2015年04月28日

call me

電話がなるたび誰か死んだのかと身構える。
むかしから死が怖くてしかたない。

死んだらどうなるのかな?
死後の世界?
輪廻転生?
それとも完全なる無?

私が先頭になり、崖っぷちに立たされる気分。

いつかはかならずおとずれるのだと、電話がなるたび言い聞かせる。

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rasen816 at 21:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月14日

禁句

無神経な質問は嫌われるようだ。
でもその質問のどこが無神経なのかわからず、私はただへらへらする。

禁句にこそ、本質があると思う。
でもそうすると嫌われるので、なるべく迂回するよう気をつける。

宗教も政治も犯罪も性的嗜好もコンプレックスもヒエラルキー位置も、すべてその人の魅力につながる。

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rasen816 at 19:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月10日

l&e

love&expand

という言葉に出会い、目の前にトロピカルな色が広がった気がした。
愛と拡張。

世界を拡張したいという欲求がもともとある。
おそらく誰にでもあると思う。
それが私は強い方だったと思う。

結婚し、子供が生まれ、私は拡張作業がこわくなった。
拡張するということは、距離・時間をそのために使うことである。
つまり現在地をお留守にするということ。
家をお留守にするということ。

留守にするのがうしろめたい。
私が拡張する間、現状維持をする人が必要だ。
保護するべき対象が家にいるのだから。

私は彼に容易に振り回される。
今日だって突然熱を出したため私は仕事を休んでこれを書いている。
息子は今寝ているけれど、目覚めたらPCに向かうこともできなくなるだろう。

私は子供のペースに合わせなくてはいけないと思っていた。
でも、love&expand。

そうか、愛があれば拡張できるのだ。
と、今書きながら思った。

愛するものを広げていく作業、
そして、愛しながら広げていく作業、
あるいは、愛すゆえに広げうる作業。

つまり、愛と拡張は相反しない、ということだ。
愛が広がればその分「家」「子」に対する愛が薄まると思っていたのだ、私は。

でも愛は遍在する。
遍在しうる。
それを拡張させていくんだ。

私は常に、自分を広げてくれる人を探している。
正しさは私を広げてくれない。むしろ閉じ込める。
おもしろさは私を広げてくれる。どんどん開放する。
だから私は間違っていようがおもしろい人がどうしても好きだ。


人格が破綻していても好きだ。
頭がおかしくても好きだ。
それで傷つけられても、私はきっと許すだろう。

私自身「人格が破綻している」「頭がおかしい」と言われたことがある。
思い切り傷つけたことがある。
つまりそれは私のこと。


それがいけないことだと思っていた。
でもそろそろ自分を受け入れなくてはいけない。

私は笑わなくなっている。
楽しい、気持ち良い、と思えなくなっている。

なぜ生きるんだろう、と思うようになっている。



楽しくて気持ち良いから私は生きていられる。
ごめんね、こんな母親で。こんな妻で、娘で、友人で。

だけどきっと、そんな私でもいいんだろう。
love&expand
という言葉が誰かによって記されたということは。






rasen816 at 12:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年01月03日

金色の

義妹の伏せた目の、うわまぶたがきれいなほのかな金色で、きれいだなとおもう。
この子はとなりに座ったやさしげな、私のひとつ年下の男の子の妻になると言う。
彼は彼女の顔をときおりのぞきこみ、小さな声で会話をする。そのときだけ、彼は彼女の名前を呼び捨てにする。

私は自分の化粧ポーチの中にあるアイシャドウについて考える。
あれを買ったのは去年の三月、友人の結婚パーティのときに、ワンピースを着て、美容院で髪の毛をきれいにしてもらって、そのあとふらっと寄ったデパートで買ったのだった。
私の一重まぶたに、お姉さんが金色と深いチョコレート色を乗せてくれて、よくお似合いです、と言ってくれて、私はそれを買ったのだった。
自分がなにか、よいものになった気がしたので。

ふつかよいを治めるには、つまるところ時間と水分しかないというのを聞いた。
コーヒーを飲んでも、お風呂に入っても、頭痛薬を飲んでも、あまり意味がないという。
今年30になる私は、何度もふつかよいを繰り返し、そのことをもうじゅうぶんに知っている。
ほとんどの痛みは、時間と水分でしか治まらないことを知っている。
紛らわすことはできてもそれは前借りでしかない。あとでまた、ツケを払わなきゃいけない。利子をつけて。

お酒を飲むときらきらして、世界が鮮やかに輝き出す。
でも過剰摂取されたきらきらは澱のようにつもって、頭の中で痛みに変わる。
ふつかよいは、水分でそれをうすめて、時間が過ぎるのを待つしかない。
もししらふできらきらが見えたとして、過剰摂取したその種のきらきらはどのように変化するんだろうか?


rasen816 at 22:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年12月24日

クリスマスイブ

仕事帰りに夫に緑色のセーターを買ってプレゼントしたらえらく喜ばれた。
さっそく着てみせて、これはとてもいい、ライブで着る、なんだか負けた気分だ、などと言う。

わたしへのプレゼントは明日用意するらしい。

そこでふと思ったのだけど、夫にクリスマスプレゼントをあげるひとは、世界にわたし一人になってしまった。
そしてわたしにクリスマスプレゼントをくれるのも、夫だけだ。

息子はいろんな人からもらっているが、わたしたちはあげるばかりでもうもらえないのだ。なかなか。

大人になるとはそういうことなのだなと思った。
そして結婚するというのもきっとそういうことなのだ。
だからお互いに、ときに甘やかすべきなのだろう。

なんとなくふたりぼっちな気になる。
ひさしぶりに。
悪くはない気持ちだな。

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rasen816 at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年07月15日

海辺の部屋

昔、小学生だったころ、図工クラブにいた。
図工クラブでは、ステンドガラス風のセロファンを用いた箱を作った。
版画もやった。私は何を彫ったのだったか。
まったく覚えていない。
図工クラブは、教師が少しおかしかったので、苦痛だった。

中学のときには、自由に何でも描けるというので
紫色の蝶の絵を描いた。
初めて付き合った男の子は
おにぎりの絵を描いていた。
あたたかいその絵を
私は気持ちが悪いと思っていた。

高校のときは音楽・書道・美術の中から、また美術を選択した。
音楽は楽譜が読めないし、
書道は墨汁が制服につくのが嫌だったのだ。
いちばん美術がましだと思った。

樹を書いたことがある。
私は校庭にある、背の低い小さな樹を描いた。
樹の、幹の部分だけを、細く細く描いた。
後ろは夕暮れ。紫と赤と青をにじませた。
先生は首をかしげた。
「元気がない絵だね」と言われた。
私はすぐにその絵を捨てた。
絵は描くたびに捨てたけど、
一枚だけ今も残っていて、母のスナックに飾ってある。
中世の、尼の模写だ。
あれも、美術の時間に描いた。
黒一色の彼女の服に、陰影をつけるのに没頭した。
楽しかったのはあの絵を描いたときだけだ。
それ以来、一度も絵を描いていない。


好きな画家はいる。
初めて好きになった画家で、
今もずっと一番好きだ。
エドワードホッパー。
彼の絵は、初めてみたときから
これは私のための絵なのだ、と感じた。

「海辺の部屋」というタイトルのそれは、
中学の美術の教科書で初めてみた。

私はこの絵をみて
確かにここにいたことがある、と思った。

ひとりで、ここで、真昼に、海の音を聞いて、夜を待っていた、と思った。
なつかしいというよりは、いつかまたたどりつく場所なのだ、と思った。
多分私はずっと前、ここで死んだのだ、と思った。


ホッパーの絵にはよく人物が描かれているけれど、
そのどれもきちんと孤独で、
だから私はさみしくならないし、
孤独は当たり前であり人間の前提なのだと感じる。

だからとても泣きたくなる。
人を好きになれそうだ、と感じる。
安心して、とても泣きたくなる。



海辺の部屋に、何歳ころ私はいるんだろうか。



rasen816 at 12:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年06月17日

以前住んでいたアパートのベランダからは向かいのアパートの螺旋階段がよく見えて、毎晩それを見ていた。うつくしくのびる螺旋階段の隙間に月が見えた。影絵みたいな螺旋。髪も乾かさずにベランダで眺めていたら、虫や蛙の声が聴こえた。そして窓を開け放したまま眠った。

このあいだ、月がきれいだった。満月で、大きくて。月がきれいなんて久しぶりに思った。両目の中に溶けてしまいそうな月だった。


rasen816 at 22:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)