研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

特許

ノート14改訂版:研究成果の転用

1、研究開発テーマ設定とテーマ設定における注意点→ノート1~6
2、研究の進め方についての検討課題→ノート7~12
3、研究成果の活用・発展
3.1
、研究成果の活用
→ノート13

3.2
、研究成果の転用(競争優位の維持と新たな競争優位の獲得)
研究開発の重要な目的のひとつに、競争優位の獲得が挙げられます。これまで本稿では、どのようにすれば、研究開発を成功させ、競争優位を獲得できるかについて様々な側面を考察してきました。今回は、得られた成果の「転用」と題して、成果が得られた後(あるいは失敗した研究から学習した後)その成果をどう使うべきかを考えてみたいと思います。これは言い換えれば、イノベーションから得られた競争優位性を維持するためにはどうすればよいか、得られた知識を新たな競争優位性の獲得につなげるためにはどうすればよいか、ということでもあり、イノベーションを一瞬の成功に終わらせないために、そして成功や失敗から学んだことを将来に活かすために重要なことであると考えます。

競争優位の維持
研究によって得られた競争優位を維持するための重要なポイントとしては、特許の問題と、ノウハウ(知識、ステークホルダーとの関係なども含む)の問題が挙げられると思います。まず、特許の問題について考えます。

・特許
研究によって有用な知識が得られた場合、それを特許化しておくのは、通常は当然のことと考えられます。これは、特許化によりその知識の独占的使用が可能になり、競争相手との技術的差別化につながるためですが、残念ながら特許さえあれば万全というわけではありません。特許に関しては、以下の点に注意が必要でしょう。
・技術を公開しなければならないこと:真似されたり改良されたりする危険性がある
・技術を独占しようとすると技術の普及の障害となること
・有期の権利(出願後20年)であること:権利保護のタイミングと実用化のタイミングが合わないことがある
・それぞれの国ごとに特許を取得する必要があること
・コスト構造の異なる国では、実施者からライセンス料をとっても競争力確保にならない場合があること
・技術のすべてを特許で押さえることは困難な場合が多く、回避技術が開発されたり、改良技術が特許化されてしまう可能性があること
・特許の本来の目的である「発明を奨励し、産業の発達に寄与させる」という趣旨に反し、他社の業務の妨害や、訴訟や回避技術の検討などによる労力の浪費につながる可能性があること
したがって、丹羽は、「結局のところ、技術的なアイデア(発明)が付加価値の源泉であって、特許はそれを保護する1つの方策である」と述べ、「技術的なアイデア(発明)を競争上いかに有利に展開するかには、多くの方策がある」と述べています。具体的には、特許取得による独占、ライセンス収入、クロスライセンス以外に以下のような方策を挙げています[文献1、p.52]
・自社技術の延長上に業界の標準規格を定める
・技術を無償公開しデファクトスタンダードにする
・自社のビジネスモデルが対象としているバリューチェーンの価値を高める
・技術を秘密にしておく

もちろん、特許取得の効果は、業種や業界によって異なりますので画一的な議論はできませんが、特許はイノベーションによって競争優位を維持する上でのひとつの手段と認識しておくべきでしょう。なお、こうした特性を考えると、特許の出願数や権利化数を技術力や研究成果の評価の指標として用いることには議論の余地があると思われます(単に数を指標とすることは、技術の質を考慮していないという問題もありますが)。

・ノウハウ
イノベーションには、特許や論文に書かれた知識だけでなく、いわゆるノウハウも必要とされます。例えば、ビジネスを進める上での知識や経験、様々なステークホルダー(顧客、パートナー、規制当局なども含む)についての情報やそれらとの関係自体(これをエコシステムと呼ぶ人もいます)もノウハウに含めてよいでしょう。こうしたノウハウには他者には容易に模倣できないものがあり、特に、文書化されずに個人の頭の中に存在する暗黙知は他者に伝えることが困難なため、競争優位を維持するためには、こうした知識資産を構築し、模倣されないようにすることも重要となるでしょう。

将来の競争優位の構築
情報技術の進歩、産業構造の変化により、近年では、従来よりも技術やビジネスモデルの模倣が容易になっているという指摘があります。イノベーションを成功させて競争優位を得たとしても、イノベーションの内容をより進歩したものに発展させていかなければ、他者の追随や逆転を許すことになりかねません。保有する知識資産を有効に活用して、新たな競争優位の源泉となるイノベーションを創りつづけていくことが必要と考えられます。もちろん、こうした知識資産の活用は、他者に追随する場合にも重要であることは言うまでもありません。

・知識資産の活用
どのような知識がイノベーションに役立つかについて、野中らは、「組織的知識創造」の概念を提示しています[文献2]。この理論では、個人と組織における暗黙知(言葉や文章で表わすことの難しい主観的、経験的知識)と形式知(言葉や文章で表現できる客観的な知識)の相互作用が重視されており、暗黙知や知識変換、知識移転が重視されているところなど研究者の実感とも無理なく調和がとれていて、イノベーション成功のメカニズムについて重要な示唆を与えてくれます。しかし、この理論に基づいて展開が試みられたナレッジマネジメントは、一時期活発に検討されたものの現在は「行き詰まり」[文献1、p.327]の状況にあるようで、ナレッジマネジメントと言っても実体はIT化による業務効率化の提案にとどまるなど、実用面での有効な方策の提示には至っていない点が課題と言えるようです [文献1、p.317,328]。野中らは、その原因として、「知識を情報と同列視し、ナレッジ・マネジメントとは、単に情報を効率的に蓄積・伝達・使用することであるとの誤解に基づいてIT投資を進めたものの、結局期待した成果をあげることができなかった企業も多かった。知識の本質的な性質を理解しないままでは、その共有や活用を進めても効果をあげることはできない[文献8、p.4]」と指摘しています。

例えば、知識の有効活用を狙って、知識やノウハウをデータベース化することが試みられることがありますが、単に知識を蓄積し検索できるようにすればうまくいくというものではないでしょう。Dixonは、データベースへの知識の蓄積がうまくいかない理由について、「自分と関係なく,連絡することもなさそうな人たちがアクセスするデータベースに入力することで得られる個人的な利益はほとんどない」、「情報を共有するのは、そうすることによって個人的な利益を得るからだ。その個人的な利益とは、他人に自分の専門知を認めてもらうとか'ほほ笑みが返ってくるぐらいだったかもしれないが」と述べています[文献6、p.12]IT技術を使うにしても、なぜ人間は自分の持つ知識を他人に伝えたくなることがあるのかを理解した上での仕組み作りが必要ではないでしょうか。また、知識を組み合わせて新しいアイデアを創造する過程にも工夫が必要でしょう。丹羽は、単なる寄せ集めの状態から総合力を発揮するまでの方法を段階を追って提案しています[文献7p.84]。それに倣って言えば、知識を化合させるための仕組みづくりが重要ということになるのでしょう。もちろん、ビッグデータの活用などのIT技術の進歩が知識創造に貢献する可能性もあり、新たなナレッジマネジメントの方法が提案されるかもしれませんが、知識を扱う人間の思考や行動も含めた知識創造の本質の理解なしには、単なるツールの開発にとどまってしまう可能性もあると思われます。

・知識資産の拡大
上述のような知識資産の活用方法の検討とともに、知識資産自体の拡大も考えるべきことと思われます。例えば、従来、あまり顧みられることのなかった失敗に関する知識[例えば文献1、p.210](これには、「失敗学」という分野も提案されています[文献3])や、すでに却下された古いアイデア[例えば文献4、p.195]、知識のある人との人脈[文献5、p.117]、少数意見や反対意見[文献5p.173]の有効活用の可能性も考えるべきでしょう。知識の組み合わせが知識創造の源泉になりうるという指摘は数多くあります。成功したイノベーションが多くの注目を集めることはしかたがない面もありますが、活用できる知識が多いほど、組み合わせの可能性は増えるはずです。個人の能力の限界を、他者との協力(機械との協力も含めてもいいかもしれません)によって補い、組み合わせの可能性を増やすことは意味のあることと考えられます(おそらく、数多くの組み合わせが提案されると、それらから絞り込んでいく過程のスキルもより重要になってくると考えられます)。

考察:知識マネジメントと研究マネジメント
以上、競争優位の維持、新たな競争優位の獲得という観点から、イノベーション自体やその過程で獲得した知識資産をどう活用、転用すべきかを考えてみました。近年、競争優位の持続については、「本当に持続する優位性を築ける企業は稀である。競合他社や消費者の動向はあまりにも予測が難しく、業界も刻々と変化しているためだ」。「実際には、戦略はいまでも役に立つ。・・・ただし、昔ながらの戦法に固執していてはだめだ。・・・先頭を走り続けるためには、常に新しい戦略的取り組みを打ち出すことで、多くの『一時的な競争優位』を同時並行的に確立し活用していく必要がある」。「現状維持の戦略はもう通用しない」、という考え方が主流になりつつあるようです[文献9]。現在のところ、知識を効果的に競争優位の獲得につなげる具体的方法は未確立かもしれませんが、効果的な知識資産のマネジメントを行うことは、競争優位獲得のためのひとつの手段になるはずです。結局のところ、「厳密にいえば、知識を創造するのは個人だけである。組織は個人を抜きにして知識を創り出すことはできない。組織の役割は創造性豊かな個人を助け、知識創造のためのより良い条件を作り出すことである」[文献2、p.87]と考えると、しっかりした研究マネジメント(人と組織のマネジメント)の基盤を確立した上で、知識マネジメントを考えるべきなのだと思います。


文献1:丹羽清、「技術経営論」、東京大学出版会、2006.
文献2:Nonaka, I., Takeuchi, H., 1995、梅本勝博訳、「知識創造企業」、東洋経済新報社、1996.
文献3:畑村洋太郎、「失敗学のすすめ」、講談社、2000.
文献4:Anthony, S.D., Johnson, M.W., Sinfield, J.V., Altman, E.J., 2008、栗原潔訳、「イノベーションへの解実践編」、翔泳社、2008.
文献5:Leonard, D., Swap, W., 2005、池村千秋訳、「『経験知』を伝える技術」、ランダムハウス講談社、2005.
文献6:Dixon, N.M., 2000、梅本勝博、遠藤温、末永聡訳、「ナレッジ・マナジメント5つの方法」、生産性出版、2003.
文献7:丹羽清、「イノベーション実践論」、東京大学出版会、2010.
文献8:野中郁次郎、遠山亮子、平田透、「流れを経営する――持続的イノベーション企業の動態理論」、東洋経済新報社、2010.
文献9:Rita Gunther McGrathリタ・ギュンター・マグレイス著、辻仁子訳、「一時的競争優位こそ新たな常識 事業運営の手法を変える8つのポイント」、Diamond Harvard Business Review, November 2013, p.32.

参考リンク

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iPS細胞研究に見る研究の進め方雑感

iPS細胞(induced pluripotent stem cell、人工多能性幹細胞)は、山中伸弥京都大学教授がその作成方法を開発したことで有名ですが、その多能性(あらゆる組織の細胞になる可能性を持つ性質)のゆえに多くの応用が期待されています。しかし、その実用化のためには解決しなければならない課題も多く、単なる学問的興味を越えた「使える」成果を獲得できるかどうかには、研究の進め方も関わってくるのではないかと思われます。

朝日新聞大阪本社科学医療グループ著、「iPS細胞とはなにか 万能細胞研究の現在」[文献1]という本では、iPS細胞の解説だけでなく、研究の進め方ついても触れられていました。そこで、本稿では研究の進め方、マネジメントの観点からの感想を述べさせていただきたいと思います。

iPS細胞の研究においては、研究マネジメント上次の点が重要だと考えます。まず、不確実性が高いこと、しかしその状態で実用化を目指していること、成果への期待が大きく(金銭的期待も含めて)競争相手が多いこと、生命倫理に関わる問題があり科学技術社会論(STS)の立場からの考慮が必要なことがポイントとして挙げられると思います。このうち不確実性については、成功するか失敗するかがわからないという不確実性とともに、予想していなかったような応用が開ける可能性も含めて考える必要があるでしょう。このような最先端技術の研究では技術的な成功がとかく注目されがちですが、企業における研究と同様、技術的な成功は実用化のひとつの前提条件にしかすぎません。報道などでは特許の問題もよく取り上げられますが、それも成功のためのひとつの条件であって、要するに実用化に必要なこと全体のマネジメントができなければ目的が達せられない性格を持っているといえるのではないでしょうか。

ES細胞(胚性幹細胞、受精卵を壊して作る万能細胞)など、他の幹細胞研究も含めてこの分野での競争は激しく、研究投資も活発なようです。これはひとえに再生医療や医薬品開発の効率化などへの期待に基づくものと考えられますが、最終的に成功に至るのは誰か、それがどのような形になるのかは現段階でははっきりしないと言えるでしょう。それでもこの不確実な段階で戦略を決め、投資を行なっている人々がいます。一方、現段階では研究の推移を見守り、もっと実用化の可能性がはっきりするまで参入の判断を待つという戦略をとる人たちもいるようです。研究マネジメントを考える上で、様々な人々が様々な戦略で課題に取り組み、最終的にどのような成功例が得られるのか、現在進行形のケースとして非常に興味深いと思っています。

文献1では、研究マネジメントについての細かい議論がなされているわけではありませんが、いくつかの興味深い戦略が取り上げられていますので、その内容をご紹介しておきたいと思います。

・京都大学iPS細胞研究所:20104月設立、所長は開発者の山中教授。研究者同士の情報交換や議論を活発にしたいという山中教授の要望で、仕切りを設けずにグループで共有するオープンラボ形式になっている[文献1p.12-13]。この研究所の前身は20081月に京都大学が設立したiPS細胞研究センターで、これは200711月の山中教授のヒトiPS細胞作製成功発表の直後のこと。この設立に続いて20084月には「産業応用懇話会」を開催、企業との連携を企画、20086月にはiPS細胞関連特許の管理活用を図る会社「iPSアカデミアジャパン」が設立された。文部科学省も研究の支援を強化、20082月には研究拠点を定め、3月には20を超す大学や研究機関が連携するネットワークが立ちあがった。iPS関連の研究予算も2007年度の2.7億円から、2011年度には60億円に届く勢いであるという[文献1p.73-82](この金額は京都大学だけが対象ではありません。実際には、文部科学省以外に厚生労働省、経済産業省などからの研究費支出もあるようです[文献2])。このような研究支援、体制整備の一方、政府がロードマップ(工程表)をつくり臨床応用を目指す進め方に対しては、そういう計画を立てること自体に対する疑問や、「日本政府はiPSに力点を置きすぎているように見える」という批判もあるようです[文献1p.146-147]iPS細胞が日本発の技術であることは、日本の研究者の意欲を高める上では重要なことですし、研究の重点を絞る意味でも重要ではありますが、それだけに集中しすぎてしまうことにはリスクもあることには注意が必要でしょう(おそらく研究者の皆さんはその点はわかっておられると思いますが、不確実なものを取り扱った経験の少ない研究者以外の方の反応には特に注意が必要と思います)。

・アイピエリアン社:アメリカのバイオ企業。バイエルが開発したヒトiPS細胞の特許をイギリスで権利化。京都大学との交渉により、アイピエリアン社の保有する特許を京都大学に無償で譲渡するとともに、アイピエリアン社は京都大学の保有する特許の使用許諾を受けるライセンス契約を結んだ。これによりアイピエリアン社はiPS細胞を使った創薬ビジネスが加速できるという。ベンチャー企業としてのこうしたアプローチは有効でしょう。アイピエリアン社が京都大学の技術を有効活用できるなら、有効な戦略だといえるように思います。

・ハーバード幹細胞研究所:2004年設立。ES細胞の研究実績が豊富だが、iPS細胞についても山中教授のマウスでの成功発表(20068月)以降、積極的に取り組み多くの成果を挙げている。設立にあたっての方針は3つ、1)多くの分野の研究者を集める、2)チームとして働きたい人を集める、3)若者に活躍してもらう、であるという。患者が必要だと思うことから考えて研究の方向性を定め、製薬会社がしていない研究を行なうという目標を明確に掲げる。研究所の副所長が研究者(ハーバード大学メルトン教授)で、所長はバイオ企業で働いていたビジネスマンであり、ビジネスモデルの確立までを視野に入れて研究を進めている。研究所には70人の独立研究者がいるがその多くは専任ではなく、様々な学部や病院、研究所の仕事と兼務、さらに学内外に協力研究者が100人いるという体制。新規採用の独立研究者に対してパッケージと呼ばれる研究資金(研究費、給料、研究者を雇う資金)を1億円~2億円(最初の35年分)与え、すぐにでも研究が開始できる条件で研究者を迎え入れることにより若手に活躍のチャンスが与えられている[文献1p.138-160]。ちなみに、同研究所の2011年度総支出は17.7百万ドル(約14億円)とのことです[文献3]。アメリカではiPS細胞以前にES細胞による研究の蓄積がありますが、それに加えてこうした柔軟な体制のおかげで、iPS細胞研究においてもすぐに日本に追いつくことが可能だった、ということかもしれません。なお、ここに書かれた組織の特徴は、著者(新聞記者)の見た目による日本との違いが強調されていると見ることもできると思いますが、このような研究の進め方は、アメリカにおける幹細胞研究の柔軟な取り組みを示す例ともいえるのではないかと思われます。

ハーバード幹細胞研究所のやり方は、研究者の流動性が高いアメリカならではの体制という面もあるでしょう。また、山中教授も指摘するように、アメリカでは基礎科学に対する関心が高いこと[文献1p.163]、研究分野の垣根が低いという文化、研究現場でのヒエラルキーがなく若手が力を発揮できること[文献1p.159]にもよっているでしょう。しかし、研究の目標に応じて、組織や体制を柔軟に作っている点は参考になる点があると思います。特に、リーダーやマネジャーが目的に応じて、組織の形態や運営方法までも最適と思われるものに作り上げていく点は、研究マネジメントにおける創造性の発揮ともいえるのではないでしょうか。既存の組織ややり方にとらわれることで研究に障害が発生しないよう、十分に注意して研究を進めていただきたいと思います。

iPS細胞の研究は、従来できなかったことが可能になる、従来のやり方をシンプルに行なうことができる(受精卵を壊すES細胞のような倫理的問題がなく、技術的にも易しい)、という破壊的イノベーションの特徴を備えていると思います(典型的な例とは言えませんが)。もし、この技術が破壊的な性格を持つのであれば、予測できない技術面や用途面の展開もありうると思われます。そうだとすると、技術の確立とともに、それをうまく実用化にもっていくためのマネジメントが非常に重要になるはずです。企業内でこの研究を行なうのであれば、小規模な投資で始めることが好ましいはずなので、大きな期待は持ちつつも小さな実用化を目指すアプローチも有効かもしれません。ちょうど今日、iPS細胞を用いた血小板製造技術開発成功のニュースが報道されましたが[文献4]、様々なアイデアが求められているのでしょう。現在のところ、「官」主導による大きな投資によって競争上優位に立つことが優先されているようですが、その成果を「産」に生かすにはどのようにマネジメントすべきか、試行錯誤的な取り組みも求められているように思います。

期待が大きいけれども不確実性の高いiPS細胞という技術が、どのようなアプローチによって花開くのか、やはり技術の開発、確立が重要なのか、それともそれに加えてマネジメントが重要になってくるのか、勝ち残るグループはどこなのか、どんなやり方をすれば勝ち残れるのか、何が成功のポイントになるのかなど、マネジメント上興味深い点は多くあります。この研究の進展をフォローすることによって、不確実性の高い研究をマネジメントする方法について重要な示唆が得られるのではないでしょうか。どんな形で花開かせることができるのか、大きな期待を持って見守っていきたいと思います。以上、傍観者としての感想なので、研究者の皆さんにはご不快の点もあるかもしれません。研究者の皆さんにはぜひ頑張っていただきたいと思って応援していますのでご不快の点はご容赦いただければ幸いです(援護射撃にでもなっていれば幸いです)。


文献1:朝日新聞大阪本社科学医療グループ著、「iPS細胞とはなにか 万能細胞研究の現在」、講談社、2011.

文献2:文部科学省、iPS細胞等研究ネットワークwebページより、「iPS細胞研究 再生医療への道 1. iPS細胞研究 過去最大の予算規模」、2010.4.8.

http://www.ips-network.mext.go.jp/column/regenerative_medicine/no01.html

文献3Harvard Stem Cell Institute Annual Report 2011よりFinancial Highlights

http://www.hsci.harvard.edu/2011AR/financials.php

文献4asahi.comより、「血小板、iPS細胞で限りなく増殖 京大グループ成功」、2011.12.11.

http://www.asahi.com/science/update/1211/OSK201112100166.html



参考リンク<2012.2.19追加>

 

「科学との正しい付き合い方」感想 (科学者とそれ以外の人との付き合い方?について)

企業における技術者はもちろん科学を飯のタネにしているわけですが、科学というものを十分に理解しているとは言えない人や科学に対する考え方の異なる人と付き合うことも必要です。研究マネジメントにおいては、経営者であったりいわゆる事務屋さんであったり自分と異なる分野の技術屋さんであったりという人を相手に、企画説明、予算交渉、成果報告などを行なわなければなりません。さらに、製品を市場に出すためには技術系以外の関係者の協力が必要ですし、顧客も科学技術者ではないことも多いでしょう。

 

そんなことから、科学を専門外の人に伝えること、いわゆるサイエンスコミュニケーションは重要だと思っています。最近この分野で、内田麻理香著「科学との正しい付き合い方 疑うことから始めよう」[文献1]という本が話題になっていると聞きましたので読んでみました。その感想を書こうと思ったのですが、この本についてはすでに発売直後からネット上で多くの議論がなされている[例えば文献2-5]ようですので、企業の一研究者(元)の立場から感じた点に絞って書いてみたいと思います。

 

この本では初級編「科学によくある3つの誤解」、中級編「科学リテラシーは『疑う心』から、上級編「科学と付き合うための3つの視点」が述べられていますが、著者の主張は最後の「あとがき」に最もはっきりと書かれているように思いますので、その内容を簡単にまとめてみます[文献1p.269-275]

 

本書で伝えたかった3つの柱

1、科学技術は私たちの身の回りにあふれている:科学アレルギーの覆いを取り外してみれば、科学技術は意外とチャーミング。科学リテラシー(科学を理解し活用する能力)は科学的知識と科学的思考法に分けられる。科学的思考法の基本は「疑う心」。

2、今の科学技術と社会の関係は、ぎくしゃくしている:科学的リテラシーを伝えようとする活動は理系目線に立ったものになりがち。だからうまく伝わらないのではないか。

3、読者のみなさんに、科学技術の監視団になってほしい:ご意見番として理系だけに任せられない。それは、理系の人は、普通の感覚からかけ離れている、科学技術の無批判な応援団になりやすい、理系の人が科学的リテラシーの持ち主とは限らない、ことが理由。

そして、読者への願いとして、次の2点が書かれています。

1、科学技術を疑いつつも、あたたかい目で見守る監視団になっていただきたい。盲従でもなく忌避でもなくほどよい距離感で。科学技術の「これから」を助けてほしい。

2、科学技術に対してのアレルギーを払拭し、新しいモノサシを手にいれてほしい。そのモノサシは、即効性はないけれども、必ずあなたの幸せにつながるツールです。

 

そのためには、もっと多くの人に科学のことをわかってもらいたい。伝える側、つまり科学者やサイエンスコミュニケーターにも問題はあるが、世の中の科学とは直接関係ない人にも科学的知識や思考法を身につけてもらいたい(知識よりも思考法が重要と言っています)。科学的な思考法としては、疑うこと、答えが出せないことはペンディング(保留)にすること、「わからない」と潔くみとめること、人に聞くのを恥ずかしいと思わないこと、失敗から学ぶこと、を勧めています[文献1p.89-135]

 

これらの主張は至極まっとうだと思いますし、多くの人が科学的な知識や思考法を身につけてくれたら研究者もずいぶん仕事がしやすくなると思います(もちろん、人を騙すような商売はやりにくくなるでしょうが)。また私は、著者がサイエンスコミュニケーターとしてこうしたことを目指すことも基本的にはよいことだと思います。しかし、以上の指摘が現在の科学やサイエンスコミュニケーションの抱えている問題点のすべてだとか、解決すべき最も重要な課題であるかのように思われてしまうとしたらあまり好ましいこととは思われません。ネットで沸き起こった議論の中にもそうした指摘はあったと思いますので重複は避けますが、私の個人的な感想としては、「疑う」という視点に加え、「信じてみる」という視点も加えて欲しかったです。「本当にそうか?」という視点とともに、「本当だとしたらどうなるのか?」という視点です。私は、新しいものを生み出すためには、疑う心によるチェックを受けた上で確立された理論を使うだけではなく、未完成の仮説をとりあえず信じて突っ走ってみることも必要だと思っています。著者は、読者として想定している一般の人は疑うことが少なすぎるのではないか、という点が問題だと考えておられるということかもしれませんが、要は両者のバランスではないでしょうか。また、著者は「答えが出せないことはペンディングする」べき、とも言っていますが、企業の技術者は答えが出せなくても場合によっては行動できなくてはだめなこともあります。その場合にはやるリスクとやらないリスクを秤にかけるような考え方が必要になると思うのですが、本書ではそういう考え方に触れられていないのも残念でした。

 

もうひとつ感じた問題は言葉の使い方と事例の引き方が不用意、乱暴なように思われた点です。そもそも「科学が身近」という意味が最初は理解できませんでした。「科学は難しいものと思うかもしれませんが、実は知らないうちに身近なところで科学的に説明できる現象を利用しているんですよ」ということを言いたいのだと思いますが、科学というのは現象自体を指す言葉ではなく現象を説明したもの、だと思っているので、説明が身近ということ???、という感じでした。さらに、面白ネタとしてのエントロピー増大と部屋が散らかることの関係(これを冗談だとわかる人には何の問題もありませんが)を取り上げていることも誤解を招きやすいと思いましたし、科学を宗教に例えること(狂信者という表現までしています)、科学に興味のある人や科学を支援している人を「マニア」とひとくくりにしてしまうことなども効果的な例えや用語だとは思われませんでした。著者はこうした表現の方が科学から縁遠い人にはわかりやすいだろうと思って書いているのかもしれませんが、私は、このような強い語感を持つ言葉や人によって受け取り方に幅のある言葉を使った表現は無用の誤解を招いたり、書いてあることが感情的で非論理的なように受け取られる可能性が高いと思います。実際にネット上での議論が巻き起こっていますので、著者がそういう反応を期待して故意にこういう言葉を使ったのであれば(著者のブログには故意に使ったような記述があります[文献6])、それはそれでよいのかもしれませんが、著者の伝えたいことが正しく伝わっていないとすれば、結局著者が損をしていると思います。

 

会社でもいろいろな説明をする時に、こういう強い表現をする人がいます。確かに一部の人には受けはよかったりするのですが、往々にして本人が意図していないようなところで誰かの怒りを買ってしまったりして、結局本人の主張を正しく理解してもらえず、本来の目的を達することができなくなる場合があるように思います。リスクの高い作戦と言えるのではないでしょうか。

 

もう一点、本書の本質ではないかもしれませんが、2009年秋の事業仕分けにおける科学研究費の問題についての扱い方についてネット上で議論があるようですので、私の感想を述べておきたいと思います。本書のなかで、仕分け人の「2位ではだめなのか」という趣旨の発言に対して、科学研究費の削減に反対するべく「科学マニア」あるいは「科学の狂信者」たちが示威行動をしたように書かれている点です。

 

まず、「2位ではだめか」について、企業の立場からははっきりと言えることがあります。特許は2位では取得できません。だから、特許が必要な場合には1位でなければなりません。ただし、ビジネスの成功という観点からは技術的に1位である必要はありません。ビジネスでは技術も含めた総合力が問題になってきますので、2位、3位、下位なりの戦略がありえます。従って、この点については個別の案件について、1位を目指すこと、2位以下でよしとすることのメリット、デメリットを考えて判断すればよいはずです。目標を高く持つこと自体はよいことだと思いますが、1位、2位という議論とは別の問題だと私は思います。

 

科学者たちの行動については、事業仕分けを「交渉ごと」と考えると私にはそれほど違和感がありません(私も狂信者だと言われればそれまでですが)。今回は、仕分け人の方は支出を減らしたい、科学者側は予算がほしい、そういう交渉であると見れば、交渉の場において、相手側に圧力をかけることは戦略としてよくある行動なのではないでしょうか。権威者や有名人の発言で自らの主張をサポートしたり、怒りの姿勢を見せること、支持者が多いと見せること、世論をあおることもその行動の一環でしょう。さらに交渉の場面では自らの本音を隠したり、演技をしたり、ということもよくあることです。著者はその裏に疑う姿勢の不足と、科学の権威化、教条化を感じておられるようで、私も実際にそういう要素が皆無ではないとは思いますが、交渉の場における態度だけでその人々の考え方まで決めつけてしまうわけにはいかないと思います。また、交渉のやり方という点では、科学者側にも問題があったとも思います。今回の交渉は結局予算の額をいくらにするのかを話し合っているわけですから、妥協点を求めての話し合いとなるはずです。最初はお互い自分の主張をぶつけ合うとしても(そこのぶつかりあいばかり強調されてしまったようですが)、それは交渉の出発点であって、そこから妥協に向けて多くの場合は双方が歩み寄ることになります。科学者側でどのような妥協点を準備していたのか、例えば予算を効率的に使う工夫や努力の跡を示すなど、妥協を有利に導くような材料の準備があったのかは気になります(報道されないだけ、私が知らないだけかもしれませんが)。

 

今回の事業仕分けは税金の使い方を変えよう、ということが原点だったと思います。今までは、景気刺激の名目で、多少無駄な支出であってもそれが金回りをよくして景気刺激につながるという考え方に基づき、お金の使い方は細かく問われない側面があったかもしれません。企業でも、利益処分のために研究開発投資を行なうという考え方をする人がいます。研究に投資して黒字減らしをして(税金の支払いを減らし)、何か当たれば儲けもの、という考え方です。しかし、企業の収益が上がらず苦しい状況にある場合には、研究開発費を減らすというオプションは当然ありうるわけで、苦しくとも研究投資を維持するか、それとも研究投資も減らすべきか、というのはそのメリット、デメリットを多面的に検討した上での経営判断となります。また、研究部門でも少ない投資で大きな成果を挙げるような運営上の工夫が求められることになります。国の財政でも、現在の赤字状態を放置できないという立場から支出を減らしたいならば、科学技術に対する支出も当然検討対象になるべきだと思います。もちろん、現在の科学技術は過去の蓄積の上に成立していますので、その技術を一旦捨ててしまうと再び元の状態に戻すことは容易なことではありません(多大な再投資が必要ということです)。従って、技術を捨てることには慎重な判断が求められることになりますが、資金をなるべく効率的に使う工夫は、科学者の側にも求められるはずです。個人的には日本の研究支出はもう少し多くてもよいのではないかと思っていますので、遠慮をする必要はないと思いますが、税金の使い方を変えようという時代の変化があるならば、それに対応して科学者の側も変わらないといけないのではないかと思います。こうした変化は既得権を持っている人には厳しいことかもしれませんが、既得権を保持すること、失うことについても含めて総合的なメリット、デメリット(当然金銭的な話だけではなく)の判断が必要なのだと思います。

 

以上、この本と、この本がネット上で巻き起こした議論について感じたことを書いてみました。「強い」言葉を使った表現についてはあまり好ましく思えないと上に書きましたが、敵を作るリスクを冒しても言うべきことは言いたい、という著者の覚悟を感じさせる表現であったことも事実です(そういう意図がないなら単に不用意ということですが)。この本だけで科学に縁遠い人に著者の主張をうまく届けられるとは思いませんが、サイエンスコミュニケーターとしては活動を始めたばかりでしょうし、そのスキルはこれから磨かれていくと思います。世の中における科学の認知度を上げることは有意義なことだと私も思っていますし、著者はそれに貢献できる可能性のある人材だと思いますので、とりあえずは今後の活躍に期待して注目していきたいと思います。

 

 

文献1:内田麻理香著、「科学との正しい付き合い方 疑うことから始めよう」、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010.

科学との正しい付き合い方 (DIS+COVERサイエンス)
文献2:小飼弾さんのブログ記事、「将を射んとすればまず馬を - 書評に代えて - 科学との正しい付き合い方 -

http://agora-web.jp/archives/1002762.html

内容についてのコメント:「科学の成果物たる理論とのつきあい方を指南する本としては傑作とは言い難い」としながらも「『科学者を疑え』と言った点は画期的」と述べられている点、なるほど、です。

文献3:瀬名秀明さんのブログ記事、「科学との正しい付き合い方」

http://senahideaki.cocolog-nifty.com/book/2010/05/post-d4f8.html

内容についてのコメント:「物事を全体的にとらえ、それぞれを吟味し、総合的に判断したいと願う心」の一部にある疑う心をそれだけ取り出して論じるのはいびつな議論であるという点、また、科学者集団のふるまいは「仲間意識から生じる好奇心の歪み」が問題なのではないかという点、重要な指摘だと思います。

文献4Mochimasaさんのブログ記事、「『科学との正しい付き合い方』のダメなところ書評」

http://d.hatena.ne.jp/Mochimasa/20100429/1272558924

内容についてのコメント:本書中の不用意だと思うような記述についての批判があります。こういう批判を「難癖」と捉える人もいるとは思いますが、こういう受け取り方をされるリスクを本書の著者はどう考えていたのだろう、と思いました。

文献5:ブログ記事、「ゆるがせにすべきではないこと(「科学との正しい付き合い方」内田麻理香)」

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2010-05-03-2

内容についてのコメント:おそらく科学関係者ではない方の記事です。一部の表現にやはり違和感を持たれているようです。

文献6:著者ブログ記事、「新著「疑う力を阻害するもの『科学教の狂信が思考停止に』」」

http://ameblo.jp/marika-uchida/entry-10518383971.html


参考リンク<2011.8.14追加> 

 

 

 

 

ノート14:研究成果の転用

ノート13では研究開発の成果を研究実用化のために活用するプロセスについて考えました。これは研究の本来の目的に沿った成果活用の方法ですが、研究の成果というのは「知識」に他なりませんから、その知識は他の目的に使用することもできるはずです。そうした成果の活用を「転用」と表現してしまうのは乱暴ではありますが、ここで付随的な目的への研究成果(知識)の活用について考えてみたいと思います。

 

研究開発成果(知識)の転用

研究によって得られる知識の付随的目的への活用としては、まず特許について考えておくべきでしょう。研究によって有用な知識が得られた場合、それを特許化しておくのは、通常は当然のことと考えられます。これは、特許化によりその知識の独占的使用が可能になり、競争相手との技術的差別化につながるためですが、残念ながら特許さえあれば万全というわけではありません。特許に関しては、以下の点に注意が必要でしょう。

・技術を公開しなければならないこと:真似されたり改良されたりする可能性がある

・技術を独占しようとすると技術の普及の障害となること

・有期の権利(出願後20年)であること:権利保護のタイミングと実用化のタイミングが合わないことがある

・コスト構造の異なる国では、実施者からライセンス料をとっても競争力確保にならない場合があること

・多くの技術ではすべてを特許で押さえることは困難な場合が多く、回避技術が開発されてしまう可能性があること

・特許の本来の目的である「発明を奨励し、産業の発達に寄与させる」という趣旨に反し、他社の業務の妨害や、訴訟や回避技術の検討などによる労力の浪費につながる可能性があること

したがって、丹羽は、「結局のところ、技術的なアイデア(発明)が付加価値の源泉であって、特許はそれを保護する1つの方策である」と述べ、「技術的なアイデア(発明)を競争上いかに有利に展開するかには、多くの方策がある」と述べています。具体的には、特許取得による独占、ライセンス収入、クロスライセンス以外に以下のような方策を挙げています[文献1p.52]

・自社技術の延長上に業界の標準規格を定める

・技術を無償公開しデファクトスタンダードにする

・自社のビジネスモデルが対象としているバリューチェーンの価値を高める

・技術を秘密にしておく

 

もちろん、特許取得の効果は、業種や業界によって異なりますので画一的な議論はできませんが、特許はイノベーションを実施する上でのひとつの手段であって、それが直ちにイノベーションによる成果の獲得に結び付くものとは考えない方がよさそうです。なお、こうした特性を考えると、特許の出願数や権利化数を技術力や研究成果の評価の指標として用いることには慎重な判断が必要と思われます(単に数を指標とすることは、技術の質を考慮していないという問題もありますが)。

 

研究によって獲得された知識をさらに広くとらえ、外部から得られた情報や経験、失敗例なども含めて考えると、それを別の目的に転用する可能性も広がってくると考えられます。特に、既存の知識の組み合わせが新しいアイデアにつながる場合があることを考えると、こうした知識の活用も重要と思われます。

 

どのような知識がイノベーションに役立つかについて、野中らは、「組織的知識創造」の概念を提示しています[文献2]。この理論では、個人と組織における暗黙知(言葉や文章で表わすことの難しい主観的、経験的知識)と形式知(言葉や文章で表現できる客観的な知識)の相互作用が重視されており、暗黙知や知識変換、知識移転が重視されているところなど研究者の実感とも無理なく調和がとれていて、イノベーション成功のメカニズムについて重要な示唆に富むものと思われます。しかし、この理論に基づいて展開が試みられたナレッジマネジメントは、一時期活発に検討されたものの現在は「行き詰まり」[文献1p.327]の状況にあるようです。野中らにより提示された哲学的、理論的アプローチから実用性を重んじる方向への展開がうまくいかなかったことが停滞の原因になっているようで、結局職場の良き人間関係を作ることが知識創造につながる(von Krough)とか、ナレッジマネジメントと言っても実体はIT化による業務効率化の提案にとどまるなど、実用面での有効な方策の提示には至っていない点が課題と言えるようです [文献1p.317,328]

 

しかし、こうした知識変換や知識の移転がイノベーションの成功のために有効であることは疑いのないところではないでしょうか。結局のところ、重要な知識を持った人の活用とコミュニケーションの活性化に帰着してしまうのかもしれませんが、ナレッジマネジメントについても様々な改良の余地があるように思われます。例えば、従来、あまり顧みられることのなかった失敗に関する知識[例えば文献1p.210](これには、「失敗学」という分野も提案されています[文献3])や、すでに却下された古いアイデア[例えば文献4p.195]、知識のある人との人脈[文献5p.117]、少数意見や反対意見[文献5p.173]の有効活用の可能性も考えるべきでしょう。さらに、知識移転のための仕組みづくりとしてのIT技術は、現在はまだ有効に機能するレベルにはないとしても現在の技術発展の多様性とスピードを考慮すると、将来的な可能性はあると思われます。もちろん、単に知識のデータベースを構築すればよいというものではないはずで、Dixonは、データベースへの知識の蓄積がうまくいかない理由について、「自分と関係なく,連絡することもなさそうな人たちがアクセスするデータベースに入力することで得られる個人的な利益はほとんどない」「情報を共有するのは、そうすることによって個人的な利益を得るからだ。その個人的な利益とは、他人に自分の専門知を認めてもらうとか'ほほ笑みが返ってくるぐらいだったかもしれないが」と述べています[文献6p.12]IT技術を使うにしても、なぜ人間は自分の持つ知識を他人に伝えたくなることがあるのかを理解した上での仕組み作りが必要ではないでしょうか。また、知識を組み合わせて新しいアイデアを創造する過程にも工夫が必要でしょう。丹羽は、単なる寄せ集めの状態から総合力を発揮するまでの方法を段階を追って提案しています[文献7p.84]。それに倣って言えば、知識を化合させるための仕組みづくりが重要ということになるのでしょう。

 

知識の活用については、結局のところ、「厳密にいえば、知識を創造するのは個人だけである。組織は個人を抜きにして知識を創り出すことはできない。組織の役割は創造性豊かな個人を助け、知識創造のためのより良い条件を作り出すことである」[文献2p.87]に尽きると思います。現在のところ、知識を効果的にイノベーションにつなげる具体的方法はまだ模索中のようですが、この状態は、ちょうど研究開発目標に向かって様々な試行錯誤を行なっている状態に似ているような気もします。イノベーションの源泉として知識の活用を図るという基本的な方向はおそらく誤っていないと思われますので、まさにマネジメントのイノベーションが求められているのかもしれません。

 

 

文献1:丹羽清、「技術経営論」、東京大学出版会、2006.

文献2Nonaka, I., Takeuchi, H., 1995、梅本勝博訳、「知識創造企業」、東洋経済新報社、1996.

文献3:畑村洋太郎、「失敗学のすすめ」、講談社、2000.

文献4Anthony, S.D., Johnson, M.W., Sinfield, J.V., Altman, E.J., 2008、栗原潔訳、「イノベーションへの解実践編」、翔泳社、2008.

文献5Leonard, D., Swap, W., 2005、池村千秋訳、「『経験知』を伝える技術」、ランダムハウス講談社、2005.

文献6Dixon, N.M., 2000、梅本勝博、遠藤温、末永聡訳、「ナレッジ・マナジメント5つの方法」、生産性出版、2003.

文献7:丹羽清、「イノベーション実践論」、東京大学出版会、2010.


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