2011年12月18日

夜に書いた日記

なぜ、夜に書いた日記を朝読むと、嫌な気分になるのだろう。それには、相応の理由がある。

朝の自分が、おそらく最も自分らしい自分である。他人の意見に左右されない、いわば最も純度の高い、透明な液体のような状態である。

それに対して、夜の自分というのは、ちょうど透明な液体に墨汁を数適たらしたような状態である。日々、他人の意見に身を曝して生き、無意識の内に、他人の頭のなかに生じる自分の姿がどのようであるかについて神経摩耗し疲れきっている哀れな存在だと言える。したがって、本来の自分に立ち返って考えてみれば、有り得ないような大言壮語、大立ち回りを演じてしまうのである。そのような行動の背景には、大抵の場合、他人に良く見られたいという虚栄心が見え隠れしている。

睡眠が重要なのは、夜の哀れな自分を、真っ当な一人の人間としての地位にまで引き戻してくれる作用があるからだ。したがって、夢というのは健全な精神を取り戻すための大切な機能であると言える。おそらく起きているときよりも、寝ているときのほうが、人はよほど賢明である。

もし、夜に書いた闇の文章や思索が、全てを赤裸々に照らし出す朝の光に耐えうるのであれば、その人はそれだけ、他人の意見や社会の尺度に合わせることではなく、紛れもなく自分自身の意思で考え、生きることを実現している稀有な存在であるといえる。多くの人間は、数ヶ月前どころか、昨晩持っていた自分の意見ですら、まともに直視できないのだから。





raymond_radiguet at 22:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!思索 

刑務所のなかで

私は「ショーシャンクの空に」や「モンテクリスト伯」が好きである。好きというよりも、心地好いといったほうが適当かもしれない。

この2つの作品に共通するのは、刑務所という空間が、物語を構成する上で重要なモチーフになっている所である。刑務所というのは、自由が極度に制限される空間であり、かつ閉鎖的な空間であることは言うまでもない。

刑務所では、全てのものが奪われる。与えられるものは、定期的な食料と、水と、最低限の居住空間と、侮蔑的な扱いだけである。

しかし、身の回りのもの全てを奪われてしまったら、人はどうなるのか。こういう想定は、日常生活において、なかなか意識に現れてこない問題である。

刑務所の内部では、あらゆるもの。例えば、1本の煙草。1冊の聖書。1輪の花。そういった、取るに足らないと思われるものが、とても大きな意味を持ってくる。なぜなら、刑務所においては、それが世界の全てだからだ。その時点において、世界は主観的意思の鏡象であることが徐々に意識されるようになる。喜びや悲しみは、すべて外からやってくるものではなく、内からやってくるものであるということに。

そして、長い内省と考察を繰り返していくうちに、あらゆるものを奪われてしまっても、人間にはどうしても奪うことができない何ものかがあることに気付くようになる。実際、人間には、それほど物質的な所有など必要なかったのかもしれないということに。そして、より本質的で、根源的なものが強く意識されるようになる。それこそが、実は人間にとって最も重要なものであるはずなのだが、およそ社会のなかで最も不名誉な場所において、純粋無垢な思想の萌芽が芽生えるという、その構図になんともいえない不条理と美しさが見出される。



raymond_radiguet at 21:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!評論 

富と名声

今や死刑制度を維持している国は、日本やアメリカの諸州、中国といった一部の国に限られているが、承知のとおり、昔はヨーロッパの国々でも、死刑は当然のように行われていた。

私は、かつてフランスにおいて執行された死刑の内、おもしろい例をいくつか知っているが、その中の一つを紹介しよう。

中世フランスの死刑というのは、いわゆる絞首台の上で、多くの観客の面前で執行された。したがって、死刑囚は多くの観客の好奇の視線や、罵倒にさらされるわけである。

しかし、当時は、死ぬ前に演説をぶったり、観客の興味をひくようなことをして、いかに華々しく、死すら本質的な問題ではないということを誇示することに、文字通り、命を賭ける死刑囚が少なからず存在したようである。

中には、死刑執行前に髭を剃らせてくれなかったと、そのことばかりにこだわって死んでいった者もいるそうだ。このことからわかるのは、次のような教訓である。

人の幸福にとって関係の深いものを列挙してゆくと、第一に、その人自身が備える「個性」と総称される全人格そのもの、第二に、財産などの物質的な所有物、そして第三に、世間で「評判」と呼称されるところの、他人の中に占める「自分に関する意見」の3つに大別される。

そのなかで、人はいかに、第三の分類に属する「他人の意見」に左右されるかということだ。死を目前に控えた人間においてさえ、おそるべきことに、虚栄心はその衰えるところを知らない。

ところで、人が完全に把握することができるのは、自分自身だけである。それに対して、家や金などの財産を始めとした所有物は、文字通り所有することはできても、風が吹けば飛ぶし、人に奪われてしまうような、本質的には人に付帯しえない存在である。

そして、名声や評判といった「他人の意識の内部に生起する自分」を前にするに至っては、もはや言うまでもなく、我々は、手のつけられない自然の風雨に翻弄される木々のように、極めて不安定な立場を強いられている。困ったことに、これを満たす欲求は、自己の範囲を逸脱しているがゆえに際限がなく、あたかも渇きに苦しむ漂流者が、海水を飲んだがゆえに、さらに苦しむのと同じように、終わりがないのである。

したがって、ヨーロッパの古い諺に「名声は賢者が捨てるべき最後のものである」という教訓が銘記されているのは、以上のような理由によることが理解される。




raymond_radiguet at 00:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!思索 

2011年12月16日

憎悪の応酬

他人の一言に、カーッとくることがある。幾つになっても、こればかりはどうしようもない。だけど、それをグッと堪えて、何か不穏なことを口走ってしまわないように注意してみる。すると、大抵の場合、一時間後。酷い場合でも、一晩寝たら翌朝には、昨日のことなど、どうでもよくなっている。無用の争いを忍耐強く避けた自分の判断に、何とも清々しさすら感じる。

しかし、他人になにかおぞましいこと。罵詈雑言を吐いたのが自分だったらどうだろう。その言葉が相手に与えたであろう効果がどのようであったか気になり、他の事柄への集中が著しく阻害されることがままある。恥辱や不名誉から逃れるために放った一言により、憎悪の応酬という底なし沼に陥ってしまう。

これは恐らく、次のような事情に基づく。人に何か酷いことを言われても、それはあくまで他人の意見にすぎない。強靭な意思と確信があれば、他人の中にある自分と、自分の中にある自分が違ったところで、それは人間だらけの世の中で生きる宿命のようなものであることからして、半ば必然の領域に属することが容易に理解される。

しかし、自分の口から発せられた言葉は、まぎれもなく私の意思を媒介したものである。この場合、相手が自分のことをどう思うかについて、私にも責任が生じる。正確に言えば、責任感が生じる。人は、責任よりも責任感に弱い。義務よりも義務感に弱い。要するに、自分で納得してしまった内発的な感情に、極めて脆いように人の心はできている。

以上のことから、次の教訓が導かれる。取るに足らない人間に対して、自分の本心を打ち明けることで、あれこれと悩むのは愚かなことである。そうした人間との間に必要なのはただ一つ、距離である。正確には、距離感である。自分の本心は、自分の認める大切な人にだけ打ち明ければ、それで結構である。

raymond_radiguet at 22:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!思索 

2011年12月15日

夜の過ごし方

最近は毎日のように水泳をしている。小一時間泳ぎ終えたら、サウナに入って汗を流す。運動によって身体の芯にわだかまっていた疲労が、四肢を伝って玉と落ちる。フラフラになったら、冷水を肩まで浸かる。茹でたうどんを氷水で揉み洗いしたように、身体がキュウッと引き締まる感覚を愉しむ。

部屋に戻ったら、フランスベッドの上に横たわる。アイポッドのイヤホンを耳にねじ込み、音楽を聴く。そして、ショーペンハウエルの本を枕の上に開き、うつ伏せになる。何時の間にか、眠りに落ち、私は毎日、夢をみる。何の夢かは、覚えていない。それでも毎朝、夢を見た感覚だけが、遥かな印象として残っている。

raymond_radiguet at 22:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!すんかん