研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

科学コミュニケーション

誤解を生む原因は何か(垂水雄二著「科学はなぜ誤解されるのか」より)

コミュニケーションにおける誤解は、様々なトラブルや不快の種になります。特に、科学技術の話題の場合、誤解を受けたり、理解してもらえなかったりすることはよくあります。専門外の人には話の内容がわかりにくいためもあるとは思いますが、はたしてそれだけが原因なのでしょうか。

垂水雄二著、「科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの理由を探る」[文献1]では、特に科学の分野で、どんなことが誤解の原因になるのかがが述べられています。単に、ていねいに説明すれば誤解が防げる、という類のものではない誤解の原因とは何か、本書の指摘はコミュニケーションを実践する上でも役に立つと感じましたので、今回はそのポイントをまとめておきたいと思います。

第1章、科学的コミュニケーションを損なう要因
1、科学者の側の誤った情報発信

・捏造:「ほとんどの不正行為には、研究者自身の学問上の利益がかかわっている。学問上の利益は、研究費の獲得と学者としての業績(名声)に大別される。[p.17]」
・信念や思いこみ:「捏造という意識のないまま、自らの信念を裏づける実験結果をつくりだしてしまうこともありうる。[p.18-19]」
・悪意のない捏造:「データのねつ造はあってはならないことだが、データの取捨選択というのは、ある程度ならば、ほとんどの研究者がおこなっているといえるだろう。[p.24]」
・パラダイムの違いがもたらす誤謬

・「さまざまな理由で研究者は誤りを犯し、まちがった情報を発してしまうことがある。しかし、科学の最大の特徴は、その成果が累積され、つねに追試によって、誤りが正されていくところにある。[p.29]」
2、受け手の問題
・「受け手の側は、正しい情報と誤った情報を区別する必要があるのだが、学者でない一般人にとって見分けるのは容易ではない。多くの人は、科学的な根拠を考えるよりも、自分の考えに都合のいい発言だけを見つけ出して、それをよりどころにしがちである。[p.30]」
・正しい情報を知るためのヒント:「情報の発信者の信頼性」、「従来メディアの情報は、仕事の粗密はあるにせよ基本的に複数の人間による編集(エディション)・校閲という作業を経ており、それを通じて最低限の正しさが保証されている」、「一次情報に当たること」、「出典の明示」[p.31-33
・メディアによる歪曲:「記者が自分の偏見や思想のために、科学的に許容される以上の意味を読み取って誇張する」
・医学的効果は単純でない:「病気の原因と発症が単純な因果関係で結ばれていることはまずない。[p.38]」
・集団心理:「人間の心には騙しに弱いという性向が備わっている。[p.40]」

第2章、騙されやすさは人間の本質――知覚の落とし穴
1、比喩的表現の功罪
・「あらゆる感覚について、他人がどう感じているかは外からうかがい知ることはできない。・・・感情がどういうものかは、自分の感情を基本にして類推するしかない。[p.44]」
・擬人主義・比喩的表現:「科学啓蒙において、むずかしい概念をやさしく説明するために、擬人的な表現は時として必要である。しかし、たやすい理解には必ず誤解がつきまとう。・・・科学的に難解な概念や事柄を比喩的な表現によって理解するのは、自分の腑に落ちる部分だけをわかったつもりになるということでもある。[p.47-48]」
・科学用語:「研究者は厳密に定義して使うのだが、その言葉を受け取る側はその用語がもつ他の意味、つまり言葉が本来もっている『定義に含まれない』意味を読み取り、書き手の方もそれを暗黙の前提としていることがある。ここに、知の欺瞞への誘惑がある。[p.50]」
2、感じたことが事実とは限らない
・「知覚はあくまで脳が感じるものであり、どれほど知覚がリアルであっても、それが現実の世界とはかならずしも対応していない場合がある[p.56]」
・「補正能力」や「感覚順応」のため、「あるがままに感知するというのは至難のわざ[p.61]」
・記憶、体験談もあてにならない。[p.62-65

第3章、複雑な現象の理解は簡単ではない
1、条件反射的思考の弱点
・「生物が生き残っていくためには、不都合な状態を察知して逃れ、所定の目的をとどこおりなく果たすことができなければならない。進化の歴史を通じて、動物にはそういう能力として、反射行動を含めた生得的行動パターン、いわゆる本能が備わっている。」、「Aという出来事のあとにBという出来事が一定の割合で起これば、ABのあいだには相関(前後)関係があるといえるが、この相関関係を因果関係とみなして神経回路に組み込むのが条件反射である。[p.67-68
2、確率的事象の世界
・「確率論的な事象における因果関係を知るためには、統計学的手法が必要である。[p.77]」
・「集団の確率的事象と個人の事象は次元の異なるものであるという事実は、人間にはなかなか呑み込みにくい[p.95]」
3、統計の嘘
・「ある集団の性質について統計的な結論を得るためには、まず基本となる標本データが正しくなければならない。統計学的に言えば、無作為に抽出された標本でなければならない[p.97]」
・「統計でいちばん大事なことの一つは標本(サンプル)の数である。[p.99]」
・対照実験が必要[p.100
・「どの回帰曲線が妥当であるかの判断は、統計学的な精度だけでは決まらない。その式を成り立たせるような因果関係の推定こそが決め手になる。見ている現象の背後にあるメカニズムを考える研究者の想像力が問われるのである。[p.104]」
・「統計は見えないものをわからせてくれる強力な科学的武器ではある反面、数字を出すことによって、さしたる根拠のない推測を、まるで科学的な裏付けのある真理のごとく思わせる力がある。統計はあくまで手段でしかないことを肝に銘じておくべきである。[p.112]」

つづく、第4章と第5章では、ダーウィンの進化論における誤解と、ドーキンスの利己的な遺伝にかかわる誤解の例が取り上げられています。以下は、その中から他の分野にも有用な示唆を与えると思われる指摘を拾っておきたいと思います。
・「進化論が社会学にも使えることをいち早く理解したのが、ハーバート・スペンサーだった。スペンサーは生物界の現象である進化を人間の社会や文化にも適用できるものとし、社会進化論を提唱した。このとき彼が使った二つの造語が進化論の普及に大きく貢献するのだが、そこにも言葉のイメージによる誤解と歪曲の道が待ち受けていた。・・・『進化』を表す造語としてのevolutionは、それがあらかじめ定められた目的に向かっての展開であるかのような錯覚を抱かせる。・・・スペンサーが自然淘汰をsurvival of the fittestと言い換えたのも、進化が殺し合いによる生き残り競争であるかのようなイメージを与えた。[p.140-141]」
・「環境により適応したものがより多くの子孫を残すという自然淘汰の穏やかな作用は、血まみれの弱肉強食の闘いへと姿を変えてしまった。そして、強いものが弱いものを打ち負かしていいという資本主義・植民地主義擁護の論理へと転換していく。[p.142]」
・「優生学の創設者ゴルトンは、イギリス国民の劣化を憂い、それを防ぐために、才能ある人が多くの子孫を残し、能力の劣る人の繁殖を抑制する必要があると考えた。いってみれば自然淘汰がおこなう劣悪者の除去を人為淘汰によっておこなうという発想だった。・・・ドイツにおいては、・・・ヒトラーが登場し、米国における優生政策を手本に、・・・最優秀民族たるドイツ国民、アーリア系民族の繁栄という目的達成のためにユダヤ人の撲滅(ホロコースト)を画策した。[p.144-145
・「ダーウィンの進化論と社会ダーウィン主義との間には根本的な違いがある。後者には自然淘汰による形質の分岐、種分化という視点がまったく欠落していることである。具体的にはまず、<野蛮→未開→文明>、あるいは<黒人→黄色人種→白人>という風に、進化の系列を下等なものから高等なものへと直線的な序列と考えていることである。ダーウィンの進化はそれに対して樹状パターンをなすもので、単純にどれが下等でどれが高等とか言えるものではない。第二に、社会ダーウィン主義は、進化を進歩と同一視したことで、ダーウィンのように環境に対する適応が自然淘汰によって促進されるとは考えなかった。進化のメカニズムとして内在的な傾向を仮定していたのである。[p.146-147]」
・「『利己的な遺伝子』がいい意味も悪い意味も含めて多くの人の注目を集めたのは比喩の力だった。[p.178]」
・「『利己的』という・・・擬人的な言葉の使い方によって、一般の読者が・・・この本が人間の利己心や利己主義を擁護していると誤解してしまう・・・。・・・『利己的な』遺伝子という誤解を招きやすい擬人的な表現をあえて使わなければならなかった理由は何だったのか。それは自然淘汰の原理にかかわっている。自然淘汰は単位が生物個体であれなんであれ生存競争を通じて実現されるが、それはつまり、単位のそれぞれが利己的に振る舞うことを前提にしている。ダーウィンは自然淘汰の単位は生物個体であると考えたが、集団遺伝学に依拠する進化の総合説では、遺伝子が単位であると考える。利己的行動の進化にその違いをあてはめれば、利己的に振る舞う単位は個体なのか、それとも遺伝子なのかという問いになる。つまり、『利己的な遺伝子』というのはこの自然淘汰の単位のことをいっているのである。したがって『遺伝子が利己的だ』と言っているわけではなく、『利己的なのは(個体ではなく)遺伝子なのだ』と言っているのである。まことに逆説的なのだが、こういう観点は動物の『利他的な』行動の進化を説明するために生まれてきたのである。[p.171]」
―――


もちろん、本書に述べられた原因が誤解のすべての原因である、とは言えないと思います。しかし、大雑把に言えば、故意にせよ過失にせよ怠慢にせよ科学者の側の発信に問題がある場合、内容や意味が難しくて理解できないことや意識的ないし無意識的曲解などの受け手の問題、さらに伝え方の問題があり、誤解や内容が伝わりきらないことが発生する、ということなのではないかと思います。そしてそれが原因となって信頼感が損なわれ、ますますコミュニケーションが損なわれていくのではないでしょうか。科学的な内容の伝えにくさに問題の一端があることは確かかもしれませんが、本書の特徴は、言葉の選択という伝え方の問題によっても誤解が発生しうることを指摘している点でだと思います。著者は、「一般大衆へのひろい理解をひろめるためには、より魅力的な言葉遣いが必要だが、同時にそこには、誤解を招く要因も含まれることになるのである。本書は、科学コミュニケーションという側面から、科学用語の魅力と危うさについて論じたものである。[p.209]」と述べています。科学書の翻訳もされている著者ならではの重要な指摘だと思います。確かに比喩は説明スキルとして強力ですし、比喩的理解から新たな発想が生まれることもあるとは思います。しかし、比喩によるリスクもよく認識しておく必要があるといえるでしょう。

ビジネスの世界でも、コミュニケーションにおける誤解はよく起こります。自分の意見を述べるだけなら問題は少ないですが、自分の意見をサポートする「根拠、理屈」を説明したい場合には、それがどう理解されるかという点には注意が必要でしょう。自分が「根拠」だと思っていることが、受け手にとっては何の意味も持たないこともあるかもしれません。また、その「根拠」から新たな疑いが生まれてしまうこともあるかもしれません。マネジメントにおいても、動機づけのためには単にインセンティブを与えて命令するだけではなく、指示を受ける人が納得感を得られるようにすることが重要だと言われます。自分の意図が正しく伝わっているか、妙な誤解を生んでいないかは、折に触れて確認しておく必要があるでしょう。そんな時、自分が発信する情報がより正確で説得力のあるものになるように努力すると同時に、情報とその意味を正しく受け取れているか、コミュニケーションにおいて誤解されないような伝え方ができているかも再確認すべきなのだろうと思います。


文献1:垂水雄二、「科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの理由を探る」、平凡社、2014.

参考リンク



「科学嫌いが日本を滅ぼす」(竹内薫著)感想

現在、日本に充満している閉塞感を打破するために日本企業はどう行動すればよいのか。特に、科学者や技術者にとっては、科学技術をどう成果に繋げていけばよいのか、解決すべき問題は何なのかを考え、行動することは大きな課題といえるのではないでしょうか。竹内薫著、「科学嫌いが日本を滅ぼす」[文献1]では、こうした問題点を認識し科学と社会との関係を考える上でのヒントになる話題が取り上げられていますので、私なりの視点でのまとめと感想を述べさせていただきたいと思います。

まず、著者が「科学嫌いが日本を滅ぼす」と考えている理由を見てみましょう。「科学技術への関心の低さ、そして、もの作りの基本である物理学の履修率低下(現在の高校生の物理学の履修率は3割以下だそうです)(中略)その先に必然的に待ち受けているのは、日本の国力の低下であろう。誰もが科学技術にそっぽを向いている状況では、当然のことながら、エンジニアとして活動する人の母集団が小さくなる。本来、日本のもの作りを支えるはずだった優秀な人材の多くが、金融やサービス業などに流れてしまい、もの作りがダメになる。それが世界的な趨勢であれば、しかたないかもしれないが、欧米諸国では、科学技術の凋落は見られないし、お隣の韓国や中国にいたっては、国をあげて製造業をもり立てている状況だ。日本だけが競争から退場しつつあるのだ[p.12]」。「一般の人々は科学に(あまり)興味を示さず、また、科学者の多くも啓蒙活動を小馬鹿にしていて、健全なコミュニケーションが失われている。科学関連予算は減り続け、モノ作りの力は弱まっている。社会全体として、いざという時にも、科学的かつ合理的な判断よりも扇情的な発言ばかりがちやほやされる。」「自分の中で、『日本の科学はこのままでいいのか?』という強い疑念が生じてきた」[p.215]と述べています。

本書の表題が「科学嫌いが日本を滅ぼす」、となっているのはこうした背景からのようです。ただ、実際にはこの主張が系統的に議論されているわけではなく、本書副題の「『ネイチャー』『サイエンス』に何を学ぶか」についての具体的なエピソードが以下の構成に従ってとりあげられています。

I部:ネイチャーvsサイエンス:世界をリードしている(とされる)両科学誌の歴史とエピソード

II部:科学誌の事件簿:二重らせんスキャンダル、ES細胞スキャンダル、PCR法の開発者マリス博士のエピソード、遺骨鑑定問題、疑似科学

III部:日本の科学を考える:はやぶさ、英語、ノーベル賞とイグ・ノーベル賞、原発事故

特別鼎談:中川貴雄氏×中垣俊之氏×竹内薫氏

著者は、「『ネイチャー』と『サイエンス』という2大科学誌を分析することにより、日本の科学の「あるべき姿」を描き出そう、と考えた」[p.12]といわれています。そこで以下では、本書のエピソードから私なりに受け取った、科学のあるべき姿をまとめてみたいと思います。

科学界と科学者の実態

・「この2誌に論文が掲載されるかどうかが、科学界における立身出世の分かれ目になってしまった観もある」「権威ある科学雑誌に自らの業績を喧伝することが予算獲得において死活的に重要」[p.37](実際には、科学の分野によってどの雑誌が評価されるかは異なりますが、「ネイチャー」と「サイエンス」が比較的評価の高い雑誌であることには異論がありませんし、評価の高い雑誌への論文掲載が科学者の評価につながることは事実といってよいでしょう。)

・ただし、両誌に限らず掲載論文の質を高めるために採用されているピアレビューにも問題はあり、「科学者も人の子なのだ。やっかみもあれば意地もある。」「科学誌に残る大発見の論文の多くは、現代科学の根幹であるピアレビューを経ていない。」(多くかどうかは議論のあるところだと思いますが。)、「科学を進展させるためにピアレビューは進化した。だが、しょせんは人間がつくった制度である。過信は禁物だし、例外を認めることも忘れてはならない。」[p.38-39]とのことです。

・ネイチャーは商業誌、サイエンスは会員誌[p.48]。この違いは掲載内容にも影響する。

・賞の選考(成果の評価について):「科学者は自らの文化圏に影響されず、客観的かつ論理的に思考すると思われがちだが、そんなことはない」[p.163-164

・純粋な営みと思われている科学の世界にも、スパイ合戦、業績の横取りがある[p.89](ワトソン、クリック、ウィルキンスらによる二重らせんスキャンダル)

・「学校の勉強は、科学系の科目に限らず、本来は楽しく知識を身につけることに意味があったはずだ。でも、それは『理想論』にすぎない。」「人は誰しも競争を強いられるプレッシャーの大きな状況で、不正行為へと駆り立てられる場合がある」[p.91](黄禹錫(ファンウソク)元教授による研究論文ねつ造事件)。

・著者の実例:依頼されて書いた解説記事が著者の知らないうちに疑似科学系の本に掲載され、科学者のキャリアを失う[p.125]。

・寛容の精神:「最初から決めつけるのではなく、虚心坦懐に論文を読み、新たな可能性があるのなら、周囲の反対を押し切ってでも掲載に踏み切る」[p.128]。

科学に対する政治の対応

・横田めぐみさん遺骨鑑定問題:「横田めぐみさんの遺骨が偽物」との日本政府発表に対して、ネイチャー誌がDNA鑑定結果に疑問を提示、「問題は科学にあるのではなく、(日本)政府がそもそも科学の問題をいじくり回している点にある」と論評。著者の見解は、「『遺骨』が横田めぐみさんのものであることはDNA鑑定で証明できなかった、というのが現時点での『科学的真実』であることは明白だ。『遺骨』は横田めぐみさん以外の別人のものであることがDNA鑑定で証明された、という日本政府の公式見解は著しく科学的妥当性を欠く。」[p.108-116

・「日本の科学界は、お役所と同じで、縦割りの弊害が目に余る。学際分野も冷遇されている。日本の科学を横断するボトムアップの組織が必要なのだ。科学技術立国・日本における、科学の人気のなさ、科学振興のお粗末さは、大いなるパラドックスといわねばなるまい。」[p.76

・「はやぶさ」予算の2009年事業仕分けでの大幅縮小:「短期的な視野しかもたずに、世界から見れば『宝物』の科学技術を平気でドブに捨てるのが、日本政府の過去の政策パターン」、「この恐るべき政策パターンは、明治時代に欧米から『百科の学』として科学を『輸入』してしまったことに起因するように思われる。自ら生んだ文化でないから、自信が持てず、長期的な視野で育て上げる甲斐性がない」、「技術の継承ができなければ、宝物は失われ、技術者もノウハウも他国に奪われる運命となる。」[p.132-134

・「日本の強みは、常に、安くて品質のいい製品を作ることだった。結局のところ、それが日本の科学技術の本質であり、武器なのだ。この原点を思いだせば、まだまだ日本は世界と伍して戦うことができる。」「日本のお家芸を政府が潰してはならない。今こそ、短絡的な科学技術の仕分けを見直し、科学者・技術者のやる気を喚起し、明るい日本の未来を創造してもらいたいものだ。」[p.144

科学に対する人々のとらえかた

・『生高物低』『化高地低』:「生物や化学ばかりに人気が集中し、物理や地学を履修する生徒がどんどん減っている現象。」[p.56

・「アメリカの平均的な科学リテラシーは高くないかもしれないが、一般の人々は科学が好きだし、信頼し、尊敬している。日本との決定的な差である。」[p.140

・「もしかしたら、今の日本で科学に人気がない理由は、あまりにも周囲の評価を気にしすぎて、科学の原点である、素朴な疑問の追究やワクワクドキドキ感をどこかに置き忘れてしまったからかもしれない。」[p.169

・原発事故への対応:「今回の原発事故による『恐怖』の大半は、『何が起こっているか分からない』という不安から来るものだ。マスコミの役割は、正確な情報を伝えパニックを防ぐことなのに、不正確な情報とデマをばらまいた『マスコミ』が少なくなかった。」[p.175]。「現実的に考えれば、想定というのは、必ず、どこかで線を引かざるを得ないものなのだ。」「その線を引く作業を一部の専門家に丸投げするのではなく、正しい科学的知見をもとに、社会全体で議論して決めていくべきだと思うのだ。」[p.181]、「この40年、原子力が『タブー』であり続けた」「まともな議論は阻害されてきた」[p.183

・「新聞やニュースを見ていると、科学が社会に対して何をしてきたかとか、何をしてくれるのかとか、そういった論調ばかり。問いの立て方からして、どうも科学が社会の『外』にある感じ」[p.206、鼎談参加の中垣氏の意見]。

・「今一番怖いのは、科学技術による失敗を恐れて、日本人が新しいことに挑戦するのをやめてしまうことです。」「日本の科学技術が、国内だけでなく世界全体の進歩に貢献するということが、世界で尊敬される国であるためにはとても大切」[p.216、鼎談参加の中川氏の意見]

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著者の考え方には当然異論もあるでしょう。頭から科学の必要性を信じない人もいるでしょうし、震災による原発事故を契機に科学技術の受け入れに批判的になっている人も増えていると思います。もちろん、科学技術自体が持つ危うさを再認識し、科学技術マネジメントの失敗については反省する必要はありますが、こうした科学批判の根底にあるのは科学および科学者への信頼感の喪失ではないでしょうか。EU主席科学顧問のアン・グローバー氏は、「欧州では科学者の信頼度が高い。(中略)日本で科学者が信頼されていないと聞き、とても残念です。日本の市民にお勧めしたいのは、科学者を観察し、何を言うか聞き、徹底的に問いただすことです。なぜそう主張するのかを聞けば、科学者は説明するでしょうし、説明すべきです。逆にお聞きしたい。科学者が信用できないなら、いったい誰を信用するのですか?」、と述べています。加えて、科学者が信頼を取り戻す方法として、間違いを認めること、正直さ、透明性の重要性も指摘しています[文献2]。

科学がどういう力によって動いているのか、科学における真実とはどういうものなのか、科学界に参加している科学者はどのように考え、行動するのか、科学者という職業はどのようなものなのか、科学や科学者を利用する人たちはどのように考え、行動するのか。こうしたことは、科学的知識とは別に、科学という営みに関わる問題だと思います。科学の本質を知ることとは、科学を単なる勉強の知識としてとらえるだけでなく、本書にかかれた科学の裏話、科学にまつわる周囲の状況をも知ることなのではないでしょうか。科学を知るというと、今まではどうしても科学的知識の方にばかり注意が行ってしまい、知っている人が知らない人を啓蒙するという進め方や、教える立場と教わる立場があることなどが科学に対する抵抗感を作っていたように思います。もし、このような形で教わった知識に欠陥があることがわかったとすると、今までの信頼が裏切られたように感じてしまうのは無理のないところでしょう。しかし、実際には、科学というのはもっと不確かなものであり、科学者も完璧な人間ではなく、科学的成果も極めて人間臭い営みから生み出される(当然、無謬ではあり得ないし、不正なども存在しうる)ものです。それを正直に明らかにすることが科学と科学者の信頼を回復するために必要なことなのではないでしょうか。本書で紹介されたようなエピソードは、実は、こうした科学の実態の理解を深める上で、役に立つものなのではないかと思います。

こうした科学の真の姿を明らかにすることは、ひょっとすると日本人の科学観を根底から見直すことになるのかもしれません。ですが、残念ながら、日本の科学ジャーナリズムはこうした科学と社会との橋渡しをするには、まだ力不足なのだろうと思います。であれば、その役割を担うのは、科学者自身、技術者自身ということになるでしょう。企業の研究者として、自らの成果を社会に売り込むためにはもちろんのことですが、科学者、技術者が社会との関係をうまく作り上げていくことは今後ますます求められるようになるのだと思います。



文献1:竹内薫著、「科学嫌いが日本を滅ぼす 『ネイチャー』『サイエンス』に何を学ぶか」、新潮社、2011.

文献2:高橋真理子、「科学者は信頼できるか、アン・グローバーさんインタビュー」、朝日新聞、2012.8.2

参考リンク



 


 

シチズンサイエンス考

シチズンサイエンスとは、アマチュアまたは非職業的な科学者によって、その一部または全部が行なわれる科学研究のこととされています(wikipedia[文献1])。具体的には、データの系統的収集や分析、技術開発、自然現象のテスト、これらの活動の普及などが行なわれていて、近年のインターネット環境の発展とともにこうした活動は活発化しているとのことです。今回は、シチズンサイエンスについて考えてみたいと思います。

シチズンサイエンスの形態[文献1](文献1の「Citizen scientist」=「市民科学者」としています)

・プロの研究者が解析するためのデータ集めに市民科学者が協力する。

・プロの研究者が集めたデータを市民科学者が解析する。

・市民科学者が研究センターにおける支援をしたり探検に同行したりする。

・市民科学者同士がコンペで成果を競い合う。

・市民科学者が装置を作ってデータを取ったり、大きなプロジェクトの一部を担ったりする。

・市民科学者が、プロの研究者が訪れないような分野を探検する。

こうした市民科学者の活動は古くからありました(そもそも職業科学者が生まれる20世紀より前の科学研究の担い手は市民科学者であったと考えることもできます)。ただ、近年のネット環境の発展と普及が、科学研究への市民科学者の新たな参加方法を編み出していることも指摘されています。例えば、個人所有のコンピュータの余剰能力を活用してデータ解析を手伝うRosetta@home(タンパク質の折りたたみ構造を解析する)や、SETI@home(地球外生命体からの信号を探索する)など、分散コンピューティングやボランティアコンピューティングと呼ばれる活動があります。また、Stardust@homeNASAの探査機が彗星の尾から採取を試みた粒子を発見する)やGalaxy Zoo(銀河の写真を見てその形態を分類する)、oldweather(第一次世界大戦中の英海軍船舶の航海日誌から当時の天気を抽出する)など、参加者の判断や技能が問われるようなプロジェクトもあります。[文献2、文献3]

このようなシチズンサイエンスの活動は、今までのやり方では作業にかかる負荷が大きくて実施できなかった研究対象について、その制約を緩和できる手法として重要な意義を持つと言えるでしょう。特に、比較的単純ではあるが処理に手間のかかるデータ採取、解析が必要な研究においては、今後適用例が増えていくのではないでしょうか。

研究マネジメント面の意義

シチズンサイエンスを研究やビジネスのマネジメントの観点から見ると、いくつかのビジネス手法との共通点があることがわかります。外部との協働で研究を進めることはオープンイノベーションにほかなりませんし、作業の一部をネット経由で外注することはクラウドソーシングとして知られた手法です。実際に、アマゾンのmturkなどは、単純な作業を安価に外注することが可能な仕組みを提供しており、パターン認識など、機械では困難だが人間にとっては単純な作業でデータを作ったり集めたりすることが効率的にできることが知られています[例えば文献4、p.110]。


しかし、シチズンサイエンスの場合、参加者は金銭的報酬を求めているわけではなく、参加者の作業への動機づけは金銭的報酬以外のインセンティブによってなされている点がひとつの特徴になっていると思います。参加者は、自分の保有している資源(人間としての能力、コンピュータなど)を社会に有用な目的のために役立てたいという気持ちはもちろんのこと、自分の楽しみ(ひまつぶし、ゲーム感覚の遊び、発見の喜び、最先端の科学やきれいな銀河の写真、昔の航海日誌などに触れる楽しみなど)によっても動機づけられています。例えば、遊びの要素として、こなした作業の量や、成果の質に応じてプロジェクト内でのステータスが上がったり、成績優秀者として順位づけられて称賛されたりする仕組みが作られているものもあります。また、プロジェクト内で同じ興味を持つ人同士や専門の研究者との交流ができるフォーラムが設けられているものもあり、ネット環境の利用による非物質的な魅力が参加者のモチベーションを高める一要素になっていると思います。

このような「遊び」の要素の導入は、プロジェクト運営上のテクニックという面もあるかもしれませんが、実は研究の本質にもつながるものだと思います。未知のことを知る、同じ興味(専門)を持つ人同士で議論や交流をする、成果を挙げたことが社会から評価される、などのことは通常の研究活動においても行なわれていることであって、それが研究者のモチベーションの維持に貢献している側面は無視できません。シチズンサイエンスでもそうした体験をネット上で提供していると考えられます。専門的な知識を要する研究活動は市民には困難であっても、研究の手伝いをすることで充実感や達成感を得られる仕組みが構築できている点は、研究活動における金銭的報酬以外のインセンティブの重要性を示す例として示唆に富んでいると思われます。

さらにシチズンサイエンスにおける協力の仕組みは、オープンイノベーションの進め方についての示唆も与えてくれています。オープンイノベーションの場合、協働する研究者(組織)の間での作業の分担と成果の配分を調整する必要がある点が運営上の課題であるという意見があります。これに対し、シチズンサイエンスでは、市民科学者が行なう作業の範囲を限定的に設定し、その作業に与えられる報酬(成果配分)も金銭的なものではなく「楽しみ」とすることで、協力者も納得した上で意欲的に作業に取り組んでもらえるようになっており、上記のオープンイノベーションの課題をうまく解決していると言えるのではないでしょうか。ビジネスにおいては金銭的報酬抜きの協力関係を構築することは難しいかもしれませんが、少なくともモチベーションが金銭的報酬によるものだけではないことはオープンイノベーションを考える上でも認識しておくべきことであると思われます。

科学と社会の関わりにおける意義

シチズンサイエンスは、科学コミュニケーション、STS(科学技術社会論)の面でも以下のような示唆を含んでいると思います。

・シチズンサイエンスは、市民にとって科学を身近なものとして感じるきっかけになる。

・その活動を通じて、市民が科学者の活動に触れることができる。

・その活動において、市民がデータの扱い方、データの重要性を体験、実感できる。

つまり、科学者との共同作業を通じて、科学者の考え方、仕事の実態に触れるきっかけになるのではないか、ということです。市民を科学と対峙する存在としてとらえるのではなく、お互いに理解し、協働していくきっかけとしての意義がシチズンサイエンスにはあるのではないでしょうか。科学者が市民を啓蒙するのではなく、科学者が市民を重要なパートナーとして見ること、市民の側からも楽しみとしての協働を通じて科学的な考え方に触れることは、科学コミュニケーションの促進に役立つのではないかと考えます。楽しみながら交流することを特徴とし、その作業には遊びに近い要素が含まれているものであっても、そのデータを使う研究は遊びではありません。このようなシチズンサイエンスを進めることは、市民が本物の研究を身近に体験し、学ぶよい機会となり、社会と科学の垣根を低くすることにつながるのではないかと思います。

技術者の立場からみてもシチズンサイエンスが取り上げているテーマにはなかなか興味深いものがあります。加えて、シチズンサイエンスには、単なる研究補助や市民の趣味以上の意義もあるように思いますがいかがでしょうか。


文献1:Wikipedia, “Citizen science”, 2012.7.1アクセス

http://en.wikipedia.org/wiki/Citizen_science

文献2:Eric Hand, “People power”, Nature, vol.466, No.7307, 2010.8.5, p.685.

http://www.nature.com/news/2010/100804/pdf/466685a.pdf

文献3:Kalee Thompson(K.トンプソン)、編集部訳、「ネットでシチズン・サイエンス」、日経サイエンス、2012年5月号、p.98.

文献4:新井紀子、「コンピュータが仕事を奪う」、日本経済新聞出版社、2010.

参考リンク


 

 

「不完全な時代――科学と感情の間で」感想

最近の科学と社会の関係変化を考える上で、「情報」は重要な要因でしょう。さらに、3・11震災後は「感情」の問題も避けて通れないように思います。今回は、TRONで有名な情報工学者の坂村健氏による著書「不完全な時代――科学と感情の間で」[文献1]を参考に、科学と情報、感情の問題について考えてみたいと思います。

人が判断を行なうプロセスにおいては、何らかの「情報」を「解釈」し、「考える」ことが行なわれますが、この「解釈」あるいは「考える」というプロセスは、必ずしも公正に合理的に行なわれるものではないことは多くの方が経験されていると思います。同じ「情報」に接しても人により判断が異なるのは、そこに心理的バイアスや好き嫌い、価値観など、いわゆる「感情」と呼ばれるような(その定義は曖昧ですが)要素が入り込んでくることが原因となっている場合もあると思います。

坂村氏の著書には、そうしたプロセスに関わる「情報」や「感情」の問題についての意見が述べられていて興味深い点が多くありました。本書は、新聞等に発表された氏のエッセイ等に加筆してまとめられたものですので、上記の問題に関する系統だった主張というわけではありませんが、著書の中から参考になると感じた部分を選び出して考察させていただきたいと思います。

坂村氏の問題意識は、「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代――そういう現代に対してどう向き合うか」[文献1、p.12]です。著書では様々なトピックスが語られていますが、ここでは、現代における「情報」の問題、「考え方」の問題、そこに影響する「感情」の問題について考えてみます。

「情報」の問題は、コンピュータの急激な発達とともに、近年の我々の生活に大きな影響を与えている問題のひとつでしょう。著者は以下のような興味深い指摘をしています。

・情報の非対称性[文献1、p.67]:例えば売り手と買い手の持つ情報に偏りがある場合、「情報の非対称性」がある、とされます。こうした状態は「偽装」を生む温床となり、また情報の少ない側ではそれを見抜くことができないため不安を感じ、その結果、根拠に乏しい不完全な判断に頼ってしまう、といいます。このような状況で「偽装」を防ぐために、日本では「長いつきあいの中での信用」を重視してきましたが、近年では監査、検証、罰則による高コストの「明示的保障システム」(こちらがグローバル・スタンダード)に頼るようになってきているそうです。トレーサビリティ(製造の全過程で、いつ・どこで・だれが・どういう処理をしたかを記録しそれを最終製品に結び付ける)確保により問題の原因特定を容易にすることで情報の非対称性に対応できる可能性があると著者は述べています。

・ネットは不特定多数への情報流布力に優れるが、信頼性が低い。信頼性担保のためには、同定可能で、過去ログなどで過去も信頼性の高い行動をしている主体であることを示しブランド化する必要がある。企業にとってはその会社の姿勢を示しブランド化することが必要。[文献1、p.94

・インターネット接続が社会の標準になってしまうと、ネット接続できない情報弱者のサポートが必要。これはもはや国の仕事ではないか[文献1、p.148]。

・情報技術はリアルタイムに感動を共有することを可能にした[文献1、p.179]。

「考え方」の問題については以下のような指摘があります。

・科学技術に関する正確な知識は避けて通れない。加えて、健全な懐疑主義――知識の一方的な詰め込みではなく、お仕着せの結論を疑い積極的に情報を集め自分で考える姿勢が必要。[文献1、p.19

・データに基づく議論が重要[文献1、p.26]。

・社会は複雑な問題に溢れている。それを単純化してはいけない。難しい問題を難しいと理解し、なお咀嚼する知的体力が求められている[文献1、p.43]。

・白黒をつけないのが東洋の知恵[文献1、p.99]。

・技術も大事だが、それと同程度かそれ以上に、その技術を社会につなげるための制度設計が重要[文献1、p.135]。

・行政に想像力を[文献1、p.136]:ここでいう想像力とは、いろいろな状況によって起こる結果を想像する力、という意味合いのようです。要は考えの前提を広げ、様々な前提において起こることを予測する力、と言ってもよいかもしれません。この想像力が戦略の元になると言っています。

・コンピュータシステムを考えるとき重要なのは、それが本質的に技術設計半分・制度設計半分の存在だということだ。「制度」の部分の比重がどんどん重くなっている。[文献1、p.196

・ユーザーも含めて関係者皆で問題がないように最大限の努力はする――こういうシステムをベストエフォート(最大努力)型という。誰かが全体に責任も持ってくれて、お金さえ払えばお任せで完璧な保障をしてくれる――ギャランティ(性能保証)型とは、設計思想として対極。ベストエフォートの集合で実現されているのが現代のネットワーク社会。問題が起きた時点で判断しそれが慣習法になるという英米法の国の方がベストエフォートに適している。[文献1、p.204,216

・絶対安全(設計製造に間違いがなく劣化もしていない製品は100%安全という考え方)は存在しない。安全も「機能」として実装し、「安全度」で語るべきスペックのひとつ(機能安全)、という考え方に変わっている。こうすることによって他のコストと比較可能になる。[文献1、p.210

「感情」の問題については以下の指摘があります。

・日本には、やり方を変えたくないという強い社会的慣性力がある。コストを決めるのは、実は技術ではなく、やり方を変える「勇気」。[文献1、p.58

・(日本人が)一番恐れるのは、実際の「危険」ではなく「未知の危険」[文献1、p.110]。

・映像の3D技術などは感情移入を促すことができる[文献1、p.183]。

感情の問題と考え方の問題は共通する要素がありますし、著者はそれを厳密には区別していないようです。そして、まとめとして次のように述べています[文献1、p.220]。

・「正しさ」に向けて、少しでも近づこうというプロセスが科学の本質。

・技術以降は、リスクとベネフィット、市場、コストとプロフィット、感情(公正や道徳、習慣や文化、認知バイアスなど)という評価軸を持つ。

・感情に関する問題を科学者は軽視しがちであり、相手の感情に立って他人に語りかけられる科学・技術の側の人は非常に少ない。

・科学者でない側も身につけるべきは「科学力」というよりも「合理的に判断する力」、自分の判断が単なる「感情優先」でないかと疑う姿勢。

・人々が正しく情報を得て、さらに正しい情報が常に得られるわけではないという不安にも向き合いながら、その中で最も確からしい判断をする。そして、その結果について諦観する。それこそ「科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対してどう向き合うか」という姿勢なのである。

3・11震災以後特に顕在化した科学と社会の関わりの問題については、様々な立場の方がコメントを述べられています。この著書もそのうちのひとつですが、著者の立場もあって、「情報」に関する洞察が特徴になっていると言えるでしょう。しかし、広い意味での科学コミュニケーションが重要であるという結論は、多くの論調(ただし、建設的なもの)と同じ方向だと思います。ただ、「情報技術」というのは実用面では人間の思考と深く関わっているだけに、多様な思考、価値観も含めた感情の側面、社会生活への影響を強調している点で純粋科学の立場よりは具体的な指摘が多いと思いました。

例えば、信頼を得るためのブランド化、感動の共有、戦略の元となる想像力、制度設計の重要性、ベストエフォートの考え方などが興味深いと思いました(企業の立場としては、ベストエフォートという考え方をすべての分野に適用することは現段階では難しいような気もしますが)。企業の研究者であれば、もはや技術だけで勝負することが難しい時代になっていることは認識している方が多いと思います。研究開発の進め方としても、ビジネスモデルのような形で社会(市場)との関わり、制度を設計することは有効でしょう。その際、「複雑な問題を過度に単純化しない」とか「白黒つけない」、「諦観」といった見識は仕事を進める上で重要です。これは不確実性の高い研究では、すべての段階で単純化して理解したり、白黒をつけていられない場合もあり(当然、後での検証は必要です)、また上手くいかない場合には諦めも必要なので、実際の研究の場面ではよく行なうことではありますが、これは一種、理性で感情をコントロールしているということなのではないでしょうか。もちろん、理性的に判断がつくような課題であれば感情の問題はないかもしれません。しかし、答えの不明確な課題や、能力的に判断できないような課題に対しては、「最も確からしい」判断をすることで感情に惑わされない技術も必要なのではないかと思います。科学と感情の間で揺れ動く不完全な時代に対しては、感情を抑え込んで対応するのか、感情の動きを理解して理性でコントロールするのか、という選択しかないのかもしれません。実はこれが「合理的に判断する」ということの本質ではないでしょうか。もちろん、状況によっては感情に基づく判断があってもよいと思います。しかし、理性的に判断すべき状況で感情に囚われて判断を誤っていないか、ということは常に心に留めておくべきでしょう。

なお、このような感情のコントロールは、自らの問題だけではなく、相手の感情に対しても言えます。もちろん、相手を自分の思い通りに動かす、というコントロールではなく、相手が自身の感情をコントロールできるように説明、説得する、ということになりますが、イノベーションの実現のためにはこうしたプロセスも必要なのではないかと思います。

科学技術コミュニケーションの場面でいえば、科学側からの知識の啓蒙だけではなく、合理的な考え方の啓蒙、すなわち科学的データを自身で解釈して自身で答えを出し、自身の感情をコントロールする方法の啓蒙も重要ということになると思います。科学者はどのような考え方をするのか、一般の人はどのような考え方をするのかを知るために、ひとつの問題について科学者と一般の方が一緒に考える、というアプローチもできるのではないでしょうか。科学では、白か黒かという見方だけではなく、白黒つけられない、あるいはあえて白黒つけない、という考え方をすることがあることをわかってもらえると相互理解に役立つと思います。ベストエフォートという考え方がこれに近いのかもしれませんが、理性的な考え方が社会に広まり、曖昧さを含む状況でも合理的な判断ができるように、科学の側も社会の側も徐々に歩み寄るような姿勢が求められているのかもしれません。文化や知識、考え方の異なる人々との相互理解は容易なことではないでしょうがその努力は必要でしょうし、それができれば現在の閉塞状況の打開につながるのではないか、という気もします。


文献1坂村健、「不完全な時代――科学と感情の間で」、角川書店、2011.

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