2018年02月23日

ガラス玉について

「蘭は全てを受け入れるね」って、大学時代に友達に言われたことがある。全てを受け入れるから、いらない棘まで飲み込んで、全部傷にしちゃうんだろうか。

「全てを受け入れるあなたは美しいよ」ってこのあいだ言われて、そうなのかなぁと思った。傷だらけになっちゃって、満身創痍で、それでも美しいって言えるんだろうか。こんなボロボロの顔で、からだで、心で。

でもそうして生きてくことしかできなくて、わかっているのになかなか変われない。

「ひとはわたしを傷つけるし、わたしはひとを傷つけるし、それはもう仕方ないから、癒しながら生きてこう、みたいな」


rasen816 at 20:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2018年02月11日

愛するということ

床暖房の上に仰向けになり、おなかの上に次男を抱きながら、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読む。大事な箇所が多く、思わず声に出して読む。


「たいていの母親は「乳」を与えることができるが「蜜」も与えることのできる母親はごく少数である。蜜を与えることができるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない」

「ほんとうに愛情深い女性、すなわち取るよりも与えることに大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根をおろしている女性だけが、子どもが離れてゆく段階になっても愛情深い母親でいられるのである」

声に出して読んでいると、おなかの上で次男が寝息を立てはじめた。かすかな振動が心地よいのかもしれない。わたしは「蜜」を与えることはできていないなと思う。「自分の存在にしっかり根をおろしている」、もう一度読んで、むずかしいなあとつぶやいた。


わたしは相変わらず愛について何も知らない。愛するということについて何も知らない。
傲慢で感情的で独りよがりだ。そんなことが本を読んでわかったので、今日は良い日だった。

rasen816 at 21:00|PermalinkComments(0)

2018年01月14日

3年ぶりにここに文章を書く。
今月出る音読の校正をしていたら、そこに南日くんが『100年後あなたもわたしもいない日に』の書評を書いてくれていて、「よるすべるてんかふん」を久しぶりに見た、とあった。
そうか、覚えてくれていたのかと思って、うれしかった。

ここに何を書こう。いろいろ書きたいことはあるんだけども。

南日くんの文章を読んで、「土門さんのブログはきれいすぎて、なんだか汚してしまいそうで、コメントしたいのにできない」と、15歳くらい年上の女性に言われたことがあるのを思い出した。見るからにシャイそうな、そんなことを言うような方ではなかったので、驚いた。

今思えば、わたしはここに寄せられたコメントに返信をしたことがない。
それはわたしではない誰かに寄せられた言葉のようで、わたしが返してはいけないような気がしていた。これを書いているのはわたし自身なのにも関わらず。


自分は生きているのに向いていない、というようなことを10年前にもここに書いた。
今でもそう思っている。子供の乗ったベビーカーを押しながら、同じことをまだ思っていて、一生こうなのかもしれないなと思った。長いか短いかの違いだけで。

「土門さんはそんなに知らないことが多いのに、よく平気な顔で生きられますね」
と下川さんにこの間言われた。冗談っぽかったけれど、冗談じゃないような言い方だった。
わたしは穴がたくさん空いている。
「上高地」も「剣岳」も、どこにあるのか知らない。
タイや台湾が国なのかもわからない。
カレーの作り方もいまだにパッケージの裏を読まないと作れない。
おもちの焼き方もゆで卵の茹で方もわからない。何かを読まないと怖くて作れない。

ぼろぼろこぼれていくので、書いている。書くと忘れないから。書いても忘れるから、時折それを読み返す。そして「ああ、こんなことを知ったのだな」と思う。
それを読んでまた、なんとか生きていけそうだ、と思う。書いて読んで書いて読んで、その繰り返し。


今日は、動いたら肌に傷がつくんじゃないかなっていうくらい、最悪、というか、最弱な気分だった。
それでソファの下でじっとしていた。床暖房がお尻を、それから腰をあっためて、涙があとからあとから流れた。この涙を全部全部流しきったら、わたしはこのことを文章にしようと思った。それがあるからやっていけていて、やっぱりわたしには「書く」ことがあってよかったのかもしれない。それとも、「書く」ことがなかったらもっと楽に生きていたのかな?とか、そんなことを考えた。


子供がふたりで笑っていて、笑うと目がとてもよく似るんだなと思った。
わたしの小さい頃にも似ている。
わたしが泣くと下の子も泣いて抱きついてきて、上の子はティッシュを持ってきてくれた。

「君は不安定なところで安定している」と柳下さんは言い、「空色みたいですね」と敬子さんは言う。
空色で安定しているということか。言葉は魔法だな。
空は「から」でもあって、それでもいいのかもしれないな。空だから、文字で満たしているんだろう、きっと。

そういうことにしておこう。



rasen816 at 18:13|PermalinkComments(0)

2015年04月28日

call me

電話がなるたび誰か死んだのかと身構える。
むかしから死が怖くてしかたない。

死んだらどうなるのかな?
死後の世界?
輪廻転生?
それとも完全なる無?

私が先頭になり、崖っぷちに立たされる気分。

いつかはかならずおとずれるのだと、電話がなるたび言い聞かせる。

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rasen816 at 21:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月14日

禁句

無神経な質問は嫌われるようだ。
でもその質問のどこが無神経なのかわからず、私はただへらへらする。

禁句にこそ、本質があると思う。
でもそうすると嫌われるので、なるべく迂回するよう気をつける。

宗教も政治も犯罪も性的嗜好もコンプレックスもヒエラルキー位置も、すべてその人の魅力につながる。

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rasen816 at 19:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月10日

l&e

love&expand

という言葉に出会い、目の前にトロピカルな色が広がった気がした。
愛と拡張。

世界を拡張したいという欲求がもともとある。
おそらく誰にでもあると思う。
それが私は強い方だったと思う。

結婚し、子供が生まれ、私は拡張作業がこわくなった。
拡張するということは、距離・時間をそのために使うことである。
つまり現在地をお留守にするということ。
家をお留守にするということ。

留守にするのがうしろめたい。
私が拡張する間、現状維持をする人が必要だ。
保護するべき対象が家にいるのだから。

私は彼に容易に振り回される。
今日だって突然熱を出したため私は仕事を休んでこれを書いている。
息子は今寝ているけれど、目覚めたらPCに向かうこともできなくなるだろう。

私は子供のペースに合わせなくてはいけないと思っていた。
でも、love&expand。

そうか、愛があれば拡張できるのだ。
と、今書きながら思った。

愛するものを広げていく作業、
そして、愛しながら広げていく作業、
あるいは、愛すゆえに広げうる作業。

つまり、愛と拡張は相反しない、ということだ。
愛が広がればその分「家」「子」に対する愛が薄まると思っていたのだ、私は。

でも愛は遍在する。
遍在しうる。
それを拡張させていくんだ。

私は常に、自分を広げてくれる人を探している。
正しさは私を広げてくれない。むしろ閉じ込める。
おもしろさは私を広げてくれる。どんどん開放する。
だから私は間違っていようがおもしろい人がどうしても好きだ。


人格が破綻していても好きだ。
頭がおかしくても好きだ。
それで傷つけられても、私はきっと許すだろう。

私自身「人格が破綻している」「頭がおかしい」と言われたことがある。
思い切り傷つけたことがある。
つまりそれは私のこと。


それがいけないことだと思っていた。
でもそろそろ自分を受け入れなくてはいけない。

私は笑わなくなっている。
楽しい、気持ち良い、と思えなくなっている。

なぜ生きるんだろう、と思うようになっている。



楽しくて気持ち良いから私は生きていられる。
ごめんね、こんな母親で。こんな妻で、娘で、友人で。

だけどきっと、そんな私でもいいんだろう。
love&expand
という言葉が誰かによって記されたということは。






rasen816 at 12:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年01月03日

金色の

義妹の伏せた目の、うわまぶたがきれいなほのかな金色で、きれいだなとおもう。
この子はとなりに座ったやさしげな、私のひとつ年下の男の子の妻になると言う。
彼は彼女の顔をときおりのぞきこみ、小さな声で会話をする。そのときだけ、彼は彼女の名前を呼び捨てにする。

私は自分の化粧ポーチの中にあるアイシャドウについて考える。
あれを買ったのは去年の三月、友人の結婚パーティのときに、ワンピースを着て、美容院で髪の毛をきれいにしてもらって、そのあとふらっと寄ったデパートで買ったのだった。
私の一重まぶたに、お姉さんが金色と深いチョコレート色を乗せてくれて、よくお似合いです、と言ってくれて、私はそれを買ったのだった。
自分がなにか、よいものになった気がしたので。

ふつかよいを治めるには、つまるところ時間と水分しかないというのを聞いた。
コーヒーを飲んでも、お風呂に入っても、頭痛薬を飲んでも、あまり意味がないという。
今年30になる私は、何度もふつかよいを繰り返し、そのことをもうじゅうぶんに知っている。
ほとんどの痛みは、時間と水分でしか治まらないことを知っている。
紛らわすことはできてもそれは前借りでしかない。あとでまた、ツケを払わなきゃいけない。利子をつけて。

お酒を飲むときらきらして、世界が鮮やかに輝き出す。
でも過剰摂取されたきらきらは澱のようにつもって、頭の中で痛みに変わる。
ふつかよいは、水分でそれをうすめて、時間が過ぎるのを待つしかない。
もししらふできらきらが見えたとして、過剰摂取したその種のきらきらはどのように変化するんだろうか?


rasen816 at 22:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)