DDR EXTREME稼動開始から約3ヶ月後、僕は高校生となった。とはいっても、中高一貫校だったため、これまでと大して環境は変わらなく、ただ学年が上がっただけという感覚だった。変わったことと言えば、中学の寮では8人部屋で生活をしていたのだが、高校に入ってようやく個室(3畳)が与えられたことくらいだろうか。高校時代のDDRは3年間まるまるEXTREMEだったため、いつ頃の時期に何をやっていたかいまいち記憶があやふやなのだが、今回は概ね高校1年〜2年頃のことを書いていく。


高校時代は、学校最寄りのゲーセンであるキッズクラブで、自分と同じ学校の先輩方数名をよく見かけた。みなさん自分よりは学年が1つ上で、主に高校から入学してきた方々だった。音ゲーをやっている方も何人かいたため、次第にその先輩方と親しくなり、一緒に遊ぶ機会もできた。その中でも特に良くしていただいたのが、HIDEさんという方であった。HIDEさんはdrummaniaを主にプレイしていたが、たまにDDRをやることもあった。休日一緒にエジソン倶楽部に行くこともあったほか、高校在学中のみならず大学時代にも関東にてよく遊んでいただいた。もう長いこと会っていないうえに最近はTwitterでも見かけなくなったが、元気にしているだろうか。

DDR EXTREMEが稼動してからしばらくは近場のキッズクラブでばかりプレイしていたが、以前の記事でも触れたように、他の音ゲーの最新バージョンやメモリーカードを挿せるDDRを求めて、次第にエジソン倶楽部にもまた足を運ぶようになっていった。ちなみに、高校の寮でも相変わらずゲーム機などの所持は禁止されていたため、どうやってEDITデータを作っていたのかというと、ソフトだけこっそり所持していて、休日にPS2の置いてあるネットカフェまで足を運んでそこで作成していた。ネットカフェにて譜面の構想から始めると時間がかかりすぎるため、普段から自分で考えた譜面を紙に手描きで描きとめ、ネットカフェではそれの入力作業のみ行うという、涙ぐましい努力をしていた。


そんな中、エジソン倶楽部にてDDRがかなり上手いプレイヤーに出会うことがあった。自分よりもスコアの精度が遙かに高く、当時の自分ではまず敵わないという感じであった。それがヤマーさんという方だった。EXTREMEも稼動してからだいぶ経っていた頃であり、DDRをやる人自体がそもそも少なかったというのもあるのだが、エジソン倶楽部でたびたびお目にかかるので、次第に会話を交わすようになった。これが、いわゆるスコアラー界隈の人との最初の出会いであった(最近はそうでもないと思うのだが、昔はDDR界隈自体が狭かったこともあってか、スコアラーとそうじゃない人とで結構隔たりがあった気がする)。

ヤマーさんは元々大分県の人で、当時は大学の関係で鹿児島に来ていた。大分や福岡の上手いプレイヤーの話をヤマーさんから聞いたりもした。足9でも難しいほうの譜面で簡単にPFC(当時のAAA)を出してしまうような人がいるという話を、そのプレイヤーの具体名込みで聞くのだけど、当時の自分にはまだあまり実感の湧かない世界であった。

こうしてヤマーさんとは、たびたびエジソン倶楽部にて話をしたり一緒にプレイしたりすることとなった。DDR EXTREMEを一通りやり尽くしすでに若干飽き気味で、いつもなあなあプレイになっていたその時の自分にとって、自分よりも上手いヤマーさんの存在はかなり刺激になった。通常モードではPERFECTを、NONSTOPや鬼モードではMARVELOUSを、今まで以上にしっかりと意識して狙うようになっていった。その甲斐あってか、DDR SuperNOVAが稼動する頃あたりまでには、スコアラーの端くれと言える程度には力が付いたのではないかと思う。

最近はSNSや動画サイトの普及により、音ゲー上級者と交流したり上手いプレイを見たりすることはかなり気軽にできるようになってきたが、やはり実際に上手いプレイヤーと日々接し、そのプレイを生で見ることから得られる刺激は、ネット越しのそれとは比較にならないものがあった。特にモチベーションの維持・向上への影響が大きいと思う。ヤマーさんとの出会いももちろんそうだが、特にDDR SuperNOVA以降は、関東で日々多くの上手いプレイヤーと接することができ、それはとても恵まれた環境であった。もし自分がSuperNOVA以降も宮崎か鹿児島に残っていたとしたら、きっとそんなに上手くはならなかっただろうと思う。


話が少し逸れてしまったので、EXTREMEの話に戻したいのだが、EDIT以外でこの時期に具体的に何をプレイしてどのくらいのスコアを出していたかというと、正直ほとんど覚えていない。覚えていることと言えば、鬼モードでNAOKI neo-standardコースのスコアアタックをちょいちょいやっていたことくらいだろうか。当時のDDRのクリアランクはAAの上がPFCであり、現在のAAAに相当するものがなかった。そのため、AAは量産できるようになったもののPFCはまだ夢物語だったくらいの頃は、目標も成果も見えにくい時期だったのかもしれない。


続く。