2010年07月16日

文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』をよんで

14歳から17歳、わたしはなにを考え、感じていたっけ。
友達と話すのがほんとに楽しくて、 一日がおわると、次の日学校にゆくのが待てないくらい、話したいことがたくさんあった。
本をたくさんよんだ。

高校のときは陸上部で400Mをやった。
中学三年、ささいな理由で、女友達にいっとき仲間はずれにされた。
高校の文化祭で、お化け屋敷ならぬ、妖怪屋敷の総指揮をやった。
選択国語(生徒の悪口しかいわない先生だった)の授業のテスト用紙に、
"あなたに習いたいことはなにもない。何故なら..."
といった内容をかき、黙殺された。

高二のとき、龍か春樹で激論した(わたしは龍派)。
中三のとき、はじめて、恋人らしきものができて、なぜだか、手もつながずにおわった。
おたがいに、レンアイのなんたるかを、しらなかった。

泣いた、笑った、怒った、やりすごした。
沈黙した。
前後左右、なんの脈絡もなく、いま
ばらんばらんな記憶が、いっせいに、よみがえる。

いま、おもう。
あれは、ほんとう に "わたし" だったんだろうか。
あの日のあのときの感情は、いまはもう、どこかへいってしまった。
もう、取りかえしようもないくらい、とおくへ。

文月悠光さんの『適切な世界の適切ならざる私』をよんだ。
これは、彼女の14歳から17歳にかけてかかれた詩、24篇がおさめられている。
その、いっときいっときの、彼女の精神の位相が、正確(といっていいのかわからないが、その意思を感じた)で、美しい言葉でつづられていた。
痛々しくも、きらきらしてた。
生きるたび、ぶつかる 小さな疑問、不条理、またひるみそうな自分自身を、なぎたおしていく気迫がかんじられた。

倒す、なんによって?
詩で。
起き上がる、なんによって?
詩で。

そして、わたしの失われた "そのとき" が、ここにはっきりと生きていることを感じた。
詩人は、ことばでときを刻むことができる。
そして、それらは、特別な通路を使い、こちらのちぎれた回線とつながる。

わたしは、いまこれをよめて、とてもしあわせだ。
失われた、と思っていたものが、わたしの中に、生きているということを しれたのだから。

ありがとう、とは、いわない。
ただ、出会えて、とても しあわせに、おもいます。


P


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2009年04月07日

リルケ『ポルトガル文』

古本屋の帰りの電車で。
リルケ「ポルトガル文」を読んだ。

これは、ポルトガルの尼僧が、一度は愛し合ったのに、何もいわずに去っていったフランス人士官にあてて。
そのほとばしる恋情、愛されない悲痛を、連綿と書き綴った書簡五通からなる作品。

ああ、痛い…。しかし…。これは本当にリルケかな?
リルケが、こんなふうに書くかなぁ(もっとよい書き方をするんじゃなかろうか…)と、少し違和感を持ちながら読みすすめたのだが。

解説をみたら。
これは実際に書かれた書簡を、リルケが訳したものであった。
(とても有名な作品らしく、不勉強、恥ずかしい)

この、もう二度と還らない愛を欲して、書かれた手紙たち。
「なぜ、こんなふうに捨ててしまうのなら、わたしをとりこにしたのですか…あんまりな仕打ちです」

読みながら。愛されない、いや、愛されなくなった人間の痛み、苦しみをひしひし…

おもう。

誰かに愛されること、また、自分の愛する人に愛されるということは、どれだけ人に力をもたらすだろう。

ならば、逆は?

愛されないこと、自分の愛する人に愛されないことは、どれだけ人から力を奪うのだろう。

悲しい記憶が蘇る。

わたしにも、かつて。そんな経験があった。

大好きな人がいた。本当にまるごと好きだった。
思いは告げた。
でも、結果からいうと「愛されなかった」。

詳細は省くが、その時期。

愛されない自分には、なんの魅力もないんだし、生きてる価値もないんじゃないかと思えた。

明日の朝、起きる意味がわからなかった。

活力ゼロ。生命力ゼロ。希望ゼロ。
おまけになぜかおばさんパーマをかけてたことも、どうでもよくて、それも放置。

そんなやつはますます、好かれないに決まってるんだけど、おのれへの客観視もゼロだったので、気付かない。の負のスパイラルへ突入。

そんな日々が一年半位。
わたしの暗黒時代だ。

そのときの自分の写真を見ると、本当にぶすで、自信なさげで、可哀相だ。
(はたから見てもかなしい感じの人だったと思う)
ぶすだし、つまらないので。好きな本や詩ばかり読んで、その世界に耽溺し、内にこもる。
そのときだけ楽しい。

そんなある日、ある詩のことばを読んで、ひらめいた。

愛されないことが、なんぼのもんじゃい、と。

「わたしの魅力をわからないなんて、かわいそうな人だわ」
と、思えばよいと。

たとえ誰にも愛されなくとも、自分だけは、この先、自分を好きでいよう、とかんがえた。

自分が好きでいられるような自分を創ること。

愛されることよりも。
自分や人を愛することのほうをだいじにしようと決めた。

ワープ。

そして、いま。

あのときの。
愛されなかったこと、はよかった。
愛されなかったことは、かなしかったけど、よかった。

なにかを愛することはとても幸せで。
だいじなことだと、わたしは知れた。


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2009年02月15日

梅崎春生のカロ(猫)

続続、バレンタイン。

あぁ〜…16のライブであたまがいっぱい…

あまりしられていないジジツですが。
亜細亜随一の気弱で臆病もの、心配性なわたしです。
どうか、よかったらおうえんしに来てください〜!

歌、詩朗読、楽しい小話、ウサリンコーナーほか、流れを一分単位で偏執狂的にシュミレーション…
(イメージトレーニング)



せんじつ、読んだ「作家の猫」(平凡社・コロナブックス)というムック本の中で面白いエピソードがひとつ。



梅崎春生の猫、カロ(梅崎はカロという名前を気に入り、代々、飼った猫三匹にその名をつけた)にまつわる話。

昭和27年、梅崎37歳のときに書いた梅崎家猫史『カロ三代』が、発表したとたん、世の愛猫家たちから大不興をかったという。

主人公の「私」は、代議士のように、でっぷりと太った三代目猫・カロを竹製の蝿叩き(「カロ叩き」と命名されていた)で理由もなく叩くのが楽しみ。
知人が家を訪れ、山のような鰹節をカロにやってるのをみれば、「猫の癖に不当な贅をつくしてる」と折檻したり。
こうして台所のスズキを盗んだある日、カロはとうとう死んでしまう。

これをよんだ、愛猫家の読者たちから、梅崎批判の手紙がこれでもかと殺到。
「お前の作品はもう二度と読まない」
「猫を虐待するのを黙認する家人も同罪」
などと書かれ、紙がもったいないと、ちり紙に書いた手紙もあったそうな。
恵津夫人によると、この非難の手紙の束を見せても、梅崎はどこ吹く風といった調子で。
「小説の中で人を殺しても何もないのに、猫を殺すとこれだけの反響があるというのはおかしな話だね。これで僕がいかにうまい小説を書いたか、分かったろう」と笑っていたそうだ。



でも、じっさいのところ、梅崎は猫たちをとても可愛がっていたそうで、その「カロ叩き」も、ホントは藁製で出来たふさふさ柔らかいものだったようです。
このエピソードを読んで、愛猫家たちの怒りもわかるがなんだか、梅崎らしいなぁ…とおかしくなってしまった。笑

たしかに、作品の中で人が殺されてもこれほどまでに過敏に反応を示すひとはいないだろうなぁ、と思った。
これってなぜなんだろうね?

かなり大昔。
男女の痴情モノのドキュメンタリー作品の中で猫の虐待シーンをみたことがあった(猫場面は確かに見ていて気持ちいいものではなかった)が。
それの感想の中にも、猫いじめを激しく批判したものが多かったように記憶している。
「死ね!お前の作品など二度と観ない!」とかもあった。


そこまで人を魅了して、感情移入させてしまう、

ねこ。

という存在は、いったい
なんなのだろう。

ねこは、言葉をしゃべらない。
しゃべらないのに、感情ゆたかにふるまい、生きる。

そこが人とちがう。

まだ、あたしにはそこまでしかわからない。

ねこ。
ふしぎなかわいい存在。



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2009年01月19日

それが一篇の詩を生むのなら

いま、二月のライブに向け、あらたに朗読する詩を、えらんでいるところ。
ピッポのライブ中に、リーディングコーナーがあり、一曲分くらいの時間で詩人紹介と詩の朗読をやっていて。

こないだの市で、よい詩集をたくさん手にいれたので、みなに紹介したい(ライブで朗読したい)詩が、新たにほんとにたくさん出てきてしまい。
うーん!!なやみます……

音楽担当のカヒロックが、その詩にあった音楽やSEを詩ごとに作成してるため、いつも、はやめにカヒロックに詩を提出してて。

じつは、もうリミットがきてるんですが…笑


ちょっと、恋の詩のおはなしを。

Lady…にも先日のせましたが。
藤村の「初恋」。




初恋      島崎 藤村

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかずき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畠(りんごばたけ)の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)がふみそめしかたみぞと




なんて、うつくしい世界なんだろか。

これを、音読してると。本当に情景がうかんできて。

いつしか、恋をしたときのキュンとくる気持ちとか、相手のまなざし、髪型、言動にいちいちときめいていた自分をまで想いだしてきて…
はずかしいような、胸がちくっと痛むような、でも、だいじにしてやりたいような…気持ちになっちゃうよね?(ならないか。笑)



あたしは思った。

想いを伝えずに相手を想うこと、
つまり。
片思い、の素晴らしさを。

片思い、の状態だからこそ。
この美しい一篇の詩は生まれた。

彼女を想う。
そっと相手をみやる。

(いとおしい)
(好きだ)
(いやいや、大好きだ)
(……ああ!!)




想う相手に
思いのままに好きだと伝え
断られるか
すぐにちぎりをかわすか

それはわからないけど。

すぐに伝えてしまったら、生まれてこないものがあるとしたら。

片思いって。

人間がすごす、時間のなかで
もっとも、やさしく、美しい、瞬間なんじゃないだろうか。

つらくとも。
叶わぬ恋でもいいかもしれない。


こんなにも
美しい感情を
ひとのこころにやどすのならば。





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2009年01月18日

宇野千代という生き方

2009年、初の思索劇場です!!
こんばんは!
ん〜。ほんとうにひさしぶりですね〜…

しかも、前回の更新分、を見てみると、友人と喧嘩した後悔のごちゃごちゃを詩みたいなもので、かいてて。もはや、読書録でもなんでもなくなっていたことに気づき、はっ、としました。

ことしは、波風立てぬ平穏な日々をおくるようにこころがけ。
グッときた本を、またいろいろと、かいてゆければと思っています。
どうぞ、気長におつきあいくださいね☆



◆宇野千代『私の文学的回想記』

先日、高円寺のコクテイルで百均の棚から購入した本。
わたしは、宇野千代については、その著作を読んだこともなく。

彼女について書かれた、もののかけらと伝聞をつないで
「奔放な恋愛遍歴を持つ‘スタイル’という雑誌を発行したトんでる女流作家」
という印象を抱いていた程度で。

帰宅後、なんとはなしにパラパラ読んでいたら、

尾崎士郎と出逢い、ひとめで恋におちたときの心情やその暮らし(尾崎士郎の描写がたまらなくよいです)、梶井基次郎とのおたがいへの淡い恋心。士郎と別れてなかば自棄になる日々。ある酒場で、東郷青児と出逢った晩に愛し合い、そのままともに暮らしはじめたり。東郷に愛人が出来、別れ。「スタイル」というお洒落雑誌の発行を企画(集ったのは、そうそうたるメンバー!)。10も年下の新聞記者(のちに作家となる)・北原武夫に見初められ、急速に親密になる。戦争をへて。夫婦で、ともに仕事に精を出す日々。北原に女が出来、また別れて…。

その、50年にわたる「文学的(恋愛)回想記」!!
そして、その生き様のなかで、宇野千代の作品が生まれてゆくさま。
高名な作家や画家たちとの、ある種どろどろとした恋愛遍歴をつづっているにもかかわらず。
宇野千代のまっすぐで、淡々とした陽気な語り口にいつしかひきこまれて。
あっというまに、読み終えてしまいました。
そして、この清涼感たら、どうだろう??

だって、その恋のひとつひとついつだって。電撃的で、うきうきと、楽しそうなさまったらないのです。
どの恋に対しても、彼女は真剣で捨て身で、一生懸命に愛のほのおを燃やしてて。

だけど、たとえ、相手の男性に捨てられても、ひとことの恨みも、呪詛のことばもない。
そして、身に起こるトラブル。不運の出来事。
自分の身の上におこったすべてのことを、誰のせいにもしなかった。

その潔さ、寄って立つ瀬のなさに。
わたしは、まったく打たれていた。

どの恋も、どんな暮らしぶりも、ほんとに心の底から楽しみ。
彼女は、過ぎし日をふりかえり、撫でるように、いとおしそうに語るのです。



真杉静枝、に、通じてるとこが少しあるかなぁ…など思っていたら。
(「真杉静枝」については、菊池寛関連で、以前すこし興味を持ってしらべた時期があり。林真理子の‘真杉静枝の自伝的小説’も読んだりした)。

真杉について少しかかれた章があって。
彼女と自分は似ているところがあった、と。

やはり、どうしようもなく「女」であった、というところなのかな、と思った。

そう。あと、室生犀星が、最愛の親友‘萩原朔太郎’の妻に、宇野千代が「奔放で先進的な女性であれ」と啓蒙した、と思い込み、宇野千代に激しい怒りを隠さない(しかも何十年も)場面があって。(実際、朔太郎の妻は男を作り、朔太郎を捨てたのであるが…)
犀星の、朔太郎への強い愛情を思い、せつないような、暖かいような気持ちになったりもした。



宇野千代に愛された、男達は大変だったろうと思うけど。
そして、宇野千代も自分のほとばしる激情や情熱にたいへんだったろうと思うけど。

彼女の周囲にいたひとたちは、彼女の。
底ぬけのようなまっすぐさや、なにかすごい魅力にきっとひきつけられていたのかなぁ、と思う。

この一冊を読んだだけですが。
「宇野千代」のことが、とても好きになりました。



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2008年12月21日

ことばのない世界に わたしたちはいつかたどりつけるのだろうか

あるひとに傷つけられたので
おもわず傷つけかえしてしまった

ほんとうはそんなこと
たいしたことじゃないって
ゆるせばいいのに
それができない

ことばは人を傷つけるためにあるのかな
ナイフのように人の心を切りさくためにあるなんて
おもってないよ


ことばが泣いている

切りつけてしまった自分自身のいたみに泣いている


ことばを泣かせた
わたしだって
らんぼうもの

傍若無人な
らんぼうもの



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2008年12月13日

『ボン書店の幻』を読んだ、極私的な感想。

久しぶりの休日。

今日ばかりは、すっかりオフにして。
手元にある本をじっくり読もうという日。

『借家と古本』荻原魚雷(Sumus文庫)
『ボン書店の幻』内堀弘(ちくま文庫)
『菊池寛』解説:井上ひさし(ちくま文庫の新刊)(「屋上の狂人」を久しぶりに読み、またぽろぽろ泣いてしまった)
『モダニズム詩集機戞併彡社):大好きな本で何度も読んでいます。


4冊読み、どれもが素敵な本だった。
今日は、その中から、一冊を紹介。



内堀弘さんの書かれた『ボン書店の幻〜モダニズム出版社の光と影』(ちくま文庫)をようやく読んだ。

『ボン書店』発行者・鳥羽茂。
戦前に、こんな人が、たしかに生き、心血を注いで「出さねばならぬ」と思った詩集を造ったということ。
それは、とても美しく、せつなく、かけがえのない「思い」であり。
読みながら、鳥羽茂氏の思いや生きかたに、胸を打たれっぱなしだった。

まず、そんな人がいたということを、わたしに教えてくれた。U君。そして。
内堀弘さんに心より、感謝と親愛の情を。



よみはじめて。
春山行夫、山中散生、尾形亀之助、北園克衛、瀧口修造、近藤東、吉田一穂、竹中郁、岩本修蔵…ほか。わたしがかつて、新鮮な驚きを抱きながらふれ、憧憬をもって愛読したモダニズムの詩作品、詩人たちの名前が次々に出てきて。
内堀さんの情熱によって、彼らがまた、生き生きと動き、語り始めたことに。
驚きと同時に、胸がとてもあつくなった。
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2008年12月08日

君、集合体

読書録ではないけど。つれづれに。

ことばってさ、なんだろう?

たとえば、わたしもよく使うことば。
嬉しい、楽しい、面白い、笑える、幸せ…
これって厳密に、こまかくわけられる言葉なのかな?

「嬉しい」を構成する気持ち物質を分析すると、中に「楽しさ」6割、「驚き」2割、「幸せ」2割。
で、ほら、もう「嬉しい」の感情10割は埋まってしまったよ?
さらにまた「楽しい」を分析すれば、「悲しい」とか「不安」「さびしい」みたいな物質も入って来て。なにがなんだかわからない。

それは。
嬉しかったのか、
楽しかったのか、
ホントは悲しかったのか、
曖昧。

ほんとはさ、嬉しかったら、わーっ!と抱きしめたりとか、悲しかったら黙って泣く、とか、怒ったら、突き飛ばす…

行動で気持ちは表せる。でも、それが出来ないから。
悲しい、とか、嬉しい、とか、楽しい、とか言ってみせて。
こころと行為のあいだの距離を埋めているのかな。

こないだの外市で、図書館で働いてるゆうちゃんが、土砂や新聞紙で作ったオリジナル文芸雑貨「エコ猫ブックエンド」をしげしげと見て、「ピッポさんの頭ん中どーなってんの?パカって割って見てみたい〜笑」と言ってきたから。
「奥の方はドイツ文学だよ」といって、ゲーテやヘルマン・ヘッセやニーチェの話とかもしたんだけど。
また、ゆうちゃんもゆうちゃんで「ドイツかぁ〜わぁーピッポさんの感じと、ふっと繋がった!!」って。

え〜!笑

ヘッセの小説で好きなとこは内的葛藤(内省)と衝動と欲望への疾走(実行)。
おそらく、ヘッセ『知と愛』の中で、ゴルトムントがしてズタボロになってしまう旅のような。

なにかをつかみたい。



言葉、文章を気がつくと、書きまくり、いつのまにやら、空白を文字や写真が覆い尽くしていて。

それは、あたしから離れて、ひとつの意思をもった集合体となって。

宙空をさまよい。
それが自分の、場所を青白いひかりでぼんやりと照らす。

ことば、なんて、
あたしから、いつだって
とおいとおいとこにあるのに

それを、いつもいつも
求めてしまう。



ポエトリーレディオ、
もう少しで読みたいもの決められそう
すいません、
ちょっとお待ちください。

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2008年12月04日

古井由吉『夜明けの家』

古井由吉の連作短編集『夜明けの家』(講談社文芸文庫)
今朝、半分くらいまで読んだ。



これを読んでふっと思ったのだけど、
あたしはいつも亡くなった人を、慕い、愛して想ってばかりだ。

父親もそうだ。
ゆうやけをみるたんびに。
こんな綺麗なゆうやけを父さんに見せてあげたい、
と、つい思ってしまう。

最愛の詩人・萩原朔太郎も、
朔太郎を支え、励ましていた年少の友人で詩人の、高橋元吉も。
山村暮鳥、ヘルマン・ヘッセ、あたしの倫理をつかさどっている、ゲーテ。
横光利一も。遠藤周作も。

大好きな詩人・作家は
みんなみんな死んじゃってて。

でも、わたしの中では、彼らは、そして彼らの作品は、
生き生きと、生きていて。
なおも、わたしのこころを動かしているのです。

こないだ前橋文学館へいったとき、本当に嬉しかったことがあって。

前橋文学館は、萩原朔太郎を中心に郷土の詩人達との交流や、文学史がこまかく展示されている文学館なのだけど。

あたしには、彼が亡くなっている今でも、心配で、たまらなくて。
かれはまったく孤独過ぎた!!
誰にも理解されない、ふるさとにも都会にもホントの自分の居場所はない…
生きているあいだじゅう、孤独な想いを抱えて、そして亡くなっていったんだろうな、ってそのことがさ。
まぁ、勝手な思い込みであるかもしれないんだけど。

その、朔太郎が。年少の同郷の詩人・高橋元吉と深い交流をむすんでいたことをまざまざと知ったんだ。

自分の悩みや、文学上の葛藤、ドストエフスキーについての見解・理解の仕方を、
その、膨大な書簡の数々!やりとりの数々!

あたしは、それを見て、もう胸がいっぱいになってしまって。
朔太郎が頼り、助言をもとめた友人が、たしかにそこにいたということに。

こどくな朔太郎のたましいが、元吉によってすこしでも
慰められたかもしれない、というそのことに。

まるで、自分のことのように嬉しくなってしまったんだ。

朔太郎も、元吉も、もう亡くなってしまったひとたちなのに。
彼らのまったく私的な関係のことで、
こんなにも小躍りするくらい、幸せな気持ちになってしまう、

この「わたし」とは、いったい、なにものなんだろう?



話をもどす。

古井由吉は『雪の下の蟹・男たちの円居』(講談社文芸文庫・品切)、『木犀の日』(講談社文芸文庫)と、つづけて読んでいて、どちらもすごく好きだ。
あたしのある部分にすごくしっくりくる。



その古井の連作短編集『夜明けの家』
一篇目「祈りのように」から、死と生の境、ひとの強い思い、念、のようなものをまざまざと描写。

今回、読んだなかでは「不軽(ふきょう)」が、心にもっとも強い印象をのこした。

主人公である男の、6年前に亡くなった古い友人「芥見」についての思い、がそれは軸となっている。

渋谷の街で、通り行く人間たちに手を合わせ、拝む老人を見かけて。
拝まれた人々の徹底した無関心を見て。
それで、主人公は友人「芥見」が、40年前に人に殴られた事件を思い出す。
「芥見」がホームで人間違い、をされ、いきなり殴りかかられ、気づいたら相手に手を合わせ、拝んでいた、と。さらにめちゃくちゃに殴られる芥見。
そこで、芥見に対して、ふっと浮かぶ思念。
「人を憎んでいるのではないか?」

人を拝むのは、憎んでいるからか?というこの展開にあたしは、はっとした。

芥見は「人を殴りたくなったら、相手を仏様、菩薩様と思え」と葛飾の祖母によく言われていたと。「人はみな、内に仏の性を備えているのだから、どこに仏様が現れているのか知りやしない」と。

芥見は、その祖母の「ことば」を胸にずっと抱えて生きて、そして死んだ。
芥見の暮らした、部屋。そこにしみつく以前の住居者である独身の女性の匂い。
それを消し去ろうとしても、どうしても消えなかった。
いっそ、それにくるまれてしまっててもいいと、思う芥見のこころ。
諦め、葛藤。

人を拝むこと、人を憎むこと。
人を愛すること、憎むこと。

死者である、芥見の「思い」にいつしか、あたしのこころも重なっていった。

亡くなった人の思念は、ずっとずっと消えなくて。
それを受け取ったひとのこころに今もなお、生きつづけるんだね。



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2008年11月14日

おしゃべりの功罪

今日も仕事、創作、歌練でした!

今日、あいまにチョコチョコ読んでいた本は、先日コクテイルの横の古本屋で購入した『饒舌について 他五篇』プルタルコス/岩波文庫。

これが相当面白くてハマった。言い回しなんてユーモアのかたまり!!
これも哲学書?でも、かなり読みやすい。

哲学、といえば。
はなしさかのぼりますが。
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