2014年09月02日

久々に自分のブログを発見

 昔の自分の言っていることは色々な意味で面白いですね。
 人生の恥には間違いないですが、私の座右の言葉が「人生に恥など何も無い、全てが糧になっている」みたいな立派なお言葉だったと思うので、そのままそっと新しい記事を書かせていただきます。
 このブログから4年、何があったかといえば、2年後に再びアロンソが世界タイトルに近づきましたが、正にこの2010年の続きのような展開のまま敗北しましたね。彼は本当に不運ですね。未だに最高のレースをしているのですから大したものです。
 あとは、ハリウッド版ゴジラが製作され、アダルティーなドラえもんの映画が製作され、F1を題材にしたアーティスティックな映画「Rush」が製作され、ダークナイトが完結して、なんていうか、このブログ的には感無量ですね。僕は恵まれていると思います。
 最近読んだ本は「かもめのジョナサン」です。最近めっきり本を読んでいなくて、仕事の虫と、刹那的な享楽に耽る毎日です。でも昔よりも元気かもしれません。
 年をトッタノデスネ。

rar_dc2006 at 23:50|PermalinkComments(1)

2010年11月15日

アロンソの夢

アロンソ反省会。戴冠を目の前にして図らずも辞退してしまった6つの理由を考える。

1周目のSC時に何故マッサをピットに入れなかった?

▲ΕД弌爾ピットインした直後に何故反応できなかった?

2晋僚膂未魍稜Г擦坤ΕД弌爾料阿妨納垢靴?敵は3人いたのに?

そ盤ヤケクソになる前に何故リスクを犯して前車に仕掛けなかった? 2〜3台抜かなければならなかったので、後半になるほど状況は悪くなるのに何故待機した?

イ修發修盧能戦を残して勝てる可能性のあった前回、なぜ保守的になった? 有利なうちに畳み掛けた方が可能性あったのでは…?

Δ垢覆錣船譽奪疋屮襪望,討覆ぅ泪轡鵑世辰燭里世ら、保守的になって手の内(マシンの限界)を見せては駄目だったのだろう。


rar_dc2006 at 20:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記(ぼくの日常) 

2010年10月12日

苦しい

生きてる意味が分からない。

少なくとも
明日また早く起きて、出勤するメリットが実感できない。

何も楽しくない。何も心を揺さぶらない。
やってみようと思ったことが、ものの30分くらい経つ頃にはどうでもよくなっている。

色んな意味で、どうでもいい。
どうでもいいから、会社に行く。
どうでもいいから、何も始めないし、何も終わらない。

でもこんなこと思うこと自体とても悪いことだと分かってる。
自分はあらゆる存在に生かされて今生きてる。
自分の命は自分のものじゃない。
預けられてるだけ。

だから、すべてのみなさんに
ごめんなさい。


rar_dc2006 at 23:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記(ぼくの日常) 

2010年09月26日

2010年F1シンガポールGP

激戦でしたね!
トップ二台が一周毎に最速タイムを塗り替え合うという精神戦でした。
タイトルを争うドライバーが5人もいるので、まるでマリオカートのようにスコアシートが更新されていきますね。

残り4戦で誰が先頭に立つのか全く分からなくなったデス。


rar_dc2006 at 23:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記(ぼくの日常) 

2010年06月03日

リミット感想2

リミット(2) (講談社コミックスフレンド B)リミット(2) (講談社コミックスフレンド B)
著者:すえのぶ けいこ
販売元:講談社
発売日:2010-06-11
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果たして「リミット」のテーマは何なのか。
そのプロットは単純である。

みんな死んだ―。
見ないふりも、うわべの笑顔も、
ここでは何の価値もない。

突然のバス事故。生き残ったのは女子ばかり、わずか5人。
鎌を手にして絶対的権力を握った盛重は、
クラスで虐げられてきた日々の復讐を図る。
そして「恐怖」が事態をますます悪化させていく―。
(「リミット(2)」アマゾン内容説明より)


キャッチーなイジメという要素を捨て、枷を脱ぎ捨てた非常にシンプルなテーマ。「社会」である。

 少し思い出して欲しい。「ライフ」はイジメというプロットを隠れ蓑に、2人だけの確固たる価値共同体を作る話であった。価値共同体は社会とも言い換えることができる。「ライフ」の大団円の中で見過ごされていたが、実は主人公アユムは反体制的行動を徹底しているように見えながら、実は新たな、より理想的な社会を築きあげようとする微かな流れが存在していた。だがその流れは非常に弱弱しく、それがラストの「光になりたい」という象徴的な台詞へと繋がっていくのだ。
 この2人の確固たる社会というテーマは圧倒的な実在感をもって描き出されていたがために、「ライフ」を超えたすえのぶけいこ自身のテーマなのであろうと私は考えていた。だからこそ理想は理想のままにといった様な夢見がちなエンディングとなったのだろうと。
(余談だが、この素晴しいハッピーエンディングはライフのファンであった中高生には不評であったらしい。すえのぶけいこの願い空しく、主要な読者は彼女の漫画の苛烈な描写のみに歓喜していたに過ぎないというのか...)

「リミット」は、5人の登場人物が恐怖と権力によって縛られた共同体に「属して」展開していく物語である。これまでの作品のように独立して二人だけの世界、夢見がちな理想卿へ抜け出すことはできないことが冒頭から明示されている。ここまで示されては想像せざるを得ない。恐らく「リミット」は理想の社会を作る話なのだ。一巻の段階で、既に階級争いという寓話的な要素が前面に押し出され、この物語が象徴的エピソードのみで構成される荒削りな作品であることが暗示されている。それは仕方ないだろう。それほどまでに進歩的なテーマなのだ。
6月11日に発売される2巻に激越に期待する。



rar_dc2006 at 22:53|Permalink 書籍(なんでもアリ) 

すえのぶけいこ「リミット・1巻」

リミット(1) (講談社コミックスフレンド B)リミット(1) (講談社コミックスフレンド B)
著者:すえのぶ けいこ
販売元:講談社
発売日:2010-02-12
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


すえのぶけいこさんのエネルギーには驚かされます。

件の傑作いじめ漫画「ライフ」は、その驚くべきテーマを驚くべきテンションで大団円の内に描ききったことに感心しきりでしたが、その興奮冷めやらぬうちにまた危険度の高い火炎瓶を投げ込んできました!

彼女の新作「リミット」は、楽しいキャンプ旅行に向かう一クラスを乗せたバスが崖から転落し、生き残ったわずか五人の少女たちは同じクラスでありながら関わりあいのない者同士。そんな中で「武器」を手にし権力を握ったいじめられっ子の亜理紗は、女帝・王族・平民・召使・奴隷という序列を生存者に強要し始める……クラスの中心メンバーとして幅を利かせていた主人公コンノは、価値観の崩壊と切羽詰った生という問題と向き合うこととなった……という少女漫画とは思えない目茶目茶硬派なサバイバル漫画なのです。

私をして驚嘆せしめたのは、「ライフ」からのテーマの変貌ぶりでした。「ライフ」はすえのぶさんの出世作であり、ドラマ化もされた言わずと知れた作品です。いじめと戦う少女の姿を描いた「ライフ」のテーマは一見するといじめ問題そのもののようでありますが、いじめ問題は「ライフ」に限らず短編「ビタミン」や「ハッピートゥモロー」から連綿と続くすえのぶけいこさん作品のパッケージ―包装であり、彼女の思想の起点にすぎないと思います。

初期の秀作「ビタミン」では中学生にとっての学校を、弱者にとって不条理極まりない社会そのものの暗喩として描き、排斥された者にとって取るべき最善策は独立であるという反社会的決意を凄まじい肯定感をもって表しました。

続く「ライフ」では高校を舞台に、「ビタミン」同様に反社会・反学校の人となるアユムを主人公にしながらも、より発展的なテーマを扱っていました。アユムに真の理解者であり同性愛的な恋人であるミキが登場することで、学校(彼女らにとっての社会)とは異なる価値共同体が作られるのです。(2人だけとはいえ)共同体の中での試行錯誤と関係性の構築が描かれ、最終的には互いに本音で話し合い、多数の倫理に流されないという価値を共有するまでに到達します。そして一定の倫理的強度を持つに至った彼女らの価値共同体は、学校・クラス・友達グループに対して、確かな存在感を獲得します。

そして、「リミット」へ至るのです。

「ライフ」が大団円のうちに完結したとき、私は正直言って、この作者にもう新作は書けないだろうな…という予感を受け取っていました。「ビタミン」というある意味私小説的な小品(中略)学校の友達の忌まわしい特徴――表面的な付き合いを善とし、互いに牽制し合う階級社会――を一切持たない、(絶筆)



rar_dc2006 at 22:02|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 書籍(なんでもアリ) 

2010年05月23日

攘夷か開国か?

ttp://www.animation.or.jp/~kaori/MAIN/ONEGAI.html

上のURLみたいなサイトがインターネットにはゴロゴロしている。
ぼくは(その真偽は別として)こういうページを見る度に、
150年前の、攘夷か開国か? という論争を考える。
そして解釈によって如何に情報が豹変するか。
それを再認識して身震いするのだ。

たとえば今の時代、攘夷論者の思想の実現は、その正邪はともかく当時の兵力では多分無理だろうな、くらいのことは誰もが知っている。

実現の可否だけではなく、そういう鎖国的・保守的思想は古く、いずれ倒された思想であった、摂理であったというような考えが僕らの中に蔓延している。

でもそれはあくまで現代思想にかぶれた僕らの意見である。

150年前には、涙を流しながら、日本を夷狄から守らねばならぬ...! と命をかける思いで語る志士たちが大勢いて、それを支持する人たちも沢山いた。
それは奇天烈な主張でもなんでもなく、常識的意見、確かにそうかもな、と頷く考えの一つだっただろう。

血気盛んに息巻く連中もいれば、中には理路整然と開国論者を非難し自身の正当性を説く攘夷派もいただろう。

そういう人らを目の当たりにして、僕らは言えるか?!

「いやいやいやいや、やばいでしょ。君たち」

と!

開国が正解かどうかは分からない。
動転し、悩み恐れるのは当然のことなのである。

ただ僕のように、為るがままに生き、為すように生きる者にとっては、割とどうでもいいことである。





rar_dc2006 at 01:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月11日

「最終兵器彼女」とは何だったのか?

最終兵器彼女 (1) (ビッグコミックス)

引越しを二回に分けて行おうと思うので、嫌々ながら部屋の片付けというものを行っておるのです。何でもかんでもダンボールに投げ込んで業者さんが運んでくれるっていうのなら何も不自由ないのですが、それはこれからプロレタリアートにならんとする者の取るべき態度ではないというくらいの常識は持ち合わせています。では、全て捨てちゃって必需の中の必需品だけを持って行こうと思えるほど、nunnboは賢者めいてはいないのです。したがって、今後の人生において必要か否かという壮大な観点で我コレクションを選別しなくてはいけないので、気が滅入ってしまいます。

さて、そして表題に戻るわけですが、果たして「最終兵器彼女」は実家に置いておくべき本なのでしょうか。将来の書斎の片隅にでも存在する価値のある本なのでしょうか?
この記事を最後まで読んでしまうような暇な方はどうかお考えください......


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「最終兵器彼女」は作品としては実はそれほど面白くはないのですが、わが国サブカル界において一世を風靡したセカイ系の流れの中では、古典的な雰囲気のある漫画ですね…。雰囲気だけでして、実際にエポックメイキングだったかどうかは分からないんですが……。この古典的な雰囲気という奴が非常に厄介でして、もしかしたらこの作品を読み直すときが来るのではないかといった妄執に取り付かれることが幾度かありまして未だに書棚にあるのです。

もう一点、「最終兵器彼女」には長所がありまして、何しろ有名な作品ですからそんじゃそこらのオタク向け作品群の中にあって一般人受けは抜群に良いんですよね。テーマが恋愛である点も助けるのか、nunbo色した書棚にあって、男女問わず「アッ読んだことあるよッ」って感じのコメントを頂ける数少ない蔵書なのです。

だから何だってンだよッて感じですがね。
落としどころのない話ですけど、まとめると「最終兵器彼女」は意外にも社会的価値が高い、とnunboの経験上言えるのではないでしょうか。

何故、多くの人々にアピールするのでしょう。
思春期にありがちな、矛盾したままの感情を遠まわしに発露していく様といったような描写が、中高生時代には恐るべきリアリティをもって訴えかけるのでしょうか。

作者の個人的恋愛としか思えないくらいの圧倒的な小市民的リアリティが、私小説のような面白さをもっていると言えなくもないですね。

しかし「最終兵器彼女」を読むと、先日読了した自閉症の方の自伝「ずっと普通になりたかった」(グニラ・ガーランド著、花風社)と同様のもどかしさを感じることもまた事実なのです。そのもどかしさは、私小説であるが故に全知の視点が欠如していることが原因なのか、世界を見つめる主人公の盲目が原因なのか、なんだかよく分からないのですが。

私小説という形式が問題を孕んでいるのでしょうか。自己の視点で世界を認識する様子が、その内面から描かれるために、内省的ではない人物を主人公にしてしまうと、読者の代弁者的な機能が一切失われてしまい逆に感情移入が難しくなるということでしょうか。それともここは、読者の共感能力が試されているのでしょうかね。同情ではなく、他者としての主人公への真の共感。そう言う意味では、「最終兵器彼女」のシュウちゃんというのは、実はチセと全くの同格であるのでしょう。この作品には、最終兵器になってしまったかわいそうな女の子チセを愛するように、女性に対する愛と拒否を併せ持った複雑な少年シュウちゃんを愛せよ、というメッセージが込められていたのでしょう。

では、「最終兵器彼女」は何だったのか? というと、
カップルは愛すべきものである。と、いうことでしょうか。

したがって、あの象徴的なラストシーンは、愛すべきカップル⇒人間の本来の形⇒最初の人間足りうる姿である...って感じの江川達也的な飛躍精神にもとづいておるのですね。


rar_dc2006 at 13:31|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 書籍(なんでもアリ)