紙飛行機で宇宙旅行 by Ray and LoveRock

「この思いに切なるなるもの、遂げずということなきなり」(正法眼蔵随聞記より)強く思えば夢は叶う。強い思いは確固たるイメージとなり、その願うイメージが強くなれば、実現に近くなる。それはまるで、紙飛行機で宇宙旅行するようなものかもしれないけれど、願いが強ければかなうのだ。ぼくはそんな強いイメージだけで今まで来たのかもしれない。マスコミ就職に役立つ「何か」を書いていきます。

アンチ フィクション! 最近のぼくの文章へのアプローチはどうもこの辺にあるのだな、と思った。ノンフィクションはあまり好きではないし、フィクションでは伝えなければならないことが伝えきれないこともしばしば。ぼくにとっての文章とはある種のファンタジーを込めたフィクションとノンフィクションの狭間なんだな、と思う。ぼくの冗談をただ笑っているだけではなく、どれくらい頭を使って、有機的に話をしているかわかってほしい。ここでは、マスコミ塾で言ったこと、言わなかったこと併せて、ぼくなりの文章で読んでもらおうと思っています。

殺人者になる夢。『犯罪』という短編小説。

 ある日の夢の中でのお話。

 世の中が突然腐敗しきって、人々は誰もが寒々しいまでの心になっていて、自分だけよければ、何をしてもいい、そんな荒んだ状況と化していた。

 そして、われわれは狙われた。いや、誰もが狙われていたのだ。殺人者――それは、もはや殺人犯ということもできない。なぜなら、殺人を裁くシステムが機能していないからだ――は殺人者を殺そうとし、その殺人者はまた、殺人者を殺そうとする。そしてまたその殺人者が殺人者を......。

 そう、「としまえん」にある、ニューヨークから1960年代に日本に来たヨーロッパのエレガントな回転木馬「エルドラド」の中みたいに、狭い場所で殺人と略奪が繰り返された。ただし、まったくエレガントではなかった。

 働くものもいた。十分な収入を得ることは難しかったけれど、ささやかに暮らしていくことはさほど難しいものではなかった。

 略奪と殺人さえなければ。

 そして、迫り来る魔の手。ささやかに生きていくことしかできない、ささやかな村に、ささやかに暮らす人々から、すべてを奪おうとする魔の手。

 巡り巡って、その略奪する側が近い将来生きていくことを阻むかもしれない、ささやかな糧とその未来を紡いでいく生産者の命さえ奪おうとする。

 理不尽? そんな言葉に力などない。そもそも理に叶う根本が欠落しているのだから。

 抑止力が何もない場面での、人間の愚かさと退廃、利己主義のエッセンスのような

暴力が目の前に広がっている。

犯罪_


 そこでおれ登場、である。

 今までハードボイルドな文章が根底から崩れていく、そんな登場シーンはこんな風だった。

 「また、人を殺さないといけないのか......」犯罪_.jpg
『犯罪』フェルディナント・フォン・シーラッハ (著), 酒寄 進一 (翻訳)


 

 すでに登場したばかりのおれにおれが質問、っつーか、いつおれ、人殺したんだ???

 そんな疑問を残したまま、とばりが降りて夢終了。

 人間、どれだけ善良に生きていても、犯罪を犯してしまう可能性は否定でない。むしろ、善良であるがゆえに、また、人を愛すがゆえ、人を助けたいがゆえ、その善良な心が犯罪を誘導することもあるだろう。 犯罪のない世の中があり得ないように、犯罪を起こさない(100%)人間など存在しないと思うのだ。

 この『犯罪』に描かれた人間模様は、短編ならではのそれぞれに色を持っている。だが、どこかに共通するところは、善良な市民なればこそ、真面目であればこそ、良い行ないが裏目に出る、そんな雰囲気が漂う。狡賢いのもあるけれど、それはそれで人間味があふれている。時にペーソスたっぷり。時にほっとしたり。時に犯罪を深く考えさせられる。そんな短編集のこの本、おすすめです。

 実は、自分で買ったのではなく、年下のアニキことTakahiro Miyashitaが二人飲みのときプレゼントしてくれた。

 彼はまだ読んでいなかったのだが、「これは面白い(はず)」といってぼくにくれたのだけれど、本当に面白かった。

 「ドイツでの発行部数四十五万部、世界三十二か国で翻訳、クライスト賞はじめ、数々の文学賞を受賞した圧巻の傑作」(アマゾンより)。日本では本屋大賞も取っているのだが、それでも、Takahiro Miyashitaはまるでエスパーではないか? と思うときがある。

 センスといえば、それまでなのかもしれないけれど。

恋に落ちて。

恋に落ちて。
 
 しばらく休んでいましたが、その間にフイナムのブログをはじめていました。
 できるだけ、こちらにもアップして行きたいと思うので、どちらでも読んで下さい。
 
 このところ、毎朝習慣になっていることがある。手巻き時計の龍頭を巻くことだ。龍頭の音は耳にも優しく触れるけれども、指先を伝って耳に馴染む音でもあった。
 時計はまったくマニアではないのだけれど、だけれど、文字盤を見ているのはすごく好きだ。
 文字盤に描かれた数字は、特別に――その時計のために――デザインされているようだ。薄く、繊細に切り取られた影絵のような長針があって、少しだけずんぐりさせた短針がある。時を刻むためにはそれよりはるかに細い繊細を越える言葉が見つからないが、その細さの儚いほどの、消え入りそうなほどの、細さを極めた秒針が静かに時を刻む。
 ロレックスなんて、ぼくの身の丈に合わないものを買ったきっかけは恋というプロセスと同じだった。
 陽に妬けた、少しざらついているくらいの印象がそこにあって。だけれど、繊細な針は優しく、まるで時間を止めるかのように優雅に動いている。

 時計との出会いを想うと、恋を思い出してしまう。
 恋はいつでも一目惚れなのではないだろうか? これは筆者だけの感覚なのかもしれないけれど、とにかく恋は一目惚れから始まると信じている。甘酸っぱい恋の始まりがそこにある。
 一緒にいて、気づくと好きかもしんま~い♪ なんてゆるい恋などしたことはない。はじめからストレートで押すタイプなのだ。投げて打たれたら......、考えたくない。
 一目惚れというのは直感といえば直感でしかないのだろう。
 だけれど、自分の目を疑うことはしない。ロレックスの針に、文字盤にうっとりするように、その人の目を見て、雰囲気のすべてを感じ取ろうとする。好きになるという力がそこにある。
 その人の持つ"美"を全身で感じ取ろうとしてしまう。そこにあるのはまるで感触。美しい人だと思わなければ、好きになれない。だから、全身全霊で、その人の美を受け入れていくのだ。あくまでも五感、そして第六感で"感じている"。頭で考えてのことではないだろう。文字盤に日焼けをマイナスポイントと見る人もいるだろう。古びて、汚いと。
 だけれど、ぼくには"美"としか捉えれないのだ。個性はすなわち"美"となることがある。そこにいる人を好きになるという偶然を導くのはあくまでもその人の持つ"美"に他ならないとまで思えてくる。
 文字盤が過ごした時間は、ただの経年変化なのか!? ラスコーの壁画をきちんと見たことはないけれど、あの壁はこんな風合いをしていた気がする。パリのアパルトマンの壁も。
 美しいものは一様ではない。
 だが、美しいものは必ず"強さ"を持っている。
 美しさとは繊細さであり、同時に強さでもあるのであった。
 ただ美しいだけなら、ぼくはいらない。尊敬とか一目置くとか、そういう何かを感じていないとダメなのだ。そんなもの、ひと目でわかるのか、と言われると、何とも返事がしづらいのだけれど、それでもわかるのだ。
 好きになる人はシーンで覚えている。その人の動き、言葉の発し方、指の動き、歩き方、何が、という部分ではないちょっとしたことすべてがぼくのなかでシーンとして組み込まれていく。
 そのシーンの中に、人は"本質"を潜ませる。
 その人の本質を見ること、見ようとすること、それが恋なんではないか、と思う。
 そして、好きになる瞬間、でもあると思う。
 時計に戻る。
 ぼくは、時計のムーブメントの動くささやかな音を聴きいってしまう。
 刻む時間は同じなのに、好きな時計の動きは柔らかく、ゆっくりとしている。優しく耳に触れながら、マイペースに進んでいる"音"がする。
 そして、龍頭を回してみてはっきりとした恋の気分がわかる。
 ちゅりゅゅゅゅ。龍頭を回した音。龍頭の音だ!はっと息を飲むように静かに音を耳が、指が聞こうとしている。ゆっくりとしたリズムで、個性的な音を立てる龍頭はぼくの好きな女性のタイプと一致する。
 ぼくは、どうも、ゆっくりとしたリズムでしっかりとはしているけれど、角のない声が好きだ。早口で尖った声をしている人はどうもダメなのだ。
 だって考えてみてほしい。
 一緒に過ごしたい、たとえ食事だけでもいいから、同じ時間を共有したいだけなんだから。自分が思う美が目の前にあって、自分が尊敬できて、そして、声のリズムと音域がぼくの好み通りだったら......。
 一緒にいたくなって当然だろう!
 ただただ、この時計とともに時間を過ごす。そんなプラトニックな気持ちは恋と同じ。人を好きなるとは、こんな風に、一個の時計を好きになるのと同じなのだ。
 このロレックスに一目惚れして、その店でしばらく売れなかった。何度も見に行って、数ヵ月後、ぼくは"告白"するように、"好きだ"といってしまうように、買ってしまった。そして、オーバーホールをして、毎朝龍頭を巻く。
 もうひとつのお気に入りが、<Vague>のバブルバック。ロレックスもそうなのだが、手首の細いぼくはボーイズサイズがしっくり来る。そして、自分の中にある美学にも合う。赤い秒針に、ダイヤルの赤いマークに、一目惚れしてしまった。
 もちろん龍頭の音もすこぶる良かった。
 半年くらいは静かに見ている。好きという気持ちを気づかれないようにしている。やがて時が来るのを待つ。「会えない時間が愛育てる♪」と郷ひろみが歌ったように、自分の恋を確認する時間は必要なものだ。
 時間とは刻まれながら、人に何かを刻んでいく。きちんと刻むべきものがあって、それを必要としている人の心のひだに何かを刻む。
 その心のひだに刻まれたものが、また、ぼくを好きという気持ちにさせる。
 切なさを知る瞬間だ。
 切なさを知って、初めてぼくは「好き」という言葉を問いかけるように口にする。
 新しい時計に恋をするのは簡単だけれど、人に恋をするのはやはりむずかしい。
 相手あってのことだからね。
 ま、片思いだって、恋は恋。そんなくらいがちょうど良いのかもしれない。

<Number Five>

5
 ジョン・レノンのラッキーナンバーは「9」だったという話を聴いたことがある。誕生日が10月9日だったから、そこから導かれた数字だと。ビートルズの曲「Revolution9」も、そんなジョンのラッキーナンバーからとったのであろうということは想像に難くない。
 レコードの特性を活かして、――レコードの最後の曲が終わるとレコード針がずっと同じ溝をなぞり続けて、「プッ」と引っ掛かるけれど、また同じ溝をなぞる現象――ビートルズは永遠に続くリフレインを試みているが、そのリフレインこそが「Number nine 」とくぐもった声で言っている。
 想いの強さが伝わるエピソードだと思う。
 ぼくは1月5日に生まれ、生まれた時刻も朝の5時5分だった。昭和でいうと39年(もちろん西暦なら1964年のだが)なので、子どものころから、奇数のほうが偶数より好きだったりする。――子どものころ、「偶数と奇数、どっちが好き?」と問われ、「奇数」と答えると「キスが好きなんだ~」などといわれて恥ずかしかった記憶もあるが――しかも、7以外の奇数はすべからく誕生日を決定付ける数字のなかに入っているせいか、これまた子どものころから7をラッキーと思ったり、ラッキー7にやたらと思い入れたりすることはなかった。――とはいえ、高校時代に777を揃えるパチンコが流行り、ある方法で出ることが判明し、パチンコ屋に入り浸っていたときは「7」がすごい数字に思えたのだけれど――
 結論みたいだけれど、ぼくのラッキーナンバーはあくまで「5」であり、控えのメンバーは1、3、9なのである。
 そんな数字に何が? といわれそうだけれど、験を担ぐのだって、まあ悪くないと思うのだ。
 銭湯に行ったり、靴を脱ぐ居酒屋、傘立てなど、番号札があるところでは、5番、もしくは55番を探す。55は松井秀喜選手の背番号というセンもあるが、単純に5が好きだからということも否めない。そういえば、ずっと昔、ジャイアンツにいた黒江選手が好きだったのは単純に背番号が5番だったから、という気がしてならない。もしかすると、マリオ・アンドレッティが好きだったのもロータスであること以上に5番だったからかもしれない。
 5番が使用中だと、9を探す。これは、ぼくの大好きな友だちが、かつてデザインをしていたブランド名に由来する。そして、そのルーツは少なからずビートルズの、そしてジョン・レノンの「9」が関わっていた。
 そのあとは1番。これはジャイアンツの選手時代の王貞治さんが好きだったから。そして、3番、長嶋茂雄さんへと気持ちは行くわけです。
 そんなわけでアンディ・ウォーホルの「CHANEL No.5」も好きです。5番街という言葉にも親しみを感じるし、5レンジャーやガッチャマンの5人組。――だからといって、4人組のバンドも好きなんですが――そして、5人でするバスケットボールを(一応)やっていたのもなんだか繋がってくる。
 「5」というのは、半分という感じがするのもなんか好きだ。50%をイメージするし、5自体は素数なんだけれど、ぼくのなかではどんな数――それはたとえば3であっても――でも割ってしまう、そんなジョーカーみたいな数字に思えるのだ。
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