これからの時代、「仕事」というものはどう変わるのでしょうか。そして、技術はその変化にどのように関わるのでしょうか。新井紀子著「コンピュータが仕事を奪う」[文献1]を題材に、科学技術と仕事、労働の関わりを考えてみたいと思います。

「コンピュータが仕事を奪う」とはいかにもセンセーショナルですが、この2030年、コンピュータがいかに生活に浸透してきたかを思い返してみると、確かにそういう面もあると思います。著者はクルーグマンの著書を引用し「アメリカやヨーロッパで起こっている失業問題は、グローバル化によるものではなく、技術革新によるものだ」[文献1p.3]と述べています。今後さらにコンピュータが発展すれば、人間の仕事はもっと減ってしまうのではないかという不安に対し、この本では、コンピュータはどんな仕事を得意とし、どんな仕事は苦手なのか、コンピュータとの共存を前提として、人はどんな仕事をすべきなのか、といったことが述べられています。(実際にはそれだけではなく、コンピュータやそれを支える数学の考え方などについても、非常に興味深い内容が書かれていますので詳しくは本書をご参照ください。)

本書の内容のうち、「コンピュータが仕事を奪う」、すなわちコンピュータと「人間が頭を使う作業」との競合の観点から重要と思われる点をまとめると以下のようになると思います。

・コンピュータは人間の脳が行なうあらゆることを人間より効率的にこなせるわけではない。原理的に計算量が膨大になってしまってコンピュータでは現実的に答えを出せない問題が存在する。

・コンピュータはデータの意味を考えることが苦手。例えば、画像データからその画像に何が映っているかを判断したり、文章の前後関係を考慮して翻訳したりすることが苦手(ただし、膨大なデータの学習により推定の精度は上がっている)。さらに、意味のある課題の抽出、何をコンピュータに行なわせるかの判断、データを抽象化することなども苦手。
・コンピュータが苦手な作業は人間が行なったほうが効率よく正確、有用な結果が得られる場合がある。その作業が本来人間が行なうべき作業であれば仕事を奪われることにはならないが、コンピュータに学習させるために、コンピュータには作成困難なデータを人間が作ってあげるような仕事は、人間がコンピュータの下働きとして仕事をすることになる。ただし、このうち人間なら誰でもできるような作業は人間同士で仕事の奪い合いになるので賃金は下がらざるをえない。そして学習によってコンピュータの能力が向上すれば、それによっていずれ人間の仕事が奪われる可能性もある。

そして、筆者は次のように述べています。「コンピュータにはできない抽象化作業をし、その結果生じる低レベルの知的作業をコンピュータに代替させる方策を考えることが、ホワイトカラーに残される最も意味のある仕事」[文献1p.58]、「耳を澄まして、じっと見る。そして、起こっていることの意味を考える。それ以外に、結局のところ、コンピュータに勝つ方法はない」[文献1p.218]。

つまり、著者の見通しによれば、人間の活動すべてが機械やコンピュータに取って代わられるものではないが、機械でもできる仕事はどんどん増え、仕事を奪われてしまう人も増えるということになると思います。このような傾向は、コンピュータに限らず、他の技術の進歩によっても起こってきたことでしょう。主に産業革命以後、コンピュータも含む機械は、人の行なう単純作業の代替から始まって、現在はホワイトカラーの行なう頭脳労働の代替を行なうようになっていると考えられ、結局のところ、技術が人間の仕事を奪っている、と言わざるをえない状況だと思います。新技術の開発が、よりよいサービスの追求や効率向上を求めて行なわれる限り、技術の進歩が人間と機械の競争をもたらし、その結果人間の仕事が奪われていくというのは自然の成り行きなのでしょう。

人間であっても機械であっても同じ仕事を行なうなら効率的な方がよい、というこのような考え方の背景には、平川克美氏の言う、アメリカの労働観すなわち「ベンジャミン・フランクリンが説いた『労働とは時間であり、時間とは貨幣である』というプラグマチックな労働道徳」さらに言うなら「ハードワークも、倹約も、遊びも、勉強も、すべては金銭という尺度によって計量可能なものであるという金銭価値一元的な考え方」[文献2p.127]が影響しているように思われます。そうだとすれば効率向上を目的として技術を開発すること自体、人間以上の成果を期待しているわけで、目的からして人間の労働を失わせるものと言うことになるでしょう。

もちろん、機械にやってもらって嬉しい、という仕事もあるでしょう。しかし、その機械の能力を効率追求や人間以上の能力を求めて活用しようと思うことによって、必然的に人間が機械と仕事を取りあうという状況を生むことになるわけです。では、こうした技術は人間の敵なのでしょうか?。と考えると、仕事がどこから生まれるかについてもう少し考える必要があるように思われます。まずは以下の2つの要因を考慮する必要があるでしょう。

1)、仕事のニーズがあるか

2)、仕事のニーズがある時、誰が仕事を行なうのか(仕事をめぐる競争)

機械に仕事を奪われる、というのは、上記2)の競争に敗れる場合と考えられます。1)の仕事のニーズについては、新技術の開発によって古い技術のニーズがなくなったとしても、ほとんどの場合は、その古い技術が与える恩恵自体の本質的なニーズがなくなるわけではないことに注意が必要です。例えば、自動車の出現によって馬車のニーズがなくなったとしても、人がなるべく早く楽に移動したいという本質的なニーズは消えたわけではありません。その本質的なニーズは別の物によって満たされているわけで、要するに本質的なニーズを満たすための手段や行為者間での競争により、不利な方が仕事を失う、ということになります。

してみると、2)の競争が激化しても、1)の本質的なニーズが増える場合には、トータルの仕事が増える可能性があることになります。最も単純な状況としては、経済発展により様々なニーズ自体が増大している場合が挙げられるでしょう。科学技術の進歩は、仕事をめぐる機械と人間との競争を生むこと以外に、このようなニーズの創造に寄与できる一面も持っているはずです。そのニーズとしては必ずしも画期的なものでなくともよく、本質的なニーズ自体は従来のものと同じであっても、消費者がそれに対してより多くの対価を払う気になるようなものであればかまいません。本質的なニーズを満たす従来の手段にとってかわるような技術が生まれ従来の仕事が失われたとしても、新たな技術によってニーズが増大し、より多くの雇用が生まれるとすれば、技術が仕事を創造したことになるはずです。

もちろん、そんなうまい話は多くはないかもしれませんし、一旦創造できた仕事も時間がたてばさらなる技術の進歩によって機械に奪われていくものかもしれません。しかし、人間の仕事を代替すること以外に、仕事の創造を目指す、という方向も技術者の役割のひとつではないでしょうか。

例えば、コンピュータはゲーム産業という新たな仕事を創出しました。これは単に太古の昔から人間が行なってきた「楽しみ、暇つぶし」という本質的ニーズを機械が代替したものであるかもしれません。しかしコンピュータの発展なくしてはそれが大きな雇用を生むこともなかったはずです。もちろん、ゲーム産業によって従来の娯楽産業の雇用の一部が失われたかもしれませんが、それを補ってあまりあるニーズの創造ができたのではないでしょうか。

小飼弾氏は上記「コンピュータが仕事を奪う」の書評で、「職がなければ遊べばいいのに」として「不要不急の遊びが仕事化された」ことを指摘しています[文献3]。もちろん、労働を金銭価値に一元化する考え方からすれば、遊びを仕事化することに抵抗のある人もいるでしょう。しかし、お金につながらなければ仕事ではない、という考え方は変える必要があるのかもしれません。そもそも前出の平川氏は1960年代の日本には、「労働とは金銭に還元できるものであるというよりは、何ものにも還元できない生き方そのものの道徳律であったように見える」という労働観があったとしています[文献2p.129]。そして、「かつて金銭に還元されえないと思われた様々な人間活動(たとえば親切、もてなし、義務の遂行、贈与といったこと)が金銭で測られるように」なったとしています[文献2p.133]。平川氏は、仕事や労働を金銭価値に一元化して考えることの問題点を指摘しているわけで、遊びまで労働と同列に評価してよいかどうかについては述べていませんが、「お金につながらない」という意味では同じと考えてもよいのではないでしょうか。機械と人との仕事の奪いあいがこうした労働観と関係しているとすれば、遊びを仕事にすることも含めて労働観を変えないといけない世の中になったのかもしれません。機械に仕事を奪われた人間には時間が与えられます。今は仕事と金銭が密接に結びついているという考え方が支配的なので仕事がなくなると生活できないと思いがちですが、そうした価値観にとらわれるあまり、与えられた時間をどう使うかという発想が困難になっているのかもしれません。人間にとっての「仕事」の意味の見直し、意義の拡大が求められる世の中になっていくのではないか、という気もします。

例えば、営利の追求を第一目的としないソーシャルビジネスなども従来とは違った仕事の意義を提供しているといえるのではないでしょうか。してみると、研究開発という仕事も金銭価値に一元化して考えることは好ましくないかもしれません。研究課題として、すぐには役立つとは限らない「遊び」のようなものであってもよいかもしれませんし、金銭的見返りが期待できなくても、研究者の知識と経験を社会に贈与するような活動なども意義のあることとして認識すべきなのかもしれません。さらに、研究開発という行為そのものを金銭的価値基準から全く切り離して、知識や経験を持つ者の「義務」として捉えること、あるいは「遊び」として楽しむことも必要なのかもしれません。研究が金銭と結びついた労働行為として捉えられるようになったのは、比較的最近のことですから、それを再び金銭価値から分離することで、研究開発自体を従来にない価値を創造する新たな産業にできるのではないか、などとも思います。

平川氏は、我々が現在抱えている問題は、人口減少によって解決の方向に向かうとも示唆しています[文献2p.191]。長い目で見ればそうなのかもしれませんが、そうした問題の解決に技術が役に立つとすれば、研究開発の意義を金銭的利益以外の分野にも広げていく意義があるのではないでしょうか。そうすることで、技術の進歩によって人間の仕事を奪う以上に、より多くの新たな仕事を創造することができるような気もします。


文献1:新井紀子、「コンピュータが仕事を奪う」、日本経済新聞出版社、2010.

文献2:平川克美、「移行期的混乱-経済成長神話の終わり」、筑摩書房、2010.

文献3:小飼弾氏ブログ、「職がなければ遊べばいいのに - 書評 - コンピュータが仕事を奪う」、2011.1.7.

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51584549.html


(参考)以下の記事も参考にさせていただきました。

小島寛之氏ブログ記事、「新井紀子さんの新著『コンピュータが仕事を奪う』日本経済新聞出版社を読んだ。」2011.1.31

数学ライター、経済学者の視点からの内容紹介、書評です。筆者の目から見た重要ポイント、ナッシュ均衡などについても書かれていて興味深かったです。

http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20110131/1296458097

Seiichi Kasama氏ブログ記事「新井 紀子『コンピュータが仕事を奪う』」、2011.2.18

コンピュータによる人間の知的活動の置き換えについてのコメントなどがあります。考え得る選択肢の中から選び出す「注意」という視点が興味深かったです。

http://ser-lys.blogspot.com/2011/02/blog-post_18.html

mickmack氏ブログ記事、「コンピュータをぶっ壊せ:新井紀子『コンピュータが仕事を奪う』」2011.7.17

機械化と労働市場、コンピュータについてなどのコメントがあります。

http://d.hatena.ne.jp/mickmack/20110717/1310919724

新井紀子氏ブログ

http://researchmap.jp/arai_noriko/ブログ/

新井紀子氏ブログ記事、「『コンピュータが仕事を奪う』刊行」、2010.12.21

http://researchmap.jp/joex44zo6-78/#_78

参考リンク<2012.2.19追加>