イノベーションにおいては、個人あるいは自組織の知識を外部の知識と組み合わせて新たな知識を創造することの重要性がよく指摘されます。さらに、個人や組織の暗黙知と形式知の相互変換が知識の創造には重要である、という指摘もあります。では、個人の知識とはそもそもどのようなものなのでしょうか。

今回ご紹介するスローマン、ファーンバック著「知ってるつもり」[文献1]では、個人の知識とはコンピュータのメモリに保存されているような性質のものではないこと、さらには、ただ知ってるつもりになっているだけのことだったり、個人の属する共同体(やその構成員)の知識に依存している側面も持つものである、などの最近の認知科学の成果が解説されています。近年の認知科学、心理学、脳科学の進歩は、人間の精神的活動について多くの示唆に富んだ見方を提供してくれており、人間の本質に関する従来の考え方が見直しを迫られることも多くなっているように思います。もちろん、人間の全てが理解できた、という状況ではありませんが、理解が急速に進みつつある分野の知見として注目に値すると思います。以下、本書の構成に沿って、興味深く感じた点をまとめてみたいと思います。

序章、個人の無知と知識のコミュニティ
・「認知科学によって得られた知見の多くは、一人ひとりの人間のできないこと、すなわち人間の限界を明らかにしてきた。・・・おそらくなにより重要なのは、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったぐらいであるにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。[p.12]」
・「人間の知性は、大量の情報を保持するように設計されたデスクトップ・コンピュータとは違う。知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化した、柔軟な問題解決装置である。その結果、私たちは頭のなかに、世界についての詳細な情報をごくわずかしか保持しない。[p.13]」
・「言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、『知識の錯覚』、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。[p.16]」
・「私たちの知性は、個別のモノや状況について詳細な情報を得るようにはできていない。新たなモノや状況に対応できるように、経験から学び、一般化するようにできている。新たな状況で行動するためには、個別具体的な詳細情報ではなく、世界がどのような仕組みで動くのか、そのおおもとにある規則性だけを理解しておけばいい。[p.21]」
・「なんでもできる人というのは存在しない。だから人は協力するのだ。技術や知識を簡単に共有できるのは、社会集団で暮らすことの大きなメリットだ。[p.23]」

第1章、「知っている」のウソ
・「説明深度の錯覚」を検証する手法:「被験者に何かを説明してもらい、その結果自らの理解度に対する評価がどう変化するかを示す[p.31]」。
・「説明できる知識は、自分が思っていたほど持ち合わせていなかった・・・これこそが『説明深度の錯覚』の本質である。何かを説明しようとするまで、被験者は自分の理解度はそれなりの水準だと思っていた。だが説明した後には、そうは思わない。[p.33-34]」「私たちは自分の知識を過大評価する。つまり自分で思っているより無知なのだ。[p.35]」
・「なぜ、これほど無知な私たちは、世界の複雑さに圧倒されてしまわないのか。・・・それは私たちが『嘘』を生きているからだ。物事の仕組みに対する自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで、世界の複雑さを無視しているのである。[p.46-47]」

第2章、なぜ思考するのか
・「知的であるというのは要するに、五感から入ってくる膨大なデータから本質的で抽象的な情報を抽出する能力があるということだ。高度な大きい脳を持つ動物は、単に周囲の光、音、においに反応するのではなく、知覚した世界の本質的かつ抽象的属性に反応する。[p.58]」
・「脳は、有効な行動をとる能力を支えるために進化した。思考する動物は、短期的にも長期的にも自らを利するような行動をとる可能性が高く、ライバルよりも生き延びる可能性が高い。・・・脳が大きく複雑になるにつれて、環境からのより本質的で抽象的な手がかりにうまく対応できるようになり、新たな状況にますますうまく適応できるようになる。これは知識の錯覚を理解するうえで、きわめて重要な点だ。往々にして、有効な行動をとるうえで詳細情報を保持している必要はない。たいてい全体像さえわかっていれば事足りる。[p.60]」

第3章、どう思考するのか
・「人間は地球上でもっとも因果的思考に長けた生き物である。[p.64]」「思考の目的は特定の状況下で最も有効な行動を選択することだ。そのためにはさまざまな状況に共通する、本質的な特性を理解する必要がある。人間が他の動物を違うのは、こうした本質的な、不変の特性を理解する能力を持っていることだ。[p.65]」「因果的推論は、因果的メカニズムに関する知識を使って、変化を理解しようとする試みである。さまざまなメカニズムを通じて、原因がどのような結果に終わるかを推測することで、未来に何が起こるかを予想するのに役立つ。[p.66]」
・「(パブロフの理論とは異なり)人間は連想的思考のみに頼るわけではなく、また論理的推論だけに頼るわけでもない。私たちは因果分析に基づいて推論するのだ。世界がどんな仕組みで動いているかを論理的に考え、推論するのである。原因がどのように特定の結果をもたらすのか、どのようなことが特定の結果を生み出す妨げとなるのか、原因が想定どおりの影響をもたらすためにはどのような条件が整っていなければならないかを考える。私たちは『命題的』論理、すなわち特定の見解が正しいか否かを判断するための論理で思考するのではない。『因果的』論理、すなわち特定の事象がどのように起こるかという知識に基づく因果関係の論理でモノを考え、結論を導き出す。[p.68]」
・「認知的推論には前向きと後ろ向きの二通りがある。前向き推論とは、原因がどのような結果をもたらすかを考えることだ。・・・一方、後ろ向き推論とは、結果から原因を推論することだ。・・・前向き推論(原因から結果)のほうが、後ろ向き推論(結果から原因)よりも簡単だ。・・・結果から原因にさかのぼる後ろ向き推論は難しい。ただ、それこそ人間の特徴でもある。[p.71]」「皮肉なことに、私たちは診断推論より予測推論のほうが得意であるがために、予測推論をするときには診断推論では犯さないような過ちを犯す。[p.72]」
・「因果情報を交換する方法として最も一般的なのは物語だ。[p.76]」「人間は出来事の因果を理解するために、自然と物語を作る。[p.77]」

第4章、なぜ間違った考えを抱くのか
・「因果的推論は人間の思考において基盤的役割を果たすのかもしれないが、だからといって私たちの因果的推論が完璧なわけではない。[p.84]」
・「私たちは絶えず何らかの因果的推論をしているが、そのすべてが同じというわけではない。瞬時のものもある。・・・一方、じっくり考え、分析するのが必要な因果的推論もある。[p.89-90]」「この二つのタイプの思考は、以前から哲学、心理学、認知科学の研究においてはっきりと区別されてきた。ダニエル・カーネマンは・・・両者の違いを明確に述べているが、この発想は数千年前から存在する。・・・本書では『直観』と『熟慮』と呼ぼう。[p.90]」
・「直観は単純化された大雑把な、そして必要十分な分析結果を生む。それは何かをそれなりにわかっているという錯覚を抱く原因となる。しかしよく考えると、物事が実際にはどれだけ複雑であるかがわかり、それによって自分の知識がどれほど限られているかがはっきりする。・・・熟慮型の人は詳細な情報を求める。物事を説明するのが好きなので、おそらく誰かに頼まれなくてもいちいち説明するのだろう。そういう人は、説明深度の錯覚に陥ることはないはずだ。[p.98]」「直観は個人的なものだ。それぞれの頭の中にある。一方熟慮には、個人として知っていることだけでなく、ぼんやりとしか知らないことや表面的にしか知らないこと、すなわち他の人々の頭の中になる事実も使われる。・・・そういう意味では、熟慮は知識コミュニティの力を借りていると言える。[p.99]」

第5章、体と世界を使って考える
・「研究からわかるのは、人間(そして昆虫)は・・・モデルを構築し、膨大な計算をしてから行動するわけではないということだ。そうではなく、世界についての事実・・・を活用して、行動を単純化するのである。・・・知識はすべて私たちの頭の中にあるわけではないことがわかる。ごく単純な行動をするときも、私たちは世界を外部記憶として使う。[p.116-117]」「人間は感情的反応を、ある種の記憶として使うこともある。[p.119]」「学ぶべき主な教訓は、知性を脳の中でひたすら抽象的計算に従事する情報処理装置と見るべきではない、ということだ。[p.121

第6章、他者を使って考える
・「知性は、個人がたった一人で問題の解決に取り組むという環境のなかで進化してきたのではない。集団的協業という背景の下で進化してきたのであり、私たちの思考は他者のそれと相互にかかわりながら、相互依存的に進化してきたのだ。[p.126]」
・「人間は他者が何をしようとしているかを推論できるだけではない。他の機械や動物の認知システムにはない能力がある。他者と関心を共有することだ。人間同士が相互作用するときには、単に同じ事象を経験するだけではない。互いが同じ事象を経験していることを認識している。[p.129]」「コミュニティの中で知識は単に分散しているだけではない。共有されているのだ。このように知識が共有されると、『志向性』を共有することができる。つまり、ともに共通の目標を追求することができるようになる。[p.130]」
・「知識のコミュニティにおいては、知識を自分が持っているか否かより、知識にアクセスできるか否かのほうが重要なのだ。[p.140]」
・「知識の呪縛とは、私たちは自分の頭の中にあることは、他の人の頭の中にもあるはずだと考えがちなことを指す。一方、知識の錯覚は、他の人の頭の中にあることを、自分の頭の中にあると思い込むことを指す。[p.144]」
・「人は集団意識の中で、他者や環境に蓄積された知識に依存しながら生きているので、個人の頭の中にある知識の大部分はきわめて表層的である。・・・それでも生きていけるのは、知識のさまざまな部分の責任をコミュニティ全体に割り振るような認知的分業が存在するからである。[p.144]」

第7章、テクノロジーを使って考える
・「クラウドソーシングが最もうまく機能するのは、誰よりも専門知識を持った人々にコミュニティに参加するのに十分なインセンティブがある場合だ。[p.163]」
・「テクノロジーを、人間を脅かすような永遠に成長しつづける力を持った脅威と見るのは誤りだ。予見できる未来において、テクノロジーが人間に成功をもたらした決定的要素、すなわち志向性を共有する能力を獲得することはないだろう。それゆえにテクノロジーが知識のコミュニティで人間の対等のパートナーとなることもない。今後も補助的なツールでありつづける。むしろ今、テクノロジーは新しい重要な役割を獲得しつつある。クラウドソーシングと協業を支え、人間のコミュニティをさらに大きくすることだ。[p.167]」

第8章、科学について考える
・「科学技術に不信感と懸念を抱く人は常に存在し、過去100年にわたる驚異的な科学の進歩にもかかわらず、反科学主義は依然として根強い。・・・科学技術に対する合理的な懐疑心はおそらく社会にとって健全なものだが、反科学主義は行き過ぎると危険になりうる。[p.170]」
・「人の信念を変えるのは難しい。なぜならそれは価値観やアイデンティティと絡みあっており、コミュニティと共有されているからだ。しかも私たちの頭の中にある因果モデルは限定的で、誤っていることも多い。誤った信念を覆すのがこれほど難しい理由はここにある。コミュニティの科学に対する認識が誤っていることもあり、その背景に誤った認識を裏づけるような因果モデルが存在することもある。そして知識の錯覚は、私たちが自分の理解を頻繁に、あるいはじっくりと検証しないことを示している。こうして反科学的思考が生まれる。[p.185]」「人々にとって、頭の中にある因果モデルと矛盾するような新たな情報は受け入れがたく、否定されやすい。[p.186]」

第9章、政治について考える
・「具体的に何が、人々の政策に対する態度を形成するのだろう。政策の影響をじっくり考えることはそれほど重要ではなく、むしろ自分の属しているコミュニティが重要であることはすでにみたとおりだ。ただし、人々の立場を決定づける要因はもう一つあることを理解しておくことが重要だ。私たちの抱く価値観のなかには絶対に譲れないものがあり、それはどれだけ議論をしても変わらない。[p.199]」

第10章、賢さの定義が変わる
・「科学の進歩は天才の登場だけでなく、特定の発見の条件が整ったときに起こるようだ。進歩に必要な背景理論がそろい、適切なデータが収集されること。そして何より重要なのは、進歩に必要な議論がすでに起きていることだ。科学者のコミュニティが英知を結集し、正しい問い、まさに答えが生み出されようとしている問いに意識を集中している状況である。[p.217]」「私たちは物事を単純化しようとする。その一つが英雄信仰、すなわち重要な個人とそれを支える知識のコミュニティとを混同することだ。・・・コミュニティを構成する複雑に入り組んだ人間関係や事象を説明する代わりに、偉大な個人のライフストーリーを語ればいい。政治、娯楽、科学の世界で同じ手法が使われる。真実を個人の物語で代用するのだ。[p.218]」
・「知識はコミュニティのなかにあるという気づきは、知能に対するまったく別のとらえ方をもたらす。知能を個人的属性と見るのではなく、個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと考えるのだ。[p.223-224]」

第11章、賢い人を育てる
・「認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ。[p.237]」「本物の教育には、自分には知らないことが(たくさん)あると知ることも含まれている。[p.238]」「全員に何もかも教え込もうとするのは不毛だ。そうではなく個人の強みを考慮し、それぞれが最も得意とする役割において才能を開花させられるようにすべきだ。また他者とうまく協力するための能力、たとえば共感や傾聴の能力に重きを置く必要がある。コミュニケーションやアイデアの交換を促すためには、事実を見るだけではなく批判的に思考する能力を身につけさせることも欠かせない。[p.250]」

第12章、賢い判断をする
・「リバタリアン・パターナリズムは、行動科学によって・・・私たちの意思決定を改善できると考える。行動科学を活用することで、後から悔むような意思決定をする理由を特定し、意思決定のプロセスを変化させることで、将来はもっと良い意思決定ができるようになるかもしれない。このような変化を促す行為を『ナッジ(軽く突くこと)』と呼ぶ。[p.268]」「ナッジという手法から学ぶべき重要な教訓は、個人を変えるより、環境を変えるほうが簡単で効果的であるということだ。・・・この教訓は、知識のコミュニティの一員である私たちの意思決定を考えるうえで役に立つ。まずたいていの人は説明嫌いであるという事実、意思決定に必要な詳細な情報を理解する気も能力もないことが多いという事実を認める必要がある。しかし理解していなくてもなるべく優れた判断ができるように、環境を整えることはできる。[p.270]」

結び、無知と錯覚を評価する
・「人類の成し遂げた偉業の多くは、自らの理解度に対する誤った信念によって可能になった。そういう意味では、錯覚は人間の文明の進歩に必要だったかもしれない。[p.284
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多くの人が知恵を出し合い協力することによって、相乗効果が発揮される可能性はよく指摘されます。しかし、実際には、そもそも知恵というものは協力が発生するコミュニティに基づいたものである、という著者の指摘は興味深く感じました。だとするとなぜこうした協力がうまくいかない場合があるのでしょうか。本書の考え方を参考にすると、おそらくそれは、知識がコミュニティに依存していることに気づかず、自分の知識を過信して、頼るべきコミュニティの知識をないがしろにしてしまうためなのかもしれません。そう考えると、もし協力を進めたいなら、自分の無知を謙虚に受け入れ外部に目を向けること、そしてよりよいコミュニティを作っていくことが重要、ということになるのではないでしょうか。イノベーションの源泉として協力関係を考えるなら、協力して知識を創造していくという行為の本質についての理解は今後ますます重要になっていくように思います。


文献1:Steven Sloman, Philip Fernbach, 2017、スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著、土方奈美訳、「知ってるつもり 無知の科学」、早川書房、2018.
原著表題:The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone