研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

科学

科学とエンジニアリング(「エンジニアリングの真髄」(ペトロスキー著)より

企業における研究開発を成功させるためには、いわゆる科学も、エンジニアリングも必要です。多くの企業研究者はそう考えていると思うのですが、立場の異なる人も同じように考えてくれるとは限りません。今回は、科学とエンジニアリングをどう捉えるか、どのように使っていくべきか、といった問題について、ペドロスキー著「エンジニアリングの真髄 なぜ科学だけでは地球規模の危機を解決できないのか」[文献1]に基づいて考えてみたいと思います。

科学とエンジニアリングの違い
・「科学は『知る』が仕事、エンジニアリングは『やる』が仕事だ。・・・しかし、科学とエンジニアリング、あるいは科学者とエンジニアは、つねに簡単に区別がつくわけではない。両者の目的や手法にはかなり重なる部分があるからだ。[p.28]
・「いわゆる科学的手法とエンジニアリング的手法とはよく似かよっていて、区別するのはとても難しい。しかし、エンジニアと科学者がほとんど無意識に、エンジニアリング分野と科学分野を行ったり来たりできることを考えれば、これはそう驚くようなことではないだろう。[p.85]
・「エンジニアリングと科学の分野を自由に行き来し、それによって有益な結果を引き出す科学者やエンジニアの能力は、地球にとって必要欠くべからざる能力だ。[p.96]

科学とエンジニアリングに対する周囲の認識
・「なぜ、わが国の新聞や一般的な用法では、科学とエンジニアリングが混同され(そしてしばしば後者が除外され)ているのだろうか。[p.31]
・「『職業ごとの相対的な社会的地位を評価してもらったところ、エンジニアリングの順位は中間ぐらいで、医学、看護、科学、教育よりずっと低かった』という。[p.44]
・「科学者がエンジニアより上と思われているのは、・・・科学の研究対象が高尚なのに対して、エンジニアリングの成果が泥くさいということに関連しているようだ[p.46]」。
・科学者のなかにも『私たちのやっている科学には、どんな条件のもとでもいかなる実用性もないと思い、それを誇りにしていた。断固としてそう主張できればできるほど、ますますすぐれているような気がした』という考えをもつ人もいる。[p.46]
・「現代のエンジニア像がくっきりと見えないのは、ひとつには科学者に近すぎるせいだ。・・・というわけで、そしてまたおそらくひとりひとり個別に見るのが面倒なためもあって、無頓着なジャーナリストや一般の人々は、エンジニアをすべてひっくるめて『科学者』というくくりのなかに放り込んでしまうことが多い。[p.58]

科学とエンジニアリングの位置づけ
・「問題を科学的に解明し、それをエンジニアリング的に解決することが必要[p.63]」。
・「最先端のエンジニアリングの成果が科学の進歩に不可欠なのは、高エネルギー物理学にかぎったことではない。[p.66]
・(例えば、工学的構造物の構造の選択の際に)「選択規準として科学的分析が役に立つことはあるだろう。しかし両者の違いを見極め、どちらを選ぶか決めるのはエンジニアだ。エンジニアが物理学的(および経済的)問題を考慮して選ぶのであって、物理学が選ぶのではない。」[p.67-68]
・「蒸気機関、動力飛行機、ロケットなどその他さまざまな事例は、技術のほうが科学に先行していたことを示す明白な証拠になっている。要するに、基礎研究は古くから、技術開発をヒントに、またそれを動機として行なわれてきたのであり、両者は不可分の関係にある。そしてしばしば、技術のほうが科学を先導してきたのだ。[p.148]」
・1945年7月にトルーマン大統領にヴァニーヴァー・ブッシュが提出した報告書において、「病気を克服するため、新しい製品や産業や職業を生み出すため、また国防に役立つ新兵器開発を可能にするためには、自由な基礎研究を通じた科学の進歩が不可欠であると主張されていた。『基礎研究は科学の資本である』とブッシュは書いている。彼の考える研究開発のモデルは明らかに直線的で、基礎研究の次に応用研究、そのあとに技術開発が来るというものだった。・・・しかし・・・科学技術の歴史からすればブッシュのモデルは妥当とは言えない。[p.146]」
・「開発重視の計画が科学的な障害にぶつかった場合、資金配分の比重はいつでも変えられる。しかし、明確な目標のない基礎研究に予算を先に注ぎ込んでしまったら、目の前にある問題の解決には無関係な、役に立たない知識がもたらされるだけで終わる危険もある。科学者が基礎的な知識を求めて基礎研究をするのは、もちろんまちがったことではまったくない。しかし、いま目の前に具体的な問題があって、それを解決するために資金を割り当てられているなら、それはその資金を使うのにふさわしい道と言えるだろうか。現実的な火急の問題を解決したければ、R&Dの開発の側に努力を集中するべきなのだ。[p.163-164]」
・アーサー・C・クラークの「予言の法則」:1、著名だが年配の科学者が可能だと言うなら、それはほぼ確実に正しい。しかし不可能だと言うなら、それは間違いである確率がかなり高い。2、可能と不可能の境界線を発見するには、その境界を少し越えて不可能の領域に足を踏み入れてみるしかない。3、じゅうぶんに発達した技術は魔法と区別がつかない。[p.68]
・「技術史研究者のトーマス・ヒューズによれば、『アインシュタインは、特許や発明に対して、一時のきまぐれではすまない大きな関心を抱いていた』[p.87]」。(実際冷蔵技術の特許を共同出願している[p.91])(注:本書では、アインシュタインは特許事務所に勤務したと書かれていますが、ウィキペディア[文献2]によれば特許庁(局)勤務となっています。)

エンジニアリングの特徴
・「どんな発明や設計にも、行く手に能動的・受動的な障害が生じる可能性はある。[p.97]
・「ある設計にひそむ問題点を予想し、それによって設計を修正するのはエンジニアリングの本質である。残念ながら、危険の徴候が軽視されたり、潜在的な問題が『そんなことは正しく使っていれば起こらない』などと言って片づけられたりすることもある。エンジニアや建築家なら、そのような希望的観測はつつしむものだ。[p.124]
・「制約を満たすために、機械やシステムを設計するのがエンジニアリングというものだ。・・・さまざまな代替案を考慮し、目標により近づけるほうを選択する。制約条件どうしが両立しないこともしばしばだ。・・・こういうときはどこかで妥協するしかない。[p.204]」
・「エンジニアリングは、たんに既存の知識を創造的に応用して、かつて存在しなかったものを生み出すというだけではない。たとえ既存の知識が存在しなくても、つねに前に進みつづけるのがエンジニアリングの本質なのだ。[p.228]」
・「科学的予測には、100パーセント確実はありえない。[p.241]」
・「将来の事象については、それがいつどこで起こり、どんな影響が生じるか、絶対確実に予想できるほどのデータがそろうことはまずない。しかし『確実性』がなくても、適切な決断が下せる見込みを大きく高めることはできるものだ[p.255]」(ギャリック)
・「エンジニアはなんでもよりよくしようとするが、なにものも完全無欠にすることはできない。それが、エンジニアリングの産物に特有の根本的な欠陥であり、そしてこの欠陥こそが変化をうながす原動力であり、どんな業績も完全な到達点ではなく、通過点になってしまう原因なのだ。・・・今日の技術でまだ足りない部分を特定できれば、なにが未来の標準になるかかなりの確信をもって予測できるのだ。と言っても、未来がどんな形をとるか正確にわかるというわけではない。ここで思い出すのは、エンジニアリングは数学とは異なり、解はひとつとは言えないということだ。[p.263-264]」
・「工学的システムは、かならずしもよいほうへ進化していくとはかぎらない。[p.279]」
・「派手な新技術だけでなく、地道な保守、検査、現実性チェックにも投資して、みずからの長期的な健康に気を配ることが必要だ。建てたあとはろくに手入れもせず放っておいてよいような、工学的構築物など存在しない。[p.280]」

目指すべき方向
・「目標は科学やエンジニアリングそれじたいではなく、この地球とその住人を守ることである。全員が、ひとつの文化となるべく努力しなくてはならない。そして互いを無視したり、見下したり、軽んじたりせずに話し合わなくてはならない。[p.240]」
・「互いの尊敬すべき能力を理解しあうことで、協力はいっそう容易になるはずだ。[p.298]」
―――

科学と技術(エンジニアリング)の関係についての著者の主張のポイントは、科学と技術の協力が必要ということになると思います。すなわち、基礎研究→応用研究→開発研究、といういわゆるリニアモデル(直線的モデル)はあるべき姿とは言えない、というわけです。リニアモデルについてはその有効性が主張されることは少なくなってきていると思いますが、研究作業を細分化して分担させようとする立場からは理解しやすいためか、いまだにそのような考え方をする人もいるように思います。著者の主張の意味をよく認識しておく必要があるでしょう。

また、著者は、一般の認識として、科学はエンジニアリングよりも価値の高いもの、優れたものと認識される傾向があることも指摘しています。この傾向は、日本よりも欧米で根強い考え方のようにも思われますが、エンジニアリングの場合、どうしても金儲け重視と受け取られる傾向があることもそうした認識の一因になっているように思われます。科学者やエンジニアにもそうした考えを持つ人がいると思いますので、それが科学とエンジニアリングの共同作業の障害にならないように、科学者やエンジニアのモチベーションも考慮したマネジメントが求められるように思います。

なお、本書ではエンジニアリングの重要性が主張されていますが、著者は「知る」ための科学が不要だとは言っていません。知るための科学から得られる知識は、仮にそれが何らかの目的に直結しないものであっても新たなアイデアの源としての価値は大きいものです。加えて、知的好奇心を満たすという人間本来の活動も大切にすべきだと思います。エンジニアとして、私は「使えるものは何でも使うべき」だと思っていますので、すぐには使えなくても知識の資産を増やすことにはそれ自身価値があると思っています。要は、基礎研究、応用研究、エンジニアリングなどにどう資源を配分するかが重要なポイントになるということでしょう。そうした資源配分、さらには科学者やエンジニアへの動機づけ、協力体制構築、得られた知識の有効活用をよりよくマネジメントするために、科学とエンジニアリングの本質を理解することは重要なのだろうと思います。


文献1:Henry Petroski, 2010、ヘンリー・ペトロスキー著、安原和見訳、「エンジニアリングの真髄 なぜ科学だけでは地球規模の危機を解決できないのか」、筑摩書房、2014.
原著表題:The Essential Engineer, Why Science Alone Will Not Solve Our Global Problems
文献2:ウィキペディア「アルベルト・アインシュタイン」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

参考リンク<2015.4.5追加>



科学的な考え方をシンプルに理解する(小飼弾著「『中卒』でもわかる科学入門」感想)

技術者として時に経験することなのですが、科学的な(と私が思っている)考え方がうまく他人に伝わらないことがあります。科学に詳しくない人、科学的な考え方に慣れていない人を相手にする場合に特に起こりやすいのですが、相手が技術者や科学者であっても実は、それぞれが「科学的」と考えている見方には違いがあり、また、実生活上のことにどこまでそうした「科学的」な考え方を適用しようとするかにも個人差があって、予想外のところで話が通じない、議論がかみあわないことはよくあります。

技術者の話が経営者や顧客に伝わらないのであればイノベーション実現の障害ともなりかねません。また、科学的な考え方になじんでいるはずの人でもビジネスの場面では科学的に考えない人もいて、社内における意思疎通でも問題が発生することがあります。このように、科学に関するコミュニケーションは、技術経営を考える上で重要な問題ですが、社会全体としても、3.11震災と原発事故を契機として科学者とそれ以外の人がお互いをどう理解し、コミュニケーションすればよいかが注目されているように思います。ではその難しさの原因は何でしょうか。まず、科学的な議論をしようとすると科学的な知識がネックになってコミュニケーションのための基盤ができにくいことが挙げられるでしょう。加えて、一般の人にとって科学者という職業そのものや、科学者はどう考えるのかの実態が正しく認識されていないこと、さらに、身の回りの問題に対して科学的な考え方を適用することのメリットを一般の人があまり理解していないことも挙げられるでしょう。また、科学者側が科学的な考え方の正当性を押しつけようとし過ぎる(と一般の人が感じる)ことなどもあるかもしれません。

こうしたコミュニケーションの溝を埋めるべく、様々な一般向けの科学解説書が出版されていますが、今回は、小飼弾著「『中卒』でもわかる科学入門」[文献1]の内容をご紹介したいと思います。他の科学の解説書が、科学的知識、考え方や科学の実態(問題点も含めて)を伝えよう、科学に興味を持ってもらおう、という立場で書かれたものが多いのに対して、本書は、一般の人々が科学者とコミュニケーションするために、あるいは科学者や科学の成果をうまく利用するためにはどうしたらよいのかという点を、極力シンプルな形で提示しようとしているところに特徴があるように思います。著者は、「『どうしてみんな科学を学ぶ必要があるのか?』その問いに対する答えは簡単で、話をするためです。・・・『キミもボクも共通の指標、共通の物差しを使って話をしよう』、それことが科学です[p.97]」、「なぜ、サイエンティストでない人々にもサイエンスが必要なのか。わたしがわかったことをあなたに伝えるため、あなたがわかったことをわたしに伝えるため。あなたが何者なのか、わたしが何者なのか、全く知らなくても、発見と発明の喜びを分かち合える。[p.201]」、「科学は論理と実証を積み重ねていく学問ですが、科学者自身は正義の味方ではなく、しばしば間違いを犯します。非専門家が科学者よりも賢明な判断を下した例は少なくありません。[p.190]」、「科学者は一番偉い人ではなく、一番偉い人が参考意見を聞くための人なんですね。[p.192]」と述べています。著書では、科学者と一般の人々とのコミュニケーションの問題の他に、現在の科学の状況(問題点)、現在の課題への対処法についての著者の見解も述べられていますが、ここでは、科学コミュニケーションに関連する著者の考え方のうち、興味深く感じた点をまとめておきたいと思います。

専門家に話を聞くための「三種の神器」
著者は、「現代の科学は、非常に高度化し、一見すると素人には何をやっているのかさっぱりわからなくなっています。しかし、素人が研究の詳細をすべて理解する必要はありません。要は、専門家が出してくる数値がいったい何を意味しているのか、どういう理屈で結論が導き出されたのかがわかればよいのです[p.55]」として、以下の3点が重要だとしています[p.80]。
・四則演算ができること:四則演算をきちんと理解して使いこなせること[p.55
・単位の違いを理解すること[p.62
・論理的思考ができること:例えば、三段論法と背理法[p.75
さらに、これらに加えて、保存則(特にエネルギー保存の法則[p.84])を理解する重要性を指摘しています。まずは、これだけできればよいということをシンプルに提示しているのが本書の特徴だと思います。

科学に対する姿勢、科学や科学者の実態
著者は上記の主張に加え、科学の実態はどうなっているか、なぜコミュニケーションや科学的な考え方の理解が必要かを中心に、以下のような考え方を述べています。
・3.11震災で壊されたもののひとつが「科学に対する信頼性」[p.16
・「日本の問題は、科学や科学者をありがたがりすぎることにありました[p.17]」
・「科学者は、科学についてなら何でも正しい答えを知っているというわけではありません[p.18]」
・「優秀な科学者ほど感情や欲望が強いように、私には見えます。この欲望とは、権勢欲や金銭欲だけではなく、知的好奇心も含みます[p.39]」
・「人間が本来備えている五感は、科学的な事柄を扱うにはまったく不十分です[p.50]」
・「信用できる科学者はどう見分けていけばいいのでしょうか?一番単純で手っ取り早い手法は、経済的な利益を判断するということです。要は、ある主張があった場合、それを皆が認めると誰の財布にお金が流れるのかということ[p.100]」
・「何を言ったかではなく、誰が言ったかで物事を判断する。これを権威主義といいます。・・・なぜ権威主義とは正反対であるはずの科学者が、権威になってしまうのか?・・・私たちには、全ての主張を検証するだけの手間もなければ暇もないのです。・・・私たちのそれぞれが検証できるのは、それぞれが興味を持つ分野、得意な分野で精一杯。残りは権威に頼るしかないのです。[p.104-105]」
・「本物は『私のことを疑ってください』と言い、偽物は『私を信用してください』と言うものです。[p.111]」
・「科学とは定量的、論理的に考えることであり、その本質はごくシンプルです。これに対して、疑似科学はわからないからこそ、人を惹きつける。[p.116]」

・「ただし、アインシュタインは『シンプルすぎてはいけない』とも警告しています。[p.121]」
・「科学的な観点からすると原発はとても『筋の悪い』技術・・・。それは、事故を積み重ねていくことができないから。事故を積み重ねていくことで進歩していった代表的な例は、飛行機でしょう。・・・特に米国の事故調査においては、故意でない限り操縦者や整備担当者の刑事責任や民事責任を問わないことが原則になっており、情報の隠蔽を防いでいます。[p.122-123]」
・「巨大プロジェクトはうまくいくことが前提ではなく、『うまくいかないこと』を前提に進めるべきなのです。・・・よい意味で、アメリカ人は失敗慣れしているのです。・・・たんに手順をマニュアル化するのみならず、失敗を改善していくインセンティブを保ち続ける組織作り、こうしたノウハウについてアメリカには一日、や一日半の長があるように思えます。日本は高度成長期の状態に合わせて、組織体制や個人の働き方を最適化しすぎたのかもしれません。その状況下においては最適であっても、状況が変わると適応できなくなってしまいます。[p.151-153]」
・「私が見るところ、日本にはプロジェクト関係者のキャリアに『傷』が付くことを極端に恐れる文化があります。関係者とは、計画を承認した政治家、予算をつけた官僚、開発に関わったエンジニアなど、あらゆる人間を含みます。血税を投入した以上、絶対に失敗は許されない。少なくとも『これは失敗ではありませんでした』という口実がみつかるまではいつまでも続く・・・・・・。その意味で、日本は失敗者にとても厳しい国だと言えるでしょう。[p.173]」
・「私たちは、何が役に立つのかを事前に知ることはできません。・・・科学が役に立つことを要求され、役に立つとされたプロジェクトが補助金を国から受け取るようになると、そこから抜け出せなくなってしまいます。・・・国からの補助金を受けた事業は、採算を度外視できてしまうため、失敗した時の撤退が難しい。・・・国から補助金をもらうにせよ、民間企業で利益を上げるにせよ、現在の科学は役に立つことを強制されています。そして、そこで働く科学者は、科学を使ってカネを稼がないといけない立場になってしまいました。これが科学者のポジショントークを生むことにつながっています。・・・暴論だと思われるかもしれませんが、科学とは人類の『趣味』であるべきではないか。私はそう考えています。[p.158-163]」
・「先に私は『科学は趣味であるべき』と述べました。趣味でない場合、人には他人を騙すインセンティブが働き、簡単に邪な方向へと流れて行ってしまいます。・・・現代の科学者は常に誘惑に晒されています。補助金をくれる人に都合のよい嘘をつく、手っ取り早く評価されるためにデータを捏造するなど、私から見ていても論文の1つや2つでっち上げでもしないとやっていられないのではと思うほどです。だからこそ、科学者を使う立場の私たちは、科学者自身を疑うところまで踏み込まざるを得ません。[p.192]」
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こうした著者の主張は、もちろんひとつの見解にすぎません。科学的な議論をするために必要な考え方として著者の提示した「三種の神器」以上のものが必要だとする意見も当然あり得るでしょう。しかし、科学を扱っていない人に対して、科学者と対話し、科学に見せかけた論理に惑わされないようにしながら科学の実りを受け取るために必要なことは何か、それをできるだけシンプルにまとめた著者の考え方は重要だと思います。科学的な考え方に慣れ親しんでいるはずの科学者、技術者にとっても、著者の主張は、一般の人とのコミュニケーションを上手く行うためだけでなく、自らを戒める指針としても心に留めておくべきなのではないか、という気がしました。

もう一点、重要だと思うのが、シンプルな原則を提示しようとすることだと思います。科学に限らず、マネジメントの分野でも、いろいろな考え方を知るほど、その中のどれがとりわけ重要で、まず知っておくべき考え方は何なのかがわかりにくくなることがあります。その結果、枝葉末節にとらわれて本質を見失ってしまうこともあるでしょう。私自身、自分の専門分野についてはついつい話が細かくなってしまうことに気づくこともあります。著者は科学者ではなく、かといって科学の素人でもない、そういう立場の人だからこそ、科学者とそれ以外の人々をつなぐ方法をシンプルに提示できているのかもしれません。翻って、マネジメントをシンプルに理解するために必要なことは何なのか、著者のような視点でマネジメントを捉えなおすことも有意義なのではないか、と感じます。人間はあらゆることの専門家にはなりようがありません。だとすれば、少数のシンプルな原則を知ること、それは人間活動の様々な場面で役に立つことなのではないかと思います。


文献1:小飼弾、「『中卒』でもわかる科学入門――“+-×÷”で科学のウソは見ぬける!」、角川書店、2013.

参考リンク<2014.9.28追加>


一技術者からみた「源泉」(ジャウォースキー著)感想

今回は、ジャウォースキー著「源泉」[文献1]を取り上げます。ただし、正直、このブログで取り上げるべきかは少し迷いました。というのも、書かれている内容に理解できない(というよりは「受け入れ難い」)点が多かったためです。しかし、監訳者の金井壽宏氏や、帯にコメントを寄せられた野中郁次郎氏は、本書の内容の重要性をある程度認めておられるように思われましたし、ネットでもそれなりに評価されてもいるようで(私も、マネジメントの実践面では、ひとつの手法として意味がありそうに感じたところもありました)、なぜそれらの評価とは異なる印象を私が持ったのかを、考えてみることにしました。

著者の主張のポイントについての私の理解
著者が探究しようとしている基本的な疑問は次のようなもののようです。「知とつながって、まさにその瞬間に必要な行動をとれるようになる私たちの力の源泉は何なのか[p.31]」。リーダーシップの問題に関していえば、次のような経験、すなわち「私たちの小さなチームは、途中で放り出すことなく作業をやり抜いた。みなで力を合わせて作業している間、私はチームがエネルギー場に包まれているのをはっきり感じた。意識が研ぎすまされている。ふつうでは考えられないくらい頭が冴えて、ものごとの全体がわかるような感じがする。時間がゆっくりと進んでいく。私たちは、極めて難しい作業をまるで造作ないことであるかのようにこなすことができた。・・・チームのリーダーシップは必要に応じ、そのときそのときで切り替わった。私は意識することなく、また誰かに命じられたわけでもなく、行動していた。個人の判断で行動しているという感覚もなく、作業をしていた。私たちはまるで、達成すべきことを達成するために、道具として役立てられているかのようだった。しかし何より、私が衝撃を受けたのは、より深いレベルの知を自分が体現していることだった。これだ、と直観したことは常に正しかった。作業している間、私たちは必要な強さと、勇気と、辛抱強さと、精神力を持っていた。[p.18]」。確かにこのような「フロー」とも呼べるような状態が個人やチームに訪れることはあるでしょう。そうした状態が何によってもたらされるのか、人為的にそうした状態を作れるのかといった点は確かに興味のあるところです。

マネジメントの視点からは次のような問いになるでしょう。「企業家的な衝動の源泉は何か? 知とつながって、まさにその瞬間に必要な行動をとれるようになる私たちの力の源泉は何なのか?[p.23]」。「未来がどのように現れたいと思っているか、それをチームが感じられるようになるようなプロセスを開発すること、そして実際に現れさせることを。そのプロセスは、メンバーの意志と、あり方と、選択によって導かれるだろう。このプロセスの探究によって、どのような分野においても飛躍的な進歩となる変革が起き、今ある世界を変える知を創造することになるだろう[p.24]」。そして、著者らはその答えとして次のUプロセスに至ります。

U
プロセスのアイデアはブライアン・アーサーの考えに基づくとされ、「ひたすら観察する」(Uの左側)ことから始まり、「より深い知の場所に行く」(Uの底)を経て、流れに乗って素早く行動する(U右側)に至る、というものです[p.32]。それをさらに洗練して、Uの左側として、1)準備する(心のセルフマネジメントという規律ある道を歩み始める)、2)目標に向かって情熱を燃え上がらせる、3)観察し、集中する(判断を脇へ置き、存在するデータに集中する)、4)手放す(現在持っているメンタルモデルや、ものの見方や、世界観を手放す)を挙げ、Uの底として、5)内在とひらめき(その取り組みにどっぷり浸かり、その仕事に没頭し、その経験に夢中になる。・・・やがて啓示――新たな現実に対する知覚――を得て、隠された解決策を見出す)を挙げ、Uの右側として、6)結晶化とプロトタイピング(見出されるものを明らかにする)、7)テストと確認(新たな知を、有効な製品や決定や戦略へ変える)、というプラクティスとして提案されます[p.241-243]。

リーダーシップについては、以下の段階における第4段階のリーダーシップを目指すべきだとしています。[p.77-80
・第一段階、自分が中心になるリーダー:「信念がなく、自分の意思のほかにはおよそ何にも左右されない。しかもその意思とは、そのときそのときで変わる可能性があるため、彼らのあり方には誠実さが欠けている。中には、有利かどうかや自分自身の野心を第一に行動し、結果として高い名声や権力を持つ地位に就く人もいるかもしれない。
・第二段階、一定の水準に達しつつあるリーダー:「彼らは、公正さと礼儀とメンバーに対する敬意を何より大切にする。・・・その成功は、メンバーとともに、そしてメンバーを通して成し遂げられる」
・第三段階、サーバント・リーダー:「自分の権力や影響力を使って、メンバーの役に立ったりメンバーを成長させたりする。・・・『強い達成欲求』を示すが、組織のメンバーや社会の誰かを犠牲にすることはない。また、独立への欲求が強く、習慣に従わなければという気持ちはあまりない。さらには、適切にリスクをとろうとする傾向が強く、自己効力感が高く、曖昧さに対して寛容である。そのため、複雑で混乱した時代にあっても成功を収めることができる。」
・第四段階、新生のリーダー:「サーバント・リーダーの特徴と価値観を併せ持っているが、全体的なレベルが一段上がっている。・・・業績の中心には暗黙知を使う力があるが、この暗黙知を活かすと、私たちが望む組織や社会を思い描いて創り出すことを含め、画期的な考えや、戦略策定や、業務上の卓越性や、イノベーションを行うことが可能になる・・・。第四段階のリーダーは、宇宙には目に見えない知性があって、私たちを導き、創り出すべき未来に対して準備させてくれると確信している。

そして、Uプロセスは、「『4つの原理』に示される世界観を持って実践されると、最高の効果を発揮する[p.242]」とされます。4つの原理は次のとおり[p.10]。

(1)宇宙にはひらかれた、出現する性質がある。:一連のシンプルな構成要素が、新しい性質を持った新しい統一体として、自己組織化という、より高いレベルで突然ふたたび現れることがある。そうした出現する性質について原因も理由も見つけることはできないが、何度も経験するうちに、宇宙が無限の可能性を提供してくれることがわかるようになる。

(2)宇宙は、分割されていない全体性の世界である。物質世界も意識も両方ともが、分割されていない同じ全体の部分なのだ。:存在の全体――一つの物であれ、考えであれ、出来事であれ――は、空間と時間それぞれの断片の中に包まれている。そのため、宇宙にあるあらゆるものは、人間の意思やあり方を含め、ほかのあらゆるものに影響を及ぼす。なぜなら、あらゆるものは同じ完全なる全体の部分だからである。

(3)宇宙には、無限の可能性を持つ創造的な源泉(ソース)がある。:この源泉と結びつくと、新たな現実――発見、創造、再生、変革――が出現する。私たちと源泉は、宇宙が徐々に明らかになる中でパートナーになるのである。

(4)自己実現と愛(すなわち宇宙で最も強力なエネルギー)への規律ある道を歩むという選択をすることによって、人間は源泉の無限の可能性を引き出せるようになる。:その道では、数千年にわたって育まれてきた、いにしえの考えや、瞑想の実践や、豊かな自然の営みに直接触れることから、さまざまな教えを受けることになる。

どこが理解しにくい(受け入れにくい)のか
以上が、著者の考えについて議論するために抜き出しておくべきだと私が思った部分です。このうちUプロセスの具体的方法論は、知識創造や新たなアイデアを生み出し実現するプロセスのひとつのやり方として、考慮に値する考え方だと思います。また、リーダーシップの4段階についても、第一から第三段階までの進歩については異論がありません。しかし、Uプロセスの底である、ひらめきの段階で、宇宙にある源泉とつながることで発想を得るかのような説明、第四段階のリーダーシップにおいて宇宙の知性が導いてくれるというようなくだり、さらに、4つの原理の意味しているところは受け入れることができませんでした。

本書では、著者の主張の根拠とされる、様々なエピソードが登場します。量子もつれの話[p.98]が宇宙の全体性(あらゆるものがつながっているというような意味かと思われます)の根拠とされ、人の意思もつながりあっているという根拠とされているようですが、こうした考え方には論理の飛躍があると思いました。また、テレパシーやサイコキネシス[p.136]、遠隔透視[p.142]、予見的感覚[p.172]の例も、科学的な測定結果があることが述べられていますが、仮にそういうデータを認めたとしても、それが本書でいう「源泉」が存在することの根拠にはならないでしょうし、「源泉」と人がつながってこうした効果を発現させているということにもならないと思います。チームとしての一体感や精神的な高揚感、フローのような状態を理解するためにこのような事例を持ちだす必要もないのではないか、と感じました。さらに、ポランニーの暗黙知や知識創造プロセスについての考え方[p.192-200]も、著者の主張に合致するものとして取り上げられていますが、私にはその解釈はポランニーの意図とは異なる著者独自の解釈のように思えました。(他にもエピソードはありますが、いずれも著者の思想の正しさを裏付ける材料としては不十分だと感じました。)

このように、著者の主張は、受け入れられる部分と、受け入れ難い部分が混在している、というのが私の感想です。人の能力を引き出す方法、新しい発想を生む方法、知識創造の方法の各論的主張には、役に立ちそうな点もあるのに対し、その根拠とされている主張には、受け入れにくいものが多く、あえて述べる必要もないもののように思われます。もちろん、そうした「源泉」を探究しようとすること自体は意味のあることと思いますし、本書の主張を受け入れるかどうかは個人の自由だと思います。ただ、上記のような問題が感じられる結果、著者の主張は特に技術者や科学者には受け入れられにくいと思いますので、著者が考えるマネジメント手法の普及に意味があると考えるならば、もっと受け入れられやすい根拠に基づいて考察した方がよいのではないか、というのが正直なところです。

なぜ私にとって受け入れにくいのか
ある論理を受け入れられるかどうかは個人の考え方によります。著者の考え方が受け入れにくい理由を検討してみることで、私の考え方自体および、著者の主張を受け入れられる人との考え方の違いがはっきりするように思いましたので、私が受け入れ難く感じる根拠を考えてみました。

まず挙げられるのは、科学を扱っている者としてのバックグラウンドです。「『科学者たるもの根拠のない主張を受け入れてはならない』というのは、科学のエートスとして割と共有されている前提ではないかと思います[文献2、p.251]」という意見がありますが、私もそうした考えを持っています(もちろん、根拠があると認めるかどうかには個人の判断が関与しますが)。さらに、科学と非科学の境界として、ポパーによる反証可能性の基準、すなわち「そもそも反証があり得ないような仮説は科学としての最低限の条件を満たしていないだろう[例えば文献2、p.62]」という考え方は、多くのケースで有効だと思っています。こうした考え方に基づくと、本書に書かれた内容だけでは、著者の主張を科学的に根拠のあるものと受け入れることには躊躇せざるをえません。ただし、科学的に十分な根拠がないからといってその考え方を否定するつもりもありません。上記のエートスに従えば、反証可能でありながら否定的な根拠がない場合には、肯定も否定もできないものとして扱うべきでしょう。

こうした科学的判断に加えて、ビジネスとして科学、技術を扱う立場からの実用的な判断基準もあると思っています。実際、ビジネスとして成立している技術の中には、科学的に十分に解明されていないものもあると思いますので(例えば、ヒトや生物が関わる分野では経験に頼った技術というものも多いような気がします)、理由はよくわからないけれどうまくいく、というものもビジネスとしては可能性があるといってよいと思います。ただし、その場合でも次の条件は満たす必要があると思います。
1、技術的成果が再現できること(再現できる条件が明確なこと)
2、成果を再現できる条件が狭すぎないこと(ある程度技術に汎用性があること)
上記1の条件が満たされないと、顧客に対して製品やサービスの保証ができず、ビジネスとして成立しません。また、2の条件はビジネスとして必須ではないかもしれませんが、例えば、特定の人でしか実現できない技術(特定の人が持つ特殊な能力を前提とした技術)は、ビジネスの継続性や発展性の点で問題があるように思います。この基準は科学的な基準よりも甘いものですが、残念ながら本書に述べられた考え方は、上記2条件を満足しているとも考えられないため、やはり技術者としては受け入れ難いという印象になってしまうと思います。

もちろん、マネジメントや、技術の創造は一度でもうまくいけばそれで十分、仮に前提が正しくなくとも、終わりよければすべてよし、という考え方もありますので、そこまで否定するつもりは毛頭ありませんが、上述のような科学としての条件を満たさず、技術としての実用的な基準も満足できないような考え方では、少なくとも多くの技術者の理解や支援を得ることは困難なように思います。仮に本書の考え方でうまくいったとしても、次も同じ考え方でうまくいくという保証がなければ、技術者としてはそのリスクを容認しにくいですし、根拠の薄い考えを疑うことによる機会損失のリスクと、信じて失敗するリスクを比較すれば、その考え方に疑いを持つ方がやはり自然なように思われます。

以上、本書についての感想を述べましたが、確たる根拠のない考え方に基づいたマネジメント論は、実は本書以外にも多いのではないか、という気がします。例えば、経験至上の考え方、過去の特定の思想や事例に基づく考え方もその範疇に属するものかもしれません。また、科学的根拠を用いていたとしても、それが特定の分野にだけ偏ったり、考慮すべきことを無視したりすることも同じといえるかもしれません。こう考えると、何かに頼って正解を得ようとすること自体が危ういとも思えてきます。真実を知りたい、正解を得たいと思うのが人間の性であったとしても、実際には、「正解」ではなく、よりましな理解、よりましな選択を得ることしかできない、というのが実際のところなのかもしれません。


文献1:Jpseph Jaworski, 2012、ジョセフ・ジャウォースキー著、野津智子訳、「源泉 知を創造するリーダーシップ」、英治出版、2013.
原著表題:Source: The Inner Path of Knowledge Creation
文献2:須藤靖、伊勢田哲治著、「科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す」、河出書房新社、2013.


科学的判断の受け入れ(「代替医療のトリック」感想)

人は何を正しいと思い、何を受け入れるのか、人の判断には何が影響するのでしょうか。特に科学的な考え方が人の判断にどう影響するのかは、イノベーションや研究開発、科学と社会の関わりを考える上で重要なポイントになるでしょう。例えば、イノベーションを実用化する場面では、新しい技術や考え方を顧客(社会)に受け入れてもらわなければなりません。また、さらに広く考えれば、組織において人の行動をマネジメントするような場面でも、ある考え方を受け入れてもらうことは必要になるはずです。

しかし、人間の意思決定が必ずしも合理的に行なわれるものではないことは、今までにも取り上げてきたとおりです(イノベーションとあいまいな意思決定(判断の根拠は何か?、ヒューリスティクスの活用?)、いかに判断、予測するか(ダンカン・ワッツ著「偶然の科学」より))。実際、科学的な根拠に基づいていることすら合理的な判断がなされない場合もありますので、こうした人間の判断の傾向はきちんと理解しておくべきではないでしょうか。今回は、サイモン・シン、エツァート・エルンスト著「代替医療のトリック」[文献1]を参考に、科学的な考え方の受容と、人間の判断の問題について考えてみたいと思います。

著者は、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義しています。つまり、「科学の観点からすると、『代替医療は、生物学的に効果があるとは考えにくい』と言うことになる。」[文献1、p.11]ということです。しかし、著者によれば、代替医療は「何十億という人びとに用いられている」そうですから、科学的な考え方がうまく受け入れられていない例としてその理由を考えてみる価値があるように思います。

本書では、鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法についてかなり詳しく、またその他約30種類の代替医療について、その効果を主流派の医学で用いられている科学的評価法に基づいて評価した結果が解説されています。中には効果の認められた療法もあるものの、ほとんどが効果のない(プラセボ効果のみ)ものであり、好ましくない副作用を持つものすらあるとのことです。この結果は、私には説得力があるように思われるのですが、評価方法や結果に納得されない意見もあるということは非常に興味深く思いました。代替医療の効果に関する評価は本書をご参照いただくとして、本稿では、なぜそのような代替医療を受け入れる人が多いのか、科学的評価がなぜ容易に受け入れられないのか、という点にしぼって考えてみたいと思います。

代替医療に対する科学的評価が受け入れられない理由

著者はまず、「『代替医療はどれもこれもクズだ』という確固たる信念の持ち主もいるだろうし、逆に、『代替医療はあらゆる痛みや病気を癒やしてくれる万能薬だ』と言って譲らない人もいるだろう。」「すでに答えをもっているなら、たとえ何千件という研究から引き出された結果であろうと、今さら聞く意味はないだろう。」[p.16]と述べ、科学的な考え方を受け入れない人々の存在を認めています。その上で、物理学者のカール・セーガンの「提示された仮説は、とことん懐疑的に吟味すること。それと同時に、新しいアイディアに対しては、大きく心を開いておくこと。」という言葉を引用し[p.362]、このバランスを取ろうと努めた、と言っています。大きくまとめてしまえば、このバランスが取れないことが科学的評価が受け入れられない理由といえるのでしょう。

より具体的には、代替医療が支持される理由として次のような要因を指摘しています。「人々が代替医療に心惹かれるきっかけは、多くの代替医療の基礎となっている三つの中心原理であることが多い。代替医療は『自然(ナチュラル)』で、『伝統的(トラディショナル)』で、『全体論的(ホーリスティック)』な医療へのアプローチだと言われる。・・・代替医療の三つの中心原理は、誰もが陥りやすい罠なのだ」[p.285]。また、「治療法の効果をまのあたりにすれば、患者はそれを使ってみたくなるだろう。要するに、自分の経験こそは、何にもまさる証拠になるのだ。」しかし、「二つの出来事が立て続けに起こると、私たちはその二つに関係があるはずだと思ってしまう」[p.297]とも述べています。さらに、「確証バイアスとは、何が起こっても、先入観を強めるようなかたちでその出来事を解釈する傾向」[p.301]であり、代替医療の問題点が正しく認識できない原因にはこうした傾向の影響もあると考えられます。また、「世界中のどこで行なわれた調査でも、代替医療を使うきっかけの少なくとも一部は、通常医療への失望であることが示されている。」「調査によると、患者は、医師は自分のためにろくに時間を割いてくれず、思いやりも共感もないと感じている。それに対して、代替医療を受けている患者は、自分のために時間をかけ、理解と共感を示してくれることをセラピストに求め、セラピストはおおむねそれに応えている」[p.349-350]ということも、判断に影響を与えているのでしょう。加えて著者は、「イギリスで行なわれた調査からは、インフォームド・コンセントという、倫理的にも法的にもきわめて重要な基本方針に反しているカイロプラクターが、到底容認できないほど大勢いることが明らかになっている」[p.351-352]とも指摘しています。私見ですが、これは、実は患者の中にはインフォームド・コンセントを求めず、結果のみを求める人がいることと関係しているのではないでしょうか。なお、訳者は「科学に対する反感もまた、多くの人が代替医療に心惹かれる理由になっているようにみえる。」「代替医療にまつわる三つのキーワード(ナチュラル、トラディショナル、ホーリスティック)には、私たちの思考を停止させる強力な魅力があるらしい」[p.461]という指摘もしています。

以上が代替医療を使う側の考え方の問題といえる点です。このような要因により、代替医療を懐疑的に評価する視点が甘くなり、新しいアイデアの可能性ばかりが認識されていると考えることができると思います。さらに著者は、上記の要因に加え、人々をこれほどまでに代替医療に熱中させた責任者集団、つまり、環境の要因も指摘しています[p.322-364]。具体的には、以下の点です。

・代替医療の普及活動、支援(代替医療の導師、代替医療コースを持つ大学、代替医療を積極的にあるいは補完的に用いる医師)

・代替医療の信用を高める行為(代替医療を使ったり信じたりする著名人、一部の大学、医療関係者)

・代替医療に疑問を呈さない態度(医療関係者、一部の大学、代替医療の協会、政府と規制担当当局)

・代替医療に関する臨床試験情報の不足や誤解(関係者の告知不足、WHOによる誤解)

・代替医療および正統的医療に関する誤った、あるいは偏った報道(センセーショナルな報道をするメディア)

・代替医療を使おうとした患者に対して、採用を押しとどめる役割の不足

このような外部要因により、代替医療にかかろうとする側の判断がさらに歪められていると考えられるでしょう。

科学的な判断とその受け入れ

以上、代替医療を例に、データを科学的に認識し、科学的に判断を下し、それを受け入れることの難しさについて考えてみました。しかし、科学的な判断は代替医療の問題だけではありません。代替医療の問題は比較的わかりやすい事例だと思うのですが、科学と社会との関係、さらに広くは、何かの根拠に基づいて判断する場合にはすべて似たような問題がつきまとうのではないでしょうか。代替医療の問題にならって考えれば、科学的な判断に願望や感情が入ってしまうことには十分注意しなければならないでしょうし、判断にバイアスがかかる人間としての性質、環境に左右される可能性についても注意が必要でしょう。一般に技術者、研究者は一般の人よりは科学的なデータに基づく判断には慣れているはずなのですが、しかし、医療関係者であっても科学的根拠に基づく代替医療の評価に違いがあるということは、技術者にとっても判断の根拠は慎重に吟味する必要があるということを示していると考えられます。

さらに広げて、マネジメント上の判断についてはどうでしょうか。自分の経験や、有名人、権威者の経験ばかりにこだわっていないでしょうか。流行の概念に踊らされていないでしょうか。もちろん、マネジメントの世界では、医療の世界で用いられるような2重盲検試験や対照比較試験はできない場合がほとんどでしょう。また、判断の正しさを理論的に裏付けることも難しい場合がほとんどでしょう。加えて、人間の行動が関与する現象ですから、プラセボ効果を積極的に活用してもよいかもしれない点も科学的な判断とは違うと思います。しかし、代替医療の例で見たような人間の判断の危うさは常に念頭に置いておく必要はあるはずです。科学の世界でも、マネジメントの世界でも、仮説の懐疑的吟味と、新しいアイデアに対して大きく心を開くことのバランスをとることは重要なはずです。もし将来「科学的なマネジメント」と「代替マネジメント」の区別が生まれるなら、代替マネジメントには惑わされないようにしたいものです。



文献1:Simon Singh, Edzard Ernst, 2008、サイモン・シン、エツァート・エルンスト著、青木薫訳、「代替医療のトリック」、新潮社、2010.

 原著題名:”Trick or Treatment?, Alternative Medicine on Trial”

参考リンク



 


 

進化心理学からの示唆(「友達の数は何人?」ロビン・ダンバー著)より

人間の行動はどこまで予測できるのか。何に基づいて決まるのか。これは、組織をマネジメントする場合にも、市場動向を予測して製品を買ってもらおうとする場合にも、競争相手の行動を予測する場合にも重要なことでしょう。

人間は損得に基づいて合理的に判断するものだ、というのが従来の経済学や経営学における考え方だと思いますが、そうした人間観では不十分である、とする指摘が増えているように思います。行動経済学、ヒューリスティクス、心理バイアスの問題など、人間が合理的な判断を行なえない例や、そもそも合理的な判断とは何かを考え直さなければならないような例について本ブログでもいくつか紹介しました(ヒューリスティクスヒトは環境を壊す動物である利他性と協力人間の判断の問題)。

進化心理学は、人間がそうした合理的とは言えない判断をなぜするようになったのかについて、さらには生物としての人間の行動を予測、理解する上での重要な示唆を与えてくれるものだと思います。今回は、ロビン・ダンバー著「友達の数は何人? ダンバー数とつながりの進化心理学」[文献1]にもとづいて、人間の認知、判断の問題を考えてみたいと思います。

本書の主題は「つながり」ということになるでしょう。人間が集団で生活し、社会を構成するように進化してきたことは多くの人が認めるところだと思いますが、著者によれば「霊長類は大きな集団で生活する必要があり、そのため脳が大きく発達し」、「集団のサイズ(社会の複雑さと言いかえてもいい)と、脳のいちばん外側の層で、意識的な思考を主に担当する新皮質のサイズのあいだに見られる強い相関関係」に基づいて判断すると、「ひとりの人間が関係を結べるのは150人まで」[文献1、p.21-22]ということになる、といいます。この150人という数字が著者の名に由来して「ダンバー数」と呼ばれるもので、本書では、このことをはじめとして、人類の進化や個人のつながり、集団の形成、それに伴う社会との関わりなどについての様々なトピックスが紹介されています。ちなみに、原題は「How Many Friends Does One Person Need?, Dunbar’s Number and Other Evolutionary Quirks(訳せば、人には何人の友達が必要か?、ダンバー数やその他の進化のいたずら、でしょうか)」です。以下では、そのなかから、人間の判断に関わる話題をピックアップしてご紹介します(その他の話題も興味深いものが多いのですが)。

進化の結果としての人の判断に影響する要因

・オスとメスの違い:メスは社交性が重要、オスは戦い[p.14]。男性は女性より高リスクをとる[p.97]。「ほとんどの霊長類の場合、メスが無事に子どもを産んで育てられるかどうかは、ほかのメスの協力で決まる」ため、社交上手のメスほど多くの子孫を残す、とのこと。

・生物学的能力の違い:男性の目の錐体細胞(色を感じる細胞)は3種類、女性の中には4~5種類を持つ人がいる。すなわち、人により色の区別の精度が異なる[p.16]。これも社会性に役立つ顔色の判断に好都合なため?。

・血縁による相互の結びつきが強いと運命の波を乗り越えやすくなる[p.36]。血縁による結びつきは、強い安心感と満足感をもたらすため、とのこと。

・化学物質の作用:オキシトシンは人を信用しやすくする[p.59]。エンドルフィンは幸福感、満足感と深く関与(脳内鎮痛剤)し、集団の団結を促す[p.66, 218]。アンドロステノン、アンドロスタジエノンは異性に対する好みに影響[p.94]。

・遺伝子の有無により反応が異なることがある[p.110]。

・頭脳は連続性を扱うことが苦手。二分法に陥りやすい[p.185]。

もちろん、どの程度、これらの要因が理性的な判断に影響するかについては明確とは言えないと思います。しかし、人のすべての行動が理性に基づいたものではないこと、人が理性に基づいて判断していると思っていても実は理性とは関係ない生物としての特性に影響されている可能性があることは言えるのではないでしょうか。少なくとも、ダンバー数が、1人の人間が扱える集団の大きさに制限を加えているのと同様に、こうした要因も人間の理性的な判断に制限を加えていることは確かなように思います。すなわち、人間の行動を予測するためには、経済合理性に基づく行動だけでなく、このような因子の影響も考慮しなければならないということでしょう。

ただ、現状では、進化心理学の成果は人間行動の予測に使えるほどにはなっていないでしょう(本書で取り上げられている男女の問題に関しては使えるかもしれませんが――男女の問題は理性より本能ということかもしれません)。また、人間が平均としてそういう性質を持っていたとしても、平均から外れた人がどのくらいいて、そういう人たちが社会にどんな影響を与えるのかも考慮しなければならないでしょう。しかし、例えば経済合理性に基づく判断にしたところで、それによる予測の精度は似たりよったりかもしれない、といったら言い過ぎでしょうか。進化心理学が、人間の判断に関する従来の考え方を補完するものになるのか、それとも進化心理学の示唆の方が本質なのか、今後の発展に注目していきたいと思います。

ついでになりますが、著者は、進化研究の観点から、薬剤耐性菌の問題[p.125]、中国の一人っ子政策による男性過剰の問題[p.133]、世界の人口増加への懸念[p.149]にも言及しています。世界がかかえる問題に対して、著者は、「楽観論者は科学が何とかしてくれると言うだろう。」しかし、「科学はただ時間を稼いだだけだ。化石燃料の消費量が増えることや、廃棄物や余剰物をところかまわず捨てることがどうというより、とにかく人間が毎年どんどん増えていくことがまずいのである。伝統的な狩猟・採集社会は、むかしも今も自然にやさしかったという意見がある。残念ながらその主張は誤りであることが裏付けられている。そうした社会が自然を守っているように見えたのは、人間の数が少なくて、無茶をやっても環境が破壊されなかっただけだ。」[p.148-149]、と述べています。本稿の最初に書いた判断の問題とは離れますが、進化の観点というのは、このような人間の活動と考え方の本質を問い直すちからもあるのかもしれません。





文献1:Robin Dunbar, 2010、ロビン・ダンバー著、藤井留美訳、「友達の数は何人? ダンバー数とつながりの進化心理学」、インターシフト、2011


参考リンク

 


 


 

「テクノロジーとイノベーション」感想

ブライアン・アーサー著「テクノロジーとイノベーション」[文献1]の感想です。日々の研究開発活動は、テクノロジーとは何か、技術とは、科学とは、といったことは考えなくても進められます。しかし、これらについての全体観(どういうものか、どう変化するのか、といったこと)を持っておくことは、自身が取り組む技術の性質を知り、将来の展開を考える上で役に立つこともあるように思います。今回は、テクノロジーについての総括的な議論を行なっている上記の本についてまとめておきたいと思います。

著者は、アメリカ、サンタフェ研究所招聘教授で、複雑系理論の開拓者のひとりとされる研究者です。原著は2009年刊、題名は「The Nature of Technology, What It Is and How It Evolves」なので、イノベーションというより、テクノロジーの本質とそれがどう発展するかについて議論している本です。新鮮味がないと感じられる方もあると思いますが、詳しい議論が丁寧になされていて技術者にも受け入れやすいのではないかと思いました。以下、著者の考え方に沿って、特に重要と感じた点をまとめます。

第1章~第4章では、テクノロジーの性質、原理、意味、テクノロジーの形成と働く枠組みについて述べられています。

第1章、疑問:基本的な問題意識は、次のとおりです。「現代の重要問題と変動を絶え間なく生み出しているのは、テクノロジーだ。」「機械が自然の力を手助けする時代から、(中略)自然を模倣し、代替するテクノロジーの時代へと移り変わっていく。」「その特質と仕組みは、私たちの将来と懸念を決定づけつつある」[文献1、p.18]。そして、「本書では、テクノロジーとは何なのか、そしてどのように進化するのか」について議論し、「テクノロジーの理論、つまり私たちがテクノロジーの働きを説明するときに利用できる『一般命題の矛盾のないまとまり』」を打ちたてようと試る、とされます。

第2章、組み合わせと構造:テクノロジーの3つの原理として、1)組み合わせ、2)再帰性、3)効果への依存が挙げられています。1)組み合わせについては、「テクノロジーはコンポーネントあるいはアセンブリを統合、あるいは組み合わせたもの」[文献1、p.46]として、それらが上位、下位の関係で、あるいは中核をなすものと支援するもの、という関係で全体としてのテクノロジーができあがる。この時、有効でよく使われるまとまりがモジュール化されて、組み立てや修理が簡単になるという効果を示す。2)再帰性とは、あるテクノロジーが「それ自体がテクノロジーである構成要素から成り立っており、その構成要素はやはりテクノロジーである下位のパーツから、その下位パーツもまたテクノロジーであり・・・という繰り返しのパターン」[文献1、p.54]。そして、このような特徴により「テクノロジーが固定化されていることはめったにない。常に構成が変更され、目的の変化に対応して再編成され、改良されている」と述べられます。

第3章、現象:上記テクノロジー3原理の、3)効果への依存とは、「テクノロジーは常に(物理)現象、つまり自然の理に依存しており、それを目的達成のために活用または利用できる。」[文献1、p.62]ということで、「テクノロジーとは、私たちが使うために現象を統合したもの」[文献1、p.71]。このとき、物質的な「現象」を非物質的な「効果」にまで拡張すれば、金融制度や契約、法制度なども「テクノロジーと見なせるようになる[文献1、p.74]。また、科学について、「テクノロジーは、主として科学によって明らかにされた現象を利用することで作られている。」そして科学は「テクノロジーが発達させた器具、方法論、実験を用いることで形づくられ」「互いに完全に依存している。」「科学は深く埋もれた現象を見つけ出し、理解するために必要であり、テクノロジーは科学を進歩させるために必要」であって、テクノロジーのない、思考と推測のみで成り立っている科学は「脆弱な科学」。すなわち、「科学はテクノロジーの一形態」[文献1、p84-.85]というのが著者の考え方です。

第4章、ドメイン―-目的を達成させる世界:「ドメイン」とは、効果の系統が共通していたり、共通の目的を持ったテクノロジーがグループとしてまとまったもので、「実践法と知識の収集、組み合わせのルール、関連した思考様式とともに、装置や手法を形作るために抽出されたもの」[文献1、p.90]です。そして「重要なイノベーションは新しいドメイン化によって行われていた」とされ、「新しいドメインの出現がもたらしたのは、ただそれができることだけでなく、潜在的な可能性だった。」[文献1、p.91]とされます。

第5章以下では、どのようにしてテクノロジーが生まれ、進化するかが述べられます。

第5章、エンジニアリングとその解決法:「テクノロジーは内部パーツを変えながら変化していく」「斬新な構造は新しい組み合わせを通じて生まれる」[文献1、p.114]。標準的なエンジニアリングとは「新しいプロジェクトを実行すること、既知であり認められた原理のもとで手法と装置を統合すること」[文献1、p.116]ですが、その中で行なわれる内部パーツの変化や新しい組み合わせは、役立つ問題解決法を生み出し、それが広まることでイノベーションやテクノロジーの進化に寄与するとされます。

第6章、テクノロジーの起源:ここでは根本的に新しいテクノロジーがいかにして生まれるかが議論されます。著者の定義によれば、「根本的に新しいテクノロジーとは、対象となる目標にとって、新しいかあるいはそれまでとは違う原理を元にしたもの」[文献1、p.139]。そして、発明は「目標あるいは必要性から始まって、それを達成する原理を見出す場合」と「現象または効果から始まって、その中に何かに役立つ原理を見出す」場合がある[文献1、p.142]。この時、「困難なのは、原理を適切に機能させることで、これにはときに何年もの努力を要する」[文献1、p.155]と述べ、新しい手段や方法を支えるのに「とりわけ重要なのが、時間をかけて蓄積された知識」[文献1、p.160]と述べています。

第7章、構造の深化:テクノロジーの発展の過程では、内部構造の交換と、コンポーネントやアセンブリの追加によって構造が深化していく。テクノロジーが成熟期を迎えると、性能が大幅に向上しない時期が訪れ、既存の原理が長期間安定した地位を確立するようになる。その原因としては、さらなる発展に必要な斬新な原理がすぐには得られないこと、経済的メリットや変化に対する心理的抵抗によって新テクノロジーの導入が遅れることが考えられる[文献1、p.171-180]、と述べられています。

第8章、変革とドメイン変更:単体のテクノロジーとドメインとは挙動が異なる。テクノロジーの進歩によってドメインは変形するが、「テクノロジーそのものが利用者に適応するまで本当の変革が訪れたとは言えない」。「ドメインを適応させるプロセスの期間は、(中略)新たなドメインを受け入れるために、既存の経済構造が再設計されるまでの時間で決まる。」「新しいテクノロジーよりも劣ると立証されていても、既存のテクノロジーは生き続ける」[文献1、p.200]。以上より、イノベーションには4通りのやや関連性のないメカニズムが存在する。1)一般工学にもたらされる新たな解決法に存在する。2)根源的に新しいテクノロジーに存在する。3)構造深化の過程で内部のパーツを交換し、また追加して発展するテクノロジーに存在する。4)テクノロジーの本体全体(ドメイン)に存在し、この全体は時間をかけて創発し、建ちあがり、その全体に遭遇した産業を創造的に変化させる[文献1、p.208]、と述べられています。

第9章、進化のメカニズム:「おおざっぱにテクノロジーは既存のテクノロジーから生じる」「人間の活動も一くくりにして考えるなら、テクノロジーの集合体は、“自己創出”する――それ自体から新たなテクノロジーを産出している」[文献1、p.213-215]。新たなテクノロジーの需要(テクノロジーが有益とみなされる機会のニッチ(適所))は、人間の繁栄を実現させるニーズの他に、個別のテクノロジーが以下の理由で直接生み出すこともある。すなわち、1)テクノロジーの存在自体が低コスト、高効率という目標を満たす機会を達成するためにあるため、機会が開かれている、2)テクノロジーには支援するテクノロジーが必要、3)テクノロジーは間接的にではあるがしばしば問題を引き起こす[文献1、p.222]。私見ですが、この3)は、忘れがちですが重要だと思います。

第10章、テクノロジーの進化に伴う経済の進化:「経済を“社会が自身のニーズを満たすための調整と活動の集合”と定義」すると、「広義のテクノロジーとも考えられる。」「“調整”をすべてテクノロジーの集合体に組み込むと、経済はテクノロジーの受け皿ではなく、テクノロジーをもとに組み上げた、意義のある存在とみなされるようになる。」すなわち、「経済とはテクノロジーの表現なのだ」[文献1、p.242-243]。

第11章、テクノロジー――この創造物とどう共存するか:この章では全体のまとめが述べられていますが、ここではマネジメントに関する指摘を取り上げたいと思います。「ハイテク経済における意思決定上の“問題”が明確に定義されていない。」「問題に対して最適な“解決策”もない。このような状況でマネジメントに課されるのは、問題を合理的に解決することではなく、定義されていない状況を理解できるようにする、つまり状況を“認識”すること、または状況を対処できる枠の中におさめることであり、同時にまた、状況に沿った形で提案を位置付けることなのである。」「ハイテク化が進むほど、処理業務の合理性はどんどん無くなっていく。」「テクノロジー思想家のジョン・シーリー・ブラウンは言う。『マネジメントは、もの作りからつじつま合わせに移行してきた』」。「マネジメントが競争優位を引き出すのは、蓄積した深い専門知識を新しい組み合わせ戦略へと転換する能力からなのである。」「現代テクノロジーの本質は一連の新たな変化を迎えつつある。ビジネス・マネジメントの分野では、生産過程の最適化から、新製品、新機能など、新たな組み合わせの創出へ、そして、合理化から意味形成へ、商品ベースの企業から技能ベースの企業へ、コンポーネントの購買から提携関係の形成へ、安定した運営から不断の適応へ。」[文献1、p.265-266]。さらに、人間とテクノロジーの関係について、次のように述べています。「人間は本来自然の中に存在するのであって、“信頼”しているのは自然であり、テクノロジーではない」。「本当はそれほど信頼してはいないのに期待だけは寄せている。」「テクノロジーの根底にあるのは自然である。」「だがテクノロジーが自然だとは感じられないのだ」。「大事なのは、テクノロジーを顔のない意思を削ぐ存在として受け入れるべきか、それとも、有機的で生活を豊かにするものとしてテクノロジーを所有するかだ。」「私たちは人間の感覚をなくすテクノロジーを受け入れるべきではないし、可能なものと望ましいものを同じだと考えてもいけない。」[文献1、p.271-274

以上が私なりのまとめです。著者の主張は特に目新しいものではない、当たり前の考え方である、と感じられる方もいると思います。また、異議のある方もいるでしょう。私もにわかには受け入れにくい考え方もありました。ただ、このような事例から導かれた考え方や解釈は、容易にその正否を決められるものではないと思います。少なくともかなり妥当な考え方が含まれているのではないかと思いますので、著者の主張に対する意見はさておき、一旦受け入れてみて、そこから何を引き出して自らの糧とするかが我々には問われるのではないかと思います。個人的には科学も経済もテクノロジーとして捉える考え方は面白いと思いましたし(この論理では人間活動は何でもテクノロジーだと強弁できそうにも思いましたが)、人間がテクノロジーに抱く不信感は、テクノロジーの変化の早さにヒトという生物が適応できていないと考えると納得できるものがあります。本書ではテクノロジーの本質や変化についてのマクロ的な考え方が述べられていますが、研究を実施する立場からは、ミクロ的に、個々の人間や企業が個々の問題をどう考え、対応し、その結果としてイノベーションの成功や失敗にどう結び付くのか、といった点にも興味があるのですが、研究の方向性を誤らないために、本書のようにテクノロジーを俯瞰的な立場から論ずることは有意義なのではないかと思いました。本書から得られる示唆をどう用いるかが我々の課題なのかもしれません。


文献1:Arthur, W. Brian, 2009、W・ブライアン・アーサー著、有賀裕二監修、日暮雅通訳、「テクノロジーとイノベーション 進化/生成の理論」、みすず書房、2011.

参考リンク<2012.9.2追加>


 

 

「不完全な時代――科学と感情の間で」感想

最近の科学と社会の関係変化を考える上で、「情報」は重要な要因でしょう。さらに、3・11震災後は「感情」の問題も避けて通れないように思います。今回は、TRONで有名な情報工学者の坂村健氏による著書「不完全な時代――科学と感情の間で」[文献1]を参考に、科学と情報、感情の問題について考えてみたいと思います。

人が判断を行なうプロセスにおいては、何らかの「情報」を「解釈」し、「考える」ことが行なわれますが、この「解釈」あるいは「考える」というプロセスは、必ずしも公正に合理的に行なわれるものではないことは多くの方が経験されていると思います。同じ「情報」に接しても人により判断が異なるのは、そこに心理的バイアスや好き嫌い、価値観など、いわゆる「感情」と呼ばれるような(その定義は曖昧ですが)要素が入り込んでくることが原因となっている場合もあると思います。

坂村氏の著書には、そうしたプロセスに関わる「情報」や「感情」の問題についての意見が述べられていて興味深い点が多くありました。本書は、新聞等に発表された氏のエッセイ等に加筆してまとめられたものですので、上記の問題に関する系統だった主張というわけではありませんが、著書の中から参考になると感じた部分を選び出して考察させていただきたいと思います。

坂村氏の問題意識は、「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代――そういう現代に対してどう向き合うか」[文献1、p.12]です。著書では様々なトピックスが語られていますが、ここでは、現代における「情報」の問題、「考え方」の問題、そこに影響する「感情」の問題について考えてみます。

「情報」の問題は、コンピュータの急激な発達とともに、近年の我々の生活に大きな影響を与えている問題のひとつでしょう。著者は以下のような興味深い指摘をしています。

・情報の非対称性[文献1、p.67]:例えば売り手と買い手の持つ情報に偏りがある場合、「情報の非対称性」がある、とされます。こうした状態は「偽装」を生む温床となり、また情報の少ない側ではそれを見抜くことができないため不安を感じ、その結果、根拠に乏しい不完全な判断に頼ってしまう、といいます。このような状況で「偽装」を防ぐために、日本では「長いつきあいの中での信用」を重視してきましたが、近年では監査、検証、罰則による高コストの「明示的保障システム」(こちらがグローバル・スタンダード)に頼るようになってきているそうです。トレーサビリティ(製造の全過程で、いつ・どこで・だれが・どういう処理をしたかを記録しそれを最終製品に結び付ける)確保により問題の原因特定を容易にすることで情報の非対称性に対応できる可能性があると著者は述べています。

・ネットは不特定多数への情報流布力に優れるが、信頼性が低い。信頼性担保のためには、同定可能で、過去ログなどで過去も信頼性の高い行動をしている主体であることを示しブランド化する必要がある。企業にとってはその会社の姿勢を示しブランド化することが必要。[文献1、p.94

・インターネット接続が社会の標準になってしまうと、ネット接続できない情報弱者のサポートが必要。これはもはや国の仕事ではないか[文献1、p.148]。

・情報技術はリアルタイムに感動を共有することを可能にした[文献1、p.179]。

「考え方」の問題については以下のような指摘があります。

・科学技術に関する正確な知識は避けて通れない。加えて、健全な懐疑主義――知識の一方的な詰め込みではなく、お仕着せの結論を疑い積極的に情報を集め自分で考える姿勢が必要。[文献1、p.19

・データに基づく議論が重要[文献1、p.26]。

・社会は複雑な問題に溢れている。それを単純化してはいけない。難しい問題を難しいと理解し、なお咀嚼する知的体力が求められている[文献1、p.43]。

・白黒をつけないのが東洋の知恵[文献1、p.99]。

・技術も大事だが、それと同程度かそれ以上に、その技術を社会につなげるための制度設計が重要[文献1、p.135]。

・行政に想像力を[文献1、p.136]:ここでいう想像力とは、いろいろな状況によって起こる結果を想像する力、という意味合いのようです。要は考えの前提を広げ、様々な前提において起こることを予測する力、と言ってもよいかもしれません。この想像力が戦略の元になると言っています。

・コンピュータシステムを考えるとき重要なのは、それが本質的に技術設計半分・制度設計半分の存在だということだ。「制度」の部分の比重がどんどん重くなっている。[文献1、p.196

・ユーザーも含めて関係者皆で問題がないように最大限の努力はする――こういうシステムをベストエフォート(最大努力)型という。誰かが全体に責任も持ってくれて、お金さえ払えばお任せで完璧な保障をしてくれる――ギャランティ(性能保証)型とは、設計思想として対極。ベストエフォートの集合で実現されているのが現代のネットワーク社会。問題が起きた時点で判断しそれが慣習法になるという英米法の国の方がベストエフォートに適している。[文献1、p.204,216

・絶対安全(設計製造に間違いがなく劣化もしていない製品は100%安全という考え方)は存在しない。安全も「機能」として実装し、「安全度」で語るべきスペックのひとつ(機能安全)、という考え方に変わっている。こうすることによって他のコストと比較可能になる。[文献1、p.210

「感情」の問題については以下の指摘があります。

・日本には、やり方を変えたくないという強い社会的慣性力がある。コストを決めるのは、実は技術ではなく、やり方を変える「勇気」。[文献1、p.58

・(日本人が)一番恐れるのは、実際の「危険」ではなく「未知の危険」[文献1、p.110]。

・映像の3D技術などは感情移入を促すことができる[文献1、p.183]。

感情の問題と考え方の問題は共通する要素がありますし、著者はそれを厳密には区別していないようです。そして、まとめとして次のように述べています[文献1、p.220]。

・「正しさ」に向けて、少しでも近づこうというプロセスが科学の本質。

・技術以降は、リスクとベネフィット、市場、コストとプロフィット、感情(公正や道徳、習慣や文化、認知バイアスなど)という評価軸を持つ。

・感情に関する問題を科学者は軽視しがちであり、相手の感情に立って他人に語りかけられる科学・技術の側の人は非常に少ない。

・科学者でない側も身につけるべきは「科学力」というよりも「合理的に判断する力」、自分の判断が単なる「感情優先」でないかと疑う姿勢。

・人々が正しく情報を得て、さらに正しい情報が常に得られるわけではないという不安にも向き合いながら、その中で最も確からしい判断をする。そして、その結果について諦観する。それこそ「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対してどう向き合うか」という姿勢なのである。

3・11震災以後特に顕在化した科学と社会の関わりの問題については、様々な立場の方がコメントを述べられています。この著書もそのうちのひとつですが、著者の立場もあって、「情報」に関する洞察が特徴になっていると言えるでしょう。しかし、広い意味での科学コミュニケーションが重要であるという結論は、多くの論調(ただし、建設的なもの)と同じ方向だと思います。ただ、「情報技術」というのは実用面では人間の思考と深く関わっているだけに、多様な思考、価値観も含めた感情の側面、社会生活への影響を強調している点で純粋科学の立場よりは具体的な指摘が多いと思いました。

例えば、信頼を得るためのブランド化、感動の共有、戦略の元となる想像力、制度設計の重要性、ベストエフォートの考え方などが興味深いと思いました(企業の立場としては、ベストエフォートという考え方をすべての分野に適用することは現段階では難しいような気もしますが)。企業の研究者であれば、もはや技術だけで勝負することが難しい時代になっていることは認識している方が多いと思います。研究開発の進め方としても、ビジネスモデルのような形で社会(市場)との関わり、制度を設計することは有効でしょう。その際、「複雑な問題を過度に単純化しない」とか「白黒つけない」、「諦観」といった見識は仕事を進める上で重要です。これは不確実性の高い研究では、すべての段階で単純化して理解したり、白黒をつけていられない場合もあり(当然、後での検証は必要です)、また上手くいかない場合には諦めも必要なので、実際の研究の場面ではよく行なうことではありますが、これは一種、理性で感情をコントロールしているということなのではないでしょうか。もちろん、理性的に判断がつくような課題であれば感情の問題はないかもしれません。しかし、答えの不明確な課題や、能力的に判断できないような課題に対しては、「最も確からしい」判断をすることで感情に惑わされない技術も必要なのではないかと思います。科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対しては、感情を抑え込んで対応するのか、感情の動きを理解して理性でコントロールするのか、という選択しかないのかもしれません。実はこれが「合理的に判断する」ということの本質ではないでしょうか。もちろん、状況によっては感情に基づく判断があってもよいと思います。しかし、理性的に判断すべき状況で感情に囚われて判断を誤っていないか、ということは常に心に留めておくべきでしょう。

なお、このような感情のコントロールは、自らの問題だけではなく、相手の感情に対しても言えます。もちろん、相手を自分の思い通りに動かす、というコントロールではなく、相手が自身の感情をコントロールできるように説明、説得する、ということになりますが、イノベーションの実現のためにはこうしたプロセスも必要なのではないかと思います。

科学技術コミュニケーションの場面でいえば、科学側からの知識の啓蒙だけではなく、合理的な考え方の啓蒙、すなわち科学的データを自身で解釈して自身で答えを出し、自身の感情をコントロールする方法の啓蒙も重要ということになると思います。科学者はどのような考え方をするのか、一般の人はどのような考え方をするのかを知るために、ひとつの問題について科学者と一般の方が一緒に考える、というアプローチもできるのではないでしょうか。科学では、白か黒かという見方だけではなく、白黒つけられない、あるいはあえて白黒つけない、という考え方をすることがあることをわかってもらえると相互理解に役立つと思います。ベストエフォートという考え方がこれに近いのかもしれませんが、理性的な考え方が社会に広まり、曖昧さを含む状況でも合理的な判断ができるように、科学の側も社会の側も徐々に歩み寄るような姿勢が求められているのかもしれません。文化や知識、考え方の異なる人々との相互理解は容易なことではないでしょうがその努力は必要でしょうし、それができれば現在の閉塞状況の打開につながるのではないか、という気もします。


文献1坂村健、「不完全な時代――科学と感情の間で」、角川書店、2011.

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