電車の中で「進撃の巨人」をまとめて視聴しました。この作品、単行本の国内発行部数が2300万部を超えてるらしいです。国内発行部数で比較すると、ドラゴンボールが1億5000万部で、ワンピースが2億9000万部ですが、おもしろかったので今後も伸びると思います。
ヒットするアニメーションは、その時代の人たちの深層心理を色濃く反映しているように思います。例えば、ジブリ映画のキャッチコピーは、何週間もかけて練られることで知られていますが、特に「もののけ姫」は印象的でした。そこで当時、糸井重里さんが紡ぎだした「生きろ。」というキャッチコピーは、失われた10年の真っ只中、なんとなく閉塞感の漂っていた世相において、ズシンと胸に響いたように記憶しています。同時に上映されたエヴァンゲリオンのキャッチコピーが、「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」だったのも、なかなか味わい深いものがありました。あの頃まだ、小学4年生だったのですね。
「進撃の巨人」についても、「勝てなければ死ぬ、勝てば生きる、戦わなければ勝てない」という台詞が印象的でした。これは家に押し入ってきた人攫いにいきなり両親を殺害されるという、かなり絶望的な状況下において、子供達が果敢に立ち向かう場面で出てくる言葉であり、以後何度も繰り返されるテーマです。また、「100年間壁が壊されなかったからといって、今日壊されない保証なんかどこにもないのに…」と、漠然とした不安を口にした直後に、突如出現した50メートル級の巨人によって、人類を守る壁が破壊される場面などもあり、それって今の世の中と少し重なってるっていうか、ちょっと考えさせるような、言わば時代的にキャッチーな要素を多く含んでいたように思います。
その文脈から言えば、先月観に行った「風立ちぬ」のキャッチコピーである「生きねば。」は、正直に言って少し貧弱だったように思います。これが震災を意識したものであることは、冒頭の演出が示すとおり分かりやすいほど伝わってくるのですが、宮崎監督の政治的信念の影響もあってか、戦争描写をできる限り隠したままに完結させようという方法論的意識が先行しすぎて、メッセージ性が希薄なものになってしまったように感じました。一緒に観に行った人も、あっ、これで終わり?みたいな感じで、エンドロールの時に、腑に落ちないような表情をしていたのを覚えています。堀越二郎にとって、結局ゼロ戦って何だったんですかね?
人々の思想や、その土台となる価値観なんてものは、時代によって変わるものです。現代の尺度で、当時のことを語るのは自由だと思いますが、当時の人々の心象を、社会的状況や歴史的経緯を捨象して、あたかも本人がそう思っていたかのように代弁してしまうのは少し僭越なように思えます。そういった部分は、余白を作っておいてお客さんにまかせておけばよかったところを、今回かなり宮崎監督がスケベ心を出し過ぎてしまったために、おそらく私のように、いまいち共感できない層が生まれたのかなという気がします。
個人的には、どんな時代の人であっても、その時代に生きている人は存外、その枠の中で一生懸命、たくましく生きているものだと思っています。例えば、今から遥か昔の紀元前、現在のバルカン半島の位置する場所に、ラケダイモンという都市国家がありました。その国では、親は子供を育てる権利をもっておらず、子供は国家の宝であるとして、7歳になると家庭を離れ、軍隊の中で厳しい共同生活をするようになりますが、生まれつき虚弱であると長老に判断された者は、容赦なく山の洞穴に棄てられました。彼らは12歳になると本格的な軍事教練と素養教育を受け、「命令への絶対服従」と、「戦ったら絶対に勝つこと」を叩きこまれました。
その中でもとりわけおもしろいのが、子供たちは意図的に食事を十分に与えられず、大人の食事や畑の食物を盗ませるように教育していたという独特の制度です。これは判断力、狡猾さを身につけさせるための軍事教育だったとされていますが、もちろん盗みが見つかると全裸で鞭打ちにされました。このような修羅の国ですから、当然のように女性も強い子供が産めるような強靭な母体を育成するために、幼少期から体育の訓練を受けます。その教育の結果として、男性にとっては強い子供を埋めそうな女性が、女性にとっては、戦争に行っても無事に生還しそうな男性が魅力的と見做される傾向が強かったそうですが、教育の一環として国家によって盗みが許容されていたという事実一つをとっても、現代の尺度では到底推し量ることはできませんし、それについていちいち非難することに何の意味もないことは明白です。
ちなみに、 ラケダイモンは後にスパルタと呼ばれたことからも分かるように、スパルタ教育の語源にもなっています。実際のスパルタ教育が、これほど凄絶なものであることは、意外と知られていないようです。
ヒットするアニメーションは、その時代の人たちの深層心理を色濃く反映しているように思います。例えば、ジブリ映画のキャッチコピーは、何週間もかけて練られることで知られていますが、特に「もののけ姫」は印象的でした。そこで当時、糸井重里さんが紡ぎだした「生きろ。」というキャッチコピーは、失われた10年の真っ只中、なんとなく閉塞感の漂っていた世相において、ズシンと胸に響いたように記憶しています。同時に上映されたエヴァンゲリオンのキャッチコピーが、「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」だったのも、なかなか味わい深いものがありました。あの頃まだ、小学4年生だったのですね。
「進撃の巨人」についても、「勝てなければ死ぬ、勝てば生きる、戦わなければ勝てない」という台詞が印象的でした。これは家に押し入ってきた人攫いにいきなり両親を殺害されるという、かなり絶望的な状況下において、子供達が果敢に立ち向かう場面で出てくる言葉であり、以後何度も繰り返されるテーマです。また、「100年間壁が壊されなかったからといって、今日壊されない保証なんかどこにもないのに…」と、漠然とした不安を口にした直後に、突如出現した50メートル級の巨人によって、人類を守る壁が破壊される場面などもあり、それって今の世の中と少し重なってるっていうか、ちょっと考えさせるような、言わば時代的にキャッチーな要素を多く含んでいたように思います。
その文脈から言えば、先月観に行った「風立ちぬ」のキャッチコピーである「生きねば。」は、正直に言って少し貧弱だったように思います。これが震災を意識したものであることは、冒頭の演出が示すとおり分かりやすいほど伝わってくるのですが、宮崎監督の政治的信念の影響もあってか、戦争描写をできる限り隠したままに完結させようという方法論的意識が先行しすぎて、メッセージ性が希薄なものになってしまったように感じました。一緒に観に行った人も、あっ、これで終わり?みたいな感じで、エンドロールの時に、腑に落ちないような表情をしていたのを覚えています。堀越二郎にとって、結局ゼロ戦って何だったんですかね?
人々の思想や、その土台となる価値観なんてものは、時代によって変わるものです。現代の尺度で、当時のことを語るのは自由だと思いますが、当時の人々の心象を、社会的状況や歴史的経緯を捨象して、あたかも本人がそう思っていたかのように代弁してしまうのは少し僭越なように思えます。そういった部分は、余白を作っておいてお客さんにまかせておけばよかったところを、今回かなり宮崎監督がスケベ心を出し過ぎてしまったために、おそらく私のように、いまいち共感できない層が生まれたのかなという気がします。
個人的には、どんな時代の人であっても、その時代に生きている人は存外、その枠の中で一生懸命、たくましく生きているものだと思っています。例えば、今から遥か昔の紀元前、現在のバルカン半島の位置する場所に、ラケダイモンという都市国家がありました。その国では、親は子供を育てる権利をもっておらず、子供は国家の宝であるとして、7歳になると家庭を離れ、軍隊の中で厳しい共同生活をするようになりますが、生まれつき虚弱であると長老に判断された者は、容赦なく山の洞穴に棄てられました。彼らは12歳になると本格的な軍事教練と素養教育を受け、「命令への絶対服従」と、「戦ったら絶対に勝つこと」を叩きこまれました。
その中でもとりわけおもしろいのが、子供たちは意図的に食事を十分に与えられず、大人の食事や畑の食物を盗ませるように教育していたという独特の制度です。これは判断力、狡猾さを身につけさせるための軍事教育だったとされていますが、もちろん盗みが見つかると全裸で鞭打ちにされました。このような修羅の国ですから、当然のように女性も強い子供が産めるような強靭な母体を育成するために、幼少期から体育の訓練を受けます。その教育の結果として、男性にとっては強い子供を埋めそうな女性が、女性にとっては、戦争に行っても無事に生還しそうな男性が魅力的と見做される傾向が強かったそうですが、教育の一環として国家によって盗みが許容されていたという事実一つをとっても、現代の尺度では到底推し量ることはできませんし、それについていちいち非難することに何の意味もないことは明白です。
ちなみに、 ラケダイモンは後にスパルタと呼ばれたことからも分かるように、スパルタ教育の語源にもなっています。実際のスパルタ教育が、これほど凄絶なものであることは、意外と知られていないようです。