研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2016年08月

顧客の片づけるべき用事を知る(「Know Your Customers’ “Job to Be Done”」、Christensen, Hall, Dillon, Duncan著HBR2016, Septemberより)

よい製品を開発できたと思っていても、それが顧客に受け入れられなければイノベーションは実現しません。顧客に受け入れられるには、顧客のニーズに合致した製品を提供することが第一であることは当たり前ともいえますが、顧客のニーズを知ることはそれほど容易なことではないという指摘もよくなされます。

破壊的イノベーションの概念を提唱したChristensenは、顧客の真のニーズについて「片づけるべき用事(Job to be done)」という概念を提示しています[文献1、p.90-98][文献2、p.119-160]。今回は、その後の発展も含めてその考え方を詳しく解説した論文「Know Your Customers’ “Job to Be Done”」(Christensen, Hall, Dillon, Duncan著)[文献3]の概要をご紹介したいと思います。

顧客を知ること
・まず著者は、顧客を知ることについて次のように述べています。「ビッグデータ革命のおかげで、企業はかつてないスピードで、多様な種類の膨大な顧客情報を集められるようになり、高度な分析を行っている。」「しかし、ほとんどの企業にとって、イノベーションは残念ながらいまだ運任せである。」「基本的な問題は、企業が生む多量の顧客データのほとんどが、相関を明らかにするようになっている点だ。」「相関と因果関係とが異なることは当たり前のことなのに、ほとんどのマネジャーは相関に基づいて居心地のよい基本的な決定をしているのではないかと我々は疑っている。」「偉大な企業が失敗してしまうのを何十年も見てきて、我々は、相関に焦点を当てること――そして、顧客についてより詳しく知ること――は、企業を誤った方向に導くという結論に至った。真に選ぶべきなのは、顧客がある状況下で進歩しようとしていること、顧客が達成したいと望んでいることに向かっていくことなのだ。それが『片付けるべき用事(job to be done)』と我々が呼ぶようになったものだ。」
・「我々はみな、生活のなかで、片づけなければならない多くの用事を抱えている。」「物を買う時には、その用事をこなす手助けにするためにその物を『雇う(hire)』。(ここで『物』とは、企業が販売するソリューションを意味する。)」
・「片付けるべき用事の理論は、破壊的イノベーションの理論を補完するものとして生まれた。」「破壊の理論は、顧客が購入したい製品やサービスを生み出す方法については教えてくれない。片づけるべき用事の理論が教えてくれるのだ。それは、顧客の選択についての我々の理解を、データの量からでは得られないような方向へ変容させてくれる。なぜなら、購入することの裏側にある真の原因にたどりつけるからだ。」

代表的事例:引退した人への不動産販売を、生活を変える(Moving lives)ビジネスに変化させる
・イノベーションコンサルタントのBob Moesta氏の事例:退職者などのdownsizerへの住み替え住居販売では、フォーカスグループ調査などで出た意見をもとにして設備や内装を魅力的なものにしても売上にはつながらなかった。それに対し、顧客の用事を生活を変えることと捉えなおし、思い出の家具を入れられる部屋のレイアウトや、処分検討のための家財の仮置き場、引っ越し支援などを提供することで売り上げを伸ばすことができた。

片付けるべき用事をつかまえる
・データは全く使えないわけではなく、洞察を浮かび上がらせるための出発点として有効。顧客が助けを必要としている用事を明らかにするための5つの質問は次のとおり。
・片づけるべき用事はあるか?:直感的なアイデアでもそれに基づいて努力できればよい。
・非消費者はどこで見つかるか?:何も使っていない人からも学べる。
・人々が発明した回避策は何か?:回避策やつぎはぎの代用品が使われていればヒントになる。
・人々が避けたいのはどんな仕事か?:やりたくないことを「negative job」と呼ぶ。
・顧客が発明した既存品の驚くような使い方は?:顧客が見つけた想定外の使い方。

片づけるべき用事の扱い方
・「片づけるべき用事は万能のキャッチフレーズではない。」「覚えておくべき原理は次のとおり。」
・用事は、個人がある与えられた状況で本当に達成したいと求めているものを簡潔に言い表したもの:単なる直接的なタスク以上のものを含んでいる。人が生み出したい経験を考えよう。
・状況は、顧客の特性、製品特性、新技術、トレンドよりも重要。
・よいイノベーションは、それまで不十分な解決手段しかなかった――または解決手段がなかった問題を解決する。
・用事は単なる機能ではない――それには大きな社会的、感情的な要因がある。

用事の周辺にある価値提供をデザインする
・「Nielsenによる2012-2016 Breakthrough Innovation reportによれば、20000種以上の新製品のうち、最初の1~2年(ライン拡張予定を除く)に5000万ドル以上の売り上げを記録したものはたった92件である。・・・Nielsenによれば、それらは解決策が不十分で特定の片付けるべき用事に着目したものだった。」
・顧客経験の創造:「片付けるべき用事を見つけて理解することは、顧客が望むもの――特に、顧客がプレミアム価格を支払うもの――を生み出すための第一段階に過ぎない。製品を購入し、使う経験を組み合わせて、その経験をまとめて企業のプロセスにすることも不可欠である。これをすれば、競争相手が追従するのが難しくなる。」→American Girlsの事例(人形を買うだけではない)
・プロセスを連携させる:「片付けるべき用事についてのプロセスに集中することで、チームの全員に明確なガイダンスを与えることができる。これは、企業が最初に成功をもたらした洞察を無意識に捨ててしまわないための簡単で効果的な方法である。」→SNHUSouthern New Hampshire University)の事例(大学再挑戦を含む30歳前後の層を対象にしたネット授業、充実したサポートなど顧客の事情を考慮)
SHNUのプロセスを設計しなおす際の注目すべき問いかけ:顧客が与えられた環境において追い求める進歩を得る助けとなる経験は何か?、除去すべき障害は何か?、その用事の社会的、感情的、機能的な側面は何か?

まとめ
・「多くの組織が無意識のうちに不統一で残念な結果を生んでしまうイノベーションプロセスをデザインしている。彼らは、時間とお金をかけて説明の名人にはなれるが予測は失敗してしまうデータ豊富なモデルをつくる。しかし、企業はその道を進む必要はない。もし、顧客が片づけようと苦労している用事を特定することから始めれば、イノベーションはもっとずっと予測可能で――利益のあがる――ものになりうる。」
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研究開発において顧客のニーズを知ることが重要なことは言うまでもありません。しかし、顧客の真のニーズを知ることは簡単ではありません。顧客についての調査をしてデータを集めたところで、顧客自身も気づいていないようなニーズは抽出できないでしょうし、データが得られたとしてもそこから仮説を導く段階にも難しさがあります。そういう状況では、技術者はつい、製品の機能や品質を向上させればニーズはあるはずだ、と安易に考えてしまい、開発の方向性を誤ってしまうこともありうると思います。

これに対して、本論文で主張されている「片づけるべき用事」の概念は、本質的なニーズを探るための有効な考え方と言えるのではないでしょうか。この考え方の特徴は、顧客が何のために、何を考えて製品を使うのか、を中心にしているところだと言えるでしょう。言い換えれば、従来のモノ中心の考え方(モノがよければニーズはあるはず)から、ニーズを発生させる用事に基づく考え方への転換と言えると思います。こうした考え方は、野中郁次郎氏の「モノからコトへ」という考え方とも通ずるものがあるのではないでしょうか。

さらに考え方を広げると、マネジメント手法の革新を考える際にも、何の用事を解決するためにマネジメントを行おうとしているのか、という視点が重要といえるかもしれません。例えば、研究の生産性を数値化して、その数値を上げればよい研究ができるはずだ、という考え方には「片づけるべき用事」の視点が抜け落ちているのではないでしょうか。本論文には、B2Bの場面でもこの考え方は有効だとも書かれていますが、研究成果を使う社内の人々や、研究を行っている研究者にとっても、どんな用事を片づけるために研究成果や仕事の進め方を採用しているのかは改めて考えてみる価値があるかもしれません。


文献1:Christensen, C.M, Raynor, M.E, 2003、クレイトン・クリステンセン、マイケル・レイナー著、桜井祐子訳、「イノベーションへの解」、翔泳社、2003.
文献2:Anthony, S.D., Johnson, M.W., Sinfield, J.V., Altman, E.J., 2008、スコット・アンソニー、マーク・ジョンソン、ジョセフ・シンフィールド、エリザベス・アルトマン著、栗原潔訳、「イノベーションへの解実践編」、翔泳社、2008.
文献3:Clayton M. Christensen, Taddy Hall, Karen Dillon, David S. Duncan, “Know Your Customers’ “Job to Be Done””, Harvard Business Review, September 2016, p.54.


研究開発活動に影響する環境要因:研究開発マネジメントの実践と基礎知識1.3(「ノート」全面改訂第6回)

はじめに第1回
1、研究開発とはどのようなものか:研究開発マネジメント実践の観点から認識しておくべきこと
1.1
、研究開発とは?
第2回第3回
1.2
、研究開発活動が本来的に持つ不確実性第4回第5回

1.3
、研究開発活動に影響する環境要因
1)研究を進める上で忘れてはならない(が忘れてしまいやすい)こと:環境要因
研究開発マネジメント実践の観点から認識しておくべきことの3点目として、環境要因をあげたいと思います。第4回の記事では、環境要因を研究者が直接関わるわけではない不確実性(「研究外部の不確実性」)と位置づけましたが、その不確実性の特徴は、外生的である(自らがコントロールできない-第5回参照)場合が多いと言えると思います。研究は、扱う対象の不確実性を減らすための活動と捉えることもできますが、そういう意識でいると研究者がコントロールできない要因はどうしても検討対象から漏れてしまいやすくなります。もちろん、ニーズを探ったり、研究成果を社会に受け入れてもらうために環境要因を調べることは普通のことだと思いますが、環境要因は所与の前提のような形で検討され、研究の実行の過程では環境要因に対する注意がおろそかになることもしばしばあるのではないかという気がします。その重要性を強調する意味をこめて、忘れてはならないこととしてここで環境要因を指摘しておきたいと思います。

では、どの環境要因が最も重要なのか。プロジェクトの内容によって重要な要因が変わってくるのは当然ですが、どんな場合でも忘れてはいけない要因として、私は、「競争相手」についての分析を挙げたいと思います。

2)環境要因検討の重要性と競争相手を分析する意義
検討すべき環境要因

研究プロジェクトをとりまく環境要因は様々です。大雑把には、市場や業界、社会全体の動向、技術の発展、法的規制、社会的責任、協力者や競争相手の動向、などが環境要因として挙げられるでしょうが、企業内部のことであっても研究課題の外部にある要因も含まれるかもしれません。その中で、私が競争相手を重視するのは、以下の理由からです。
・競争相手の分析がおろそかにされる場合があること
・競争を激化させる社会的背景があること
・競争相手の分析から自らの研究についての洞察が得られ、研究をうまく進めるヒントが得られる場合があること
もちろん、研究の計画の段階で、特定の競争相手を念頭において、その分析を行うこともあると思いますので、いつも「おろそかになっている」とまでは言いませんが、競争相手やその行動を絞り込みすぎたり、分析からの洞察を十分に引き出しきれていないこともあるのではないでしょうか。

一般に、企業をとりまく競争環境を分析する場合には、ポーターの枠組みがよく用いられています。これは、競争を駆動する5つの力として、1、サプライヤーとの関係、2、買い手との関係、3、新規参入者、4、代替製品、5、既存企業間の競争状況を考え、それらに基づく機会と脅威を考慮して戦略を構築するという考え方で[文献1、(文献2、p.93]、経営戦略におけるSCPStructure-Conduct-Performance)理論のフレームワークとしても知られています[文献3]。ただ、この理論に関しては、最近では限界も指摘されているようで、その限界とは、入山氏によれば、「SCPはそもそも『安定』と『予見性』を前提としている」「SCPは人の認知面に入り込まない」ということのようで[文献3]、この枠組みだけで十分とは言い切れなくなっているように思います。

競争激化の社会的背景
一方、現代科学技術の特徴として丹羽は技術の普遍性を挙げています[文献4、p.11]。ここでいう普遍性とは、産業革命後、技術知識の体系化と公開化が進んだことにより、技術が広く世界中で高度に発展し普及するようになった[文献5、第3章(文献4、p.12]ことにより、技術が時間や空間の制約を超えて、世界万民に等しく開かれた状態となっていることを指しており、技術が普遍的であるということは、世界中の大学や企業研究所などで同じような技術の研究や開発が実施されている可能性が高いことを意味している[文献4、p.12]、とされています。世界中で、というのはややおおげさなような気もしますが、少なくとも業界の先端に近い研究機関では、あちこちで同じような課題に取り組んでいることは実際によくあることで、似たような研究が似たような時期に独立に発表されるという例は、現代に限らず多く存在します。最近は世界全体の技術力の向上とともにコミュニケーションの発達もあって、このような競争状態はさらに起きやすくなっているのではないでしょうか。

競争相手から得られる洞察
こうした背景のもと、ここで提案している競争相手のことを考える際のポイントは、競争相手の意図を探ることです。表面的な競争相手の動向を探り、分析することは広く行われていることだとは思いますが、競争相手の動向は、こちらの行動によっても変わるという点に気を付ける必要があります。すなわち、単にデータを集めて分析、予測するだけではなく、競争相手の意図にまで踏み込んだ分析と意図や行動が時間とともに変化することの認識が必要になることもあるということです。一般に研究者はモノを対象としてその挙動を明らかにすることで不確実性を減らす、というアプローチには慣れているものですが、人の意図を考えることにはそれほど力を入れない傾向があります。また、種々の環境要因については、調査をしたり、データを集めたりして分析することが可能なものもあります。しかし、競争相手の動きについては、データによる調査よりも、競争相手が何を考えているか、どう考えて何をしたかを予測することが重要です。さらに、競争相手に限らず、外部のステークホルダー(関係者)たちの意図を探ることは、研究の不確実性を減らすことにも寄与するのではないかと思います。外生的な不確実性は自らの行動で減らせるものではないにしても、関係者の意図を読み、研究をとりまく環境を変えることができれば、多少なりとも不確実な状況を変えられる可能性があると思います。競争相手の意図を探ることをつうじて、周囲の環境を変える糸口を考えだせるかもしれない、という点が競争相手の意図を意識することの意義と言えると思っています。

具体的にはどういう洞察を得ることが可能なのでしょうか。例えば、何かの研究のアイデアを思いついたとします。先行文献、特許を調べても同じアイデアは存在していないとすると、この時、以下の3つの可能性が考えられるでしょう。
①今までにそのアイデアを思いついた人はいない(全く新規なアイデアである)
②今まさに他の研究グループで同じアイデアの研究が行なわれているが、まだ発表されていない。
③過去に同じアイデアを誰かが試してみたが、何らかの理由で発表されていない。

①の場合、非常に好ましいわけですが、残念ながら②と③でない、と断言することができないのが普通です。というのは、イノベーションが未知のことへの挑戦である以上、情報は十分には得られないのが普通だからです。(もちろん、①であったとしても、第4回の記事で述べたようにそれが好ましい結果につながるかどうかは不確実です。)

問題なのは②と③の場合で、②の場合には当然のことながら競争相手の動向に注意が必要になります(そのかわり、競争相手も狙っている、ということは①の場合よりも技術の成功確率は高いと考えられるかもしれません)。③の場合は、なぜ発表されていないかを考えてみる必要があります。可能性は2通り、誰かがそのアイデアを有効に活用しているがそれを秘密にしている場合と、試してみたがうまくいかなくてあきらめた場合となります。これらは至極当たり前のことなのですが、注意しなければならないのは、自分が思いついたアイデアについては、えてして①と思い込みがちなことで、その結果、開発に手をつけてから②か③であることがわかって開発戦略の見直しを迫られるということがあります。こうした見込み違いを完全に防止することは困難でしょうが、上記のような可能性があることを心がけておけば、的確な対応はしやすくなるものと思われます。

このとき、競争相手の環境と意図について以下の2つのポイントを考えてみることが重要です。

・あるアイデアに必要な技術要素、資源が他社、あるいは過去において入手可能か

・あるアイデアを実現しようとするニーズが他社、あるいは過去において存在するか(したか)

 

もし、上記の両方ともがYesならば、他社も現在または過去に同じアイデアについて研究している可能性があると考えた方がよいでしょう。資源があり、ニーズがあるのに何もしていないということは考えにくいです。言い換えれば、他社(過去)にない要素技術、資源を用いているもの、他社(過去)にはないニーズに基づいたアイデアは自分たちのオリジナル(つまり上記の①)である可能性が比較的高い、と言えるのではないでしょうか。上記の2つのポイントの答えももちろん推定の域を出ないわけですが、単なる表面的な分析からはわからないことを推定する手がかりは得られると思います。


競争相手の分析は、研究が本質的に競争の要素をもっているから重要、というだけでなく、競争相手の意図から様々な洞察を得ることが可能なこと、競争相手に限らずステークホルダーの意図から得た洞察を活用して、環境要因を積極的に変え、不確実性を減らす可能性もあることが本来的に重要なのではないかと考えています。


文献1:Porter, M.E., 1980、土岐坤、中辻萬治、服部照夫訳、「(新訂)競争の戦略」、ダイヤモンド社、1995.
文献2:Tidd, J., Bessant, J., Pavitt, K., 2001、ジョー・ティッド、ジョン・ベサント、キース・パビット著、後藤晃、鈴木潤監訳、「イノベーションの経営学」、NTT出版、2004.
文献3:入山章栄、「世界標準の経営理論 第3回 SCP理論② ポーターのフレームワークを覚えるよりも大切なこと」、Diamond Harvard Business ReviewNovember 2014p.126.
文献4:丹羽清、「技術経営論」、東京大学出版会、2006.
文献5:Drucker, P.F., 1961、上田惇生編訳、「テクノロジストの条件」、ダイヤモンド社、2005.


「教養としての認知科学」(鈴木宏明著)より

「知性」とはどういうものでしょうか。「知」を生み出すことは研究者に課せられた重要な仕事のひとつと言ってよいと思いますが、その仕事をうまく進めるために「知」や「知性」についての知識は役立つと思います。今回は、「知性」についての基本的な考え方から最近の状況までが包括的にまとめられている「教養としての認知科学」(鈴木宏明著)[文献1]の内容から、研究者や研究マネジャーにも役立ちそうな点をまとめてみたいと思います。

はじめに
・「多様な形で姿を表す知性を総合的に捉えることはできないだろうか。それぞれをまとめてみたり、対比したりすることを通して、知性の総合的な理論が作れないだろうか、各々の場面の知性の特殊性を描き出せないだろうか、より知的な人や物を作り出すことはできないだろうか。こういうことを考えたい人たちが集まって認知科学という学問ができあがった。[p.vi]」
・「この本には2つの目的がある・・・一つは・・・知性の特徴を読者と共有することである。具体的に言うと、どんな簡単な認知、行為であっても、それは複雑なプロセスからなっていること、そしてそれらは多様なタイプの知識の精妙なはたらきによって支えられていることである。・・・二つめの目的は、・・・新しい認知科学のもたらした知見を読者と共有することである。・・・知性についての新しい姿・・・とは身体を通して環境と関わり合い、ゆらぎつつも、柔軟にそして適応的に自らの内部、外部を変化させていくというものである。[p.vi-viii]」

第1章、認知的に人を見る
・「認知科学者たちにとっての共通言語は、情報およびその処理である。つまり、知的システム、知性というものは、情報を受け取り、それを何らかの形で処理している、という見方である。この見方をとることによって、それぞれの領域でバラバラに進められてきた探究が関連づいて、認知科学という一つの領域が形成された。[p.10]」
・「モダリティとは(この文脈では)、視覚、聴覚、触覚、味覚などの感覚タイプを示す言葉であり、感覚様相と訳されることが多い。マルチモダリティ、マルチモーダルとは、複数の感覚が同時に関わるような心理現象を指す場合に用いられる。従来は感覚の種類に応じて独立に研究が進められてきた。しかし、人は日常生活で単一の感覚だけに基づく経験をしているわけではない。[p.13]」

第2章、認知科学のフレームワーク
・「私たちは入力情報に対して、さまざまな計算(処理)を行うことで表象を作り出し、またその表象に基づいて出力がなされると考える。[p.25]」
・「表象はrepresentationという言葉の訳である。・・・元々あることがらXを、別のことがらYで表すということになる。・・・代理物が私の中に生み出されたということとなる。[p.26]」
・表象は、それが私たちの内部にあるか外部にあるかによって、内部表象と外部表象に分けられる。内部表象には一時的に存在するものと永続的なものとがある。永続的な表象にはエピソード記憶(思い出に対応、主要要素が時間的に結びついている)、概念(カテゴリー、意味記憶、意味的な関係によって組織化されている)、手続き的知識(行為、運動に関わる、技能、言語化しにくい)がある。外的表象には文字、文、図、絵、表情、身振り、形状、配置などがある。[p.29-41

第3章、記憶のベーシックス
・「記憶は、覚える段階、保持する段階、思い出す段階の3つからなる。これらはもともとは記銘、保持、想起と呼ばれていた。認知科学、認知心理学ではこれらに各々符号化(エンコード)、貯蔵、検索という用語を当てる。[p.66]」
・「記銘、符号化段階での意図の介在の有無により、意図的学習と偶発的学習が区別できる。[p.67]」
・「もう一つの区分は想起、検索場面における意図の有無に基づいている。意図的に思い出そうとするのは、顕在記憶と呼ばれる。・・・思い出そうとせずに思い出すのは、一般には潜在記憶と呼ばれる。[p.69]」
・「外界から得られた情報はまず非常に短い時間、感覚記憶と呼ばれる貯蔵庫に入る(感覚登録器とか、視覚情報の場合にはアイコニック・メモリ、聴覚情報の場合にはエイコイック・メモリなどと呼ばれたりする)。・・・だいたい視覚情報の場合で0.5秒から1秒程度、聴覚情報では5秒程度保持可能と言われている。[p.71]」「感覚記憶では何が入っているのかの意識が伴わず、外界の情報がそのままの形で分析抜きに存在している[p.72]」「短期記憶は、感覚記憶の中で注意を惹く情報が次に転送される場所である。ここは情報を保持する一時的な貯蔵庫である。[p.73]」「記憶容量はほとんどの場合、7±2になる[p.74]」「チャンクとは意味ある一まとまりの情報のことで・・・学習を重ねることによりチャンクがうまく作れるようになり、結果としてたくさんのことを覚えられるようになる。[p.77]」「短期記憶のだいじな性質は、そこにある情報は操作が可能だということである。[p.78]」「感覚記憶から短期記憶(またはワーキングメモリ)へと移った情報の一部は、永続的な知識の貯蔵庫である長期記憶に保持されるようになる。長期記憶は単一の貯蔵庫ではなく、いくつかのタイプに分けられている。これらはエピソード記憶、意味記憶、手続き記憶の3つ[p.80-81]」「精緻化とは、推論を行うことで、与えられた情報に何らかの別の情報を付け加えることを言う。[p.84]」「記憶項目以外のことまでわざわざ自分で作り出して覚えておくことで、記憶成績を向上させている[p.87]」「複雑なネットワークからなる記憶表象と手がかり表象のマッチの度合いが高ければ高いほど思い出しやすくなるというのが、符号化特定性原理である。[p.89]」
・「記憶は単一の箱ではなく、さまざまな処理機構と貯蔵庫の連結なのである。情報を受容した時点で一時的にそれが貯えられる感覚記憶、注意が向けられた感覚記憶内の情報が貯えられ、操作される短期記憶、リハーサルや精緻化によりほぼ永続的にアクセス可能になった情報が存在する長期記憶――人間の記憶システムはこういうふうに作られている。・・・私たちの記憶システム中の情報は、連続知で表せるような活性度を持っており、あまり活性していないものから、相当に活性しもう少しで思い出せるような状態の情報、そして活性度が閾値を超えて完全に思い出せている情報などが存在している。[p.100-101]」

第4章、生み出す知性――表象とその生成
・「私たちの知覚表象はとてもはかない。そもそも私たちは外界のすべてを把握していると考えているが、事態は全く異なり、一時にはほんのわずかの点の情報しか取得していない。そして、そのわずかな情報も、後続の情報により簡単に消されてしまったりする。また、言語を用いることにより、言語化が容易な部分が言語化しやすいように表象される一方で、そうでない部分については十分な処理がなされない。記憶は知覚にもましてはかなく、うつろいやすい。後続の情報と混じり合うことによって新しい記憶が作り出されることもある。また、ある事柄の経験がどこから得られたのかがわからなくなり、その結果とんでもない『目撃者証言』が生み出されることもある。さらには暗示や断片的な記憶表象から、全く事実とは異なる虚偽の記憶が形成されてしまうことすらある。表象のこうした性質は、不正確さ、虚偽だけを生み出すわけではない。・・・私たちは断片化された知識表象を、その場の要請に応じて巧みに組み合わせて新しい有用な知識を作ることもできるのである。こうした創造的な認知は、きっちりと構造化され、堅固で動かしがたい知識表象からは生み出されない。表象が断片化され、それらの間にルーズなつながりしかないからこそ可能なのである。・・・私たちの情報処理システムの中では、断片化された表象群が外部の情報とともに多様な形で相互作用しながら、その場で新たな表象を生成しては修正している。[p.141-145]」

第5章、思考のベーシックス
・「思考は大きく3つのタイプに分類されている。推論、問題解決、意思決定である。推論とは、与えられた情報から別の情報を生み出すというタイプの思考活動である。・・・問題解決とは、文字通り問題を解くというタイプの思考活動である。・・・意思決定とは、複数の選択肢がある中でどれが最もよいかを選ぶもの[p.149-150]」
・推論は、演繹、帰納、仮説推論、場合によりアナロジー(類推)に分類される。[p.150
・「問題解決は迷路でよい道を探すこと、つまり探索することと見なすことができる。・・・このような場合、人は必ず正しいとは言えないが、だいたいこれにしたがえば解決できる方法を用いて探索しているはずである。こういう方法はヒューリスティクスと呼ばれている。[p.157-158]」「問題を解くためには、問題を解決可能な形で表象すること、つまり問題理解をすることがとても重要なのである。[p.164]」
・意思決定で用いられるヒューリスティクスには、「知っているほうを選ぶという・・・再認ニューリスティクス」、「以前に選んでうまくいった属性を選ぶ・・・直近ヒューリスティクス」、「自分がだいじと思う属性を一つ取り出し、それで優劣を決めてしまう・・・最良選択ヒューリスティクス」、「どの属性がだいじか全くわからない場合には、ランダムに一つの属性をとってきてそれで決定する、最小限ヒューリスティクス」などがある。[p.167-168
・「しかし、私たちの思考はいくつもの欠陥を抱えていることも明らかになった。きわめて単純な演繹もできなかったり、わずかなサンプルから一般法則を導き出してしまったり(代表性ヒューリスティクス)、思い出しやすさで事象の発生頻度を考えてしまったり(利用可能性ヒューリスティクス)、付随的な情報にひきずられて意思決定をしてしまったり(フレーミング効果)などなど。これらは私たちが思考の道具箱にある道具のよい使い手ではないことを示している。[p.197]」

第6章、ゆらぎつつ進化する思考
・「人間は、場面によっては最も初歩的な論理的推論もできない。・・・何かを選ぶ際にも中身ではなく、包装紙で選んでしまうような軽薄な一面を持つのが人間なのである。しかし、・・・同じ問題がある文脈に置かれると、ごくごく自然に正しい解を導き出すことができる。・・・つまり、私たちは学問的な観点から見れば同じタイプの問題と見なせるものに対して、複数の認知リソースを持っているのである。こうした多様な認知リソースには、自らの経験に基づくもの、意味に基づくもの(実用的推論スキーマ)、集団生活を送る中で人間が獲得してきたもの(利得-対価のスキーマ)、あるいは学校で習ったものなどさまざまある。思考する文脈中の情報との関係で、これらの中のあるものが意識の上に出てくる。劣った不適切な考え方も、また適切でより進んだ考え方も、同じ個人の同じ時期に現れる。もちろん時期によって出やすいものと出にくいものがあるが、人間の思考はさまざまなリソースのゆらぎとして特徴づけられる。・・・そして、このゆらぎこそが、次の段階の思考へと、あるいはひらめきへと私たちを導いてくれるのである。発達においても洞察においても、ゆらぎの多い人たちは次のレベルの思考への変化が行われる一方、一貫したやり方しか使わない人たちは一つの場所にとどまり、その先へ進むことはない。多様な認知リソースが文脈と相互作用し、ゆらぐ中で思考が営まれ、発展するのである。[p.236-237]」
・「ひらめきは、専門的には洞察と呼ばれる。ひらめきの特徴は、ひらめく前とひらめく後の不連続性にある。[p.226]」「多くの人において、よい試行の発生頻度は、問題解決を続けるうちに徐々に増加していく。しかし、本人は全然そのことに気づいていない。・・・そして解けた時には、多くの人は突然に解けたかのように感じる。[p.229]」「無意識的な認知と学習のシステムが、適切な試行のよい部分を評価して、それを生み出すリソースの強度を高める一方、まずい試行の原因となるリソースの強度を弱める。・・・私たちの問題解決は、・・・無意識の情報処理(評価や制約緩和)というきわめて強力なリソースの力も借りているのである。[p.233-234]」

第7章、知性の姿のこれから
・「情報技術は認知科学の発展と同期した展開を遂げてきたし、知性の解明にとって欠かせないものを提供してくれてきた。ただ注意したいのは、(当たり前だが)作ったもののすべてが人間の知性、あるいは知性一般にあてはまるわけではないという点である。[p.268-269]」
・「人間の思考は世界にガイドされており、こうしたガイドを頼って、頻繁に世界とやりとりを行っている。これは世界が重要なヒント、時には答え自体を見せてくれるからであったり、記憶を代行してくれるからであったり、その結果として人が直面している課題を簡単にしてくれるからである。・・・さらに言えば、私たちの内部の処理システムは助けになる世界を前提として設計されている可能性もある。・・・もう一つ忘れてはならないことがある。世界が見せてくれる、覚えてくれる、問題を変えてくれるといっても、世界が自動的にそれを行ってくれるわけではない。そこには世界にはたらきかける行為が不可欠なのだ。・・・世界が認知のリソースとなるのは、身体や各種の道具を用いて世界にはたらきかけるからなのだと言えよう。このように考えると、人間と世界は身体、行為を通じて混じり合い、その境界はあいまいなものとなってくる。これらの認知科学の知見を取り入れた哲学者たちは、心が頭蓋骨や皮膚を越えて世界に広がると言う『拡張された心』概念を提案している。[p.262-264]」

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認知や知性の話題というと、最近は行動経済学や脳科学の観点から、心理バイアスや人間の判断の問題が取り上げられることが多いように思います。もちろん、それらは研究者やマネジャーにとって実践的にも重要なことですが、「知性」の本質や、知が生まれるメカニズムについて知っておくことも有意義なことと思います。

本書の内容のうち、研究者、研究マネジャーの立場から興味深く感じたのは以下の点です。
・断片的な表象のルーズなつながり(第4章)や思考におけるゆらぎが新たな発想を生む(第6章)
・外界に働きかけることで世界がヒントをくれる(第7章)
これらは、研究における多様性や冗長性の意義、プロトタイプづくりなどの試行の重要性とも関連していると思われます。それが単に経験的に有効な方法であるというだけでなく、そこに人間の思考のメカニズムの裏付けがあるなら、実践的にも非常に興味深いことではないでしょうか。人間の思考をコンピュータのアナロジーで理解しようとすることはどうやら難しいことのようですが、知性を生物学的に理解しようとするアプローチから新たな研究の方法論が生まれてくるかもしれません。認知科学の今後の発展には期待を込めて注目していきたいと思います。


文献1:鈴木宏明、「教養としての認知科学」、東京大学出版会、2016.

参考リンク



デザイン思考の真価を考える(DHBR誌2016年4月号特集「デザイン思考の進化」より)

イノベーションをうまく進める手法として、デザイン思考への注目が高まっているようです。本ブログでもそのいくつかの例をご紹介してきました(トム・ケリー、デイヴィッド・ケリー著、「クリエイティブマインドセット」東大i.schoolなど)が、可能性には期待できると思われるものの、実際、デザイン思考がどこまで使えるのか、どんな時に有効なのか、どんな点に注意してどう使っていけばよいのか等はまだそれほど明確ではないように思います。

今回は、やや広い視点からデザイン思考に関連した6編の記事を取り上げた、DHBR誌2016年4月号の特集「デザイン思考の進化」に基づいて、デザイン思考の特徴とその実践について考えてみたいと思います。

「デザイン思考」を超えるデザイン思考 真のイノベーションを起こすために(濱口秀司)[文献1]
・「一般に使われる『デザイン思考』とは、ビジネス上の問題解決を、異分野の人々が再現性あるプロトコルを用いて解決しようとするものであり、そのプロトコルの皮を剥いていくと現れるのは、ユーザー中心デザインである。つまり、『デザイン思考』を一言で表現すると『デザイナー以外のための『ユーザー中心デザイン』』である。」「ユーザー中心に考えるプロトコルを分類すると、『ニーズの本質をつかむ』『アイデアをたくさん出す』『アイデアを絞り込む』という3つのステップに分けることができる。」
・「ビジネスにおけるイノベーションには『シフト』(shift:変化)が必要であり、そこには満たすべき要件が3つある。①見たこと・聞いたことがない、②実行可能である、③議論を生む(賛成/反対)。」「『デザイン思考』が提唱する、つまりユーザー中心プロトコルが目指す『ニーズの本質を満たすこと』が、たとえばイノベーションの①の要件を満たす保証はあるのだろうか。うまくいくこともあるかもしれない。しかし、ニーズの本質を満たすことは、見たこと・聞いたことがない製品やサービスをつくることを最初から目指しているわけではない。・・・ビジネス環境において、答えを導くまでの時間が制限されている場合、このプロトコルでやみくもにアイデアを出し、それがたまたま①②③を同時に満たすようなイノベーションにつながる可能性は低いと言わざるをえない。」「ただし、ニーズの本質からアイデアを生む一般的な『デザイン思考』のプロトコルを、すでに存在する製品・サービスの改善・改良の手段としてとらえると、これは十分に力を発揮する。」
・「改善・改良をもたらす既存の『デザイン思考』を『DTn』(Design Thinking driven by needs)として、一方で、その定義に忠実であるイノベーションを生み出す思考法を『DTf』(Design Thinking driven by frameworks)と呼ぼう。・・・DTnがユーザーニーズの本質をつかむことを最も重視するのに対し、DTfではクリエイター、すなわち業界のプロの企画者たちが陥るバイアス(先入観)を探すためのフレームワーク作成が肝心となる。まず・・・既成概念の構造化(フレームワーク化)である。次に、そのフレームワークからバイアスを見つけ、それを破壊するアイデアを生む。さらに、そのアイデアにニーズを付加する。最後に、そうして生まれた新規性も不確実性も高いアイデアに対して、実行の意思決定を行う。」
・「どのような軸で既存概念を分析するかはさまざまだが、とにかく構造化できなければバイアスを認知することはできず、それを破壊することもできない。逆説的だが、それができればイノベーションが生まれる可能性は飛躍的に高まるのである。」「では、このようなアイデアはどのように生み出せばよいのか。効果的なブレストをするためにはまず、思考のモードを論理思考と非論理思考の中間に持っていくことが重要である。」「ブレストのレベル1は・・・『どんどんアイデアを出しなさい』という直感的なブレスト」「次のレベルは、・・・思いついたさまざまなアイデアを整理して、ある切り口をみついけ、そこからアイデアを広げる」「レベル3は、レベル2から出た複数の切り口を組み合わせて構造化することで、包括的なモデルをつくる段階」「さらに重要なのがレベル3+、その包括的モデルを破壊することにより、新たなコンセプトを生み出すことである。」「このようにバイアスを構造化してそれを破壊することで、『①見たこと・聞いたことがない』ものになり、論理と非論理の中央を通ることでその後の説得や技術的検討も含めて『②実行可能である』可能性の高いアイデアが生まれる。ただし、それを実行しようとすると場合、その成果は不確実性が高くなり、数字で読むことができない。そして、不確実なことに対して多くの(“まともな”)人間は容易には合意できず、それが『議論を生む(賛成/反対)』のである。・・・つまり、この段階でイノベーションの3つの要件を満たしたアイデアが生まれるのだ。」
・「イノベーションの要件を満たすアイデアが、必ずしも市場で受け入れられるとは限らない。だが、ニーズは後から付加すればよい。・・・企業の企画者やデザイナーというのは、えてして新しいアイデアに対するユースケースを思いつくことには慣れており、そのアイデアが革新的であればあるほど、逆にその使い道はいくらでも思いつくものだ。」
・不確実性を伴う意思決定の方法としては、「不確実性を下げる購買意識調査」や、「価格判断基準、意思決定、不確実性の要素を構造的に整理し、それらの相関関係を明らかにしたうえで、確率を用いた不確実性のアセスメントをベースに、そのビジネスの正味現在価値(NPV)を算出して明らかにする」ディシジョンマネジメントがある。
・「DTnの場合、アイデアを絞り込む段階のフレームワークが脆弱なために論理性を担保できない。そのため、他にもっと面白いアイデアがあるのではという意思決定者からの疑いを解消できない。一方DTfにはアイデアを生み出すためのフレームワークが最初からあるため、なぜそれを選択したのかを論理的に説明しやすい。」
・「改善や改良を目指すのであればDTnを、そして、真にイノベーションを生み出したいのであればDTfのプロトコルを選択すべきなのである。」

サムスン:デザイン思考から何を得たのか イノベーションを生む組織文化をつくる(ヨー・ヨンジン、キム・ギュンムク)[文献2]
・「1996年サムスングループ会長のイ・ゴンヒは・・・トップブランドになるためにはデザインの専門知識が必要だと言う結論を出した。・・・サムスンには現在、1600人以上のデザイナーが在籍する。イノベーションプロセスの第一段階は、デザイナー、エンジニア、マーケター、エスノグラファー、ミュージシャン、ライターによる部門横断的なチームが行う調査である。彼らが、いまだ満たされていない消費者ニーズを探求したり、文化、テクノロジー、経済のトレンドを見極めたりする。」
・デザイナーは社内育成。「サムスンはまた、市場での実験を、将来を見据えたデザインリサーチの材料として活用するようになった。」「サムスンでは先進的なデザインの価値が社内で広く理解され、遠い将来を見据える思考を促すために多額の投資が行われている。」

ペプシコ:戦略にユーザー体験を 【インタビュー】CEOが語るデザイン思考をもとにした企業変革(インドラ・ヌーイ)[文献3]
・「ヌーイは・・・『当社が下す重要な意思決定の大半において、『デザイン』を考慮に入れている』という。」
・ペプシコの初代最高デザイン責任者マウロ・ポルチーニは「企業にデザインを浸透させるには、一定の条件が必要だ。第一に、デザインを統括する適任者をリーダーに迎え入れなければならない。・・・デザインとは本質的に、人間に対する深い洞察に沿って戦略を策定することだ。・・・大局的な視野の持ち主であり、デザインのあらゆる面を巧みにマネジメントできるリーダーが必要なのだ。第二に、経営トップのしかるべきサポートが不可欠だ。・・・第三にすべきことは、社外のさまざまな組織からできるだけ多くの支持を取りつけることである。・・・これらの支持は組織内の人々のビジョンを実証するとともに、正しい方向に向かっていることを示してくれる。これにより、前進する自信が培われるのだ。最後に必要なのは短期的な成果、すなわち、社内でデザインの価値をすぐに証明できるプロジェクトだ。」と言う。

IDEO流実行する組織のつくり方 新しい考えを組織に浸透させる「導入デザイン」(ティム・ブラウン、ロジャー・マーティン)[文献4]
・「非常に複雑な人工物の場合、その『導入の仕方』のデザイン、すなわち現状に対して新しい人工物をどのように導入し、周囲に溶け込ませていくかを描くことこそ、人工物自体のデザインよりも成功にとって重要である――これが我々の主張である。」
・「人工物自体のデザインと、そのデザインに命を吹き込む導入方法のデザイン・・・を切り分けて処理すれば、刷新を根付かせられる可能性は高まる。」
・「昔ながらの手法では、製品開発者はまずユーザーを研究して製品企画を仕上げることから手をつけた。その後、努力を重ねて素晴らしいデザインを創り出し、市場投入に至るという流れだった。だが、IDEOが広めたデザイン優先の手法は違う。ユーザーを理解するための作業が、定量的・統計的というよりも、もっと深くて民族誌(エスノグラフィー)を著すようなアプローチなのだ。当初はこれが古い手法と新しい手法の大きな違いだった。しかし、事前にどれほど深くユーザーのことを理解しても、デザイナーは最終製品ができあがるまでユーザーの反応を正しく予測することができないことにIDEOは気づいた。そこでIDEOのデザイナーたちはさらに速い時点からユーザーと関わるようになった。早めのフィードバックを得るため、試作品がまだ粗削りの段階からユーザーに見せるのだ。そしてこの作業を素早く何度も繰り返し、最終的にユーザーがその製品に満足するまで着実に改善を重ねる。」
・「試作品づくりを素早く何度も繰り返すことで改善されるのは、デザインの対象となる人工物だけではない。その人工物を市場投入するための予算や組織的支援を獲得するうえでも役立つことが明らかになった。新製品、なかでも革新的なものほど、経営陣にとってはゴーサインを出すのが大きな賭けになる。未知のものに対する恐怖心から新しいアイデアが潰されることは多い。だが素早い試作品づくりで、新製品チームは市場での成功に自信を持てるようになる。この効果は、複雑で実態をつかみにくいデザインであるほど重要性が増すことが判明した。例えば企業戦略の策定を考えてみよう。・・・この場合の正しいやり方は、意思決定権者と対話を繰り返すことである。」
・「複雑な人工物の導入作業では、劣ったデザインの芽を摘み、優れたデザインによる成功を確信するためにも、導入作業の最初から最後まで、利用者とやり取りを重ねることが不可欠になる。デザイン思考は当初、実態のある製品のデザイン作業を改善する手段として生まれた。だがそれだけで終わるものではない。」
・「今後の情報技術とコンピュータ技術の進歩によって、たとえ複雑なシステムであろうとも、早い段階で試作品をつくって皆に試してもらい、多様性に富む大勢のユーザー層からフィードバックを得ることは、いまよりはるかに簡単になるだろう。そのような時代になれば、『新デザインの市場投入』はもはや大きな到達地点ではない。周到に準備された『導入デザイン』という大きな流れの中の、単なる通過点の一つとなっていることだろう。(ティム・ブラウン)」

デザインの原則を組織に応用する シンプルさと人間らしさをもたらすツール(ジョン・コルコ)[文献5]
・アイデアの実現をサポートするデザイン思考の原則:ユーザーの体験、特に感情的な体験を重視する(「従来のバリュープロポジションは実用性を約束」、「感情的なバリュープロポジションは『感覚』を約束する」)、複雑な問題を検討するためのモデルをつくる(「デザイン思考の実践者は物理的なモデル(『デザインアーティファクト』とも呼ばれる)を使って探索、定義、伝達を行う」「これらのモデル――主に図表やスケッチ――は、伝統的な組織環境の説明手段となっている」「デザインモデルは、言わば理解のための手段・・・問題に対する新しい見方を提示してくれる」)、プロトタイプを使って潜在的ソリューションを探す(「図表は問題領域を探索するものだが、プロトタイプは解決領域を探索するために用いる」、失敗を大目に見る(「あらゆる部門の社員に共有されるべき認識は、面目を失ったり罰則を受けたりせずに社会的リスクを負える――たとえば不完全なアイデアを提出してもかまわない――ということ」、深く考えたうえで抑制を効かせる(「抑制は、その製品が何をすべきか、そして何をすべきでないかを真剣に考えることで生まれてくる」)。
・デザイン思考への転換における課題:曖昧さを受け入れる(「ユーザー体験の工場がどれほど価値を生むのか、あるいは創造性への投資がどれほどリターンを生むのかを、計算によって知ることは不可能とは言わないまでも困難」、リスクを受け入れる(従業員は問題を完全に、論理的に理解していなくても、リスクを取ってやってみることが許される、そんな文化をリーダーは築かなければならない)、適切な期待を設定する(「デザインはすべての問題を解決するわけではない」「個人や組織が複雑さを回避するための役には立つ」「イノベーションの強い味方となり、未来を想像するうえでも極めて有効だ」「しかし、デザインは業務の最適化や効率化、安定化を図るのにふさわしいツールではない」)

はたして、論理は発想の敵なのか 新しいものを生み出すプロセス(野矢茂樹)[文献6]
・「『演繹とは何か』という問いに応えるならば『与えられた情報を最大限に正確に活用すること』が答えになります。そうだとすると、論理は新しいものを生み出す力を持ちえないことになります。少なくとも、最も厳格な論理である演繹では、新しいものを生み出してはいけないのです。」
・「しばしば推論は3つに分類されます。一つが・・・演繹(deduction)、もう一つは個別事例から一般化するという『帰納』(induction)と呼ばれる推論。そしてこれらに加えて、アブダクション(abduction)と呼ばれるタイプの推論があります。・・・『仮説形成』と訳してもいいでしょう。」「演繹の場合には推論過程は一本道でしたが、仮説形成は一本道ではなく、むしろ積極的に飛躍が求められる。この飛躍の力が、思考なのです。」「思考の力で飛躍した後は、論理の力が必要となります。・・・論理は考えることではなく、考えた結果をチェックすることであり、考えた結果を人に伝える場面で働きます。」
・「思考にとって、論理には3つの役割があります。思考をサポートする役割、チェックする役割、そしてコミュニケーションを成り立たせる役割です。・・・論理とタッグを組んで考えていかなければ、思考は孤立無援です。だから、論理の力と思考の力は、けっしてトレードオフの関係ではありません。」
・「問題に向き合った時に、ただその問題に答えようとするだけではなくて、問題そのものを問い直すことも重要です。・・・問いを問い直すことは問いに答えるのと同じくらい、あるいはそれ以上に難しいことです。論理的な分析も必要ですし、思考による飛躍も要求されるでしょう。・・・問題そのものを問い直すこうした態度というのは、目の前の問題に答えようとするかたくなさから解放されていなければ不可能です。」
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このようにデザイン思考を多少違った角度から見てみると、その真価というものが感じ取りやすくなるように思われます。今回の特集からデザイン思考の長所を考えてみると、ユーザー志向によるより確かなニーズの把握する手法、プロトタイピングなどの試行とそこからの学習を反復するプロセスによるより受け入れられやすいソリューションを提案する手法の2点が重要なように思われます。

このうち、ニーズの把握については、必ずしもニーズから出発する必要がない画期的なイノベーションの場合は、デザイン思考の手法はそれほど有効ではない、という濱口氏の主張は確かにその通りのように思います。ただ、濱口氏は、デザイン思考の範囲、イノベーションとして定義される範囲をやや狭く設定されているようにも感じました。要は、デザイン思考のみですべてが解決できると考えるのではなく、扱うプロジェクトの特性によって、ユーザーのニーズや感情の把握が重要になる場面ではデザイン思考の手法を使うことがよい、ということになるのだと思います。

一方、試行による学習とその反復、学習結果に基づく方向変更というアプローチは、より広い範囲で使える手法のようです。今回の特集では、ブラウン、マーティンがその手法を「導入」プロセスにも適用するという提案をしています。この「導入」というのはやや曖昧な概念ですが、ブラウンらの論文の原題はDesign for Actionとなっていますので、アイデアを行動につなげる段階、すなわち、アイデアを採用して実現するなり、アイデアを受け入れて使ってみるなりの意思決定の段階にも試行によるアプローチが使えるということだと思います。

結局のところ、デザイン思考というのは、答えがよくわからない対象に取り組む場合に適した手法といえると思います。野矢氏との対話の表現でいえば、仮説形成のための手法ということになるでしょう。研究者にとっては仮説形成は日常的に行っていることではありますが、それをビジネスの世界で行おうとする場合、コルコの論文で指摘されているような課題があります。デザイン思考がどのような課題に適した手法なのかを知ることとともに、デザイン思考を受け入れにくくしている感情、例えば、事前に十分な計画を立ててそれに従ってプロジェクトを進めたいという感情や、完璧な製品を世に問いたいという感情を捨てられるかどうかが、デザイン思考の真価発揮のためのカギになるように思います。


文献1:濱口秀司、「『デザイン思考』を超えるデザイン思考 真のイノベーションを起こすために」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.26.
文献2:Youngjin Yoo, Kyungmook Kim、ヨー・ヨンジン、キム・ギュンムク著、辻仁子訳、「サムスン:デザイン思考から何を得たのか イノベーションを生む組織文化をつくる」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.40.
原題:”How Samsung Became a Design Powerhouse”, HBR September 2015.
文献3:Indra Nooyi, Adi Ignatius、インドラ・ヌーイ、聞き手アディ・イグナティウス、高橋由香理訳、「ペプシコ:戦略にユーザー体験を 【インタビュー】CEOが語るデザイン思考をもとにした企業変革」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.50.

原題:”How Indra Nooyi Turned Design Thinking Into Strategy”, HBR September 2015.
文献4:Tim Browm, Roger Martin、ティム・ブラウン、ロジャー・マーティン著、倉田幸信訳、「IDEO流実行する組織のつくり方 新しい考えを組織に浸透させる『導入デザイン』」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.62.
原題:”Design for Action”, HBR September 2015.
文献5:Jon Kolko、ジョン・コルコ著、編集部訳、「デザインの原則を組織に応用する シンプルさと人間らしさをもたらすツール」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.74.
原題:”Design Thinking Come of Age”, HBR September 2015.
文献6:野矢茂樹、聞き手=編集部、「はたして、論理は発想の的なのか 新しいものを生み出すプロセス」、Diamond Harvard Business Review, April 2016, p.82.




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