研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2015年01月

「バグる脳」(ブオノマーノ著)-思考、判断のバイアスと誤りを理解する

人間の判断に伴うバイアスと、バイアスが原因の判断ミスについては本ブログでも何度も取り上げてきました(例えば、「ファスト&スロー(カーネマン)」、「意思決定理論入門(ギルボア)」、「まさか!(モーブッサン)」、ヒューリスティクス、「無意識のわな」など)。どんな場合にどんなミスを犯しやすいかの事例はそれぞれ非常に面白いですし、そうした事例を知ることは、判断ミスを防止する上で重要でしょう。しかし、数多くの事例を覚えておいて、具体的な判断の場面で自在に適用することはそれほど簡単なことではない、とも思います。

もし、そうした判断ミスをもたらす本質的な原因がわかれば、多くの事例も記憶にとどめやすくなって、注意すべきポイントも絞り込めるのではないか、と思っていたところ、バイアスの問題について脳科学の立場から解説した本(「バグる脳」(ブオノマーノ著)[文献1])を見つけましたので、今回はその内容をまとめてみたいと思います。

はじめに:脳は今日もバグってる
・「人間の脳にはもともと向いている課題とそうでない課題があるのだ。あいにく、それを見分けるのも脳は苦手なので、自分の人生が脳のバグにどれほど支配されているかについて、私たちはたいてい、おめでたいほど無知でいる。[p.10]」
・「デジタルコンピューターと脳では、得意とする種類の計算がまったく違う。計算に関する脳の長所のうちでも際立っているのは(そして、現在のコンピューター・テクノロジーの持つ周知の弱点は)、パターン認識だ。[p.14]」
・「あなたの脳は、約900億のニューロンが100兆のシナプスでつながっているウェブで、素子と接続の数では・・・ワールドワイドウェブを凌ぐ。情報素子としては、ニューロンは外向的で、接続を構築したり、何千というほかのニューロンと同時にコミュニケーションをしたりするのがうまい。だから、パターン認識のように、部分の関係から全体を理解する必要がある計算課題にはうってつけだ。・・・これとは対照的に、数値計算は、コンピューター・チップ上の何百万というトランジスターに任せるのが理想的だ。トランジスターのそれぞれは、事実上絶対に誤りがなく、独立したスイッチのような特性を持っているからだ。ニューロンはノイズの多い素子なので、スイッチとしてはお粗末[p.19]」。
・「今日私たちが暮らしている世界は、初期のホモ・サピエンスが見慣れた世界とはまったくの別物だ。・・・それなのに私たちは、本質的に昔と同じ神経系のオペレーティング・システムを相変わらず使っている。現在、人間はもともと棲息するようにプログラムされていない時代と場所に暮らしているのに、脳の構築の仕方について私たちのDNAに書き込まれた命令一式は、10万年前と変わらない。[p.26]」

第1章、ニューロンがもつれるThe Memory Web
・人間の記憶と認知が持つ根本的な特徴:1)知識は互いに結びついた形で貯蔵されている、2)ある概念について考えると、それがどういうわけか、関連したほかの概念にも「拡がり」、そうした概念が思いだしやすくなる[p.29]。「この無意識で自動的な現象は、『プライミング』として知られている。[p.30]」
・「人間の脳は、まわりの世界についての事実知識を互いに結びつけて貯蔵する[p.33]」。「私たちが頭に浮かべうるものや概念は事実上無限にあり、それを脳がどうやってコード化しているか、正確なところはわからないものの、『シマウマ』といった概念はすべて、それぞれ一群のニューロンの活動によってコード化されているのは明らかだ。だから『シマウマ』ノードは漠然としたニューロンの集まりと考えるのが最善だろう。そして・・・どのニューロンも多くの違うノードに所属できる。[p.36]」
・「長期記憶がシナプスの可塑性に依存していると言っても、今ではもう大丈夫だろう。シナプス可塑性とは、新しいシナプスを形成したり、すでに存在しているシナプスを強めたり(あるいは弱めたり)できる性質のことだ。・・・シナプス可塑性を利用して脳は情報を書きとめるという現在の考え方は、意味記憶の連合アーキテクチャーとぴったり合致する。新しい結びつき(ノード間の新しいリンク)を学習するのは、とても弱いシナプスの強化か新しいシナプスの形成に相当すると言える。[p.39]」
・「ニューロンXとニューロンYの間のシナプスの強さは、この2つのニューロンがほぼ同時に活性化すると強まることを、今や私たちは知っている。この単純な概念は・・・『ヘップの法則』と呼ばれる。この法則は、『いっしょに発火するニューロンはつながる』というわかりやすい言葉で表わされるようになった。[p.42]」
・「アフリカや白と黒という考えを呼び起こせば、シマウマを思い浮かべるように仕向けられるのは、さまざまな概念の結びついたネットワークとして知識が貯蔵されているからだけではなく、記憶の検索が伝染性のプロセスだからでもある。『アフリカ』ノードが活性化すると、私たちはまったく意識していないのに、それとリンクしているほかのノードも活性化し、シマウマを思い浮かべる可能性が高まる。・・・プライミングが脳のハードウェアに埋め込まれていることは明らかだ。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、ある単語を耳にすると脳は次に来そうな単語を無意識のうちに予測しようとする。・・・おそらくプライミングは、単語が現れるコンテクストをすばやく考慮して言語につきものの不明瞭さを解消する私たちの能力に貢献しているのだろう[p.45-46]。」

第2章、記憶のアップデートについていけないMemory Upgrade Needed
・「私たちは記憶の連合アーキテクチャーのせいで、リストに実際に乗っている単語に密接に関連した単語がリストに載っていると錯覚するといった、特定のミスを犯しやすい。・・・脳の中では、読み出しと書き込みの作業は互いに独立していない。記憶を検索する行為が記憶の中身を変えうる。[p.62]」
・「自分の経験の記憶は事実の忠実な再現ではなく、時間と空間の異なるさまざまな点にまたがる出来事のモザイクに基づいた、部分的で流動的な再建物だ。脳の貯蔵の仕組みは柔軟なので、私たちの記憶は時間の中で途切れなくアップデートされている。・・・事実をまぜこぜにしたり消し去ったり、出来事がいつ起こったかを取り違えたり、何もないところから偽りの記憶を創り上げたりさえするという私たちの性向も、記憶の流動性で説明がつく。こうした特徴やバグは、部分的には、(コンピューターとは違って)脳で行なわれる記憶と検索の作業が互いに独立した過程ではなく、密接に絡み合っているという事実に帰することができる。[p.85]」

第3章、場合によってはクラッシュするBrain Crashes
・「脳は計算上の必要に応じて、皮質という資源を動的に割り当てることができる[p.96]」。「適応能力と再編能力は、皮質のとりわけ強力な機能だ。皮質に可塑性があるため、練習すれば物事がうまくできるように・・・なる。・・・だが皮質の可塑性は、軽度あるいは重度の障害に応じて起こる脳のバグのうち、いくつかの原因でもある。幻肢痛は脳自体の欠陥であり、手や足の喪失に適応しようとする脳の不具合によって引き起こされる。脳の驚くべき再編能力が不適応を起こすこともあるのだ。[p.101]」
・「性能に劇的な影響を及ぼさずに相当量の変化と損傷に耐えうるシステムは『グレースフル・デグラデーション』を示しているという」、「皮質のニューロンが数十個消失したとしても、・・・それとわかる影響は出ないだろう。これは一つには、ニューロンとシナプスが驚くほどノイズの多い、信頼できない計算装置だからだ。・・・個々のニューロンとシナプスが信頼性に欠けるのは、脳がグレースフル・デグラデーションを示す理由の一つとも考えられる。[p.104-105]」

第4章、時間感覚が歪むTemporal Distortions
・「時間的隔たりのある出来事の間の関係を理解するのは楽ではない。[p.117]」
・「即座に満足感を得たがる傾向を『時間割引』と呼ぶ[p.117]」。「脳には即時の報酬によってかなり活性化する部分がある。早いうちに進化を遂げた『大脳辺縁系』という情動処理にかかわる部分は、その一例だ。・・・私たちの脳は即座に満足感を得たがるように作られているので、長期的な幸福に悪影響が及ぶことがある。[p.120]」
・「進化につきものの非体系的な設計過程を経た結果、私たちはそれぞれ特定の時間的尺度を専門とする生物的時間計測装置の寄せ集めを持つにいたった。・・・だが、時間を知るために脳が使う戦略は、多くの脳のバグにもつながる。そうしたバグのなかには、主観による時間の伸び縮み、感覚刺激の実際の順番をひっくり返す錯覚、原因と結果の間の妥当な時間のずれについての先入観から生まれる心理的盲点、行動の短期的影響と長期的影響を正しく天秤にかけることの難しさなどが含まれる[p.136]」。

第5章、必要以上に恐れるFear Factor
・「動物が捕食者や有毒な動物や敵など、命を脅かす危険に対して確実に先回りして反応できるように進化が与えたのが恐れだ」。しかし、「私たちの環境は初期の人間が生きてきた環境とはまったく異なるので、祖先にとっての危険について学習するように遺伝的にできている私たちは、厄介な状況に陥る可能性がある。たとえば、私たちの世界ではさほど危険でないものに対して、恐怖心を抱くときがそうだ[p.141]」
・「情動の処理に貢献する、進化的に古い脳構造の一つである扁桃体は、恐れを表したり学習したりするのに欠かせない。[p.146]」
・「私たちが何を恐れるかは、進化によって編み出された3つ組の戦略に由来する。その3つとは、生まれつきの恐れ(先天的なもの)、学習した恐れ(後天的なもの)、そして、この両方を兼ね備えた、あらかじめ特定のものへの恐れを学習しやすくなっているという遺伝的性質だ。この3通りの戦略から少なくとも2つ、恐れにかかわる脳のバグが生じている。1つ目は、私たちが恐れるようプログラムされている対象は、現状には不適応と言えるぐらいどうしようもなく時代遅れだということ。2つ目は、私たちは観察によって、自分の害になりそうもないさまざまなものへの恐れを、知らず知らずのうちに学習していくということだ。[p.157]」

第6章、無意識に不合理な判断をするUnreasonable Reasoning
・「プライミングとフレーミングとアンカリングはすべて互いに関連した心理現象で、同一の神経メカニズム、つまり、結びついている概念や感情や行動を表すニューロン群の間で活動が拡がる仕組みが原因かもしれない。[p.192]」
・「私たちの生活を形作る判断には、とても相補的な2つの神経システムの産物という面がある。一方の自動システムはすばやく無意識に働き、脳の連合アーキテクチャーに大きく依存している。・・・もう一方の熟慮システムは意識的なもので、努力が必要で、長年の教育や訓練の恩恵を積み上げたときに最善の状態になる。[p.194]」

第7章、広告にすっかりだまされるThe Advertising Bug
・「神経系のオペレーティング・システムがマーケティングにこれほど左右されやすい原因を何か一つに絞ることはできない。だが、模倣によって学習する性向と、脳の連合アーキテクチャーの2つが大きな原因であることは確実だろう。[p.223]」

第8章、超自然的なものを信じるThe Supernatural Bug
・「歴史を振り返っても現状を見ても、信仰には理性も基本的な本能も一様に退ける力があるのを多くのデータが裏づけていることを考えると、超自然信仰はどうやらほかの知的能力のたんなる副産物ではなさそうだ。むしろ、それは私たちの神経系のオペレーティング・システムにプログラムされているのかもしれない。そして、そこで特権的な地位を占めているからこそ、私たちはそれを脳のバグとして認識しにくいのだ。[p.251-252]」

第9章、脳をデバッグするということDebugging
・「脳のバグを認識してその埋め合わせをすることを自らに教え込むために、私たちは神経科学や心理学の知識を使わなければならない。その過程は、自分にとって最も重要な器官の長所と短所を子供たちに教えることによって間違いなく加速できるだろう。誰もが脳の欠点を抱えていることや、私たちの住む世界がますます複雑で生態学的に不自然になってきていることを考えると、脳のバグを受け入れることは、私たち自身の生活と遠くや近くの仲間の生活を発展させ続けるためには避けて通れないステップとなるだろう。[p.270]」
―――

脳科学の知見による人間の思考や行動のパターンの理解は、まだ確立された理論とまではいかないまでも、かなりわかってきたというのが現状のようです。記憶と思考の仕組みがどうなっているのか、どれがどう変わっていくのか、なぜ、人はそのような仕組みを持っているのか(進化)、という観点から考えると、様々な興味深いバイアスや心のバグの原因が統一的に理解でき、対処方法もわかるようになるのではないか、という印象を持ちました。人をマネジメントするうえでも、脳の特性の優れたところを活用しながら、バグによる不都合を回避することは、これからの時代、ますます重要になるのではないかと思います。今後の展開に期待して注目していきたいと思います。


文献1:Dean Buonomano, 2011、ディーン・ブオノマーノ著、柴田浩之訳、「バグる脳 脳はけっこう頭が悪い」、河出書房新社、2012.
原著表題:Brain Bugs: How the Brain’s Flaws Shape Our Lives

参考リンク<2015.4.5追加>



「技術を武器にする経営」(伊丹敬之、宮永博史著)より

経営学に、技術経営(MOTManagement of Technology)という分野があります。MOTが扱う中心的課題がイノベーションや、技術者、技術組織のマメジメントであることは容易に想像できますが、MOTによる具体的なマネジメントの方法論となると、体系的に確立されているとは言い難いのが現状でしょう。

今回取り上げる、伊丹敬之、宮永博史著、「技術を武器にする経営 日本企業に必要なMOTとは何か」[文献1]も、そうしたMOTを解説した本ですが、その目的は、技術経営とは何かを解説しながら、ノベーションを興すための経営のあり方を考えること[p.i,6]とされています。著者の考え方によるMOTのポイントがまとめられ、実務家にとっても示唆に富む指摘が多く述べられていると感じましたので、その内容をまとめておきたいと思います。

技術経営とは
・「技術経営は、技術を武器にする経営である。単に技術開発の方法論ではないし、技術ベースのマーケティングだけでもない。それらを含んだ、技術というものを経営のど真ん中に置き、それを武器に企業の発展のシナリオを考える、そんな経営である。[p.i]」
・「さまざまなイノベーションを興せるような経営の中心に技術経営がある。[p.i-ii]」
・「技術は、顧客の望むものを提供するための手段である。その平明な事実に立ち返り、技術を武器としてイノベーションを興すための経営のあり方を考える。それが、本書で解説しようとする技術経営(MOT)の最も簡単な定義である。[p.6]」
第1章、イノベーションを経営する
・「イノベーションが興されていくプロセスを経営するのが技術経営である、というのがこの章の、そして本書全体のメッセージである[p.8]」。
・「イノベーションとして結実するまでには、実は時間が長くかかる。そのプロセスは、次の3つのステップが段階を追って積み重なっていることが多い。1)筋のいい技術を育てる、2)市場への出口を作る、3)社会を動かす[p.10-11]」
・「魔の川とは、1つの研究開発プロジェクトが基礎的な研究(Research)から出発して、製品化を目指す開発(Development)段階へと進めるかどうかの関門のことである。・・・死の谷とは、開発段階へと進んだプロジェクトが、事業化段階へ進めるかどうかの関門である。・・・ダーウィンの海とは、事業化されて市場に出された製品やサービスが、他企業との競争や真の顧客の受容という荒波にもまれる関門を指す。[p.15-16]」
第2章、3つのレベルのMOTと現場の学習活動
・「プロジェクトリーダーのMOTは、1つの研究開発プロジェクトのマネジメントである。・・・外に向けてのマネジメント、内に向けてのマネジメント、上に向けてのマネジメント、3つのマネジメントが必要だろう。・・・研究所長のMOTを一言でいえば、他人であるプロジェクトリーダーにいかに研究プロジェクトをマネジメントしてもらうか、である。・・・CTOの仕事は、・・・第一は、企業全体の社内力学の中での、技術開発の位置づけの確保と資源の有効活用への布石である。・・・第二の仕事は、企業全体の技術開発の計画と管理の仕組みをどのように作るか、である。[p.28-33]」
・「どのレベルのMOTにせよ、変わらない本質が一つある。・・・それは『他人にいかに適切な学習活動をやってもらうか』がMOTの本質だ、ということである[p.35]」。「学習活動の本質は、それが自然からの学習であれ、顧客からの学習であれ、すべて『自学』なのである。・・・そこに、イノベーションプロセスのマネジメント、MOTのむつかしさの本質がある。学習活動とは、人が最終的には一人で行うもので、その自学のプロセスは誰にも『命令』できない。ふつうの仕事よりもはるかに、自由裁量の余地が大きい。成果も外からは測れないし、見えにくい。だからこそ、ロードマップ、ステージゲートなどと外的に定型化し、観察可能なかたちにするような経営の手法が、究極的には大きな意味を持ちにくいのである。[p.37]」
第3章、研究開発で技術を育てる
・「イノベーションの第一段階は『筋のいい技術』を育てることである[p.41]」。「研究と開発の違いをきちんと理解し、両者を使い分けることで技術が育つ[p.43]」。
第4章、日々の仕事の仕方で、技術が育つ
・「技術蓄積がきちんと行われるためには、・・・自分でする仕事と他人に任せる仕事の線引きが肝となる。自分でその仕事をすれば、自分がその仕事から生まれる学習をすることになる。他人に任せれば、他人が学習する。そして、その学習の成果が技術蓄積なのである。[p.60]」
・「ついつい、目に見える短期的な利益に引っ張られて、長期的なメリットに目をふさぎ、結果として自社の技術蓄積を削ぐような決定がなされがちなのが現実である。そこにアウトソーシングの危険がある。[p.63]」
第5章、技術の筋のよさを見きわめる
・筋のいい技術の条件:1)科学の原理に照らして、原理的深さを持つこと、2)社会のニーズの流れに照らして、人間の本質的ニーズに迫っていること、3)自社の戦略に合致し、事業として展開のポテンシャルが大きいこと、4)技術を担う人材が存在すること[p.69-70
第6章、技術の大きな流れを俯瞰する
・「リーダーは自分なりの『技術の俯瞰図』を持つとよいというのが、本書の基本的なメッセージである。」盛り込むべき視点は、1)科学の本質的動向を把握する、2)産業の技術進歩の大きな地図を描く(既存技術の進歩も忘れずに)、3)社会のニーズの大きなうねりを察知する、4)自社の発展方向のビジョンを構想する。[p.80-81
第7章、テーマ選択はポートフォリオ思考で
・テーマを見る3つの視角:1)成果(利益)、2)動機(誰にとって意味があるのか)、3)成功確率(現有技術からのジャンプの距離)[p.96-97
・「技術の目利きとは、決して純粋な技術蓄積が豊富にある人、という意味だけではない。その開発しようとしている技術の持つ社会的な意義、その技術を開発しようとしている人たちの人間模様、そうしたことも総合的に考えることのできる人が、真の技術の目利きなのである。それを別な言葉で表現すれが、3つの変数の見積もりを適切にできる人、ということになるのである。その適切さを担保するベースは、科学的知識の深さと人間心理の読みの深さの両方にある、と考えるべきであろう。[p.104]」
第8章、コンセプト創造からすべてが始まる
・いいコンセプトが持つべき条件:1)聞いて驚き、使って驚くという伝染効果があること、2)驚くだけの技術と仕組みの裏打ちがあること、3)許容範囲内の価格設定であること[p.110
・コンセプト創造の3つの条件:1)ニーズとシーズの相関構想力、2)簡潔な言葉で表現する言語表現能力、3)コンセプトを実現する技術力[p.113-115
第9章、製品開発は顧客との行ったり来たり
・製品開発の「プロセスはコンセプト創造から製品開発への一方通行ではない。顧客との間で『行ったり来たり』を繰り返すことによって、コンセプトそのものを磨いていかなければならない。[p.121]」
・「顧客から学び、顧客の立場に立って考えて、そこから学ぶ、それが市場への出口を作る際の基本スタンスである。・・・顧客に具体的な問いかけをし、その答えから学習するしかない。・・・問いかけには必ず、具体的な『モノ』が必要である。[p.122](著者らはその『モノ』を『伝達の連絡船』と表現していますが、プロトタイプと理解してよいと思います。)
第10章、技術を利益に変えるビジネスモデル
・ダーウィンの海で成功裏に生き残る条件:1)競合他社との差別化(製品そのものの魅力だけではなく、アフターサービスなどさまざまな工夫をする必要があることが多い)、2)利益をあげる工夫、3)上記条件を長期的に維持していけるような能力[p.136
・「その鍵を、ビジネスモデルの設計と実行が握っているというのが、この章の主張である。[p.137]」

・ビジネスモデル=ビジネスシステム+収益モデル
第11章、新事業への初動を工夫する
・初動段階で起こりやすいこと:1)開発成果を事業側が受け取りたがらない(新製品や新技術のリスク、既存事業との間のカニバリゼーション(共食い))、2)初期トラブル[p.151-152
・初動への工夫:1)追加的資源投入の余裕、2)問題を素早く技術陣が感知するための工夫[p.153
・共存のむつかしさ:カネ、情報、感情[p.158
第12章、最初のイノベーションの後が勝負
・イノベーションを継続するのがむつかしい理由:1)油断(最初の成功で一息ついてしまう)、2)誤解(技術のブレークスルーはあくまでも第一歩に過ぎないことを忘れてしまう)、3)硬直化する
第13章、技術外交に知的財産を使う
・「企業の利益をそれぞれに考えたうえで、どの顧客・競争相手・取引相手には友好の手を差し伸べるか。[p.180]」
・「知的財産は技術外交の有力な手段であることを忘れてはならない。この財産の使用を誰には認め、誰には認めないか、という判断は、結局は同盟関係形成の判断になるからである。[p.185]」
II部、技術者はどこで間違いやすいか
・「『間違い』の共通キーワードは、『視野の狭さ』である。[p.228]」
・技術者が陥りがちな思いこみ:1)技術がよければ売れるという思い込み、2)自社技術だけが進歩するという思い込み、3)社内では新技術、世間では二番煎じ[p.192-198
・構想なき繁忙に陥る要因:1)目の前の問題だけを解決しようとする(例:人海戦術に頼る)、2)意味のある問いを発することができない(正しい問題の設定ができない)、3)上位概念を構築できない[p.203-213
・技術の世界に引きこもる(タコツボ化)
エピローグ:技術者が技術経営者に変身するとき
MOTの本質:「イノベーションが生まれるまでの長い過程では、組織の内外でさまざまな人間社会の力学が生まれるため、その力学のマネジメントが技術経営の本質の一つである」、「技術を育て、市場への出口を作り、社会を動かしていくために、組織で働く人々による学習活動をマネジメントするのが、技術経営の本質の一つである」[p.229
・イノベーションを経営するために必要な2つのジャンプ:1)「自然の『理』の理解に加えて、人間社会の『情と理』の理解[p.229]」、2)他人の学習プロセスを導くのに必要な教育者の視点(「技術者・研究者の本質の一つである『他人を疑う』ことから、教育者の本質の一つである『他人を信じる』ことへ[p.235]」の視点の転換)
―――

以上の著者らの考え方は、私の考えと近い点も多く、全体として非常に納得しやすく感じました。なかでも特に重要と感じたのは、MOTにおける「学習」の意義についての指摘です。技術開発のプロセスは未知のことへの挑戦ですので、当初の計画どおりに物事が進まないことがほとんどです。そうした環境においては、周囲の情報から本質を学ぶこととともに、自ら実験、試行を行い、その結果からうまく学び、当初の計画を修正していくことが重要であるという指摘は多くなされています(例えば、創発的戦略(ノート12)イノベーションを実行する戦略策定の科学的アプローチ)。本書では、そうしたイノベーションを進める上での「学習」のみならず、学習した成果を技術蓄積として将来に活かすことまでを考慮している点、「学習」の意義を再認識させられました。「学習」を個人が行うもの、と捉えるならば、技術蓄積における個人の意義も必然的に大きくなると考えられます。とすると、人材の流動化の度合いが比較的低い日本企業こそ、技術蓄積の有効活用がしやすい環境にあるのではないか、技術蓄積を活かすことこそ、日本企業の独自性を発揮しやすいマネジメントなのではないか、とも感じました。また、研究テーマをポートフォリオとして考える視点も、研究という不確実な課題に対する有効なアプローチとして重要だと思います。さらに「技術外交」という考え方も興味深く感じました。オープンイノベーションや、イノベーション・エコシステムによる社外との協働や分業を考える場合に、学習による技術蓄積と技術外交の視点はよく認識しておく必要があると思われます。

一方、各論の部分では、従来の考え方と異なる点も見られます。例えば、既存事業部門の協力を得るために「新製品や新技術の技術的ポテンシャルを高めるのが、最大の説得材料であろう[p.152]」としている点は、上級役員の関与を重要視する「イノベーションを実行する」の考え方とは異なるアプローチと思われます。また、まずよいコンセプトを考えるアプローチも創発的戦略とは相容れない場合もあるように思いました。もちろん、本書の手法はあらゆるイノベーションに適用可能というわけではないと思いますので、各論の部分については、本書の考え方を参考にして、個々のイノベーションの特質に合わせて調整していくべきものなのでしょう。

もうひとつ、技術経営を行う人として技術者を主に考えていると思われる点が興味深く感じました。第II部、技術者はどこで間違いやすいか、での指摘は、技術者にとって非常に重要な内容を含んでいると思います。専門分野を極めれば満足、という技術者を目指すのであればいざ知らず、少なくとも企業内で経営に貢献する成果を挙げたいと願う技術者であれば、自分自身および技術者集団の欠点をよく認識しておく必要があるでしょう。しかし、MOTは技術者だけのものではないはずです。MOTを知らない人に、適任のCTOが選べるでしょうか。技術者がMOTを学ぶだけでなく、せめて本書の基本的な考え方だけでもすべてのマネジャーが身につけ、活用していただければ、今よりもイノベーションがうまくいきやすくなるのではないか、と思います。


文献1:伊丹敬之、宮永博史、「技術を武器にする経営 日本企業に必要なMOTとは何か」、日本経済新聞出版社、2014.
参考リンク:伊丹敬之、宮永博史、「技術を武器にする経営 日本企業に必要なMOTとは何か」、日経BizGate2014/5/9-6/17
http://bizgate.nikkei.co.jp/series/007299/index.html

参考リンク<2015.2.8追加>


ノート記事目次(2015.1.12改訂版)

2013年3月から行った「ノート:研究マネジャー基礎知識」の改訂は2014年6月に一応完了しましたが、その後、「補遺」として3編の関連記事を追加しました。補遺も含めた全体の目次をまとめます。より詳細な目次(本ブログ関連記事へのリンクを入れた目次)は、容量の関係でその1その2に分割して別ページにしています。目次改訂に合わせて参考リンクの確認も行っています。
前回の目次(2014.7.6)はこちら

ノート記事改訂版(2013-4
はじめに
2013.3.24):旧版(2010.3.21)はこちら
 本ブログの趣旨、ノート記事の全体構成などについて書きました。研究マネジメントにおいて最も重要なことは意欲の管理だと思います。

ノート1:どんな研究が必要なのか
2013.4.21)、旧版(2010.3.22)はこちら
 ポイント:企業にとってイノベーションは重要。技術はイノベーションの一要素。研究は情報を生んでいる。
 キーワード:創造的破壊、Shumpeter、アイデア、イノベーション
参考リンク

ノート2:研究の不確実性をどう考えるか
2013.5.19)、旧版(2010.3.27)はこちら
 ポイント:研究は不確実。その認識がマネジメントには必要。不確実性のマネジメントでは多様性、協力、知的相互作用、自律性)、リスク分散、柔軟性が鍵か。
 キーワード:意思決定理論、確定性、リスク、不確実性、錬金術、セレンディピティー、創発的プロセス、未来予測、複雑系
参考リンク

ノート3:研究と競争相手
2013.6.16)、旧版(2010.4.3)はこちら
 ポイント:競争相手の存在を忘れないようにすること、その動向を予測することの重要性。競争を避ける戦略。
 キーワード:技術の普遍性、競争、Porter、ブルーオーシャン戦略、不均等の意欲、セレンディピティー

参考リンク

ノート4:企業の収益源となる研究テーマの設定
2013.7.28)、旧版(2010.4.10)はこちら
 ポイント:イノベーションを事業として成功させるため、技術を成功するイノベーションに育てるためには、破壊的イノベーションのメカニズムを知ることが重要。そこから示唆される技術進歩のパターン、既存企業の行動パターンも理解しておくべき。
 キーワード:破壊的イノベーション、持続的イノベーション、Christensen、ブルーオーシャン戦略、コンプレックスシステム、ボリュームオペレーション、コア、リバースイノベーション
参考リンク

ノート5:研究部門に求められるテーマ
2013.9.1)、旧版(2010.4.17)はこちら
 ポイント:研究にはイノベーション以外にも様々な業務が求められる。新規事業と既存事業のバランスをとる上でも研究部門に求められる業務を認識する必要がある。
 キーワード:未知、既存、頭を使う、体を使う、中核事業の安定、オープンイノベーション、10年ルール、宣伝、信用度、既存事業とのバランス
参考リンク

ノート6:研究部門が実施したいテーマ
2013.10.6)、旧版(2010.4.24)はこちら
 ポイント:研究部門はシーズを育てる役割を担うが、ニーズも考慮する必要がある。セレンディピティーも重要。テーマの判断主体によるテーマ分類の提案。
 キーワード:シーズ志向、ニーズ志向、暗黙知、形式知、トップダウン、ボトムアップ、ミドルアップダウンマネジメント、レディネスギャップ、偽セレンディピティー、真のセレンディピティー、テーマ分類
参考リンク

ノート7:研究者の活性化
2013.11.10)、旧版(2010.5.1)はこちら
 ポイント:モチベーション理論、エンパワーメントのまとめ。研究者の活性化における注意点。
 キーワード:機能人、経済人、Maslow、欲求段階理論、生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現欲求、X理論、Y理論、動機づけ要因、衛生要因、内発的動機づけ、欲求説、過程説、期待理論、誘意性、達成動機理論、エンパワーメント
参考リンク

ノート8:研究者の適性と最適配置
2013.12.8)、旧版(2010.5.8)はこちら
 ポイント:研究に求められる様々な仕事と研究者の適性のマッチングが重要。研究への適性も考慮要。
 キーワード:適性、認知スタイル、行動類型、人を選んでから目的を考える、多様性、自律性
参考リンク

ノート9:研究組織の構造
2014.1.13)、旧版(2010.5.15)はこちら
 ポイント:あらゆるイノベーションに適したベストな組織形態を確立することは困難。それぞれの研究に適した組織構造とし、それをうまく運用することが重要。
 キーワード:機能組織、タスクフォース、階層性、トップダウン、ボトムアップ、ミドルアップダウンマネジメント、ネットワーク組織、破壊的イノベーション、小さな組織
参考リン

ノート10:研究組織の望ましい特性と運営
2014.2.16)、旧版(2010.5.22)はこちら
 ポイント:創造性発揮のために重要な要素は、自律性、目的・感情・価値観共有、多様性、浸透性ある境界・コミットメント、協働。
 キーワード:組織的知識創造、自律性、ゆらぎと創造的カオス、冗長性、最小有効多様性、ビジョン、針鼠の概念、コミュニケーション、弱い絆、公正なプロセス、協働
参考リンク

ノート11:研究組織運営におけるリーダーの役割
2014.3.30)、旧版(2010.5.29)はこちら
 ポイント:環境整備、仕事による動機づけ、多様性、コミュニケーション、育成、ロールモデルが重要。
 キーワード:仕事による動機づけ、多様性、コミュニケーション、ゲートキーパー、育成、経験、ロールモデル、ミドルマネジャー
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ノート12:研究プロジェクトの運営管理
2014.5.6)、旧版(2010.6.5)はこちら
 ポイント:計画よりも不確実性に対応して上手く実行することが重要。定型的な運営は難しいのでは?。
 キーワード:計画、戦略、創発的戦略、評価、方向転換、変化のスピード、心のエネルギー、プロジェクトマネジメント、ステージゲート、規律ある実験、リーンスタートアップ
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ノート13:研究成果の活用
2014.6.1)、旧版(2010.6.12)はこちら
 ポイント:技術的な価値だけでは技術は普及しない。受け入れられるプロセスの理解が必要。
 キーワード:イノベーション普及、相対的優位性、両立可能性、複雑性、試行可能性、観察可能性、再発明、持続可能性、採用、選択的エクスポージャー、ハウツー知識、原理的知識、採用者カテゴリー、イノベータ、初期採用者、ラガード、革新性、能力信頼性、無難信頼性、行動経済学、情報ネットワーク
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ノート14:研究成果の転用
2014.6.29)、旧版(2010.6.19)はこちら
 ポイント:知識としての研究成果の活用も重要。知識創造、ナレッジマネジメントの可能性。
 キーワード:特許、ノウハウ、組織的知識創造、知識変換、知識移転、ナレッジマネジメント、競争優位
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補遺1:これだけは知っておきたい研究マネジメント知識
2014.8.10
 ポイント:研究活動と人間の特性をよく知り、イノベーションに参加する人の意欲を適切に管理することが重要。
 キーワード:研究の不確実性、人間の思考の限界、競争相手、破壊的イノベーション、アイデア、ニーズ、暗黙知と形式知、モチベーション、リーダー、多様性

補遺2:研究マネジメントの実践に役立つ知識
2014.9.15
 ポイント:補遺1でとりあげた注意すべき項目に対して、どのように対応すべきかの具体策を議論しました。
 キーワード:創発的戦略、二重過程理論、複雑系、Porterの5つの力、破壊的イノベーション、Heilmeierの基準、ビジネスモデル、Canvas、イノベーション普及学、オープンイノベーション、ステージゲート、プロジェクトマネジメント、組織的知識創造、やる気を引き出す

補遺3:研究マネジメントにおいて気をつけるべきこと(問題点、弊害・・・)
2014.10.19
 ポイント:「こういうマネジメントはよくない」、「ここに気をつけなければいけない」という指摘を集めました。
 キーワード:固定観念、コンピテンシー・トラップ、エコシステムに伴うリスク、先進国企業の戦略の問題、衰退の5段階、コア・リジディティ、脱線する幹部、成果主義、加速の罠、チーム、プレッシャー



「ブラックスワンの経営学」(井上達彦著)と技術研究

今回は、「ブラックスワンの経営学」(井上達彦著)[文献1]を取り上げます。表題のブラックスワンとは、「やっても無駄なことを言い表すとき、ヨーロッパでは『黒い白鳥を探すようなものだ』(”As likely as a black swan.”)と言っていたそうです。黒い白鳥、すなわちブラックスワンは『ありえない』ことの象徴だからです。[p.56]」という意味で、本書では、経営学においてありえないこととされていた考え方が研究により覆された事例とその手法が解説されています。

紹介されている事例は5件、いずれも「世界で最も権威のあるマネジメントの学会[p.5]」とされるアカデミー・オブ・マネジメント(Academy of Management)の学会誌「アカデミー・オブ・マネジメント・ジャーナル(通称AMJ)」のベスト・アーティクル・アワード(最優秀論文賞)に選ばれた論文で報告された事例です。著者によれば、「マネジメントの学会では、以前から統計学をベースにした研究が主流であり、・・・掲載比率では全体の9割を占めています[p.9-10]」とのことですが、「ベスト・アーティクルとして学会賞を受賞するような論文となると、事例研究の存在感がぐっと増し・・・AMJでは約50%が事例研究によるもの[p.10]」で、「学会の常識をくつがえすような問題提起、意外性のある見解の提示などは、多くの場合、事例研究によってなされているということでしょう。少し誇張して言えば、『ありえない』ことの発見に貢献している[p.11]」、とのことです。著者は、そうした事例研究から有意義な示唆を得る方法についても詳しく解説していますので、いわば、本書は受賞論文を題材とした、<優れた事例研究についての事例研究>にもなっていると感じました。以下、本書の事例と著者の解説のポイントをまとめてみたいと思います。

事例研究と統計学的研究
・「事例研究の特徴は、コンテキスト(脈絡や状況)を大切にする点です。・・・事例研究にとってコンテキストというのは、その出来事を理解するのに切っても切り離せない背景のようなものです。注意深く分析する必要があります。・・・この点で、統計学的研究とは大きな違いがあります。統計学的研究では、・・・コンテキストとともに理解するというより、コンテキストに左右されない一般法則を見つけようとします。しかし、ものごとには、統計的に処理しやすい数字として表わし難いことがたくさんあります。だからこそ事例研究の有用性があるのです。[p.25-27]」
・「統計学的研究と事例研究とでは、それぞれ手法としての強みが異なります。統計学的研究の強みは、観測された『差』や『相関関係』が、どれだけ一般化できるのかを確かめて、当てはまる範囲を推論できるという点です。・・・一方で、統計学的研究は『因果メカニズム』を解き明かすのが得意ではありません。・・・事例研究は、・・・因果メカニズムを解明することができます。お互いに強みが違うわけですから、経営学などの学会では、統計学的研究と事例研究は相互に補完し合って活用すべきだという共通認識があります。一般的には、仮説を導く際に事例研究法を用いて、それがどれだけ広く一般化できるかどうかを検証する際に統計学的方法を用いるというのが基本でしょう[p.34-36]」。「事例研究から仮説を導き、それが広く一般化できるかどうかを確かめるときに統計的な調査が力を発揮するのです。[p.43]」

論文:プルーマン(Plowman)ら、「Radical Change Accidentally: The Emergence and Amplification of Small Change」2007年(組織の変化についての研究)
・通説「断続的均衡モデル」:「小さな変化が積み重なるだけでは、『抜本的な変化(完全なる変容)』(radical change)には至らない」。「計画とビジョンをもったリーダーの能動的な働きかけこそが抜本的な変化をもたらす」[p.64]。
・発見:「不安定な脈絡のもとでは、小さな変化は、他の小さな変化を誘発し、変化が増幅していくのです。・・・マネジメントの世界の定説では、抜本的な変容といえば、変化を生み出し、その引き金を引くというリーダーの役割が強調されてきました。しかし、プルーマンのチームが目にしたリーダーシップというのは、小さな適応をキャッチし、それをうまく言葉で表現するというものだったのです。[p.75]」
・教訓:「通説や業界の常識に対する逸脱事例を見つけることの大切さ[p.83]」。「逸脱とわかるためには、通説、すなわち市場や業界の常識をよく知っておく必要があります[p.85]」。「どのレンズで見ればその事例の価値が高まるのかを探り当てなければなりません[p.87]」。

論文:ギルバート(Gilbert)、「Understanding the structure of inertia: resource versus routine rigidity」2005年(組織の慣性についての研究)
・通説:組織が大きな変化に直面し、脅威を感じた際の反応について、2つの異なった見解がある。「脅威を知覚することをきっかけに、戦略や組織の見直しが促される」場合と、「脅威を知覚することが管理の強化」をもたらし、「集権化が進み、手続きが形式化・標準化され、実験的な行動は抑制される」場合。[p.100-101
・発見:脅威によって、資源配分の面では変化が進む一方、収益獲得のありかた(ルーチン)の面では、変化が抑えられて組織運営が硬直化する[p.104-107]。同じ状況を脅威ではなく機会と捉えている場合には、資源とルーチンの両面で変化が促進される[p.110-111]。
・教訓:「場合分けを論理とともに考える必要」。「『横展開の反復実験』を永遠に繰り返してもあまり意味はありません。論理から逆の結果が予測されるような事例を見つけて、違う側面から検証すべきでしょう。[p.124-125

論文:エルズバッハ(Elsbach)ら、「Assessing creativity in Hollywood pitch meetings: Evidence for a dual-process model of creativity judgments」2003年(人の潜在的な創造性を評価する思考プロセスについての研究)
・通説「社会的判断理論」:「人間は、他者の能力や特質を判断するときに、すでに心の中にある『原型』のようなものに紐づけて評価する[p.136]」。
・発見:創造性の判断においては、「原型」だけではなく、「対等に高め合う関係」である場合に、相手のことも創造的だと評価する。「原型」が人間の分類と考えれば、関係の分類も関与する。[p.147-152
・教訓:「現場で聞き出すこと」、「仮説を持ちこみつつも執着してはならない」[p.159-161

論文:ファーリー(Ferlie)ら、「The nonspread of innoation; The mediating role of professionals」2005年(なぜ効果が認められているイノベーションが普及しないかの研究)
・通説:根拠の確かなイノベーション、単純なイノベーションほど速く普及する。
・発見:「根拠が確かであると同時に、アイデンティティや価値観を共有して、専門職間にある境界を越えられなければ、イノベーションを普及させることができない」。根拠の確かさは普及を説明する必要条件であっても十分条件ではない」[p.191]。「専門家集団のタコツボ化しやすい特性を『社会的・認知的境界』という考え方で学術的に裏付けました。ある専門職集団と別の専門職集団との間には『社会的境界』や『認知的境界』が存在し、それがイノベーションの普及を妨げる[p.195]」。
・教訓:「問題意識を明確にして見るべき視点を定めているからこそ、体系的な比較が可能になります。」「仮説の精度を高めるには、必要条件と十分条件の往復運動をすることが大切」。[p.198

論文:グラブナー(Graebner)、「Caveat venditor: Trust asymmetries in acquisitions of entrepreneurial firms」2009年(ベンチャー企業の売却/買収の意思決定プロセスの研究)
・通説:「信義には信義を持って返す」、「信頼というものは時間の経過とともに対称になっていくと考えられてきました。相手が信じてくれれば、自分もそれに応えるような形で相手を信じるようになるはずで、逆に、相手が自分のことを信じていないと感じたならば、相手のことも信じなくなるだろうと主張されてきました[p.223]」
・発見:買収する側とされる側では信頼関係は非対称。「欺きが誘発されやすいのは、自らは相手から信頼されていると実感しているにもかかわらず、相手のことは信頼できないという場合[p.224]」。
・教訓:「特定の調査協力者に頼らない」。「特定の立場からだけものごとを見ると、どうしても偏りが生じます」。リアルタイムの追跡調査と、結果がわかっているレトロスペクティブな調査の併用」[p.230-232

事例研究の分類
1、先端事例:「他者が検討しているアクションを、他社よりも先に実行しているような事例[p.59]」。「ほかの大多数とは違うところに位置しますが、将来の代表事例となりえるものです。現在の代表事例との差を見ることで、今後の対応を考えるべきでしょう[p.60]」。アマゾンなど。
2、代表事例:「ある関心事についての典型例[p.60]」。「1つは、ある関心事の中庸的存在を典型と見なす考え方・・・もう1つは、そのことがらを代表する目立った存在を典型とする考え方・・・。代表性が強くなれば、そこで得られた知見は、同じカテゴリーのほかの事例にも当てはまるはずです[p.60]」。ウォルマートなど。
3、逸脱事例:「これまでの通説に適合しない事例のことです。逸脱事例を調査することで、『既存の理論』や『業界の常識』の限界を明らかにし、理論の突破口や業界イノベーションの着想を得ることができます。ただし、先端事例とは異なり、将来においても大きなカテゴリーの代表モデルとなるとは思われていません。・・・黒い白鳥は、現在も将来も逸脱事例なのです。[p.60-61]」
4、原型事例:「ある関心事を生みだした最初の事例のことです。・・・起源として、その関心事の本質的特徴をよく表しています。原型事例を調べることで、その関心事の本質、そもそもの理念、生業などについて深く理解することができます。[p.61]」

調査において注意すべきポイント
・エリートのバイアス:「役職が上位の人たちからだけ情報を集めることによって生じる認識の歪み[p.78
・振り返りのバイアス:「人間の記憶というのは、曖昧なものなので、いつ、誰が、どこで何をしたかについての事実関係を尋ねても正確な情報が得られません。また、原因と結果について尋ねても、現在の認識とつじつまが合うように過去に起きたことを理解するので、その人がそのときに感じたことをそのまま聞き出せるとはかりぎません。この振り返りのバイアスを避けるために、出来事が起きたときに記録された資料と突き合わせて事実確認をします。[p.78-79]」

実験についての考え方
・実験室実験:「統制された状況で、仮説の妥当性を検証したり、既知の真実を確認したり、あるいは何かの有効性を測定したりするために検証を行う[p.92]」。
・自然実験:「自然の巨大な実験室の中で絶え間なく行われ、人間はただ傍らで観察するしかない実験[p.94]」。「このような観察研究では、実験室での統制に該当する作業を、事例選択を通じて行おうとする[p.96]」。
・水平展開的な反復実験:全く同じことを別の環境で、類似の状況を演出して実験してみたりして、同じことが繰り返されるかを調べる。[p.97
・論理を確かめるための反復実験:「その関係が成り立たないと予想されるような状況を設定して、それを確かめる実験[p.98]」。

比較分析の考え方
・一致法:「同じ結果を示す複数の事例を比較して、そこに共通する要因を探るもので、共通の結果をもたらした要因を推論する方法」「必要条件を洗い出すのに適した方法」[p.168
・差異法:「異なる結果を示す複数の事例を比較して、互いに違う要因があれば、それが結果の違いを生みだすものと推論します[p.169]」

実務に役立つ事例研究の方法
・こだわるべき部分:単一事例でも分析を工夫することで示唆を引き出す、調査デザインの工夫により仮説検証を試みる、現場に近づくことで気づきを得る、比較分析の限界を踏まえて追加的分析を行う、調査対象を追跡して因果メカニズムを解きほぐす[p.237]。
・実務の世界でわりきってよい部分:実践で仮説を検証する、仮説めいた結論でもいいのでスピードを大切にする、自分たちのとってのブラックスワンの発見で十分(ほかの誰かに説明しなくてもよい)、一般的に成り立つ命題でなくても限られた条件や範囲でしか成り立たない命題でも価値がある。[p.250-259
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「学術研究者の使命というのは、ブラックスワンを見つけることです[p.4]」というのは、経営学者でも、企業の技術者や研究者でも同じでしょう。技術の世界でも、今まではありえないと思っていたことが覆されるような発見をすることの重要性はいうまでもありません。本書では、そうしたブラックスワンを見つけるうえで、事例研究がいかに重要かが述べられていますが、実は科学の世界でも「事例研究」は重要です(技術の専門家でない方には意外かもしれませんが)。

というのは、科学の世界でも、多数のデータを用いた統計的解析を行わなければ物事の妥当性が証明できない、という事例ばかりではないからです。場合によっては、多数のデータが得られないケースもありますし、現象の理論化がきちんとできていれば、統計的処理をしなくても説得力のある結果を導くことが可能なこともあります(もちろん、実験データを扱う以上、データのバラツキは存在しますので、統計的な考え方を無視してよいわけではありません)。特に新事実は、最初は「逸脱事例」として観測されることがほとんどですので、そこからいかに仮説を導くかが重要になります。また、企業においては、統計的解析に必要な多数のデータを求めて妥当性を証明するのではなく、製品化して、「実践で仮説を検証する」ことが求められる場合もあると思います。従って、本書で述べられている経営学研究における事例研究の手法は、実はほとんどそのまま科学技術の研究にも援用可能といえるでしょう。

具体的手法については、科学技術研究の場合、対象分野のそれぞれで標準的な証明の手法のようなものが確立されていることが多いので、事例研究の手法として、あえて整理しておく必要がないことも多いのですが、経営学でも科学でも研究手法の本質は同じではないかと思います。例えば、科学分野ではある結果を評価する際に、次のことを問うとよいと言われています。

・本当か?、確かか?

・なぜそうなるのか?

・本当だとすれば、どうなるはずか?
本当か?と疑ってみることは、結果が得られた手法にバイアスがかかっていないか、結果の処理にミスがないかを慎重に検討することです。なぜそうなるのか?というのは、事例から仮説を導くことにほかなりません。本当だとすればどうなるはずか?というのは、本書でいう実験(反復実験)に相当するでしょう。研究者という人々は、そもそもこうした思考をする訓練を受け、そうした思考に慣れている人のはずです。

事例研究の手法というと難しく聞こえますが、上記のように考えればそれほど複雑なことではないでしょう。もちろん、本書にも述べられているように逸脱事例に気づくためには、知識や経験が必要です。また、正しいデータが得られるように、標準的な実験の手法は確実に身につけておく必要があります。さらに、仮説を検証するための統計的手法や、その分野での理論を駆使した解析手法も活用できなければならないでしょう。場合により、実験そのものも適切に設計する必要もあるかもしれません。研究者としては、こうしたバックグラウンドを身につけることがまず必要ですし、ともするとそうした表面的な手法に頼ってしまってそれだけで十分と考えてしまうこともあるかもしれませんが、本書に述べられたような事例研究を活かす思考は基本として忘れてはならないことだと思います。事例研究の手法は実務家にとっても役立つ、という著者の主張は、技術者にとってもまさにその通りではないかと思います。


文献1:井上達彦、「ブラックスワンの経営学 通説をくつがえした世界最優秀ケーススタディ」、日経BP社、2014.

参考リンク<2015.3.8追加>

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