DDR EXTREMEの思い出語りもいよいよ終盤に突入し、この記事では自分の高校2年(後半)〜高校3年頃の話をしていく。この時期になってくると、次第に大学受験の準備で忙しくなり、ゲームセンターにも足を運ばなくなっていった……ということは一切なく、普通に音ゲーを続けていた。とはいえ、EXTREME稼動開始から2年も経つと結構飽きてきており、この頃の自分はどちらかと言えばdrummaniaをメインにプレイしていたくらいだった。また、家庭用でDDR FESTIVALが発売されていたため、PS2のあるネットカフェでたまにプレイしていた。


プレイ回数はかなり減っていたDDRだったが、ちょっとずつ実力は向上していた。この時期に出したDDRのスコアでとても印象に残っているものが2つある。

1つはMAX 300の激譜面で初めてAAを出したことである。正直なところ発狂譜面に取り組むことには消極的ではあったのだが、それでもやはり「MAX 300でAA」というのは、DDRMAXの頃から抱いていた1つの大きな目標であり、また、発狂譜面に対する実力を示す1つの指標であるとも思っていたため、達成したときの喜びは大きかった。

もう1つは、激譜面で初めてPFCを出したことである。というか、当時の僕はアーケードでは楽譜面や踊譜面をほとんどプレイしていなかったため、アーケードでのPFC自体これが初めてであった。ちなみに達成したのはsyncの激譜面で、正直もっと簡単にPFC出るやつ他にあっただろと思うが、まあ当時は特にPFC狙いを頑張っていたわけではなく、たまたまPFCが出たという感じであった。初PFCについてはMAX 300 AA以上に嬉しくて、達成したときはゲーセン内の他の場所にいた友人をDDR筐体のところまで呼び寄せて、「見てこれ!! ヤバくない?! ヤバくない?!」と騒ぎ立てた覚えがある。


高校3年になると、生活環境も変わった。学校の方針で、3年生は全員寮を出て、学校周辺の下宿に住むことになっていたのだ。それにより、寮の規則から解放され、携帯電話を所持できるようになった(実際は寮でもこっそり持っていたが)。その結果、ここしばらくご無沙汰であった音ゲーの個人ファンサイト巡回をまたちょいちょいやるようになった。とはいえ当時のガラケーではPCサイトなどまともに見られないので、見ていたのは携帯サイトである。また、サイト巡回に伴い、やはりハンドルネームがないと不便だという判断に至り、「Raye」という名前を使い始めたのであった。

ちなみにこの「Raye」という名前、知っている人も多いと思うが、当時流行っていた漫画デスノートの登場人物であるレイ・ペンバー(Raye Penber)からまんまパクったものである(恥ずかしいので正直後悔している)。このハンドルネーム、人と被らないという点では優れていたが、初見で正しく読んでもらえないという致命的な欠点があった。それで今では苦肉の策として、Twitter IDの「rayeddr」から派生した「れいでであ」と名乗っているが、別に「Raye」という名前を捨てたつもりはなく、「れい(Raye)」が名前で「でであ」が苗字という感覚である(?)。音ゲーのカードネームには今でも「Raye」を使っている。

少し話が逸れたが、いろんな携帯サイトに顔を出し掲示板で交流していくうちに、自分もホームページが欲しくなってしまった。そして僕は、自分の携帯サイトを開設した。受験生なのに何をやっているのかという感じである。もちろんサイトの内容は、「プロフィール」「掲示板」「100の質問」「リンク」などが並んだ、昔のオタクが作りがちなカスみたいなものだ。そしてこの「Rayeの日記」という名のブログも、携帯サイトのコンテンツの1つとして誕生した。携帯サイトの運営も初めは楽しかったが、こんなカスみたいな内容では当然すぐに飽きが来てしまった。そして結局、1年もしないうちに閉鎖に到り、このブログだけが残ったのであった。

そんな携帯サイト時代だったが、当時サイト経由で知り合って、今なおつながりが残っている人も実は何人かいる。とてもありがたいことだと思う。


高校3年の冬頃、ビッグニュースが飛び込んできた。DDR SuperNOVAの発表である。当然、僕はかつてないほどに狂喜乱舞した。しかし、もし大学受験に失敗し、翌年度に浪人生なんかになってしまったら、せっかくのDDR新作を存分に楽しめない。そのため僕は、自室の壁に「受かればSuperNOVA」と書いた紙を貼り、毎日それを眺めて受験勉強の最後の追い込みをかけるのであった。今思えば、中学3年の冬〜大学1年の夏というEXTREMEの稼動期間は僕にとっては絶妙に都合が良くて、もしこれが1年でもズレていたら、正直僕はDDRにうつつを抜かしすぎて大学受験に失敗していたと思う。


高校卒業を間近に控えた頃、ゲーセン友達の一人が「キッズクラブのハゲ店長にみんなで感謝の寄せ書きを書こうぜ」と言ってきた。僕にとっては6年間も世話になった思い出のゲーセンなのであるが、その提案を聞いたときの僕は結構ドライで、「なんでそんなことしなきゃならないんだよ馬鹿か」と思っていた。しかし特に断る理由もなかったので、僕も寄せ書きに参加した。そして完成した寄せ書きはその言い出しっぺの友人によって店長に届けられたのだが、僕はその現場にいなかったので、店長がどういうリアクションをしたかは不明である。

そんなキッズクラブであるが、僕たちが卒業した後、わりとすぐに閉店してしまったという話を聞いた。こんなことなら僕も店長にもっとお礼を言っておくべきだったかもしれない。高校卒業以来、もう10年以上鹿児島には足を運んでいないが、もしまた行く機会があれば、ぜひキッズクラブの跡地を訪れたいと思う。

(追記)
冷静に思い返したら2014年に仕事で鹿児島に行っていて、そのときは仕事が終わった瞬間にホテルでノートパソコン広げてネトゲをやっており、キッズクラブの跡地なんて毛ほども興味なかった。


続く。