はじめに第1回
1、研究開発とはどのようなものか:研究開発マネジメント実践の観点から認識しておくべきこと第2回第7回
2、研究開発実践のマネジメント
2.1
、取り組む課題を決める(研究テーマの設定)
第8回第17回
2.2
、研究開発を行う人のマネジメント第18第24回
2.3
、研究組織とそのマネジメント第25回第29回
2.4
、研究プロジェクトの運営第30回第36回
2.5
、研究成果を生かす
2.5.1
、研究成果を使ってもらうには、1)研究成果を使ってもらうためのポイント、2) Rogersによるイノベーション普及学の要点第37回

3)
イノベーション普及に関連した様々な考え方と発展
研究成果を世に出す上で、前回ご紹介したRogersのイノベーション普及論の考え方は技術やアイデアの新しさに劣らず重要で、実践的にも有用な概念と言えるでしょう。しかし、その考え方を使う際にはいくつかの注意点も指摘されています。さらに、Rogersの考え方を応用・発展したいくつものアイデアが提案されていますので、今回はそのような普及に関連する考え方をまとめてみたいと思います。

ロジャーズ普及論の限界
三藤はRogers普及論の限界について次の点を指摘しています。
・「ロジャーズの提案するイノベーション普及モデルは、シーズの発見やニーズの把握に始まり、研究開発を経て製品が開発され、その製品が市場に投入されて、社会システムに普及し、遂に日常化して社会に定着するに至ることを想定しています。このモデルは一方向的つまり直線(リニア)的な進行を前提としていますので、リニアモデルと呼ばれています。[文献1、p.52]」「しかし、実際のイノベーション普及過程はリニアモデルで説明できるほど単純ではありません。[文献1、p.53]」
・「リニアモデルは、研究開発と普及は別個に進行すると過程していますので、原則として普及過程が進行している間にイノベーションを具現化した製品やサービスが変化することを想定していません。[文献1、p.54]」
・「ロジャーズ普及論の原点はハイブリッドコーンという単一の製品に関わる技術的なイノベーションの普及過程にある[文献1、p.55]」。「関連要素の数が多くなると・・・要素間の関係が多岐にわたることになり・・・製品単体のイノベーションの普及と比べて、より複雑な挙動を示すことになります。[文献1、p.56]」
・「コミュニケーションチャンネルが限定的であった時代は、ある程度時間をかけてイノベーションが普及していましたが、現在では普及現象が爆発的に起こる可能性が高まっています。[文献1、p.58]」

つまり、Rogersの普及論の成果を確実なものとして利用するには、その前提をしっかり認識しておく必要がある、ということでしょう。ちなみに、Rogersの原著(文献1)の表題は「Diffusion of Innovation」であり、「Diffusion」が「普及」と訳されていることになります。科学の世界ではdiffusionの訳語は普通は「拡散」でしょう。一般に、分子等が拡散していく過程では物質の変化は想定されないことがほとんどだと思いますので、Rogersがそうした「拡散」に基づくモデルをイメージしていたかもしれないと考えれば、上記のような限界は技術者の皆さんには理解しやすいのではないかと思います。

ロジャーズ普及論の改良・進歩
Rogers
普及論の基本的な考え方に従って、そのモデルの一部を改良し進歩させるような研究は数多くあるようです。ここでは、一例として井上達彦氏の解説に基づいて、2005年に発表されたファーリーらの研究(Ferlie, E., Fitzgerald, L., Wood, M., Hawkins, C., 2005, Academy of Management Journal, 48(1), p.117)の内容をご紹介したいと思います。
・「ここで紹介する研究論文は『なぜ効果が認められているイノベーションが普及しないか』の研究です。[文献2、p.172]」「これまで、高度な専門性を有する組織はイノベーションの導入に積極的であると考えられてきました。・・・ファーリーたちの研究によって、専門職ネットワークがイノベーションを広めるというのは、単一の専門職集団での普及に限った話であることがわかった・・・複雑な組織というのは、複数の専門職集団を抱えているものです。それぞれ、異なった価値観や規範や信念をもって営まれているので、科学的な根拠があっても、その解釈をめぐって論争が生まれてもおかしくありません。組織や専門職集団の間には『見えない壁』があり、それが普及を阻害しているかもしれないのです。[文献2、p.194]」「専門職からなる実践共同体というのは、内部で触発し合って学習したり変革することは得意です。しかし、外からの刺激をもとに学習したり、外からの圧力によって変化するのは苦手です。タコツボ化と揶揄されるように、狭いコミュニティで自己閉塞しやすい集団(self-sealing group)なのです。ファーリーたちの研究は、専門家集団のタコツボ化しやすい特性を『社会的・認知的境界』という考え方で学術的に裏付けました。[文献2、p.195]」
専門家がイノベーションの阻害要因になりうることは、研究者として特に注意すべきことではないでしょうか。

普及論の発展(Mooreのキャズム)
普及論のアイデアを活用した考え方としては、ムーアによるキャズムが最も有名でしょう。キャズムとは、Mooreによれば「アーリー・アドプターとアーリー・マジョリティーのあいだを分かつ深く大きな溝[文献3、p.30]」とされます。(アーリー・アドプターは文献4では「初期採用者」、アーリー・マジョリティーは「初期多数派」と訳されています。)ここで、「溝」というのは、横軸に時間、縦軸に時間あたりの採用者数(採用速度)をとったRogersが想定する正規分布の中に断絶があるということを言っているようで、その解釈を真っ正直に理解すると、溝の期間においては採用速度がゼロになる、つまり採用者が増えない、ということになります(このあたり、Mooreの説明があまりきちんとしていない印象です)。こうした「溝」が発生する原因について、Mooreは、「アーリー・アドプターとアーリー・マジョリティー・・・に共通点が少ないため、アーリー・アドプターがアーリー・マジョリティーの適切な先行事例となり得ない[文献3、p.31]」とし、「アーリー・マジョリティーにとって参考になる先行事例は、他のアーリー・マジョリティーなのだが、そのアーリー・マジョリティーは、有用な先行事例をいくつか見てからでなければ製品を購入しない[文献3、p.31]ために普及の停滞が発生すると説明しています。そしてその結果、「ある顧客グループに対して、ベル・カーブ上でその左に位置する顧客グループに対するのと同じ方法で製品が提示された場合には、全く効果を発揮しない[p.25]」ことになると述べています。

このキャズムについて、Rogersは、「革新性という連続体のうちで、5つの採用者カテゴリー相互間に明確な断絶が起こることはない。それにもかかわらず、『イノベータ、初期採用者』対『初期多数派、後期多数派、ラガード』の間には不連続が存在すると主張する研究者がいる[ムーア、1991]。これまでの研究には、採用者カテゴリー間に『キャズム(深い溝)』が存在するという主張を裏づける知見はない[文献4、p.231]」と述べています。一方、Rogersの著書(文献4)の訳者でもある三藤氏は次のように考え方の違いを説明しています。「ムーアは・・・製品の変化や改良を明確な形で『技術採用のライフサイクルモデル』のなかに組み込んでいる[文献1、p.44]」。「市場のボリュームゾーンを構成する実利主義者・・・に当該製品が採用されるためには、彼らから見た費用対効果比つまりコスパが十分に高く良好でなければなりません。キャズムは洞察者と実利主義者の間に横たわる深い溝のことなのです。ムーアは、実利主義者はIT関連のハイテク製品では一定程度の技術的な知識を持つ一方、価格に敏感に反応すると説明しています。彼らのニーズを満たすためには、一段の価格の低減と性能の向上が必要になります。・・・実利主義者の支持を得ることができれば、当該イノベーションに基づく新製品はキャズムを乗り越えることができます。・・・ムーアの場合、キャズムの適用をICTなどのハイテク製品に限定していることがミソです。[p.45]」「ハイテク製品は、そのライフサイクルにわたって、明確に進化を遂げ、変化します。つまり、イノベーションの変化を考慮に入れていないロジャーズの普及モデルでは想定することのできない現象だったのです。[文献1、p.45-46]」(筆者注:ここで洞察者はアーリー・アドプターのこと、実利主義者はアーリー・マジョリティーのことを意味しています。)

結局のところ、Rogersのモデルは製品の変化を考慮しない単純化されたモデルであるのに対し、Mooreは、製品がアーリー・アドプターの特性を持った顧客に受け入れられた後に採用が進まなくなる場合には、マーケティングの方法や製品の特性を変化させていく必要がある、ということを主張していると考えられます。実務の観点から考えると、Rogersのモデルが単純すぎると判断されるケースでは、製品開発、販売戦略を変更する必要があるということになるのでしょう。例えば、FurrDyerは、次のように述べています。「ムーアは、特定の顧客グループがなぜ自社のソリューションに惹きつけられているのかを深く理解し、そのうえで自社のリソースを一つのニッチなターゲット顧客に集中しなければならないと主張している。目的は、自社のメッセージを効率的に伝え、十分な正当性を何人かの参照顧客(アーリー・マジョリティの一部)の心の中に作ることである。そうすることで、顧客は安心して製品を採用しようと思うのだ。このようなアーリー・マジョリティの参照顧客は接点となり、他の同じような考えを持つ顧客に製品を試すように説得してくれる。[文献5、p.266]」

さらに、Mooreは、イノベーションの採用過程だけでなく、イノベーションの成長、成熟、衰退というライフサイクルにまで範囲を広げて、それぞれにどのような対応をすべきかを提案しています[文献6]。また、このライフサイクルが短期化し、急速な成長と衰退が起こるケースについてビッグバンイノベーションという考え方も提案されています[文献7]。これらの議論は現段階ではキャズム以上に厳密性に欠けるように思われますので、普及論との違いをしっかりと認識した上で、仮説として使えそうなものがあれば参考にしてみる、という役立て方をするのが適当なように思われます。

情報の伝達過程の変化
情報ネットワークの変化に関しては、ChristakisFowlerは、「ロジャーズの理論によると、テクノロジーが広がるスピードは最初のうちは遅いが、やがて速くなり、すべての人に行き渡る頃にはまた遅くなるという。だが、社会的ネットワークの構造を考慮に入れた最近の研究では、そう単純ではないことがわかっている[文献8、p.201]」。「イノベーションを普及させようとする際の基本的な考え方は、情報や影響力は密接で深いつながりを通じて広がる、というものだ。・・・しかし、この考え方は人間の社会的ネットワークの重要な特徴を見逃している」。強い絆に基づく構造は、「集団外の人と接触するには都合が悪い」[文献8、p.203]と述べています。基本的な情報伝達の速度が速くなっているのは間違いないと思いますが、似たような技術の間での競争が起こりやすくなることも考えられるでしょう。どのような情報がどう伝わるか、それがイノベーションの普及速度にどう影響するか、普及のどの過程に対する影響が大きいのか、など興味がもたれます。


文献1:三藤利雄、「イノベーションの核心 ビジネス理論はどこまで『使える』か」、ナカニシヤ出版、2018.本ブログ記事へ
文献2:井上達彦、「ブラックスワンの経営学 通説をくつがえした世界最優秀ケーススタディ」、日経BP社、2014.本ブログ記事へ
文献3:Geoffrey A. Moore, 1991,1999,2002,2014、ジェフリー・ムーア著、川又政治訳、「キャズム2 新商品をブレイクさせる『超』マーケティング理論」、翔泳社、2014.
文献4:Rogers, Everett M., 2003、エベレット・ロジャーズ著、三藤利雄訳、「イノベーションの普及」、翔泳社、2007.
文献5:Nathan Furr, Jeff Dyer, 2014、ネイサン・ファー、ジェフリー・ダイアー著、新井宏征訳、「成功するイノベーションは何が違うのか?」、翔泳社、2015.本ブログ記事へ
文献6:Geoffrey A. Moore, 2005、ジェフリー・ムーア著、栗原潔訳、「ライフサイクルイノベーション 成長市場+コモディティ化に効く14のイノベーション」、翔泳社、2006.
文献7:Larry Downes, Paul Nunes、ラリー・ダウンズ、ポール・F・ヌーネス著、江口泰子訳、「ビッグバン・イノベーション 爆発的成長から衰退に転じる超破壊的変化から生き延びよ」、ダイヤモンド社、2016.本ブログ記事へ
文献8:Nicholas A. Christakis, James H. Fowler, 2009, ニコラス・A・クリスタキス、ジェイムズ・H・ファウラー著、鬼澤忍訳、「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」、講談社、2010.ブログ記事へ