私の俳号・雅号は藍蟹堂(らんかいどう)。ここでは、私が毎日の暮らしの中で道草しながら、気づいたこと、感じたこと、拾ったこと、掬いあげたこと、などをお伝えしたいと秘かに思っている覚え書きです。

その冒頭に、なぜちょっと小難しい雅号を私が名乗っているのか、謎解きをいたしましょう。
もとより蟹座生まれの巨躯を操る輩ということで往時の師匠より名付けられた巨蟹堂(きょかいどう)を皮切りに、オランダ滞在時の蘭癖研究者を自嘲しながら語った蘭蟹堂(らんかいどう)、帰国後に福岡県八女市に遺る明治期大屋敷で覚悟の徹底エコロジカル暮らしを遂行している際に用いた樹蟹堂(じゅかいどう)、その後の博多湾暮らしを契機に名乗った藍蟹堂と出世魚のように変化を楽しんできたものです。
たしかに蟹の横歩きのように多彩な研究領域を横断してきました。蟹の目と言えば、宮澤賢治『やまなし』に登場してくるあの蟹の親子を思い出すのも一興です。常に遠くて高い空を飛び回る鳥たちの姿や影が、川の流れで屈折してぼんやり見えるばかり。たとえて言えば「近代」という時の流れは海の波濤や川の流れのようにとどめなく世界を変えていきながら、新たな価値や新たな哲学をもたらすと同時に、旧来の生き方や哲学のあり方に疑問を突きつけてきます。その流動する世界を怖々と見上げながら、水底に身を潜め静観しているのがこのささやかな私自身にほかならないのです。賢治の物語では、時として強大で素早く動き回る影が川の水面に浮かぶ「やまなし」を奪い去っていくように、私の存在にも影がもたらされることがあります。しかしそれは私自身の近代的自我を育てていく苦しみでもあります。世間や娑婆とどのような関わりや交わりを育てていきながら、みずからの「近代観」をかたちづくっていけばいいのか、真摯な自問自答のプラットフォームとして藍蟹堂の雅号を戴いたのです。