境に働きかけることができ、その領域をうまくマスターしているという実感[p.304])、用具性(熟達することがポジティブな諸結果(広義の報酬)をもたらす主観的確率)、自己決定と自己イメージ(自分で決めること、才能や有能さの自己イメージ)が重要。

・熟達化へのモティベーションの自己調整:熟達に必要な長期間、熟達へのモティベーションを維持する必要がある。その自己調整のための方法として、1)緊張系(未達成だと気づくと人は動く、欠乏動機、ハングリー精神、危機意識)、2)希望系(希望、達成感、達成に対する承認や賞賛、報酬への期待、成長感、楽しみや熱中)、3)持論(自分自身を自分で動機づけるためのモティベーションの持論)、4)関係系(他者との関係性の中で人は動機づけられる、親和動機、親密動機)[p.311-317

・「孤高にエージェンティックに自分を研ぎ澄まそうとするだけでなく、師匠、仲間との切磋琢磨と相互刺激の源泉となるコミューナルな関係性の中で、熟達のレベルを挙げ、十分に腕を挙げて、究極には、外的技術からうまい!といわれるレベルを越えた、自分のスタイルに達する。そういう創造的熟達者(エキスパート)への道を、仕事の世界でも歩みたいものである。」[p.340

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研究者にとっての熟達のひとつの形は自分の専門分野で高い能力を発揮することです。そのためには、まず高いスキルを持つ必要があります。科学技術分野では、そうしたスキルは学校知の範囲に入ることも多いため、育成や継承を考える際に実践知が軽視されてしまうことがありますが、暗黙知を始め経験に基づく実践知は、特に未知の領域、不確実な領域、人間がかかわる領域では無視できるものではないはずです。さらに、研究者は競争的環境に置かれることも多く、孤高になりがちだとすれば、「共同性」や組織としての育成ということにもう少し目を向けるべきでしょう。研究組織、研究のエキスパートが保有する実践知について、どういう点に注意してその熟達と継承を行わなければならないのか、本書は多くの示唆を含んでいるように思われます。

さらに、研究者としての熟達と研究マネジャーとしての熟達の違いについても注意が必要だと思います。多くの研究マネジャーは研究者としてキャリアを始め、研究者としてのスキルを磨くことになりますが、やがて、他者との協働プロジェクトに参加したり、後輩を指導したりし、やがては管理職という業務につく場合もあるでしょう。その時、今まで積み上げてきた研究者としての専門的スキルの熟達の成果が通用しない場合もあることは自覚しておく必要があるはずです。本書の第II部では、ひとつの分野での熟達の事例が多くとりあげられていますが、専門分野のスキルの熟達から管理職としての熟達化を目指す方向に志向を切り替える方法についても考えておく必要があると思いました。おそらくは、「共同性」を重視した熟達のプロセス、組織的なサポートをうまく利用する必要があるのではないかと思いますがいかがでしょうか。組織としても個人としても求められる熟達レベルが高まっている現在、研究者として、研究マネジャーとしての熟達のあり方、進め方についてしっかり考えておく必要があると思います。



文献1:金井壽宏、楠見孝編、「実践知 エキスパートの知性」、有斐閣、2012.


参考リンク<2013.8.18追加>

 


 

「ファスト&スロー」(カーネマン著)より

今回は、心理学者であり、ノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンによる「ファスト&スロー」[文献1]についてとりあげたいと思います。本ブログでも、ヒューリスティクスやバイアス、意思決定感性限界の問題について触れてきましたが、行動経済学の創始者の一人とされ、心理学者としてこうした問題を研究してきたカーネマンによって述べられる内容は、この分野の基礎となりうるものだと思います。以下、各章の内容を簡単にまとめてみたいと思います。

第1部、2つのシステム:判断と選択を2つのシステムで説明する二重過程理論に基づくアプローチが取り上げられます。

第1章、登場するキャラクター――システム1(速い思考)とシステム2(遅い思考):「『システム1』は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。・・・『システム2』は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。」「考えたり行動したりすることの大半は、システム1から発している。だがものごとがややこしくなってくると、システム2が主導権を握る。・・・システム1とシステム2の分担はきわめて効率的にできている。すなわち、努力を最小化し成果を最適化するようになっている」。思い違いという錯覚を『認知的錯覚(cognitive illusion)』と呼ぶ。

第2章、注意と努力――衝動的で直観的なシステム1:「システム2にしかできない重要な仕事は・・・努力や自制を要する仕事で、このようなタスクの実行中には、システム1の直感や衝動は押しのけられる。」

第3章、怠け者のコントローラー――論理思考能力を備えたシステム2:「システム2が忙殺されているときには、システム1が行動に大きな影響力を持つ」。「システム2に困難な要求を強いる活動は、セルフコントロールを必要とする。そしてセルフコントロールを発揮すれば、消耗し不快になる。」「システム2は論理思考能力を備えていて注意深い。しかし、少なくとも一部の人のシステム2は怠け者である」。システム1、システム2の名称を最初に提案したのは、スタノビッチとウェスト(最近ではタイプ1、タイプ2という表現)。

第4章、連想マシン――私たちを誘惑するプライム(先行刺激):システム1は状況をできるだけ筋道の通るものにしようと試み、因果関係に仕立てる。プライミング効果(priming effect)により、「自分では意識してもいなかった出来事がプライムとなって、行動や感情に影響を与える。」

第5章、認知容易性――慣れ親しんだものが好き:繰り返された経験、見やすい表示、プライムのあったアイデア、機嫌がいい状態などは認知容易性(cognitive ease)をもたらし、親しみ、信頼、快感、楽だという感じを引き起こす。慣れ親しんだものは好きになる、これが単純接触効果(mere exposure effect)。

第6章、基準、驚き、因果関係――システム1のすばらしさと限界:システム1は周囲の状況を連想によって関連づけ、世界を表すモデルを構築し、その予想に反することに驚く。システム1は手持ちの断片的な知識を結びつけて、つじつまの合う因果関係をこしらえる。

第7章、結論に飛びつくマシン――自分が見たものがすべて:「システム1はだまされやすく、信じたがるバイアスを備えている。」「自分の信念を肯定する証拠を意図的に探すことを確証方略と呼び、システム2はじつはこのやり方で仮説を検証する」(確証バイアスconfirmation bias)。「ある人のすべてを、自分の目で確かめてもいないことまで含めて好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向は、ハロー効果(Halo effect)として知られる。」システム1の形成する世界のモデルは現実以上に一貫性がある。「限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は、・・・自分の見たものがすべて(what you see is all there is, WYSIATI)だと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する。」「情報の質にも量にもひどく無頓着」

第8章、判断はこう下される――サムの頭のよさを身長に換算したら?:「システム1は、とりたてて目的もなく、自分の頭の中と外で起きていることを常時モニターし、状況のさまざまな面を絶えず評価している。こうした日常モニタリングは、難しい問題の置き換えに威力を発揮し、直感的判断で重要な役割を果たす。これが、ヒューリスティックスとバイアスの基本である。」システム1は平均はうまく扱えるが、合計は苦手。含まれているものの数を無視しがち。システム1には、他に、次元の異なる価値を変換して比較する能力(レベル合わせ、intensity matching)、「状況のある面だけを評価しようとしても、そこに照準を合わせることができず、日常モニタリングも含めた他の情報処理が自動的に始まってしまう(メンタル・ショットガン、(mental shotgun)」傾向がある。

第9章、より簡単な質問に応える――ターゲット質問とヒューリスティック質問:「もともと答えるべき質問を『ターゲット質問』、代わりに答える簡単な質問を『ヒューリスティック質問』と呼ぶ」。「ヒューリスティックスの専門的な定義は、『困難な質問に対して、適切ではあるが往々にして不完全な答えをみつけるための単純な手続き』」。「スロビックは、好き嫌いによって判断が決まってしまう『感情ヒューリスティック(affect heuristic)』の存在を提唱している。」

第2部、ヒューリスティックスとバイアス

第10章、少数の法則――統計に関する直感を疑え:「少数の法則とは、大数の法則は小さな数にも当てはまるとする法則」(これは研究者に対する皮肉)。「小さい標本に対する過剰な信頼は、より一般的な錯覚の一例にすぎない。その錯覚とは、私たちはメッセージの内容に注意を奪われ、その信頼性を示す情報にはあまり注意しないことである。その結果、自分を取り巻く世界を、データが裏付ける以上に単純で一貫性のあるものとして捉えてしまう。」「連想マシンには、原因を探すという性質がある。」

第11章、アンカー――数字による暗示:「ある未知の数値を見積もる前に何らかの特定の数値を示されると、・・・見積もりはその特定の数値の近くにとどまったまま、どうしても離れることができない。」この現象が、アンカリング効果(anchoring effect)(または係留効果)。

第12章、利用可能性ヒューリスティック――手近な例には要注意:事例が頭に思い浮かぶたやすさ、予想していたほどたやすく思いだせるかどうかで頻度を判断するのが、利用可能性ヒューリスティック(availability heuristic)。

第13章、利用可能性、感情、リスク――専門家と一般市民の意見が対立したとき:感情ヒューリスティックは置き換えの一種であり、難しい質問(それについて自分はどう考えるか?)の代わりに、やさしい質問(自分はそれを好きか?)に答えている。「政策立案者は、市民を現実の危険から守るだけでなく、不安からも守るべく努力しなければならない。」

第14章、トム・Wの専攻――「代表性」と「基準率」:代表性(representativeness)とはステレオタイプとの類似性。基準率(base rate)とは、もともとの存在比率。「確率(可能性)を見積もるのは難しいが、類似性を判断するのはたやすい。」「ステレオタイプには一面の真実があり、それが代表性の判断を支配している。」「だが、ステレオタイプが誤解に基づいていて、代表性ヒューリスティックが判断を誤らせることもよくある。とりわけ基準率が代表性とはちがうことを示唆しているときに、基準率情報を無視するのは、誤判断につながりやすい。」

第15章、リンダ――「もっともらしさ」による錯誤:2つの事象が重なって起きることと単一の事象を直接比較したうえで、前者の確率が高いと判断する錯誤が『連言錯誤(conjunction fallacy)』。「つじつまの合うストーリーの大半は、必ずしも最も起こりやすいわけではないが、もっともらしくは見える。そしてよく注意していないと、一貫性、もっともらしさ、起こりやすさ(確率)の概念は簡単に混同してしまう。」

第16章、原因と統計――驚くべき事実と驚くべき事例:基準率には2種類ある。「一つは『統計的基準率』で、これは母集団に関する事実である。しかしこの数字は、個々の予測では無視されがちである。もう一つは『因果的基準率』で、こちらは個々の予測を変える効果がある。」因果的基準率とは因果関係を確率的に表現したようなもの。驚くべき個別の事例は強烈なインパクトを与える。

第17章、平均への回帰――誉めても叱っても結果は同じ:ランダムな値の変動に基づく平均への回帰(regression to the mean)は理解されにくい。「回帰が検出されると、ただちに理由づけが始まる。だがこれは誤りだ。平均回帰を説明することはできても、原因は存在しない。」「システム2がこれを理解困難と感じるのは、のべつ因果関係で解釈したがるシステム1の習性のせい」

第18章、直感的予測の修正――バイアスを取り除くには:「根拠薄弱な情報に基づいて極端に偏った予測やごく稀な事象を予測するのは、どちらもシステム1のなせる技である。・・・システム1は、手元情報がら作り出せるストーリーの筋が通っているときほど自信を持つので、ごく当然のように自信過剰な判断を下す。・・・直感は極端に偏った予測を立てやすいものだと肝に銘じ、直感的予測を過信しないよう気をつける」べき。

第3部、自信過剰

第19章、わかったつもり――後知恵とハロー効果:「人間の脳の一般的な限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できない」。その結果、「必然的に、過去の事象に対して感じた驚きを後になって過小評価することになる。」これが後知恵バイアス(hindsight bias)。「企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。・・・こうした物語は『わかったような気になる』錯覚を誘発し、あっという間に価値のなくなる教訓を読者に垂れる。」

第20章、妥当性の錯覚――自信は当てにならない:「自分たちの予測が当てずっぽうより少しましであることを知っていた。それでもなお、自分たちの評価は妥当だと感じていた。」これが妥当性の錯覚(illusion of validity)。「強い主観的な自信がいくらあっても、それは予測精度を保証するものではない」。「とはいえ、近い将来に関する限り、評論家の知見には価値がある。」

第21章、直感対アルゴリズム――専門家の判断は統計より劣る:予測困難な問題に関して、専門家の予測が単純なアルゴリズムに負けてしまうのは、いろいろな要因を複雑に組み合わせて予測を立てようとすること、複雑な情報をまとめて判断しようとすると一貫性が欠けてしまうことのため。

第22章、エキスパートの直感は信用できるか――直感とスキル:直感がスキルとして習得できる可能性が高いのは、「十分に予見可能な規則性を備えた環境であること、長期間にわたる訓練を通じてそうした規則性を学ぶ機会があること」。

第23章、外部情報に基づくアプローチ――なぜ予想ははずれるのか:「ベストケース・シナリオに非現実的なほど近い、類似のケースに関する統計データを参照すれば改善の余地がある」、ような計画や予測が「計画の錯誤」と呼ばれる。

第24章、資本主義の原動力――楽観的な起業家:楽観的な自信過剰が楽観バイアス。意思決定にあたっては、よい面も悪い面もあるが、「ものごとを実行する段になったら、楽観主義はプラスの効果の方が大きいだろう。」「学術研究も失敗率が高く、楽観主義が成功に必須の分野ではないかと私はつねづね考えている。」

第4部、選択

第25章、ベルヌーイの誤り――効用は「参照点」からの変化に左右される:「富の効用によって幸福の度合いが決まる」という「ベルヌーイの理論はまちがっている。」「感じるしあわせは、当初の富の状態に対する変化によって決まるのである。この当初の状態を参照点(reference point)と呼ぶ。

第26章、プロスペクト理論――「参照点」と「損失回避」という2つのツール:プロスペクト理論の3つの認知的特徴は、1)評価が参照点に対して行われること、2)感応度低減性(diminishing sensitivity)、3)損失回避性(loss aversion)。合理的経済人であるエコンに対し、ふつうの人であるヒューマンを想定している。

第27章、保有効果――使用目的の財と交換目的の財:持っているだけで価値が高まるような場合を「保有効果(endowment effect)」と呼ぶ。自分が使用する目的で保有する財と、交換する目的での財との違いが影響する。

第28章、悪い出来事――利益を得るより損失を避けたい:「損失回避は現状の変更を最小限にとどめようとする強い保守的な傾向であり、組織にも個人にも見受けられる。近所付き合いや結婚生活や職場で安定した状態が維持されるのは、こうした保守的な傾向が寄与しているといえよう。」

第29章、四分割パターン――私たちがリスクを追うとき:選好の四分割パターンは、1)高い確率で大きな利得を手にできる見込みを前にすると、人々はリスク回避的になる(確実な利得を選ぶ)。2)低い確率で大きな利得が得られる場合、リスク追求する(宝くじなど)、3)低い確率で大きな損失がある場合、リスク回避的になり平安を買う(保険など)、4)高い確率で大きな損失がある場合、リスク追求的になりなんとか損を防ごうとする。

第30章、めったにない出来事――「分母の無視」による過大な評価:「稀な事象の確率がよく過大評価されるのは、記憶の確証バイアスが働くから」。頭の中で現実のものとして思い描くと確率が過大評価され、それでない場合は一転して無視される(稀な事象を経験していないから)。

第31章、リスクポリシー――リスクを伴う決定を合理的に扱う:「私たちは『見たものがすべて』と考えやすく、頭を使うことを面倒くさがる傾向がある。・・・私たちは、自分の選好をつねに首尾一貫したものにしたいとも思っていないし、そのための知的資源も持ち合わせていない。私たちの選好は、合理的経済主体モデルで想定されているような美しい整合性にはほど遠い」。リスクポリシーを決め、広いフレーミングをすることはバイアスを打ち消す効果がある。

第32章、メンタル・アカウンティング――日々の生活を切り盛りする「心理会計」:投資家が銘柄ごとに勘定を設定し、その勘定を最後は黒字で締めたいと考えていることは、気質効果(disposition effect)と呼ばれる。「他にもっとよい投資先があるにもかかわらず、損を出している勘定に追加資金を投じる決断は、『サンクコストの錯誤(sunk-cost fallacy)』として知られる。後悔を避ける気持ち、あらゆるリスクの増加を認めないトレードオフのタブー視も意思決定に影響する。

第33章、選好の逆転――単独評価と並列評価の不一致:「単独評価の場合には、システム1の感情反応が強く反映されるため、一貫性を欠きやすい。」

第34章、フレームと客観的事実――エコンのように合理的にはなれない:問題の提示の仕方が考えや選好に不合理な影響をおよぼす現象がフレーミング効果。こうした場合には選好は問題のフレームの好き嫌いと解釈できる。「大事なのは、こうした認知的錯覚の存在を示す証拠は否定できないこと」。

第5部、二つの自己

第35章、二つの自己――「経験する自己」と「記憶する自己」:経験する自己(experiencing self)は今の状態を評価する。記憶する自己(remembering self)はそのうちの代表的な瞬間だけで代表させる(ピークと終了時(ピーク・エンド)を評価、持続時間は無視)。

第36章、人生は物語――エンディングがすべてを決める:人生におけるしあわせの評価もピーク・エンドに左右され、持続時間は無視される。

第37章、「経験する自己」の幸福感――しあわせはお金で買えますか?:「所得が多いほど生活満足度は高まる」が、「閾値を超えると所得に伴う幸福感の増え方は、平均してなんとゼロになる。」「人々の生活評価と実際の生活での経験は、関連性はあるとしても、やはり別物」。

第38章、人生について考える――幸福の感じ方:「私たちは、幸福の概念を複合的に捉える必要性を認め、二つの自己それぞれの幸福を考えるべきだろう。」そのとき注意が向けられていた生活の一要素が、総合評価において不相応に大きな位置を占めることを「焦点錯覚(focusing illusion)」と呼ぶ。

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以上が本書に述べられた概念のまとめです。できる限り短くまとめたかったので、多少無理しているところがありますが、ご容赦ください。ちなみに著者は、結論の章で、次のように述べています。「私たちは、自分自身の判断や意思決定をどうしたら向上させられるだろうか。・・・一言で言えば、よほど努力をしない限り、ほとんど成果は望めない。・・・システム1に起因するエラーを防ぐ方法は、原理的には簡単である。認知的な地雷原に自分が入り込んでいる徴候を見落とさず、思考をスローダウンさせ、システム2の応援を求めればよい。・・・だが残念ながら、最も必要なときに限って、こうした賢明な手段はめったに講じられないものである。・・・それに引き換え、他人が地雷原に迷い込もうとしているときにそれを指摘するのは、自分の場合よりはるかに簡単である。・・・ことエラーの防止に関する限り、組織のほうが個人よりすぐれている。組織は本来的に思考のペースが遅く、また規律をもって手続きに従うことを強制できるからだ。・・・一部なりとも明確な用語の定義を決めて共通の文化を浸透させ、地雷原に近づいたらお互いに警告を発することができるのも、組織の強みである。・・・建設的に批判するスキルには、的確な語彙が欠かせない・・・オフィスでの井戸端会議が質的に向上し語彙が的確になれば、よりよい意思決定に直結するだろう[下p.272-274]」。人間の認知、意思決定に存在する問題点を認識することがまず必要なことは言うまでもありませんが、問題への対処法として組織的な協力が示唆されている点が特に意義深いと感じました。人間の思考と行動を理解する上で、これからの基本的概念になりうるものだと思うのですが、いかがでしょうか。


文献1:Daniel Kahneman, 2011、ダニエル・カーネマン著、村井章子訳、「ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 上、下」、早川書房、2012.

原著表題:Thinking, Fast and Slow

原著webページ:http://us.macmillan.com/thinkingfastandslow/DanielKahneman


 

 

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