研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

感情

変化の方法(チップ&ダン・ハース著「スイッチ!」より)


新年は何かを変える決意をするのによいきっかけになります。しかし、その決意のみで物事が変えられるほど世の中は甘くありません。イノベーションにおいても新しいことを実現するために社内外の人々に変化してもらわなければならないことが多いわけですが、それには困難がつきまといます。今回は、チップ・ハース、ダン・ハース著「スイッチ!」[文献1]に基づいて、変化を生み出す方法について考えてみたいと思います。

著者は、「何かを変えるには、行動を変えなければならない[p.11]」とし、「変化が成功するときには、一定のパターンがある(中略)。変化に成功する人は、明確な方向性を持ち、十分なやる気を持ち、それを支える環境がある。」[p.342]と言っています。これだけでは当たり前の話ですが、本書では、具体的にどうすれば変化できる(させられる)のか、なぜそうなのかがいくつもの事例や心理学上の知見に基づいて解説されています。特に、著者が「私たちは、権限や予算がそれほどない人にも役立つフレームワークを考案したつもりだ。[p.29]」として、CEOや政治家のように権力的な方法を用いることができない場合にも使える方法を提案している点、ふつうの研究者、技術者にとっても参考になる内容と感じました。

行動を変えるためのフレームワーク

著者はまず、「心理学の一般的な見解によると、脳ではつねにふたつのシステムが独立して働いている。ひとつ目は(中略)『感情』だ。苦痛や快楽を感じる人間の本能的な部分だ。ふたつ目は、『理性』だ。(中略)じっくりと考え、分析を行ない、未来に目を向ける部分だ。」[p.14]とし、ジョナサン・ハイトの著書に基づいて、感情を「象(エレファント)」、理性を「象使い(ライダー)」に喩えています[p.14]。そして、「何かを変えたいなら、象と象使いの両方に訴えかけるべきだ。(中略)象使いにだけ訴えかけて象に訴えかけなければ、チーム・メンバーは頭では理解できても、やる気を出さないだろう。象にだけ訴えかけて象使いに訴えかけなければ、熱意はあっても、方向性が定まらないだろう。[p.16]」とし、さらに人間の行動に影響する「環境」の要因を加えて、「理性(象使い)に訴えかけ、感情(象)を揺さぶり、環境(道筋)を整えるという3つのシンプルな条件を満たすだけで、誰もが思うよりも簡単に変化を引き起こすことができる[p.357、訳者あとがき]」という考え方をフレームワークにまとめています。

変化にまつわる心理的な要因

まずは、フレームワークの基礎となる人間の心理的傾向についてまとめておきたいと思います。著者は様々な心理的要因が行動の変化にどう影響するかを本書の全体にわたって解説していますが、ここではそのうちの主なものをピックアップしてまとめます。

・「自動化された行動を変えるには、象使いによる細心の管理が必要」、「自己管理が心身を消耗することが証明されている」、「セルフコントロールを消耗しているとき、(中略)大きな変化を引き起こすのに必要な心の筋肉そのものを消耗している」[p.20-21

・「象使いは頭でっかちで、分析好きで、頭を空回りさせがち」、「抵抗しているように見えても、実は戸惑っている場合が多い」[p.25

・「困難な状況に直面すると、象使いはそこかしこに問題を見つける。そして多くの場合は『分析麻痺(アナリシス・パラリシス)』に襲われてしまう。はっきりと方向が定まるまで、象使いはずっと頭を空回りさせつづけるのだ。変化を先に進めるには、象使いに方向を教える必要があるのはそのためだ。」[p.49

・「全般的に、私たちはもともとネガティブな面に着目する傾向にある。[p.67]」(「問題への注目」)

・「象使いは、問題を分析するとき、その大きさに見合う解決策を探そうとする。」「(実際には問題は)小さな解決策の積み重ねによって解決されることが多い。[p.64]」

・「象使いは選択肢を与えられるほど疲労していく。」「選択肢が増えると、それがどんなによい選択肢でも、私たちは凍りつき、最初の計画に戻ってしまう。『意志決定の麻痺(ディシジョン・パラリシス)』[p.72-73

・「変化に失敗するのは、たいてい理解不足が原因ではない」「変化すべき理由を非のうちどころがないくらい合理的に説明しても、人々は行動を変えない。」[p.155

・肯定的幻想:「人は誰でも自己評価が下手」「事実をもっとも楽観的に解釈する傾向がある」「人々はほかの人よりも正確に自己評価できると主張する」。しかし、この「肯定的幻想によって、自分がどこにいるのか、どう行動しているのかをきちんと理解しづらくなる」[p.156-158]。「自分は平均以上のリーダー、運転者、パートナー、チーム・プレーヤーだと思いこむのは、そういった単語を自分に都合よく解釈しているからだ。幻想を生み出しているのは、『リーダー』や「チーム・プレーヤー』といった単語のあいまいさだ。[p.162

・「恐怖は強力なやる気の源になる」「すばやく具体的な行動が必要なら、ネガティブな感情が役立つ場合もある」。「ネガティブな感情が思考を狭めるのとは対照的に、ポジティブな感情には思考や行動の幅を『広げて養う』効果がある(フレデリクソンによる)」「『興味』というポジティブな感情は、好奇心の幅を広げる。個人的な目標を実現したときにわき上がる『自信』というポジティブな感情は、将来の活動の幅を広げ、さらに大きな目標を追い求めるきっかけになる。」「大規模であいまいな問題を解決するには、柔軟な心、創造性、希望をはぐくむ必要がある。」[p.165-169

・「人は選択を下すとき、意思決定のふたつの基本モデルのいずれかに頼る傾向がある(マーチによる)。」「それは『結果』モデルと『アイデンティティ』モデル」、結果モデルは費用と便益を評価する合理的で分析的なアプローチ。アイデンティティモデルは1)自分は何者か、2)自分はどのような状況に置かれているか、3)自分と同じ状況にいる人々ならどう行動するか、に基づく。「アイデンティティは、人々の意思決定において中心的な役割を果たすので、アイデンティティをおびやかす変革活動はたいてい失敗に終わる(相手の行動を変えるために直観的に『見返り』をつけようとするのが愚かなのはそのためだ)」[p.207-208

・「こちこちマインドセット」の持ち主は、自分の能力が基本的に不変だと信じ、挑戦を避けようとする。「しなやかマインドセット」の持ち主は、能力は筋肉と同じで練習すれば鍛えられると信じている。「自分の可能性を最大限に引き出したいなら、しなやかマインドセットを持つべき」[p.220-222]。

・人は他者の行動のもとになる環境的要因を無視する傾向がある(ロスによる)『根本的な帰属の誤り』。人々の行動を『置かれている状況』ではなく『人間性』に帰属させる傾向がある」[p.242

行動を変えるフレームワーク

著者は以下の3つのステップと具体的なテクニックを示しています。

象使いに方向を教える(理性への働きかけ)

・ブライト・スポットを手本にする:「真実だが役に立たない」知識よりも、お手本となる成功例(ブライト・スポット)を探す[p.41-48]。「解決志向短期療法(SFBT)」では問題の根源を探るより問題の解決策に着目する[p.51-59]、「アプリシェイティブ・インクワイアリー(AI)」では、失敗ではなく成功の分析に力を注ぐ[p.378]。

・大事な一歩の台本を書く:「全体像で考えず、具体的な行動を考える[p.347]」。「変化を成功させるには、あいまいな目標を具体的な行動に置き換えることが必要[p.77]」。「あいまいさは象使いを疲れさせる[p.76]」。

・目的地を指し示す:「目的地はどこか、そこへ向かうメリットは何かを理解すれば、変化はラクになる。[p.347]」「目標には感情的な要素を盛り込むべき(コリンズ、ポラス)[p.105]」、「魅力的な目的地を描くことで、(中略)分析に迷い込んでしまうという弱点を正すことができる。[p.111]」、「SMART(具体的Specific、測定可能Measurable、実行可能Actionable、重要Relevant、適時的Timely)な目標が効果を発揮するのは、変化の場面というよりも安定した状況だ。(中略)心に響く目標を探す際には、SMARTな目標はあてにならない。(中略)経済的な目標はそれほど変革の成功にはつながらない。[p.112-113]」

象にやる気を与える(感情への働きかけ)

・感情を芽生えさせる:知識だけでは変化を引き起こすには不十分。[p.347]。「変化は『分析し、考えて、変化する』の順序ではなく『見て、感じて、変化する』の順序で起こる(コッター、コーエン)。」、「なんらかの感情を芽生えさせる証拠を突きつけられたとき、変化が起こる。感情のレベルであなたを揺さぶる何かだ。」[p.147

・変化を細かくする:「思っていたよりもゴールラインの近くにいると感じさせるのが、行動を促すひとつの手」[p.175]、「進歩の感覚は重要だ。象は簡単にやる気を失うからだ。」[p.177]、「象は短期的な見返りのないものごとをするのを嫌がる」[p.179]、「絶対に実現できるくらいまで変化を小さくしよう」[p.184]、「初期の成功をつくり上げるということは、実際には希望をつくりあげているということにほかならない」[p.193]、「小さな成功によって、困難が和らぎ(”これはどうってことない”)、要求が抑えられ(”これだけやればいい”)、能力レベルの認識が向上する(”これならできる”)(中略)この3つの要素すべてが変化をラクにし、持続的にする(ワイクによる)」[p.197

・人を育てる:アイデンティティを養い、しなやかマインドセットを育む[p.347]、「アイデンティティに従って生きたいという願いが、自分自身を変える意欲につながる」「新しいアイデンティティの向上心としなやかマインドセットの粘り強さを組み合わせれば、驚くべき偉業を実現できる」「やる気は感情から生まれる。」「やる気は自信からも生まれる。」[p.236-237]。「失敗が変化に必要な一部だとすれば、失敗のとらえ方は重要」「失敗を覚悟させる必要性」がある。「しなやかマインドセットは、失敗に目を向けさせ、さらには失敗を自分から求めるよう勧めている。これは究極の楽観主義だ。しなやかマインドセットは敗北主義を防ぐのだ。失敗を変化のプロセスの自然な要素と位置付けている。つまずくことを失敗ではなく学習ととらえてこそ、人はがんばりぬくことができる。」[p.227-229

道筋を定める(環境を整える)

・環境を変える:環境が変われば行動も変わる。[p.348]。「人間の根本的な性格を変えるよりは、状況を変える方が簡単」[p.243]、「環境を変えるというのは、適切な行動を取りやすくし、不適切な行動を取りにくくするということ」[p.246]、「自分自身の行動を変えるときは、自分にセルフコントロールを課すよりも、環境を変えるほうがかならずうまくいく」[p.258

・習慣を生み出す:行動が習慣になれば、象使いの負担はなくなる[p.348]。「環境は習慣を強化(阻害)することで、私たちに知らず知らずのうちに影響を与える」[p.278]、「要するに習慣が行動の自動運転だから」[p.278]。「自分がしなければと思っていることに関しては、アクション・トリガー(心理的な計画)はやる気を生み出す大きなパワーとなる」、「アクション・トリガーの価値は、意思決定の“事前装填(プリロード)”にある(ゴルヴィツァーによる)」[p.281]、「意思決定の事前装填により象使いのセルフコントロールを温存している」[p.282]「アクション・トリガーには『にわか習慣(インスタント・ハビット)』を生み出す役割がある(ゴルヴィツァーによる)[p.284]」。「チェックリストはいわば過信に対する保険」[p.298]、「チェックリストは、大失敗の確率を抑える。」[p.299

・仲間を集める:行動は伝染する[p.348]。「人は仲間がそうしているのを見て、同じことをする」[p.304]、「意識的がどうかにかかわらず、私たちが他人の行動をまねるのは明らかだ。不慣れな場面にいるときは、特に他人の行動を観察しようとする。そして、変化の場面とは、当然ながら不慣れなものだ。[p.305]」、「誰かに行動を変えてほしいが、相手は変化に抵抗している。そこで、変えようとしている人々に対して影響力を持つ他者の支持を集める。つまり文化を変えるということだ。そして、多くの場合、文化は組織の変化を成功させる要となる。」[p.324

以上が、著書による変化のためのフレームワークです。ただ、著者は、「フレームワークをシンプルで実用的にする[p.29]」ことを狙ったため、「このフレームワークは完全無比ではない[p.29]」と言っていますので、著者の意見を鵜呑みにするわけにはいきませんが、「私たちは変化をラクに起こせると約束するつもりはない。しかし、少なくともよりラクにすることはできる。本書の目的は、数十年間の科学研究に支えられたフレームワークをお教えすることだ。[p.30]」という著者の意図はうまくいっているのではないでしょうか。

研究開発の立場から考えると、例えば、研究部隊が獲得した成果を実用化する場合や、顧客に受け入れてもらう場合などに、関係者に変化を受け入れてもらう必要がありますが、それは容易ではありません。著者は「コッターとコーエンは、分析的手法が有効なのは、『変数が既知であり、想定条件が少なく、将来が不透明でない』場合だと述べている。しかし、大規模な変化の場面ではそうはいかない。変化の場面では、たいてい変数が不明で、将来は不透明だ。変化がもたらす不安のせいで、象はなかなか動こうとしない。そして、分析的な言葉をいくら並べても、象の腰を上げさせることはできない」[p.145-146]と述べています。この変化の場面はまさに研究開発の状況と一致しますので、変化することのメリットを研究者が力説して関係者を説得しようとしても、それは変化を促すには的外れであることは肝に銘ずるべきでしょう。研究者はつい理性に頼りがちですが、それでは変化は起こせないということです。周囲を変えたいと願うなら、本書に示されたフレームワークとその背景にある人間の心理的な傾向は心にとめておくべきなのではないでしょうか。


文献1:Chip Heath, Dan Heath, 2010、チップ・ハース、ダン・ハース著、千葉敏生訳、「スイッチ! 『変われない』を変える方法」、早川書房、2010.

原著表題「Switch, How to Change Things When Change Is Hard

http://www.heathbrothers.com/switch/

参考リンク



 

 

アイデアの扱い方と知の呪縛(「アイデアのちから」より)

研究開発において、アイデアが重要であることは言うまでもありませんが、どんなアイデアが成功するのかはなかなか見通すことができません。ならば、アイデアをたくさん出してどんどん試せば成功に近づくはず、という考え方があります。確かにこの考え方には一理あります。しかし、アイデアをビジネスとして現実のものとするためには、試行による選別だけでよいのでしょうか。アイデアをどう扱うかは結果に影響しないのでしょうか。今回は、チップ・ハース、ダン・ハース著「アイデアのちから」[文献1]に基づいてアイデアの扱い方について考えてみたいと思います。

この本の原著の表題は、「Made to Stick, Why Some Ideas Survive and Others Die」、「Stick」すなわち「記憶に焼きつく」アイデアとはどのようなものなのか、どうすればアイデアが記憶に焼きつくようになるかが述べられています。著者らによれば、「ここで言う「記憶に焼きつく」とは、理解され、記憶に残り、持続的な影響力をもつ、つまり相手の意見や行動を変えることだ。」[文献1、p.15]とのことですので、要するにどうすれば使えるアイデアが得られるのかが示されているといってよいでしょう。本書でとりあげられているアイデアは必ずしも技術的なものというわけではありませんが、どんなアイデアであってもアイデアを実用化するためには周囲の人に働きかけ、その人の行動を変化させる必要があるわけで、そのノウハウが示されている点、なかなか参考になる本だと感じました。

記憶に焼きつくアイデアの6原則[文献1、p.23,331,341]

著者は、「しかるべき洞察と適切なメッセージさえあれば、誰でもアイデアを記憶に焼きつけることができる」[文献1、p.340]と述べています。そして、記憶に焼きつくアイデアに共通する特徴として以下の6つの原則を挙げています。

1、単純明快である(Simple):核となる最も重要な部分を見極め、簡潔に伝える。聴き手の理解と行動を促す上で役に立つ。既存イメージの活用、例え、創造的類推が使える。

2、意外性がある(Unexpected):関心をつかみ、つなぎとめるために意外性を使う。驚き、興味、好奇心(疑問を解消し、曖昧な状況をはっきりさせようとする知的欲求)が使える。

3、具体的である(Concrete):アイデアを理解し記憶してもらうには、人間の行動や五感を通じて説明をする必要があり、あまりに曖昧なものは意味をなさない。記憶に焼きつきやすいアイデアは具体的イメージを備えている。共通理解により協調を促す。

4、信頼性がある(Credible):権威を使えない場合、アイデア自体に信頼性がなければならず、そのためにはアイデアを相手に検証してもらうことが有効。説得力のある細部の利用、数字に実感をわかせる、信頼性を感じさせる事例が使える。

5、感情に訴える(Emotional):行動を起こさせるには心にかけてもらう必要がある。そのためには感情に訴えると効果的。抽象的なものではなく人間に何かを感じる。自己利益(特に、マズローの欲求段階の高位の感情)、アイデンティティに訴えるなど。

6、物語性がある(Story):物語は、行動のしかたを教える(シミュレーション)、行動を起こすエネルギーを与える(励ます)。

以上の頭文字をとると、SUCCESs、と覚えやすくなっています。もちろん、この原則をよく理解するためには本書に示された豊富な具体例と組み合わせることが必要だと思いますが、示唆に富んだ原則と言えるでしょう。

しかし、アイデアをこのような形にするためには克服すべき点があります。著者は、「知の呪縛」として、「いったん何かを知ってしまったら、それを知らない状態がどんなものか、うまく想像できなくなる」[文献1、p.31]と指摘し、知の呪縛によってアイデアを人に伝えることが難しくなってしまうと述べています。さらに、「メッセージを相手に届けるプロセスには二つの段階がある。「答え」の段階と「他者に伝える」段階だ。「答え」の段階では、専門知識を駆使して人に伝えたいアイデアに到達する。」「問題は、「答え」の段階では強みになったものが、「他者に伝える」段階では裏目に出ることだ。「答え」を出すには専門知識が必要だが、専門知識は「知の呪縛」と切っても切り離せない。」[文献1、p.330]、とも述べています。

つまり、技術者は専門家である故に、そのアイデアは人に伝わりにくい、というわけです。技術者は専門知識を用いて「答え」を出すことが求められているため、「答え」を出すことにとらわれていて、「伝える」ことが軽視されることも多いでしょう。しかし、アイデアをビジネスとして成功させたいならば、他人(協力者、顧客)に対して、うまく伝える必要があることは言うまでもありません。そうすると、「伝える」ことも科学者、技術者の本来の仕事であって、科学者、技術者に求められる「説明責任」とは、単にアイデアを説明すればよいというものではなく、必要に応じて記憶に焼きつくような説明をする、ということまで含んでいると考えるべきなのでしょう。その結果、最初のアイデアは形が変わってしまうかもしれませんが、それでよいはずです。最初のアイデアと自分のやり方にこだわるあまり、人の記憶に焼きつかず、行動を引き起こすことができないとしたらそのアイデアは無意味なわけですから、積極的に「アイデアを変える、育てる」ことも必要なのではないでしょうか。結局、「説明責任」はアイデアを出した人やアイデアの実現に携わっている人の義務ではなく、その人自身の利益にもなることなのだろうと思います。

一方、アイデアをうまく伝えるテクニックがあるとする本書の考え方によれば、必ずしも優れた内容のアイデアでなくても、人に影響を与えうる、ということにもなります。技術者としてはつい、よいアイデアはうまく伝わると思ってしまいがちですが、実際はそうではありません。都市伝説やデマが伝わりやすいということは、伝わりやすさとアイデアの質(正しさとか妥当性とか可能性とか)は関係ないということにもなるでしょう。さらに、自分がよいと思っているアイデアは、相手も同じようによいと思うだろうと想像してしまうことは、「知の呪縛」の別の症状と言えるかもしれません。

さらに、アイデアを受け取る立場からは、自分自身が、たいした価値もないのに記憶に焼きつく特徴を備えたアイデアに影響されていないかどうかにも注意が必要でしょう。もし、本来ならば採用されるべきアイデアが、ただ記憶に焼きつくだけのアイデアに負けて採用されなかったとすれば、アイデアの提案者にとって残念なだけでなく、誤った判断をしたことにもなってしまいます。

研究開発のマネジャーには、自部署のアイデアをうまく育て、社内外の他者を動かしてアイデアを実現させることが求められます。一方、第一線から集めたアイデアを評価し、篩にかけることもしなければなりません。従って、本書に示された、記憶に焼きつくメカニズムは、アイデアの発信者としても受信者としてもその作用をよく認識しておく必要があるでしょう。研究を成功させるためにアイデアの数を揃えることが無意味だとは思いませんが、最も重要な核となる部分を明確にし、その部分に問題があれば改良するなりそのアイデアは捨ててしまうなりした上で、他者に影響力を及ぼすようにアイデアを育てることが必要ということではないでしょうか。幸い、研究マネジャーは、第一線研究者から少し距離を置く存在ですので「知の呪縛」にとらわれない発想が幾分かはしやすいのではないかと思います。アイデアを出すことはもちろん重要ですが、アイデアを育てることこそ研究マネジャーならではの仕事、ということかもしれません。


文献1:Chip Heath, Dan Heath, 2007、チップ・ハース、ダン・ハース著、飯岡美紀訳、「アイデアのちから」、日経BP社、2008.

原著の題は、”Made to Stick, Why Some Ideas Survive and Others Die”

著者webページhttp://www.heathbrothers.com/



参考リンク<2012.8.5追加>
 

 

「不完全な時代――科学と感情の間で」感想

最近の科学と社会の関係変化を考える上で、「情報」は重要な要因でしょう。さらに、3・11震災後は「感情」の問題も避けて通れないように思います。今回は、TRONで有名な情報工学者の坂村健氏による著書「不完全な時代――科学と感情の間で」[文献1]を参考に、科学と情報、感情の問題について考えてみたいと思います。

人が判断を行なうプロセスにおいては、何らかの「情報」を「解釈」し、「考える」ことが行なわれますが、この「解釈」あるいは「考える」というプロセスは、必ずしも公正に合理的に行なわれるものではないことは多くの方が経験されていると思います。同じ「情報」に接しても人により判断が異なるのは、そこに心理的バイアスや好き嫌い、価値観など、いわゆる「感情」と呼ばれるような(その定義は曖昧ですが)要素が入り込んでくることが原因となっている場合もあると思います。

坂村氏の著書には、そうしたプロセスに関わる「情報」や「感情」の問題についての意見が述べられていて興味深い点が多くありました。本書は、新聞等に発表された氏のエッセイ等に加筆してまとめられたものですので、上記の問題に関する系統だった主張というわけではありませんが、著書の中から参考になると感じた部分を選び出して考察させていただきたいと思います。

坂村氏の問題意識は、「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代――そういう現代に対してどう向き合うか」[文献1、p.12]です。著書では様々なトピックスが語られていますが、ここでは、現代における「情報」の問題、「考え方」の問題、そこに影響する「感情」の問題について考えてみます。

「情報」の問題は、コンピュータの急激な発達とともに、近年の我々の生活に大きな影響を与えている問題のひとつでしょう。著者は以下のような興味深い指摘をしています。

・情報の非対称性[文献1、p.67]:例えば売り手と買い手の持つ情報に偏りがある場合、「情報の非対称性」がある、とされます。こうした状態は「偽装」を生む温床となり、また情報の少ない側ではそれを見抜くことができないため不安を感じ、その結果、根拠に乏しい不完全な判断に頼ってしまう、といいます。このような状況で「偽装」を防ぐために、日本では「長いつきあいの中での信用」を重視してきましたが、近年では監査、検証、罰則による高コストの「明示的保障システム」(こちらがグローバル・スタンダード)に頼るようになってきているそうです。トレーサビリティ(製造の全過程で、いつ・どこで・だれが・どういう処理をしたかを記録しそれを最終製品に結び付ける)確保により問題の原因特定を容易にすることで情報の非対称性に対応できる可能性があると著者は述べています。

・ネットは不特定多数への情報流布力に優れるが、信頼性が低い。信頼性担保のためには、同定可能で、過去ログなどで過去も信頼性の高い行動をしている主体であることを示しブランド化する必要がある。企業にとってはその会社の姿勢を示しブランド化することが必要。[文献1、p.94

・インターネット接続が社会の標準になってしまうと、ネット接続できない情報弱者のサポートが必要。これはもはや国の仕事ではないか[文献1、p.148]。

・情報技術はリアルタイムに感動を共有することを可能にした[文献1、p.179]。

「考え方」の問題については以下のような指摘があります。

・科学技術に関する正確な知識は避けて通れない。加えて、健全な懐疑主義――知識の一方的な詰め込みではなく、お仕着せの結論を疑い積極的に情報を集め自分で考える姿勢が必要。[文献1、p.19

・データに基づく議論が重要[文献1、p.26]。

・社会は複雑な問題に溢れている。それを単純化してはいけない。難しい問題を難しいと理解し、なお咀嚼する知的体力が求められている[文献1、p.43]。

・白黒をつけないのが東洋の知恵[文献1、p.99]。

・技術も大事だが、それと同程度かそれ以上に、その技術を社会につなげるための制度設計が重要[文献1、p.135]。

・行政に想像力を[文献1、p.136]:ここでいう想像力とは、いろいろな状況によって起こる結果を想像する力、という意味合いのようです。要は考えの前提を広げ、様々な前提において起こることを予測する力、と言ってもよいかもしれません。この想像力が戦略の元になると言っています。

・コンピュータシステムを考えるとき重要なのは、それが本質的に技術設計半分・制度設計半分の存在だということだ。「制度」の部分の比重がどんどん重くなっている。[文献1、p.196

・ユーザーも含めて関係者皆で問題がないように最大限の努力はする――こういうシステムをベストエフォート(最大努力)型という。誰かが全体に責任も持ってくれて、お金さえ払えばお任せで完璧な保障をしてくれる――ギャランティ(性能保証)型とは、設計思想として対極。ベストエフォートの集合で実現されているのが現代のネットワーク社会。問題が起きた時点で判断しそれが慣習法になるという英米法の国の方がベストエフォートに適している。[文献1、p.204,216

・絶対安全(設計製造に間違いがなく劣化もしていない製品は100%安全という考え方)は存在しない。安全も「機能」として実装し、「安全度」で語るべきスペックのひとつ(機能安全)、という考え方に変わっている。こうすることによって他のコストと比較可能になる。[文献1、p.210

「感情」の問題については以下の指摘があります。

・日本には、やり方を変えたくないという強い社会的慣性力がある。コストを決めるのは、実は技術ではなく、やり方を変える「勇気」。[文献1、p.58

・(日本人が)一番恐れるのは、実際の「危険」ではなく「未知の危険」[文献1、p.110]。

・映像の3D技術などは感情移入を促すことができる[文献1、p.183]。

感情の問題と考え方の問題は共通する要素がありますし、著者はそれを厳密には区別していないようです。そして、まとめとして次のように述べています[文献1、p.220]。

・「正しさ」に向けて、少しでも近づこうというプロセスが科学の本質。

・技術以降は、リスクとベネフィット、市場、コストとプロフィット、感情(公正や道徳、習慣や文化、認知バイアスなど)という評価軸を持つ。

・感情に関する問題を科学者は軽視しがちであり、相手の感情に立って他人に語りかけられる科学・技術の側の人は非常に少ない。

・科学者でない側も身につけるべきは「科学力」というよりも「合理的に判断する力」、自分の判断が単なる「感情優先」でないかと疑う姿勢。

・人々が正しく情報を得て、さらに正しい情報が常に得られるわけではないという不安にも向き合いながら、その中で最も確からしい判断をする。そして、その結果について諦観する。それこそ「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対してどう向き合うか」という姿勢なのである。

3・11震災以後特に顕在化した科学と社会の関わりの問題については、様々な立場の方がコメントを述べられています。この著書もそのうちのひとつですが、著者の立場もあって、「情報」に関する洞察が特徴になっていると言えるでしょう。しかし、広い意味での科学コミュニケーションが重要であるという結論は、多くの論調(ただし、建設的なもの)と同じ方向だと思います。ただ、「情報技術」というのは実用面では人間の思考と深く関わっているだけに、多様な思考、価値観も含めた感情の側面、社会生活への影響を強調している点で純粋科学の立場よりは具体的な指摘が多いと思いました。

例えば、信頼を得るためのブランド化、感動の共有、戦略の元となる想像力、制度設計の重要性、ベストエフォートの考え方などが興味深いと思いました(企業の立場としては、ベストエフォートという考え方をすべての分野に適用することは現段階では難しいような気もしますが)。企業の研究者であれば、もはや技術だけで勝負することが難しい時代になっていることは認識している方が多いと思います。研究開発の進め方としても、ビジネスモデルのような形で社会(市場)との関わり、制度を設計することは有効でしょう。その際、「複雑な問題を過度に単純化しない」とか「白黒つけない」、「諦観」といった見識は仕事を進める上で重要です。これは不確実性の高い研究では、すべての段階で単純化して理解したり、白黒をつけていられない場合もあり(当然、後での検証は必要です)、また上手くいかない場合には諦めも必要なので、実際の研究の場面ではよく行なうことではありますが、これは一種、理性で感情をコントロールしているということなのではないでしょうか。もちろん、理性的に判断がつくような課題であれば感情の問題はないかもしれません。しかし、答えの不明確な課題や、能力的に判断できないような課題に対しては、「最も確からしい」判断をすることで感情に惑わされない技術も必要なのではないかと思います。科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対しては、感情を抑え込んで対応するのか、感情の動きを理解して理性でコントロールするのか、という選択しかないのかもしれません。実はこれが「合理的に判断する」ということの本質ではないでしょうか。もちろん、状況によっては感情に基づく判断があってもよいと思います。しかし、理性的に判断すべき状況で感情に囚われて判断を誤っていないか、ということは常に心に留めておくべきでしょう。

なお、このような感情のコントロールは、自らの問題だけではなく、相手の感情に対しても言えます。もちろん、相手を自分の思い通りに動かす、というコントロールではなく、相手が自身の感情をコントロールできるように説明、説得する、ということになりますが、イノベーションの実現のためにはこうしたプロセスも必要なのではないかと思います。

科学技術コミュニケーションの場面でいえば、科学側からの知識の啓蒙だけではなく、合理的な考え方の啓蒙、すなわち科学的データを自身で解釈して自身で答えを出し、自身の感情をコントロールする方法の啓蒙も重要ということになると思います。科学者はどのような考え方をするのか、一般の人はどのような考え方をするのかを知るために、ひとつの問題について科学者と一般の方が一緒に考える、というアプローチもできるのではないでしょうか。科学では、白か黒かという見方だけではなく、白黒つけられない、あるいはあえて白黒つけない、という考え方をすることがあることをわかってもらえると相互理解に役立つと思います。ベストエフォートという考え方がこれに近いのかもしれませんが、理性的な考え方が社会に広まり、曖昧さを含む状況でも合理的な判断ができるように、科学の側も社会の側も徐々に歩み寄るような姿勢が求められているのかもしれません。文化や知識、考え方の異なる人々との相互理解は容易なことではないでしょうがその努力は必要でしょうし、それができれば現在の閉塞状況の打開につながるのではないか、という気もします。


文献1坂村健、「不完全な時代――科学と感情の間で」、角川書店、2011.

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