研究開発マネジメントノート

研究開発とそのマネジメントについてのいろいろ

科学哲学

データから言えること(ソーバー著「科学と証拠」より)

ある推論を行おうとする場合、何らかのデータや証拠に基づいて考えることはごく普通のことだと思います。しかし、例えば本ブログ「イノベーションとあいまいな意思決定」でヒューリスティクスについてとりあげたように、十分な証拠が得られない状況で推論しなければならない場合もありますし、証拠を正しく用いて正しい推論ができているかどうか怪しい場合もあるでしょう。今回は、証拠とその扱い方の問題について、科学哲学の観点からどのような実践的示唆が得られるかと考えてみたいと思います。

エリオット・ソーバー著、「科学と証拠」[文献1]では、証拠に基づく科学的推論について議論されています。ただし、著者によれば、「科学的推論の完全な把握というのは目標であって、既知のことがらではない。自然に対する現在の理解がそうであるように、科学的推論の本質についても、理解できていることがらは断片的であり、私たちはまだその探究の途上にある。・・・この本は、すでに十分な意見の一致を見たことがらについて、報告するものではない。統計的推論の本質に関して私がここで説く立場にはまだ多くの論争がある。[p.ii]」とのことであり、本書には科学哲学の立場からの推論の問題、確率や統計手法とその数理についての専門的な内容も含まれています。その内容は、私の理解の及ぶ範囲を超えているものもあり、また、マネジメントをテーマとした本ブログの範囲を超える部分もあると思われましたので、本稿では、実践において特に重要と感じた点についてまとめさせていただきたいと思います。

ロイヤルの3つの問い
1、現在の証拠から何がわかるか
2、何を信じるべきか
3、何をするべきか
・「合理的に考える人間であれば、いま手にした証拠をもとに自分の信念を形成し、また何をするべきか(どのような行為を行うべきか)を決めるときには、そうした信念を考慮に入れるはずである。[p.6]
・2、何を信じるべきかに関しては、現在の証拠と事前の信念の度合いが関わり、信念の度合いが更新される。[p.71]
・3、「何をするべきかを合理的に決めるには、あなたがもっている証拠以外のもの、あなたが抱く信念の度合い以外のものが必要となる。行為の選択には、価値のインプット(経済学者が効用と呼ぶもの)が必要である。」[p.12]

ベイズの定理と示唆
・ベイズの定理:Pr(H|O)=(Pr(O|H)Pr(H))/Pr(O)
ここで、Oが観察、Hが仮説。Pr(H|O)はOという条件の下でのHの確率(Hの事後確率)、Pr(O|H)はHという条件の下でのOの確率(Hの尤度)、Pr(H)は観察前にHがもつ確率(事前確率)、Pr(O)は観察の無条件確率。
・ベイズ主義では、「何か観察を行う前に、あなたは仮説Hに対して確率を割り当てる。・・・観察を行い、それによってある観察言明Oが真であることがわかったならば、その後、いまわかったことがらを考慮して、Hに割り当てていた確率を更新する。・・・ベイズの定理は事前確率と事後確率とが互いに関係づけられることを示している。[p.13-14]
・確率Pr(H|O)と尤度Pr(O|H)は異なることに注意が必要[p.15](一般的な注意点であって、ベイズの定理から導かれるものではない)。(以下本ブログ筆者による例)例えば、H=研究部隊が優秀である、とし、O=その企業の業績向上が観測される、としたとき、優秀な研究部隊の存在のもとで業績が上がる確率が高かった(Pr(O|H)が高い)としても、業績が向上したからといって研究部隊が優秀であった(Pr(H|O)が高い)したとは言えない(他の理由で業績が上がったかもしれない)。
・ある命題と、その否定の尤度の和は1でないかもしれない[p.16]Hの否定を¬Hと書くとき、Pr(O|H)+Pr(O|¬H)は1とは限らない。(以下本ブログ筆者による例)例えば、優秀な研究部隊の下で業績が向上したとしても、優秀な研究部隊がいなくても業績は向上するかもしれない。
・ベイズの定理から次の式が導かれる。
(Pr(H|O)/Pr(¬H|O))=((Pr(O|H)/(Pr(O|¬H))×(Pr(H)/Pr(¬H))
O
の結果が得られたことによって、事前に考えていたHであるかないかの比(Pr(H)/Pr(¬H))が(Pr(H|O)/Pr(¬H|O))に変化する度合いは、尤度の比((Pr(O|H)/(Pr(O|¬H))による。(以下本ブログ筆者による例)例えば、研究部隊が優秀かどうかの事前認識が、業績がよかったことによって高く変化するのは、研究部隊が優秀な時に業績が上がる確率が、研究部隊が優秀でない時に業績が上がる確率より大きい時。
・「ベイズ主義に従えば、観察だけでは事後確率を得ることができず、事前確率もまた必要である。[p.32]
・「頻度データ、および十分支持されている経験的理論は、事前確率を割り当てるための基礎を与える[p.40]」。
・このような考え方により、「2、何を信じるべきか」についての示唆が得られる。

ベイズ主義の限界と尤度主義
・「ベイズ主義には『キャッチオール仮説問題』(¬Hすなわち『Hでない仮説すべて』は確率的に評価できない場合があるという問題)と『事前確率問題』(事前確率は、主観的に与える以外に与えられない場合があるという問題。たとえば『一般相対論』の事前確率は客観的に決まらない)があり、客観性の基準をつねに満たすわけではない。[p.228訳者解説]
・「もし、事前確率が経験により正当化でき、また仮説の尤度、および仮説の否定の尤度に割り当てられる値も経験から正当化できるなら、あなたはベイズ主義者であって然るべきだろう。一方、事前確率や尤度がそのような特徴をもたないならば、・・・『あなたの信念の度合いがどうあるべきか』という問いから、『証拠から何がわかるか』という問いへとテーマを移すべきである。[p.48]
・「尤度の法則:観察Oが仮説H2よりも仮説H1を支持するのは、Pr(O|H1)>Pr(O|H2)のとき、かつその時に限る。そして、仮説H2よりも仮説H1を支持する度合いは、尤度の比((Pr(O|H1)/(Pr(O|H2))で与えられる)[p.49]
・「尤度主義によれば、Oが1つの仮説を裏付ける度合いといったものは存在しない。裏付けは本質的に対比的なのである[p.49]」。「明確な尤度をもつような仮説のみを互いに比較するのである。たとえば、一般相対性理論をそれ自身の否定と比べるのではなく、・・・一般相対性理論と特定の代替理論、つまりニュートン理論とを比べる。[p.48]
・このような考え方により、「1、現在の証拠から何がわかるか」についての示唆が得られる場合がある。
・尤度の法則は「単純仮説(確率変数の分布を1つの形に決める仮説。コインの表のでやすさを1つの確率で表わす仮説などのこと)には適用できても、複合仮説(分布に幅がある仮説)には適用できない」[p.230訳者解説]

頻度主義
・ネイマン-ピアソンの仮説検定、フィッシャーの有意検定に代表される頻度主義は、「3、何をするべきか」への「一応の答え(仮説を『受け入れる』、または『棄却する』という態度を導く)にはなっても、『1、証拠から何がわかるか』に答えるものではない。」[p.230訳者解説]
・「ところが、同じ頻度主義ではあってもAICは事情が異なる。・・・AICの妙技は、問いの大転換にある。仮説について考える際に、『真理とは?』という問い(ベイズ主義、フィッシャー、ネイマン-ピアソンの頻度主義、尤度主義のいずれも、ある部分ではこの問いに絡め取られていた)から『より正確な予測とは?』という問いに照準を大きく変えたのである。」[p.231訳者解説]。(注:AIC=赤池情報量規準)
・「ソーバーは・・・ネイマン-ピアソン流の頻度主義については徹底して批判」、「仮説検定の有意水準の恣意性(客観性の欠如)、有意水準に基づく尤度主義との不一致、停止規則の問題(実験計画の違いにより同じときに実験を停止してもテスト結果が異なる問題)、尤度比検定の『入れ子構造』に伴う問題[p.230訳者解説]」を指摘。

「証拠」に対するソーバーの規範的な確率・統計の戦略
・「(i)単純仮説について、もし事前確率が客観的に与えられるのであればベイズ主義に従い、(ii)そうでない場合は尤度主義に従い、(iii)複合仮説についてはAIC(もしくはそれを発展させたモデル選択規準)に従う、ということになるだろう[p.231訳者解説]」。
―――

証拠をもとに、自らの考え、態度をどう決めればよいか、という問いは、それほど簡単な問いではありませんが、本書は、そうした哲学がどこまでわかっていて、主要な考え方や手法の特徴や問題点、限界がどこにあるかについてのひとつの考え方を示している点で非常に興味深く感じました。本稿では細かな議論など割愛した部分も多いので、ご興味のある方はぜひ本書をご参照いただきたいと思います。

マネジメントを含め、日々の意思決定の実践においては、データや証拠をいかにうまくとり、うまく活かすかということが重要です。しかし、その取り扱いにおいては、多くの落とし穴があり、せっかくの証拠から誤った結論を導いてしまったり、役に立たないデータを取ってしまったりということもないとはいえないように思います。単純な理解不足や推論の錯誤もあり得ますし、手法自体、例えば、データ解析でよく用いられる統計的手法についても、場合によっては問題を含んでいる場合もあることをよく理解しておく必要があるでしょう。本稿で引用したベイズ主義と尤度主義に関する本書からの示唆は、言われてみれば当たり前のことかもしれませんが、日々の推論においてともすると注意がおろそかになることもあるように思います。せめて、そうした部分だけでも常に意識しながら、より正確な推論ができるようにしたいものだと思います。


文献1:Elliott Sober, 2008、エリオット・ソーバー著、松王政浩訳、「科学と証拠 統計の哲学入門」、名古屋大学出版会、2012.
原著表題:Evidence and Evolution: The Logic behind the Science, Chapter 1 “Evidence”

参考リンク<2014.9.28追加>





「科学を語るとはどういうことか」(須藤靖、伊勢田哲治著)感想

科学哲学に関連した話題は、今までにも何度か本ブログでとりあげました(末尾:本ブログ関連記事)。以前の記事では、マネジメントに科学哲学を役立てることができるのではないか、という観点でいくつかの本のまとめを試みましたが、今回は、それらの本とはやや異なる視点から科学哲学の議論がなされている、「科学を語るとはどういうことか」(須藤靖、伊勢田哲治著)[文献1]を取り上げて考えてみたいと思います。

この本には、副題(科学者、哲学者にモノ申す)にもあるように、物理学者(須藤靖氏)が科学哲学者(伊勢田哲治氏)に議論を挑む形での対話が収められています。しかもその議論は、科学哲学の内容やあり方に関して科学者が感じる疑問を哲学者に率直にぶつける、という内容ですので、標準的な科学哲学の解説書というわけではありません。しかし、須藤氏が抱く疑問は、科学哲学に興味を持ちはじめた私のような技術者にとっても共感でき、私自身も疑問に思っていたことも多く、その答えを知ることで科学哲学に対する理解が深まったのも事実です。その意味では少し毛色の変わった入門書と言えるのかもしれません。

以下、本書の中から特に興味深く感じた点を抜粋しておきたいと思います。(ただし、抜き書きによって前後の文脈が反映出来ていない点がありうることはご注意お願いします。疑問点についてはぜひ本書をご参照ください)。なお、本書のまとめとしては、文献2が優れていると思いますので内容全体にご興味のある方はそちらをご参照ください。

「『知』の欺瞞」(ソーカル&ブリクモン)について
・「ソーカルは・・・彼のイメージする哲学者たちを擁護するために、変なことを言っているポスト・モダンの人たちを批判しようとした[p.22]」。
・「英米のクリシン系(注:この分類については後述)の哲学においては、ラカンはじめポスト・モダン系思想への評価は非常に低い[p.31]」。
・ただし哲学分野全体では、「変なことをいろいろ言っていても、ひとつでも、我々の思考を触発してくれるような、他の誰も思いつかなかったような鋭いことを言っていれば、それで評価されるところはあります[p.31]」。

哲学の流儀
・クリシン型:「筋道を立て、隠れた前提を明らかにしながら、できる限り明晰に考えること、要するにクリティカルシンキングを実践する[p.29]」
・思考触発型:「『読者を考えさせるのがよい哲学的文章だ』という視点で哲学を捉える」、「このルールで判断すると、一読すればわかるような文章はむしろ哲学的な文章として格が落ちる」[p.42
・うがったもの勝ち型:「言っていることの根拠がどうこうではなく、誰も思いつかないような、『へー』と感心するようなことを言ったらいい」[p.42
・文献読解型:「圧倒的に多くの哲学研究者が、カントやヘーゲルなどの古典の読解研究を行っています。この古典読解という『ゲーム』のルールは非常に複雑ですが、『実際に書いてあることについての読解の正確さ』『解釈のもっともらしさ』『解釈の面白さ・新しさ』などの総合的な評価になります。・・・このタイプの研究をしている人たちは『哲学者』ではなく『哲学の研究者』と呼べると思います」[p.42-42

哲学の4分類p.99
・形而上学:「本質」や「存在」などを問う
・論理学:「正しい推論」や推論のモデル化を考える
・認識論:「知る」ことについて問う
・価値論(倫理学):価値とは何か、どのようなものに価値(善・悪)があるかを考える

推論のパターン
・「推論のパターンとしては以下の3つがよく挙げられます。『演繹』、『帰納』、それから『最善の説明への推論』(これは英語のInference to the best explanationを略して、しばしば『IBE』と呼ばれます)です。[p.101
・「帰納の一種として仮説演繹法というのがあって、・・・仮説を立ててそこから実験、この仮説が正しければこういう実験結果が得られるだろうと推測してその実験を行う。そして、実験通りの結果が出ることによって仮説が確かめられる[p.101-102
・「IBEは現象がいくつかあって、それを説明する仮説がいくつかあるときに、それぞれがどの程度説明できるのか、あるいは仮説そのものにどれぐらい無理があるのかといったことを総合的に評価して、最もいい説明をするものを、おそらくこれが一番正しいだろうとして推論するというもの[p.102]」
・「『すでに観察したもの』から『まだ観察していないもの』 への推論全般が帰納的推論になります。すでに起きたことについても、我々が実際に観察した範囲を越えて帰納をしていいかどうかはわからない、比喩的に言えば我々が後ろを向いたとき背中で何が起きているかということだってわかりはしない、というのがヒュームの懐疑的な議論です[p.258]」。

哲学の様々な考え方について
・「哲学に固有なやり方としてひとつ言えるのは、『そこを疑っても仕方ないだろう』というところまで疑う点」、「他の人がやらない異常なところまで哲学者はやることがある」[p.44-45
・「我々が想像している意味の『因果』については知り得ない[p.134]」(ヒューム)
・「反実在論の一応定義的なことを言えば、ひとつには、科学理論が観測不可能なものについては我々はコミットする理由を持たない[p.222]」
・「『科学者たるもの根拠の無い主張を受け入れてはならない』というのは、科学のエートスとして割と共有されている前提ではないかと思います。それを科学者自身よりも徹底して推し進めるのがヒュームだったり反実在論だったりするわけです[p.251]」
・「解けるようになった、決まった手順で積み重ねていけるようになってしまった問題は、哲学から『卒業』して、独立の研究領域になったり既存の別領域の守備範囲になったりしていくんです[p.275]」
・「哲学があまり蓄積的じゃない理由のひとつでもあるのですが、・・・みんな自分で前提から組み立てるんですよ。みんなそれぞれ違うものを組み立てるんですね。他の人から見ると、『なんでそれを前提に入れているのかわからない』というようなことも当然起きている。それをお互いに壊し合って、また個々に新しいものを作る[p.249]」

科学と科学哲学
・「哲学というのは、もともと、須藤さんの言う意味での『科学』ではないんですよ。おそらく科学というものに特別に内在している仕事のやり方のイメージを、哲学にも求めて考えていらっしゃる[p.286]」
・「科学は常に自然と密に関わりながら具体的に一つひとつ何かを解き明かすことで、少しずつ確実に進んでいる。・・・私(須藤氏)は科学哲学にそれを求めているのですね。一方、音楽や芸術、小説などが決してそのような性質のものではないこともまた自明です。・・・ところが科学では、先人の業績をもとに誰でもそれより先に進むことができます。よく考えればむしろ科学の方が例外的な性質を持っているのでしょうね。[p.287-288]」
・(伊勢田氏)「科学と科学哲学のずれが『価値観の違い』の問題であるということ自体、対談の中で理解していただいたことだと思っています。[p.293]」
―――

私が技術者であるせいもあると思いますが、科学哲学に対する私の考え方はどちらかというと須藤氏に近く、本書の議論をつうじて多くのことが学べたと思います。これは、疑問を持っている人が直にその疑問を専門家にぶつける、という対話形式ならではの一つの効果なのだろうと思いますが、それにも増して須藤氏が的を射た質問をしていることも大きいと感じました。

全体をつうじ、内容について特に重要と感じたのは、科学者と科学哲学者の価値観の違いがずれを生み、それが何をとりあえず正しいと考えるかにまで影響している点です。この価値観の違いは、実際には科学と科学哲学の間の問題のみならず、科学者と、科学者とは異なる考え方をする人々との間にも発生しうる問題なのではないでしょうか。だとしたら、科学を社会に活かすためには、この価値観の違いをうまく乗り越える術をみつけていかなければならないでしょう。例えば、技術者が科学的な成果を社会に適用したいと考える時、まずは、その科学技術の開発・実用化段階で社内(民間会社なら)においてこうした価値観の衝突が起こる可能性があります。そして、その段階を乗り越えた後、今度は、社会の人々との間に価値観の衝突が起こるかもしれません。科学者が、「これでよい」と考えた結論に対し、社会はその結論の受容を拒絶することもありうると思います。そんな時、その社会の拒絶に対して、それが合理的なのかどうかを吟味するには、科学哲学的な考え方が助けになるのではないでしょうか。例えば、社会の側での感情的な拒絶や非論理的な拒絶が起きた場合、それに対して科学の論理を用いて説明しても効果的ではないかもしれないことは、本書の議論から想像に難くありません。価値観の違いに至ってしまえば議論が歩み寄れないこともあるでしょう。しかし、徹底的に懐疑的な科学哲学の考え方を利用すれば、そうした社内や社会の側の懐疑に対しどこに正当性があり、どこに正当性がないのかがわかり、何らかの説得の余地、解決策が見つかる可能性もあるのではないでしょうか。

伊勢田氏は本書の「終わりに」において、「学問観などの基本的な前提が違う人同士が有意義な会話をするのは大変時間と手間がかかるものなのである。大事なのはいろいろな背景や考え方の存在への想像力と結論の一致を性急に求めない忍耐力というか『気の長さ』であろう[p.301]」と述べています。科学と社会との関わりを考える際に、科学と社会との間をとりもつ考え方として科学哲学や、科学哲学における考え方自体が重要な位置を占めるようになるのかもしれません。技術者にとってはまず科学を使うことが重要ですが、科学哲学をうまく使っていくことも考える価値があるように思います。


文献1:須藤靖、伊勢田哲治著、「科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す」、河出書房新社、2013.
文献2:ブログ(shorebird 進化心理学中心の書評など)、「科学を語るとはどういうことか」、2013.6.23
http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130623

本ブログ関連記事:

「理性の限界」「知性の限界」(高橋昌一郎著)
「感性の限界」(高橋昌一郎著)より
科学哲学の使い方(「理系人に役立つ科学哲学」感想)
(森田邦久著)
「なぜ科学を語ってすれ違うのか」に学ぶ
(ブラウン著):ソーカル事件など

参考リンク<2014.9.28追加>




「もうダマされないための『科学』講義」-科学でダマし、ダマされる状況について考える

菊池誠、松永和紀、伊勢田哲治、平川秀幸著、飯田泰之+SYNODOS編、「もうダマされないための『科学』講義」[文献1]を読んでみました。3.11震災が社会に与えた影響のひとつとして、「科学」と「科学を扱う人々」への信頼が損なわれたことが挙げられることが多いと思います。しかし、それ以前に、我々(科学に携わる人もそれ以外の人も含めて)が科学をどう捉えていたのか、科学的という名のもとに科学に誤ったイメージをもっていたのではないか、ということも見直すべきではないかと思います。特に、科学技術を「商売」のタネにしている人々(企業も含めて)の中には、故意に、あるいは意図せずに科学をタネに「ダマす」ことを行なっている場合もあることは否定できません。今一度、科学に対する信頼の問題を考えなおす必要があるのではないでしょうか。

本書では、5人の著者による以下の4つの章+付録で、科学と社会の関係をめぐる話題が取り上げられています。

第1章:科学と科学ではないもの(菊池誠)

第2章:科学の拡大と科学哲学の使い道(伊勢田哲治)

第3章:報道はどのように科学をゆがめるのか(松永和紀)

第4章:3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題-日本版「信頼の危機」とその応答(平川秀幸)

付録:放射性物質をめぐるあやしい情報と不安につけこむ人たち(片瀬久美子)

以下、それぞれの章の内容から気付いた点をまとめたいと思います。

第1章では、「ニセ科学が批判される理由は、単にそれが間違っているからではない。ニセ科学を選択すること自体が、さまざまな社会的損失を招くためだ」という荻上チキ氏のコメント[文献1p.16]につづいて、「科学らしさ」を装う「ニセ科学」の問題が取り上げられています。著者は科学と非科学の間にはグレーゾーンがあることを認めた上で、その区別について「はっきりとした線が引けないのだから、否定もできないはずだ」という「強い相対主義」には否定的です。以下、ニセ科学、科学的考え方についての、ケーススタディに基づいた著者の指摘、見解を示します(要約していますので正確な表現は原著をご参照ください)。

・科学的な間違いはニセ科学ではない。間違いを否定すると科学が進歩しない。

・メカニズムがわからなくとも再現性のある科学的事実はニセ科学とは呼ばない。

・とっくに否定された学説を科学的根拠として使うのは問題。

・ニセ科学は、否定的な証拠がどれほど出てきてもその説を撤回しない。

・希望をかなえてしまう説が科学的根拠と解釈されてしまい、科学の使い方を歪める場合がある。

・ニセ科学は単純明快で世界をわかりやすく説明することがある(ゼロリスク思考など)。

・個人的な体験は、その個人には「事実」なので否定できないが、他人と共有できるものが客観的事実であって、科学は客観的事実を扱うもの。

・科学的な説明では、他の知識との整合性が重要。

・「頭で理解する」と「気持ちで納得する」は異なる。「理屈と気持ちのあいだに折り合いがつけられればよい」のだが、それは難しいことで、「理屈がわかれば、不安は感じないはずだ」と考えるのは間違い。

・科学に対する興味を惹くことを狙って科学を魔法のように伝えることはニセ科学を科学に見せることに加担しているかもしれない。

第2章では、科学と科学ではないものの区別(境界設定問題)について述べられます。境界設定問題についてはポパーの反証可能性の議論が有名ですが、近年の科学の領域拡大を考えるとこの基準のみで考えることには無理があるようです。特に、ギボンズとザイマンによって提案された「モード1科学」「モード2科学」という領域の区分によれば、世界の解明を目的とする(従来型の)科学である「モード1」から、より超領域的であり、問題解決を主な目的とする「モード2」に領域が拡大することによって、従来のモード1科学における価値観が通用しなくなっているといいます。従来の価値観とは、CUDOSと呼ばれていて、共有主義(Communalism、発見を共有する)、普遍主義(Universalism、研究内容で判断し、えこひいきしない)、利害の超越(Disinterestedness、自らの利害関係を他人の研究の評価に持ちこまない)、組織的懐疑主義(Organized Skepticism、他人の結果には懐疑的な気持ちで吟味する)のことで、この価値観がモード2科学には通用しないということです。モード2科学とは、具体的には、工学や社会科学も含まれ、問題解決を目的とするということですから、まさに企業の研究が行なっていることとも重なり、それが従来の科学の価値観とは相容れない場合があることは我々も思い当たります。これに加えて、モード2科学では順応的管理(前もって計画を立てることができないので、実際にモニタリングしながら計画を変えていく)も重要になってくるためいよいよ従来の科学の価値観が用いにくくなるということです。そこで、著者の提案する科学の定義は次のようになります[文献1p.97]

所与の制約条件の下で、もっとも信頼できる手法を用いて情報を生産するような集団的知的営み

(a)その探求の目的に由来する制約

(b)その研究対象について現在利用可能な研究手法に由来する制約

ここで重要なのが「信頼性」であって、信頼性を確保するために有効な手段があるのにそうした手段を取り入れないのは疑似科学的と言える、というように「態度」に注目した点が特徴になっています。この定義はモード1にもモード2にも適用可能なものですが、科学に携わる者の中でもこの区別がはっきりとしていない場合があるように思いました。モード2科学というのは、ローカルな知と呼ばれる、実際の経験の中で見出されてきた知(必ずしも科学的な検証を経ていないもの)も含まれる場合があります。一般の人々が接する科学は多くの場合、様々な分野が複合したものであり、特定の問題解決のためのもの、つまりモード2科学であることを考えると、その内容だけでは疑似科学との区別がつきにくくなっていることは十分に考えられると思います。

第3章では、報道によってゆがめられる科学の姿が示されます。科学に関連したニュースがマスメディアで取り上げられる際の問題点として著者は以下の点を指摘しています。

・科学を伝えることの難しさ:報道には専門的知識が必要。さらに、科学の不確実性に対する根本的な無理解が社会にあるため、問題が起こると誰かの糾弾に走ったり、科学不信に陥る。これは高校までの教育によって、明確な答えがあるのが科学、というイメージが植え付けられていて、不確実性を持つ科学を学ぶ機会がないことも一因と考えられる。

・警鐘、極端には商品価値がある:多少証拠があやふやであっても、危険性のあるものについて警鐘を鳴らすことは市民が歓迎しているため、マスメディアはこうしたニュースを流す。さらに、警鐘を鳴らす行為は、記者やキャスターの正義感を満足させる。しかし、こうしたニュースのその後について、危険性がないと後で分かったような場合でもそのニュースは流されない。これはその後のニュースには商品価値がないためである。こうして最初の報道の誤った記憶が残ってしまう。

つまり、情報の取り上げ方に偏りがあるため、マスメディアの報道自体にバイアスがかかっていて信頼できない場合があり、その結果、科学自体、科学政策、企業への信頼が損なわれることがあるわけです。科学にダマされない、というよりも、科学報道にダマされないことが大切、ということでしょう。

第4章では、科学技術コミュニケーションの課題が述べられます。3.11震災を契機に、科学技術コミュニケーションの問題が指摘されているのは事実でしょう。特に、今までのような、一般市民の科学技術に対する理解を高めるようなコミュニケーションの方向ではいけないのではないか、という認識の変化は重要かもしれません。欠如モデルと呼ばれる「科学技術に対して不安や抵抗感を感じるのは、科学の正しい理解が欠けているから」という考え方は「政府や企業の言うこと、彼らと結びついた科学者の言うことは信用できない」という不信感の前では説得力がない、というのは真実だと思います。さらに、3.11以降は、「トランスサイエンス的問題」への対応も特徴とされています。これは、「科学で答えが出せない問題、あるいは出そうとしてはならない問題」のことです。このような信頼の危機を乗り越えるために、著者は次の提案をしています。

・トランスサイエンス・コミュニケーションの促進

・知識ソースの多元性の確保

・政治的意思決定との接続

・社会的対話の醸成

付録では、放射性物質をめぐるあやしい情報について、事例をもとに、「デマはどのようにして生まれるのか、デマのパターン」「不安に付け込む人たち(煽りジャーナリズム、あやしい商売)」が紹介されます。

企業の立場からニセ科学、疑似科学の問題を考えると、モード2科学で何らかの問題解決を行なっている場合にはニセ科学、疑似科学の影響が入り込んでくる可能性が確かにあると思います。積極的にニセ科学を乱用して消費者をダマすことは論外としても、問題解決を優先するモード2科学にはグレーゾーンの技術が侵入してくることはあるでしょうし、開発スピードを優先するあまり科学的検証が遅れる場合もあるでしょう。重要なことは、まず、科学でダマしたりダマされたりしないように、極力「科学的」な態度で対象を扱うことであり、少なくとも「科学にみせかける」ようなことは慎むべきでしょう。そうは言っても、マイナスイオンブームのようなことが起きた時にそれに逆らうことはかなり難しいかもしれませんが...

より本質的なのは科学や、科学の使い方に対する信用を企業としてどう確保するべきか、ということだと思います。企業として科学に関する情報をうまく社会に発信できているかについては十分に注意する必要があるでしょうし、その前提として、社内のサイエンスコミュニケーションの基盤を整備する必要がある場合もあるように思います。技術に基盤をおく会社であっても、社内のすべての人がバイアスのない科学的な思考をできるとは限りません。社内で科学的な態度が重視されていないとすれば、社内でもダマし、ダマされている場合もあるかもしれません。

社会全体における科学の信頼回復のためには、やはりサイエンスコミュニケーションは重要だと思います。本書第4章の提案をはじめ、様々な考え方があると思いますが、技術マネジメントの観点からは次のような指摘ができるように思われます。

・ゲートキーパーの役割:ゲートキーパーの役割の一つに、外部の情報をグループ内に伝えることがあります。具体的には、情報収集、グループ内部に理解されるような言語への翻訳、グループ内への情報伝達、という役割を担う必要があるとされています[文献2p.69]。社会におけるサイエンスコミュニケーションについても、科学者側と一般人側をつなぐようなゲートキーパーを置くことはできないでしょうか。マスメディアがその役割を担えるのであれば望ましいのではないかと思います。

・イノベーション普及においては、科学的情報のコミュニケーションを担う役割としてチェンジエージェントが重視されます。Rogersによれば、チェンジエージェントの成功は、1、チェンジエージェントのクライアントとの接触努力の度合い、2、チェンジエージェント主導よりはクライアント主導、3、クライアントのニーズと両立している度合い、4、クライアントへの感情移入、5、クライアントとの同類性、6、クライアントの目から見た信頼性、7、チェンジエージェントがオピニオンリーダーとともに活動する度合い、8、クライアントがイノベーションを評価する能力の増加、によってコミュニケーションの成功が高まるといいます[文献3p.382]。一般に、コミュニケーションにおいては、情報源の人物が能力信頼性(情報源の人物が知的で熟達していると知覚される度合い)と、無難信頼性(情報源の人物が信頼しうると知覚される度合い)の両方をバランスよく持つことが重要とされますが、チェンジエージェントのクライアントとの異類性ギャップを補うために、能力信頼性には劣るが無難信頼性に独自の優位性をもつ補助者を活用することも有効とされます。このようなイノベーション普及学におけるチェンジエージェントとクライアントの関係を、科学情報の発信者と受け手に読みかえると、そのままサイエンスコミュニケーションの活性化に関するヒントになるのではないでしょうか。現状では、国民に信頼されている人物を探すこと自体が困難なのかもしれませんが、流す情報を信頼してもらいたければ、まず信頼されている人物を通じてその情報を伝えてもらう、ということはごく自然なことのように思われます。これは双方向の議論の場合にも有効でしょう。

本書編者の飯田泰之氏によれば「人は”自分が信じたいと思うこと”を信じる」[文献1p.11]といいます。科学が信用を失った現在の状況は、科学的情報の遮断によって下手をするとダマされやすい人々をつくり出してしまうかもしれないと思います。多くの人々が、「自分が信じたいと思うこと」を自分で考えることができるような教育、情報の提供、コミュニケーションの努力が必要なのではないでしょうか。科学に携わるものとして決して上から目線ではなく、個人の考え方を大切にしながら科学的な事実を納得してもらう努力をしていかなければならないのだと思います。


文献1:菊池誠、松永和紀、伊勢田哲治、平川秀幸著、飯田泰之+SYNODOS編、「もうダマされないための『科学』講義」、光文社、2011.

文献2:三崎秀央、「研究開発従事者のマネジメント」、中央経済社、2004.

文献3Rogers, E.M., 2003、エベレット・ロジャーズ著、三藤利雄訳、「イノベーションの普及」、翔泳社、2007.

参考リンク<2012.2.18追加>



 

「なぜ科学を語ってすれ違うのか」に学ぶ

ジェームズ・ロバート・ブラウン著「なぜ科学を語ってすれ違うのか」[文献1]を参考に、「科学」をめぐる人々の理解の違いについて考えてみたいと思います。

企業の研究者や技術者も当然ながら「科学」を利用している立場であり、その成果は一般の人々に影響を与えます。特に製造業の場合、製品の販売を通じて、あるいは地域における企業活動のためにも、使われている科学技術について一般の人々に正しく理解していただくことは必要になります。しかし、そうした理解を得ることは、実際にはそれほど容易なことではありません。残念ながら3.11震災以降、こうした問題は顕在化してきているように思われます。

科学技術者に限らず人間は、他人も自分と同じような考え方をする、と信じているところがあるといわれます。科学についてもついそのように思ってしまいがちですが、実際には、人によってかなりの認識の差があるようです。その背景には科学的知識の有無という問題ももちろんあるのですが、根本の考え方が違い、議論すら成立しない状況も見受けられるように思います。今回はこの問題について、具体的にどのような考え方の違いがあるのか、意志の疎通にはどんな点に注意すべきなのかを、科学哲学に基づいて考えてみたいと思います。

ブラウン著「なぜ科学を語ってすれ違うのか」は、やや変わった科学哲学の入門書と言えるでしょう。邦訳副題「ソーカル事件を超えて」のとおり、ソーカル事件の波紋を中心とした科学哲学の解説になっていること、原著の書名「WHO RULES IN SCIENCE? An Opinionated Guide To The Wars」にあるとおり著者の意見がはっきり示されていることが特徴になっています。このソーカル事件とは、「1996年に、ニューヨーク大学の物理学者アラン・ソーカルが、ポストモダン主義を擁護する『ソーシャル・テクスト』誌に、ポストモダンを支持するかに見せかけたでたらめなパロディー論文を投稿し、論文が掲載された直後、ソーカルはそのことを『リングア・フランカ』誌に自ら暴露した」[文献1p.367訳者あとがきより]というものであり、原題の「The Wars」は、そのころに起きた「サイエンス・ウォーズ」とよばれる科学的な知識の性質(客観性、合理性、普遍性など)をめぐる論争を指しているものであって、科学をめぐる考え方の違いを考察するにはうってつけの材料を提供していると思います。

ソーカルは政治的な目的、すなわち「左派の政治運動をお粗末な思想から奪回」[文献1p.25]する目的でこのようなことをしたと言っているようです。一般に右派、左派とはあいまいな表現ですが、著者は「左派」の本質的な特徴として「経済格差を是正したいと願っている」、「右派」は「格差是正を最大の課題のようにいうことを嫌い」、自由の重要性を強調し、伝統が重んじられることも多い考え方としています[文献1p.13]。当時の「左派」には正統的科学観に反対の立場をとる「社会構成主義者」「ポストモダニストの一部」と、ソーカルら正統的科学観を支持する人々がいて[文献1p.51]、いい加減な科学理解にもとづいた主張をするポストモダニストを愚弄することで、正統的な科学観に反対する人々を批判することがソーカルの目的であったと言えるでしょう。

ブラウンは正統的な科学観を支持する立場をとっています。ここでいう正統的な科学観とは、「ものごとには特定のありようというものがある。科学者はそれを理解しようとし、そのためにさまざまなテクニックを身につけ(そのテクニックを使ってもなお、誤ることはあるが)、多大な成功をおさめてきた。」[文献1p.23]というもので、さらに、次の点が付け加えられています。

・世界が存在し、物質とプロセスと性質が、わたしたちがそれらをどうとらえるかどうかとは無関係に存在する。それらに対するわたしたちの記述は、偽または真である(真偽が永遠にわからないこともある)。

・科学の目的は、この宇宙を正しく記述すること。純粋科学のおもな目的は真実を知ること。

・ものごとのありようを知るための道具やテクニックにはさまざまなものがあり、今後さらに発展する可能性が高い。

・これらの方法を使っても間違いは起こるが、科学は驚くべき進展をとげてきた。これらを、自然にかんする知識を得るためのもっとも頼りになる方法と考えて、今後も使いつづけ磨きあげるのが合理的である。

これに対して、ブラウンが批判する対象である「社会構成主義」は、次のように説明されます。「知識が社会的な構成物であるとは、知識はさまざまな社会的要因によってつくりあげられており、社会的な利害とは無関係に、客観的にものごとのありようを調べた結果として得られるものではないとする立場」「発見されるべき客観的事実などというものは、そもそも存在しない」。また社会構成主義とみなされることが多い「相対主義」は、「知識は(科学的な知識であれ、道徳的な知識であれ)特定の集団や社会と密接に結びついて」おり、それらには「正しい道徳も間違った道徳もなく」「事実に立脚する真実もなければ事実に反する虚偽もない」「あるのはただそれぞれの社会で受け入れられている道徳や真実だけである」と説明されています[文献1p.12-13]。上記の社会構成主義もある部分では正しいようにも思われますが(ブラウンもそういう部分的なとらえかたもありうる、と述べています)、正統的な科学観とは相容れない部分があることは理解できます。

本書においてブラウンは、主に社会構成主義者たちの考え方の問題点を整理し、それを通じて科学哲学の考え方の解説を行なっています。つまり科学哲学の諸理論の公平な解説ではないのですが、ブラウンの指摘は、一般の科学技術者にとって自分たちと異なる科学の捉え方にはどんなものがあり、その問題点はどのようなもので、異なる意見を持つ人に自分の科学観を理解してもらうためにはどうしたらよいのか、ということについてのヒントを与えてくれているように思います。ちなみに、ブラウンの考え方は一般的な科学技術者にはかなりなじみがよいと思われますので、自分の考え方の確認もできるかもしれません。以下に本書の内容のうち、科学技術者に役立ちそうな内容をご紹介します。

第1章、サイエンス・ウォーズの情景:ソーカル事件、政治的右派か左派か×正統的科学観を支持するかしないかで別れる4つの陣営

第2章、科学者の経験は理解されているか:科学的経験の特徴とそこから導かれる考え方には次のものがある。

・新奇な予測をして的中した理論はいい線をいっている

・多くの現象を統一的に説明できる理論には見込みがある

・正確な予測をする理論は有望

・思考実験には威力がある

・反証を重く受け止め、間違っていると思えば中核的信念を捨てることができる

・科学的方法は改良される

第3章、科学哲学は何を問題にしてきたのか:経験論とは、あらゆる知識は感覚的経験に基づいているとする立場。検証主義とは、命題は経験によりたしかめられてはじめて意味をもつという立場。合理論は、経験論と対立する考え方で、知識のなかには感覚的な経験によっては基礎づけられないものがある、とする。合理主義は社会構成主義と対立するととらえられることが多く、科学上の判断は、合理的論拠と証拠にもとづいておこなわれるべきだという立場。その他、ポパー、クーン、ラカトシュ、ラウダンの考え方も紹介されています。(参考:拙稿「理性の限界」「知性の限界」、「科学哲学の使い方」)

第4章、社会構成主義のニヒリズム派とポストモダン:ソーカルが攻撃したポストモダンは社会構成主義のなかでニヒリズムよりの一翼であって、社会構成主義全体としてみればかなり特殊な集団。ポストモダンの中心概念は、合理主義に反対すること、客観的真理の存在を認めないこと、ローカリズム(観点主義、ごく限定された記述のみが正しく、大きな理論は必然的に間違っているか抑圧的)と考えられる。ニヒリズムは「すべての思想は観点に依拠し、事実というものは存在せず、あるのはただ解釈だけ」というニーチェの全面否定に基づく。ファイヤアーベントもニヒリスト陣営に属するが、多元論(ライバル理論が進歩に寄与する)という考え方から、後年「なんでもあり」(競合する理論は、それが何から生じたものであっても、人々の暮らしを豊かにし、自らの見解に疑問を投げかけるという健全な行為のために役立つ。真に重要なのは「真理」という思い上がった概念ではなく、人間の幸福。)に意見が変化していく。

第5章、3つのキーワード――実在論、客観性、価値

・実在論:ふつう、あるものが実在すると思っていることにたいして実在論という言葉が使われるが、哲学的立場としては、1)科学の目的は実在を正しく記述すること、2)科学理論は正しいか誤りかのどちらか。正否は理論を検証する方法や、わたしたちの心の構造や、社会などにも依存しない。3)理論が正しいということは証拠によって裏付けることが可能(しかし、すべての証拠が理論を支持しても誤りである可能性は残る)、とする。反実在論は「真実を知ろうとしてもむだ」という考え方で、道具主義は、科学の目的は真理を明らかにすることではなく、経験に照らして妥当な説明を与えること(正しいかどうかは重要でない。理論は経験を体系的に整理するのに役立つ記号体系。)。カント主義も反実在論で、ものごとが正しいかどうかは多くの場合、わたしたちの心の構造によって決まるとされる。懐疑主義者はいかなる科学的信念も、証拠に照らしてその正しさが証明されることはない、と考える。社会構成主義は、そもそも科学者は真実を知ることなどを目指すわけではなく、自らの社会的利害に奉仕する理論を推進しようとしている、とする。

・客観性:実在論は客観主義をとるが、反実在論の中にも客観主義をとる考え方がある(道具主義、検証主義)。客観性は、存在論的な意味(ものごとはどうなっているか)と、認識論的な意味(いかにして知識を得るか)を区別して考えることが重要。存在論的には、我々と関係ない事実(客観的)と、我々の判断が入る事実(主観的)を区別できる。認識論的には、客観的とは合理的論拠と証拠に基づく信念であって、そうでないものが主観的と言える。ただし、客観的であるからと言って正しいことにはならない。社会構成主義は主観性を重視する(本当の争点は、認識論的な客観性と主観性の違いである)。

・価値命題とは、「~であるべき」というもので、事実命題(「~である」)とはことなり、一方を他方から引き出すことができない。価値には「認識論(認知)的価値(その根拠を経験的事実に還元できるような価値)」とそれ以外の価値がある。科学はいかなる価値にもとらわれない、と考えるよりも、経験にもとづく検証ができない価値にはとらわれるべきでない、と考えるべき。

第6章、社会構成主義の自然主義派:この分野の研究はSSKSociology of Scientific Knowledge、科学知識の社会学)として行なわれている。自然主義とは「何かを理解するということは、その対象を科学的に調べることであり、調べる対象が科学それ自体であっても同じこと」「自然界を理解する唯一の方法は科学的アプローチ」という立場。しかし、規範のような、一見して自然科学に基礎づけられていないものを、除去するか、再解釈するか、ともかくも何か説明をつけることによって、自然科学に基礎づけられたものにしようとする。しかし、その結果として社会構成主義がもたらされてしまう。これらの基礎となるブルアの考え方の紹介、議論がなされています。

第7章、合理的論拠の役割:合理的であることが信念の形成にどう影響するかが議論されます。ブルアは「因果の物語のなかに、合理的論拠という自然主義的ではない観念が侵入することをやめさせたい」と言います。つまり、合理的論拠に基づく説明は、因果的ではないとみなさなければならず、それゆえ自然主義的でもなければ科学的でもない、という主張です。これに加えて決定不全性(2つの理論のうちどちらが正しいかを決定するには証拠が足りない)を考慮に入れることで、ある信念の採用が社会的ないし心理学的理由によって採用された、という社会構成主義の考え方が出てくる、というのがブラウンの分析のようです。当然、ブラウンはこうした考え方には反発し、合理的論拠は信念の原因になりうる、という立場です。

第8章、科学の民主化:この章では、社会構成主義の議論を離れ、科学の民主化の問題が議論されます。マルクス主義との関係、専門家から権力を取り上げる考え方、弱者の文化と極端な相対主義の問題、大衆のための科学の運動、一般市民は科学の内容を理解することよりも専門家たちの社会関係を理解すべしとする考え方などが取り上げられます。その上で、代表制民主主義、理論の相対評価、多元主義、幅広い可能性の考慮などが提案されます。

第9章、社会的行動計画をもつ科学:科学的知見が社会を動かす論拠として使われる可能性が議論されます。正統的科学観をもつ人たちの考えとしては「価値は、科学研究の方向性を決めはしても、わたしたちが最終的に信用する理論の内容を決めているわけではない」とされます。そして、「わたしたちは社会をより良いものにするために行動できるし、行動すべきなのだ。科学者もそうだが、とくに科学哲学者は、社会の不平等を正当化するようなニセ科学を論駁できるという、社会貢献という観点から特別の位置に立っている。」としています。なお、「あとがき」では、「知識の営利化」が問題と指摘されます。これは企業の立場としては自戒しなければいけないことかもしれません。

なお、ブラウンは、科学と技術は明確に区別していて、本書では科学の問題が議論されています。科学を応用するものとして技術を考えると、価値の問題、目的の問題など、議論がさらに複雑になってくるとは思いますが、社会との関わりの根本のところは同じ問題を抱えているのではないでしょうか。少なくとも、科学や技術の恩恵や迷惑を受ける一般の人は、科学と技術を明確に区別していないようにも思われます。従って、大筋では本書の議論は技術的な話題にも適用が可能ではないか、と思います。

以上が本書の内容の私なりのメモです。内容については、著者の考え方の哲学的側面について考えることが本来なのでしょうが、ここでは、科学哲学を使う立場にいる者として、科学に関する考え方の違いをどう扱えばよいかや、自分と異なる考え方を解釈する上でのチェックポイントになりうると思われる記述を集めてみました。科学技術者にとって、自らとは異なる考え方に接した時、特に、話がうまく通じないなどの違和感を持った時には、上記の観点でチェックをしてみれば、違いのポイントを掴めるのではないかと思います。その違いをきちんと認識しておかないと、話はいつまでも「すれ違い」のまま、ということも起こり得るのではないでしょうか。相手の考え方も尊重しつつ、こちらの考え方もなるべく理解してもらうための具体的な知恵としても、科学哲学が使えるのではないか、と思った次第です。



文献1James Robert Brown, 2001、ジェームズ・ロバート・ブラウン著、青木薫訳、「なぜ科学を語ってすれ違うのか ソーカル事件を超えて」、みすず書房、2010.

参考リンク<2012.2.19追加>


 

科学哲学の使い方(「理系人に役立つ科学哲学」感想)

森田邦久著、「理系人に役立つ科学哲学」[文献1]の感想です。以前に、科学哲学が予想以上に「使えそう」と書きましたが(「理性の限界」「知性の限界」-高橋昌一郎氏の著書の感想)、今回はその続きとして、上記の本のまとめを試みようと思います。

この本は、書名に「理系人に役立つ」と銘打たれているとおり、理系的なバックグラウンドのある人を対象読者としていることがひとつの特徴でしょう。確かに私のような、理系で、科学哲学に興味を持ち始めた人にはちょうどよい入門書といえると思います。それに加えて、「役立つ」ことを目指して書かれている点も特徴のように感じました。これは、知的興味だけでなく役に立つかどうかも重要な判断基準とする理系人の考え方を考慮した上でのことかもしれませんが、「哲学」は「役に立たないもの」という従来一般のイメージを覆すことも著者の意図にはあるような気もします。そこで、以下では、本書で解説された科学哲学全般にわたる内容の中から、科学を扱っている人に「役立つ」と感じた点を中心にまとめてみたいと思います。

本書は以下の12章からなっています。

I部:科学の基礎を哲学する

1章:科学と推論-科学で使う推論は問題だらけ?

・推論として「演繹」「枚挙的帰納法」「アブダクション」「アナロジー」「仮説演繹法」が紹介されているが、これらのうちで論理的に妥当な推論は「演繹」のみ。ただし、演繹的推論では知識が増えることはない。

・枚挙的帰納法とは、「いくつかのすでに観測された事例からまだ観測されていない事例や普遍的法則を導く推論」であるが、その推論は、「自然界で起こる現象には規則性がある(自然の一様性原理)」ことを前提にしている。

・アブダクション(最善の説明への推論)とは、「手持ちの法則(規則)と組み合わせればうまく観察事実が導き出せるような説明項を推論する」「いくつかの可能な説明のなかからもっともよいと思われる説明を選んでいる推論」。ここで「最善の説明」かどうかの基準のひとつとして、「科学においていくつも競合する理論的説明があるとき、もっとも単純で適用範囲が広いものが選ばれる傾向」が挙げられる。

・アナロジーは「ある対象の性質を、それと似た対象の性質から推論する」こと。

・仮説演繹法では、「まず、観察事例から、帰納的推論によって仮説を立てる。その後、そこから演繹的に、いままでまだ観察されていない事象を『予測』し、検証する」。このうち、観察結果から仮説を導く過程を「発見の文脈」とよび、その仮説から予測を導き観察によって検証する過程を「正当化の文脈」とよぶ。

2章:科学の条件-科学と非科学はどう分けられるのか?

・検証可能性基準とは、「意味のある命題(科学的な命題)は経験によって正しいことが証明できる可能性がなければならない」というもの。

・確証可能性基準とは、「意味のある命題(科学的な命題)は経験によって確からしさが増す可能性がなければならない」というもの(カルナップによる)。

・反証可能性基準とは、「科学的な命題は経験によってまちがっていることが証明される可能性がなければならない」というもの(ポパーによる)。このとき、まちがっている可能性が高い(反証可能性が高い)ほど情報としての価値が高い。反証された命題は捨て去られるか、修正されなければならないが、修正される場合、反証可能性が増大しないような修正は「アド・ホックな修正」としてしりぞけられる。

3章:科学と反証-科学理論は反証できない?

・全体論とは、「われわれの知識や信念の全体は相互につながりあった一つの構造体である」というもの(クワインによる)

・観察の理論負荷性とは、「なにを観察するか、また、観察された結果をどう解釈するかは、なんらかの理論に依存している」というもの(ハンソンによる)。ここから、「新しい発見は、適切な予期によってこそ可能である」とも言える。

4章:科学の発展-どんな科学理論が生き残るのか?

・パラダイムとは、「ある特定の理論だけではなく、明文化できないような研究活動上の指針や模範的な研究なども含めたもの」(クーンによる。クーンは後に「専門母体」と呼んだ)。このパラダイム間を比較するための共通の尺度の不在を「共約不可能性」といい、パラダイム間の優劣を決定する客観的基準はない、とされる。しかし、後に、「正確さ」「無矛盾性」「視野の広さ」「単純性」「豊饒性」という選択基準を認めた(ただし、異なるパラダイムのどちらが「真理」に近いか、ということは決定できない)。

・研究プログラムとは、「『堅い核』とよばれる命題を中心として構成される命題群であり、この堅い核は、補助仮説のつくる『防御帯』によって、どのようなことがあっても反証から保護される」というもの(ラカトシュによる)。そして、新しい予測を成功させることができるものは「前進的プログラム」、そのような性質のない疑似科学的なものは「退行的プログラム」とよばれる。どのプログラムを選ぶべきかは、『どちらのプログラムがより真であるか』ではなく、『どちらのプログラムにより発展性があるか』の観点で比較決定される。

・研究伝統とは、「やるべきこと」や「してはならないこと」のひとそろいの存在論的形而上学的命令(ラウダンによる)。ここには理論そのものは含まれない。競合する研究伝統があるとき、どちらを選択するべきかは、「どちらがより高い問題解決能力をもっているか」で合理的に決めることができる。

5章:科学と実在-原子って本当にあるの?

・科学理論には直接的に観察できない対象が多くあらわれる。この時、理論的対象が存在するとする立場を「科学的実在論」、存在しないとする立場を「科学的反実在論」という。

・奇跡論法とは、あるものが実在していないとすれば、実在しているとして説明可能な多くのことがあることが奇跡的である、だからあるものは実在する、と考える実在論の立場。

・介入実在論とは、「『それそのものを操作して予想どおりの結果を出せる』ような対象は実在しているとしてよい」、とするもの(ハッキングによる)。

II部:科学で使われる概念を見直す

6章:説明とはなにか-説明を説明するのは難しい?

DN理論:「科学的説明とは、ある特定の事実から、少なくとも一つの一般的法則を用いて『説明されるべき現象を記述した文』(これを『被説明項』という)を演繹的に導出すること」。(ヘンペルとオッペンハイムによる)

・説明の因果説:「説明とは推論ではなく説明されるべき現象の原因を示すもの」(サモンによる)

・説明の統合説:「ある原理や法則に、説明されるべき現象や法則が統合される。」「統合とは推論パターンを減らすこと。」(キッチャーによる)

・説明の用語論:「説明とは“なぜ疑問”への答えであり、答えるべき“なぜ疑問”の発せられた文脈が重視される」(フラーセンによる)

・一つの現象を説明するしかたは一とおりではない。説明を考えることは、その現象について新しい光を当てることになる。

7章:原因とはなにか-本当の原因はなに?

・因果の規則説:「原因が結果と時間的・空間的に連続、結果は原因のすぐ後に起こる、結果と似たタイプのできごとは、規則的に原因に似たタイプのできごとに引き続いて起こる」(ヒュームによる)。ここでは根拠となるのはこれまでの経験しかなく、原因と結果とのあいだに必然的な結びつきを認めない。

・反事実条件文による因果の分析:「できごとcができごとeの原因であるとは、できごとcとeが実際に生じ、かつ、できごとcが生じなかったならばできごとeは生じなかったであろうとき、そのときのみである」

・マーク伝達理論:「因果過程においては、なんらかの変化がくわえられたとき、それ以上の介入がなければその変化の跡、すなわちマークが伝達される」(サモンによる)

・保存量伝達理論:「因果関係とは保存量を伝達する過程である。二つの過程の交差は、それらのあいだで保存量の交換があるときに因果的相互作用といえる。」(ダウによる)

・介入理論:「二つの変数XとYがあるとき、ある特定の状況下で、ある介入IによってXを変化させたとき、つねにYがなんらかの変化をこうむるならば、XはYの原因だとする」(ウッドワードによる)

8章:法則とはなにか-法則はなぜ法則なのか?

・法則についての規則説:法則は必然的なものではないとする立場。「どのような時間・空間でも成り立つ規則」(普遍性がある)、「投射可能な(いままでの経験が未来にも通用すると推論できる)述語を用いる」(予測に使える)、「論理学の体系のように演繹体系をつくってみて、ある命題が公理もしくは定理になるのなら、その命題は法則とよべる」(法則の網の目説-法則どうしの論理的関連を重視する)

・法則に必然性があるとする立場では、介入によって変化しないものが法則であると考えることもできる。

・ある特定の条件を満たしたモデル(法則定立機構-法則が成り立つ前提をとしてのモデル)を考えたときに、そのモデルがもつ能力が法則であるとする考え方もある(カートライトによる)。

9章:確率とはなにか-確率は主観的なものか客観的なものか

・確率の応用により、理論の確証度の測定や科学と疑似科学の線引きに利用できるかもしれない。

10章:理論とはなにか-科学理論はウソをつく?

・理論は、現象と直接的に対応づけられるようなものではなく、世界を抽象化・理想化した「モデル」である。

III部:現代科学がかかえる哲学的問題を知る

11章:量子力学の哲学-ミクロの世界は非常識?

・波動関数の解釈、観測問題、不確定性関係の解釈など

12章:生物学の哲学-進化論は科学か?

・進化論、道徳、生命の哲学など

以上、科学を取り扱う際の様々な考え方が紹介されていますが、確実に正しいといえるのは演繹による推論だけであって、他はあくまでひとつの考え方にしかすぎません。また、すべてを統合するような考え方も「ない」ということのようです。さらに重要と思われるのは、正しいとされる演繹では知識が増えないということでしょう。研究を行なう場合でも、科学的な議論をする場合でも演繹以外の考え方を使うことは多いわけですが、多かれ少なかれ危うさを孕んだ議論のみが知識を増やす可能性を持つということです。従って、未知のことへの挑戦を行なうならば、正しいかどうかが危うい推論は必須、ということになります。

このように、確かなことがはっきりしないというのが結論では、科学哲学は「役に立たない」と感じられるかもしれません。しかし、これだけの考え方を並べてみると、自分の扱っている現象を理解、整理し、さらに異なる角度から見直すためにどのような考え方の選択肢があるのか、ということがわかるのではないかと思います。科学的な思考としてどのような方法をとるのが「正しい」か、ということは言えなくても、少なくとも、間違っている可能性の高い考え方を見分ける基準になるのではないでしょうか。さらに、これらの考え方のいくつかに当てはまるような考え方は、より確実な考え方に近い、とも言えるような気もします。このように、判断基準となりうる多くの考え方(しかも、ある程度の支持を得ている考え方)に触れられる点こそが、科学哲学の「役に立つ」ところ、といえるのではないかと思います。


例えば、科学的かもしれないあるアイデアを思いついたときに、そのアイデアがどのような危うさをもっているか、そのアイデアの確からしさや説得力を高めるには、どのようなサポート情報を集めればよいか、などについてのヒントが科学哲学の成果から得られるのではないかと思います。工場で不良品が発生したような場合、その原因をいい加減なものに求めていないか(例えば、天気のせいにするなど)、妙な先入観にとらわれていないか(観察結果自体やそこからの発想が、単なる経験や理論の盲信から生まれてはいないか)をチェックすることができるでしょう。さらに広げれば、例えば、超自然的な能力はあるのか、霊魂は実在するのか、マーフィーの法則は法則といえるのか、などについても考える拠りどころを与えてくれるような気がします。そんな荒唐無稽なところまで考える必要はないかもしれませんが、いい加減な理論や説明が「ビジネス」として成立している場合もありますし、もう少し科学に近い感じがするものは実際に多くのビジネスの手段として使われている場合もあるように思います。そうした考えを利用するのかどうかは、科学者、技術者の倫理の問題にも関係してくるはずです。

以前のブログでは、推論を行なう際の危うさと、そうした危うい推論を行なうメリットについての私なりの考え方を「ヒューリスティクス」という概念を利用してひとまとめにしてしまいました。しかし、その背景には科学哲学における多くの知恵の蓄積があったわけです。科学哲学に基づいて考えてみると、ヒューリスティクスとして取り上げた簡便な意思決定には、哲学的にそれなりの根拠のある考え方と、単に思考の節約を目的としたり心理的バイアスに影響されたりする考え方とがあり、それらは区別すべきだったようにも思われます。科学哲学はそのような考え方の線引きにも役立つかもしれません。科学哲学に触れたからといって、技術者の仕事は自らの考えの拠りどころをデータに求め、未来を予測することだという私の個人的な考え方の基本は変わるわけではありませんでしたが、その際の指針を与えてくれるものとして、やはり科学哲学は役に立つと思います。理系人だけではなく、一般の人にとっても役立つはず、と思うのですがいかがでしょうか(一般の人にとっては、科学に対する考え方の大きな見直しを迫ることになるかもしれませんが...)。



文献1:森田邦久、「理系人に役立つ科学哲学」、化学同人、2010.

参考リンク



 


 

「理性の限界」「知性の限界」

高橋昌一郎著、「理性の限界」[文献1]、「知性の限界」[文献2]の感想と考えたことを書いておきたいと思います。

科学を仕事にしている科学者や技術者であっても、科学哲学についてしっかりとした知識を持っている人はそれほど多くないでしょう。かく言う私もほとんど知識がありませんでした。哲学的なことは知らなくても日々の仕事はこなせますし、専門分野の仕事で忙しいなか、哲学からはどうしても遠ざかってしまいます。しかし、科学と社会の関わり方の見直しが迫られ、科学者や技術者の考え方に疑問が呈せられている昨今の状況では、科学の本質や科学的思考そのものについての先人の考え方を知り、自分なりの考えも持っておくことが必要なのではないでしょうか。企業活動の面からも、技術的に優れたものが市場にすんなりとは受け入れられないという現実は、技術者も科学技術の世界に閉じこもっているだけではいけない時代になっていることの現れかもしれないと考えると、実学の面でも科学哲学を知ることの意義は大きくなってきているように思います。

例えば、次のような疑問にはどう答えるべきなのでしょうか。

・合理的な意思決定はどのようになされるべきか

・「正しい」判断とは何か

・科学的な判断は「正しい」のか、どこまで「正しい」と言えるのか

・「正しい」とする根拠は人によって異なるのではないか(特に、科学技術者の世界と一般社会との差)

・技術者は何を判断のよりどころとすべきなのか

いずれも明快な答えはないかもしれません。しかし、現状でどこまでわかっているのかを知っておくことは重要でしょう。ノート2で不確実性について考えた時に、実現不可能な目標を設定してしまうことの危険性を指摘しましたが、科学や科学的思考に限界があるならその限界は知っておくべきだと思います。

今回取り上げた2冊の本は、哲学と論理学の入門書と言えると思いますが、近代科学の影響を受けた現代の哲学や科学そのもの、科学的思考についての様々な考え方とその限界がわかりやすく解説されています。その中から特に興味深く感じられた点を以下にまとめてみます(すべての内容には触れていない点および、かなり強引に要約している点はご容赦ください)。

「理性の限界」では3つの「限界」が解説されています。以下の点が特に重要と感じました。

第1章:選択の限界

・アロウの不可能性定理:2つの個人選好の条件と4つの社会条件で定義される完全民主主義モデルにおいては、その条件すべてを満足する社会的決定方式は存在しない[文献1p.67-72]

・さらにゲーム理論、ナッシュ均衡についても述べられています。

第2章:科学の限界

・ハイゼンベルクの不確定性原理:ミクロの世界では「粒子の位置と運動量をhという数値(プランク定数)よりも高い精度で測定できない」[文献1p.138]

・ある時点で宇宙のすべての原子の位置と速度を認識する「ラプラスの悪魔」は原理的に存在しない[文献1p.141]

・ポパーの進化論的科学論:「環境に適応できない生物が自然淘汰されるのと同じように、『古い』科学理論も観測や実験データによって排除されていく」[文献1p.166]

・クーンのパラダイム論:「科学者集団が共有する『科学的認識』を総称して『パラダイム』と呼び、「古い科学理論が新しい科学理論へ移行するのは、通常科学においては、それが、より多くのパズルを発見し解決するために便利な『道具』であると科学者集団が『合意』した場合にすぎない」、つまり、新たな科学理論が真理に接近するとは限らない[文献1p.168-172]

・ファイヤアーベントの方法論的虚無主義:「単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準が存在しない」、つまり選択の基準は『何でもかまわない』[文献1p.176-177]

第3章:知識の限界

・ゲーデルの不完全性定理:「数学の世界には、公理系では『汲みつくせない』真理が存在する」[文献1p.219]。「ゲーデルは、一般の数学システムSに対して、真であるにもかかわらず、そのシステムでは証明できないゲーデル命題GSの内部に構成する方法を示した」[文献1p.226]。「論理学から全数学を導出できない」[文献2p.54]

「知性の限界」も3つの章からなります。

第1章:言語の限界

・サピア・ウォーフの仮説:「思考は言語に依存する」[文献2p.74]

・ハンソンの観察の理論負荷性:「『観察』は、常に一定の『理論』を背負っている」[文献2p.93]

・クワインの理論の決定不全性:「観察可能なすべてのデータが与えられたとしても、そのデータと合致する理論は、一意的に定まらない」[文献2p.95]

第2章:予測の限界

・ポパーの反証主義:「理論は、決して経験的に実証されない(帰納法によって理論を導くことの否定)」「『反証』される危険性のある予測こそが『科学的』な仮説」「反証可能でなければ科学でない」「反証主義は、『科学がどのように実行されるべきか』を示すものであって、『科学がどのように実行されているか』を示すものではない」[文献2p.133-139]

・複雑系、バタフライ効果:初期値に対する鋭敏な経路依存性をもつ系がある。「複雑系においては、ある特定の原因を与えたとき、それがどのような結果を導くのか、少なくとも従来の考え方では、まったく予測不可能」[文献2p.173]。これまでの科学は、系を構成する要素の法則を明らかにして、それらを足し合わせれば系全体の動きを予測できるとする『要素還元主義』に基づいていたが、複雑系では予測不可能な運動が内部に発生するため、系全体の動きを予測できない[文献2p.184-185]

第3章:思考の限界

・人間原理(宇宙が存在する理由)、神の存在証明などについて。ファイヤアーベントの主張は「既成の方法論に拘らない」こと[文献2p.218]

こうしてみると、科学や技術の本質に関する問題は、すでにあらかた考察されているように思われます。そして、その結果、「XXができない」とか、「XXとは限らない」というような結論が多いことは興味深いと思いました。経済学者のセンによれば、「理性の限界を認識せずに既存の合理性ばかりを追い求めている人を『合理的な愚か者』と呼ぶ」[文献1p.260]、とのことですが、理性の限界を知ることは、「正しい」判断ができるようになることよりも、「誤らない」ことができるようになる、ということなのかもしれません。大胆に敷衍してしまえば、「正しい」と結論づけることや、正しいという理由で他者を理論的に説得することは容易なことではないのだから、「正しい」という考えにとらわれすぎないこと、理論的な根拠に頼り過ぎないことが実践面では重要なのかもしれないと思いました。

加えて、科学者が日ごろ自明のことと考えていることも、見方を変えれば、あるいは突き詰めて考えれば危うさを孕んでいる、ということも示唆されると思います。科学者が「正しい」と考えることも、所詮は「反証されていないだけ」かもしれず、また、そのような科学者の「正しい」という認識が、科学に携わっていない人を含む社会の認識と一致するとは限らないとも言えるのではないでしょうか。技術者にはデータの解釈においても、誰かとの議論においても自分の考える「正しさ」にこだわりすぎない柔軟性が求められているのかもしれません。

では、我々は何をよりどころに意思決定をすればよいのでしょうか。おそらく、理論的に正しいと思われる考えをつきつめていけばよい、ということではないと思います。最も現実的な答えは、正しいことではなく、間違ってはいないと思われることをデータで示すことではないでしょうか。徹底的に考えて計画を立てたとしても、それが正しく、うまくいくという保証はありません。そんな計画よりも、仮説を検証しながら進むという方法が現実的でしょう。結果よければすべてよし、です。もちろん、既存の論理で片がつく問題もあるでしょうが、企業の研究においては、最終的には何らかの物やサービスを提供することによって実証してみせることが必須になります。理論は研究のプロセスにおいて、効率を上げ、選択肢を広げ、高い目標の設定に寄与する役割を担うものと理解することもできるのではないでしょうか。

さらに他者を説得する場合に、科学に関する認識が人によって違うことを知っておくことは重要でしょう。製品を消費者に受け入れてもらいたい場合や、自説を受け入れてもらいたい場合に、自説の「正しさ」で説得しようとしても効果がないかもしれません。科学的データや理論に対する相手の理解のしかたを知っておけば、「正しさ」を主張するより、「間違っていない」ことをデータで示すアプローチの方がよいという可能性もあるでしょう。そういう意味で、より間違いのなさそうな仮説をデータから拾い出し、主張するというのが「現場主義」の本質という気もします。

深淵な科学哲学に触れた結果が現場主義では結論として情けないような気もしますが、ファイヤアーベントによれば、「あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準が存在しない」そうですから、最初から無理して自分の理解を超える結論を受け入れる必要もないでしょう。加えて言えば、ファイヤアーベントの「何でもよい」という考え方は実務的にはかなり示唆に富んだ指摘ではないかと思われます。「何でもよい」を受け入れなければ、様々な考え方との相互理解はできないかもしれませんし、権威主義を離れた「何でもよい」という考え方から新たな発想が生まれてくるかもしれません。その時に、データという拠りどころを求めていくのが技術者の仕事かもしれない、とも思いました。

様々な考え方に触れることは、なるべく間違いのない(予想が当たる)推論をするためには重要でしょう。発想の源としても、論理的な考え方の実例としても、思考の訓練としても論理学や哲学の知識は有用なことは言うまでもありません。それに加えて、科学哲学が予想以上に「使えそう」と思わせてくれたことは貴重だったと思います。



文献1:高橋昌一郎、「理性の限界」、講談社、2008.

文献2:高橋昌一郎、「知性の限界」、講談社、2010.

参考リンク<2012.2.19追加>


 

 

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