研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

2018年10月

「好き嫌い」(ヴァンダービルト著)より

好き嫌いは人の行動に影響します。ビジネスの世界でも、顧客の好き嫌いは製品やサービスの売れ行きや評価に直接影響しますし、仕事に対する好き嫌いはその仕事のパフォーマンスにも影響するでしょう。また、意思決定の場面でも、論理的な判断に加えて好き嫌いが判断に影響を及ぼすこともあるでしょう。では、好き嫌いとはどういうものか、どういうメカニズムで好き嫌いが生まれるかはわかっているのでしょうか。

今回は、こうした問題を議論したトム・ヴァンダービルト著、「好き嫌い 行動科学最大の謎」[文献1]の中から興味深く感じた点をご紹介したいと思います。結論を言ってしまえば、好き嫌いについてはまだまだよくわからないところが多く統一的な理解は難しい、ということになってしまうと思いますが、本書でとりあげられている好き嫌いの様々な側面についての事例や知見はこの難題を考える上でのヒントになりうるように思います。詳細な事例や議論は本書をご参照いただくとして、ここでは特に興味深く感じた点をメモしておきたいと思います。

第1章、何を召し上がりますか 食べものの好みについて考える
・「人間は雑食性だ。・・・雑食動物で、なおかつ新しいものぎらいという二面性には進化上の利点がある。新規なものを食べないおかげで悪いものを摂取せずにすみ、雑食であるおかげでよいものを幅広く取り入れるようになった。[p.32]
・「本当のところをいうと、私たちは好きなものよりも好きでないものにより敏感らしい。[p.33]
・「私たちは生まれて数日でもう好ききらいを表わしはじめ、味のない水よりも甘い水を選び、(いくらかでも)苦い食べものに顔をしかめる。これはまだ生きるための反応であり、食べるのは生きるためだ。本当にえり好みをするようになるのは二歳ぐらいから[p.33]
・「遺伝的性質は食べものの風味の好ききらいに驚くほど影響しない[p.35]
・「私たちは選ぶのが好きなのだ。手元にメニューがあって、そこから選べるというだけで、メニューに載っているすべてが好ましく感じられることが研究からわかっている。[p.43]
・「好みとは、つまり期待と記憶のことなのだ。何かをたのしみにしているときでも、それを前回たのしんだときの記憶をふり返っている。[p.44]」「期待は好みの基本原理といってよい。きっと気に入ると思っていれば、本当に好きになる可能性が高いのだ。[p.55-56]
・「『感覚特異性満腹』という現象は、簡単にいうとある食べものを十分に摂取すると体がシグナルを送ってそれを知らせるということだ。ただ『満腹になってきた』のではなく、その食べものについて満腹になってきたという合図である。・・・『感覚特異性満腹』は進化において有利なメカニズムであり、さまざまな栄養素を接収するたすけになると科学者は推測している。[p.50-51]
・「期待が好みを後押しする。・・・おもしろい映画だったと事前に感想を聞かされていると、その映画を実際に見るときに二つのことが起こりうる。一つは『同化』だ。感想を聞いて期待が高まったことで、感想を聞かなかった場合よりもその映画が好きになるケースである。もう一方の『対比』では、さほど期待していなかった場合よりも余計にがっかりする。食べものについては、私たちは同化しやすい。[p.57]
・「私たちの舌には味蕾が分布し、その味蕾が基本の味覚を分類している。甘味、酸味、苦味、塩味、それに正式な分類とまではいかないが、うま味(そしておそらく脂味も)である。もっと細かい区別・・・は『後鼻腔経路で』くりから鼻を抜けてにおいとして知覚される。[p.71]
・「アメリカ人が甘くない紅茶を好きになれるかどうかを調べたい紅茶会社の後援でペルチャットが行なった研究では、被験者はブドウ糖を加えていない紅茶をしだいに好きになっていった。なぜだろうか。理由は単純で、繰り返し飲んだからなのである。1968年に心理学者のロバート・B・ザイアンスは、非常に重要な論文のなかでこの現象に『単純接触』効果と名付け、『ある刺激に繰り返しさらされるだけで、刺激に対する態度に変化が生じるに充分である』と述べている。ザイアンスは食べものについて論じたのではないが、現在では、接触は食べものの嗜好における基本概念になっている。[p.75]
・「私たちは脳内の複雑にからみあった一連の活動を通じて、『風味事象』――食べるものすべての触覚、味覚、嗅覚が一体になった『知識のゲシュタルト』――を学習するのだとスモールは言う。『この食べもので吐き気をもよおさなかったか。この食べもので活力が得られたか。風味にかかわる事象全体から好みを学習するのです』。[p.79]

第2章、誤りは私たちの星評価にあるのではなく、私たち自身にある ネットワーク時代における好み
・「ネットフリックスは、好きだと視聴者がいったもの・・・から、視聴者が実際に見たものに注目の先を変えた[p.91]」。「ストリーミング配信では視聴者からの明確なフィードバックはないかもしれないが、行動がフィードバックのかわりになる。[p.90]」(ネットフリックスの)「イエリンがいうには、人は『自分ってこうなんだと思いたいんです。こういう自分というのを思い描いて、自分で自分にうそをつくことさえありますよ――どういう種類の作品を好きだというか、ある作品に星をいくつつけるか、本当は何を見るか』。[p.92]
・「星評価システムそのものが、かなりバイアスがかかりやすい。人は評価尺度の両端を避ける。これは『縮小バイアス』という。その結果、星一つおよび五つよりも二つや四つの評価がはるかに多くなる。[p.94-95]
・「インターネットによって専門家の権威と批評の正当性が必要とされなくなったといってよいかどうか、そこは簡単な話ではない。[p.109]」「大衆が批評の対象を批評家の圧政から解放したという見方は、卑小な権威意識をもちはじめているらしいレビュアーが多いせいで揺らいでいる。イェルプやトリップアドバイザーのレビューを読むと、とくに星一つのレビューに多いが、恨みがましさが容易に感じとれる。[p.112]」「ネットレビューの信用問題で最も由々しいのがレビューの捏造だ。[p.113]」「そもそもの問題は、大半の人がレビューを書かないことだ。[p.115]」「購入してよかった、またはよくなかったと強く思うと、客はレビューを書く気になることが多い。そのために評価は『バイモーダル』になりやすい――評価がすべての星数にほぼ均等に分布するのではなく、よいと悪いの二極に集まるのである。これは『J型分布』、またはもっとおもしろく『自慢か愚痴か現象』と呼ばれている。[p.116]
・「批評家とネット上の『口コミ』の相違点を調べるために行われた、あるウェブサイトの映画レビューの『内容分析』によると、批評家はふつうの映画ファンにくらべてプロットや演出や演技について多く語っていた・・・。一方、素人批評家は自分にとって映画はどうだったかを多く語り・・・、また彼らのレビューの半数近くが批評家の批評についてどう考えるかを述べていた・・・。[p.129]」「要するに、批評家はある作品のどこを好むべきか(または好むべきでないか)を語り、素人は自分がその作品を好んだ理由を語るのである。[p.130]

第3章、好みは予想できるのか あなたのプレイリストがあなたについて語ること(そしてあなたがあなたのプレイリストについて語ること)
・「個人主義の時代にあって、私たちの多くは、自分はわが道を行く複雑な人間であって、あなたはこれこれこういう人です、などとあっさり見抜かれるはずはないと思っている。[p.143]」「しかし、『趣味は説明がつかないと、みんな思い込んでいるだけなんです』というのがリューの見解だ。・・・『当然ですが、趣味は説明がつきます。これだという特徴を探せばいいんですよ』[p.144]」(リュー氏はレコメンデーション企業ハンチのチーフ・データサイエンティスト)
・「私たちは好きな音楽の音がどうとか曲がどうとかいいたがるが、本当に好きなのはその音楽が意味するものなのだ。そしてこんなことも――それをなんと呼ぶべきかを知っていることで、私たちはそれを好きになるのである。[p.152]」「曲を好きになる最も基本的な要素は、以前に聞いたことがあるかどうかである。食べものと同じで、接触が鍵をにぎる。耳にすればするほど好きになるのだ・・・。[p.165]
・「接触には危険がひそんでいる。接触すればするほど、だんだん好きでなくなっていくこともあるのだ――きらいだったものはとくにそうなりやすい。このことについての明確な回答はないが、心理学者のダニエル・バーラインの提唱した有力な説は、音楽などの好き嫌いは『複雑度』を因子として逆U字型のグラフになるというものである。単純すぎるもの、逆に複雑すぎるものは好まれにくい。・・・ところが気に入ったはずのその曲も、聞くたびに複雑でなくなっていく。[p.168-169]」「最初の数回はたのしいが、すぐにその甘ったるさにうんざりしてしまう。[p.170]

第4章、なぜこれが好きだとわかるのか 芸術の陶酔と不安
・「私たちが自分で意識している以上に『トップダウン処理』の世界に生きていること・・・私たちは見るとあらかじめ予期しているもの、見たいものを見るのであり、『ボトムアップ処理』がなされること、つまりそれそのものに気づくことはめったにない。[p.185]」「ノースイースタン大学感情科学学際研究所の所長であるリサ・フェルドマン・バレットが説明してくれたところによれば、脳はおもにボトムアップ器官だと長く考えられてきた。・・・脳のニューロンは外部刺激・・・で活性化されるまで休止状態にある。刺激を受けとると、脳はおそらくその刺激に個人的関連があるかどうかを判断し(これと似たものを前に見たことがあるか)、それから適切な感情反応ないし情動反応を選択する(これについてどう感じるか)。・・・バレットは『実際にはそうではない』という。『ボトムアップのプロセスがないというのではありませんが』と前置きしたうえで、最も考えられるのは、脳は『過去の経験にもとづく世界の生成モデル』なのだと主張する。・・・私たちがあるものについてどう感じたかという記憶は、実際の経験の記憶よりもじつは強力なのだ。『脳は前後関係にもとづいて、その状況でどんな刺激が待ち受けているかを予測するのです』[p.185-186]
・「あるものを何として見るかによって、それへの感情が変わる・・・。上等なチーズのにおいだといわれるか、汚い靴下のにおいだと教えられるかで、そのにおいの好き嫌いが決まるように、私たちがあるものを美しいと思い、好きになるかどうかの判断は、それがどこに位置づけられるかに影響される。美術史家のケンダル・ウォルトンがいうように、キュビズムの絵画や中国音楽に初めてふれる人(中国人でない人)は、『かたちもなくでたらめで、心をかき乱す』作品だと思うかもしれない。それはその作品をキュビズムあるいは中国音楽というカテゴリーに属するものとして見ていないからだという。芸術の新しい様式、それどころか文化のあらゆる新しいトレンドに生命を吹き込むのは、それを分類すること、それについて考える手がかりをもつことなのだ。そしてここには原因と結果のループがある。カテゴリーを知るとそれを好きになりやすくなるが、私たちは好きなものをカテゴリーに分類したがることが研究からわかっている。[p.235-236]

第5章、なぜ(そしてどのように)好みは変わるのか
・「未来の自分の好みを予想できない理由の一つは、・・・まさにその好みを変えさせる要素の一つにある。新奇性だ。・・・私たちは一方では目新しさを切望する。・・・ところがその一方で、私たちがなじみ深さにとても弱いことはこれまで見てきたとおりだ。[p.252]」「では、目新しさとなじみ深さのどちらをとるのか。多くのことがそうであるように、答えは中間あたり、新しいものと知っているもののU字型の最適曲線のなかほどにある。・・・私たちは新しいものが好きだが、ただしそれはどこかに古いものを思わせるところがあるなら、という条件つきなのだ。趣味がどれくらい変わるかを予想するのが難しいのは、このもって生まれた抵抗感の先が見越せないからである。・・・新しいものをどんなに不快に感じても、それは束の間にすぎないのに、私たちはそのことを忘れてしまうのだ。[p.253]
・「趣味という機関を動かしているのは、まず目新しさとなじみ深さ、飢えと満足のあいだを行ったりきたりするエネルギーだ。外的な刺激と内的な知覚が心のなかで不可思議に差し引きされて、私たちは食べものや音楽やオレンジ色に飽きる。だが、もう一つ、この機関を作動させているものがある。他人と同じであろうとしたり違っていようとしたりする私たちの微妙な心の動きである。[p.257]」「集団は趣味をほかの集団に『伝播』させるが、趣味そのものが集団を形成させもする。・・・趣味の選択を後押しするのは、一つにはこうした社会的な駆け引き、すなわち学習と回避なのである。しかし、これで全部ではない。趣味はただのまちがいや偶然で変わることがある。[p.270]

第6章、猫と土とビール 専門家はよいものをどうやって判断するのか
・「最も重要なスキルは、情報の抽出だ・・・それが経験にもとづく識別力以上に判断の鍵をにぎる。[p.318]」「人は多くを知れば知るほどますます分類しようとし、分類できるものが増えれば増えるほど、さらに多くを知る。審査のエキスパートがあなたや私と違うのは、世界の――少なくともそのなかの自分が携わる部分の――見方、組み立て方である。[p.319]

おわりに、テイスティングノート 好きになることとは
・「私たちは自分が何を好きなのか、自分のしていることのどこが好きなのかをわかっていないことがよくあるようだ。好みにはさまざまな無意識のバイアスがつきまとい、そのときの状況や社会からの影響であっけなく揺れ動く。今日好きなものを明日も好きでいる可能性は多いがけないほど低く、以前に好きだったものを何が好きにさせたのかを憶えている可能性はさらに低い。[p.356]
・好きになることへの実践的ガイド:「人は好きかきらいかをその理由を知るより先に判断する」「好きときらいはトップダウン処理の先入主になって、対象をありのままに経験するのを妨げかねない」「私たちは、自分の好きなものがまちがいなく自分の好みのものだと思いたがるが、じつはいつの間にか状況や環境に左右されたり・・・期待で鈍らされたりする」「何かを好きだと思うとき、それ自体を好きというよりも、好きな理由を話しやすいから好きだと思っているだけで、本当はもっと好きなものがほかにあるのかもしれない」「人は分類できるものを好む」「安直な好みはあてにならない・・・初めはなかなか好きになれそうにないもの・・・は、末永く快楽で報いてくれる」「見ているものを好きになるかもしれないが、好きなものを見ているということもある」「好みは学習するものである・・・生まれついての好みというものはほとんどない」「私たちは好きになりそうなものが好き、憶えているものが好きだ」「キーワードは目新しさと馴染み深さ、同調と差異化、単純さと複雑さ」「好きでないものは無視されやすいが、じつは強力である」「何が好きかよりも、なぜ好きかを考えるほうがおもしろい」[p.357-361]
---

マネジメントの世界では、いわゆる趣味よりも、「どんな行動が好きか」ということが重要なように思います。その好き嫌いのメカニズムについてはまだよくわかっていないことが多いように思いますが、本書に述べられた食べものや芸術の好き嫌いにも通じるところはあるのではないか、と思います。おそらく、何かの行動が脳内の報酬系に影響することが基本にあるのではないかと思いますが、本書で指摘されているような経験や学習、バイアスといった要素も関係しているのでしょう。個人的には、人のモチベーションに関係する要因としての好き嫌いの役割は無視できないと思っていますので、さらにこの分野の理解が深まり、その知見を活用できるようになることを期待したいと思います。


文献1:Tom Vanderbilt, 2016、トム・ヴァンダービルト著、桃井緑美子訳、「好き嫌い 行動科学最大の謎」、早川書房、2018.
原著表題:You May Also Like: Taste in an Age of EndlessChoice

 

「起業の科学」(田所雅之著)より

イノベーションを生むにはどうすればよいのか。試行とそこからの学習、方針変更を特徴とするリーン・スタートアップの手法(本ブログ紹介記事はこちら)は、起業を成功させるための具体的な方法として提案され、今や広く受け入れられているようです。

今回はそれに近い手法が解説されている、田所雅之著、「起業の科学 スタートアップサイエンス」[文献1]の内容をご紹介したいと思います。既存企業の研究マネジャーにとっては、それをそのまま適用するのは難しいところもあるかもしれませんが、本書ではスタートアップが新しい事業を立ち上げるための具体的な方法が詳細に解説されており、企業内の実務家にとっても参考になるところも多いと感じました。

著者は次のように述べています。「スタートアップを始めた瞬間から、起業家には課題が次から次へと降りかかってくる・・・その中でも、一番大きな課題は、スタートアップが成長していく過程の様々なタイミングで自分たちが何を実現すればよいのかを判断する基準がないことだ。[p.3]」「起業家が成長のステージごとに何に取り組めばよいのかを、私の経験も踏まえて時系列で整理したのが、この『起業の科学 スタートアップサイエンス』である。[p.4]」具体的には、著者は成長のステージを、Idea Verification(アイデアの検証)、Customer Problem Fit(課題の質を上げる)、ProblemSolution Fit(ソリューションの検証)、Product Market Fit(人が欲しがるものを作る)、Transition to Scale(スケールするための変革)という5段階に分け[p.6]、それぞれのステージでの進め方を解説しています。以下、本書の構成にそってその内容をご紹介したいと思いますが、起業家各位には本書の詳細を直接ご参照いただいた方がよいと思いますので、本稿では、企業内の研究のミドルマネジャーにとっても参考になると思われる点を中心に興味深く感じた点を中心にまとめたいと思います。

Chapter 1
IDEA VERIFICATION[アイデアの検証]
・「スタートアップが成功できるか、失敗して消えてしまうか。それを決める基準は、Product MarketFit (PMF)を達成できるかできないかという点にある。スタートアップがプロダクトを生み出しても、それがPMFを達成して顧客から熱烈に求められるものでなければ、成長はできない。・・・なぜ多くのスタートアップはPMFを達成できずに失敗してしまうのか。それは、プロダクトを作る前の段階でアイデアが十分検証できていないからだ。[p.16]」「慌ててオフィスを飛び出してはいけない。顧客のもとを訪れる前に議論を尽くし、自分たちで最善と思えるアイデア仮説『Plan A』を持とう。・・・あなたの取り組むアイデアは一生を懸けるべき価値があるものなのか、それを検証するところから始めよう。[p.17]」
1-1
、スタートアップにとっての『良いアイデア』とは(スタートアップにとって『良いアイデア』とは何かを理解し、解決すべき課題は何かを明確にする)
・「世の中にはたくさんのビジネスアイデアがあるが、目指すべきは課題(イシュー)の質とそのソリューションの質がいずれも高いアイデアである。・・・ではそのバリューのあるアイデアを見つけるにはどうしたらいいのか?実は、筋道(パス)は一つしかない。『課題の質を上げてから、ソリューションの質を上げる』という筋道だ。先にソリューションの質を高めてから、解決する課題の質を高めるというパスは存在しない。・・・真っ先に注力すべきは、解決を目指す課題の質を向上させることだ。[p.19]」「様々な角度からアイデアの深堀りを繰り返していくことで、課題の質が上がる。それができたら、その課題に対する解決策を検討し、磨きをかけていくことで、初めて価値のある『良いアイデア』に至るのだ。[p.20]」
・スタートアップが避けるべき7つのアイデア:①誰が見ても、最初からいいアイデアに見えるもの、②ニッチすぎる、③自分が欲しいものではなく、作れるものを作る、④根拠のない想像上の課題、⑤分析から生まれたアイデア、⑥激しい競争に切りこむアイデア、⑦一言では表せないアイデア[p.36-37
1-2
、スタートアップのメタ原則を知る(スタートアップのメタ原則を知り、考えるべきアイデアの方向性を知る)
・「起業の多くはスモールビジネスであり、スタートアップはその一部にすぎない。[p.38]」「スタートアップとは市場が全くない『0』の状態から『1』を生み出す組織である。[p.42]」
・スタートアップが成功するためには避けるべき行動、思考パターン:1.詳細なビジネスプランを作る、2.正確なフィナンシャル・プロジェクションを用意する、3.精緻なリポートにこだわる、4.「まあまあ好かれる」プロダクトを大勢の人向けに作る、5.詳細な仕様書をもとに開発する、6.最初に想定したビジネスモデルに執着する、7.競合を意識しすぎる、8.差別化を意識しすぎる、9.Nice-to-haveな機能を追加する、10.最初からプロダクトデザインやユーザビリティの細部にこだわる、11.最初からシステムの自動化・最適化を行う、12.ビジネスモデルが出来上がる前に積極的に人を雇う、13.直接関係のないネットワークイベントや飲み会に参加する、14.経歴が立派な営業責任者や事業開発担当者を雇う、15.ビジネスモデルの検証が終わる前にパートナーシップや独占契約を結ぶ、16.セールスよりもマーケティングやPRにフォーカスする、17.仕事の役割を厳密に設ける、18.NDA(秘密保持契約)を交わす、19.受託開発や業務委託を必要以上に受ける、20.業界の専門家からのアドバイスに頼る、21.VCに積極的にアプローチする[p.43-49
1-3
、アイデアの蓋然性を検証する(自分たちが一生を懸けて取り組むべきアイデアなのかを検証する)
・「実は、スタートアップの成功の可否に最も大きく寄与する要因は、タイミングである。[p.54]」「アイデアを検証するとき、PEST分析などによる市場環境変化の理解は極めて重要だ。・・・起業家はマクロの視点で自分の進もうとしている道をとらえてから、ミクロな視点を考えたほうがよい。[p.68]」(PEST=政治、経済、社会、技術)「スタートアップの提供するプロダクトやサービスもやはり破壊的イノベーションの要素がなければならない。[p.71]」「スタートアップが大きな市場に飛び込むのは、わざわざ体力を削りにいくようなものである。むしろ、注目されていない限定的な市場で圧倒的なシェアを取るほうが、はるかにハードルが低い。[p.83]」
1-4
Plan A(最善の仮説)を作成する(リーンキャンバスを用いて、最初のアイデア仮説「Plan A」を作成する)
・「どうやってPlan Aを形にしていけばいいのか?私が最も効果的だと思う手法が、アッシュ・マウリャ氏(Ash Maurya)が・・・提唱するリーンキャンバスである。・・・ビジネスモデル・キャンバスから派生したものだ。[p.88-89]」リーンキャンバスは、①課題(課題仮説)、②顧客セグメント、③独自の価値提案、④ソリューション、⑤チャネル、⑥収益の流れ、⑦コスト構造、⑧主要指標、⑨圧倒的な優位性、からなる。[p.89-91
・「リース氏は『ピボットとはビジョンを変えずに戦略を変えることである』と語っている。・・・とはいえ、ピボットはスタートアップにとっては決してラクなことではない。[p.97]」「自分たちの積み上げたものを捨てることになるので、一歩間違えばそのまま死んでしまうのと紙一重のところに身を置くからだ。・・・ピボットをするときはメンバー全員の力で乗り切る必要がある。そのためにもリーンキャンバスなどを通じて議論を繰り返し、各自がピボットの判断に納得感とオーナーシップが持てるかどうかが大事になる。[p.98]」

Chapter 2
CUSTOMER PROBLEM FIT[課題の質を上げる]
・「第1章では、リーンキャンバスを用いて課題仮説を練り上げた。しかし、これはまだ、あくまでも作り手が考えた仮説にすぎない。この仮説で考えた課題について、想定カスタマーはどれくらいの痛みを感じ、解決したいと願っているのか。カスタマーと実際に対話をしてそれを検証する必要がある。これこそが本章の目的であるCustomer Problem Fit(カスタマーと課題の一致)を実現することだ。[p.104]」
2-1
、課題仮説を構築する(フレームワークやツールを活用して課題の仮説を構築する)
・「『リーン・スタートアップ』を注意深く読み込めば、価値仮説の検証というアクションの中に課題仮説の検証も含まれていると解釈することもできる。しかし、リーン・スタートアップを読んだスタートアップには、まずMVPを作って『価値検証』から初めてしまうケースが少なくない。・・・リーン・スタートアップは有効な手法だ。ただいきなり、MVPを作ってしまうことは奨励できない。・・・そこで、本書ではMVPを作る前に次のようなステージを経ることを提唱している。アイデアを磨いて整理する『Plan Aの作成(第1章)』、本省のCPF、そしてProblem SolutionFit(PSF、第3章)だ。一見手順が増えて面倒そうだが、これらのプロセスを経ることで、“全く誰も欲しがらないMVP”を作って数カ月の時間を無駄にする事態を防げる。[p.111]」
・「課題を検証する時の最初のステップは、マーケティングの定石であるペルソナの想定だ。[p.111]」「ペルソナを想定する時はリアルな人物像を思い描くことが重要だ。・・・その上で、・・・リーンキャンバス上に設定した課題をペルソナがどう感じているか、課題を解決することで何を実現したいと考えているかという2点を想定する。[p.112]」「カスタマージャーニーとは、現在カスタマーがどのような心理状態でどのようなステップを踏み、ある行為を完遂しようとしているのかをカスタマーの動きに沿って明らかにしていくものである。[p.116]」「優れたカスタマージャーニーが作成できれば、カスタマーを多角的(行動、思考、感情)に観察できるようになる。[p.119]」
2-2
、前提条件を洗い出す(仮説を検証するために先進的なカスタマーと実際に対話する)
・「見えてきた課題仮説をさらに深堀りする手段として、私は『ジャベリンボード』をお勧めしたい。ジャベリンボードは『カスタマー』、『課題』、『ソリューション(解決法)』、『(課題の)前提条件』をセットにした仮説について、実際のカスタマーへのインタビューなどを通じて課題とソリューションの妥当性を検証していくための便利な可視化ツールだ。・・・実際はどの課題の痛みが強いのか、代替案は役に立たないのか、前提条件が適切なのかといった要素を絞り込むことができる。[p.120]」
2-3
、課題~前提の検証(対話を通じて仮説を磨き込み、フォーカスすべき課題を明確にする)
・「課題仮説の磨き込みなしに、カスタマー候補と話をすることは、無駄が多くなるので、注意が必要だ。・・・カスタマーインタビューの相手はどう選定すればいいか。・・・スタートアップが仕掛けるような新しいサービスの初期ユーザーとなり得る『エバンジェリスト』や『アーリーアダプター』を選ぶことをお勧めする。[p.124]」「インタビューと観察を続けていく中で、誰もまだ気づいていない(解決策を出していない)けれども、実は根が深い課題を発見したりすることができる。そうした未解決かつカスタマーの痛みが強い潜在課題をファウンダー自身が見つけていくことが、このステージの最も重要な注力ポイントだ。[p.135]」

Chapter 3
PROBLEM SOLUTION FIT[ソリューションの検証]
・「課題を解決するためのどういうソリューション(解決策)を用意してスタートアップとしての価値を提案すればよいのかを検討していく。『課題』と『ソリューション』が合致した『Problem Solution Fit』を実現することが本章の目標となる。[p.140]」「私はMVPを市場に出す一歩手前の段階でプロトタイプ(試作品)を作ることをお勧めしたい。[p.140-141]」
3-1
UXブループリントを作る(カスタマーがそれをどのように解決したいかを明らかにする)
・「ソリューション仮説を立てる際、スタートアップは、ソリューション単体にフォーカスして検討を進めてしまうという誤りが多い。しかし、ソリューション単体で考えても、カスタマーに受け入れられるものを作ることは難しい。カスタマーがソリューションを利用する適切な流れを考え、カスタマーはどのようなユーザーエクスペリエンス(UX)を期待するのかまでを考える必要がある。[p.143]」
・「ソリューションインタビューやエレベーターピッチで頭を整理し、数あるフィーチャーの中から抽出したMust-haveのフィーチャーをベースに、いよいよプロトタイプのブループリント(設計図)を作っていく。[p.153]」
3-2
、プロトタイプの構築
・「スタートアップが最初に作るプロトはペーパープロトで十分だ。[p.141]」
3-3
、プロダクトインタビュー(顧客からのフィードバックをベースにプロトタイプを磨き上げる)
・「ここからは、プロダクトインタビューを実施していく。・・・カスタマーとの対話は、誰も欲しがらないものを作ってしまうリスクを減らすために不可欠だ。・・・PSFの段階で、カスタマーの声をもとにソリューション仮説を更新・転換することは、実際にプロダクト(MVP)を投入した後のピボットに比べて、時間や人的リソースの無駄が圧倒的に少なくて済む。[p.166]」
・「この辺りから、メンバー一人ひとりのコミットメントの強さを見極めることが大事になる。当然、十分なコミットメントができないメンバーや、課題に思い入れがないメンバーは離脱していくことになる。・・・本気で取り組むメンバーだけが残ることはチームの結束を強くするので、歓迎すべきである。[p.172]」

Chapter 4
PRODUCT MARKET FIT[人が欲しがるものを作る]
・「第4章では、カスタマーの反応を探る実験を行うプロダクト『MVP (Minimum ViableProduct)=実用最小限の製品』を市場に出す。実際にカスタマーのもとにMVPを届け、定量的計測と定性的計測を繰り返して、その結果からプロダクトの改善を行う。最終的な目標は、想定カスタマーが熱烈に欲しがるものを実現できる『プロダクト・マーケット・フィット(Product Market Fit)』を達成することだ。[p.180]」
4-1
、ユーザー実験の準備をする
・「MVPであってもユーザーに対して競合にはないケタ違いな価値提案を何か1つすることを忘れてはならない。[p.187]」
4-2
MVPを構築する
・「ユーザーからのフィードバックに含まれる学びを効率よく検証するために、私が考え出した仕組みがスプリントキャンバスである。[p.193]」「『スプリント』とは、短期間の開発を繰り返して改善を続けるソフト開発の手法である『アジャイル開発』の『スクラム』で使われる用語。・・・このあらかじめ定めた短い期間のことをスプリントと呼ぶ。[p.192]」スプリントキャンバスでは、実験したいこと、検証するためのストーリー(ユーザーストーリー)、機能実現にかかるコスト・時間、得られた定性的(ユーザーからのフィードバック)や定量的結果、得た学び、次回以降のスプリントで学習したいことをまとめる。[p.193
4-3
MVPをカスタマーに届ける
・「このままでは恥ずかしいと思うくらいのレベルで市場に出したほうがいい。[p.200]」
・「大企業などに対するスタートアップの競争優位性は、カスタマーのもとを頻繁に訪れて直接対話しながらプロダクトを作ることができるフットワークの軽さにある。[p.203]」
4-4
MVPの評価を計測する
・「カスタマーと直接話して、どんな状態ならば『プロダクトに熱狂している状態』なのかを定性的にまず理解し、それを定量的に分析して具体的な指標がどんな値になっていることがPMF達成に当たるのかを把握することが、MVPの効果計測にとって重要になる[p.205]」
4-5
、新たなスプリントを回す
・「スプリントを続け、MVPのバージョンを上げていくと、必然的に新しいフィーチャーを追加していくことになる。この時、新しいフィーチャーの追加を何も考えずに行ってはいけない。[p.221]」「スタートアップはこれまで世の中にないストーリーを生み出すことだけに専念すべきだ。[p.222]」
4-6
UXを磨き込む
・「ストーリーという単位で見直しをかけ、ユーザーに求められている機能をMVPに追加していくという大きな軌道修正に加え、アプリやウェブサイトの使い勝手を見直す『UX改善』という小さな軌道修正を常に継続していくことも、ユーザーの定着率アップには極めて有効だ。[p.224]」「ユーザーが熱中してしまうUXを作り込むことがユーザー定着のポイントである。[p.225]」
4-7
、ピボットを検討する
・「MVPで徹底的に学んだ結果としてピボットが最善であると判断したら、躊躇せず実行したい。・・・ただし、MVPの分析に基づくスプリントの繰り返しやUXの追加など、打つべき手を全て打つ前に安易にピボットしてはいけないことは言うまでもない。[p.238]」
・よくありがちなダメなピボット:エンジニア不足で行うピボット、カスタマーの声と無関係にピボット、検証結果によらないピボット、やりきっていないピボット[p.243

Chapter 5
TRANSITION TO SCALE[スケールするための変革]
・「『いよいよスケール(事業拡大)して、これまでの投資を回収する段階が来た!』そう考える前に、見直すべきことがある。ユニットエコノミクス(顧客1人当たりの採算性)を健全化することだ。ユニットエコノミクスとは、ユーザーを1人獲得した時に、利益が出ているのか損失が出ているのかを表す指標だ。[p.246]」「計算することは難しくない。プロダクトのカスタマー1人から得られる生涯利益(LTV)から、そのカスタマーを獲得するためのコスト(CPA)の差を求めればよい。[p.247]」
5-1
、ユニットエコノミクスを計測する
・「MVPによる実験の結果、カスタマーの定着に成功し、ついにPMFを達成したら、顧客に熱狂的に受け入れられるプロダクトを武器にスケール(事業拡大)を目指す段階に入る。[p.248]」「スタートアップがスケールする前に消えてしまう一番の理由はPMFを達成する前に資金が枯渇してしまうことがだ、二番目に多い理由は、LTVに比べてCPAが高すぎて成長途上で資金がショートしてしまうことだ。こうした危機を回避するには、ユニットエコノミクスの現状を確認し、ビジネスをスケールさせた時に利益がついてくる状態を確立する必要がある。[p.250]」
・「ユニットエコノミクスの健全化を追求する中で、スタートアップはスケールするための組織(一般的な会社組織)に変革(Transition)していくことになる。[p.254]」
5-2
、顧客1人当たりのLTVを高める
・「ダーメッシュ・シャア氏は『ビジネス成功のカギはソリューションやビジネスを売ることではなく、顧客の成功を売ることだ』と語っている。[p.263]」
5-3
、顧客獲得コスト(CPA)を下げる
・「オーガニックの顧客獲得とはネットマーケティングの用語で、有料広告を使わない顧客獲得のことをいう。[p.264]」「スタートアップに強く推奨したいのは、ブログなどを使ってコンテンツを蓄積するコンテンツマーケティングなどによるオーガニックな顧客獲得だ。[p.267]」
・「スケールをすることで、スタートアップは一般企業へと自己変革をしていく段階を迎えるが、『Build-Measure-Learn』のループを回すことの有効性はこれからも変わらない。[p.277]」
---

本書に述べられた手法の特徴を一言でいうなら、リーン・スタートアップよりも頻繁に、細かく仮説の検証と方針変更を行う、ということになるのではないでしょうか。そう考えると、既存企業であっても、本手法の根幹となる部分は適用可能なように思われます。もちろん、実践する上ではスタートアップのみに適用可能な点も多いでしょうし、一般的な既存企業ではスタートアップのような仕事の進め方には抵抗が大きいとは思いますが、一点興味深く感じたこととして著者の「サイドプロジェクト」についての指摘があります。著者は、「仲間とリーンキャンバスを作成したり、顧客の話を聞いてリサーチしたりすることは週末起業のようなサイドプロジェクト(気軽な副業)で十分対応できる。・・・アイデアを磨く段階では、会社は登記せずサイドプロジェクトで行動を始めたほうがいい。[p.100]」と述べています。さらに著者は、「サイドプロジェクトを企業で導入している事例で忘れてはいけないのが、よく知られたグーグルの『80/20ルール』。・・・グーグルはサイドプロジェクトによる新規事業創造のポテンシャルを理解しているからこそ、80/20ルールを適用している[p.103]」とも述べています。スタートアップの手法と既存企業でのイノベーションの手法のよいところを合わせたような進め方も考えられるのかもしれません。


文献1:田所雅之、「起業の科学 スタートアップサイエンス」、日経BP社、2017.

研究開発実践のマネジメント第34回-可視化による運営のマネジメント:研究開発マネジメントの実践と基礎知識2.4.4(「ノート」全面改訂)

はじめに第1回
1、研究開発とはどのようなものか:研究開発マネジメント実践の観点から認識しておくべきこと第2回第7回
2、研究開発実践のマネジメント
2.1
、取り組む課題を決める(研究テーマの設定)
第8回第17回
2.2
、研究開発を行う人のマネジメント第18第24回
2.3
、研究組織とそのマネジメント第25回第29回
2.4
、研究プロジェクトの運営
2.4.1
、研究プロジェクトの進め方
第30回第31回
2.4.2
、コラボレーションのマネジメント第32回
2.4.3
、研究プロジェクトの方向転換と中止第33回

2.4.4
、可視化による運営のマネジメント
研究開発においては同時に多くの要因を考慮しなければならない場合があります。特に、画期的なイノベーションを狙う場合、様々なところに不確実性が存在するため、それらを明らかにし、問題点を整理する必要があります。また、不確実性を克服していく過程では計画の変更が求められることも多く、その際、大きなプロジェクトではステークホルダーが多数にのぼり意思の統一が難しくなったり、長期間にわたる研究開発では過去の経緯や前提が歪められたり忘れられたりして、研究が迷走してしまうことも起こり得ます。

そうした問題を克服するためのひとつの方法として、研究に関わる重要な考え方や計画、得られた結果とそれに基づく見直しを記録し、参照しやすくしておくこと(ここではそれを「可視化」と呼ぶことにします)は有効な方法だと考えます。特に、複雑なプロジェクトでは、そうした可視化と、それに判断に生かすことは必須のことのように思います。

1)
可視化のポイント
では、何をどのように可視化、記録しておくべきなのでしょうか。そのポイントは、特に重要なことに絞って内容を記録し、さらにその変化をも記録する、ということであると考えます。一般に、研究を行った後にはその結果をまとめた報告書が作成されることが多いと思いますが、記録という意味でそれは重要なことであっても、その結果を参照して次のアクションにつなげる、という点では複雑すぎて使いにくいことが多いのではないでしょうか。また、「研究」という名目以外の調査や知見、ノウハウ、アイデア、暗黙知などもプロジェクトに影響を与えるかもしれません。そのような情報全般を記録し、使えるように可視化しておく必要があるのではないでしょうか。

具体的には以下の項目が重要と考えています。
研究課題の選定の段階
・アイデアの概要(何がやりたいのか、何をして、どんなものを提供して、どういう利益を得るか)
・どこにどんな不確実性があるか
  課題実現の不確実性――技術的に達成可能か?
  ニーズの不確実性――売れるのか?
  市場収益を挙げる方法の不確実性――どんなビジネスモデルが考えられるか?、市場の競争で勝てるか?
・どんな成果が期待できるか

研究開発の実行段階
・どこにどんな不確実性があるか(課題選定段階と同じ)
・その不確実性を減らすために、何をするのか(何を知るために、何を調査、試行するのか)
・それによってどんな結果が得られると予想されるか
・得られた結果
・結果に基づく判断(成功の確実性が上がったか、何が学習できたか)
・想定していた以外の状況に何か変化はあったか
・試行の結果と状況の変化に基づいて次に何を行うか

もちろん、これらの項目は研究課題や業界、それをとりまく状況によって適宜調整が必要と思います。ただ、最低限必要な項目は落とさないように、しかし、項目が多くなり過ぎないようにすることが必要でしょう。そして、可視化は一度限りではなく、状況の変化も追いながら、次に何をするかの判断に生かすこともまた重要だと認識すべきでしょう。

2)
具体的な可視化の方法
可視化の意義
やりたいこと(目的地)を決めたら、現在、自分たちがどこにいて、目的地に近づくにはどの方向に進めばよいのかを考える、というのが可視化の意義と考えられます。過去には、綿密な計画を立てて目標に向かうルートも設計した上で、計画を地道に実行していくことが成功への道筋だと信じられていた時代もあったとは思いますが、少なくとも画期的なイノベーションを狙う方法としてはそのようなやり方の有効性は低下している、という指摘が増えています(例えば本シリーズ第30回)。

計画重視ではない、創発的な研究開発の方法の特徴は、試行と方針変更の重視、ということになります。この時最も重要になるのは、「現在どこにいるのか」という現状認識と、「それに基づいてどこに進むべきか」という判断だと思われます。このような現状認識の重要性は、例えば、MullinsKomisarも指摘しています。彼らは、未踏の信念(Leaps of faith)と呼ばれる「現実に正しいという何の根拠もないにもかかわらず、答えに確信をいだいていること[文献1、p.30]」を検証することの重要性を指摘し、「あなたの未踏の信念が立証されたか反証されたか、強固なビジネスモデルへと向かっているのか、それとも大失敗へと向かっているのか、・・・それを教える明白で重要な根拠を与えてくれる指標が必要となる。これには何が一番いいのかって? ダッシュボードがその答えだ。ダッシュボードは、計画立案、仮説検証から学んだ結果を記録するための、証拠に基づくプロセスを仕切るツールだ。[文献1、p.31]」と述べています。ダッシュボードは直訳すれば「計器盤」ということになるでしょうが、現状を認識するためのツールを持つことが創発的な研究をマネジメントするための基本となるように思います。(なお、Riesによる「リーン・スタートアップ」では、leap-of-faithは「挑戦の要」「スタートアップの計画でもっともリスクが高い要素、ほかのすべてを支える基礎となっている部分」[文献2、p.106]、Leap-Of-Faith Assumptions「要となる仮説」「スタートアップが成功するために真でなければならない信念」[文献3、p.106]、とされています。)

可視化の例

ビジネスモデルキャンバス Canvas
イノベーションを実行する上で、考えておくべきポイントを整理した図として、近年最も多くとりあげられているのが、OsterwalderPigneurによるビジネスモデル・キャンバス(Canvas)でしょう。この手法では、以下の9つの要素が図にまとめられます。[文献4]
・顧客セグメント(Customer Segments: CS):誰のために価値を創造するのか、最も重要な顧客は誰かを決める。
・価値提案(Value Propositions: VP):どんな価値を提供するか、どんな問題解決を手助けするか、どんなニーズを満たすか、どんな製品とサービスを提供するか。
・チャネル(Channels: CH):顧客とどのようにコミュニケーションし、価値を届けるか。製品やサービスの、認知、評価、購入、提供、アフターサービスの方法も含めて考える。
・顧客との関係(Customer Relationships: CR):顧客はどんな関係を期待しているか。顧客とのどんな関係(獲得、維持、販売拡大)を期待するか。
・収益の流れ(Revenue Streams: R$):顧客はどんな価値にお金を払うか。どのように払うか。一見客による取引収益か、既存顧客の継続支払いか。価格メカニズムは。
・リソース(Key Resources: KR):価値を提案するのに必要なリソースは何か。
・主要活動(Key Activities: KA):価値提案に必要な主要活動は何か。
・パートナー(Key Partners: KP):主要なパートナー、サプライヤー。役割分担。
・コスト構造(Cost Structures: C$):運営にかかるすべてのコスト。コスト主導か価値主導か。

さらにスタートアップ向けにこのCanvasのうち、「顧客との関係」を「圧倒的な優位性」に、「リソース」を「主要指標」に、「主要活動」を「ソリューション」に、「パートナー」を「課題」にそれぞれ変更した「リーンキャンバス」もMauryaによって提案されています[文献5、p.89]。また、FurrDyerは、Canvasの部分集合として、「価値提案を市場に伝える際に、検証しなければならないビジネスモデルの要素[文献6、P.197]」として、主要活動、リソース、価値提案、価格戦略、顧客との関係、チャネルの6つを図示した「ビジネスモデル・スナップショット」を提案しています。

また、OsterwalderPigneur らは、顧客への価値提案をよりうまく進めるためにCanvasを補完する図としてバリュー・プロポジション(価値提案)キャンバスを提案しています。これは以下の2つの図からなっています。
・顧客プロフィール(Customer Profile):「ビジネスモデルにおける特定の顧客セグメントを、より整理された形で詳しく描いたもの」。顧客の仕事(顧客が成し遂げたいこと)、ペイン(顧客の仕事に関係する悪い結果、リスク、障害)、ゲイン(顧客が求める具体的な恩恵)からなる。[文献7、p.9
・バリュー(提案)マップ(Value Map):「ビジネスモデルの中の特定の価値提案を、より整理された形で細かく描いたもの」。価値提案を基に作られる製品とサービス、ペインリリーバー(顧客の悩みを取り除くもの)、ゲインクリエーター(顧客に恩恵をもたらすもの)からなる。[文献7、p.8

これらの図は研究課題を選ぶ際および研究を実行する際に、関係ある要素を整理してよりよい提案をする上で有用なだけでなく、これらの図を経時的にアップデートしていくことで、現状を把握し、状況に応じた方針変更のよい指針となりうると考えられます。

アイデア・レジュメ
Anthony
が提案しているアイデア・レジュメは、上述のCanvasよりも個別のアイデアの評価に向いているように思われます。ここで、評価されるのは以下の項目です。[文献8、p.33-35
・ターゲット顧客
・片づけるべき用事
・消費を妨げるもの
・アイデアのスケッチ/概要
・基礎となるビジネスモデル
・重要な仮説
・インパクトの大きさ
・テスト計画

テストカードと学習カード
実行段階での可視化については、OsterwalderPigneurらは、テストカードと学習カードを提案しています。[文献7、p.204-213
・テストカード:検証する仮説(重要度も含めて)、検証方法(費用、信頼性も含めて)、検証する仮説についての計測(計測するデータ、必要な時間も含む)、評価基準(仮説が正しいかどうかを見極める基準)
・学習カード:検証する仮説、得たデータと結果(信頼性も含めて)、結論とインサイト、取るべき行動

HOPE
実験テンプレート
Anthony
によるHOPE実験テンプレートでは、以下の項目を記入するようになっています。[文献8、p.94
・仮説(Hypothesis
・実験の目的(Objectives
・予測される実験結果(Predictions
・実行計画(Execution Plan):チーム、資金、期間も含めて

確実性の推移表
Anthony
は、需要はあるか?、提供できるか?、取り組むべきか?という質問について、確実性の程度を可視化する推移表を提案しています。[文献8、p.74](以下の矢印の経過は途中一部省略、表現を変更しています)
・需要はあるか?:あると思う→購入した→人に勧めた
・提供できるか?:想像できた→プロトタイプを作った→テスト販売→正式販売
・取り組むべきか?:簡単なモデル→ビジネスモデルを描く→実際に収益を計上する
この3つの質問は、以前に第8第9で取り上げた、研究テーマ設定における不確実性の3つのポイント(①課題の実現における不確実性(技術)、②ニーズの不確実性、③市場に届ける方法、競争に勝ち残る方法の不確実性(ビジネスモデル))と基本的に同じ視点です。それぞれの不確実性の程度を上記のような段階的な指標で評価するのがよいのかどうかについては異論もあるかもしれませんが、試行や実験によって、どんな不確実性がどの程度減った(あるいは増えてしまった)のかを把握しようとする考え方は非常に重要だと思います。

今回取り上げた可視化の方法はほんの一例にすぎません。他にも考慮すべき要因はありうるでしょう。しかし、考慮すべきことを網羅した図が完成したとしても、可視化しただけでは解決策が自動的に導かれるわけではありません。つまり、解決策は我々自身が考える必要があるはずです。一方で、イノベーションの実行において考慮すべきことが増えているのは確かでしょう。さらに、その時系列的な変化も追う必要が出てきているようにも思います。我々がよりよい解決策を発想し、不確実性を減らしてイノベーションを達成するためには、このように可視化された情報群をうまく使っていく必要性は今後ますます高まっていくように思います。


文献1:John Mullins, Randy Komisar, 2009、ジョン・マリンズ、ランディ・コミサー著、山形浩生訳、「プランB 破壊的イノベーションの戦略」、文芸春秋、2011.本ブログ紹介記事
文献2:Eric Ries, 2011、エリック・リース著、井口耕二訳、「リーン・スタートアップムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす」、日経BP社、2012.本ブログ紹介記事
文献3:Eric Ries, 2017、エリック・リース著、井口耕二訳、「スタートアップ・ウェイ 予測不可能な世界で成長し続けるマネジメント」、日経BP社、2018.
文献4:Alexander Osterwalder, Yves Pigneur, 2010、アレックス・オスターワルダー、イヴ・ピニュール著、小山龍介訳、「ビジネスモデル・ジェネレーション ビジネスモデル設計書 ビジョナリー、イノベーターと挑戦者のためのハンドブック」、翔泳社、2012.本ブログ紹介記事
文献5:田所雅之、「起業の科学 スタートアップサイエンス」、日経BP者、2017.
文献6:Nathan Furr, Jeff Dyer, 2014、ネイサン・ファー、ジェフリー・ダイアー著、新井宏征訳、「成功するイノベーションは何が違うのか?」、翔泳社、2015.本ブログ紹介記事
文献7:Alex Osterwalder, Yves Pigneur, Greg Bernarda, AlanSmith、アレックス・オスターワルダー、イヴ・ピニュール、グレッグ・バーナーダ、アラン・スミス著、関美和訳、「バリュー・プロポジション・デザイン 顧客が欲しがる製品やサービスを創る」、翔泳社、2015.本ブログ紹介記事
文献8:Scott D. Anthony, 2014、スコット・D・アンソニー著、川又政治訳、津嶋辰郎、津田真吾、山田竜也監修、「ザ・ファーストマイル」、翔泳社、2014.本ブログ紹介記事

「経営の針路」(平野正雄著)より

科学や技術に携わる者であれば、普遍的な真理を探求し、理解することの価値は誰もが認めると思います。しかし、ある時代にどんな科学的探求や技術開発が行われるかにはその時代の考え方や環境、社会の状況が大きく影響します。もこうした傾向は経営の分野においても同じでしょう。経営の原則やベストプラクティスも、時代を超えた普遍的な人間の特性に影響されるところもあるでしょうし、その時の状況に応じて変わることもあると思います。ある時代に、ある経営手法がすばらしい成果を生む(あるいは失敗を招く)ことがあったとしても、その原因を普遍的な「正しさ」に求めるのか、あるいはその時代に「合っていた」かどうかに求めるのかはよく考える必要があるでしょう。

そうだとすれば、経営手法を論ずるには、少なくともその時代の状況を知っておく必要があるといえるでしょう。さらに、将来の方向を考えるには、時代の変化を予測することも必要になるはずです。今回ご紹介する、平野正雄著、「経営の針路」[文献1]では、「1990年の冷戦終結から今日までの約30年間に生じた劇的な経済秩序と企業経営の変化を俯瞰したうけで、・・・次の30年の企業経営を展望[p.1]」する議論がなされています。著者は、この時期に生まれた経営のフロンティアを「グローバル、キャピタル、デジタル[p.1]」と捉え、「日本企業は、この新たな経営のフロンティアの発展に対する反応が鈍く、結果として改革に出遅れて世界市場での競争力を棄損することになりました[p.2]」と述べており、こうした視点は技術開発の方向性を考える際にも参考になるのではないかと感じました。以下、本書の構成に沿って、特に興味深く感じた点をまとめてみたいと思います。

序章、ポスト冷戦 世界を変えた3つの物語
・第一の物語:統合された世界経済――「冷戦の終結により世界の東西分断は終焉を迎え、新興国経済が離陸することで世界経済の南北問題は後退することにより、まさに東西と南北のそれぞれの壁が低まって地球規模でのグローバル経済が誕生した[p.21]」
・第二の物語:新自由主義の拡大と金融経済の膨張――「市場原理と企業の経済活動を重視し、政府の役割を限定する新自由主義の導入[p.22]」、「同時期にもう一つ大きな経済思想の台頭がありました。それがマネタリズムという新しい金融政策です。・・・通貨供給量だけを管理するマネタリスト的な政策は、・・・やがて経済が不況に転じて需要が不足するようになると、その政策効果に限界が現れるようになります。・・・現実には過大な資金供給は個人消費や設備投資などの活性化に向かわずに、金融的な投機資金に回ることになり、実体経済とは乖離した金融経済の膨張を招いているという指摘があります。[p.22-23]」「本書では、資本市場の先端的な動向やそれらを活用した企業戦略を総称して『キャピタル』と称することになりますので、金融経済のことも以後便宜的に『キャピタル経済』と呼びたいと思います。[p.24]」
・第三の物語:シリコンバレーとデジタル革命――「興味深いのは、インターネットや無線などの通信技術は、元来は軍事技術として開発されていたものが、民間に転用されていったものであるということです。つまり、1990年代の米国の軍縮により民間にインターネットのような先端技術や有能な人材が流出したことはいわば平和の報酬であり、東西冷戦の終結とデジタル経済の発展との結びつきと読むことができる[p.25-26]」

第1章、グローバル:連結と反発
・「90年代以降、先進国では中間層の疲弊が進んでいったのとは対照的に、新興国では圧倒的な規模で新たな中間層が台頭してきており、巨大な消費市場が形成されつつある[p.43]」
・「多くの世界企業は、・・・ダイナミックに変貌する新興国市場に対して、そのスタンスを段階的に変化させていきます。まず、第一段階は安価な労働力を確保できるローコスト生産立地として捉えていたものを、やがて第二段階では頭をもたげた当地の個人消費に引きつけられるように開拓市場へと位置づけを変化させていきました。さらに、第三段階として中国やインドをはじめとする有力市場は、高度人材を獲得し、・・・いまやイノベーションセンターとしての機能が与えられるようになっています。・・・実際にこれらの変化を先取りして、戦略や組織体制を進化させていくことは容易ではなく、いまだにローコストの生産拠点としてしか新興国の事業を展開できていない企業が多いのも事実です。[p.47]」
・「いまや製造業における生産の受委託関係は常態化しており、多くの電機やIT関連のメーカーにおいて、グローバルなサプライチェーンのなかに委託生産を組み込むことで、コストダウンや投資回避を実現しています。その結果、企画や販売だけに特化したファブレスやノンメーカー、受託生産に特化して巨大化したEMSやファンドリーという新業態が一気に台頭したのがポスト冷戦期の企業によるグローバル戦略の一つの特徴です。[p.50]」「企業のバックオフィス機能でも、サプライチェーン革新と同様な業務の切りだしと、それを受託する専門業態の成長というオープンアーキテクチャの発達を見ることができる[p.54]」。
・「地域ごとに異なる商品開発やマーケティング展開が行われたり、独自の管理体制を各地が重複して構築するなど、戦略の不整合や経営資源の発散が目立つようになり、各地域を管理するための横串の調整機能が求められるようになります。つまり、マトリクス組織への移行です。・・・このようなマトリクス組織は地域別組織の課題を解決するための合理的な構造を持ちますが、やがて課題が噴出することになります。つまり、マトリクス組織は、各地域組織にとっては縦方向からの収益責任の追求と横方向からの調整要求への対応が煩雑であり、しばしば矛盾を生むことから評判が悪く、その縦横の軋轢の調整に多大な組織コストが全社で発生するために、すぐに行き詰ります。[p.60-61]」「そこで、先進企業ではいくつかの組織設計上のブレークスルーが追求されることになります。第一には、組織のオープンアーキテクチャの追求です。・・・バリューチェーンの特定機能上に自社の優位点を見出して、そこに事業を絞り込む一方で、その他の機能を外部委託することで事業を得意領域に純化することで、組織をコンパクト化していくことが可能になります。[p.61]」「第二には、ガバナンスモデルの改革です。改革の方向性を一言でいえば、規定や手続きなどの業務管理から、企業理念やミッションに基づく社員の内的動機づけによるガバナンスへの転換になります。・・・そのための手立てとしては、企業理念、行動規範、ミッション、あるいはビジョンとさまざまにありますが、最も大事なことは、すべての社員がこれを共有して、実際の判断や行動の基準として常に参照させることにあります。[p.62]」「第三には、組織のフラット化とネットワーク化です。人々の内的な動機づけによるガバナンスが定着すると、各現場組織に明確な目標を与えて、相当の権限委譲をすることが可能となります。・・・また、ネットワーク化することで社内に偏在する多様な知見や人材の融合が進み、イノベーションの可能性も高めることになります。[p.63]」「今日最も先端的なものは『メタナショナル組織』と分類されています。メタナショナル組織とは、グローバル市場に散在する知識、技術、市場情報、そしてさまざまな専門能力などの知的資産を組織内に取り込むことでイノベーション能力を高めて、それを世界に商品として提供することができる組織とされています。[p.64]」
・「企業がより高度で戦略的なグローバル化を追求した結果、地域的な機能分散が加速することになり、生産地の海外移転により母国から雇用は失われ、国家間の税制の差異を活用した巧みな納税回避により税の捕捉も困難になるなどして、企業と国家の利益が乖離していくことになります。[p.69]」「超国家的企業とは、・・・国家間のあらゆる費用差を活用して事業を行う企業ということになります。・・・現在このような超国家的な行為が国家の利益を著しく損なっているという強烈な批判が企業に浴びせられています。これを受けて、反グローバル主義的な政治の動きが強まっています。[p.70]」

第2章、キャピタル:膨張と暴走
・「慢性的な財政赤字に苦しむ国家や資本増強が常に求められる金融機関を、膨張する年金や富裕者マネーがファイナンスすることで実体経済を上回るキャピタル経済の膨張が進んできた[p.74-75]」
・「キャピタル経済の膨張を象徴するのが、企業によるM&Aの増加です。[p.81]」
・「企業が投資家から調達した資本はエクイティと称されて、銀行からの借り入れなどで調達した負債性の資金であるデットと区別されます。エクイティは経営が失敗すればゼロになるリスクはありますが、成功すれば無限に価値が高まる可能性がある資金です。金融の言葉でいえば、ダウンサイド(損失)は限定されて、アップサイド(利益)は無限という資金ですから、株式会社には、原則としてリスクテークを行ってアップサイドを追求する経営が求められることになります。これは、金利と元本の確実な回収のために、企業に堅実経営を求めるデット性の資金の性格と対照的です。・・・株式会社の原理を重視する英米の企業は伝統的にエクイティ文化の経営体質であったのに対して、同じ株式会社であっても銀行の影響力が強かった戦後の日本企業の経営体質ではデット文化が色濃かったのです。[p.90]」
・「株主価値経営が企業に求めるものはシンプルです。まずは事業の成長力と収益力の積極的な追求、そして時間と資本の二つのコスト意識の徹底です。・・・たとえば、事業の『集中と選択』、そして『業界再編』は、株主価値経営の典型的な政策になります。資本コストを下回る利益しか生み出さず、競争力のない事業から速やかに撤退し、その売却資金を業界で一位もしくは二位のポジションを取れる事業に投下していくことは、資本の生産性を高めていくうえでは極めて合理的です。あるいは低成長または低収益の事業を売却して、高成長の事業を買収していくような事業ポートフォリオの組み替えも、株主価値創造に根差した合理的な経営施策といえます。また、積極的に業界再編を仕掛けて、競争圧力を減らすことも、収益安定化のうえで即効性があり、株主価値を守るために効果的ですが、いずれも資本政策が核となっていることに注目が必要です。[p.93-94]」「ビジネス単位で計画を立て、各ビジネス現場の創意工夫で競争力を高めていくことは事業運営上最重要であることはいうまでもないですが、それとは異なる次元で各事業を俯瞰し資源を再配分するとともに、資本政策を駆使して企業としての収益力や成長力を高めていく方策を追求するコーポレートストラテジーの要素が、株主価値経営の浸透によりクローズアップされることになったのです。[p.94-95]」
・「21世紀に入り企業競争力の源泉としてソフトキャピタルの重要性が一段と増してきています。というのも、一つは先進国を中心に工場設備など固定資産は過剰に存在しているうえに、さらに資金コストも低いために、固定資産を所有することの競争上の価値が低下しているというマクロな要因があります。しかし、より本質的にはデジタルの発達により産業構造そのものが変化してきており、企業競争の最前線が、優れたビジネスモデルにシフトしてきていることがあります。そこでは特に巨額な金融資本の投下は必要ではなく、むしろ創造的な人材集団、技術を顧客価値に転換できる商品化スキル、あるいは全社で柔軟に協力して事業化を実現する企業文化などのソフトキャピタルの量と質が一段と問われることになったのです。[p.97-98]」「つまり、ポスト冷戦期においては、人材、技術、知識、企業文化などのソフトキャピタルを組織的に創造して、全社に展開していく能力を構築することが、企業競争力向上の最重要な命題になったのです。そのために欧米の企業は組織の革新や人材能力の強化を経営の最重要課題に掲げて、さまざまな取り組みを重ねてきたのです。たとえば、人材を大切にすることを標榜する企業は多いですが、それに対して社内の人材育成プログラムを強化するだけでは、企業競争力に直結するソフトキャピタルの創造という観点ではまったく不十分です。具体的には、社内の創造的な活動を高めてイノベーションの確度を高めるためには、社内外で多様なアイデアの交換が行われることや、商品揮発を組織の壁を越えて機動的に協力して実施することが重要になりますが、そのためには、業績や人事評価体系の見直し、社員の意識改革、方向づけするためのビジョンの提示など、総合的に組織のリデザインや企業文化の刷新が必要になります。つまり、企業内のソフトキャピタルである知識や技術、あるいは多様な人材能力を企業競争力に結び付けるためには、固定資産の管理運用には最適だった階層的管理組織を破壊するような組織改革に取り組むことが求められる、ということなのです。[p.98-99]」

第3章、デジタル:勃興と攻防
・「デジタルとは、コンピューティングパワーと通信速度の爆発的な向上に伴う革新的なサービスや商品の開発、新たなビジネスモデルの創造、そしてそれらに関連する一連の企業群の勃興の総称[p.103]」
・「デジタルの発展は産業界の全体構造を揺るがしており、巨大企業が君臨した20世紀のピラミッド型の産業構造から、多様な規模の企業が水平的に結びついたネットワーク型の産業構造への転換を促しているのです。[p.111]」
・「エコシステムとは・・・企業や専門家集団により形成された相互補強的なビジネスコミュニティであり、金融やデジタル業界における重要な戦略概念になった・・・。正式な提携関係も何もない大小さまざまな企業が関与してビジネスが発展・拡大していくエコシステムという概念は、それまで産業界にはなかったものです。そして、その前提となるのが、各企業がお互いのインターフェースを開放するオープンアーキテクチャの採用になります。[p.120]」
・「デジタル経済の勃興とともに生まれてきた重要な戦略概念がビジネスモデルです。・・・この概念が生まれる背景には、見えている市場や競合を構造的に解析して論理的に計画を組み立てていく、という20世紀型の戦略論が、デジタル経済では通用しなくなったからだと考えられます。というのも、デジタル経済の世界観では、市場は分析するものではなく、イノベーションを通して創造するものであること、そして戦略の重点も、シンプルにモノを販売して収益を確保することから、新たに創造した市場をいかに拡張していくのか、という成長のストーリーにシフトしていったこと、などがあるからです。[p.122]」
・「UXとは、現在注目されている戦略概念であり、UserExperienceを省略したもので、文字どおり商品やサービスに関する顧客の使用体験のことです。[p.125]」「いまやUXの重要性はデジタル系の機器やサービスを超えて、21世紀の重要な戦略概念としてあらゆる産業で重視され始めています。日本では、しばしば『モノ』から『コト』へというような表現で、特に消費者が求めているのが単なるモノでなく、コトと呼ばれる体験であることを意識し始めました。[p.126]」

第4章、日本企業:レガシーとの格闘
・「戦後の日本の企業経営の特徴を一言でいえば、供給力最大化の経営であったといえるでしょう。そのために、利益を求める株主の影響力を遮断し、労働力を囲い込み、技術開発優先の体質を作り上げる必要がありました。[p.133-134]」
・「日本企業には収益性にこだわらず長く事業や開発を継続することはあっても、戦略思考に基づいた長期的な事業の組み立ては希薄であった[p.141]」。
・「ガバナンスとは、経営トップから現場までの組織全体に対する規律づけを意味していますが、実は日本企業は一般に、組織を数字で管理するという点において、むしろ現場組織のガバナンスは極めて厳格です。数値責任を負った各部門は、現場組織に相当のストレスを与えながら、課せられた年度の予算達成に強くこだわる体質があります。もちろんこれは短期の業績達成のためには効果的であり、日本企業が誇る強い現場組織の駆動力になっていることも事実です。このことをはっきりいえば、日本企業のガバナンスは経営に甘く、現場に厳しい、ということになります。[p.146]」「日本企業の経営が強い予算管理志向であるための弊害は顕著であり、日本企業の美質とされている長期志向経営とは裏腹に、実は意図せざる短期数字志向の経営体質となっているのです。[p.147]」
・「世界の変化に対する日本企業の感度は鈍く、体質転換に手間取るなかで世界市場での競争力を失っていった・・・原因はレガシーから完全に抜けきれない経営者の意識にあります。改革の必要性に十分に気づいたはずの現在でも、いまだ十分な速度と深度での改革に踏み出せずにいるように思います。この独善的ともいえる日本企業の経営体質は多くの自己矛盾やパラドックスを内包するものであり、それらが錯綜することが改革を阻害しているともいえます。・・・改めてこの複雑な企業体質上の問題点を整理しておきたいと思います。まず第一には、戦後経済成長を実現した供給力の最大化の成功体験を引きずっているために、外部の変化や違いに対する感度が低く、結果として多様な認知バイアスが生じたことが挙げられます。[p.158]」「第二には、このような外部に対して遮断的であり、内部の論理が優先される組織体質を、日本社会が制度的あるいは文化的に補強してきたことがあります。代表的なのは株主影響力の排除であり、間接金融によるファイナンスシステムを指摘できるでしょう。・・・安定的な雇用を好み、組織への帰属意識が高く、ハイコンテクスト(いわゆる阿吽)のコミュニケーションを得意とする国民性も、内向きな組織文化を涵養したことは間違いありません。[p.159-160]」「第三には、自社の強みの拠り所を現場に求め、また自社の存続や事業の継続を重視する保守的な経営観や企業観が日本企業の経営者には根強いことが挙げられます。[p.161]」「第四には、日本の企業組織の欠陥として、オーナーシップの不足を改めて指摘しておきたいと思います。・・・強いオーナーシップを持って一貫してやり抜かなければならない企業変革のような大事業は、定期的に経営者の交代を行うような体制では着手することは困難です。・・・あるのは手堅い手法で人から人へバトンタッチをしていく継続的経営となります。・・・オーナーシップをそのままリーダーシップと読み替えても文意はほとんど変わることはありません。[p.162]」

第5章、独自再生への道筋
・「日本人が本来保有している調和を重視する価値観、社会への奉仕の精神、あるいは高い勤労倫理などのソーシャルキャピタルと、それを体現している日本的経営は、今日の行き過ぎた資本主義や株主価値経営に対して、本来独自の価値を有するものです。確かにそれらは戦後復興期においては日本の企業競争力を支える組織原理となっていました。しかしポスト冷戦期を迎えて日本のソーシャルキャピタルは、むしろ改革を阻害する方向に働くことにより、日本企業も輝きを失っていたことはこれまで述べたとおりです。・・・日本企業は、本来の良きソーシャルキャピタルに立ち返って、そのなかから社会倫理性を際立たせて、株主価値や法令遵守と並んで基軸となるような経営を打ちたてることを目指すべきです。[p.191]」
・「冷戦の終結とともに勃興したグローバル、キャピタル、デジタルの3つの経営フロンティアは企業競争の実態を大胆に変化させ、経営能力の革新を迫るものでした。それに対する日本企業の反応は、当初は否定から始まりましたが、ようやく今日、キャッチアップ期に入っているといえます。しかし、現実には戦後のレガシーをいまでも重くひきずっており、競争力の温存と変革の推進の葛藤のなかで、英米の企業ほどスピード感を持って企業変革ができないというのが日本企業の実態です。であればこそ、深い戦略思考、踏み込んだ組織革新、人重視の経営の確立を通して、三つの経営フロンティアと日本企業に固有の強みや伝統的な美質とを結合させることで英米の企業とは異なる日本企業独自の競争力ある経営体への進化を徹底的に追求すべきです。[p.192]」

第6章、ポスト冷戦からポスト・トランプへ
・「ポスト冷戦期における新たな経済の勃興は、その変化に対応できた企業には大きなメリットを与えることになり、いくつもの超国家的な企業が生まれることになりました。しかしながら、国内の一般労働者にはその恩恵が及んでおらず、むしろ中間層の所得の抑制、そして格差の拡大という社会的に望ましくない結果をもたらしたという批判が一気に高まっています。これまで社会の基盤を支えてきた中間層の崩壊は経済を衰退させるばかりではなく、一国の政治の安定性を奪い、ひいては世界を危険な状況に着込むことにもなりかねません。[p.204]」
・「今日、企業行動の規範となっているのは、株主価値創造という経済的規範と、法令遵守と呼ばれる法的規範の二つです。[p.211]」「株主価値経営は、株価という単純で明快な結果の測定法があるために、数字の達成が経営の自己目的化してしまう傾向があります。また、コンプライアンスと株主価値創造の間では、企業活動が合法的である限り経営判断上で牽制は働きませんから、ともすれば株主価値創造が突出した経営判断の基準になります。骨抜きによる経営の規律の不在は大きな問題ですが、一方で行きすぎた株主価値の追求は、しばしば社会との軋轢を生むものです。たとえば、強い批判を受けている企業行為に租税回避があります。・・・租税回避問題の難しさは、・・・国ごとに違う税制を活用してキャッシュの流出を回避することは違法ではなく、株主価値追求の観点からは合理的な行為であり、経営の規律が働いているとさえいえることです。・・・租税回避以外にも突出した株主価値経営への批判は絶えません。典型的なものには、経営者に対する過大な報酬の支払い、短期の業績達成に偏重した経営判断、その結果としての頻繁な雇用調整、あるいは製品やサービスの品質基準の劣化などを挙げることができます。[p.211-213]」「企業が社会から遊離して、信用を失ってしまっていることを自覚することが自律的な改革の出発点になるはずです。そのカギを握るのは、企業が自らの役割を再認識し、自律的に第三の経営の規範を打ちたてることと考えられます。具体的には、現在の株主価値創造という経済的規範、およびコンプライアンスという法的規範に加えて、より良き社会の構築という社会倫理的規範を同列において、企業経営の規律とすることです。・・・社会倫理的規範とは、社会的価値の創造や配分にも企業が十分に留意するというものです。[p.214]」「日本のソーシャルキャピタルが強く反映した日本企業の経営は、21世紀の経営モデルとしてのポテンシャルを有するものです。[p.223]」
---

近年の社会、企業経営の変化(日本企業の不振を含む)を、ポスト冷戦という時代における、グローバル、キャピタル、デジタルという3つの要素の変化で理解しようとする著者の議論はなかなか興味深いものだと感じました。もちろん、これ以外の説明も可能かもしれませんし、例外的事例もあるとは思います。ただ、このような時代や考え方の動きを知っているのといないのとでは、企業としての対応に大きな違いが出てくるようにも思います。3つの要素のいずれにも、新技術や新たなアイデアが深く関わっていることを考えると、技術者にとってもこうした時代の流れに目を向けることは必要なことであり、役に立つことでもあると思います。現在の我々が何か問題を抱えているなら、その問題をしっかりと直視し、間違いを正し、新しい解決策を模索する努力を続けていくことは、技術者や経営者を含むあらゆる人に求められていることなのだろうと思います。


文献1:平野正雄、「経営の針路 世界の転換期で日本企業はどこを目指すか」、ダイヤモンド社、2017.

記事検索
最新記事
プロフィール

元研究者

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ