February 12, 2009
January 13, 2009
みなさん、こんにちは。蘭館の平吉です。
大阪...1月に入ってから本格的に寒さが厳しくなってまいりました。
寒がりの平吉は、暖房ガンガンタイムで頑張ってます 笑
先日よりはじめました蘭館のブログ。
蘭館の秘密もどんどんお伝えしていこうと思っております(・◇・)ゞ
そこで!第1弾!
お店に飾ってある「蘭亭の序」

今回はこの日本語訳を書きたいと思います。
「永和九年(三五三)、歳星の宿りが癸丑(きちゅう)の方角に位置する
年の三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興)の蘭亭に参集したのは、
流水のほとりで身を清める禊(みそぎ)の祭りを行うためである。
才能あふれる詩人たちがことごとく至り、若者も年長者もみな集った。
この地は高い山、険しい嶺(みね)、こんもりと茂った林や長く伸びた竹が
あって、その上清らかな流れ、激しい早瀬があり、その様子があたりに照り映えて
いる。その水を引いて、杯がゆるやかに流れるような曲がりくねった小川を作り、 流れのほとりに順序よく並び坐(すわ)った。琴や笛の賑(にぎ)やかさはないも のの、一杯の酒を飲んで一首の詩を作ることは、心中の奥深くある感興を表すのに 充分である。
この日、天は朗らかに晴れわたり、空気は澄みきって、恵みを施す和らいだ風がのびやかにそよいでいる。天を仰げば宇宙は限りなく大きく、見下ろせば地上の万物がそれぞれさまざまに盛んである。そこで目をほしいままにしてあたりの情景をめで、目に映ること、耳に聴こえることを存分に極めるのは、まことに楽しいことである。
そもそも人は互いにこの世の中で暮らしていくにあたり、ある者は胸中に蓄える想(おも)いを取り出し、静かに一室の中にとどまって語り合い、ある者は自分の好むところに心を寄せ、肉体を超えた世界に自由にさまよう。その行為はいろいろに異なるが、心が物事に合って喜び、しばし自分の意のままになる場合には、気持ちよく満足して、老いが近づくことにも気づかない。
しかし、そうした心の赴くところも興味が尽きてしまうと、楽しかった感情は楽しんでいた物事とともに移ろい、情感もそれにつれて薄れてしまう。以前の喜びは、たちまちのうちに往時の古いあとと消えうせることを思うと、心を動かさないではいられない。まして人の寿命には長短があり、運命のまにまに、遂(つい)には命が尽きてしまうものであることを思うと、なおさら大いに思いを深くするのである。昔の人も生と死は一大事であると言ったように、どうしてこれを痛み悲しまないでいられようか。
昔の人が生死の際に感動したわけは、私のこころと割符を合わせたようにぴったりと一致している。昔の人が感慨を述べた文章に接すると、いまだ一度も嘆き悲しまないではいられず、その悲しみのわけを悟ることができなかった。もとより(『荘子』などが説くように)生と死を同一視することはいつわりであり、七百年も長生きをしたという彭祖(ほうそ)と、若死にした者とを同じに見るのはでたらめである。後世の人々が今の我々のことを見て感慨をおこすのは、今の我々が昔の詩文に接して心を動かすことと同じである。古今不変のその思いは、何と悲しいことであろうか。
そこでここに集った人々の名を列記し、彼らが述べた詩を書きとめておく。時世は変わり、事がらが異なっても、感動の源は同じである。後世、これを読む人も、またこれらの文に心を動かすことがあるであろう。」
という内容です。
これを蘭館は、「凡人、凡客がみんなで集い楽しむ場所」という願いを込めて
蘭館の喫茶店を開いています。
みなさまに感動を伝えられるお店として、頑張ります!!
平吉でした。 では、また
大阪...1月に入ってから本格的に寒さが厳しくなってまいりました。
寒がりの平吉は、暖房ガンガンタイムで頑張ってます 笑
先日よりはじめました蘭館のブログ。
蘭館の秘密もどんどんお伝えしていこうと思っております(・◇・)ゞ
そこで!第1弾!
お店に飾ってある「蘭亭の序」
今回はこの日本語訳を書きたいと思います。
「永和九年(三五三)、歳星の宿りが癸丑(きちゅう)の方角に位置する
年の三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興)の蘭亭に参集したのは、
流水のほとりで身を清める禊(みそぎ)の祭りを行うためである。
才能あふれる詩人たちがことごとく至り、若者も年長者もみな集った。
この地は高い山、険しい嶺(みね)、こんもりと茂った林や長く伸びた竹が
あって、その上清らかな流れ、激しい早瀬があり、その様子があたりに照り映えて
いる。その水を引いて、杯がゆるやかに流れるような曲がりくねった小川を作り、 流れのほとりに順序よく並び坐(すわ)った。琴や笛の賑(にぎ)やかさはないも のの、一杯の酒を飲んで一首の詩を作ることは、心中の奥深くある感興を表すのに 充分である。
この日、天は朗らかに晴れわたり、空気は澄みきって、恵みを施す和らいだ風がのびやかにそよいでいる。天を仰げば宇宙は限りなく大きく、見下ろせば地上の万物がそれぞれさまざまに盛んである。そこで目をほしいままにしてあたりの情景をめで、目に映ること、耳に聴こえることを存分に極めるのは、まことに楽しいことである。
そもそも人は互いにこの世の中で暮らしていくにあたり、ある者は胸中に蓄える想(おも)いを取り出し、静かに一室の中にとどまって語り合い、ある者は自分の好むところに心を寄せ、肉体を超えた世界に自由にさまよう。その行為はいろいろに異なるが、心が物事に合って喜び、しばし自分の意のままになる場合には、気持ちよく満足して、老いが近づくことにも気づかない。
しかし、そうした心の赴くところも興味が尽きてしまうと、楽しかった感情は楽しんでいた物事とともに移ろい、情感もそれにつれて薄れてしまう。以前の喜びは、たちまちのうちに往時の古いあとと消えうせることを思うと、心を動かさないではいられない。まして人の寿命には長短があり、運命のまにまに、遂(つい)には命が尽きてしまうものであることを思うと、なおさら大いに思いを深くするのである。昔の人も生と死は一大事であると言ったように、どうしてこれを痛み悲しまないでいられようか。
昔の人が生死の際に感動したわけは、私のこころと割符を合わせたようにぴったりと一致している。昔の人が感慨を述べた文章に接すると、いまだ一度も嘆き悲しまないではいられず、その悲しみのわけを悟ることができなかった。もとより(『荘子』などが説くように)生と死を同一視することはいつわりであり、七百年も長生きをしたという彭祖(ほうそ)と、若死にした者とを同じに見るのはでたらめである。後世の人々が今の我々のことを見て感慨をおこすのは、今の我々が昔の詩文に接して心を動かすことと同じである。古今不変のその思いは、何と悲しいことであろうか。
そこでここに集った人々の名を列記し、彼らが述べた詩を書きとめておく。時世は変わり、事がらが異なっても、感動の源は同じである。後世、これを読む人も、またこれらの文に心を動かすことがあるであろう。」
という内容です。
これを蘭館は、「凡人、凡客がみんなで集い楽しむ場所」という願いを込めて
蘭館の喫茶店を開いています。
みなさまに感動を伝えられるお店として、頑張ります!!
平吉でした。 では、また