2018年01月14日

3年ぶりにここに文章を書く。
今月出る音読の校正をしていたら、そこに南日くんが『100年後あなたもわたしもいない日に』の書評を書いてくれていて、「よるすべるてんかふん」を久しぶりに見た、とあった。
そうか、覚えてくれていたのかと思って、うれしかった。

ここに何を書こう。いろいろ書きたいことはあるんだけども。

南日くんの文章を読んで、「土門さんのブログはきれいすぎて、なんだか汚してしまいそうで、コメントしたいのにできない」と、15歳くらい年上の女性に言われたことがあるのを思い出した。見るからにシャイそうな、そんなことを言うような方ではなかったので、驚いた。

今思えば、わたしはここに寄せられたコメントに返信をしたことがない。
それはわたしではない誰かに寄せられた言葉のようで、わたしが返してはいけないような気がしていた。これを書いているのはわたし自身なのにも関わらず。


自分は生きているのに向いていない、というようなことを10年前にもここに書いた。
今でもそう思っている。子供の乗ったベビーカーを押しながら、同じことをまだ思っていて、一生こうなのかもしれないなと思った。長いか短いかの違いだけで。

「土門さんはそんなに知らないことが多いのに、よく平気な顔で生きられますね」
と下川さんにこの間言われた。冗談っぽかったけれど、冗談じゃないような言い方だった。
わたしは穴がたくさん空いている。
「上高地」も「剣岳」も、どこにあるのか知らない。
タイや台湾が国なのかもわからない。
カレーの作り方もいまだにパッケージの裏を読まないと作れない。
おもちの焼き方もゆで卵の茹で方もわからない。何かを読まないと怖くて作れない。

ぼろぼろこぼれていくので、書いている。書くと忘れないから。書いても忘れるから、時折それを読み返す。そして「ああ、こんなことを知ったのだな」と思う。
それを読んでまた、なんとか生きていけそうだ、と思う。書いて読んで書いて読んで、その繰り返し。


今日は、動いたら肌に傷がつくんじゃないかなっていうくらい、最悪、というか、最弱な気分だった。
それでソファの下でじっとしていた。床暖房がお尻を、それから腰をあっためて、涙があとからあとから流れた。この涙を全部全部流しきったら、わたしはこのことを文章にしようと思った。それがあるからやっていけていて、やっぱりわたしには「書く」ことがあってよかったのかもしれない。それとも、「書く」ことがなかったらもっと楽に生きていたのかな?とか、そんなことを考えた。


子供がふたりで笑っていて、笑うと目がとてもよく似るんだなと思った。
わたしの小さい頃にも似ている。
わたしが泣くと下の子も泣いて抱きついてきて、上の子はティッシュを持ってきてくれた。

「君は不安定なところで安定している」と柳下さんは言い、「空色みたいですね」と敬子さんは言う。
空色で安定しているということか。言葉は魔法だな。
空は「から」でもあって、それでもいいのかもしれないな。空だから、文字で満たしているんだろう、きっと。

そういうことにしておこう。



rasen816 at 18:13│Comments(0)

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